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水郷
三島霜川

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)水の郷《さと》と

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(例)螢|來《こ》い

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(例)※[#感嘆符二つ、1-8-75]

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(例)のそり/\闇の中から
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 水の郷《さと》と謂《い》はれた位の土地であるから、實に川の多い村であツた。川と謂ツても、小川であツたが、自分の生れた村は、背戸《せど》と謂はず、横手と謂はず、縱《たて》に横に幾筋となく小川が流れてゐて、恰ど碁盤《ごばん》の目のやうになツてゐた。それに何《ど》の川の水も、奇麗に澄むでゐて、井戸の水のやうに冷《つめ》たかツた。川が多くツて、水が奇麗だ! それで、もう螢が多いといふ事が解る。螢は奇麗な水の精とも謂ツて可《よ》いのだから、自分の村には螢が澤山ゐた。何しろ六月から七月へかけて、螢の出る季節《とき》になると、自分の村は螢の光で明るい……だから、日が暮れて、新樹の木立《こだち》の上に、宵の明星が鮮《あざやか》な光で煌《きらめ》き出すのを合圖で、彼方《あつち》でも、此方《こつち》でも盛に、
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螢|來《こ》い山吹來い、
彼方《あつち》の水は苦《にが》いな、
此方《こつち》の水は甘《あま》いな、
[#ここで字下げ終わり]
といふ呼聲《よびごゑ》が闇の中から、賑《にぎやか》に、併し何となく物靜に聞《きこ》える。
 丁度自分が、お祖父樣《ぢいさま》や父樣《とうさま》や母樣《かあさま》や姉樣《ねえさま》と一所《いつしよ》に、夕餐《ゆうげ》の團欒《まどゐ》の最中《さなか》に、此の聲が起るのだから耐《たま》らない。自分は急いで夕餐《ゆうげ》を濟《す》まして、箸《はし》を投出すと直に、螢籠をぶらさげ[#「ぶらさげ」に傍点]て、ぷいと家《うち》を飛出すのであツた。空が瑠璃のやうに奇麗に晴渡《はれわた》ツて、星が降るやうに煌《きらめ》いている晩に、螢を追駈廻してゐるのは、何樣《どん》なに愉快な事であツたらう。一體螢といふ蟲は、露を吸《す》ツて生きて居るやうな蟲だから、性質が温順《すなほ》で捕《つかま》へ易い。のんき[#「のんき」に傍点]なもので、敵が直ぐ頭の上に窺ツてゐるとも知らないで、ぴかり、ぴかり、體《からだ》を光らしながら、草の葉裏《はうら》で一生懸命に露を吸《す》ツてゐる。其處《そこ》のところを密《そつ》と赤手《すで》で捕《つかま》へて呉れる…… 暖い手で、握《にぎ》ツて遣《や》ツても、濟《すま》アして掌《てのひら》を這《は》ツてゐる奴《やつ》を螢籠の中へ入れる…… 恰ど獄屋《ひとや》へ抛込《ほうりこ》まれたやうなものだが、些《ちつ》ともそれには頓着しない。相變らずぴかり、ぴかり體《からだ》を光らしてゐる。それからまたふうわ、ふうわ飛んで來るのを眞《ま》ツ暗《くら》な中に待伏《まちぶせ》してゐて笹の葉か何んかで叩き落す。不意打を喰はせて俘《とりこ》にするのだが、後《あと》[#「後」は底本では「彼」]の連中は先へ來てゐる自分の仲間が此樣な災難に逢ツてゐるとは知らない。で、後《あと》から後から飛んで來るのを、片《かた》ツ端《ぱし》から叩落して、螢籠の中へ入れる。此の面白味忘れられぬから、螢狩は自分に取ツて、最も興味ある遊びの一つであツた。
 興味があるから、つい家《うち》から遠く離れて、歸途《かへり》には往々《まゝ》とんだ[#「とんだ」に傍点]怖《おそ》ろしい思をする事もある。けれども螢に浮《うか》されて、半分は夢中になツてゐるのだから家の遠くなる事などは氣が付かう筈が無い。恰ど智慧《ちゑ》の足りない將軍が勝に乗じて敵を長追《ながおひ》するようなものでつい深入《ふかいり》する。そして思も掛けぬ酷目《みじめ》な目に逢はされる事もあツた。例《たと》へば夜|更《ふ》けてから澤山の獲物《えもの》を持ツて獨で闇《くら》い路を歸ツて來ると、不意に行方《ゆくて》から、人魂《ひとだま》が長く尾を曳いて飛出したり、または那《あ》のかはうそ[#「かはうそ」に傍点]といふ奴が突然《だしぬけ》恐ろしい水音をさせて川に飛込むだり、又或は何處《どこ》かの家《うち》で鷄《とり》の夜啼《よなき》をするのが淋しく聞えたり、それから又、何者だか解《わか》らないが、見上げるやうな大きな漢子《をとこ》が足音もさせないで、のそり/\闇の中から現《あら》はれて來てかき消すやうに物影に隱れて了ツたり、謂《い》ツて見れば單純な何んでも無いやうな事柄だけれども、子供心には非常に薄氣味《うすぎみ》の惡《わる》い、其の度に、胸がどきりツ[#「どきりツ」に傍点]とするやうな事が妄《むやみ》とあツた。また偶時《たま》には、うツかり[#「うツかり」に傍点]足を踏滑らして、川へ陥《はま》り田へ轉《ころ》げ、濡鼠《ぬれねずみ》のやうになツて歸ツた事もあツたが、中々其樣な事に懲《こり》はしない。自分は、螢の頃にさへなると、毎晩水の郷《さと》をうろつい[#「うろつい」に傍点]て夜《よ》を更《ふ》かしてゐた。
 そこで自分は、此の螢狩に就いて一つの談《はなし》を持ツてゐる。それは不思議な事柄として、永い間……大人《おとな》になツても尚《ま》だ譯の解《わか》らぬ疑となツてゐたので。前にも謂ツた通り、螢の出る季節《とき》にさへなると、自分は毎夜螢狩に出掛けて、必ず百匹位ゐ螢を捕《つかま》へて來た。ところが此の螢が一匹として、一晩と螢籠の中にゐて呉れなかツた。次の朝までには皆何處へか消えて了ツて、螢籠の中には草の葉だけが殘ツてゐて、其の骸《なきがら》さへ無かツた。
「何《ど》うも不思議だ」
 自分は、此樣な不思議な事は無いと思ツてゐた。
「何《ど》うなツて了《しま》うのだらう、豈夫《まさか》消えて了うのでも無からうけれども、何處《どこ》へ行くんだらう。逃《に》げるツたツて、逃口《にげぐち》が閉《ふさ》いであるのだから、其樣な事は無い筈《はず》だ。」
と思ツて種々《いろ/\》と考へて見たけれども、何《ど》うも解らなかツた。それで、
「螢といふ蟲は、籠の中へ入れて置くと、溶《と》けて了うのかしら?」
とも思ツてゐた。何しろ前の晩には一生懸命になツて捕《つかま》へて來たのだから、朝眼が覺《さ》めると直ちに螢籠の中を檢《しら》べて見たが、何時《いつ》の朝だツて一匹もゐた事が無い。で、隨分がツかり[#「がツかり」に傍点]もした。けれども捕《つかま》へる時の愉快な味が忘れられなかツたので、骨折損も充《つま》らないもあツたもので無い。自分は毎夜のやうに、螢征伐に出掛けた。
 或る晩の事、自分は相變らず、密《そつ》と家《うち》を脱出《ぬけだ》して、門の外まで出ると、
「おい、新一や、新一ぢゃないか。」
と呼止《よびと》める人がある。不意だツたから、自分はびツくり[#「びツくり」に傍点]して、
「だアれ……」と闇を透《すか》して見てゐると、
「私《わし》さ。」と確にお祖父樣《ぢいさま》の聲である。
「あツ……お祖父樣。」
「然《さ》うだ、お前、何處《どこ》へ行くんか。」
 豈夫《まさか》に螢狩とにも謂《い》へぬから、どぎまぎ[#「どぎまぎ」に傍点]してゐると、
「何か、また螢を捕《つかま》へに行くんぢゃな。」
 的中《てつきり》星を指《さ》されて、自分は忸怩《もじ/\》しながら、默ツて垂頭《うつむ》いてゐた。
 お祖父《ぢい》樣は被蔽《おつかぶ》せて、「それなら、もう止せ、止せ! 幾ら捕へて來たツて、螢といふ奴は、露を吸ツて生《い》きてゐる蟲だから、明《あす》の朝日が出ると、みんな消えて了《しま》うのだ。」
 此《か》うまで謂《い》はれては、自分は默ツてゐる譯《わけ》に行かない。で、
「いゝえ、お祖父樣《ぢいさん》、私は螢を捕《つかま》へに行くのでは無いのです。つい其處《そこ》まで…… あの、お隣家《となり》の太一さんの許《とこ》まで行くのです。」
「嘘《うそ》を吐《つ》け! ハ……。」とお祖父樣《ぢいさま》は、さも面白さうに、併し何か底に意味があるやうに笑ツて、
「其樣《そん》な嘘《うそ》を吐《つ》くもんぢやない。お祖樣《ぢいさん》は能く知ツてゐるぞ。其の螢籠は何《な》んだ、」失敗《しま》ツた! 自分は螢籠を片手にぶらさげ[#「ぶらさげ」に丸傍点]てゐた。此《か》うなツてはもう爲方《しかた》が無い。逃《に》げるより他《ほか》に術《て》が無いから、後《あと》の事なんか考へてゐる暇が無い。自分は些《ちつ》との隙《すき》を見て後《あと》をも見ずにすたこら[#「すたこら」に傍点]駈出した。
 大約《おほよそ》三四町も駈通して、もう大丈夫だらうと思ツて、自分は立停《たちどま》ツて吻《ほつ》と一息した。後《あと》を振向いて見ても誰も來る模樣が無い。そこで安心して、徐々《そろ/\》仕事の支度に取懸ると、其處《そこ》らには盛に螢を呼ぶ聲が聞える。其の聲を聞くと、急に氣が勇むで來て、愉快で耐《たま》らない。それに四方《あたり》の景色《けしき》も好《よ》かツた。五日ばかりの月も落ちて了ツて、四方《あたり》が急に眞《ま》ツ暗《くら》になると、いや螢の光ること飛んで來ること! 其の晩は取分け螢の出やうが多かツたやうに思はれた。蛙も、元氣能《よ》く聲を揃へて啼《な》いてゐる、面白いに取紛《とりまぎ》れて、自分は夢中で螢を追駈廻してゐた。
 自分は何《ど》の位其處らを駈《かけ》ずり廻ツたか、また何《ど》の道を何《ど》うして來たか知らぬが、兎に角もう螢籠《ほたるかご》には、螢が、恰《ちよう》ど寶玉のやうに鮮麗な光を放ツてゐる。體《からだ》も大分疲れて來たから、ふと氣が付《つ》いて其處《そこ》らを見廻すと、夜も大分|更《ふ》けてゐた。村の方を見ても、灯《ともし》の光も見えなければ、仲間の者が螢を呼ぶ聲も聞えない。自分は何時《いつ》か獨《ひとり》になツて了《しま》ツて闇の中に取殘されてゐたのであツた。
「おや、また深入して了ツた。」
と、はツ[#「はツ」に傍点]と思ツて驚いたツて始まらない。また淋しい思をして歸る事かと思ふと、意久地無く、たゞ心細くなツて來る。
「あゝ! 心細い。」
 何方《どつち》を向《む》いたツて、人の影が一つ見えるのではない。何處《どこ》までも眞《ま》ツ暗《くら》で、其の中に其處《そこ》らの流の音が、夜の秘事《ひめごと》を私語《ささや》いてゐるばかり。空は爽《さはやか》に晴渡《はれわた》ツて、星が、何かの眼のやうに、ちろり、ちろり瞬《またたき》をしてをる。もう村の若衆等《わかいしゆたち》が、夜遊《よあそび》の歸途《かへり》の放歌《うた》すら聞《きこ》えない。螢も急に少《すくな》くなツて、偶時《たま》に飛んで來る其《それ》も、何か光が薄《うす》くなツたやうに思はれる。
 此樣《こん》な時に、もし家《うち》から誰か迎《むかひ》に來て呉れたら、自分は何樣《どん》なに悦《うれ》しかツたか知れぬ。併し其樣《そん》な事を幾ら考へてゐたツて無駄だ。到底《とても》其の望は無いから、自分は淋しいやうな怖《こわ》いやうな妙な心地で、斷《た》えずびくつき[#「びくつき」に傍点]ながら、悄々《しほ/\》とお家《うち》の方へ足を向けた。心はもう臆病風に取ツかれてゐるので道端《みちばた》の草が、ザワザワと謂ツても自分はひやり[#「ひやり」に傍点]ツとして縮上る。然《さ》うするとまた、薄氣味《うすぎみ》の惡い事ばかりが、心に浮んでならない。落着いて歩いてゐられなくツて、とう/\すたこら[#「すたこら」に傍点]駈出して、一散に走ツて行くと、幾ら行《い》ツても村道へ出ない。此《か》うなると、狼狽《うろたへ》る、慌《あわ》てる、確《たしか》に半分は夢中になツて、躓《つまず》くやら轉《ころ》ぶやらといふ鹽梅《あんばい》で、たゞ妄《むやみ》と先を急いだが、さて何《ど》うしても村道へ出ない。幾ら考へたツてもう血迷《ちまよ》ツてゐるのだから、確《たしか》な事が考へられる筈が無い。自分は愈々《いよ/\》解らない道へ踏込むで了ツた。
「狐《きつね》に、魅《ばか》されたのぢやないか。」
と考へると、心細くなツて、泣出したくなる。徑《こみち》が恰ど蜘蛛《くも》の巣のやうになツてゐて、橋が妄《むやみ》とある土地だから、何んでも橋も渡り違へたのか、徑《こみち》を曲損《まがりそこ》ねたか、此の二つに違《ちがひ》なかツたのだが、其の時は然《さ》うは思はず、頭《あたま》から狐に魅《ばか》されたと思込むで了ツて、自分は氣を確《たしか》に持ツた積で、ただ無茶苦茶に歩《ある》いた。めくら滅法に先を急いだ。
 それでも時々、突《つ》ツ立《た》つては方角を考へ、目標《めじるし》を考へながら歩《ある》いたけれども、何うしても何時《いつ》も歸《かへ》る道とは違ツて居た。
 其のうちにだん/\と空が狹くなツて來て、左を向いても、右を向いて見ても、山の影が、黒くうぬ[#「うぬ」に傍点]/\としてゐる。自分は谷間《たにま》のやうな處を歩いてゐるやうになツた。それと氣が付くと、
「おや、おや、變な處へ來たぜ。此處《ここ》は何處《どこ》だらう、何處へ來ちやツたんだらう。」
 固《もと》より星光《ほしあかり》だから能《よ》くは解《わか》らぬが、後《うしろ》の方へ振向いて見ても、矢張《やつぱり》黒い山影が見える。自分は愈々《いよ/\》弱ツて了《しま》ツた、先へ進むで可《い》いのか、後《あと》へ引返して可《い》いのか、それすら解《わか》らなくなツて了ツた。もう喚《わめ》いても泣いても追付《おつつ》きはしない。
 何處《どこ》かの森で梟《ふくろ》の啼いてゐる。それが谷間に反響して、恰どやまびこ[#「やまびこ」に傍点]のやうに聞《きこ》える。さて立ツてゐても爲方《しかた》が無いから、後《あと》へ引返す積りで、ぼつ[#「ぼつ」に傍点]/\歩《ある》き始めたが方角とても確《しか》と解ツてゐなかツた。其の氣の揉《も》めること情ないことゝ謂ツたら無い。
 薄氣味《うすぎみ》惡くはある、淋しくはある、足は疲《つか》れて來る、眠くはある。加之《それに》お腹《なか》まで空《す》いて來るといふのだから、それで自分が何樣なに困りきツたかといふ事が解《わか》る。何《ど》うかすると自分の履《は》いてゐる草履がペツタ/\いふのに、飛上るやうに吃驚《びつくり》して冷汗《ひやあせ》を出しながら、足の續く限り早足に歩《ある》いた。
 もし間違ツたら、終夜《よつぴて》歩いてゐる事に覺悟を定《きめ》てゐたが、たゞ定《きめ》て見たゞけの事で、中々心から其樣な勇氣の出やう筈が無い。其の間にだん/\氣が茫乎《ぼんやり》して來て、半分は眠りながらうと[#「うと」に傍点]/\して歩《ある》いてゐた。そして幾箇《いくつ》の橋を渡ツて幾度道を回ツたか知らぬが、ふいに、石か何かに躓《つまづ》いて、よろ/\として、危《あぶな》く轉《ころ》びさうになるのを、辛而《やつと》踏止《ふみとま》ツたが、それですツかり[#「すツかり」に傍点]眼《め》が覺めて了ツた。見ると今までの處とは、處が、がらり[#「がらり」に傍点]變ツてゐた。
「全體、此處《ここ》は何處《どこ》であらう。」
 何處《どこ》だか解《わか》らぬが今まで來た覺の無い處といふだけは解ツてゐた。何《ど》うしたのか不思議や、其處《そこ》らが薄月夜の晩のやうに明《あか》るい。今まで眞《ま》ツ暗《くら》であツたのに不思議に明るい。豈夫《まさか》星光《ほしひかり》ではあるまいと思ツて見てゐると、確《たしか》に星光では無い。螢の光だ。
「大變な螢だ。」
と思はず知らず叫んで、びツくり[#「びツくり」に傍点]したといふよりは、呆《あき》れ返《かへ》ツて見てゐると無量幾千萬の螢が、鞠《まり》のやうにかたま[#「かたま」に傍点]ツて飛違ツてゐる。それに此處《ここ》の螢は普通の螢の二倍の大きさがある。それで螢の光で其處《そこ》らが薄月夜のやうに明いのであツた。餘り其處らが明いので、自分は始《はじめ》、夢を見てゐるのでは無いかと思ツた。餘り其處《そこ》らが奇麗なので、自分は始、狐に魅《ばか》されてゐるのでは無いかと思ツたけれども自分は、夢を見てゐるのでも無ければ狐《きつね》に魅《ばか》されてゐるのでも無い。確に正氣で確に眼を覺まして、其の螢を眺めてゐた。餘り美しくて、餘り澤山ゐるので、頓と捕《つかま》へて見やうといふ氣も起らない。自分はうツとり[#「うツとり」に傍点]として、螢に見惚《みと》れてゐると、
「おい、お前さんは、此處《ここ》へ何しに來たのだ。」
と突如《だしぬけ》に後《うしろ》から肩を叩くものがある。びツくり[#「びツくり」に傍点]して振返ると、夜目だから、能《よ》く判《わか》らぬが、脊の高い痩《やせ》ツこけた白髮の老人が、のツそり[#「のツそり」に傍点]と立ツてゐるのであツた。螢の薄光で、微《ほのか》に見える其の姿は、何樣《どん》なに薄氣味《うすぎみ》惡く見えたろう。眼は妙に爛《きら》ついてゐて、鼻は尖《とが》ツて、そして鬚《ひげ》は銀《しろがね》のやうに光ツて、胸頭《むなさき》を飾ツてゐた。
「お前さんは誰です。」と、自分は、おツかなびツくら[#「おツかなびツくら」に傍点]で訊《たづ》ねた。
「私《わし》かえ、私はの、年を老《と》ツた人さ。」と、底意地の惡さうな返事をして、自分の頭を撫《なで》て呉れる。其の聲は確《たしか》に何處《どこ》かで聞いたことのあるやうな聲だ。
 自分は首を傾げて考へて見た。直ぐ足下《あしもと》には、小川が流れてゐたが、水面には螢の影が、入亂れて映《うつ》つてゐる。
「おゝ! 奇麗だ。」
と自分は熟《じつ》と流を見詰めると、螢の影は恰《まる》で流れるやうだ。
「何《ど》うだ、奇麗だらう。」と白髮の老人はさも自慢さうにいふ。何うも、其の聲は聞覺があるやうに思はれてならない。併し何《ど》うしても、誰の聲であつたか解《わか》らなかった。何處《どこ》かで梟《ふくろ》が啼出した。自分はぞつと[#「ぞつと」に傍点]しながら、
「此處は何んといふ處なんでせう。」
「此處かえ。」と老人は、洒嗄《しやが》れた、重くるしい聲で、「此處《ここ》はの、螢が多いから、螢谷といふ處だ。」
「えつ、螢谷ですつて?」
 螢谷と聞《き》いて、自分は顫上つた。そして逃支度《にげじたく》をしながら、
「さ、大變だ!大變だ※[#感嘆符二つ、1-8-75]と泣聲になつて、騒立てる。
 螢谷といふのは、自分の村を流れてゐる川といふ川の水源《みなもと》で、誰も知らぬ者の無い魔所であつて、何が棲《す》むでゐるのか、昔から其《それ》を知ツてゐる者が無いが、たゞ魔の者がゐると謂《い》つて夜《よる》になると誰も來ない事になつてゐた。固《もと》より其の邊に家と謂つては無い、谷も行窮つてゐて、其の谷の凹に少しばかりの山畑があるばかり、夜は何處を見ても松林と杉林ばかりである。自分の村から二里もあるのだから、
「私は何《ど》うして、此樣《こんな》な處へ來たのだらう。」
と不思議でならない。それよりはまだ、此樣な處で、白髮の老人に逢つたのが、更に不思議でならない。雖然《けれども》何んとなく物靜な、しんめりとした景色の中に、流の音が、ちよろ/\と響いてゐて、數の知れぬ螢が飛んでゐるところは實に幽邃《ゆうえん》であつた。それに何んの芬《かをり》だか解りませぬが、好い芬が其處ら一杯に芬《かを》つているので、自分は螢谷には、魔の者が棲むでゐるのでは無く、仙人が棲むでゐるのでは無いかと思つてゐた。
 私は、薄氣味の惡いのも、怖《こわ》いのも忘れて、美しい景色に心を引付けられて、
「奇麗な處だ!」と感歎しながら茫然していると、
「ぢや家へ歸らなくツても可《い》いか。」
 自分は急に悲しくなツて、「僕、家へ歸りたくツて爲樣《しやう》が無いんです。」
「でも、私が、お前が螢を挿《つかま》へるやうにお前を捕《つかま》へて了《しま》ツたら何《ど》うする。」
「え、私を捕へるんですツて?」と自分は泣聲になツた。
 老人は突出して「捕へられるのは嫌か。ぢや螢を放して了ひなさい。」
 自分は命令《いひつけ》通、直に螢を放して遣《や》ツた。老人は悦《よろこ》んで、「それで可《い》い、それで可い。では、私が、お前の家まで送ツて行ツて進《あ》げやう。だが、お前は、大分疲れてゐるやうだ。私が背負《おぶ》ツて行ツて進《あ》げる。」
 自分は疲れてはゐるし、第一眠くてならなかツたから、遠慮をしないで、早速老人の肩へ兩手を掛けると、老人はえんやらツと立起ツて、ぽツくりぽツくり歩き出した。自分は體《からだ》を搖られるので、何んとも謂へぬ好い心地になツて、うと/\と眠ツて了《しま》ツた。そして何時の間に家へ歸ツたのか、翌朝眼を覺して見ると、不思議や自分は何時もの室で安《やすらか》に寢てゐた。

     *     *     *     *     *

 これは夢であツたらうか。自分は其後も、幾度か螢谷といふ處へ行ツて見やうと思ツたけれども遂々行かれなかツた。否、行かなかツたのでは無い、行ツても見當らなかツたのだ。抑、彼の老人は何者であツたらう。之れは、永い間自分にも解らなかツた。併し自分がもう大人になツてから、其老人は自分の祖父樣《おぢいさま》であツた事が解《わか》ツた。



底本:「三島霜川選集(上巻)」三島霜川選集刊行会
   1979(昭和54)年4月8日発行
初出:「文庫」
   1906(明治39)年7月15日号
※新字と旧字の混在は、底本通りとしてました。
入力:小林 徹
校正:松永正敏
2003年12月6日作成
青空文庫作成ファイル:
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