青空文庫アーカイブ



黄色な顔
THE YELLOW FACE
コナンドイル Conan Doyle
三上於莵吉訳

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)真《しん》に

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)四千五百|磅《ポンド》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「てへん+毟」、第4水準2-78-12]
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 私は私の仲間の話をしようとすると、我知らず失敗談よりも成功談が多くなる。無論それらの話の中では、私は時によっては登場人物の一人になっているし、でなくても私はいつも深い関心を持たせられているのだが、――しかしこれは何も、私の仲間の名声のためにそうするわけではない。なぜなら事実において、私の仲間の努力と、多種多様な才能とは真《しん》に称讃すべきものではあったけれども、それでもなお、彼の思案に余るような場合があったからだ。ただどうかしてそんな場合にぶつかって私の仲間が失敗したような所では、他《た》の者もまた誰一人成功したものはなく、事件は未解決のまま残されるわけである。けれど時々、ちょっとした機会から、彼がどんな風にしてその真相を誤解したかと云うことが、後から発見されたこともある。私はそんな場合を五つ六つ書き止めておいた。そのうち今ここですぐお話出来るものが二つある。そしてそれはそれらのうちでも一番面白いものである。
 シャーロック・ホームズと云う男は、滅多に、身体を鍛えるために運動などをする男ではなかった。が、彼よりはげしい肉体労働に堪《た》え得る人間はほとんどなかったし、また確かに彼は、彼と同体量の拳闘家としては私の会ったことのある人のうちでは最も優れた拳闘家の一人だった。しかし彼は努力の浪費になるような無益な肉体的労働をちゃんと見分けて、何か職業上の目的のある場合でなくては、決して肉体を使うようなことはなかった。だから彼は絶対に疲れると云うことを知らずに、実に精力絶倫であった。その代り彼は不断からいかなる場合に処しても困らないだけの肉体の力を養っていた。食事は常に出来るだけ貧しいものをとり、厳格に過ぎるくらい簡易な生活振りだった。だが、時々、コカインをのむこと以外には、何も悪いことはしなかった。そのコカインも、事件が簡単すぎたり、また新聞がつまらなかったりして退屈でどうにもしようがないような時だけに、気慰めにのむに過ぎないのであった。
 それは早春のある日のことであったが、彼はノンビリした気持ちで私と公園へ散歩に出かけた。楡《にれ》の木は若芽を吹き出しかけ、栗の木の頂きには若葉が出はじめていた。私たちは、特に話さなければならないような話題もなかったので、碌《ろく》に口もきき会わずに二時間近くブラブラした。そして再びべーカー通りに帰って来たのは、もう五時近くであった。
「壇那さま、お留守にお客さまがお見えになりました」
 と、彼が入口《いりぐち》の戸をあけると、給仕の子供が云った。
 ホームズは非難するかのように私をジロッと見た。
「少し散歩が長すぎたな」
 と云って、それから給仕に向って云った。
「それで、そのお客さまは帰っちまったのか?」
「ええ」
「中へ這入《はい》ってお待ちするようには言わなかったのかね?」
「いえ、中へお通ししたんです」
「どのくらい待ってたのかね」
「三十分ばかり。――でも、大変せっかちな壇那でしてね、ここにいらっしゃる間も始終、歩き廻ったり足踏みをしたりしていらっしゃいました。私、戸の外でお待ちしておりましたもので、よくそれが分りましたよ。けれどもそのうちにとうとう外へ出て来て、「帰って来ないようじゃないか」とおっしゃるんです。ですから私は申し上げました。「ほんのもう少しお待ちになって下さい」って。すると「じゃ、じき戻って来るよ」と云って出ていっておしまいになるんでしょう。それから私、まだいろいろ申上げたんですけれど、でもお引き止め出来ませんでした」
「よしよし、結構結構」
 とホームズは云って、私達は部屋の中に這入った。
「こりゃアちょっと厄介《やくかい》だね、ねえワトソン君。どうもよほどむずかしい事件らしいよ。訪ねて来たと云う男がイライラしていたと云うことから推察しても、重大な事らしいね。――オヤ、テーブルの上にあるパイプは君のじゃないだろう。今来た男が置き忘れていったに違いないな。こりゃよく使いこんである。煙草吸いが琥珀《こはく》と云っているものだが、これはなかなか上等な品だ。僕はそう思うんだが、ホン物の琥珀のパイプが、いくつロンドンにあるかね。なかには、『琥珀の中の蝿』がホン物のしるしだと思っているものもあるようだけれどもしかし贋物《にせもの》の琥珀の中には贋物の蝿を入れとくくらいのことは、商売の常識だからね。――しかしそれはそれとしといて、今来た男はよほど気が顛到《てんとう》していたに違いないな。何しろ大切にしていたに違いないパイプをおき忘れてくくらいなんだから……」
「君にはどうしてそのパイプを大切にしてたってことが分るんだい?」
 と、私はきいた。
「そりゃ分るよ。そのパイプは買った時は七シルリングくらいしたろう。けれど君にも分るようにそれから二度修繕してあるね。一度は木の所を、一度は琥珀の所を。――しかもホラご覧の通り両方とも銀で修繕してあるだろう。だからパイプの値段は買った時より遥かに高くなっているよ。それに人間って奴は、同じ金を払って新しいものを買うより、むしろ修繕したりなんかしたパイプのほうをずっと大切にするものだからね」
「それから?」
 と、私はつづけてきいた。ホームズはそのパイプを手の中でいじくりながら、彼独特の考え深そうな目つきでじっと見詰めていた。がやがてそれをつまみ上げると、ちょうど何かの骨について講議をしている大学の教授がよくやるように、細長い食指《しょくし》でその上を軽くたたいて、言葉を続けた。
「パイプと云うものは実際途法もなく趣味のあるものだからね。――まず懐中時計と靴紐《くつひも》とをぬかすとこのくらい個々の特異性を持ってるものはないだろう。けれど今の場合は、そんなことはどうでもいいんだ。――とにかくこのパイプの持主は、体格の立派な男で、左利きで、歯が丈夫で、身なりに一向かまわない、そしてそんなに倹約して暮す必要のない男だってことは確かだね」
 私の友達はなんでもないような調子でそう云ったが、しかし私には、彼が彼の推理に私が同意したかどうかを見定めるために、じっと私を見詰めるのが分った。
「君は七シルリングのパイプで煙草を吸う男は裕福でなくちゃならないと思うのかね」
 と、私は云った。
「このパイプで吸ってた煙草は一オンス八ペンスするグロスベノウ・ミクスチュアだ」
 ホームズは答えた。
「よし半分の値段の煙草を吸ったとしても、贅沢だ」
「なるほど。それから……?」
「この男は煙草の火をランプやガスでつけてたようだね。その片がわがすっかりコゲて[#「て」は底本では「で」]るのが分るだろう。マッチじゃこんな風にはならないよ。マッチの火じゃパイプのへり[#「へり」に傍点]は焼けないからね。しかしランプではどうしたって穴をこがさずにはつけられないよ。しかもこいつは右側がこげている。そこで僕はこの男が左利きだと推察したんだ。――君のパイプをランプの所へ持ってってみたまえ。右の手でだよ、すると自然にパイプの左側が穴にあたるようになるから。けれどその反対にすると、それと同じようにゃいかないから。つまりこれを始終やってたんだね。――それからこの男は琥珀の所を噛みつぶしている。それは体格のいい勢力家《せいりょくか》がよくやるし、また歯の丈夫な人がよくやることだよ。――オット、奴《やっこ》さんたしかに階段を登って来るらしいぞ、さあこうなるとパイプの詮議立てなんかしているより面白くなるて……」
と云っているとほどなく、私達の部屋の入口が開かれた。そして背の高い若い男が這入って来た。彼は暗い灰色の品《しな》のよい上品な服を着て、褐色の中折帽《なかおれぼう》を手に持っていた。実際はそれより二三年は年をとっていたのだが、私は卅歳《さんじっさい》ぐらいと見当をつけた。
「ごめん下さい」
 と彼は、まごつきながら云った。
「ノックしなければなりませんでしたでしょうか? ――いえ、そりア無論私はノックすべきでした。けれど実は私、少しあわてておりましたもので、どうぞ御勘弁下さい」
 彼は目まいした人がするように手で額の汗を拭いた。そして腰かけると云うよりはむしろ倒れるように椅子に腰をおろした。
「あなたは二晩ほどお休みになりませんね」
 とホームズは彼独特の気安い愛想《あいそう》のよい調子で云った。
「それが労働よりも歓楽よりも一番からだにこたえますよ。――何か私で出来ることがあったらご遠慮なくおっしゃって下さい」
「あなたに相談にのっていただきたいんです。私は途方に暮ているんです。私の生涯は滅茶滅茶《めちゃめちゃ》になろうとしているんです」
「あなたは私を探偵顧問にお雇いになりたいんですか?」
「それだけじゃアありません。世界的な人物のあなたに、――頭のすぐれているあなたに判断していただきたいんです。これからどうすべきか云っていただきたいんです。そうしていただければ私はあなたをおがみます」
 彼は昂奮して口ばたの筋肉をふるわせながら、まるで何かが爆発した時のように鋭い激しい調子でしゃべった。それで私は、彼にとってはしゃべることが非常に苦痛なんで、もう彼の理性では彼の感情を制御しきれなくなっているのだ、と云うことが分った。
「誰にしたって、自分の家庭内のいざこざ[#「いざこざ」に傍点]を他人に話したくはありませんよ。それはデリケートな気持ちの問題です」
 と彼は云った。
「二人の男と関係した人妻の品行の善悪をきめるってえことは、恐ろしいことです。しかもその男と私はまだ会ったことがないんです。それなのにそうしなければならないってことは、恐ろしいことです。私はもうどうしていいか分からなくなってしまいました。私は助けてもらいたいんです」
「ねえ、君。グラント・マンローさん……」
 ホームズは始めた。
「エッ?」
 私達の訪問客は椅子から飛び上《あが》った。そして、
「私の名前をご存じなんですか?」
 と叫んだ。
「だって、あなたは御自分のお名前を匿《か》くしていらっしゃりたいなら、帽子の内側へ名前を書くことをおやめにならなくちゃ、――でなければせめて、話してる相手の人間に、帽子の外側を見せるようにしていらっしゃらなければ駄目ですよ」
 とホームズは笑いながら言った。
「全くの話、この部屋では、私達はずいぶんたくさんな秘密をききましたよ。でも幸いなことに、私達はずいぶん大勢の悩んでいる人々に平和をもたらしてあげました。ですから、たぶん私は、あなたにもそうして上げることが出来ると信じます。けれど、手遅れになるといけませんから、ぐずぐずしないで手取早《てっとりばや》く、正直にあなたの事件をすっかりお話しになってくれませんか」
 私達の訪問客はもう一度、辛《つら》い仕事にぶつかったぞと云わんばかりに、額《ひたい》へ手をやった。私は彼のその動作と表情とから、彼は無口で自制力の強い男だと云うことが分かった。そして胸のうちにまだ一抹の自尊心があって、自分の負った傷をかくしたいと思っているらしいことが分った。しかし彼は手を握りしめて苦しそうな身振りをしたが、やがて急に、束縛から解き放されたようにしゃべり出した。
「事実はこうなんです、ホームズさん」
 彼は云った。
「私は移転して三年になるんですが、その間私たちは、大概の新婚夫婦がそうであるように、お互に深く愛し合って、幸福に暮しておりました。私たちは何一つ違ったところはありませんでした。ただの一所《ひとところ》も、――思想でも、言葉でも、動作でも。――ところが、先週の月曜日以来と云うもの、私たちの間には急に隔たりが出来たんです。私は彼女の生活に何物かのあることに気がついたんです。そしてまた彼女の心に関しては、街で行き違う見ず知らずの女の心と同じように、何も私は知っていなかったんです。――私たちは全く赤の他人になってしまいました。私はその原因が知りたいんです。――そう、そう、その前にあなたにぜひ記憶しておいていただきたいことがあります、ホームズさん。――エフィは私を愛しております。この点については絶対に間違いはありません。彼女は彼女の全身を捧げて私を愛しております。しかも今ほど愛していたことはないでしょう。私はそれを知りました。私はそれを感じます。――私はその点については議論をしたくありません。男と云うものは女が自分を愛してくれている時には、容易にそれを話すことが出来るものです。――しかし私たちの間には秘密があるんです。私にはそれを拭《ぬぐ》わずにほうっておくことは出来ません」
「どうもまだはっきりしないんですが、マンローさん」
 と、ホームズは少しイライラして云った。
「エフィの前身について申上げましょう。私が初めてエフィに会った時、彼女は未亡人だったんです。廿五《にじゅうご》になったばかりで、――まだ本当に若かったんですけれど。その頃、彼女はヘブロン夫人と云っていました。彼女は若い時、アメリカへいってアトランタの町に住んでいたのですが、そこで当時相当にやっていた弁護士のヘブロンと結婚したんです。彼等は子供が一人ありました。しかし黄疸《おうだん》がはやって、子供も夫もそれで死んでしまいました。私は彼女の夫の死亡証明書を見たことがあります。――そんなわけで彼女はアメリカがすっかり嫌になって、バイナーにいる独り者の叔母の所へ帰って来たんです。――彼女の夫は彼女に生活して行けるだけのものは残していってくれました。ですから彼女は年七分の利に廻る四千五百|磅《ポンド》の株券を持っていました。――私が彼女に会ったのは、彼女がバイナーに来てようやく六ヶ月たったばかりの頃でした。そうして私たちはお互に恋し合い、数週間後に結婚したんです。――ところで私自身はホップの卸商《おろししょう》です。私は年に七八百|磅《ポンド》の収入がありますから、私たちは別に不自由はしておりません。それに私はノーブリーに年に八|磅《ポンド》あがるちょっとした別荘を持っております。――私たちの住んでいる所は都会に近い割にしては、実に田舎らしい所です。家《うち》のすぐ近くに宿屋が一軒と人家《じんか》が二軒と、それから広っ場《ぱ》の向う側に小屋が一つあるきりで、あとは停車場《ていしゃば》へ行くまで半道《はんみち》もの間|家《うち》一軒ありません。――私は商売で定《きま》った期間だけ町に行きます。しかし夏の間は行きません。――こんな風にして、私たちはこの田舎家《いなかや》で、思う存分幸福に暮していたんです。全く、この呪うべき事件が始まるまで、私たちの間には何の影もさしたことはなかったのです。――それに、ここでもう一つあなたに申上げておかなくてはならないことがあります。それは私たちが結婚した時、彼女は彼女の財産を全部私名義にしてしまったことです。――私はむしろそれに反対したんです。と云うのは、もし私が商業上で失敗したら、困ったことになりますからね。けれど彼女はきかないでそうしちまったんです。――そうです。ちょうど六週間ばかり前のことでありました。彼女は私の所へやって来て
「ねえ、ジャック」
 と申すのです。
「いつか私の財産をあなたの名にした時、あなたはそうおっしゃったわね、もしお前がどれだけでも入要《いりよう》になったら、そう云えって……」
「そう云ったとも、あれは全部お前のものだもの」
 と私は答えました。
「そう?――じア、私、百|磅《ポンド》入要なの」
 と彼女は申しました。
 私はその金額をきいてちょっと考えたんです。だって、たぶん着物か何かそんなものが買いたいんだろうと思ってたからです。で、私は訊ねました。
「何に使うの?」
「まあ。あなたは、俺はお前の銀行家《ぎんこうか》だってそうおっしゃったじゃアないの。――銀行家って、何《なん》にお金を使うかなんて訊ねるものじゃないのよ、分かったでしょう」
 と、彼女は冗談にまぎらせて答えました。
「本当に必要なら、無論あげるよ」
 私は申しました。
「ええ、本当に入るのよ」
「それなら、何《なん》に使うのか云わなくちゃいけないね」
「いつかは申上げるわ、たぶん。でも今は云えないのよ、ジャック」
 こんなわけで私は納得させられてしまいました。これがつまり、私達の間に秘密が這《は》いり込んで来たそもそもの初めなんです。――私は彼女に小切手を書いてやりました。そしてそのままそんな事は忘れていました。後になって何か事件さえ起きなければ、それでなんでもなかったのです。けれど私はそれを思い出させられるような事件にぶつかってしまったんです。
 それは、――さきほど私は、私たちの家のじき近くに離れ家《や》が一つあると申しましたね。――その離れ家と私たちの家《うち》との間には、広っ場があるんです。けれどその離れ家に行くには、グルグルと路《みち》を廻って、狭い路《みち》をおりて行かなくてはならないんです。ちょうどその狭い路《みち》の辺《あたり》は、樅《もみ》の小森になっているんです。私はよくその辺《へん》をブラブラしました。実際木の繁っている所っていいものですからね。――ところで、その離れ家ですが、八ヶ月もの間|空家になっていたんです。空家にしておくには本当に惜しいんで、小綺麗な二階があって、古風な入口で、周囲にはスイカツラがからみついていました。私は何回となくその前に立止っては、これでちょっと気のきいた農園住宅風なものを作れると考えました。
 すると先週の月曜日の夕方のことでしたが、私が例によってその辺《へん》をブラブラしておりますと、その狭い途《みち》を何も積んでいない幌附《ほろつ》きの運搬車がやって来るのに出合いました。そしてその離れ家の入口の側《そば》にある芝生の上には、カーペットとかその他そんなものがおいてありました。――たしかに誰かがその離れ家に引越して来たんです。私はそれの前を通りすぎて立ち止りました。そしてよくブラブラしている人がやるように、その離れ家をボンヤリ眺めながら、私たちのすぐ近くへ来て住む人たちは、どんな種類の人なんだろうと想像してみました。と、私は、ふと、その家《うち》の二階の窓から、私をじっと見詰めている人の顔のあるのに気がつきました。
 私はその顔を見た瞬間、どう云うわけか知りませんけれど、ゾッとしましたよ、ホームズさん。――私はその家《うち》からかなり離れていたので、その顔をはっきり見定めることは出来ませんでしたけれど、何かこう気持ちの悪い惨忍そうな所がありました、それが私の受けた印象でした。――私は、私を見詰めているその顔をもっと近くでよく見てやろうと思って、いそいで近寄っていったんです。すると急にその顔は引込んじまいました。まるで不意に部屋の暗《やみ》の中に※[#「てへん+毟」、第4水準2-78-12]《も》ぎ取られたように、急に見えなくなってしまったんです。けれど私はまだ五分間ばかりそこにじっと立っていました。そしてその顔から受けた印象についていろいろ考えてみました。――私はそれが男だったか女だったか、どうしてもはっきりしないんです。けれどもその色だけははっきり覚えています。それは死人の顔のような、青ざめた黄色でした。そしてその中《うち》に何か人をゾッとさせるようなものを含んでいるのです。私は不思議さのあまりとうとう、その離れ家の新しい住み手がどんな人間か見とどけてやろうと決心しました。そこで私は近づいて行ってノックしますと、すぐ入口の戸は開けられて背の高い痩せこけた不愛憎《ぶあいそう》ないやらしい顔をした女が現れました。
「何か御用ですか」
 と、その女は、北方《ほくぼう》なまりまるだしできいた。
「私は原の向う側に、あなたとお隣同志にに住んでいるものでございますが」
 と、私は自分の家《うち》のほうを指さしながらそう云った。
「ちょうどお越しになっていらしったのを見ましたもので、何かお手伝いでもするようなことがあったらと思いましたもので……」
「いえ、お願いしたい時はこちらから上がります」
 そう云うと彼女は、ピシャッと私の目の前で戸を閉めてしまいました。私はこの無作法な断りかたに腹が立ちましたが、そのまま家《うち》に帰って来ました。――その夜《よ》は一晩中、何か他のことを考えようとしても、私の心はあの窓に現れた女の顔と、それから戸口に出て来たあの女の無作法さとにばかりかえって行くのでした。が私はこんなことについては、妻には何も云うまいと決心しました。なぜなら私の妻はとても神経過敏な女ですから。そして私が幾らそうさせまいと思っても、彼女は私が受けたあの不快な気持と同じものを受けるのに違いないのですから。――けれど私は寝る前に、例の離れ家がふさがったことを彼女に話したところ、彼女は返事もしないのです。
 私は不断からぐっすりと安眠する男で、よくうちで、私はかつがれたって目をさまさないだろうなんて、冗談を云ってるくらいです。ところが、その晩に限ってどうしたわけか、――昼間の例の事件のために少々昂奮していたものかどうか知りませんが、不断のようにぐっすりと寝つかれなかったんです。――うとうとしていると、何かが部屋の中に這入って来たらしいような気が、ぼんやりしました。そして続いて、私の妻が着物を着て、マントをひっかけ、帽子を冠《かぶ》っていることが、だんだんはっきり分って来ました。私はこの時ならぬ時間に妻が外へ出て行くような恰好をしているので驚いて、――と云うより何か叱言《こごと》を云おうとしたのですが、私の口からは何か寝言めいた言葉が出てしまいました。がその次の瞬間、目を細くあけて、蝋燭《ろうそく》の光りで照らされている彼女の顔を見た時、私はハッとして咽喉《のど》がつまってしまいました。私は彼女のそんな顔つきを未《いま》だかつて見たことはありませんでした。――それはどう見ても彼女だとは思えないような顔つきでした。――まるで死人のような真蒼《まっさお》な顔色をして、呼吸《いき》をはずませて、私の目をさまさせはしないだろうかと、マントを着てしまうと、コッソリと私の寝台のはしをうかがうのでした。がやがて、私がグッスリ寝込んでいるものと思いこんで、ソッと音のしないように部屋から滑り出していってしまいました。それからちょっとたってから、鋭い何かが軋《きし》むような音を耳にしました。それは玄関の戸の蝶番《ちょうつがい》の音らしいものでした。――私は寝台の上に起き上がって、自分が本当に目を覚ましているのかどうかを確かめるため、拳固《げんこ》で、寝台のフチをたたいてみました。それから枕もとの時計を手にとりました。暁方《あけがた》の三時でした。――一体、私の妻は、こんな暁方の三時なんて云う時間にこんな田舎道に出かけていって何をしようと云うのでしょう?
 私は廿分間《にじっぷんかん》ばかり、あれやこれやと考えてみて、何か心に思い当ることを見つけようと思って、じっと坐《すわ》っておりました。そしてそれからまだしばらく、一生懸命考えてみましたが、しかし何も思い当ることはありませんでした。――私は全く途方に暮れていました。と、ちょうどその時、ふと私は再び入口の戸が静かに閉められて、階段を上《あが》って来る彼女の足音を耳にしたんです。
「エフィ、一体、まあお前はどこへいって来たんだい?」
 私は彼女が部屋に這入って来ると訊ねました。
 と、彼女はビックリして、何か微かな叫び声のようなものをあげました。その叫び声と驚き方とは、いよいよ私の心の疑いを深めました。なぜならそれらは、そこに何か曰《いわ》くがありそうに思えたからです。――元来私の妻は不断から隠しごとの出来ない明けっ放しな性質の女なんです。それなのにその時に限って彼女はこっそり自分の部屋に逃げ込もうとして、自分自身の亭主に声をかけられると、アッと驚いて、おずおずと怖がっているのを見ては私はだまってはいられませんでした。――がやがて彼女は
「まあ、あなた起きてらしったの? ジャック」
 と、苦しげに笑いを浮べながら云いました。
「おやすみなんだろうと思ったのよ」
「どこへいって来たの?」
 と、私は少しけわしい声で訊ねてみました。
「ねえ、あなたびっくりなすったんでしょう」
 と、彼女は申しました。彼女の手の指はぶるぶるふるえて、マントをとることも出来ないほどでした。
「私、こんなことを、今までにただの一度もした覚えはないわ。私ね、咽喉《のど》がつまりそうな気がしたのよ。だから、しばらく外の空気を吸って来たの。――私、外へ出て行かなければ、死んじまったのかもしれないと思うわ。私、入口の所にしばらく立っていたの。でも、もう、すっかり大丈夫なの」
 彼女はそう云ってる間中《あいだじゅう》、ただの一度も私をまともに見ようともせず、また彼女の声の調子は、不断とはまるきり違っておりました。私には彼女が嘘をついてると云うことがはっきり分りました。私は何も返事をしないで、壁のほうを向いたまま、どうしてやろうかと考えました。私の心は恐ろしい疑念や猜疑心で一ぱいでした。――私の妻が私に隠していることはどんな事なんだろう。そして一体さっきはどこへいって来たんだろう。――私はそれらを確めるまでは、到底平和な気持ちになることは出来ないと思いました。けれどそのまま、二度と彼女に質問しようとはしませんでした。そしてその夜《よ》は一晩中、私はそれらのことを確める方法を考えて、まんじりともせずに転輾反則《てんてんはんそく》しました。が、どの方法を考えてみても、結局、いそいでなじったりなどしないほうがよさそうでした。
 そうこうしているうちに夜《よ》があけましたが、その日、私は町へ行く手筈《てはず》になっていたのです。しかし私の心はすっかり滅茶滅茶になっていて、到底商売上の取引などは出来そうにもありませんでした。また私の妻も私と同じようにすっかり平静さをなくしているらしく見えました。私には、彼女が窺《うかが》うようにチラッと私を見た目つきでそれが分ったのです。そして彼女はまた、彼女が前の晩した云いわけを私がちっとも信じていないと云うことを知っていて、どうにかしようと考えていることも、私にはよく分りました。――私たちは朝飯《あさめし》の間一言も口をききませんでした。そして朝飯がすむとすぐ私は散歩に出かけました。私は朝の澄んだ空気の中で、昨夜からの事件を考え直してみようと思ったのです。
 私はクリスタル・パレス(ロンドンの南部にある遊覧所)の辺《へん》までも歩いていって、そこで一時間ばかり腰かけておりました。そして一時頃にノーブリーに帰って来ました。――と、偶然に私は例の離れ家の前に出ました。私はしばらく立ち止って、前日私をじっと見詰めていた例の気味悪い顔を、もう一度見つけることが出来るかもしれないと思って、あの窓を見上げてみました。するとどうです、ホームズさん、ふいにその家《うち》のドアが開かれて、中から私の妻が出て来たではありませんか。まあ、その時の私の驚き方を想像してみて下さい。
 私は驚きの余りものも云えませんでした。しかし私たちの視線が出会った時、彼女の顔に現れた驚きの表情は、私のより更に激しいものでした。彼女は瞬間にちょっとまた家《うち》の中に逃げ込もうとするような様子を見せましたが、もう到底隠れることが出来ないのを知ると、私のほうへ近寄って来ました。彼女は蒼白な顔をし、恐怖に満ちた目をしていながら、唇の上には微笑《びしょう》を浮べておりました。
「まあ、ジャック、――私ね、今度いらしったお隣さんへ、何かお力になって上げられるようなことはないかと思って、伺《うかが》った所だったのよ。――まあ、なんだってそんなに私をご覧になるの、ジャック。何かおこってるの?」
 と、彼女は申しました。
「そうか、昨夜、お前が来たのはここだろう?」
 私は云いました。
「なんですって?」
 彼女は声を高くしました。
「お前は来た。それは確かだ。――一体、お前がそうやって一時間ばかり会いにやって来なければならない人間って、何者なんだ?」
「私、今ままでにここへ来たことなんかありませんわ」
「どうしてお前は私に嘘をつくんだ?」
 と、私は怒鳴りました。
「お前のしゃべる声はまるで変ってるじゃないか。お前は今までに、私に何かものをかくしていたことがあるか?――よし、私はこの家《うち》の中へ這入ってって、徹底的に調べてやる!」
「いけません、ジャック、お願いですわ」
 彼女は夢中になって叫びました。そして私が入口に近寄って行くと、私の袖口にしがみついて、猛烈な力で引き戻しました。
「ねえジャック、お願いだからそんなことしないでちょうだい」
 彼女は叫ぶように云うのでした。
「その代り、いつかはきっと、何もかもみんなお話しするわ。私、誓ってよ。けれども何でもないのよ。――でも、今、この家《うち》の中へ這入って行くと不幸が起きて来るの」
 私は彼女を振り放そうとしましたが、彼女はまるで気違いのように嘆願しながら私に噛《かじ》りつくのでした。
「ねえジャック、私を信じて!」
 と、彼女は叫びました。
「今度だけでいいから、私を信じて。――あとで悲しまなければならないような原因を作っちゃいけないわ。――私、あなたのためでなければ、あなたに何もかくしたりなんかしやしないの。ね、それは分かって下さるでしょう。私たちの命が、これにかけられてあるのよ。けれどあなたが私とこのまま家《うち》へ帰って下されば、すべてはうまく行くの。そうでなくて、もしあなたが無理にこの家《いえ》の中へ這入っていらっしゃれば、もうそれまでなの」
 彼女の熱心さとそして憂わしげな様子とは、私を思いとまらせました。そして私は入口の前に心をきめ兼ねて立っていたのです。
「条件づきでお前の云うことを信じよう。たった一つの条件づきで……」
 やがて私は云いました。
「それはこの不快な事件を、きょうを最後にすると云う条件だ。――お前はお前の秘密をかくしていたいならそれはお前の自由だ。けれどただこれだけは約束しなくちゃいけない。もう二度と夜中によそ[#「よそ」に傍点]へ出て行かないと云うことと、私に知らせないでは何もしないと云うことだけは。――そして、もうこれからこんなことはしないと云うなら、出来ちまったことは忘れてやってもいい」
「たしかに私を信じて下さるわね」
 と、彼女はそう云って、ホッと太い溜息をつきました。
「あなたのお望み通りにするわ。ね、さあ、行きましょう。家《うち》へ帰りましょう」
 彼女はなおも、その離れ家から私を連れ去ろうとして私の袖を引っぱるのでした。やがて少し行ってから私が振り返ってみますと、例の黄色な鉛色の顔が、二階の窓からじっと私たちを見詰めておりました。――一体、あの気味の悪い顔と私の妻との間に、何かのつながりがあるなんて云うことがあるだろうか。否《いな》、きのう私が会った、あの呪わしい粗野な女が、どうして私の妻とつながりをつけたのだろう?――不思議な謎です。そしてこの謎を解かない限り、私の心はどうしても平静に戻ることは出来ないと云うことが分かりました。
 それから二日の間、私は家《うち》におりました。そして私の妻は、私たちの約束に絶対的に服従して、私の知ってる範囲では、家《うち》から外へは決して出ようとしませんでした。すると二日目のこと、私は彼女のした約束が厳格に守られていないで、彼女は彼女の夫と彼女の義務を裏切っていると云う証拠を握ったのです。
 その日私は町へ出かけていったのでしたが、いつも私が乗る習慣になっていた三時三十六分の汽車の代りに、二時四十分の汽車で帰って来たのです。そして家《うち》に這入ると、女中がびっくりした顔をして、大広間に飛び出して来ました。
「奥さんはどこにいる?」
 私は訊ねました。
「散歩にお出かけになったようでございますわ」
 と、女中は答えました。
 私の心はみるみる猜疑心で一ぱいになってしまいました。私は彼女が家《うち》にいないと云うことを確かめるために、二階にかけ上がりました。私は二階にかけ上《あが》りながら、偶然に窓から表《おもて》をチラッと見ました。と、私は、今私が口をきいて来たばかりの女中が、広場を横切って例の離れ家のほうへ走って行くのを見つけたのです。こうなれば、無論私は、すべてのことを想像することが出来ます。――私の妻は例の離れ家にいっているのです。そしてもし私が帰って来たら迎えに来るように云いつけてあったのです。私は怒りにふるえながら、二階から馳《か》け降りると広場を横切って走って行きました。この事件をきれいに解決してやろうと決心して。――私は私の妻と女中が並んで、例の細い道をいそいで戻って来るのに出会いました。しかし私は立ち止ろうともしませんでした。――あの離れ家の中に、私の生活に暗い影を投げている、何かの秘密が横たわっているんだ。たといそれがどんなものであろうと、いつまでも秘密にしておいてはならない、――と、私は自身に誓いました。そしてその離れ家につくと、私はノックもせずに、いきなりドアのハンドルを廻して中に飛び込んだのです。
 一階は全く静かでひっそりしていました。お勝手のお鍋の中で何かがぐずぐず煮えてい、黒い猫が籠の中にうずくまっているだけで、私が前に会った女の影はどこにも見えませんでした。私は別の部屋に馳《か》け込んでみました。しかしそこにも同じように誰もいませんでした。そこで私は二階に上っていってみましたが、しかし誰もいない空っぽの部屋が二つあるのを見出《みいだ》したばかり。家中《うちじゅう》に人一人いないのです。――飾ってある家具類や絵は至って平凡な凡俗なものばかりでしたが、私が、例の奇妙な顔を見た窓のついている寝室の中だけは別でした。そこは気持ちよく優雅に飾ってありました。が、そこの暖炉棚の上に、私の妻の等身大の肖像画が飾ってあるのを見つけた時、私の疑念は一時《いちじ》にムラムラと燃え上がりました。その肖像画と云うのは、たった三ヶ月前に私が望んで描かせたばかりのものだったのです。
 私は家《うち》の中がたしかに空っぽであると云うことを確かめるために、なおまだ長い間そこに立っておりました。が、やがて私は、何か今までに経験したことのない圧迫を感じて来て、私はその家《いえ》を出ました。そして私は家《うち》に帰りますと、妻は大広間に出て来ました。けれど私は彼女に話しかけるには、余りにイライラし腹が立っていましたので、ものも云わずにさっさと自分の部屋に這入ってしまいました。けれども彼女は、私が部屋のドアをしめないうちに、私について中に這入って来ました。
「ごめんなさい、約束を破って。ジャック」
 彼女は云いました。
「けれどもしあなたが、すべての事情を知って下すったら、きっと私を許して下さると思うわ」
「じア、すっかりお話し」
 と、私は云いました。
「話せないのジャック、話すことは出来ないの」
 彼女は叫びました。
「あの離れ家の中に住んでいるのは何者だか、そしてまた、お前があの肖像をやったのは何者だか、それをお前が話すまでは、私たちの間は夫婦でもなんでもないんだ」
 私はそう云うと、彼女から逃げて家《うち》を出てしまいました。――ホームズさん。それが昨日の事なんです。それ以来私は彼女に会いませんし、従ってこの奇妙な事件についても何も知りません。これは私達夫婦の間にかもされた最初の暗い影なのです。そして私はさんざん頭を悩ましたけれど、どうしたら一番よいのか分からないのです。――するとけさのことでした、ふと私は、あなたなら私の相談に乗って下さると思いついて、いそいでやって来たんです。そして何もかも腹臓《ふくぞう》なく申上げてあなたのお手にすがったわけなんです。――まだもしどこかはっきりしない点があるようでしたら、どうかおききになって下さい。けれど、いずれにせよどうか早く、私はどうしたらいいか、それを云って下さい。私はこの不幸に、もう堪《た》えられないんです」
 ホームズと私とは、この驚くべき話を、非常な興味を以ってきいた。それは話し手が激しい感情に捕われていたため、早口に順序もかまわずに話されたのだったけれど。――ホームズはしばらくの間無言のまま、額《ひたい》に両手をあてて、じっと考えに沈みながら坐っていた。が、やがて彼は云った。
「その窓で見たのは、確かに人間の顔だと断言出来ますね」
「ところが、それを私が見た時はいつも、かなり離れていたので、確かにそうだと云うことは出来ないんです」
「けれどあなたはそれを見ていやな気がしたとおっしゃいましたね」
「うす気味の悪《わ》るい色をして、硬《こわ》ばった顔をしていました。そして私が近寄って行くと、急に、かくれてしまうのでした」
「それはあなたの奥さんが、あなたに百|磅《ポンド》請求してから、どのくらい後でしたか?」
「二ヶ月ばかり」
「あなたは、奥さんの最初の檀那さんの写真を見た事がありますか?」
「いいえ。――彼女の初めての夫が死んでからまもなく、アトランタに大きな火事があったんです。それで、彼女の持っていた写真はみんな焼けてしまいました」
「奥さんは死亡証明書を、持ってる。――あなたはそれを、御《ご》らんになったと、おっしゃいましたね」
「ええ。彼女は火事の後《のち》、複写をとったのです」
「あなたは、アメリカであなたの奥さんを知ってる人に、誰かお会いになった事はありませんか」
「いいえ」
「奥さんは、またアメリカへ行きたいなどと、おっしゃってはいませんか」
「いいえ」
「でなければ、アメリカから手紙が来ませんか」
「私のしってる範囲ではない様です」
「有難うございました。――ところで、その事件について考えてみなけりアならないんですが、もしその離れ家がそのまま空家になっているとすると、これはちょっと困難な問題ですね。しかしその反対に、実はそうあってほしいんですが、もしその離れ家に住んでた人が、あなたのやって来るのを前以って知っていて、きのうあなたが這入って行く前にその離れ家から出ていって、今はまた戻って来ているのだとすると、これは案外容易に片がつくと思うんです。――で、それについてあなたにお願いしたいのは、ノーブリーへお帰りになって、もう一度その窓を調べていただきたいんです。そしてもし確かに誰か中に住んでいるらしいことがお分かりになったら、あなた御自身で中へ這入っていくようなことはなさらないで、私の友人と私に電報を打って下さい。そうすれば私達は一時間以内にはそこへいって、大いそぎで事件を徹底的に解決してしまうことが出来るでしょう」
「もしまだ空家のままでしたら?」
「その時については、明日《みょうにち》、またあなたとよく相談しましょう。――じアさよなら。特に確実に根拠をつかんでしまうまでは充分慎重にやって下さい」
 そうして私の仲間は、グラント・マンロー氏をドアまで見送って帰って来ると、
「ワトソン君、こいつはちと厄介な事件らしいね。どうしたらいいだろう?」
 と云うのだった。
「悪い奴が一人いるね」
 私は答えた。
「そうだ。――脅喝《きょうかつ》している奴がいる。いないとなると僕の非常な思い違いになるんだが……」
「とすると脅喝《きょうかつ》している奴は何者だろう」
「無論、その離れ家の例の気持ちよく飾った寝室だけに住んでる、あの男の妻の肖像を暖炉棚の上に飾っとく男さ。――僕に云わせると、ワトソン君、窓に現れる例の蒼白い顔に目星をつけるべき何物かがあると思うんだ。それにしても事件の真相を誤ってはならないからね」
「で、君には対策があるのかい?」
「ああ、自分だけで考えてるのはあるんだが、事件が私の考えてる通りにいってくれないと困るんだ。――とにかくこの女の最初の夫と云うのが、その例の離れ家の中にいるんだよ」
「なぜそう思うんだい?」
「だって、今の亭主をその離れ家の中に入れまいとして、彼女が気違いのような騒ぎをしたと云うことについて、僕たちはどう説明したらいいだろう。僕が想像した所によると、事実はこうなんだよ。――この女はアメリカで結婚した。ところがその夫は、何かいやな性質を持っていたんだ。あるいは、何かいやな病にかかった、たとえば癩《らい》病とか痴呆症とか、そんなものになったと云ってもいい。彼女はたまらなくなって、亭主から逃げ出して、名前をかえて英国に帰って来たんだ。そして彼女が考えた通りに新しく生活をし直したんだ。――彼女は三年間の結婚生活をした、そして誰かの死亡証明書を彼女の今の夫に見せて、自分の位置が怪しくないことを信じさせたのだ。しかも彼女はその死亡証明書の人間の名前をそのまま名乗っていたんだ。――ところが、ふと、彼女の先の夫に、彼女の居場所を見つけられた。――でなけりゃ、またこうも想像出来るんだ。その病気の男と一しょになった淫奔女《いんほんおんな》があってそれに見つけられたんだ。そこでその二人は彼女に手紙を書いて、やって来て事実を暴露するぞ、とおどかしたんだね。で彼女は百|磅《ポンド》を夫からもらって、それで彼等を追払おうとした。ところがそれにもかかわらず彼等はやって来た。そして彼女の夫が、例の離れ家に新しい人が引越して来たと云って話した時、彼女はそれが彼女の脅迫者たちだと云うことを直感したんだよ。で、彼女はその夜《よ》、夫の寝入るのを待って、その離れ家に出かけていって、彼女をそのまま平和にしておいてくれるように彼等を説得しようと努めたんだ。しかし成功しなかったので翌朝また出かけていって、その時、彼女の夫が僕たちに話したように、そこから出て来て、パッタリ彼女の夫に出会ったのだ。そこで、もう再びそこへは行かないと云う約束をすることになった。しかしそれから二日の後《のち》、彼女はこの恐ろしい隣人たちを、どうしても追い払ってしまおうと決心して、もう一つの計画を立てた。そこで彼女は例の肖像画、――それは確かに彼女が自分で描かせてもらったものなんだが――それを持ち出していった。するとこの間に、女中が追いかけて来て、彼女の夫が帰って来たことを知らせた。で彼女は、突嗟《とっさ》に、その女中の話をきいて、これは夫がいきなりこの離れ家にやって来るに相違ないと想像し、いそいでその中の人間を裏口から出して、たぶんそのすぐそばに生えている樅の林の中に這入らせちまったんだ。――こう云うわけで、あの男が這入っていった時には、家の中は空っぽだったのさ。けれど、もしきょうの夕方、あの男がもう一度様子を見にいって、やっぱりまだ空家のままだったら、お目にかかるよ。――君はどう思うね」
「僕もそう思うよ」
「とにかく、事件の真相はこうらしいね。しかしもし何か新事実が発見されて、それが僕たちの予想外のことだったとしても、まだもう一度考え直してみる時間は充分あるからね。――現在としては、ノーブリーへいったあの男から電報の知らせが来るまでは、何もすることはないわけさ」
 しかし私たちは長く待つ必要はなかった。その電報は、私達がちょうどお茶を飲み終った所へとどいた。――ハナレヤニハマダタレカイル。レイノカオ、マドニアラワル。七ジノキシヤデオイデマツ。ゴトウチヤクマデシゴトニカカラヌ。――と、それには書いてあった。
 私たちはすぐ出かけた。そして汽車から降りると、彼はプラットフォームで待っていた。停車場《ていしゃじょう》の明かりで、彼が非常に蒼ざめて、興奮の余りブルブル震えていることが分かった。
「奴等はまだいるんです。ホームズさん」
 と彼は、私の友達の袖をかたくつかみながら云った。
「私がいった時、例の離れ家に明りがついているのを見ました。すぐいって、ひと思いにすっかり解決しちまいましょう」
「あなたはどうしたらいいと思いますか」
 とホームズは、暗い並木道《なみきみち》を下《お》りながら云った。
「私はあの家《いえ》の中へ這入って行って、あそこに住んでいた奴を、見つけ出してやろうと思います。無論ご一しょに行って下さるでしょうね」
「あなたは、あなたの奥さんの、この秘密をあばき出さない方がよいと云う忠告を無視しても、そうしようと決心したんですか?」
「ええ、私は断然やります」
「結構です。当然だと思います。不安な疑いは明らかにするに限りますよ。――すぐ出かけた方がいいでしょう。もちろん、法律的に云ったら人のうちへ無断で入ると云うことはよくない事です。しかし、やったっていいと思います」
 真暗《まっくら》な晩だった。そして広い道から狭い道へ曲った頃から雨が降り始めた。その狭い道には、轍《わだち》の跡が幾本も入り乱れて、深くついていた。けれども、グラント・マンロー氏は、もどかしそうに、ぐんぐん歩いて行った。そして私たちも、出来るだけ早く彼の後《あと》に従った。
「あそこに、私のうちの灯りが見えます」
 と彼は木の間に、ちらちらしている光りを指して云った。
「それから私たちが、目指している離れ家はこれです」
 彼はそう云いながら、細い道を一つ曲ると、私達のすぐ側に建物があらわれた。真暗《まっくら》な前庭《ぜんてい》を横切って、黄色いすじが、なげられていて、入口の扉がしっかりしめられていない事を物語っていた。そして二階の一つの窓には、あかあかと灯りがついていた。私達が見上げた時、私達は一つの黒い影が、そこを横切ったのを見た。
「あそこに、例の奴がいるんです」
 と、グラント・マンローが叫んだ。
「あなたもあそこに、誰がいるのかわかるでしょう。――さあ、ついて来て下さい。私達はじきに、総てのことを解決してやるんだ」
 私達は入口に近寄って行った。と、その時不意に、一人の女がうちの中から現らわれて、ランプの黄金色《こがねいろ》の光を背にして立った。その女の顔は暗くて見えなかったけれど、何か哀願するらしく、両手でおがんでいるのが分かった。
「どうか、お願いですから止めて下さい。ジャック」
 と、彼女は叫んだ。
「あなたがきょうの夕方ここへいらっしゃることを、私ちゃんと知っていたの。――ね、ようく考えてちょうだい。もう一度私の云うことを信じて、あとで悲しまなければならないような原因を作らないでちょうだい」
「俺はお前を信じすぎていた、エフィ」
 彼は厳然として叫んだ。
「あっちへ行ってくれ! 君にかまっちゃあいられないんだ。私達はこの事件を一思いに解決してしまうのだ」
 彼は彼女を片方におしやった。そして私達はすぐ彼につづいた。彼が扉《ドア》をひきあけると中年の婦人が、彼の前に飛び出して来て、通り道をふさごうとした。しかし彼は彼女を後《うしろ》へおしやった。そしてたちまち私達は二階に、かけ上《あが》った。グラント・マンローは、二階の、灯りのついた部屋にとび込んで行った。私達もそれに従った。
 それは気持ちよさそうに飾られた部屋で、テーブルの上に二本、暖炉棚の上に二本、ローソクが灯されていた。隅の方に、小さな娘らしく見える女が、机に寄りかかって坐っていた。彼女は私達が入って行った刹那顔を向うにむけてしまった。けれども私達は、彼女が赤い着物を着て長い白い手袋をはめている事がわかった。がやがて、彼女が私達の方を振り向いた時、私は驚きと恐れのさけび声をあげた。彼女が私達の方に振り向けたその顔は、何とも云えない、死人そっくりの色であった。そしてその顔には、表情と言うものは全くなかった。――しかしほどなく、謎はとかれた。ホームズは笑いながら、その子供の耳の後《うしろ》に、彼の手をやって、その顔から面をはぎ取った。すると石炭のように真黒《まっくろ》い顔をした、小さな黒ン[#「黒ン」に傍点]坊の女の顔が現われた。それは、私達の驚いた顔を見て、面白そうに白い歯を光らせていた。私はその女の愉快そうなのに、つられて笑ってしまった。けれども、グラント・マンローは彼の手で咽喉《のど》をつかんだままじっと見つめて立っていた。
「一体これはどうしたと云うんだ」
 と、彼は叫んだ。
「その訳を申し上げましょう」
 と、ツンとすまして、こわばった表情をして、エフィは部屋の中に忍び込んで来ながらさけんだ。
「しゃべるまいと思っていたのに、とうとう話させられる様なことに、なってしまいました。けれど今こそ、私達は最善の方法でそれを解決しなければなりません。――私の夫はアトランタで死んだのです。そして私の子供は生きながらえました」
「お前の子供!」
 彼女は彼女の懐から小さな箱を引き出した。
「あなたはこの箱を開けて御《ご》らんになったことはありませんね」
「それは開かないものだと思っていたよ」
 彼女はバネ[#「バネ」に傍点]を押して蓋を開けた。するとその中から……すばらしく上品な美しい、そして聡明[#「聡明」は底本では「聴明」]そうな男の肖像が出て来た。しかしその表情の中には、疑いもなくアフリカ人系統の容貌が現らわれていた。
「これがアトランタにいた、ジョン・ヘブロンです」
 と彼女は云った。
「この人より上品な人はありません。私は彼と結婚するために、私の一族と義絶しました。でも彼が生きている間は、一瞬間でもそれを後悔したことはございませんでしたの、――けれど、私達のこの子供だけが、私の子供としてよりも、むしろ彼の人種の後継として残ったと云うことは、私共の不幸でございました。こう云うことは、こう云う結婚にはよくあることには違いありません。でも可愛《かあ》いいルーシーは彼女の父親より、もっと色が黒いんですの。だけど黒くっても可愛いい。――彼女は私の可愛いい可愛いい娘ですもの。そして彼女の母親のペットですもの」
 彼女がこう云い終った時、その小さな娘は飛んで来て彼女の着物にまつわりついた。
「私が彼女をアメリカへ残して来たのは……」
 と彼女は言葉をついだ。
「ただ、彼女の健康がすぐれなくて、彼女に万一のことがあってはならないと思ったからだけですもの。で彼女は前に私共の女中だった信用の出来る、スコットランド人の婦人に、世話を頼んでおきました。私はたとえ、一瞬間でも彼女を捨てよう等と夢想したこともありませんでしたわ。けれどもたまたまあなたと云うものが私の前に現らわれて、私があなたを恋する様になった時、あなたに私の子供のことをお話しかねたのです。ジャック。どうか私を勘弁して下さいね。私、あなたに捨てられるのが恐ろしかったの。そしてあなたにお話するだけの勇気が持てなかったの。私はあなたと私の子供と、どちらかを選ばなければならなくなった時、私の弱さは私の可愛いい子供から私をそむかせて、あなたを選らばせてしまったんです。――三年の間《あいだ》私は彼女のあると云う事を、あなたには秘密にしていましたけれど、彼女が無事に育っていると云う事は乳母《うば》から聞いて知っておりました。けれどどうしても、一度だけ子供を見たくてたまらなくなりましたの。私はそんなことをしてはならないと思いましたが、やっぱり駄目でした。私は危険だと云うことを知ってはいましたけれど、たとえ二三週間の間だけでもいいから、子供を呼び寄せようと決心しました。私は乳母に百|磅《ポンド》送ってやりました。そしてこの離家《はなれや》のことを教えてやって、私と彼女と何の関係もない様な振りをして、ここにやって来させました。そうして昼間のうちは子供を家《いえ》の中に閉じ込めておいて彼女の小さな顔にも手にも覆いものをしておく様に云いつけたほど、用心深くさせました。それは、誰かが窓から彼女を見ても、隣りに黒ン坊の子供がいる等と云う噂を立てさせたくなかったからなんです。もし私がもっと悧巧《りこう》だったらそんなに用心深くはしなかったんでしょうが、私はあなたにこの事実を知られたくないと云う恐れで半分気がどうかしていたんですわ。――あの離家に誰か来たと初めて私に話して下さったのはあなたでしたわね。私朝まで待とうと思ったんですのよ。けれど昂奮してどうしても寝られなかったの。それで私、あなたの目を醒《さま》さない様にするにはどんなにむずかしいかと云う事はよく知っていましたけれど、とうとう抜け出したんですわ、ところがあなたは私の行くのを見ていらした。そしてそれが私達の事件のはじまりでした。――その翌日、私はあなたに私の秘密をきかれました。が、あなたはそれをしつこくおききになりませんでした。けれどそれから三日目のことです。あなたが表口《おもてぐち》から飛び込んで来られた時、やっとのことで乳母と子供とを裏口から逃がしたのは。――でも、今夜はとうとう何もかもあからさまになってしまいました。これから私たち――、私の子供と私とは、どんな風にでもなりますわ、それをおっしゃって下さい」
 彼女は両手をかたく握り合せて、彼女の夫の言葉を待った。
 二分間ばかり経った。そしてグラント・マンローは沈黙を破った。その彼が返事をした瞬間は、私が考え起すことのすきな時である。――彼はその可愛《かあい》い子供を抱き上げると、接吻《せっぷん》した。そしてそれから、静かに子供を抱いたまま、他《た》の片方の手を彼の妻のほうにさし出しながら、戸口のほうへ向き返った。
「私たちは、うちへいってもっともっと気持ちよく話し合おう」
 と彼は云った。
「私はあまりいい人間じゃなかった、ねえエフィ。けれど私は、お前が信じていてくれたよりは、もう少しいい人間だと思っているよ………」
 ホームズと私とは彼等について、例の細い路《みち》を下《くだ》っていった。私の友達はそこまで来ると、私の袖を引っぱった。そして
「ねえ君、もう僕たちはノーブリーにいるよりもロンドンに帰ったほうがよさそうだね」
 と云った。
 こうしてその日は、夜更けて、蝋燭を灯しながら寝台に行くまで、ホームズはもう再びものを云わなかった。
「ワトソン君」
 と、彼は寝室にいってからこう云った。
「これからもし私が、余り自分の力に頼りすぎていると、君が気づいた時は、そしてまた、事件を余り考えないで扱おうとしているような様子が目についたら、どうか遠慮なく、私の耳へ「ノーブリー」とささやいてくれたまえ。そうすれば、僕は君に永久に恩をきるよ……」



底本:「世界探偵小説全集 第三卷 シヤーロツク・ホームズの記憶」平凡社
   1930(昭和5)年2月5日発行
※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の表記をあらためました。
その際、以下の置き換えをおこないました。
「貴方→あなた 或いは→あるいは 如何なる→いかなる 於て→おいて 彼→か 位→くらい 呉れ→くれ 此→こ 此処→ここ 而→しか 然し→しかし 直き→じき 知れない→しれない 随分→ずいぶん 其→そ 度く→たく 沢山→たくさん 只→ただ 多分→たぶん 給え→たまえ 爲→ため 頂戴→ちょうだい 丁度→ちょうど ちゃあ居→ちゃあい て戴→ていただ て置→てお て見→てみ 所→ところ 尚→なお 乍ら→ながら 程→ほど 殆ど→ほとんど 亦・又→また 間もなく→まもなく 見る見る→みるみる 寧ろ→むしろ 勿論→もちろん 貰→もら 漸く→ようやく 余程→よほど」
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※底本中、混在している「途方」と「途法」はそのままにしました。また「アトランタ」「エトラント」「アトラント」は「アトランタ」に統一しました。
※底本は総ルビですが、一部を省きました。
入力:京都大学電子テクスト研究会入力班(加藤祐介)
校正:京都大学電子テクスト研究会校正班(大久保ゆう)
2004年5月17日作成
青空文庫作成ファイル:
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