青空文庫アーカイブ

山想う心
松濤明

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)一入《ひとしお》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)こたつ[#「こたつ」に傍点]に
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 星の鈍くまたたく夜、麦田の上を身を切るような風が渡る。外套の襟を深く立てて東京へ行く一番列車に乗るべく急ぐ田舎道は、霜柱が夜目にも白く、ざくりざくりと足の下に砕ける音を聞いていると、そぞろ山が思い出されてくる。こんな夜の山の寒さはまた格別であろう。それを思えば家にいて温かいこたつ[#「こたつ」に傍点]に当っている方が数等楽な理であるが、行けないとなると山想う心は一入《ひとしお》、切ないものがある。何故こうも山が想われるかと、ふと己が心に問うて見る。
 山へ登るには多少とも労苦を伴う。しかし、登ろうという心は労苦を愛する心では決してないであろう。やむを得ぬ場合を除いては労苦をつとめて避けるのが人情である。
「困難な登攀」を標榜《ひょうぼう》する人たちでも、困難な登攀を少しでも楽に果たすことを考えているのであり、所詮は「楽な登攀」をしか思ってはいないのである。かと言って、それはもとより単純に安楽を求める心でもないであろう。シーイング、岩遊びの場合でもそうであるが、ことに登山の場合には一度目指された頂きはあくまでも追求されねばならず、いい加減でやめてしまうわけにはいかない。登山がスポーツとしての分野を持ちながら、なお全的にはスポーツといわれぬ理由もここにある。
 古いノートを繰って見ると、その当時果たしたいと思ったスケジュールがずらりと書きつらねてある。年少ない頃は、世に困難とか不可能とか言われる登攀を、なんとかして自分の手で果たしてみたいと思う心が強かった。私はそれを恥ずべき心とは思っていない。否、むしろかような情熱が衰えていくことこそ警戒すべきものと思う。何事によらず、先人を凌ごうとするこの種のヒロイズムこそ、人類をして今日あらしめたと感ずるからだ。古いスケジュールのかなりの数はすでに実行したし、残っているものも、中には今ではとても真面目に考える気のしないものもあるが、多くは依然魅力を保っている。おそらく、自ら実行する可能性のある限り、これらは私の胸中に止まって、私を山へ駆りたてるであろう。ここに働くものを、人間の文化創造の本能と呼んではいけないだろうか。
 しかし、やることにいくら意義があると思っても、行く山が好きでなくては、結局われわれは行かないのである。と言うことは、山想う心が一次的には常に山そのものに対する愛着だということを意味する。この戦争で故人となったが、前穂北尾根又白側に輝かしい足跡をとどめたM高のY君が、かつていみじくも洩らした言葉――山男はロマンチストだ――は、この辺の事情を物語る一つの感懐であろうが、私はこれを人間性の最も素朴な要素である美への好尚に帰して考えたい。
 山の持つ美への渇仰――、山の美に憧れ、しかもそれの遠見に満足せず、もっと端的にその真っ只中へ飛び込んで一つに相解かれたいと願う心――、これこそ人間を駆って山へ向かわせる原動力だ。
 華麗、陰惨、明快、幽邃《ゆうすい》、重厚、深遠、平和、兇猛……、山の美は選ぶ人の心により各様である。或る人は富士を佳い山といい、或る人は穂高ほど素晴らしい山はないと言う。高尾山など頼まれても嫌だと言う人もあれば、そのふくよかな谷間をこよなく愛する人もある。しかし、それぞれ評価のすべてを貫いて流れるものは美への好尚であり、押しなべて山想う心である。
 とまれ、私は古いスケジュールを果たしていこう。が、山に行くには元手がいる。その最大のものは体力である。体力が衰えては思う山へも登れまい。私の古いノートに残る計画は、幸い大部分が年を取ってもやれるものであるが、中に若干のものは少々手強くて、私はこれをやれるのはせいぜい三十二、三歳ぐらいまでと思っている。なぜ三十二、三歳かと言っても返事に困るが、何となくそう思われてならないのである。それまでには後五年ある。が、以前の体力を取り戻して、さらにそれ以上を蓄積するためには、五年の歳月も短かすぎて愚図愚図していられない気持になる。
 日常の瑣煩事から解放された一とき、いつも思い出されるのはそのことであり、遠い山の姿である。



底本:「日本の名随筆10 山」作品社
   1983(昭和58)年6月25日第1刷発行
   1998(平成10)年8月10日第26刷発行
底本の親本:「風雪のビバーク」二見書房
   1971(昭和46)年1月発行
入力:門田裕志
校正:Juki
2003年12月13日作成
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