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支那の宦官
桑原隲藏

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)宛《あたか》も

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「鼻+りつとう」、第3水準1-14-65]

 [#…]:返り点
 (例)墨者使[#レ]守[#レ]門。
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         一

 最近の新聞紙の報道によると、支那の宣統〔前〕帝は、宮廷所屬の宦官の不埒を怒り、彼等を一律に放逐して、爾後永遠に使役せぬといふ諭旨を發布されたといふことである。その動機は論ぜず、その理由は問はず、事件そのものが、兔に角一大壯擧たるを失はぬと思ふ。
 宦官は必ずしも支那の專有物でない。古代の西アジア諸國、ついでギリシア、ローマにも宦官が使役された。マホメット教國では、一般に宦官を使用した。印度のムガール王家などは、幾千といふ多數の宦官を備へた。此等の宦官は何れも君側に侍するので、時に政治上に相當の權勢を振うたことも稀有でない。我が日本の如く、古來宦官の存在せぬ國は、寧ろ珍しい方である。朝鮮や安南なども、支那の風を傳へて宦官を置いた。獨り我が國は隋・唐以來、盛に支那の制度文物を採用したに拘らず、宦官の制度のみを輸入せなかつたのは、誠に結構なことと申さねばならぬ。嘗て「支那の宦官」といふ論文を發表した、英國のステント(Stent)は、東洋諸國にしかく普通である宦官の制度が、西洋方面に餘り流行せなかつたのは、全くキリスト教の御蔭であると、提燈を點けて居るが、我が國などは何等宗教の力を待たずに、よくこの蠻風に感染せなかつたので、一層誇負するに足ると思ふ。之に就いても私共は、我が國の當時の先覺者の思慮分別に、十分感謝せなければならぬ。
 かく宦官は諸國にも存在したが、支那は宦官の國として、最も世間に聞えて居る。宦官といへば、直に支那を聯想する程である。事實世界に於て、支那ほど宦官の重用された國がなく、支那ほど宦官の跋扈した國がなく、また支那ほど宦官に關する多量に且つ連續せる記録を有する國がない。
 支那の宦官が何時代からはじまつたかは、正確に知ることが出來ぬ。されど周時代には、已に宮刑が五刑の一に加へられて居り、宦官も存在して居つた。疑問の書物ではあるが、『周禮』にも、
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墨者使[#レ]守[#レ]門。※[#「鼻+りつとう」、第3水準1-14-65]者使[#レ]守[#レ]關。※[#「月+りつとう」、第4水準2-3-23]者使[#レ]守[#レ]囿。宮者使[#レ]守[#レ]内。
[#ここで字下げ終わり]
とあつて、罪人をそれぞれ宮廷に使役し、宮者は後宮に使役することになつて居る。學者の中には、周は西方から支那に移住して來た異人種の建てた國で、彼等は西方で行はれて居つた宦官の風を、始めて支那に輸入したと主張する人もある。併し支那人は頗る嫉妬心の強い國民である。『禮記』等を一讀すれば容易に了解さるる如く、彼等は古く男女の間に於ける疑を避くる爲に、吾人の想像以上に、神經過敏なる種々の禮儀や作法を設けて居る。かかる氣質の支那人の間に、男女間の嫌疑を避け、嫉妬心を慰安する方便として、中性の宦官を使役するに至るは、寧ろ當然の順序かも知れぬ。支那に於ける宦官の起源を、必ずしも西方の風習に關係せしめて説明するに及ばぬかと思ふ。
 宦官の起源は兔に角、春秋戰國時代となると、宦官は已に政治上で可なり勢力を占めて來た。齊の桓公の死後、齊を亂した豎※[#「刀」の「ノ」が横向き、第3水準1-14-58]の如き、晉の文公に信任された寺人の勃※[#「革+是」、第3水準1-93-79]の如き、その一例である。内豎といひ、寺人といひ、又奄人といふは、皆宦官のことである。有名な商鞅が秦に重用されたのも、宦官景監の手引により、藺相如が趙に出世したのも、宦官繆賢の推擧によるといふ。秦時代には遂に趙高の如き、權勢を專らにして弑逆をも行ふ宦官が出て來た。此等古代の宦官の事蹟は、ほぼ『後漢書』の宦者傳序に備つて居るから、茲に態※[#二の字点、1-2-22]紹介するを要せぬ。
 漢以後に出た重なる歴代の宦官の事蹟は、支那史乘に詳記されて居つて、これも一々紹介する必要がない。歴代の中でも、東漢・唐・明の三代が、宦官の尤も權力を振ふた時代で、この三代の中でも、唐が一番甚しい。唐の中世以後は、大臣の任免は勿論、天子の廢立すら宦官の意の儘であつた。當時宦官を指して定策國老と呼び、之に對して皇帝を門生天子と稱した。定策國老とは、試驗官に當る國家の元老といふ意味で、門生天子とは、その試驗官の檢定で、及落を決定せらるる受驗生の天子といふ意味である。天子廢立の全權が、宦官の掌裡に在ること、宛《あたか》も受驗生の及落が試驗官の自由に在ると同樣なることを申述べたものである。

         二

 宦官は天子の後宮に限つた譯でなく、周時代には諸侯、若くは諸侯以下の相當身分ある家の奧向にも、宦官を使役した。後世宋・明時代まで民間、殊に南支那の民間では、奴隷を割勢して、奧向に使役した事實がある。併し明以後殊に清朝では、民間に割勢者を蓄養することを嚴禁し、皇室及び皇室より特許された王公大臣の邸宅に於てのみ、宦官を使役した。
 宦官はもと宮刑に處せられた罪人を以て之を補充した。宮刑とは五刑の一で、淫刑とて主として不義者に加へる刑罰であるが、不義者以外の重い犯罪者にも宮刑を施した。殊に宦官の不足する場合には、死刑に處すべきものを、一等減刑して宮刑に處し、若くは謀反者の遺族を宮刑に處して、之を補充するのが普通であつた。又稀には自宮とか私白とか申して、無罪の者が自分で割勢して、宦官を志願する場合に、之を採用したこともある。
 隋時代以後宮刑が廢止となると、宦官の供給が種切れとなる。從つて隋唐以後の宦官は、志願者で補充するのが原則となつた。しかし必要の場合には、從前同樣に、死罪の者を輕減し、割勢して宦官に採用したこともある。また時には四川や嶺南の如き、邊裔の蠻民を捕獲して宦官とすることもある。唐の玄宗時代の有名な宦官の高力士の如き、廣東南邊の蠻僚出身である。明の英宗時代に、貴州方面の苗族を征伐して捕獲した、小童千五六百人を宦官とした事實もある。また元・明時代には、高麗・女眞・安南出身の宦官が、尠からず支那宮廷に奉仕して居つた。此等の宦官は何れもその本國から、支那の宮廷へ貢進したものと想はれる。現に朝鮮の記録を見ると、明の永樂元年(西暦一四〇三)に、朝鮮では明の皇帝の聖旨を奉じ、容姿閑雅、性質悧發な火者三十五名を選拔して、支那へ貢進し、その後も再三同樣の貢進をして居る。
 この火者とは、もと印度語《ヒンドスタニ》のコヂヤ(Khojah)を訛つたもので、印度の囘教徒は割勢者を指して、普通にコヂヤといふ。元時代から明時代にかけて、印度から割勢した奴隷を南支那に輸入した樣で、この奴隷の輸入と共に、コヂヤといふ印度語が南支那に傳はり、支那人はコヂヤに火者の字を充て、宦官を意味することとなつたものと解釋される。『明律』や『清律』に、閹割火者とあるが、こは單に火者と稱しても可なれど、外國語の音譯にて、意義不明なるを恐れ、かくは注解的に閹割の二字を添加したものであらう。元時代には蒙古の政府は高壓的に、高麗(朝鮮)から宮婢や宦官を貢進させて居る。故に元時代の宦官に、高麗出身が尠くない。元の順帝時代に、高麗出身の祁皇后と共に、尤も後宮に權勢を振うた宦官の朴不花の如きも、高麗出身であつた。故に隋・唐以後に於ける宦官の出身を檢すると、(一)志願者、(二)死罪輕減者、(三)蠻人の捕虜(外國産の奴隷)、(四)外國人の貢進と、大體四種に區別することが出來る。就中主要なものは勿論第一の志願者で、十の八九まではこの出身であつた。
 自分から進んで宦官を志願するなど、常識では考へられぬが、利慾に目のない支那人のこと故、將來の富貴出世を目當に、存外志願者が多い。兩親が行々宦官に仕立てる目的で、その子供を幼少の時に割勢するものが中々多數である。中年者が賦役を逃がれ富貴を夢みて、割勢する者も尠くない。〔割勢する際には、無論之が爲に生命を喪ふ場合もある。マホメット教國に於ける經驗によると、割勢者の約半數以上は死亡するといふ。故にマホメット教國では、割勢した奴隷の價格は、普通の奴隷より二倍若くば三倍高い。支那に於ける割勢者の死亡率は不明であるが、マホメット教國のそれほど高率でないらしい。それでも明時代に苗童を割勢した場合には、五分の一以上の死亡者を出したといふ。かかる危險を冒してまで、割勢して宦官を志願するのである。〕
 支那の宮廷には、多い時は一萬二三千人、少き時も三千人位の宦官が居る。その宦官の或る者は、罪科によつて免職されることもある。或る者は老衰して退隱するものもある。或る者は病氣に罹つて死亡するものもある。故に絶えず補缺を必要とする。明の天啓元年(西暦一六二一)に、宦官の補缺三千人を募集した時に、應募者の實數二萬餘人に達した。餘り志願者が多いから、政府は俄に豫定額に一千五百人を増して、すべて四千五百人の宦官を、一時に採用したといふ。眞に驚くべき事實でないか。併しこの事實は『皇明實録』にも記載されて居り、又當時支那に在留した、耶蘇宣教師の記録にも見えて居るから、殆ど疑ひを容れる餘地がない。
 支那の政治は孝道を第一に置く。從つて父母の遺體を傷け、子孫の蕃殖を絶つ如き行爲は、尤も嚴重に取締らねばならぬ。故に歴代の政府は、表面上自宮者を禁止して居る。明時代にも政府は可なり嚴重な制裁を設けて、民間の自宮者を禁止して居るが、それは看板若くば一時だけのこと、實際に於ては殆ど※[#「厂+萬」、第3水準1-14-84]行されなかつた。宮刑が廢せられ、宦官の存する以上、宦官の供給は、大體自宮者に待たねばならぬ筈故、自宮者の跡を絶つ譯がない。自宮者を禁止する政府自身が、その實自宮者にとつて第一の、もしくは唯一の需要者であることは、大なる皮肉と申さねばならぬ。清朝では明時代に比して、概して自宮者の取締規則を嚴重にし、また宦官補充の人數も僅少であつたから、明末の如き自宮者の濫出はなかつたらしい。

         三

 政府で宦官を採用するには、第一に身體試驗を行ふ。應募者が完全に割勢されて居るや否やを審査する。次にその年齡・容姿・性質・擧動・言語・音聲等を檢査する。年齡の若く容姿秀で、擧動閑雅、言語明晰、美聲で悧發な者が選に入る譯である。
 入選者はその伎倆に應じて、相當の職業に從ふ。或る者は内外の取次に從事する。或る者は小間使となる。或る者は司法官となつて、仲間の者の非行を懲戒する。或る者は僧侶となつて、後宮の佛事を行ひ、又は女官達に慰安を與へる。或る者は音樂家となり、或る者は俳優となる。内廷に戲園(舞臺)があつて、ここに時々演藝が試みられるが、その出演者は皆宦官に限る。或る者は料理人に、或る者は理髮者に、或る者は苑丁となる。降つては洗濯人・水汲人・掃除夫となるものもある。その他夜警に當る者、護衞に當る者もある。内廷一切の雜務は、宦官で處理するのである。彼等を取締る首領として、總管や副總管を置く。
 割勢者は首尾よく宦官に採用されて、入内の素懷を達し得るのは一小部分で、その大部分は不合格者として、郷里に蟄居せなければならぬ。彼等の餘生ほど悲慘なものはなからう。明・清時代の宦官の本場は、直隷省殊に河間地方である。皇室直屬の宦官は、殆ど直隷出身に限る。明末に權勢を專らにした魏忠賢、清末に勢力を振うた李蓮英ら、皆河間出身の宦官であつた。明末の『野獲編』を見ると、當時河間地方には、入内に失敗せる幾多の自宮者が、自暴自棄の餘り、團結して往來の人馬に對して劫略を行ふ。故にこの方面の旅客車馬の遭難するもの夥しいが、實情を知悉せる官憲は、彼等の境遇を斟酌して、其狼藉に放任したといふ。

         四

 歴代朝政之失、半由[#二]官寺[#一]と支那人が評した通り、宦官は支那歴代の禍源をなした。東漢の袁紹や唐の朱全忠は、宦官を殲して、その勢力を殺いだこともあるが、久しからずして彼等は復活して、依然國權を弄した。明の太祖は歴代の成敗に鑑みて、宦官の處置に意を用ゐ、その數も百人以下に止め、禄を輕くし位を低くし、内臣の政事に干渉する者は斬罪に處すべしといふ、嚴しい掟を鐵板に刻り付けたる、所謂十字の鐵牌を官門に樹てたが、その鐵牌の未だ銹を生ぜざる間に、宦官の員數も勢力も驚くべく増加して、明の天下は半ばは宦官に滅ぶ結果に至つた。
 滿洲から起つた清朝は、宦官の處置に就いて、一層周到なる注意を拂ひ、嚴重なる防禁を設けたのみならず、その諸天子もよく綱紀を緊縮したから、宦官の弊害が歴代の中で尤も尠かつた。それでも同治以後、西太后の時代となると、次第に宦官が政治舞臺に現れて來る。最初西太后の信任を得た宦官を安得海といふ。彼は同治八年(西暦一八六九)に、年二十七歳の頃に、西太后の密旨を受けて、山東地方へ出掛けたが、宦官の皇城外へ出るのは法規違反であるから、山東巡撫の丁寶※[#「木+貞」、第3水準1-85-88]に拘抑せられ、遂に殺戮に遭つた。此事件の際に、東太后や恭親王が、丁寶※[#「木+貞」、第3水準1-85-88]を指嗾して、強硬手段を執らしめたといふので、西太后と東太后との間柄が圓滑を缺き、また西太后と恭親王との間柄が、一層不和となつたと傳へられて居る。安得海の後を承けたのが、彼の有名なる李蓮英である。彼は同知の末頃から光緒年代にかけて、約四十年間西太后の信任を受け、大なる勢力を振うた。彼に關する種々芳しからざる噂が、支那人や歐米人の著書に傳へられて居るが、茲には紹介すまい。李蓮英は明治四十四年に、丁度西太后の崩後二年半ばかりで、六十九歳を以て世を辭した。彼は支那に於ける最後の歴史的宦官である。

         五

 宦官は割勢して居るから、勿論情事の關係ない筈である。併し割勢手術の不完全なる故か、又は他の理由によるか、古來の歴史を見ると、宦官宣淫の事實が尠くない。後魏の孝文帝の皇后馮氏は、宦官の高菩薩と密通した。唐の高力士は帶妻せし上に、他の貴婦人とも通じたと傳へられて居る。中世の宦官に、妻妾を有せし者が多い。殊に明時代を甚しとする。明代の有力な宦官は、帶妻を普通とした。宦官として遊郭に出入し、若くは宦官同志の間に、婦人を爭奪するなど、醜穢なる事實が、明代の記録に疊見して居る。
 併し宦官の情事は變態である。彼等は色情を制限されて居る結果、利慾心が一倍強い。從つて勢力ある宦官の納賄得利の程度は、吾人の想像以上である。常に君側に左右して、傳達を掌どる彼等は、その一言一行によつて、他人に大なる影響を與へることが出來る。嘗て或る大官が、皇室へ見事なる品物を獻上した時、宦官への心附け十分でなかつた爲、彼等は故意にこの獻上品に毀損を加へ、是に由つてその大官は主君の御不興を蒙つたといふ。〔又嘗て太后や皇帝が地方巡幸の際、その地方の長官の心附け不足に不滿を懷いた宦官達は、長官の調進した心盡くしの料理に、中間で勝手に多量の鹽を加へて、その長官を失敗せしめた實例もある。〕兔に角宦官の歡心を買うて、位置の安全を圖るのが、支那官場の常態となつて居る。殊に天子が宴樂に耽る場合や、太后が垂廉の政を行ふ場合には、宦官に對する心附けの必要なること申す迄もない。宦官が發財致富の根源はここに在る。明の宦官王振の家産を沒收した時、金庫銀庫併せて六十餘棟に及び、珊瑚樹の高さ六七尺のもののみにても、二十餘株あつたといふ。同じく劉瑾の家産を沒收した時は、黄金二百五十萬兩、銀五千萬兩、他物之に副ふといふ有樣であつた。清の李蓮英も隨分蓄財して、その額五千萬圓に達すると噂されたが、義和團の亂に、北京を後に西安へ出奔した際、已むを得ず莫大なる金銀を土中に埋沒して置いた。この埋藏金銀は不幸にして、蛙にも化けずにその儘、北京占領の外國軍隊に發見沒收された。明治三十五年の春、彼は西太后・光緒帝と共に、西安より北京に歸ると、この埋合せに盛に收賄して、爾後七年間に約二千五百萬圓の蓄財をしたと傳へられて居る。宦官の弊竇は實にここに在る。

         六

 多數の宦官の中には、勿論忠義の人、正直の人もないではない。中には東漢の蔡倫の如き、始めて紙を發明して、世界の文化に大なる貢獻をなした宦官もある。又明の鄭和の如き、遠くアフリカの東海岸近くまで航行して、國威を輝かした宦官もある。併し此の如き宦官は、曉天の星と一般、誠に寥々として、明の太祖のいはゆる千百中不[#二]一二見[#一]もので、彼等の大多數は、もともと權勢利慾を目的に入内したのであるから、その國家を蠧毒すべきは、冒頭より豫期せなければならぬ。
 所が不思議なことは、支那の政治家や經學者などに、殆どこの秕政の根源たる宦官の廢止を主張した人がない。尚古思想の強い支那人は、『書經』や『詩經』に宦官を是認してあるといふ理由で、又嫉妬心の強い彼等は、婦女監視には中性の宦官が必要であるといふ理由で、宦官の弊害を知りつつ、矢張りその保存を主張する。『資治通鑑』の作者たる司馬光の如き達識家でも、宦官は全廢すべからず、但しその位置を低下し、その取締を嚴重にすべしといふに過ぎぬ。『大學衍義補』の著者丘濬の如き、『明夷待訪録』の著者黄宗義の如き、政治評論を以て聞えた學者でも、宦官に對する意見は、格別司馬光のそれと相違する所がない。如何に位置を低下しても、取締を嚴重にしても、宦官の存する以上、長い年月の間に、必ず弊害を生ずることは、明・清の實例に由つて明白でないか。宦官を全然撤廢して、源を塞ぎ本を拔かねば到底無效である。支那人の間に、宦官全廢論の起つたのは、恐らく二十餘年前に、孫詒讓等の創唱以來のことであらう。その孫詒讓の論據は、世界の列強は宦官を置かず、宦官を存するのは、トルコの如き弱國に限るといふにあつたと記憶する。兔に角その當時餘り有力でなかつた宦官全廢論が、今日に至つて始めてその現實を見得た譯で、民國成立後宦官は無勢力で、その存廢は政治上格別の影響なしとしても、兔に角かかる野蠻な制度の撤廢されただけでも、支那の爲に祝福すべきことと思ふ。
[#地から3字上げ](大正十二年八月三―五・七日『大阪毎日新聞』所載)



底本:「桑原隲藏全集 第一卷 東洋史説苑」岩波書店
   1968(昭和43)年2月13日発行
底本の親本:「東洋史説苑」
   1927(昭和2)年5月10日発行
入力:はまなかひとし
校正:菅野朋子
2002年2月26日公開
2004年2月21日修正
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