青空文庫アーカイブ

石清虚
國木田獨歩

-------------------------------------------------------
【テキスト中に現れる記号について】

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#「ママ」の注記300-13]

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)こう/\
-------------------------------------------------------

 雲飛といふ人は盆石を非常に愛翫した奇人で、人々から石狂者と言はれて居たが、人が何と言はうと一切頓着せず、珍しい石の捜索にのみ日を送つて居た。
 或日近所の川に漁に出かけて彼處の淵此所の瀬と網を投つて廻はるうち、ふと網に掛つたものがある、引いて見たが容易に上らないので川に入つて探り試みると一抱もありさうな石である。例の奇癖は斯いふ場合にも直ぐ現はれ、若しや珍石ではあるまいかと、抱きかゝへて陸に上げて見ると、果して! 四面玲瓏、峯秀で溪幽に、亦と類なき奇石であつたので、雲飛先生涙の出るほど嬉しがり、早速家に持ち歸つて、紫檀の臺を造え之を安置した。
 靈なる哉この石、天の雨降んとするや、白雲油然として孔々より湧出で溪を越え峯を摩する其趣は、恰度窓に倚つて遥かに自然の大景を眺むると少も異らないのである。
 權勢家某といふが居て此靈妙を傳へ聞き、一見を求に來た、雲飛は大得意でこれを座に通して石を見せると、某も大に感服して眺て居たが急に僕に命じて石を擔がせ、馬に策つて難有うとも何とも言はず去つてしまつた。雲飛は足ずりして口惜がつたが如何することも出來ない。
 さて某は僕を從へ我家をさして歸る途すがら曩に雲飛が石を拾つた川と同流に懸つて居る橋まで來ると、僕は少し肩を休める積りで石を欄干にもたせて吻と一息、思はず手が滑つて石は水煙を立て河底に沈んで了つた。
 言ふまでもなく馬を打つ策は僕の頭上に霰の如く落ちて來た。早速金で傭はれた其邊の舟子共幾人は魚の如く水底を潛つて手に觸れる石といふ石は悉く岸に拾ひ上られた。見る間に何十個といふヘボ石の行列が出來た。けれども靈妙なる石は遂に影をも見せないので流石の權勢家も一先捜索を中止し、懸賞といふことにして家に歸つた。懸賞百兩と聞て其日から河にどぶん/\飛込む者が日に幾十人さながらの水泳場を現出したが何人も百兩にあり着くものは無つた。
 雲飛は石を奪はれて落膽し、其後は家に閉籠つて外出しなかつたが、石が河に落て行衞不明になつたことを傳へ聞き、或朝早く家を出で石の落ちた跡を弔ふべく橋上に立て下を見ると、河水清徹、例の石がちやんと目の下に横はつて居たので其まゝ飛び込み、石を懷て濡鼠のやうになつて逃るが如く家に歸つて來た。最早〆たものと、今度は客間に石を置かず、居間の床に安置して何人にも祕して、只だ獨り樂んで居た。
 すると一日一人の老叟が何所からともなく訪ねて來て祕藏の石を見せて呉れろといふ、イヤその石は最早他人に奪られて了つて久しい以前から無いと謝絶つた。老叟は笑つて客間にちやんと据えてあるではないかといふので、それでは客間に來て御覽なさい決して有りはしないからと案内して内に入つて見ると、こは如何に、居間に隠して置いた石が何時の間にか客間の床に据てあつた。雲飛は驚愕して文句が出ない。
 老叟は靜かに石を撫でゝ、『我家の石が久く行方知ずに居たが先づ/\此處にあつたので安堵しました、それでは戴いて歸ることに致しましよう。』
 雲飛は驚いて『飛んだことを言はるゝ、これは拙者永年祕藏して居るので、生命にかけて大事にして居るのです』
 老叟は笑つて『さう言はるゝには何か證據でも有のかね、貴君の物といふ歴とした證據が有るなら承はり度いものですなア』
 雲飛は返事に困つて居ると老叟の曰く『拙者は故から此石とは馴染なので、この石の事なら詳細く知て居るのじや、抑も此石には九十二の竅がある、其中の巨な孔の中には五の堂宇がある、貴君は之れを知つて居らるゝか』
 言はれて雲飛は仔細に孔中を見ると果して小さな堂宇があつて、粟粒ほどの大さで、一寸見た位では決して氣が附ぬほどのものである、又た孔竅の數を計算するとこれ亦九十二ある。そこで内心非常に驚いたけれど尚も石を老叟に渡すことは惜いので色々と言ひ爭ふた。
 老叟は笑つて『先づ左樣言はるゝならそれでもよし、イザお暇を仕ましよう、大にお邪魔で御座つた』と客間を出たので雲飛も喜び門まで送り出て、内に還つて見ると石が無い。こいつ彼の老爺が盗んだと急に追かけて行くと老人悠々として歩いて居るので直ぐ追着くことが出來た。其袂を捉へて『餘りじやアありませんか、何卒返却して戴きたいもんです』と泣聲になつて訴へた。
『これは異なことを言はるゝものじや、あんな大な石が如何して袂へ入る筈がない』と老人に言はれて見ると、袖は輕く風に飄へり、手には一本の長い杖を持ばかり、小石一つ持て居ないのである。ここに於て雲飛は初て此老叟決て唯物でないと氣が着き、無理やりに曳張て家へ連れ歸り、跪いて石を求めた。
 乃で叟の言ふには『如何です、石は矢張り貴君の物かね、それとも拙者のものかね。』
『イヤ全たく貴君の物で御座ます、けれども何卒か枉て私に賜りたう御座ます』
『それで事は解つた、室を見なさい、石は在るから。』
 言はれて内室に入つて見ると成程石は何時の間にか紫檀の臺に還つて居たので益々畏敬の念を高め、恭しく老叟を仰ぎ見ると、老叟『天下の寶といふものは總てこれを愛惜するものに與へるのが當然じや、此石も自ら能く其主人を選んだので拙者も喜しく思ふ、然し此石の出やうが少し早すぎる、出やうが早いと魔劫が未だ除れないから何時かはこれを持て居るものに禍するものじや、一先拙者が持歸つて三年經て後貴君に差上げることに仕たいものぢや、それとも今これを此處に留め置ば貴君の三年の壽命を縮るが可か、それでも今直ぐに欲う御座るかな。』
 雲飛は三年の壽命位は何でもないと答へたので老叟、二本の指で一の竅に觸たと思ふと石は恰も泥のやうになり、手に隨つて閉ぢ、遂に三個の竅を閉いで了つて、さて言ふには、『これで可し、殘の竅の數が貴君の壽命だ、最早これでお暇と致さう』と飄然老叟は立去て了つた。留めて留まらず、姓名を聞ても言ずに。
 其後石は安然[#「ママ」の注記300-13]に雲飛の内室に祕藏されて其清秀の態を變ず、靈妙の氣を失はずして幾年か過た。
 或年雲飛用事ありて外出したひまに、小偸人が入つて石を竊んで了つた。雲飛は所謂る掌中の珠を奪はれ殆ど死なうとまでした、諸所に人を出して捜さしたが踪跡が全で知ない、其中二三年經ち或日途中でふと盆石を賣て居る者に出遇た。近いて視ると例の石を持て居るので大に驚き其男を曳ずつて役場に出て盗難の次第を訴へた。竅の數と孔中の堂宇の二證據で、石は雲飛のものといふに定り、石賣は或人より二十兩出して買た品といふことも判然して無罪となり、兎も角も石は首尾よく雲飛の手に還つた。
 今度は石を錦に裹んで藏に納め容易には外に出さず、時々出して賞で樂む時は先づ香を燒て室を清める程にして居た。ところが權官に某といふ無法者が居て、雲飛の石のことを聞き、是非に百兩で買ひたいものだと申込んだ。何がさて萬金尚ほ易じと愛惜して居る石のことゆゑ、雲飛は一言のもとに之を謝絶して了つた。某は心中深く立腹して、他の事にかこつけて雲飛を中傷し遂に捕へて獄に投じたそして人を以て竊に雲飛の妻に、實は石が慾いばかりといふ内意を傳へさした。雲飛の妻は早速子と相談し石を某權官に獻じたところ、雲飛は間もなく獄を出された。
 獄から歸つて見ると石がない、雲飛は妻を罵り子を毆ち、怒に怒り、狂ひに狂ひ、遂に自殺しようとして何度も妻子に發見されては自殺することも出來ず、懊惱煩悶して居ると、一夜、夢に一個の風采堂々たる丈夫が現れて、自分は石清虚といふものである、決して心配なさるな、君と別れて居るのは一年許のことで、明年八月二日、朝早く海岱門に詣で見給へ、二十錢の代價で再び君の傍に還て來ること受合だと言ふ。其言葉の一々を雲飛は心に銘し、やゝ氣を取直して時節の來るのを待て居た。
 そこで彼の權官は首尾よく天下の名石を奪ひ得てこれを案頭に置て日々眺めて居たけれども、噂に聞きし靈妙の働は少しも見せず、雲の湧などいふ不思議を示さないので、何時しか石のことは打忘れ、室の片隅に放擲して置いた。
 其翌年になり權官は或罪を以て職を剥れて了い、尋で死亡したので、僕が竊かに石を偸み出して賣りに出たのが恰も八月二日の朝であつた。
 此日雲飛は待ちに待つた日が來たので夜の明方に海岱門に詣で見ると、果して一人の怪しげな男が名石を擔いで路傍に立て居るのを見た。代を聞くと果して二十錢だといふ、喜んで買ひ取り、石は又もや雲飛の手に還つた。
 其後雲飛は壮健にして八十九歳に達した。我が死期來れりと自分で葬儀の仕度などを整へ又た子に遺言して石を棺に収むることを命じた。果して間もなく死んだので子は遺言通り石を墓中に収めて葬つた。
 半年ばかり經と何者とも知れず、墓を發いて石を盗み去たものがある。子は手掛がないので追ふことも出來ず其まゝにして二三日經た。一日僕を從へて往來を歩いて居ると忽ち向から二人の男、額から汗を水の如く流し、空中に飛び上り飛び上りして走りながら、大聲で『雲飛先生、雲飛先生! さう追駈て下いますな、僅か四兩の金で石を賣りたいばかりに仕たことですから』と、恰も空中人あるごとくに叫び來るのに出遇つた。
 矢庭に引捕へて官に訴へると二の句もなく伏罪したので、石の在所も判明した。官吏は直ぐ石を取寄せて一見すると、これ亦た忽ち慾心を起し、これは官に没収するぞと嚴かに言ひ渡した。其處で廷丁は石を庫に入んものと抱き上て二三歩歩くや手は滑つて石は地に墮ち、碎けて數十片になつて了つた。
 雲飛の子は許可を得て其片々を一々拾つて家に持歸り、再び亡父の墓に収めたといふことである。



底本:「國木田獨歩全集 第4巻」学習研究社
   1946(昭和41)年2月10日發行
入力:小林徹
校正:しず
1999年6月22日公開
2002年1月14日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。



前のページに戻る 青空文庫アーカイブ