青空文庫アーカイブ

党生活者
小林多喜二

------------------------------------------------------------------------------------
●表記について
本文中、二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)は「/\」で表した。また、濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」で表した。
●テキスト版独自の表記について
本文中、漢字の熟語が連続し、後半部にのみルビがつけられる場合には、「仲々・愛嬌《あいきょう》」のように「・」で区切りを示した。
------------------------------------------------------------------------------------




 洗面所で手を洗っていると、丁度窓の下を第二工場の連中が帰りかけたとみえて、ゾロ/\と板草履《ぞうり》や靴バキの音と一緒に声高な話声が続いていた。
「まだか?」
 その時、後に須山が来ていて、言葉をかけた。彼は第二工場だった。私は石鹸《せっけん》だらけになった顔で振りかえって、心持・眉《まゆ》をしかめた。――それは、前々から須山との約束で、工場から一緒に帰ることはお互避けていたからである。そんな事をすれば、他の人の眼につくし、万一のことがあった時には一人だけの犠牲では済まないからであった。ところが、須山は時々その約束を破った。そして、「やアあまり怒るなよ」そんなことを云って、人なつこく笑った。須山はどっちかと云えば調子の軽い、仲々・愛嬌《あいきょう》のある、憎めないたちの男だったので、私はその度に苦笑した。が、今は時期が時期だし、私は強《き》つい顔を見せたのである。それに今日これから新しいメンバーを誘って何処《どこ》かの「しるこ屋」に寄る予定にもなっていた……。が、フト見ると、ひょウきんな何時《いつ》もの須山の顔ではない。私はその時私たちのような仕事をしているものゝみが持っているあの「予感」を突嗟《とっさ》に感じて、――「あ直《す》ぐだ」と云って、ザブ/\と顔を洗った。
 相手にそれと分ったと思うと須山は急に調子を変えて、「キリンでゞも一杯やるか」と後から云った。が、それには一応・何時《いつ》もの須山らしい調子があるようで、しかし如何《いか》にも取ってつけた只《ただ》ならぬさがあった。それが直接《じか》に分った。
 外へ出ると、さすがに須山は私より五六間先きを歩いた。工場から電車路に出るところは、片方が省線の堤で他方が商店の屋並に狭《せば》められて、細い道だった。その二本目の電柱に、背広が立って、こっちを見ていた。見ているような見ていないようなイヤな見方だ。私は直《す》ぐ後から来る五六人と肩をならべて話しながら、左の眼の隅《すみ》に背広を置いて、油断をしなかった。背広はどっちかと云えば、毎日のおきまり仕事にうんざりして、どうでもいいような物ぐさな態度だった。彼等はこの頃では毎日、工場の出《で》と退《ひ》けに張り込んでいた。須山はこの直ぐ横を如何にも背広を小馬鹿にしたように、外開《そとびら》きの足をツン、ツンと延ばして歩いてゆく。それがこっちから見ていると分るので、可笑《おか》しかった。
 電車路の雑沓に出てから、私は須山に追いついた。彼は鼻をこすりながら、何気ない風に四囲《まわり》を見廻わし、それから、
「どうもおかしいんだ……」
と云う。
 私は須山の口元を見た。
「上田がヒゲ[#「ヒゲ」に傍点]と切れたんだ……!」
「何時《いつ》だ?」
 私が云った。
「昨日。」
 ヒゲ[#「ヒゲ」に傍点]は「予備線」など取って置く必要のない男だとは分っていたが、
「予備はあったのか?」と訊《き》いた。
「取っていたそうだ。」
 彼の話によると、昨日の連絡は殊《こと》の外重要な用事があり、それは一日遅れるかどうかで大変な手違いとなるので、S川とM町とA橋この三つの電車停留所の間の街頭を使い、それもその前日二人で同じ場所を歩いて「此処《ここ》から此処まで」と決め、めずらしいことにはヒゲは更に「万一のことがあったら困る」というので、通りがかりに自分から[#「自分から」に傍点]安全そうな喫茶店を決め、街頭で会えなかったら二十分後に其処《そこ》にしようと云い、しかも別れる時お互の時計を合わせたそうである。「ヒゲ[#「ヒゲ」に傍点]」そう呼ばれているこの同志は私達の一番上のポストにいる重要なキャップだった。今・迄《まで》ほゞ千回の連絡をとったうち、(それが全部街頭ばかりだったが)自分から遅れたのはたった二回という同志だった。我々のような仕事をしている以上それは当然のことではあるが、そういう男はそんなにザラには居なかった。しかもその二回というのが、一度は両方に思い違いがあったからで、時間はやっぱり正確に出掛けて行っているのである。モウ一度はその日の午後になってから時計に故障があったことを知らなかったからであった。他のものならば一度位来ないとしても、それ程ではなかったが、ヒゲ[#「ヒゲ」に傍点]が来ない、予備にまで来ないという事は私達には全《まっ》たく信ぜられなかった。
「今日はどうなんだ?」
「ウン、昨日と同じ処《ところ》を繰りかえすことになってるんだって。」
「何時だ。」
「七時――それに喫茶店が七時二十分。で俺はとにかくその様子が心配だから、八時半に上田と会うことにして置いた。」
 私は今晩の自分の時間を数えてみて、
「じゃ、オレと九時会ってくれ。」
 私達はそこで場所を決めて別れた。別れ際に須山は「ヒゲ[#「ヒゲ」に傍点]がやられたら、俺も自首[#「自首」に傍点]して出るよ!」と云った。それは勿論《もちろん》冗談だったが、妙に実感があった。私は「馬鹿」と云った。が彼のそう云った気持ちは自分にもヨク分った。――ヒゲ[#「ヒゲ」に傍点]はそれほど私達の仲間では信頼され、力とされていたのである。私達にとっては謂《い》わば燈台みたいな奴だと云っても、それは少しも大げさな云い方ではなかった。事実ヒゲ[#「ヒゲ」に傍点]がいなくなったとすれば、第一次の日からして私達は仕事をドウやって行けばいゝか全く心細かった。勿論《もちろん》そうなればなったで、やって行けるものではあるが。――私は歩きながら、彼が捕《つか》まらないでいてくれゝばいゝと心から思った。

 私は途中小さいお菓子屋に寄って、森永のキャラメルを一つ買った。それを持ってやってくると、下宿の男の子供は、近所の子供たちと一緒に自働式のお菓子の出る機械の前に立っていた。一銭を入れて、ハンドルを押すとベース・ボールの塁に球が飛んでゆく。球の入る塁によって、下の穴から出てくるお菓子がちがった。最近こんな機械が流行《はや》り出し、街のどの機械の前にも沢山子供が群がっていた。どの子供も眼を据《す》え、口を懸命に歪《ゆが》めて、ハンドルを押している。一銭で一銭以上のものが手に入るかも知れないのだ。
 私はポケットをジャラ/\させて、一銭銅貨を二枚下宿の子供にやった。子供は始めはちょっと手を引ッ込めたが、急に顔一杯の喜びをあらわした。察するところ、下宿の子は今迄《いままで》他の子供がやるのを後から見てばかりいたらしかった。私はさっき買ってきたキャラメルも子供のポケットにねじこんで帰ってきた。
 私は八時までに、今日工場で起ったことを原稿にして、明日撒《ま》くビラに使うために間に合わせなければならなかった。それを八時に会うSに渡すことになっている。私は押し入れの中から色々な文書の入っているトランクを持ち出して、鍵《かぎ》を外した。――「倉田工業」は二百人ばかりの金属工場だったが、戦争が始まってから六百人もの臨時工を募集した。私や須山や伊藤(女の同志)などはその時他人《ひと》の履歴書を持って入り込んだのである。二百人の本《ほん》工のところへ六百人もの臨時工を取る位だから、どんなに仕事が殺到していたか分る。倉田工業は戦争が始まってからは、今迄の電線を作るのをやめて、毒瓦斯《ガス》のマスクとパラシュートと飛行船の側《がわ》を作り始めた。が最近その仕事が一段落をつげたので、六百人の臨時工のうち四百人ほどが首になるらしかった。それで此頃の工場では、話がそのことで持ち切っていた。皆が「首になる」「首になる」と云うと、会社では「臨時工に首なんかモト/\ある筈《はず》がない。かえって最初の約束よりは半月以上も長く使ってやっているじゃないか」と云った。事実約束よりも半月以上も長く働きは働いたが、切《せ》ッぱつまった仕事ばかりなのでその間《かん》の仕事はとても無理なのだ。女工などは朝の八時から夜の九時まで打《ぶ》ッ通し夜業をして一円〇八銭にしかならなかった。夜の六時から九時までは一時間八銭で、しかも晩飯を食う二十分から三十分までの時間を、会社は夜業の賃銀から二銭・或《ある》いは三銭(わざ/\計算をして)差引いてさえいた。――飯を食っていたとき、私は云った「すると、会社は職工というものが飯を食わないで働かせることの出来るものだッて風に考えているんだネ。」一緒に働いていた臨時工の一人が「あゝ、そうだ……」と云った。その「あゝ、そうだ」がよく出来ている[#「よく出来ている」に傍点]というので、皆は笑った。会社は毎日の賃銀の支払に、四百人近くいる女工に一々その端数の八銭を、五銭一枚に一銭銅貨を三枚ずつつけて払った。それは大変な手間だったのだ。六時に退けても、そのために七時にさえなった。「糞《くそ》いま/\しい! 八銭を十銭にしたら、どの位手間が省けるか知れねえんだ。何んならこッちから負《ま》けて、八銭を五銭にしてやらア。」皆は列のなかでジレ/\して騒いだ。「金持の根性ッて、俺達に想像も出来ねえ位執念深いものらしい!」
 ところが、臨時工の首切りの時に会社が一人宛《あて》十円ずつ出すという噂《うわ》さが立っていた。臨時工だから別に一銭も出さなくてもいゝ約束だが、皆がよく働いてくれたからというのが其《そ》の理由らしかった。それがどの程度の確実さがあるかどうか、とにかく皆は此処《ここ》をやめると、又暫《しば》らくの間仕事に有りつけないので知らずにその事を当てにしていた。だが、晩飯の時間を賃銀から二銭三銭と差引いたり、何百人の人間を平気で一時間以上も待たして、一銭玉を三つずつ並らべる会社が、何んで六百人もの人間に十円《大枚十円!》を出すものか。十円を出すという噂《うわ》さを立てさせているのには、明らかに会社側の策略がひそんでいるのだ。そんな噂さを立てさせて、首切りの前の職工の動揺を防いで、土俵際でまンまとして[#「して」に傍点]やろうという手なのだ。
 それが今日工場で可なり話題になったので、私は明日工場に入れるビラにこの間《かん》の事情を書くことにした。一昨日入ったビラに、その前の日皆がガヤ/\話し合った、賃銀を渡す時間を早くして貰《もら》おうというようなことがちァんと出ていたために(事はそんな些少《さしょう》なことだったが)、皆の間に大きな評判を捲《ま》き起したのである。私は机の前に大きな安坐《あぐら》をかいた。
 暫《しば》らくすると、下のおばさんが階段を上がってきた。「さっきは子供にどうも!」と云って、何時になくニコ/\しながらお礼をのべて下りて行った。私たちのような仕事をしているものは、何んでもないことにも「世の人並のこと」に気を配らなければならなかった。下宿の人に、上の人はどうも変な人だとか、何をしている人だろうか、など思われることは何よりも避けなければならない事だった。今獄中で闘争している同志Hは料理屋、喫茶店、床屋、お湯屋などに写真を廻わされるような、私達とは比べものにならない追及のさ[#「さ」に傍点]中を活動するために、或《あ》る時は下宿の人を帝劇に連れて行ってやったりしている。それと同時に私達は又「世の人並に」意味のない世話話をしたり、お愛そ[#「そ」に傍点]を云うことが出来なければならない。が、そういうことになると私はこの上もなく下手なので随分弱った。この頃では幾分慣れては来ているが……。
 私は「やア、何アに、少しですよ。」と、おばさんに云って、云ってしまってから赤くなっていた。どうも駄目だ。

 原稿用紙で精々二枚か二枚半の分量のものだったが、昼の仕事をやって来てから書くのでは、楽な仕事ではなかった。十円の手当のバク露のことをようやく書き終ると、もう七時を過ぎていた。私はその間何べんも手拭《てぬぐい》でゴシ/\顔中をこすった。原稿の仕事をやると、汗をかくのだ。書き終えた原稿を封筒に入れ、表を出鱈目《でたらめ》な女名前にして、ラヴ・レターに仕立て、七時四十分に家を出た。「散歩してきます」と云うと、何時《いつ》も黙っているおばさんが、「行っていらっしゃい」と、こっちを向いて云った。効《き》きめはあらたかだ。私は暗がりに出ながら苦笑した。前に、何時《いつ》ものように家を出ようとした時、「あんたはヨク出る人ですねえ」と、おばさんが云ったことがある。私はギョッとした、事実毎晩出ていたので、疑えば疑えるのである。私は突嗟《とっさ》にドギついて、それでも「何んしろ、その……」と笑いながら云いかけると「まだ若いからでしょう?」と、おばさんは終《しま》いをとって、笑った。私はそれで、おばさんはあの[#「あの」に傍点]意味で云ったのではないことが分って安心した。
 八時に会う場所は表の電車路を一つ裏道に入った町工場の沢山並んでいるところだった。それで路には商店の人たちや髪の前だけを延ばした職工が多かった。私は自分の出掛けて行く処によって、出来るだけ服装をそこに適応するように心掛けた。充分なことは出来なかったが、それは可なり大切なことなのだ。私達はいずれにしろ、不審・尋問《じんもん》を避けるためにキチンとした身装《みなり》をしていなければならなかったが、然《しか》し今のような場所で、八時というような時間に、洋服を着てステッキでもついて歩くことはかえって眼について悪かった。で、私は小ざッぱりした着物に無雑作《むぞうさ》に帯をしめ、帽子もかぶらずに出たのである。
 真直ぐの道の向うを、右肩を振る癖のあるSのやってくるのが見えた。彼は私を認めると、一寸ショー・ウインドーに寄って、それから何気ないように小路を曲がって行った。私はその後を同じように曲がり、それからモウ一つ折れた通りで肩を並らべて歩き出した。
 Sは私から一昨日入ったビラの工場内での模様を聞いた。色んな点を訊いてから、
「問題の取り上げは、何時《いつ》でも工場で話題になっていることから出発しているのは良いは良いが、――それらの一歩進んだ政治的[#「政治的」に傍点]な取り上げという点では欠けている。」
と云った。
 私はびっくりして、Sの顔を見た。成る程と思った。私はビラの評判の良さに喜んで、それを今度は一段と高いところから見ることを忘れていたのだ。
「だから、つまりみんなの自然発生的な気持に我々までが随《つ》いて歩いてるわけだ。日常の不満から帝国主義戦争の本質をハッキリさせるためには、特別の、計画的な、それになかなか専門的な努力が要るんだ――そいつを分らせることが必要なわけだ……。」
 ビラは今迄に沢山出されてきた公式的な抽象的な戦争反対のビラの持っている欠点を埋めようとして、今度は逆に問題を経済的な要求の限度にとゞめてしまう誤りを犯していると云った。得てそういう右翼的偏向は、大衆追随をしているので一応評判が良いものだ。従って「評判が良い」という事も、矢張り慎重に考察してみる必要がある、私達は歩きながら、そういう事について話した。
「気をつけるというので、今度は木と竹を継いだようになったら何んにもならない。逆戻りだ! 今迄僕等は眼隠しされた馬みたいに、もの[#「もの」に傍点]事の片面、片面しか見て来なかったんだ。」
 私たちはしばらく歩いてから、喫茶店に入った。
「ラヴ・レターをあげるよ。」
 私はそう云って原稿をテーブルの下の棚に置いた。――Sはクン、クンと鼻歌をうたいながら、ウェーターを注意しいしい、それをポケットへねじ込んだ。彼は、そして、
「君の方からヒゲ[#「ヒゲ」に傍点](と云って、鼻の下を抑えて見せて、)につか[#「つか」に傍点]ないかな?」と訊《き》いた。
 私は工場の帰り須山から聞いたことを話した。Sはワザと鼻歌をクンクンさせながら、しかし眼に注意を集めて聞いていた。それが癖だった。
「僕の方も昨日六時にあったが切れたんだ。」
 私はそれを聞くと、胸騒ぎがした。
「やられたんだろうか……?」
と私は云った。が実は、いや大丈夫だと云われたいことを予想していた。
「ふむ、――」
 Sは考えていたが、「用心深い奴だったからな。」と云った。
 私達はどっちからでもヒゲ[#「ヒゲ」に傍点]につく方からつけることにし、それから次の朝のビラ持ち込みの打ち合わせをして別れた。

 九時、須山に会うと、私はその顔色を見ただけで分った。然《しか》しそれでもまだ全部が絶望だというわけではなかった。須山とも出来るだけの方法をつくして、ヒゲの調査をすることにした。そして直ぐ別れた。
 私達は自分のアジト附近での連絡でなかったら、九時半過ぎには一切の用事をしないことにしている。途中が危険だからである。――私は須山とも別れ、独りになり帰ってくると、ヒゲのことが自分でも意外な深さで胸に喰い込んでいることを知った。私は何んだか歩くのに妙な心もとなさを覚えた。膝《ひざ》がゆるんで、息切れさえするようである。――普通の境遇で生活をしている人には、こういう時の私のこんな現象が幾分の誇張とウソを伴っているとみるかも知れない。然《しか》し外部からすべてを遮断され、個人的な長い間の友達とも全部交渉を断ってしまい、一寸《ちょっと》お湯へ行くのにもウッかり出ることが出来ず、且《か》つ捕かまったら少なくとも六年七年は行く身体では、頼りになるのは同志ばかりである。それは一人でも同志が奪われてみると、その間をつないでいた私達の気持の深く且つ根強かったことを感ずる。それがしかも私達を何時《いつ》でも指導してきていた同志の場合、特にそうである。――以前ある反動的組合のなかで反対派として合法的に活動していた時は、同じことがあってもこれ程でもなかった。その時は矢張り争われず、日常の色々な生活がそれをまぎらしていたからであろう。
 下宿には太田が待っていた。――私は自分のアジトを誰にも知らせないことにしていたが、上《うえ》の人との諒解《りょうかい》のもとに一人だけに(太田に)知らせてあった。それは倉田工業で仕事をするためには、どうしても専任のものを一人きめて、それとは始終会う必要があった。外で会っているのでは即刻のことには間に合わなかったし、又充分なことが(色々な問題について納得が行くようには)出来なかった。
 太田は明日入れるビラについて来ていた。それで私はさっきSと打ち合わせてきたことを云い、明朝七時T駅の省線プラットフォームに行って貰うことにした。そこへSがやって来て、ビラを手渡すことになっていた。
 急ぎの用事を済ましてから、私達は少し雑談をした。「雑談でもしようか」ニコ/\そう云い出すと、「得意のやつ[#「やつ」に傍点]が始まったな!」と太田が笑った。用事を片付けてしまうと、私は殆《ほと》んどきまって「雑談をしようか」と、それも如何《いか》にも楽しそうに云い出すので、今ではそれは私の得意の奴という事になっていた。ところが、私は此頃になって、自分がどうして「雑談」をしたがるのか、その理由《わけ》に気付いた。――私たちは仕事のことでは殆《ほと》んど毎日のように同志と会っている。が、その場合私たちは喫茶店でも成るべく小さい声で、無駄《むだ》を省いて用事だけを話す。それが終れば直ぐその場所を出て、成るべく早く別れてしまう。これと同じ状態が三百六十五日繰りかえされるわけである。勿論私はそういう日常の生活形態に従って、今迄の自分の生活の型を清算し、今ではそれに慣れている。然し留置場に永くいると、たまらなく「甘《あま》いもの」が食べたくなり、時にはそれが発作的な病気のように来ることがあるのと同様に、私の場合ではその生活の一面性に対する反作用が仲間の顔をみると時には雑談をしようという形をかりて現われるのであるらしい。だが、この気持は普通の生活をしている太田には、何か別な極めて呑気《のんき》な私の性格位にしか映っていないし、時々ビーヤホールなどで大気焔《きえん》を挙げられる彼には、私の気持に立ち入り得る筈がなく、時には残酷にも(!)雑談もせずに帰って行くことがあるのである。
 太田は「雑談」をすると云って、工場の色々な女工さんの品さだめをやって帰って行った。彼は何時の間にか、沢山の女工のことを知っているのに驚いた。
「女工の惚《ほ》れ方はブルジョワのお嬢さんのようにネチネチと形式張ったものではなくて、実に直接且つ具体的[#「直接且つ具体的」に傍点]なので困る!」
 そんなことを云った。
「直接且つ具体的」というのが可笑《おか》しいので、私たちは笑った……。



 一度ハッキリと「党」の署名の入ったビラが撒《ま》かれてから、倉田工業では朝夕の出入が急に厳重になった。時期が時期だし、製造しているものが製造しているものなので、会社も狼狽《ろうばい》し始めたのである。私の横で働いている女工が朝キャッといって駈《か》け込んできたことがある。それは工場の出入の横に何時でも薄暗い倉庫の口が開いているが、女が何気なく其処《そこ》を通ると、隅《すみ》の方で黒い着物を頭からかぶった「もの」がムクムクと動き出したというのである、ところが、後でそれが守衛であることが分った。これなどからでも、彼奴等が如何《いか》にアワを食っているか分る。
 戦争が始まって若い工場の労働者がドン/\出征して行った。そして他方では軍需品製造の仕事が急激に高まった。このギャップを埋めるために、どの工場でも多量な労働者の雇入を始めなければならなかった。今迄《いままで》はたった一人の労働者を雇うのにも厳重な調査をし、身元保証人をきめた上でなければ駄目だった。が、戦争が始まってからは、それをやっていることが出来なくなった。私たちはその機会をねらった。勿論《もちろん》この場合雇い入れるとしても、それは「臨時工」だし、それに国家「非常時」ということを名目としてドシ/\臨時工を使うことは、結局は労働者全体(工場から見れば本工《ほんこう》を雇うときに)の賃銀を引き下げるのに役立つのである。だが彼奴等は自分たちの利害のこの両方の板挟《いたばさ》みにあって、黒い着物を頭から引ッかぶって見張りをしなければならないような馬鹿げた恥知らずの真似《まね》に出でざるを得ないのである。
 黒い着物はどうでもよかったが、私には待ち伏せしている背広だった。私の写真は各警察に廻っている。私は勿論《もちろん》顔の形を変えてはいるが油断はならなかった。十三年前に写した写真が警察にあったゝめに、一度も実際の人物を見たこともないスパイに捕まった同志がある。仲間のあるものは、私に全然「潜《も》ぐる」ことをすゝめる。勿論それに越したことはないが、今迄の経験によると、工場の外にいてその組織を進めて行くことは百倍も困難であって、且《か》つ百分の一の成果も挙がらないのだ。このことは工場にいるメンバーと極めて緊密な連繋《れんけい》がとれている場合にでも云えるのである。我々が「潜ぐる」というのは、隠居するということでは勿論ないし、又単に姿を隠くすとか、逃げ廻わるということでもない。知らない人は或《ある》いはそう考えている。が若《も》しも「潜ぐる」ということがそんなものならば、彼奴等におとなしく[#「おとなしく」に傍点]捕まって留置場でジッとしている方が事実百倍も楽でもあるのだ。「潜ぐる」ということは逆に敵の攻撃から我身を遮断して、最も大胆に且つ断乎として闘争するためである。――勿論仕事の遣《や》り易さとかその他の点から我々が合法的であることは、モッと望ましい。だから私は太田などに云っている。出来るだけ永い間合法性を確保しろ、と。その意味から「潜ぐる」というのは正しい云い方ではなく、私達は決して自分から潜ぐっているのではなくて、彼奴等に潜ぐらされているのに過ぎないのだ……。
 そんな状態で、私は敵の前に我と我が身の危険を曝《さ》らしているので、朝夕の背広には実に弱る。この頃そこに立っている背広が何時も同じ顔ぶれなのでよかったが、遠くから別な顔が立っている時には、自分は歩調をゆっくりにし、帽子の向きを直し、近付く前に自分の知っている顔であるかどうかを確かめる。この第一関門がパッスすると、今度は門衛の御検閲だ。然しそこはビラを持って入るものがこれに引ッ掛からないようにすることだった。太田はそれには女のメンバーを使っていた。太田によると「成るべく女のお臍《へそ》から下の方へ入れると安全だ」った。彼奴等はまだそこを調らべるほどには恥知らずになってはいないらしい。
 次の朝、衣服箱を開けると、ビラが入っている! 波のような感情が瞬間サッと身体を突走ってゆく。職場に入って行くと、隣りの女がビラを読んでいた。小学生のように一字一字を拾って、分らない字の所にくると頭に小指を入れて掻《か》いていた。私を見ると、
「これ本当!」
と訊《き》いた。十円のことを云っているのだ。
 私は、本当も本当、大本当だろうといった。女は、すると、
「糞《くそ》いま/\しいわネ。」
と云った。
 工場では私は「それらしい人間」として浮き上がっている。私はビラの入る入らないに拘《かかわ》らず、みんなが会社のことを色々としゃべり合っている事についてはその大小を問わず、何時でも積極的に口を入れ、正しいハッキリした方向へそれを持ってゆくことに心掛けていた。何か事件があったときに、何時でも自分達の先頭に立ってくれる人であるという風な信頼は普段からかち[#「かち」に傍点]得て置かなければならないのである。その意味で大衆の先頭に立ち、我々の側に多くの労働者を「大衆的に[#「大衆的に」に傍点]」獲得しなければならぬ。以前、工場内ではコッソリと、一人々々を仲間に入れて来るようなセクト主義的な方法が行われていたが、その後の実践で、そんな遣《や》り方では運動を何時迄《いつまで》も大衆化することが不可能であることが分ったのである。
 仕事まで時間が少し空《あ》いていたので、台に固って話し合っている皆の所へ出掛けようとしていると、オヤジがやって来た。
「ビラを持っているものは出してくれ!」
 みんなは無意識にビラを隠した。
「隠すと、かえって為《た》めにならないよ。」
 オヤジは私の隣りの女に、
「お前、さ、出しな。」
と云った。女は素直《すなお》に帯の間からビラを出した。
「こんな危いものをそんなに大切に持ってる奴があるか!」と、オヤジが苦笑した。
「でも、会社は随分ヒドイことをしてるんだね、おじさん!」
「それだ――それだからビラが悪いって云うんだよ!」
「そう? じゃやめる時、本当に十円出すの?」
オヤジは詰って、
「そんなこと知るもんか。会社に聞いてみろ!」
と云った。
「何時《いつ》かおじさんだってそう云ってたんじゃないの! あ、矢張りビラのこと本当なんだ!」
 女のその言葉で、職場のものはみんな笑い出した。
「よオ/\、しっかり!」
 誰かそんなことを云った。
 オヤジは急に真ッ赤になり、せわしく鼻をこすり、吃《ども》ったまゝカン/\に出て行った。――それで私たち第三分室は大声をあげた。事は小さかったが、そのためにオヤジの奴め他のものからビラを取り上げるのを忘れて出ていってしまった。
 その日、仕事が始まってから一時間もしないとき、私は太田が工場からやら[#「やら」に傍点]れて行ったという事を聞いた。ビラを持って入ったことが分ったらしい。

 太田は――何より私のアジトを知っている!
 彼は前に、事があったら三日間だけは頑張ると云っていた。三日間とは何処《どこ》から割り出したんだいと訊くと、みんながそう云っていると云った。その頃「三日間」というのが何故か一つのきまりのようになっていた。私はその時引き続き冗談を云い合ったが、フト太田の何処かに弱さを感じたことを覚えている。太田が捕まったと聞いたとき、私の頭にきた第一のことはこの事だった。
 私の知っている或《あ》る同志は、自分と同居していたものが捕ったにも拘らず、平気でそのアジトに寝起していた。私や他のものは直ぐ引き移らなければ駄目だと云った。するとその同志は奇妙な顔をした。案に違わず五日目にアジトを襲われた。その時同志は窓から飛んだ。飛びは飛んだが足を挫《くじ》いてしまった。彼は途中逃げられないように真裸にされて連れて行かれた。彼が警察の留置場に入って、前にやられた仲間を一眼見ると、「馬鹿野郎! だらしのない奴だ!」と怒鳴りつけた。ところがその仲間は、逆に自分がやられているのにのんべんだらりと逃げもしない「だらしのない奴」だと思い、相手にそう云おうと思っていたというのである。後でその同志が出てきたとき、私たちは、だから云わない事じゃ無かったんだ、分っていて捕まるなんて統制上の問題だぞと云った。すると彼は、あいつ[#「あいつ」に傍点]《前に捕まった仲間》がしゃべったからだ、一体一言でも彼奴等《きゃつら》の前でしゃべるなんて「君、統制上の問題だぜ!」と云いかえした。事実その同志は取調べに対しては一言もしゃべらなかった。その同志にとってはしゃべるという事は始めから考え得られないことだったし従って[#「従って」に傍点]他のものもしゃべるなどとは考えもしなかったので、「のんべんだらり」とアジトにいたのだ。私はこの時誰よりも一番痛いところをつかれたと感じた。アジトを逃げろと云ったのは、自分が[#「自分が」に傍点]若《も》し捕まったら三日か四日目にアジトを吐くという、敗北主義を自認していることになる。だが、これはおよそボルシェヴィキとは無縁な態度である。これはABCだ。その後私たちはその同志の態度を尺度とする規約を自分自身に義務づけることにした。が今あの頼りない太田を前にしては、私はこの良き意味での「のんべんだらり」をアジトで極め込んでいるわけには行かぬ。私は即刻下宿を引き移らなければならなかった。
 それにしても、私は矢張りアジトは誰にも知らせない方がよかった。嘗《か》つて、私たちの優れた同志が「七人」もの人に自分の家を知らせ、出入りさせていた。その中には同志ばかりか単なる「シンパ」さえいた。そのためにその優れた同志はアジトを襲われた。――そんな例がある。私たちは世界一の完備を誇っている警察網の追及のなかで仕事を行っていることを何時でも念頭に置かなければならぬ。
 たゞ良かったことは、須山と伊藤ヨシのことを太田が知っていなかったことだ。私は仕事をうまく運ぶために彼に、二人が我々の信用していい仲間であることを知らせようと思ったことがあった。然《しか》しその時自分は後のことを考え、やめたのである。一つは弾圧の波及を一定限度で防ぐためであり、他は単に誰々がメンバーであるという慣れあいによって仕事をして行こうとする危険な便宜主義に気付いたからだった。
 工場の帰りに私は須山と伊藤ヨシと一緒になり、緊急に「しるこ屋」で相談した。その結果、私は直ちに(今夜のうちに)下宿を移ること、工場は様子がハッキリする迄休むこと、残った同志との連絡をヨリ緊密にし、二段三段の構えをとることに決まった。「今日はまだ大丈夫だろう」とか、「まさか[#「まさか」に傍点]そんな事はあるまい」というので今迄に失敗した沢山の同志がある。以上の三つの事項は「工場細胞」の決定[#「決定」に傍点]として私が必ず実行することに申し合わせた。そして伊藤と須山は貰《もら》って来たばかりの日給から須山は八十銭、伊藤は五十銭私のために出してくれた。
 須山は何時もの彼の癖で、何を考えたのか神田伯山の話を知っているかと私に訊いた。私は笑って、又始まったなと云った。彼の話によると、神田伯山は何時でも腹巻きに現金で百円はどんな事があろうと手つかずに(死ぬ迄)持っていたというのである。それは彼が、人間は何時どんな処で災難に打ち当らないものとは限らない、その時金を持っていないばかりに男として飛んでもない恥を受けたら大変だと考えていたからだそうである。
「同じことだ、金が無くて充分の身動きが出来ないために捕まったとなれば、それは階級的裏切だからな!」
 そう云って、彼は「我々は彼等の[#「彼等の」に傍点]経験からも教訓を引き出すことを学ばなくてはならないんだ」と、つけ加えた。私と伊藤は、そういうことを色々と知っている須山の頭は「スクラップ・ブック(切抜帖)」みたいだというので笑った。

 私は実にウカツに私の下宿に入る小路の角を曲がった。だが本当はウカツでもなんでもなかったのだろう。私は第一こんなに早く太田が私の家《アド》を吐こうなどとは考えもだに及ばなかったからである。私はギョッとして立ちすくんだ。二階の私の室には電燈がついている! そしてその室には少なくとも一人以上の人の気配のあることが直感として来た。張り込まれていることは疑うべくもなかった。だが、室の中には色々と持ち出したいものがある。次の日から直ぐ差支えるものさえあった。――私は然しこの「だが[#「だが」に傍点]」がいけないと、直ぐ思いかえした。
 私には今直《す》ぐと云えば、行く処はなかった。今迄の転々とした生活で、知り合いの家という家は殆《ほと》んど使い尽してしまっていたし、そういう処は最早二度の役には立たなかった。私はまず何よりこの地域を離れる必要があるので、電車路に出ると、四囲を注意してから円タクを拾った。別に当ての無い処だったが、
「S町まで二十銭。」
と云った。
 その時フト気付いたのだが、私は工場からの帰りそのまゝだったので、およそ円タクには不調和な服装をしていた。――私は円タクの中で考えてみた。が、矢張り見当がつかない。私は焦《あせ》り、イラ/\した。ただ、私には今迄一二度逃げ場所の交渉をして貰った女がいた。その女は私が頼むと必ずそれをやってくれた。女はある商店《みせや》の三階に間借りして、小さい商会に勤めていた。左翼の運動に好意は持っていたが別に自分では積極的にやっているわけではなかった。女の住所は知っていたが、女一人のところへ訪ねていくのも変であったので、私は今迄用事の時は商会に電話をかけて、それで済ましていた。が私には今その女しか残されていない、そんなことを考慮してはいられなかった。――私はS町で円タクを捨てると、覚悟を決め、市電に乗った。
 成るべく隅の方へ腰を下して、膝の上に両手を置いた。それから気付かれないように電車の中を一通り見渡してみた。幸いにも「変な奴」はいない。私の隣りでは銀行員らしい洋服が「東京朝日」を読んでいた。見ると、その第二面の中段に「倉田工業の赤い分子検挙」という見出しのあるのに気付いた。何べんも眼をやったが、本文は読めなかった。――それにしても、電車というものののろさ[#「のろさ」に傍点]を私は初めて感じた。それは居ても立ってもいられない気持だ。
 用心のために停留所を二つ手前で降り、小路に入って二三度折れ曲がり、女のところへ行った。初めてではありそれに小路に入ったりしたので少し迷った。店先にはお爺《じい》さんが膏薬《こうやく》の貼《は》った肩を出して、そこを自分の手でたゝいていた。上の笠原さんがいますか、と訊《き》くと、私の顔を見て黙っている。二度目に少し大きな声を出した。すると、障子のはまった茶の間の方を向いて何か分からないことを云った。誰か腰の硝子からこっちを覗《のぞ》いた。
「さア、出て行きましたよ」
 内《うち》でうさん臭く云った。
 私は、ハタと困ってしまった。何時《いつ》頃かえるのでしょうかと訊くと、そんな事は分らんと云う。私の人相《身装》を見ているなと思った。どうにも出来ず、私はそこに立っていた。然し仕様がなかった。私は九時頃に又訪ねてみると云って外へ出た。出てから三階を見上げると、電燈が消えている。私は急にがっかりした。
 夜店のある通りに出て本を読んでみたり、インチキ碁の前に立ってみたり、それから喫茶店に入って、二時間という時間をようやくつぶして戻ってきた。角を曲がると、三階の窓が明るくなっていた。
 私は笠原に簡単に事情を話して、何処《どこ》か家が無いかと訊《き》いた。然《しか》し今迄彼女はもう殆《ほと》んど知っている家は、私のために使ってしまっていた。商会の女の友達も二三人はいるが、それはこッちの運動のことなど少しも分っていないし、「それにみんなまだ独り[#「独り」に傍点]」だった。笠原はしきりに頭を傾《かし》げて考えていたが、矢張り無かった。時計を見ると十時近い。十時過ぎてから外をウロつくのは危険この上もなかった。それに私はまだナッパ服のまゝなので、一層危険だった。女の友達なら沢山頼めるところがあるのだが、「君、男だから弱る」と笠原は笑った。私も弱った。然しいずれにしろ私は捕まってはならないとすればたった一つのことが残されていた。それを云い出すには元気が必要だったが。
「こゝ[#「こゝ」に傍点]は、どうだろう……?」
 私は思いきって云い出したが、自分で赤くなり、吃《ども》った。――人には大胆に見えるだろうが、仕方がなかった。
「…………!」
 笠原は私の顔を急に大きな(大きくなった)眼で見はり、一寸《ちょっと》息を飲んだ。それから赤くなり、何故《なぜ》かあわてたように今迄横座りになっていた膝《ひざ》を坐り直した。
 しばらくして彼女は覚悟を決め、下へ降りて行った。S町にいる兄が来たので、泊って行くからとことわって来た。だが、兄というのはどう考えても可笑《おか》しかった。彼女は簡素だが、何時でもキチンとした服装をしていて、髪は半[#「半」に傍点]断髪《?》だった。そこにナッパを着た兄でもなかった。彼女がそう云うと、下のおばさんは子供ッぽい笠原の上から下を、ものも云わないで見たそうである。彼女はさすがに固い、緊張した顔をしていた。普通の女にとってたゞ男が泊《とま》るということでも、それは只事《ただごと》ではなかったのであろう。
 そういう風に話が決まると、二人とも何んだか急にぎこちなくなり、話が途切《とぎ》れてしまった。私は鉛筆と紙を借り、次の日のプランを立てるために腹ン這《ば》いになった。即刻太田の補充をすること、太田の検挙のことをビラに書いれて倉田工業の全従業員に訴えること。私は原稿を鉛筆を嘗《な》め/\書いた。フト気付くと、女が自分から「もう寝ましょう」と云えないでいることに気付いた。それで、
「君何時に寝るんだい?」
と訊いてみた。
 すると「大抵今頃……」と云った。
「じゃ寝ようか。僕の仕事も一段落付いたから。」
 私は立ち上がって、あくびをした。
 蒲団《ふとん》は一枚しか無かった。それで私は彼女が掛蒲団《かけぶとん》だけを私へ寄こすというのを無理に断って、丹前だけで横になった。電燈を消してから、女は室の隅の方へ行って、そこで寝巻に着換るらしかった。
 私は今迄(自分の家を飛び出してから)色々な処を転々として歩いたので、こういう寝方には慣れていたし、直ぐ眠れた。然し女のところは初めてだった。さすがに寝つきが悪かった。私はウトウトすると夢を見て直《す》ぐ眼をさました。それが何べんも続いた。見る夢と云えば、追いかけられている夢ばかりだった。夢では大抵そうであるように、仲々思うように逃げられない。そして気だけが焦る。あ、あっ、あっ、あ、あ……と思うと、そこで眼が覚めた。ジッとしていると、頭の片方だけがズキン、ズキンと鈍くうずいた。私は殆んど寝たような気がしなかった。そして何べんも寝がえりを打った。――然し笠原は朝までたゞの一度も寝がえりを打たなかったし、少しでも身体を動かす音をさせなかったのである。私は、女が最初から朝まで寝ない心積《つも》りでいたことをハッキリとさとった。
 それでも私は少しは寝たのだろう。眼をさますと、笠原の床はちゃんと上げられて、彼女は炊事で下に降りているのか、見えなかった。しばらくして、笠原は下から階段をきしませて上がってきた。そして「眠れた?」と訊《き》いた。「あ」と私は何だかまぶしく、それに答えた。
 下宿は笠原の出勤時間に一緒に出た。下のおばアさんは台所にいたが、その時手を休めて私の後を見送った。
 外に出るや否や、笠原は恰《あた》かも昨日からの心配事を一気に吐き出すように、
「あ――あ――」
と、大きな声を出した。それから「クソばゞア!」と、そッとつけ加えた。



 その夜Sに会ったとき、昨夜のことを話すと、そいつは悪いと行って、間借の金を支度してくれた。私は家を見付けて置いたので、須山と伊藤に道具を揃《そろ》えてもらって、直《す》ぐ引き移ることにした。はじめ倉田工業と同じ地区にするのが良いか悪いかで随分迷った。同じ地区だと可成り危険性がある。然《しか》し他の地区ということになれば交通費の関係上困った。こんな場合は勿論《もちろん》他の地区の方が良かったが、然し警察は案外私が他の地区に逃げこんだと思っているかも知れない。だから彼奴等の裏をかいて、同じ地区にいるのも悪くないと思った。嘗《か》つてこんな事がある。今ロシアに行っている同志のことであるが、その同志は他の同志が江東方面で活動している時は反対の城西方面に出没しているという噂《うわ》さを立てさせる戦術をとっているという話を聞くと、そいつは拙《まず》い、俺ならば江東にいる時には、かえって江東にいるという噂さを立てさせると云ったそうだ。私はこの地区ではまだ具体的にはスパイに顔を知られていなかった、それに工場もやめたので経済的な根拠から同じ地区に下宿を決めることにした。
 下宿はどっちかと云《い》えば、小商人の二階などが良かった。殊《こと》にそれが老人夫婦であれば尚《なお》よかった。その人たちは私たちの仕事に縁遠いし、二階の人の行動には、その理解に限度がある。なまじっか知識階級の家などは、出入や室の中を一眼見ただけでも、其処《そこ》に「世の常の人」らしからぬ空気を敏感に感じてしまうからである。然し、警察どもは小商人などのところへは度々《たびたび》戸籍調らべにやって来て、無遠慮な調らべ方をして行く代りに、門構でもあるような家には二度のところを一度にし、それもたゞ「変ったことがありませんか」位にとゞめる。――今度の下宿はその中間をゆく家だった。おばさんはもと待合をしていたことがあるとか云って、誰かの妾《めかけ》をしているらしかった。
 須山や伊藤から荷物を一通り集めて、ようやく落付くと私はホッとした。たゞ下の室に同宿の人がいるのが欠点だった。それで、第一にその人がどんな人か知る必要があった。私は便所へ降りて行った。同宿の人の室の障子が開いて居り、その人はいなかった。私は何より本箱[#「本箱」に傍点]に眼をやった。これは私が新しい下宿に行って、同宿のある時に取る第一の手段だった。本箱を見ると、その人が一体どういう人か直《す》ぐ見当がつくからである。――本箱には極く当り前の本ばかりが並んでいた。何処《どこ》かの学校の先生らしく、地理とか、歴史の本が多かった。ところが、机の上に「日本文学全集」が載っていた。フト見ると、「片岡鉄兵」や「葉山嘉樹《よしき》」などの巻頭の写真のところが展《ひろ》げられたまゝになっていた。然しその種の本はそれ一冊だけで、その他には持っていないらしかった。
 僕たちの仲間で、折角移ってきたところが、その下宿の主人が警察に勤めている人であったという例が沢山ある。が、下宿の主人の商売がすぐ分るのはよい方で時には一カ月も分らないまゝでいることさえある。「ご主人は何商売ですか」というこの単純な問いも、こっちがこっちだけに、仲々淡泊には訊《き》けないのだ。
 私はおばさんにお湯屋の場所をきいて、外へ出た。第二段の調査のためである。まず毎日出入りする道に当る家並の門礼を、石鹸《せっけん》とタオルを持った恰好《かっこう》で、ブラブラと見て歩いた。五六軒見て行くと、曲り角に「警視庁巡査――」の名札があった。然しそれは大きな邸宅の裏門に出ているので、大して心配が要らない。お湯屋から出ると、今度はその辺にある小路や抜け路を調らべて帰ってきた。一般にこの市は(他の市もそうかも知れないが)奇妙なことには、工場街と富豪の屋敷街がぴったりくっついて存在しているということである。今度のところも倉田工業のある同じ地区にも拘らず、ゴミ/\した通りから外《は》ずれた深閑とした住宅地になっていた。それにいいことには、しん閑とした長い一本道を行くと直ぐにぎやかな通りに続いていることで、用事を足して帰ってきても、つけ[#「つけ」に傍点]られているか居ないかが分ったし、家を出てしまえば直《す》ぐにぎやかな通りに紛ぎれ込んでしまえるので、案外条件が良かった。
 二階の私の室の窓は直ぐ「物干台」に続いていた。そして隣りの家の物干までには、一またぎでそこからは容易《たやす》く別な家の塀《へい》が越せることが分った。私はそれで草履《ぞうり》一足買ってきて、窓を開いたら直ぐ履けるように、物干台に置くことにした。たゞ困ったことは、この辺の家は「巴里《パリ》の屋根の下」のように立て込んでいるので、窓を少しでも開《ひら》くと、周囲の五六軒の家の人たちやその二階などを間借りしている人たちに顔を見られる危険性があった。それらの家の職業がハッキリするまで、私は四方を締め切って坐り込んでいなければならなかった。それで私は世間話をするために、下へ降りていった。世間話から近所の様子を引き出そうと思ったのである。
 聞いてみると法律事務所へ通っている事務員、三味線のお師匠さん、その二階の株屋の番頭さん、派出婦人会、其他七八軒の会社員、ピアノを備えつけている此の辺での金持の家などだった。下宿を決めた夜のうちに、隣近所のことがこれだけ分ったということは大成功である。或《ある》いは口喧《やか》ましい派出婦人会だけを除くと、まず周囲はいゝ方と云わなければなるまい。
 たゞ、今迄《いままで》の経験で、アジトを襲われたり、アジトに変なことがあったりしたら直ぐ出掛けて行ける宿所を作って置かなければならない。どんなに安全そうに見えても、それは少しも何時までもの安全を意味してはいない。事実、私はこの前の前の下宿で、移ってから二日目だというのに、お湯へ行って帰ってくると、下宿の前に洋服を着た男が立っているのだ。そこは一本道で、私はその男を発見したが、そこからは引ッ込みのつかないほど間近に来てしていた。私は仕方なしに、身体をフラ/\と振り、濡《ぬ》れ手拭《てぬぐい》を眼につくように垂らし、ウロ覚えの「幻の影をしたいて、はるばると……」を口笛で吹いて、下宿には入らずに通り過ぎた。洋服の男は私の方を見たようだったが、その見方は張り込んでいる見方にしては、何処《どこ》か不審なところがあるように思われた。私は暫《しば》らく来てから振りかえってみた。が、男は未だ立って居り、こっちを見ている。私はその夜同志のところへ転げこんだ。その同志は経験のある同志で、第一にそんな張り込み方がないこと、第二に新しく移ってきて二三日もしないうちに、何等かの予備的調査もなくやってくるという事は有り得ないという判断から、次の日人を使って調らべたら、何んでもないことが分ったが。とにかく即刻やってくる災害に対して即刻に応じ得られる第二段の構をして置くことが常に必要である。私は次の連絡のとき、笠原にこのことを依頼した。

 仕事は直ぐ立ち直った。太田のあとは伊藤ヨシが最近メキ/\と積極的になったので、それを補充することにした。弾圧の強襲が吹き捲《まく》っているときに、積極性を示すものは仲々数少なかったのだ。彼女は高等程度の学校を出ていたが、長い間の《転々とはしていたが》工場生活を繰りかえしてきたために、そういう昔の匂いを何処にも持っていなかった。この女は非合法にされてからは、何時《いつ》でも工場に潜《も》ぐりこんでばかりいたので、何べんか捕《つ》かまった。それが彼女を鍛えた。潜ぐるとかえって街頭的になり、現実の労働者の生活の雰囲気から離れて行く型と、この伊藤は正反対を行ったのである。伊藤は警察に捕かまる度に母親が呼び出され引き渡されたが、半日もしないうちに又家を飛び出し潜ぐって仕事を始めた。母親はその度に「今度は行ってお呉《く》れでないよ」と頼んだのだが。母親は、それで娘が捕かまったから出頭しろという警察の通知が来ると喜んだ。そして警察では何べんもお礼を云って帰ってきた。三度目か四度目に家に帰ったとき、伊藤は久し振りで母親と一緒に銭湯に行った。彼女はだん/″\仕事が重要になって行くし、これからは今迄のように容易《たやす》く警察を出れることも無くなるだろうというような考もあったのである。それは蔭ながらのお別れであったわけである。ところが母親はお湯屋で始めて自分の娘の裸の姿を見て、そこへヘナ/\と坐ってしまったそうである。伊藤の体は度《たび》重なる拷問で青黒いアザだらけになっていた。彼女の話によると、そのことがあってから、母親は急に自分の娘に同情し、理解を持つようになったというのである。「娘をこんなにした警察などに頭をさげる必要はいらん!」と怒った。その後、交通費や生活費に困り、仕方なく人を使って母親のところへ金を貰《もら》いに行くと、今迄は帰って来なければ「金は渡せん」といったのに、二円と云えば四円、五円と云えば七八円も渡してくれて、「家のことは心配しなくてもいゝ」と云うようになった。「ただ貧乏人のためにやっているというだけで、罪のない娘をあんなに殴ぐったりするなんてキット警察の方が悪いだろう」と母親は会う人毎《ごと》にそう云うようになっていた。――自分の母親ぐらいを同じ側に引きつけることが出来ないで、どうして工場の中で種々雑多な沢山の仲間を組織することが出来るものか。このことに多くの本当のことが含まっているとすれば、伊藤などはそれである。未組織をつかむ彼女のコツには、私は随分舌を巻いた。少しでも暇があると浅草のレビュウヘ行ったり、日本物の映画を見たり、プロレタリア小説などを読んでいた。そして彼女はそれを直ちに巧みに未組織をつかむときに話題を持ち出して利用する。(余談だが、彼女は人目をひくような綺麗《きれい》な顔をしているので、黙っていても男工たちが工場からの帰りに、彼女を誘って白木屋の分店や松坂屋へ連れて行って、色々のものを買ってくれた。彼女はそれをも極めて、落着いて、よく利用した。)
 彼女は人の意見をよく聞く素直《すなお》な女だったが、自分の今迄何十ぺんという経験のふるい[#「ふるい」に傍点]を通して獲得してきた方法に対しては、石みたいに頑固だった。今このような女の同志は必要だった。殊に倉田工業の七〇%(八百人のうち)が女工なので、その意義が大きかったのだ。
 私は倉田工業の他に「地方委員会」の仕事もしていたし、ヒゲ[#「ヒゲ」に傍点]のやられたことが殆《ほと》んど確実なので、新たにその仕事の一部分をも引き受けなければならなかった。急に忙がしくなった。が、アジトが確立した上に、工場の生活がなくなったので、充分に日常生活のプランを編成して、今迄よりも精力的に仕事に取りかかることが出来た。
 工場にいたときは、工場のなかの毎日々々の「動き」が分り、それは直ぐ次の日のビラに反映させることが出来た。今その仕事は須山と伊藤が責任を引き受けてやっている。最初私は工場から離れた結果を恐れた。ところが、須山たちと密接な組織的連繋《れんけい》を保っていることによって、浮き上る処か、面白いことには逆に、離れてみて須山や伊藤や(そして今迄の私も)眼先だけのことに全部の注意を奪われていて、常にヨリ一歩発展的に物事を見ていなかったということが分るのである。非常に精細な見方をしているようで、実はある固定した枠《わく》内で蚤取眼《のみとりまなこ》を見張っていたと云える。勿論それは私がヨリ展望のきく「地方委員会」などの仕事をしているというところからも来ているが。従って、私は自分の浮き上りということを恐れる必要がないことが分った。
 私がまず気付いたことは、八百人もいる工場で、四五人の細胞だけが[#「だけが」に傍点]懸命に(それは全く懸命に!)活動しようとしている傾向だった。それは勿論四五人であろうと、細胞の懸命な活動がなかったら、工場全体を動かすことの出来ないのは当然であるが、その四五人が懸命に働いて工場全体を動かすためには、工場の中の大衆的な組織と結合すること(或いはそういうものを作り、その中で働くこと)を具体的に問題にしなければならない。そのための実際の計画を考顧しなかったなら、矢張りこの四五人の、それだけで少しも発展性のない、独《ひと》り角力《ずもう》に終ってしまうのだ。――ところが、実際には臨時工の女工たちは、私達は折角知り合っても又散り/\バラ/\になってしまう。袖《そで》触れ合うも他生《たしょう》の縁というので、臨時工の「親睦会」のようなものを作ろうとしている。又臨時工と本工とが賃銀のことや待遇のことで仲が悪いのは、会社がワザとにそうさせているのであって、中には「合い見、互い見」で、仲間になっているものさえある。これらはホンの一二の例でしかない。だが、若《も》しも細胞がそれらの自然発生的なものをモッと大きなものに(組織に)するために努力し且《か》つその中で[#「その中で」に傍点](自分たち四五人の中でなしに)働くことを知ったら、近々の六百人[#「六百人」に傍点]もの首切りに際して工場全体を動かすことは決して不可能なことではないのである。
 殊に倉田工業が毒瓦斯《ガス》のマスクやパラシュートや飛行船の側《がわ》などを作る軍需品工場なので、戦争の時期に於《おい》てはそこに於ける組織の重要なことは云う迄もないのだ。私達は戦争が始まってから、軍需品工場(それは重《おも》に金属と化学である)と交通産業(それは軍隊と軍器の輸送をする)に組織の重心を置いて、仕事を進めて来た。そして倉田工業には私や須山、太田、伊藤などが入り込んだわけだった。たゞ、この場合私達はみんな臨時工なので、モウ半月もしないうちに首になる。私達はその間に少しでも組織の根を作って置かなければならない。そのためには本工を獲得することが必要だった。そうすれば私達が首になったとしても、残っている組織の根と緊密な外部からの連繋《れんけい》によって、少しの支障もなく仕事を継続することが出来る。それでどんな小さい話題からでも、常に本工と臨時工を接触させ、その結合をはかる方向をとることを決めた。然し同時に臨時工の間の組織も、彼等が首になって又何処かの工場を探がしあて、それ/″\の職場に入り込んで行く人間なので、それは謂《い》わば胞子だった。従って臨時工の一人々々とは後々までも決して離れてはならなかった。――私達はこれらの仕事を、首になる極く短かい期間にやってしまわなければならなかった。

 二三日して須山と街頭を取っていると、向うから須山が奇妙な手の振り方をしてやってきた。彼は何かあると、よくそんな恰好《かっこう》をした。会ってからゆっくり話すということなどは、とても彼には歯がゆいらしく、すぐ動作の上に出してしまった。私は何かあったな、と思った。私は途中の小路を曲がってくると、本当はモウ一つの小路を曲がってからお互いに肩を並らべて歩くことになっているのに、須山はモウ小走りに、やアと後ろから声をかけた。
「太田からレポがあったんだ!」と云う。
 私は、道理で、と思った。
 レポは中で頼まれたと云って、不良が持ってきた。倉田工業から電車路に出ると、その一帯は「色街《いろまち》」になっていた。電車路を挟んで両側の小道には円窓を持った待合が並んでいる。夜になると夜店が立って、にぎわった。そしてその辺一帯を「何々」組の何々というようなグレ[#「グレ」に傍点]《不良》が横行していた。ところが「フウテンのゴロ」というのが脅迫罪でN署に引っ張られたとき、檻房《かんぼう》で偶然太田と一緒になった。それでフウテンのゴロが出て来るときに、彼は私たちの知っているTのところへレポを頼んだのである。
 それによると、私が非常に追及されていること、ロイド眼鏡《めがね》をかけていることさえも知られていること、それからあんな奴は少し金さえかければ直ぐ捕まえる事が出来ると云っているから充分に注意して欲しいとあった。それを聞いて私は、
「反対に、太田が何もかもしゃべったから、俺が追及されているんだ。」
と云った。
「そうだよ、君がロイドの眼鏡をかけているかいないかは、パイの奴が君だと分って君と顔をつき合わせない以上分らないことじゃないか――」
 と、須山も笑った。
 それで私達は太田のレポは自分のやったことを合理化するために書かれているということになった。そんなことよりも、私達は太田が警察でどういうことを、どの程度まで陳述しているかということが知りたいのだ。それによって、私達は即刻にも対策をたてなければならぬではないか。私は、太田はこのようではキット早く出てくるが、こういう態度の奴は一番気をつけなければならぬ、と思った。
 然し工場では、働いているところから太田が引張られただけ、それは尠《すく》なからず衝動を与えた。今迄ビラを入れてくれていた人はあの人であったのか、という親しい感動を皆に与えた。しかも、事ある毎にオヤジから「虎《とら》」(ウルトラという意味)だとか、「国賊」だとか云われていた恐ろしい「共産党」が太田であり、それは又自分たちには見えない遠い処の存在だと思っていたのに、毎日一緒にパラシュートの布にアイロンをかけて働いていた太田であることが分ると、皆はその意外さに吃驚《びっくり》した。「太田さんは何時でも妾《わたし》達のことばかり考えてくれて、それで引張られて行った人だから、工場の有志ということにして、何んか警察に差入れしてあげようよ」伊藤ヨシは太田の事件を直ぐそんな風にとりあげて、金や品物を集めた。七人程がお金を出した。その中には太田を好きだという女もいた。ヨシは太田のことからビラの話をし、工場の仕事の話などから、とう/\八人ほどを仲間にすることに成功した。彼女は長い間の工場生活から、どんなことを取り上げると皆がついて来るか知っていた。それにパラシュートの方は殆んど女ばかりだったので、太田などはなか/\「評判」だった。彼女はそれをも巧みにつかんだのだ。彼女は八人のうちから積極的なのを選んで、「倉田工業内女工有志」という名を出して、警察に差入にやった。サルマタ、襦袢《じゅばん》、袷《あわせ》、帯、手拭《てぬぐい》、チリ紙、それに現金一円。警察では、その女をしばらく待たして置いてから、中《なか》で太田が志は有難いが、考える処あって貰えないと云っているから持って帰れと云った。慣れない女は仲間の四五人と一緒に、その差入物を持って帰ってきた。伊藤は自分が以前警察で、勝手にそんなカラクリをさせられた経験があるので、もう一度警察に行って、無理矢理に差入物を置かせて来た。――ところが、後で須山から太田のことを聞かせられて、彼女はカン/\に怒った。
 太田などは、自分の心変りや卑屈さが、自分だけのこと[#「自分だけのこと」に傍点]ゝ考えてるのだろう。だが、それは沢山の労働者の上に大きな暗いかげを与えるものだと云うことを知らないのだ。彼奴は個人主義者で、敗北主義者で、そして裏切者だ。彼はそれに未だ警察に知れていない私の部署、その後の私の行動に就いてもしゃべっているのだ。とすれば、私がこれから倉田工業の仲間たちと仕事をして行くことは十倍も困難になってくるわけである。――私達はこうして、敵のパイ共からばかりでなく、味方うちの「腐った分子」によっても、十字火を浴びさせられる。その日交通費もあまり充分でなかったので、歩いて帰った。途中私の神経は異常に鋭敏になっていた。会う男毎にそれがスパイであるように見えた。私は何べんも後を振りかえった。太田の「申上げ」によって、彼奴等は私を捕かもうとして、この地区を厳重に見張りしていることは考えられるのだ。ヒゲの話によると、(前に話したことがあった)彼奴等は私達一人を捕かむと五十円から貰えるということだ。彼奴等はそのエサに釣《つ》られて、夢中になっているだろう。――だが、こういう落付かない時は、えて危いと思った。私はつかまってはならない。私は「しるこ屋」に入ってゆっくり休み、それから帰ってきた。
 私達は退路というものを持っていない。私たちの全生涯はたゞ仕事にのみうずめられているのだ。それは合法的な生活をしているものとはちがう。そこへもってきて、このような裏切的な行為だ。私たちはそれに対しては全身の憤怒と憎悪を感じる。今では我々は私的生活というべきものを持っていないのだから、全生涯的感情[#「全生涯的感情」に傍点]をもって(若《も》しもこんな言葉が許されるとしたら)、憤怒《ふんぬ》し、憎悪するのだ。
 私はムッとしていたらしい。下宿の出入りには、おばさんに何時もちアんと言葉をかけることになっていながら、私はそれも忘れ、二階に上がってしまった。
 私は机の前に坐ると、
「畜生!」
と云った。

 その後、私は笠原と急に親しくなった。私は自分でも妙なものだと思った。彼女は頼んだ用事を何くれとなく、きちんと足してくれた。太田の裏切から私は最近別な地区に移ることに決めたが、自分で家を探がして歩くわけにも行かなかったので、それを笠原に頼んだ。それと同時に私は笠原と一緒になることを考えてみた。非合法の仕事を確実に、永くやって行くためにも、それは都合がよかった。
 下宿に男が一人でいて、それが何処にも勤めていなくて、しかも毎夜(夜になると)外出する――これこそ、それと疑われる要素を完全に揃《そろ》えていることになる。工場に勤めていた時は、そんな点はまあよかったが。殊に一晩のうちに平均して三つか四つ連絡があって、その間に一時間もブランクがある時には、外でウロウロしているわけにも行かず、一《ひと》まず家に帰ってくる。そして又出掛ける。そんな時、おばさんは現実に奇妙な顔をした。何をして食っているんだろう? おばさんの奇妙な顔はそう云っている。こういう状態だと、戸籍調べの巡査が来た時に、直ぐ見当をつけられてしまうおそれがあったのだ。
 笠原は会社に勤めているので、朝一定の時間に出る。そうなれば私がブラ/\しているように見えても、細君の給料で生活しているということになる。世間は一定の勤めをもっている人しか信用しないのだ。――それで私は笠原に、一緒になってくれるかどうかを訊《き》いた。それを聞くと、彼女は又突然あの大きな(大きくした)眼で私の顔を見はった。彼女は然し何も云わなかった。私はしばらくして返事をうながした。が黙っている。彼女はその日とう/\何も云わないで、帰ってしまった。
 その次に会うと、笠原は私の前に今迄になくチョコナンと坐っているように見えた。それは如何《いか》にもチョコナンとしていた。肩をつぼめて、両手を膝の上に置き、身体を固くしていた。彼女の下宿に泊った次の朝、下宿から一歩出たとき、「あ――あ、よかった畜生め!」と男のような明るさで叫んだ女らしさが何処にも見えなかった。私はそれを不思議に眺《なが》めた。
 私達は色々と用事の話をした。その話が途切れると、女はモジ/\した。二人ともこの前の話を避け、それを後へ後へと残して云った。用事が済んでから、私はとう/\云った。――彼女は自分の決心をきめて来ていたのだった。
 私は笠原はその後直ぐ一緒に新しい下宿に移った。そこは倉田工業から少し離れていたが、須山や伊藤は電車でも歩ける「身分」なので、こっちへ出掛けて来てもらった。それで交通費を節約し、道中の危険を少なくすることが出来た。



 須山はそっちの方に用事があると、時々私の母親のところへ寄った。そして私の元気なことを云い、又母親のことを私に伝えてくれた。
 私は自分の家を出るときには、それが突然だったので、一人の母親にもその事情を云《い》い得ずに潜《も》ぐらざるを得なかったのである。その日は夜の六時頃、私は何時《いつ》ものレンラクに出た。私は非合法の仕事はしていたが、ダラ幹の組合員の一人として広汎《こうはん》な合法的場面で、反対派として立ち働いていたのである。ところが六時に会ったその同志は、私と一緒に働いていたFが突然やられたこと、まだその原因はハッキリしていないが、直接それとつながっている君は即刻もぐらなければならないことを云った。私は一寸呆然《ちょっとぼうぜん》とした。Fの関係で私のことが分るとすれば、それは単にダラ幹組合の革命的反対派としてゞは済まない。オヤジの関係になるのだ。私は一度家に帰って始末するものはして、用意をしてもぐろうと思い、そう云った。それだけの余裕はあると思った。するとその同志は(それがヒゲだったのだが)
「冗談も休み休みに云うもんだ。」
と、冗談のように云いながら、然《しか》し断じて家へは帰ってならないこと、始末するものは別な人を使ってやること、着のみ着のまゝでも仕方がないことを云った。「修学旅行ではないからな」と笑った。ヒゲは最も断乎《だんこ》としたことを、人なつこさと、一緒に云い得る少数の人だった。彼は、もぐっている同志がとう/\行く処がなくなって、「今晩はよもや大丈夫だろう」と云うので自分の家に帰り、その次の朝つかまった話や、大切なものを処分するために、張り込んでいる危険性が充分に[#「充分に」に傍点]考えられる理由があるにも拘《かかわ》らず、出掛けて行って捕かまったという例を話した。彼はあまり、どうしてはいかぬとは云わない。そんな時は、それに当てはまる例を話すだけだった。色々な経歴を経て来ているらしく、そんな話を豊富に知っていた。
 私はヒゲから有り金の五円を借り、友達の夫婦の家に転げ込んだ。――ところが、次の朝やっぱり私の家へ本庁とS署のスパイが四人、私をつかむためにやってきたそうである。何も知らない母親は吃驚《びっくり》して、ゆうべ出てから未だ帰らないと云った。すると、その中で一番「偉そうな人」が風を喰《く》らって逃げたのかな、と云ったそうである。
 私はそのまゝ帰らなかったのである。それで須山が私の消息を持って訪ねて行ったときは、あたかも自分の息子でも帰ってきたかのように家のなかにあげ、お茶を出して、そしてまずまじまじと顔を見た。それには弱ったと須山は頭を掻《か》いていた。彼は私が家を飛び出してからのことを話して、それが途切れたりすると、「それから? それから?」とうながされた。母親は今まで夜もろくに寝ていなかった、それで眼の下がハレぼッたくたるんで、頬《ほお》がげッそり落ち、見ていると頭がガク/\するのではないかと思われるほど、首が細くしなびていた。
 終《しま》いに、母親は「もう何日したら安治は帰ってくるんだか?」と訊《き》いた。須山はこれには詰まってしまった。何日[#「何日」に傍点]? 然し今にもクラ/\しそうな細い首を見ると、彼はどうしても本当のことが云えず、「さア、そんなに長くないんでしょうな……」と云ってきたという。
 私の母親は、勿論《もちろん》私が今迄《いままで》何べんも警察に引ッ張られ、二十九日を何度か留置場で暮すことには慣らされていたし、殊《こと》に一昨年は八カ月も刑務所に行っていた。母親はその間差入に通ってくれた。それで今ではそういうことではかえって私のしている仕事を理解していてくれているのである。たゞ何故《なぜ》今迄通り、警察に素直に捕まらないのかが分らなかった。逃げ廻っていたら、後が悪いだろうと心配していた。
 私は今迄母親にはつら過ぎたかも知れなかったが、結局は私の退《の》ッぴきならぬ行動で示してきた。然し六十の母親が私の気持にまで近付いていることに、私は自分たちがこの運動をしてゆく困難さの百倍もの苦しい心の闘いを見ることが出来る気がする。私の母親は水呑《みずのみ》百姓で、小学校にさえ行っていない。ところが私が家にいた頃から、「いろは」を習らい始めた。眼鏡をかけて炬燵《こたつ》の中に背中を円るくして入り、その上に小さい板を置いて、私の原稿用紙の書き散らしを集め、その裏に鉛筆で稽古《けいこ》をし出した。何を始めるんだ、と私は笑っていた。母は一昨年私が刑務所にいるときに、自分が一字も字が書けないために、私に手紙を一本も出せなかったことを「そればかりが残念だ」と云っていたことがあった。それに私が出てからも、ます/\運動のなかに深入りしているのが、母の眼にも分った、そうすれば今度もキット引ッ張られるだろう、又仮りにそんなことが無いとしても、今は保釈になっているのだから、どうせ刑が決まれば入るのだから、その時の用意に母は字を覚え出しているのだった。私が沈む[#「沈む」に傍点]少し前には、不揃《ふぞろ》いな大きな字だったが、それでもちアんと読める字を書いているのに私は吃驚《びっくり》した。――ところが、母親は須山に「会えないだろうか?」と訊《き》いて、さア会わない方がいゝでしょう、と云われると、「手紙も出せないでしょうねえ」と云ったそうである。私はそれを須山から聞いたとき、そう云ったときの母親の気持ちがジカに胸に来て弱った。
 須山が帰るときに、母親は袷《あわせ》や襦袢《じゅばん》や猿又や足袋《たび》を渡し、それから彼に帰るのを少し待って貰って、台所の方へ行った。暫《しば》らく其処《そこ》でコト/\させていたが、何をしているのだろうと思っていると、卵を五つばかりゆで[#「ゆで」に傍点]ゝ持ってきた。そして卵は十銭に三つも四つもするのだから、新しいのを選んで必ず飲むように云ってくれと頼まれた。私はその「うで卵」を須山や伊藤などゝ食った。「な、伊藤、俺等一つでやめよう。後でおふくろにうらまれると困るから」と須山は笑った。伊藤は分からないように眼を拭《ふ》いていた。
 その後須山が私の家に寄るときに、私は四年でも五年でも帰られないことをハッキリ云ってもらうことにした。そして私を帰られないようにしているのは、私が運動をしているからではなくて、金持ちの手先の警察なのだから。私をうらむのではなくて、この倒《さかさ》になっている社会をうらまなくてはならない事を云ってもらうことにした。うやむやのことより、ハッキリしたことが分らせれば、かえってそこに抵抗力が出てくる。それに、私の知っている仲間が警察につかまって、それが共産党に関係があると云われると、残された家族の妻とか母親とかゞ、私の夫とか息子にはそんな「暗い陰[#「暗い陰」に傍点]」が無いとか、「罪にひッかけようとして」共産党だなどゝ有りもしない事実を云っているのだとか、そんなことを云っていたものがあった。だが若《も》しもそうだとすれば、共産党というものは「暗い影」であり、又共産党なら罪にひッかけてもいゝのだということを、これらの仲間の残された人たちが自分の口から云っていることになる。私は、六十の母親だが、私の母親がそれと同じように考え或《ある》いは云ったりしてはならないと思った。私の母親はその過去五十年以上の生涯を貧困のドン底で生活してきている。ハッキリ伝えれば、理解出来ると思ったのである。
 須山によると、私の母はそれを黙って聞いていたそうである。そしてそれとは別に、自分は今六十だし、病気でもすれば今日明日にも死ぬかも知れないが、そんな時は一寸《ちょっと》でも帰って来れるのだろうか、ときいた。須山はそんなことは予期もしていなかったので、どう答えていゝか分らなかった。私は後で、そういう時でも帰れないのだ、ということを云ってやった。
「オラそんなこと云えないや!」
と、須山が困った顔をした。
 私はこれらのことが母親には残酷であるとは思わぬでもなかったが、然し仕方のないことであるし、それらすべての事によって、母の心に支配階級に対する全生涯的憎悪を(母の一生は事実全くそうであった)抱かせるためにも必要だと考えた。それで私は念を押して、私が母の死目に会わないようなことがあるのも、それはみんな支配階級がそうさせているのだということを繰りかえすことを頼んだ。――だが、さすがにその日私は須山と会う時には、胸が騒いだ。
「どうだった?」
と訊いた。
「こう云ってたよ――」
 私の母はこの頃少し痩せ、顔が蒼《あお》くなっているらしかった。そして一度会えないものかどうか、ときいたというのだ。
 私はフト「渡政《わたまさ》」のことを思い出した。渡政が「潜ぐ」ったとき、彼のお母さんは(このお母さんはいま渡政ばかりでなく、全プロレタリアートのお母さんでもあるが)「政とはモウ会えないのだろうか」と同志の人にきいた。同志の人たちは「会えないのだ」ということをお母さんに云ったそうである。で、私はそのことを須山に云った。
「それは分かるが、君の居所を知らせるわけでなし、一度位何処《どこ》かで会ってやれよ。」
 実際に私の母親の様子を見てきた須山は、それにつまされ[#「つまされ」に傍点]ていた。
「が、それでなくても彼奴等は俺を探しているのだから、万一のことがあるとな。」
 が、とう/\須山に説き伏せられた。充分に気をつけることにして、何時も私達の使わない地区の場所を決め、自動車で須山に連れて来てもらうことにした。時間に、私はその小さい料理屋へ出掛けて行った。母親はテーブルの向う側に、その縁《ふち》から離れてチョコンと坐っていた。浮かない顔をしていた。見ると、母はよそ行きの一番いゝ着物を着ていた。それが何んだか私の胸にきた。
 私たちはそんなにしゃべらなかった。母はテーブルの下から風呂敷包みを取って、バナゝとビワと、それに又「うで卵」を出した。須山は直ぐ帰った。その時母は無理矢理に卵とバナゝを彼の手に握らしてやった。
 少し時間が経つと、母も少しずつしゃべりだした。「家にいたときよりも、顔が少し肥えたようで安心だ」と云った。母はこの頃では殆《ほと》んど毎日のように、私が痩《や》せ衰《おとろ》えた姿の夢や、警察につかまって、そこで「せっかん」(母は拷問のことをそう云っていた)されている夢ばかり見て、眼を覚ますと云った。
 母は又茨城にいる娘の夫が、これから何んとか面倒を見てくれるそうだから安心してやったらいゝと云った。話がそんなことになったので、私は今迄須山を通して伝えてもらっていた事を、私の口から改めて話した。「分っている」と、母は少し笑って云った。
 私はそれを中途で気付いたのだが、母親は何だか落着かなかった。何処か浮腰で話も終《しま》いまで、しんみり出来なかった。――母はとう/\云った、お前に会う迄は居ても立ってもいられなかったが、こうして会ってみると、こんなことをしている時にお前が捕かまるんじゃないかと思って、気が気でない、それでモウそろ/\帰ろうと云うのだった。道理で母は時々別なテーブルにお客さんが入ってくると、その方を見て、「あのお客さんは大丈夫らしい」とか、又別な人が入ってくると、「あの人は人相が悪い」とか云っていた。私がかえって知らずに家《うち》にいた時のような声でものをしゃべると、母がもう少し低くするように注意した。母は、会っていて、こんなに心配するよりは、会わないでいて、お前が丈夫で働いているということが分っていた方がずッといゝと云った。
 母は帰りがけに、自分は今六十だが八十まで、これから二十年生きる心積《つも》りだ、が今六十だから明日にも死ぬことがあるかも知れない、が死んだということが分れば矢張りひょっとお前が自家《うち》へ来ないとも限らない、そうすれば危いから死んだということは知らせないことにしたよ、と云った。死目に遭《あ》うとか遭わぬとかいうことは、世の普通の人にとってはこれ以上の大きな問題はないかも知れぬ。しかも六十の母親にとっては。母がこれだけのことを決心してくれたことには、私は身が引きしまるような激動を感じた。私は黙っていた。黙っていることしか出来なかった。
 外へ出ると、母は私の後から、もう独《ひと》りで帰れるからお前は用心をして戻ってくれと云った。それから、急に心配な声で、
「どうもお前の肩にくせがある……」
と云った。「知っている人なら後からでも直ぐお前と分る。肩を振らないように歩く癖をつけないとね……」
「あ、みんなにそう云われてるんだよ。」
「そうだろう。直ぐ分る!」
 母は別れるまで、独り言のように、何べんも「直ぐ分る」を云っていた。

 私はこれで今迄に残されていた最後の個人的生活の退路――肉親との関係を断ち切ってしまった。これから何年目かに来る新しい世の中にならない限り(私たちはそのために闘っているのだが)、私は母と一緒に暮らすことがないだろう。

 その頃ヒゲからレポが入った。
 ヒゲは始めT署に五日ばかりいて、それからK署に廻わされ、そこで二十九日つけられた。須山や伊藤たちの出入りしているTのところへ、彼と檻房《かんぼう》が一緒だった朝鮮の労働者がレポを持ってきたので、始めて分った。レポには、自分はアジトでやられたこと、然しその理由はどうしても見当がつかないこと、陣営を建て直すのに決して焦ったり[#「焦ったり」に○傍点]、馬車馬式[#「馬車馬式」に○傍点]になったり、便宜主義[#「便宜主義」に○傍点]になったりしないこと、そんなことが書かれていた。「焦ったり、馬車馬式に」というところと、「便宜主義」というところにはワザ/\「○」をつけていた。
 それを見て、私は須山や伊藤は、自分たちは「焦ったり」「馬車馬式」になったりするほどにさえも仕事をしていないことを恥じた。
 ヒゲの家《うち》には両親や兄弟が居り、その方からも私の名宛で(私たちの間だけで呼ばれていた名で)レポが入ってきた。――自分は「白紙の調書」を作る積りであること、私は一切のことを「知らない」という言葉だけで押し通していること。みんなはそれを見ると、
「これで太田の時の胸糞《むなくそ》が晴れた!」と云った。
 私たちは、どんな裏切者が出たり、どんな日和見《ひよりみ》主義者が出ても、正しい線はそれらの中を赤く太く明確に一線を引いていることを確信した。
 ヒゲは普段口癖のように、敵の訊問《じんもん》に対して、何か一言しゃべることは、何事もしゃべってはならぬという我々の鉄の規律には従わないで、何事かをしゃべらせるという敵の規律に屈服したことになるというのだ。共産主義者・党員にとっては敵の規律にではなく、我々の鉄の規律に従わなければならないことは当然だ、と云っていた。今彼は自分で実際にそれを示していたのだ。
「ヨシ公はシャヴァロフって知ってるか?」
と、須山が云った。
「マルクス主義の道さ。」
「又切り抜帳《スクラップ・ブック》か?」と私は笑った。
 「シャヴァロフはつかまったとき、七カ月間一言もしゃべらないでがん張ったそうだ。そして曰《いわ》くだ、――一人の平凡人にとって[#「平凡人にとって」に傍点]は、如何《いか》なる陳述もなさない事、即ち俺が七カ月頑張った其の戦術に従うに越したことはない、と云っている。」
 それを聞くと、伊藤は、
 「ところが、この前プロレタリアの芝居にもなったことのある私達の女の同志は、ちゃんと向うに分かっている自分の名前や本籍さえも云わないで、最後まで頑張り通して出てきたの。――シャヴァロフ以上よ!」
と云った。
 彼女はそれを自分のことのようにいった。須山はそれで口惜《くや》しそうに顔をゴス/\掻《か》いた。
 そこで、私達は、「一平凡人として」敵の訊問《じんもん》に対しては一言も答えないということを、こゝの細胞会議の決議として実行することにした。更にこの決議は此処《ここ》だけに止めず上層機関に報告し、それを党全体の決議とするように持って行くことにした。
 その後にTに入ったレポによると、ヒゲは更にK署からO署にタライ廻しにされ、そこで三日間朝から夜まで打《ぶ》ッ続けに七八人掛かりで拷問をされた。両手を後に縛ったまゝ刑事部屋の天井に吊《つる》し上げられ、下から其の拷問係が竹刀で殴ぐりつけた。彼が気絶すると水を呑まし、それを何十度も繰りかえした。だが、彼は一言も云わなかった。
 伊藤はそのレポを見ると、「まッ憎らしいわねえ!」と云った、彼女も二度ほど警察で、ズロースまで脱ぎとられて真ッ裸にされ、竹刀の先きでコヅキ廻わされたことがあったのだ。
 これらの同志の英雄的闘争は、私達を引きしめた。私はどうしても明日までやってしまわなければならない仕事が眠いために出来なく、寝ようと思う、そんなときに中《なか》の人たちのことを考え、我慢し、ふん[#「ふん」に傍点]張った。中の人のことを考えたら、眠いこと位は何んでもないことだった。――今中の人はどうしているだろう、殴られているだろう、じゃこの仕事をやってのけよう。そんな風で、我々の日常の色々な生活が中《なか》の同志の生活とそのまゝに結びついていた。内と外とはちがっていても、それが支配階級に対する闘争であるという点では、少しの差異がなかったからである。



 伊藤は臨時工のなかに八九人の仲間を作った。――倉田工業では六百人の臨時工を馘《くび》きるということが愈々《いよいよ》確実になり、十円の手当も出しそうにないことが(共産党のビラが撒《ま》かれてから)誰の眼にもハッキリしてきた。その不安が我々の方針と一致して、親睦会めいた固《かたま》りは考えたよりも容易《たやす》く出来た。
 女たちは工場の帰りには腹がペコ/\だった。伊藤や辻や佐々木たちは(辻や佐々木は仲間のうちでも一番素質がよかった)皆を誘って「しるこ屋」や「そばや」によった。一日の立ちずくめの仕事でクタ/\になっているみんなは甘《あま》いものばかりを食った。そして始めて機械のゴー音が無くなったので、大声で、たった一度に一日中のことをみんなしゃべってしまおうとした。
 伊藤たちは次のようにやっていた。伊藤はみんなのなかでも、「あれ」ということになっていた。それで、しるこ屋などで伊藤は「それらしいこと」を話しても別に不自然でなかった。辻と佐々木は「サクラ」をやった。みんなと一緒になり、ワザと色々な、時には反動的なことを伊藤に持ち出して、そういうことについて話のキッカケを作らせた。それは始めのうちはお互いの調子がうまくとれないで、どまつき、同じところをグル/\めぐりをしたりした。或《あ》るときなどはグル[#「グル」に傍点]になっている化けの皮が剥《は》げそうになって、ヒヤ/\した。そんな時は、終ってしるこ屋の外に出ると、三人とも自分がぐッしょり汗をかいているのに気付いた。が、一回、二回、と眼に見えて巧妙になって行った。サクラになるものが上手だと少しの考えもなく、たゞ友達位のつもりで付いてきた女工をもうま/\と引きつけることが出来た。だからサクラになるものは、意識の低い、普通の女工が知らずに抱いているような考えや偏見などをハッキリ知っていなければならなかった。
 女工たちは集まると、話すことは誰と誰が変だとか、誰と誰がくッついたとか、くッつかぬとか、そんなことばかりだった。伊藤が連絡のとき、こんなことを私に話したことがある。――マスクにいる吉村という本工からキヌちゃんというパラシュートの女工に、「何処《どこ》か静かなところで、ゆっくりお話しましょう」というラヴ・レターが来たというので、皆が工場を出るなり、キャッ/\と話している。そばやに行ってからも、そればかりが話題になった。キヌちゃんはその手紙を貰《もら》ってから、急にお白粉《しろい》が濃くなったとか、円《まる》鏡に紐《ひも》をつけて帯の前に吊《つる》し、仕事をしながら終始・覗《のぞ》きこんでいるとか、際限がない。ところが、仲間でも少し利口なシゲという女が、こんなことを云った。キヌちゃんがシミ/″\とシゲちゃんにこぼしたというのだ――静かなところで、ゆっくりお話したいと云うけれども、工場の中はこんなにガン/\しているし、夜業して帰ると九時十時になってクタ/\に疲れているし、それにあの人は七時頃帰えるので一緒になることが出来ないって。誰か「可哀相にね」と云った。するとサクラの佐々木が、「これじア私たち恋を囁やく[#「恋を囁やく」に傍点]ことも出来ないのねえ!」と云った。皆は「そうだ」とか、「本当ねえ!」とか云い始めた。
「恋を囁《ささ》やくためにだって、第一こんなに長い時間働かせられたら、たまったもんでないし、それにたまにあの人と二人で活動写真位は見たいもの、ねえ――」
 みんなが笑って、「本当よ!」と云った。
「それにはこんな日給じゃ仕様がないわ!」
「そう。少し時間を減らして、日給を増してもらわなかったら、恋も囁やけない[#「恋も囁やけない」に傍点]と来ている!」
「実際、会社はひどいよ!」
「私んとこのオヤジね、あいつ今日こんなことを怒鳴ったの、今はどんな時だか知っているか、戦争だぞ、お前等も兵隊の一部だと思って身を粉にして働かなけアならないんだ。もう少し戦争がひどくなれば、兵隊さんと同じ位の日給でドシ/\働いてもらわなくてはならないんだ。それが国のためだって。――ハゲッちョそんなことを云ってたよ!」
 これには伊藤も吃驚《びっくり》してしまった。「恋を囁やく」話が伊藤さえもがそれと気付かぬうちに、会社の待遇の問題に入って行っているのだ。このところサクラまであっけ[#「あっけ」に傍点]にとられた形だった。話はそれから少しの無理押しつけというところもなく、会社の仕打ちに対する攻撃になった。
 私はその話を伊藤から聞き、本当だと思った。戦争が始まってから労働強化は何処でもヒドクなっているのだが、同一の労働(或いは同一以上の労働)をしているにも拘《かかわ》らず、女工に対する搾取は急激に強まっている。今では全く「恋を囁《ささ》やく」ということさえも、その経済上の解決なくしては不可能になっている。それを皆はそういう言葉としてではなしに感じているのだ。
 伊藤は最近この連中を誘って、何か面白い芝居を見に行くことになっていた。伊藤や辻や佐々木は、皆が浅草のレヴューか片岡千恵蔵にしようと考えているので、それを「左翼劇場」にするためにサクラでアジることになっている。
 私は伊藤の報告のあとでそのグループに男工[#「男工」に傍点]をも入れること、それは須山と連絡をとってやればそんなに困難なことではなく、一人でも男工が入るようになれば又皆の意気込がちがうこと、もう一つの点はそのグループを臨時工ばかりにしないで本工[#「本工」に傍点]を入れるようにすること、このことが最も大切なことだ、と自分の考えを云い、彼女も同意した。
 それから私達は六百人の首切にそなえるために、今迄《いままで》入れていたどっちかと云えば工新式のビラをやめて、ビラと工場新聞を分けて独立さすことにした。
 須山に工新の題を考えて置けと云ったら、彼は「恋のパラシュート」としてはどうだ、と鼻を動かした。
 工新は「マスク[#「マスク」に傍点]」という名で出すことになった。私は今工場に出ていないので、Sからその編輯《へんしゅう》を引き受けて、私の手元に伊藤、須山の報告を集め、それをもとにして原稿を書き、プリンターの方へ廻わした。プリンター付きのレポから朝早く伊藤が受取ることになっていた。私は須山、伊藤とは毎日のように連絡をとり、工新の影響を調らべ、その教訓を直ぐ「マスク」の次の編輯に反映さした。
 伊藤や須山の報告をきいていると、会社の方も刻々と対策を練っていることが分った。今では十円の手当のことや、首切りのことについては不気味なほど何も云わなくなっていた。それは明かに、何か[#「何か」に傍点]第二段の策に出ているのだ。勿論それは十円の手当を出さないことや、首切りをウマウマとやってのけようとするための策略であることは分る。がその策略が実際にどのようなものであるかゞハッキリ分り、それを皆の前にさらけ出すのでなかったら、駄目だ。相も変らず今迄通りのことを繰りかえしているのならば、皆は我々の前から離れて行く。我々の戦術は向うのブルジョワジーのジグザッグな戦術に適確[#「適確」に傍点]に適応して行かなければならない。私たちの今迄の失敗をみると、最初のうちは何時でも我々は敵をおびやかしている。ところが、敵が我々の一応の遣《や》り方をつかむと、それの裏を行く。ところが我々は敵が一体どういう風にやろうとしているのかという点を見ようともせずに、一本・槍《やり》で同じようにやって行く。そこで敵は得たりと、最後のどたん場で我々を打ちやるのだ。
 さすがに伊藤はそれに気付いて「どうも此の頃変だ」という。然しそれが何処にあるのか判らない。
 次の日須山は小さい紙片を持ってきた。

      掲示

  皆さんの勤勉精励によって、会社の仕事が非常に順調に運んでいることを皆さんと共に喜びたいと思います。皆さんもご承知のことゝ思いますが、戦争というものは決して兵隊さんだけでは出来るものではありません。若《も》しも皆さんがマスクやパラシュートや飛行船の側を作る仕事を一生懸命にやらなかったら、決して我が国は勝つことは出来ないのであります。でありますから或《ある》いは仕事に少しのつらいことがあるとしても、我々も又戦争で敵の弾《たま》を浴びながら闘っている兵隊さんと同じ気持と覚悟をもってやっていたゞき度《た》いと思うのです。
  一言みなさんの覚悟をうながして置く次第であります。
                                       工場長

「我々の仕事は第二の段階に入った!」
と須山は云った。
 工場では、六百人を最初の約束通りに仕事に一定の区切りが来たら、やめて貰《もら》うことになっていたが、今度方針を変えて、成績の優秀なものと認めたものを二百人ほど本工に繰り入れることになったから、各自一生懸命仕事をして欲しいと云うのだった。そしてその噂《うわ》さを工場中に撒《ま》きちらし始めた。
 私と須山は、うな[#「うな」に傍点]った。明らかにその「噂《うわ》さ」は、首切りの瞬間まで反抗の組織化されることを妨害するためだった。そして他方では「掲示」を利用し、本工に編成するかも知れないと云うエサで一生懸命働かせ、モット搾《しぼ》ろうという魂胆だったのである。
 須山はその本質をバク露するために、掲示を写してきたのだった。これで私たちは会社の第二段の戦術が分った。
 私と須山と伊藤は毎日連絡をとった。が、連絡だけでは精密な対策が立たないので、一週に一度の予定で三人一緒に「エンコ」(坐ること)することになっていた、その家の世話は伊藤がやった。須山と伊藤は存在が合法的なのでよかったが、私が一定の場所に二時間も三時間も坐り込んでいることは可なり危険なので、細心の注意が必要だった。私は伊藤と街頭連絡で場所をきゝ、その周囲の様子をも調らべてみて安全だと分ると、彼女と須山に先に行ってもらって、私は別な道を選んで其処《そこ》へ出掛けることにしていた。私はそこへ行っても直《す》ぐ入らずにある一定の場所を見る。その家に異常がないと、その場所に伊藤が「記号《しるし》」をつけて置くことになっていたからである。
 昼のうちむれ[#「むれ」に傍点]ていたアスファルトから生温かい風が吹いている或る晩、私は須山と伊藤に渡す「ハタ」(機関紙)とパンフレットを持って家を出た。その夜はエンコすることになっていた。途中まで来ると、街角に巡査が二人立っていた。それからもう一つの角にくると、其処には三人立っている。これはいけないと思った。もの[#「もの」に傍点]を持っているので、今日の会合をどうしようかと思った。そう思いながら、まだ決まらず歩いていると、交番のところにも巡査が二三人立っていて、驚いたことには顎紐《あごひも》をかけている。途中から引ッ返えすことはまず[#「まず」に傍点]かったが、仕方なかった。私は一寸《ちょっと》歩き澱《よど》んだ。すると、交番の一人がこっちを見たらしい、そして私の方へ歩いて来るような気配を見せた。――私は突嗟《とっさ》に、少しウロ/\した様子をし、それから帽子に手をやって、「S町にはこっちでしょうか――それとも……」
と、訊いた。
 巡査は私の様子をイヤな眼で一《ひと》わたり見た。
「S町はこっちだ。」
「ハ、どうも有難う御座います。」
 私はその方へ歩き出した。少し行ってから何気なく振りかえってみると、私を注意した巡査は後向きになり、二人と何か話していた。畜生め! と思った。そして私は懐《ふところ》の上から「ハタ」や「パンフレット」をたたいた。「口惜しいだろう、五十円・貰《もら》い損いして!」
 私は万一のことを思い、とう/\家へ帰ってきた。次の朝新聞を見ると、人殺しがあったのだった。私たちはよく別な事件のために側杖《そばづえ》を食った。が、彼奴等はえ[#「え」に傍点]てそんな事件を口実にして、「赤狩り」をやったのだ。現に彼奴等はその度毎に「思わぬ副産物があった」とほざい[#「ほざい」に傍点]ているのがその証拠だ。Sによると、外国の雑誌に、日本では夜遅く外を歩く自由も、喫茶店で無理矢理な官憲の点検を受けずには、のんびりと話し込む自由[#「自由」に傍点]もないと書いてあるそうだが、それは本当だ。そしてそれは特に我々への攻撃のためである。
 私は常に新聞に注意し、朝出るときとか、夜出るときは、自分の出掛ける方面に何か事件が無いかどうかを調べてからにした。殊に今迄逃げ廻わっていた人殺しとか強盗が捕ったりした記事は隅《すみ》から隅まで読んだ。その時には自分の取っている新聞ばかりでなく、色々な新聞を笠原に買わして、注意して読んだ。ある時七年間隠れていたという犯人の記事などは多くの点でためになった。私は毎朝の新聞は、まずそういう記事から読み出した。
 ――私は今一緒に沈ん[#「沈ん」に傍点]でいるSやNなどの間で、「捕かまらない五カ年計画」の社会主義競争をやっている。それは五カ年計画が、六カ年になり七カ年になればなる程、成績が優秀なので、「五カ年計画を六カ年で[#「五カ年計画を六カ年で」に傍点]!」というのがスローガンである。そのためには、日常行動を偶然性に頼っていたのでは駄目なので、科学的な考顧の上に立って行動する必要があった。笠原は時々古本屋から「新青年」を買ってきて、私に読めと云う。私もどうやら時には探偵小説を、真面目《まじめ》に読むことがある。
 次の日、定期の連絡に行くと、須山は私を見るや、「よかった、よかった!」と云った。彼は私が(私は約束を欠かしたことがないので)やられたものとばかり思い、実は君の顔を見るまで、悪い想像ばかりが来て弱っていたと云うのである。私は昨日の側杖《そばづえ》を食ったことを話した。そして、
「五カ年計画を六カ年で、じゃないか!」
と、笑った。
「それはそうだが……」
 昨日私が「人殺し」の側杖をくって「エンコ」が出来なかったので、須山は今日それが出来るように用意してきていた。場所は伊藤の下宿だった。彼女はこゝ一二日のうちにそこを引き移るので、下宿を使うことにしたのである。下宿人が七八人もいるので、条件はあまり良くはなかった。私は若し小便が出たくなったら、伊藤が病気のときに買って置いた便器を使って、便所へ降りて行かないことにした。便所で同居の人に顔を合わせ、若《も》しもそれが知っている人であったりしたら大変である。
 私は二人に「そっちを見てろよ」と云って、室の隅ッこに行き、その硝子《ガラス》の便器に用を足した。伊藤は肩をクッ/\と動かして笑った。
「臭いぞ!」
と、須山は大げさに鼻をつまんで見せた。
「キリンの生《なま》だ!」
 私は便器を隅の方へ押してやりながら、そんなことを云って二人を笑わせた。
 倉田工業はいよ/\最後の攻勢に出ていることが分った。それは例えば伊藤の報告のうちに出ていた。伊藤と一緒に働いているパラシュートの女工が、今朝入った「マスク」の第三号を読んでいると、四五日前に新しく入ってきた男工が、いきなりそれをふんだくって、その女工を殴《な》ぐりつけたというのである。「マスク」やビラが入ると、みんなはオヤジにこそ用心すれ、同じ仲間には気を許す。それでうっかりしていたのであった。それを見ていた伊藤はどうも様子が変だと思い、その男を調らべてみることにした。あとで掃除婦から、その男工はこの地区の青年団の一員で在郷軍人であり、戦争が始まってから特別に雇われて入ってきたということが分った。それからその男に注意していると、第一工場にも第三工場にも仲間がいるらしい。時間中でも台を離れて、他の工場に出掛けてゆくことがあった。注意していると、オヤジはそれを見ても黙っていた。それに最近は倉田工業内に以前からあった(あったが今迄何も運動していなかった)大衆党系の「僚友会」の清川、熱田の連中とも往き来しているらしいことが分った。
 おかしなことは、今迄何もしていなかった僚友会が此の頃少し動き出していること、第二には(それは何処から出ているのか、ハッキリは分らなかったが、)国家非常時のときでもあるし、重大な責任のある仕事を受け持っている我々は他の産業の労働者よりもモット自重し緊張しなければならない、そこで倉田工業内の軍籍関係者で在郷軍人の分会を作ろうではないかという噂さが出ていること。工場長などは賛成らしいが、それは特別に雇われた連中から出ているらしく、僚友会も一二のものがそれに助力していることは確かだった。たゞそういうことは会社が表に立ってやるのでは効果が薄いので、職工の中から自発的に出てきたという風に策略していることもハッキリしている。
「君の方はどうなんだ?」
と須山にきくと、彼は、自分の方にはまだハッキリと現われていないが、と一寸考えてから最近昼休みなどに盛んに戦争のことなどについてしゃべり廻って歩いている男がいると云った。「伊藤君の今の報告で気付いたのだが」と、彼は今迄は昼休みなどに皆の話題になるのは戦争の話だとか、景気のことなどだったが、それについては皆が何処かゝら聞いてきたことや、素朴な自分の考えやを得意になって一席弁じたてたり、又しょげ込んで話したりするのだが、気付いてみると、そういうのとはちがった、何処か計画的に、煽動《せんどう》的にしゃべり廻っている奴がいるらしいと云うのだ。――これでもってみると、向うが全面的にやり出していることは、最早《もはや》疑うべくもなかった。
 そして我々が彼等に勝つためには、敵の勢力の正確な、科学的な認識が必要だった。今彼等は自分たちが上から[#「上から」に傍点]従業員を無理・強《じ》いするだけでは足りないということ、又工場の往き帰りを警察の背広で見張りさせることだけでも足りないということを知って、第三段の構えとして職工たち自身の中から我々の組織の喰込みの妨害をさせることが必要であると考えているのだ。そのために僚友会が動き出しているし、工場の中に青年団や在郷軍人の分会の組織を押し広げようとしていることが分る。工場が工場なだけに(軍需品工場なので)これらの組織が作られ易い危険な条件をそなえている。私たちは今三方の路から、敵の勢力と対峙《たいじ》していると云わなければならない。
 須山によると、工場の中で戦争のことをしゃべり廻って歩いている遣《や》り方は、今迄のようにただ「忠君愛国」だとか、チャンコロが憎いことをするからやッつけろとか、そんなことではなくて、今度の戦争は以前の戦争のように結局は三井とか三菱が、占領した処に大工場をたてるためにやられているのではなくて、無産者の活路[#「無産者の活路」に傍点]のためにやられているのだ。満洲を取ったら大資本家を排除して、我々だけで王国をたてる。内地の失業者はドシ/\満洲に出掛けてゆく、そうして行く/\は日本から失業者を一人もいなくしよう。ロシアには失業者が一人もいないが、我々もそれと同じように[#「ロシアには」から「同じよう」まで傍点]ならなければならぬ。だから、今度の戦争はプロレタリアのための戦争で、我々も及ばずながら、その与えられた部署々々で懸命に働かなければならない、と云っていた。
 僚友会の清川や熱田は、今度の戦争は結局は大資本家が新しい搾取を植民地で行うための戦争であると云って、昼休みに在郷軍人や青年団の職工などゝ議論をした。ところが清川は、たゞ今度の戦争は他の方面ではプロレタリアのために利益をもたらしている例えば金属や化学の軍需品工場などでは人が幾ら居ても足りない盛況だし、それは所謂《いわゆる》「戦争株」の暴騰を見ても分る、(そして何処で聞いてきたのか)帝国火薬の株はもと四円が今九円という倍加を示しているし、石川島造船は五円が二十五円という状態になって居り、弾丸製造に使うアンチモニーは二十円前後の相場が今百円位になっている。更に、ドイツは世界戦争で負けて減茶々々になったと思っているが、クルップ鉄工場などは平時の十倍もの純益をあげている。それだけ又我々の生活もお蔭《かげ》を蒙《こうむ》るのだから、一概に戦争に反対したって始まらない、その限りで利用しなければならない、そういうのが彼等の意見だった。こゝへくると、はじめ青年団や在郷軍人と議論していても何時の間にか意見が合っていた。
 昼休みの様子をみていると、青年団の「満洲王国」の話は、何んだか夢のような、それは信じていいのかどうか、若しも本当だとすればいゝがという程度だったが、清川たちの話には臨時工などが賛成だった。戦争に行って死んだり、不具になったり、又結局「満洲王国」と云ったところで、そんなに自分たちのためになるかどうか分ったものでない、然《しか》しとにかく戦争があったゝめに自分達は長い間の失業からどうにか職にありつけたのである、だから仕事は臨時工だというので手当もなく、強制残業させられたり、又たゞ臨時工だからというので本工と同じ分量の仕事をしているにも拘らず賃銀が安かったりするのが不満だったが、とにかく戦争のお蔭《かげ》を蒙《こうむ》っていると考えていた。
 清川のように自分が少なくとも「労働者のための」政党である大衆党の一人であるということさえも忘れて、まるで資本家にでもなったようにその株の値段を心配してやったり、そのお蔭《かげ》のことを考えているような意見でも、職工たちの(殊に臨時工の)目先きだけの利益を巧みにつかんでいるのである。
 伊藤は、自分[#「自分」に傍点]や自分たちの仲間は、皆んなの前でそんな考え方の裏を掻いて、女工たちにちゃんと納得させるという段になると、下手《へた》だし、うまく反駁《はんばく》が出来ない。「歯がゆくて仕方がない」と云った。私は伊藤のこのことは本当だと思った。私たちは今度の戦争の本質が何処にあるかということは、ハッキリ知っている。然し自惚《うぬぼ》れなく、私たちはそのことをみんなに納得させること、つまりみんなの毎日の日常の生活に即して説明してやることでは、まだ/\拙《まず》いのだ。レーニンは、戦争の問題では往々にして革命的労働組合でさえ誤まることがあると云っている。そこへもってきて清川と熱田とかはモットそれを分らなくするために努力しているのだから、益々《ますます》むずかしい。
 会社では此頃五時のところを六時まで仕事をしてくれとか、七時までにしてくれとか云って、その分に対しては別に賃銀を支払うわけでもなかった。そんなことは此頃では毎日のようになっていた。臨時工などはブツ/\云いながらも、それをしなかったりすると、後で本工に直して貰《もら》えないかも知れないと云うので、居残った。が、六時迄やるとどうしても弁当を食わなければ出来ない。弁当代は出ない。すると六時迄仕事をするために、かえって一日の貰《もら》い分が減るという状態なのである。それは賃銀を下げるぞと云わずに、実際では賃銀を下げているやり方なので、みんなは「人を馬鹿にしてる」と云って、憤慨し出した。伊藤のいるパラシュートでは、六時まで居残りのときは「弁当代を出して貰《もら》わなければ、どうもならん」と、云っている。
 そればかりでなく、最近では働く時間が十時間なら十時間と云っても、もとゝはすっかりちがっていた。本工に組み入れられるかも知れないというので、みんなの働きは見違えるほど拍車がかけられていた。前には仕事をしながら隣りと話も出来たし、キヌちゃん式に前帯に手鏡を吊《つる》して、時々・覗《のぞ》きこむことが出来たが、今ではポタ/\落ちる汗さえ袖《そで》で拭《ぬぐ》う暇がない。パラシュートなどは電気アイロンを使うので、汗でぐッしょりになる。拡げたパラシュートに汗がポタ/\落ちた。――出来高からみると、会社は以前の四〇%以上も儲《もう》けていることが分った。それに拘《かかわ》らずもと通りの賃銀しか払わないのである。それは実際に仕事をしている職工たちにはよく分った。――が、みんなは自分の生活のことになると、「戦争」は戦争、「仕事」は仕事と分けて考えていた。仕事の上にます/\のしかぶさってくる苛酷《かこく》さというものが、みんな戦争から来ているということは知らなかった。だから、その結び付きを知らせてやりさえすれば、清川や青年団などの理窟《りくつ》をみんなは本能で見破ってしまう。
 以上のことから、細胞として、どこに新しい闘争の力点が置かれなければならないかゞハッキリした。清川や熱田などが臨時工のなかに持っている影響を切り離すために、みんなで「労働強化反対」とか「賃銀値上げ」とか「待遇改善」などを僚友会に持ち込ませる。そうすれば彼等は、色々な理窟を並べながら、結局その闘争の先頭に立つどころか、みんなを円めこんでしまう。それを早速つかんでみんなの前で、彼奴等味方ではないということをハッキリさせる。更に私たちは細胞会議の決議として、「マスク」の編輯《へんしゅう》で、工場内のファシスト、社会ファシストのバクロを新しく執拗《しつよう》に取り上げてゆくことにきめた。
 書きちらしの紙片《かみ》を一つ一つマッチで焼きながら、
「こう見てくると、向うかこッちかという決戦が段々近くなっていることが分るな!」
と須山が云った。
「そうだよ、彼奴等に勝つためには科学的に正しい方針と、そいつをどんな事があっても最後まで貫徹するという決意性があるだけだ。ファシスト連が動き出したとすれば、俺たち生命がけだぜ!」
 私がそう云うと。
「我々にとって、工場は城塞《じょうさい》でなくて、これア戦場だ!」
と、須山は笑った。
「それは誰からの切抜《スクラップ》だ?」
「オレ自身のさ!」
 ――その後「地方のオル[#「オル」に傍点]」(党地方委員会の組織部会)に出ると、官営のN軍器工場ではピストルと剣を擬した憲兵の見張りだけでは足りなく、職場々々の大切な部門には憲兵に職工服を着せて入り混らせていたという報告がされた。そこの細胞が最近検挙されたが、それは知らずに「職工の服を着た憲兵」に働きかけたゝめだった。そういう「職工」はワザと表面は意識ある様子を見せるので、危険この上もなかった。倉田工業は本来の軍器工場ではないので、まだ憲兵までにはきていないが、事態がもう少し進むと、そこまで行き兼ねないことが考えられる。



 時計を見ると未《ま》だ九時だった。それで少し雑談をすることにし、私たちは身体を横にして長くなった。私は伊藤の鏡台を見て、それが笠原の鏡台よりもなかなか立派で、黄色や赤や緑色のお白粉《しろい》まで揃《そろ》っているので、
「オヤ/\!」
と云《い》った。
 伊藤はそれと気付いて、
「嫌《いや》な人!」
と、立ってきた。
「伊藤は赤、青、黄と手をかえ、品をかえて、夜な夜な凄腕《すごうで》をふるうんだ。」
と須山が笑った。
「そら、そこに三越とか松坂屋の包紙が沢山あるだろう。献上品なんだよ。幸福な御身分さ!」
 工場で一寸《ちょっと》眼につく綺麗《きれい》な女工だと、大抵監督のオヤジから、係の責任者から、仲間の男工から買物をしてもらったり、松坂屋に連れて行ってもらったり、一緒に「しるこ屋」に行っておごってもらったりする。伊藤は見込のありそうな平職工だと誘われるまゝに出掛けて行ったし、自分からも勿論《もちろん》誘うようにしていた。それで彼女は工場には綺麗に顔を作って行った。然しそれは男工の場合も同じで、小ざッぱりした身装《みなり》と少しキリリとした顔をしていると、女工たちから須山の所謂《いわゆる》「直接・且《か》つ具体的に」附きまとわれた。
「どうだい此の頃は?」
と私が云うと、須山は顎《あご》を撫《な》でゝニヤニヤした。――「一向に不景気で!」
「ヨシちゃんはまだか?」
 私は頬杖《ほおづえ》をしながら、頭を動かさずに眼だけを向けて訊《き》いた。
「何が?」
 伊藤は聞きかえしたが、それと分ると、顔の表情を(瞬間だったが)少し動かしたが、
「まだ/\!」
 すぐ平気になり、そう云《い》った。
「革命が来てからだそうだ。わが男の同志たちは結婚すると、三千年来の潜在意識から、マルキストにも拘《かかわ》らず、ヨシ公を奴隷にしてしまうからだと!」
と須山が笑った。
「須山は自分のことを白状している!」
と伊藤はむしろ冷たい顔で云った。
「良き同志が見付からないんだな。」
 私は伊藤を見ながら云った。
「俺じゃどうかな?」
 須山はむくりと上半身を起して云った。
「過ぎてる、過ぎてる!」
私はそう云うと、
「どっちが? 俺だろう?」
と、須山がニヤ/\笑った。
「こいつ! 恐ろしく図々しい自惚《うぬぼ》れを出したもんだ!」
 三人が声を出して笑った。――私は自分たちの周囲を見渡してみても、伊藤と互角で一緒になれるような同志はそんなにいまいと思っている。彼女が若し本当に自分の相手を見出したとすれば、それはキット優れた同志であり、そういう二人の生活はお互の党生活を助成し合う「立派な」ものだろうと思った。――私は今迄こんなに一緒に仕事をして来ながら、伊藤をこういう問題の対象としては一度も考えたことがなかった。だが、それは如何《いか》にも伊藤のしっかりしていたことの証拠で、それが知らずに私たちの気持の上にも反映していたからである。
「責任を持って、良い奴を世話してやることにしよう。」
 私は冗談のような調子だが、本気を含めて云った。が、伊藤はその時苦い顔を私に向けた……。

 帰りは表通りに出て、円タクを拾った。自動車は近路をするらしく、しきりに暗い通りを曲がっていたが、突然・賑《にぎ》やかな明るい通りへ出た。私は少し酔った風をして、帽子を前のめりに覆《かぶ》った。
「何処《どこ》へ出たの?」
と訊くと、「銀座」だという。これは困ったと思った。こういうさかり[#「さかり」に傍点]場は苦手なのだ。が、そうとも云えず、私は分らないように、モット帽子を前のめりにした。だが私は銀座を何カ月見ないだろう。指を折ってみると――四カ月も見ていなかった。私は時々両側に眼をやった。私がその辺を歩いたことがあってから随分変っていた。何時の間にか私は貪《むさぼ》るように見入っていた。私は曾《か》つてこれと似た感情を持ったことがある。それは一昨年刑務所へ行っていたときだった。予審廷へ出廷のために、刑務所の護送自動車に手錠をはめられたまゝ載せられて裁判所へ行く途中、私はその鉄棒のはまった窓から半年振りで「新宿」の雑踏を見た。私は一つ一つの建物を見、一つ一つの看板を見、一つ一つの自動車を見、そして雑踏している人たちの一人々々を見ようとした。私は、その人ごみの中に、誰か顔見知りの同志でも歩いているのではないだろうかと、どの位注意したか分らなかった。その後、刑務所の独房に帰ってから一二日眼がチカ/\と痛かったことを覚えている。
 自動車が四丁目の交叉《こうさ》点にくると、ジリ、ジリ、ジリとベルが鳴って、向う側の電柱に赤が出た。それで私の乗っている自動車は停車線のところで停まってしまった。直《す》ぐ窓際を色々な人の群がゾロゾロと通って行った。私は気が気でなかった。なかには車の中を覗《のぞ》き込んでゆくものさえいる。私は、イザと云えば逃げられるように、反対側のドアーのハンドルに手をかけたまゝ、顎《あご》を胸に落していた。やがて、ジリ、ジリ、ジリとベルが鳴り出した。私はホッとしてハンドルの手をゆるめた。
 私はゾロ/\と散歩をしている無数の人たちを見たが、そう云えば、私は自分の生活に、全く散歩というものを持っていないことに気附いた。私にはブラリ[#「ブラリ」に傍点]と外へ出るということは許されていないし、室の中にいても、うかつに窓を開けて外から私の顔を見られてはならないのだ。その点では留置場や独房にいる同志たちと少しも変らなかった。然しそれらの同志たちよりも或《あ》る意味ではモットつらいことは、ブラリと外へ出ることが出来て、しかもそれを抑《おさ》えて行かなければならなかったからである。
 だが、私にはどうしてもそうしなければならぬという自覚があったからよかったが、一緒にいる笠原にはずい分そのことがこたえる[#「こたえる」に傍点]らしかった。彼女は時には矢張り私と一緒に外を歩きたいと考える。が、それがどうにも出来ずにイラ/\するらしかった。それに笠原が昼の勤めを終って帰ってくる頃、何時でも行きちがいに私が外へ出た。私は昼うちにいて、夜ばかり使ったからである。それで一緒に室の中に坐るという事が尠《すく》なかった。そういう状態が一月し、二月するうちに、笠原は眼に見えて不機嫌《ふきげん》になって行った。彼女はそうなってはいけないと自分を抑えているらしいのだが、長いうちには負けて、私に当ってきた。全然個人的生活の出来ない人間と、大部分の個人的生活の範囲を背後に持っている人間とが一緒にいるので、それは困ったことだった。
「あんたは一緒になってから一度も夜うちにいたことも、一度も散歩に出てくれたこともない!」
 終《しま》いには笠原は分り切ったそんな馬鹿なことを云った。
 私はこのギャップを埋めるためには、笠原をも同じ仕事に引き入れることにあると思い、そうしようと幾度か試みた。然《しか》し一緒になってから笠原はそれに適する人間でないことが分った。如何にも感情の浅い、粘力のない女だった。私は笠原に「お前は気象台[#「気象台」に傍点]だ」と云った。些細《ささい》のことで燥《はしゃ》いだり、又逆に直《す》ぐ不貞腐《ふてく》された。こういう性質《たち》のものは、とうてい我々のような仕事をやって行くことは出来ない。
 勿論《もちろん》一日の大半をタイピストというような労働者の生活からは離れた仕事で費し、帰ってきてからも炊事や、日曜などには二人分の洗濯などに追われ、それは随分時間のない負担の重い生活をしていたので、可哀相《かわいそう》だったが、彼女はそこから自分でグイと一突き抜け出ようとする気力や意識さえもっていなかった。私がそうさせようとしても、それに随《つ》いて来なかった。
 私は自動車を途中で降り、二《ふた》停留所を歩き、それから小路に入り、家に帰ってきた。笠原は蒼《あお》い、浮かない顔をして室の中に横坐りに坐っていた。私の顔をみると
「首になったわ……」
と云った。
 それがあまり突然なので、私は立ったまゝだまって相手を見た。
 ――笠原は別に何もしていなかったのだが、商会では赤いという噂《うわ》さがあった。それで主任が保証人である下宿の主人のところに訪ねてきた。ところが、彼女は以前からそこにいないということが分ってしまった。私のアジトは絶対に誰にも知らしてはならないので、彼女は自分の下宿を以前のところにしてあったのである。商会ではそれでいよ/\怪しいということになり、早速やめさせたのだった。
 私は今迄笠原の給料で間代や細々《こまごま》した日常の雑費を払い、活動に支障がないように、やっとつじつまを合せてきていたので、彼女の首は可なりの打撃だった。だが、そうと決れば、この際少しでも沢山の金を商会から取ることだったが、私が非合法なので強いことは云えなかった。事実、主任は警察の手が入らないだけ君の儲《もう》けなのだから、おとなしく引いて貰《もら》いたいと、暗に釘を打っていた。
 私たちはテキ面に困って行った。悪いことには、それが直《す》ぐ下のおばさんに分る。下宿だけはキチンとして信用を得て置かなければ、うさん臭く思われる。そうなるとそれはたゞ悪いというだけで済まなくて、危険だった。それで下宿代だけはどうしても払うことにした。だがそうすると、あと二三円しか残らなかった。二三円などは直ぐ無くなる。笠原は就職を探すために、毎日出掛けて行くし、私も一日四回平均には出なければならなかった。私は今まで乗りものを使っていたところを歩くことにした。そのために一つの連絡をとるのに、その前後三四十分という時間が余分にかゝり処《ところ》によると往きと帰りに二時間もかゝり、仕事の能率がメキ/\と減って行った。私は「基金カンパ」を起しているのだと云って、会う同志毎に五銭、十銭とせしめた。こうなると、須山の「神田伯山」もないものだ、と私は苦笑した。須山や伊藤は心配してくれた。自分たちは合法的な生活をしているので、金が無くても致命的ということは尠《すくな》いし、それに誰からでも金は借りられると云うので、日給から五十銭、一円と私のために出してくれた。私は、そういう金はウカツに使えないと思ったので、仕事のための交通費に当て、飯の方を倹約した。なす[#「なす」に傍点]が安くて、五銭でも買おうものなら、二三十もくるので、それを下のおばさんのヌカ味噌[#「ヌカ味噌」に傍点]の中につッこんで貰《もら》って、朝、ひる、夜、三回とも、そのなす[#「なす」に傍点]で済ました。三日もそれを続けると、テキ面に身体にこたえてきた。階段を上がる度に息切れがし、汗が出て困った。
 腹が減り、身体が疲れているのに、同じものだと少しも食欲が出なかった。終《しま》いには飯にお湯をかけ、眼を力一杯につぶって、ザブ/\とかッこんだ。それでも飯のあるときはよかった。夜三つ位の連絡を控えていて、それも金がないので歩き通さなければならない時、朝から一度しか飯を食っていない時は、情けない気がした。私は一度その同志に会えたらパン位にはありつけるだろうと、当てにして行ったのだが、まんまと外ずれてしまったことがあった。その同志は気の毒そうな顔をして、自分はこの次にMに会うが、或いはパン代位は出そうだから一緒に行ってみようと云った。Mとは顔見知りだし、我慢の出来なくなった私はそうすることにした。私はそこでパンとバタにありつけた。Mは「パン一斤《きん》食うために、大の男がのこ/\出掛けてきて、つかまったりしたら、事だぜ!」と笑った。「まず、我にパンを与えよ、だよ!」私はそんなことを云って笑ったが、――こういう状態が続くということは全くよくないことだと思った。しっかりと腰を据え、長い間決してつかまらずに仕事をしてゆくためには、こんな無理や焦り方をしては駄目だ。
 私は最後の手段をとることにきめた。その日帰ってきて、私は勇気を出し、笠原にカフェーの女給になったらどうかと云った。彼女は此頃では毎日の就職のための出歩きで疲れ、不機嫌になっていた。私の言葉をきくと、彼女は急に身体を向き直し、それから暗いイヤな顔をした。私はさすがに彼女から眼をそらした。だが、彼女はそれっきり頑《かた》くなに黙りこんだ。私も仕方なく黙っていた。
「仕事のためだって云うんでしょう……?」
 笠原は私を見ずに、かえって落付いた低い声で云った。それから私の返事もきかずに、突然カン高い声を出した。
「女郎にでもなります!」
 笠原は何時《いつ》も私について来ようとしていないところから、為《な》すことのすべてが私の犠牲であるという風にしか考えられなかった。若《も》しも犠牲というならば、私にしろ自分の殆《ほと》んど全部の生涯を犠牲にしている。須山や伊藤などゝ会合して、帰り際になると、彼等が普通の世界の、普通の自由な生活に帰ってゆくのに、自分には依然として少しの油断もならない、くつろぎのない生活のところへ帰って行かなければならないと、感慨さえ浮かぶことがある。そして一旦《いったん》つかまったら四年五年という牢獄が待ちかまえているわけだ。然しながら、これらの犠牲といっても、幾百万の労働者や貧農が日々の生活で行われている犠牲に比らべたら、それはものゝ数でもない。私はそれを二十何年間も水呑《みずのみ》百姓をして苦しみ抜いてきた父や母の生活からもジカに知ることが出来る。だから私は自分の犠牲も、この幾百万という大きな犠牲を解放するための不可欠な犠牲であると考えている。
 だが、笠原にはそのことが矢張り身に沁《し》みて分らなかったし、それに悪いことには何もかも「私の犠牲」という風に考えていたのだ。「あなたは偉い人だから、私のような馬鹿が犠牲になるのは当り前だ!」――然し私は全部の個人生活というものを持たない「私」である。とすればその「私」の犠牲になるということは何を意味するか、ハッキリしたことだ。私の組織の一メンバーであり、組織を守り、我々の仕事、それは全プロレタリアートの解放の仕事であるが、それを飽《あ》く迄《まで》も行って行くように義務づけられている。その意味で、私は私を最も貴重にしなければならないのだ。私が偉いからでも、私が英雄だからでもない。――個人生活しか知らない笠原は、だから他人《ひと》をも個人的尺度でしか理解出来ない。
 私はこのことをよく笠原に話した、彼女は黙ってきいていた。が、その日はそれから一言も云わずに、彼女は早く寝てしまった。



 夜、「マスク」の原稿を書いたり、地方の「オル」に出す報告を整理したり、それに配布の方から廻ってきて、少し停滞しているパンフレットや資料を読んで遅くなったので、次の朝十時頃まで寝ていた。――私は、下に誰か訪ねてきたりするのには、自分でも驚くほど敏感だった。私はそれで「ハッ!」として眼がさめたらしい。頭をあげると、矢張り巡査だった。戸籍しらべに来ている。私はこういう時に自分が引張り出されないようにと、前から原籍や氏名などを書いて、おばさんに渡してあった。巡査は細々と、しつこく訊《き》いていた。おばさん一家のことも、まるで犯罪でも調らべるようにきいている。これはどうも様子がおかしいなという予感が来た。私は耳をすましながら、書類の入っているトランクに鍵を下ろして、音がしないように着換をはじめた。――「間借は?」ときいている。「ハ、居ます。」……おばさんは茶の間に戻ってきて、私の書いた紙片を渡したらしい。
「これにはこの前にいたところが書いてないね。」……「夫婦かね?」とか、「何時籍が入ったのか、それとも籍が入ってないのかも、これじゃハッキリしていない。」おばさんが何か云っている。「夫の方は勤めてないのか?」……「今、居るの?」――私は来たな、と思った。「今出ています。」おばさんの云うのが聞えた。私はホッとすると同時に、やっぱり有り金をたゝいて間代だけは払って置いて良かったと思った。「じゃ、後でモウ少し詳しく聞いておいて、な。」と、巡査が云って帰りかけたらしい。私はやれ/\と思って、又・蒲団《ふとん》の上に腰を下したとき、戸をあけながら巡査の声がした、「この頃、赤がよく間借りをしているから、気をつけてもらわんと……。」私はギクッとした。おばさんは「ハア?」と云《い》って訊きかえしている。巡査はそれに二言三言云ったらしかった。おばさんには「赤」というのが何んであるか分らなかったのだろう。
 私はこういう調べ方のうちに、只事《ただごと》ならぬものを感じた。その日、連絡から帰ってくると、隣りの町で巡査が戸籍名簿をもって小さい店家に寄っていた。ところが、そこから一町と来ないうちに、同じ町なのに今度は二人の巡査が戸籍名簿をもって小路から出てきた。私はSに会ったとき、朝の戸籍調べのことを話したら、全市を挙げて虱《しらみ》つぶしに素人下宿の調査をしているらしいから気を付けないといけないと云った。私はこの物々しい調べ方にそれを感じた。
 彼奴等は今まで何べんも党は壊滅したとか、根こそぎになったとか云ってきた。それを自分たちの持っている大きな新聞にデカ/\と取り上げて、何も知らない労働者にそのことを信じこませ、大衆から党の影響を切り離すことにムキになってきた。ところが、そんなことをデカ/\と書いた直ぐ後から、到《いた》る処で党が活動している。それはどう誤魔化《ごまか》しようにも誤魔化しがきかなかった。殊《こと》にこの戦争の時期に「メーデー」とか、八月一日の「国際反戦デー」というような大きなカンパを前にして、彼奴等はどうでもこうでも党の力を根こそぎにしなければならなかった。彼等はそのために全力を彼等の持っているあらゆる国家権力を総動員している。口では党を侮《あなど》ったり、デマを飛ばしたり見縊《みくび》っているが、この事実こそは明かにそれを裏切って、党が彼奴等の最大の敵であることを示している。外国のある記事には、日本の党のことを「小さくして戦闘的な党」と書いているそうだが、(Sは須山の「神田伯山」とちがって、こういうことをよく知っていた)彼はそのことを私に話したとき、「この小さくして戦闘的な党は、一国の国家権力と対等に[#「対等に」に傍点]、否対等以上に対立している大勢力なんだ」と云って、この「小さくして戦闘的な党」を根こそぎにするために、何百万倍も大きな図体《ずうたい》の彼奴等が躍気《やっき》となっている、だから、この小さい俺達一人々々と雖《いえど》もそれだけの「自負」を持って仕事をして行かなければならないと云った。
「それア素晴しい自負だ!」と云って、その時私たちは無精《むしょう》に喜んだ。その自負を最後まで貫徹するために、彼奴等に、捕まったりしてはならなかった。
 下宿がこんな具合だと危険この上もない。私や須山や伊藤はメーデーをめざして倉田工業を動かそうと思っている。六百人の臨時工の首切と伴って、私たちさえしっかりしていれば、その可能性は充分にあった。それを今やられたら、全く階級的裏切となるのだ。Sは此《こ》の頃・枕《まくら》もとに太身のステッキと草履を用意して寝ることにしているそうだ。私はそのことに気付いたので、まだ実行していなかった物干に草履をおいて置くために、途中一足買って戻ってきた。
 私は須山と会ってみて、「赤狩り」は何も外《そと》ばかりでないことを知った。――連絡に行くと、向うから須山が顔一杯にほう[#「ほう」に傍点]帯をし、足を引きずって、やってくるので、私は吃驚《びっくり》した。「やられた!」と云うのだ。彼は時々ほう[#「ほう」に傍点]帯の上から顔を抑えた。傷が痛んで、どうしようかとも思ったが時期が時期だし、連絡が切れると困るので、ようやくやってきたのだった。私たちは外を歩くのをやめて、しるこ屋に入った。
 工場では外《そと》の警察だけではあまり効果がないと云うので、清川や熱田の「僚友会」や在郷軍人の青年団を入れ、内部から「赤狩り」をしようとしたのに、「マスク」やビラなどで、その事さえバク露されて、あせり出したらしい。ところが会社はこの二三日前から例の「慰問金」の募集をやり出した。時期おくれに倉田工業がそれをやり出したというのはそれでもって工業内の雰囲気《ふんいき》を統一して、所謂《いわゆる》赤の喰い込む余地をなくしようという目的からだった。「忠君愛国」であろうが、何んであろうが、彼等は自分の利益にならないものなら、見向きもしない。会社にこのことを献策したのは、パラシュート工場で、「マスク」を持っていた女工を殴ぐりつけた「職工の服を着た」在郷軍人の青年団たちらしい。
 須山はこの問題をつかんで、「僚友会」の清川や熱田を大衆から切り離すことをしようと考えた。伊藤もそれに賛成した。労農大衆党という兎《と》にも角にも労働者のための党であり、兎にも角にも帝国主義戦争には反対している、だが本当は少しも「労働者のための党」でもなく、帝国主義戦争にも上《うわ》べだけでしか反対していないのだということを、皆の前で知らせる必要があった。須山と伊藤は「僚友会」の平メンバーに入っていた。プロレタリアートがブルジョワジーのあらゆる偽マン的政策の本質をえぐり出して、戦争に反対するという困難な仕事をしてゆくためには、何より「僚友会」のような見せかけの味方――右翼・日和見《ひよりみ》主義者と闘って行かなければならぬ。須山は慰問金のことで、「僚友会」の定期総会を開いたらどうか、と清川のところへ持って行った。それと同時に伊藤の仲間や自分の仲間を通して、「慰問金」募集の問題を一般に押し拡めることにした。
 総会に出てみると、驚いたことには青年団の職工も来ている。私たちが「僚友会」を重くみていたのは、そこには臨時工はホンの少ししかいなかったが、本工が多かったからである。伊藤や須山の仲間には本工が一人か二人しかいなかった。本工を獲得することの重要さが繰りかえされながら、それがなか/\困難なところから、成績が挙っていなかったのだ。「僚友会」も二三の人間をのぞけば、漠然とした考えから入っているので、それらの眼の前で清川が正しいか、須山が正しいかをハッキリと示せば、それらのものでこっちについてくる可能性が充分にあった。
「僚友会」は戦争が始まってから半年にもなると云うのに、一二度しか会合を持っていなかった。仲間のうちでもそれをブツ/\云っていた。須山はまず皆の前で、これだけの労働者や農民が戦地に引き出され、且つ日常生活でもこれだけの強行軍をやらされているときに、「僚友会」が一度も真剣に開かれなかったことは、階級的裏切りだ、というところから始めた。五六人が「異議なしだな……。」と云った。が、その連中は云ってしまってから、モジ/\している。私も須山も反動組合の「革反」の経験があるので、その「異議なしだな」と云って、モジ/\したのがよく分った。それで私は笑った。須山も笑った。が、彼は「痛た、痛た!」とほう[#「ほう」に傍点]帯の上から顔を抑えた。彼は、よく人の特徴をつかんだ真似がうまかった。
 慰問金のことになると、清川は、満洲に行っている兵士は労働者や農民で、我々の仲間だ、だからプロレタリアートの連帯心として慰問金を送ることは差支えないと云った。皆は自分の爪をこすりながら、黙ってきいていた。我々の同志は工場にいたときは資本家に搾られ、戦場へ行っては、敵弾の犠牲となっている。だが、この我々の同志を守るものは我々しかない[#「我々しかない」に傍点]、だから我々は慰問金の募集に応じて差支えない――清川の説に、今度は皆はもっともらしくうなずいた。
 見ていると、伊藤は困ったように眉をしかめていたが、
「そうだろうか――?」
と云った。
 僚友会には女工が十四五人いたが、会に出てくるものは二人位しかいなかった。それを伊藤が誘い合わせたので、六人ほど出ていた。僚友会としてはめずらしいことだった。――ところが僚友会で女が発言したことは今迄《いままで》になかったので、皆は急に伊藤の顔を見た。
「清川さんの話を聞いていると、もっともらしいが何んだか陸軍大臣の訓辞をきいているようで……」
 皆はドッと笑った。
「清川さんでも誰でも、今度の戦争が私たちのためでなくて、結局は矢張り資本家のためにやられているということは分りきっている。若《も》しも私たち職工や失業者や貧乏百姓のためにやられているものとしたら、私たちは勿論《もちろん》裸になっても有り金全部は慰問金にして送ってもいゝが、――そうでない。」
 伊藤がそう云うと、青年団の職工が突然口を入れて妨害し出した。それで、須山が割って入った。彼は清川の言葉をそのまゝ使って、「我々労働者は工場にいるときは搾られ、資本家の用事がなくなれば勝手に街頭に放り出され、戦争になれば一番先きに引ッ張り出される。どの場合でもみんな資本家のためばかりに犠牲にされている。――だから、若《も》しも慰問金を出すならば彼奴等[#「彼奴等」に傍点]が出さなければならないのだ!」
 そういうと、皆は又それもそうだというような顔をした。
「慰問金を我々に出させるのは、彼奴等は戦争は自分たちのためにやられているのではなくて、国民みんなのためにやられているのだと思いこませるためのカラクリなのだ。」
 すると、伊藤は須山のあとを取って、「赤い慰問袋」の話をしたり、戦争になってから少しも自分たちが生活が楽にならなかった[#「かった」に傍点]ことなどを話した。そうなると清川たちはモウ太刀打ちは出来ないのだ。清川は僚友会の「おん大」の貫禄をみんなの前で下げてしまった。青年団の職工だって、駄目なのだ。だが、こういう社会ファシストの本体というのは本当の芝居を大衆の前ではなくて背《うしろ》の方で打つところに面目があるのだから、これだけでうまく行ったと思えば大間違いなのだ。
 その会合の帰り、青年団の奴が二三人で、
「お前は虎だな!」と云って、「一寸来い!」
と云うのだ。そして小路へ入るなり、いきなり寄ってたかって殴ぐりつけた。
「三人じゃ、俺も意気地なくのび[#「のび」に傍点]てしまったよ!」
と須山は笑った。
 須山は直ぐ伊藤を通じて、昨日集まった僚友会のメンバーに、この卑怯《ひきょう》なやり方を知らせて貰《もら》うことにした。それが何よりどっちが正しいかを示すことになるからである。
 須山に会ってから一時間して、伊藤と会うと、慰問金のことでどうして殴ぐり合いになったかと皆んなが興味をもってきくので、殴ぐり合いのことを話しているうちに慰問金の本当の意味のことが話せて都合が良かったと、喜んでいた。――慰問金のことを充分に皆に分らせることが出来なかったと思って心配したのだが、皆は理窟より前に、この仕事のつらさにもってきて、その上又金まで取られたら、「くたばる[#「くたばる」に傍点]ばかりだ」と云うので、案外にも募集は不成功に終った。工場の様子では、殴ぐられてから須山の信用が急に高くなった。職工たちはそういうことだと、直《す》ぐ感激した。その代り須山はおやじ[#「おやじ」に傍点]ににらまれ出したので、ひょっとすると危いと、伊藤は云った。
「今度の慰問金の募集は、どうも会社が職工のなかの赤に見当をつけるために、ワザとやったようなところがある……?」
 私は確かにそうだ、と云った。
 すると彼女は、
「少し乗せ[#「乗せ」に傍点]られた――」
と云った。
 私は、何時《いつ》もの伊藤らしくないと思って、
「それは違う!」と云った――「俺たちはその代り、何十人という職工の前に、誰が正しいかということを示すことが出来たんだ。それと同時に、僚友会のなかに我々の影響下を作れるし、それを放って置くのではなしに、組織的に確保したら素晴しい成果を挙げ得たことになる。少しの犠牲もなしに仕事は出来ない。これらは最後の決定的瞬間にキット役に立つ。」
 伊藤は、急に顔を赤くして、
「分ったわ! そうねえ。――分ったわ!」
と云って、それが特徴である考え深い眼差《まなざし》で、何べんもうなずいた。
 私は冗談を云った。
「最後に笑うものは本当に笑うものだから、今のうちに須山に渋顔をしていて貰うさ!」
 伊藤も笑った。
 彼女はそれから自分たちのグループを築地小劇場の芝居を見に連れて行ったことを話した。どの女工も芝居と云えば歌舞伎(自分では見たことが無かったが)か水谷八重子しか知らないのに、労働者だとか女工だとかゞ出てきて、「騒ぎ廻わる」ので吃驚《びっくり》してしまったらしかった。終ってから、あれは芝居じゃないわ、と皆が云う。伊藤が、じア何んだと訊《き》くと、「本当のことだ」と云う。面白い? と訊くと、みんなは「さア――!」と云ったそうだ。――然《しか》し余程びッくりしたとみえて、後になってもよく築地の話をし出すそうである。伊藤に何時でもなつい[#「なつい」に傍点]ている小柄のキミちゃんというのが、
「あたし女工ッて云われると、とッても恥かしいのよ。ところが、あの芝居では女工ッてのを鼻にかけてるでしょう。ウソだと思ったわ。」
 そんなことを云った。が、それでも考え/\、「ストライキにでもなったら、ウンと威張ってやるけれど、隣近所の人に女工ッて云うのは矢張り恥かしいわ!」
 みんなに、何時かもう一度行こうか、ときくと、行こうというのが多いそうだ。それはあの芝居を見ると、うち[#「うち」に傍点]の(うち[#「うち」に傍点]のというのは、自分の工場のことである!)おやじとよく似た奴がウンといじめられるところがあるからだという理由だった。
 伊藤が、何気ないように、どうせ俺ら首になるんだ、おとなしくしていれば手当も当らないから、あの芝居みたいに皆で一緒になって、ストライキでもやって、おやじ[#「おやじ」に傍点]をトッちめてやろうかと云うと、みんなはニヤ/\して、
「ウン……」と云う。そしてお互いを見廻しながら、「やったら、面白いわねえ!」と、おやじのとッちめ方をキャッ/\と話し合う。それを聞いていると、築地の芝居と同じような遣《や》り方を知らず識《し》らずに云っていた。
 伊藤の影響力で、今迄のこの仲間に三人ほど僚友会の女工が入ってきた。それらは大ッぴらな労働組合の空気を少しでも吸っているので、伊藤たちが普段からあまりしゃべらない事にしてある言葉を、平気でドシ/\使った。それが仲間との間に少しの間隙を作った。それと共に、それらの女工はどこか「すれ[#「すれ」に傍点]」ていた。「運動」のことが分っているという態度が出ていた。――伊藤はその間のそり[#「そり」に傍点]を合わせるために、今色々な機会を作っていた。「小説のようにはうまく行かない」と笑った。
 私たちは「エンコ」する日を決め、伊藤が場所を見付けてくれることにした。愈々《いよいよ》最後の対策をたてる必要があった。
「あんた未だなす[#「なす」に傍点]?」
 伊藤が立ち上がりながら、そう訊いた。
「あ。」
と云って、私は笑った、「お蔭様で、膝《ひざ》の蝶《ちょう》ちがい[#「ちがい」に傍点]がゆるんだ!」
 伊藤は一寸帯の間に手をやると、小さく四角に畳んだ紙片を出した。私はレポかと思って、相手の顔を見て、ポケットに入れた。
 下宿に帰って、それを出してみると、薄いチリ紙に包んだ五円札だった。



 笠原は小さい喫茶店に入ることになった。入ると決まるとさすがに可哀相《かわいそう》だった。運動しているものが、生活の保証のために喫茶店などに入るのは、何んと云《い》っても恐ろしいことで、そういう同志は自分ではいくらしっかりしていようとしても、眼に見えて駄目になって行く。我々にとって「雰囲気」というものは、魚にとっての水と少しもかわらないほど大切なのだ。女の同志が自分一個のためでも、又男と女が一緒に仕事をしていて、とも倒れ[#「とも倒れ」に傍点]からのがれるために喫茶店に入るときでも同じである。ところが笠原の場合、その仕事の訓練さえも持っていないので、ズルズルと低い方に自分の身体を傾けてゆくのは分りきっていた。――だが、どうしても自分の全生涯をとして運動をやろうという気魄《きはく》も持たず、しかも他方私の組織的な仕事は飽《あ》く迄《まで》も守ってゆかなければならぬドタン場に来ている以上、センチメンタルになっていることは出来なかった。
 笠原は始め下宿から其処《そこ》へ通った。夜おそく、慣《な》れない気苦労の要《い》る仕事ゆえ、疲れて不機嫌な顔をして帰ってきた。ハンド・バッグを置き捨てにしたまゝ、そこへ横坐りになると、肩をぐッたり落した。ものを云うのさえ大儀そうだった。しばらくして、彼女は私の前に黙ったまゝ足をのばしてよこした。
「――?」
 私は笠原の顔を見て、――足に触って見た。膝頭[#「膝頭」に傍点]やくるぶし[#「くるぶし」に傍点]が分らないほど腫《むく》んでいた。彼女はそれを畳の上で折りまげてみた。すると、膝頭の肉がかすかにバリバリと音をたてた。それはイヤな音だった。
「一日じゅう立っているッて、つらいものね。」
と云った。
 私は伊藤から聞いたことのある紡績工場のことを話した。「立《た》ち腫《は》れ」がして足がガクつき、どうしても機械についていられない。それを後から靴で蹴《け》られながら働いていることを話した。私はそして、笠原がそういう仕事のつらさ[#「つらさ」に傍点]を、自分だけのつらさで、自分だけがそこから逃れゝば逃れることの出来るつらさと考えず、直ぐそれがプロレタリア全体の縛りつけられているつらさであると考えなければならないと云った。笠原は聞いていて、
「本当に!」と云った。
 私は久し振りに自分の胡坐《あぐら》のなかに、小柄な笠原の身体を抱えこんでやった――彼女は眼をつぶり、そのまゝになっていた……。
 笠原はその後、喫茶店に泊りこむことになった。その経営者は女で、誰かの妾《めかけ》をしているらしかった。女一人で用心が悪いので、そこで飯を食っても同じ給金は出すから寝泊りして欲しいというのだった。それで下宿には暫《しば》らく国へ帰ってくるということにして、出掛けて行った。女主人は高等師範か女子大か出た英語の達者な女で、男は一人でなくて三人位はいるらしく、代る代り他所で泊って、朝かえってきた。大学の教授や有名な小説家や映画俳優がいて、その女は帰ってくると、一々・際《きわ》どいところまで詳しく話して、比較をやったりするので、笠原は弱った。そして昼過ぎの二時三時まで寝ていた。私は朝起きても、めしが無いときは、そこの喫茶店に出掛けて行った。朝のうちはお客さんは殆《ほと》んど無かったので、笠原の食うごはんのように装わして、飯を焚《た》かせ、腹につめこんだ。はじめ笠原が嫌がったが、終《しま》いには「この位のこと当然よ!」と云うようになった。喫茶店の台所は狭くて、ゴタ/\していて、ジュク/\と湿ッぽかった。私はそこにしゃがんで、急いでめしをかッこんだ。
「いゝ恰好《かっこう》だ!」
 笠原は二階の方に注意しながら、私の恰好を見て、声をのんで笑った。
 然し笠原の雰囲気はこの上もなく悪い。女主人の生活もそうだし、女のいる喫茶店にはたゞお茶をのんで帰ってゆくという客ではなく、女を相手に馬鹿話をしてゆく連中が多かった。それに一々調子を合わせて行かなければならない。それらが笠原の心に沁《し》みこんでゆくのが分った。私はまだ笠原の全部を投げ出しているのではない、機会があったらと色々な本を届けたり、出来るだけ色々な話をしてやっていたのだ。だが、彼女は今迄《いままで》よりモット色々なことをおッくうがり、ものごとをしつこく考えてみるということをしなくなった。
 然《しか》し私はそんなに笠原にかゝずり合っていることは出来なかった。仕事の忙がしさが私を引きずッた。倉田工業の情勢が切迫してくるとゝもに、私は笠原のところへはたゞ交通費を貰《もら》いに行くことゝ、飯を食いに行くことだけになって、彼女と話すことは殆《ほと》んどなくなってしまっていた。気付くと、笠原は時々淋しい顔をしていた。が私はとにかく笠原のおかげで日常の活動がうまく出来ているのだから、その意味では彼女と雖《いえど》も仕事の重要な一翼をもっていることになる。私はそのことを笠原に話し、彼女がその自覚をハッキリと持ち、自分の姿勢を崩さないようにするのが必要だと云った。
 だん/\私には、交通費や飯にありつくために出掛けることさえ余裕なくなり、その喫茶店には三日に一度、一週間に一度、十日に一度という風に数少なくなって行った。「地方」「地区」それに「工細」と仕事が重なって居り、一日に十二三回の連絡さえあることがあった。そんな時は朝の九時頃出ると、夜の十時頃までかゝった。下宿に帰ってくると首筋の肉が棒のように固《こ》わばり、頭がギン、ギン痛んだ。私はようやく階段を上がり、そのまゝ畳のうえにうつ伏せになった。私はこの頃、どうしても仰向けにゆッたりと寝ることが出来なくなった。極度の疲労から身体の何処《どこ》かを悪くしているらしく、弱い子供のように直ぐうつ伏せになって寝ていた。私は思い出すのだが、父が秋田で百姓をしていた頃、田から上がってくると、泥まみれの草鞋《わらじ》のまゝ、ヨクうつ伏せになって上り端《はな》で昼寝していた。父は身体に無理をして働いていた。小作料があまり酷なために、村の人が誰も手をつけない石ころ[#「ころ」に傍点]だらけの「野地《やじ》」を余分に耕やしていた。そこから少しでも作《さく》をあげて、暮しの足《たし》にしようとしたのである。そんなことのために父はひどく心臓を悪くしていた。――私はどうしてもうつ[#「うつ」に傍点]伏せにならないと眠れないとき、自分がだん/\父と似てくるように思われた。然し父は、地主に抗議して小作料を負けさせることをせずに、自分の身体をこわ[#「こわ」に傍点]してまで働くことでそれから逃れようとした、二十何年も前のことだが。然し私はちがう。私はたった一人の母とも交渉を断ち、妹や弟からも行衛《ゆくえ》不明となり、今では笠原との生活をも犠牲にしてしまった形である。それに加えてどうやら私は自分の身体さえそのために壊れかけているようだ――これらは然し私の父のように地主や資本家にモッと奉公してやるためでなく、まさにその反対のためである!
 私にはちょんびりもの個人生活も残らなくなった。今では季節々々さえ、党生活のなかの一部でしかなくなった。四季の草花の眺めや青空や雨も、それは独立したものとして映らない。私は雨が降れば喜ぶ。然しそれは連絡に出掛けるのに傘《かさ》をさして行くので、顔を他人《ひと》に見られることが少ないからである。私は早く夏が行ってくれゝばいゝと考える。夏が嫌だからではない、夏が来れば着物が薄くなり、私の特徴のある身体つき[#「身体つき」に傍点](こんなものは犬にでも喰われろ!)がそのまま分るからである。早く冬がくれば、私は「さ、もう一年寿命が延びて、活動が出来るぞ!」と考えた。たゞ東京の冬は、明る過ぎるので都合が悪かったが。――然しこういう生活に入ってから、私は季節に対して無関心になったのではなくて、むしろ今迄少しも思いがけなかったような仕方で非常に鋭敏になっていた。それは一昨年刑務所にいたとき季節々々の移りかわりに殊の外鋭敏に感じたその仕方とハッキリちがっている。
 これらは意識しないで、そうなっていた。置かれている生活が知らずにそうさせたのである。もと、警察に追及されない前は、プロレタリアートの解放のために全身を捧《ささ》げていたとしても、矢張り私はまだ沢山の「自分の」生活を持っていた。時には工場の同じ組合の連中(この組合は社民党系の反動組合だった。私はそこでの反対派として仕事をしていた)と無駄話をしながら、新宿とか浅草などを歩き廻わることもしたし、工場細胞としての厳重な政治生活が規制されていたが、合法生活が当然伴う「交際」だとか、活動写真を見るとか、(そう云えば私は最近この活動写真の存在ということをすッかり忘れてしまっている!)飲み食いが私の生活の尠《すく》なからざる部分を占めていた。時にはこういう生活から、工細としての仕事を一二日延ばしたりしたことがあった。又自分だけの名誉心が知らずに働いていて、自分の名誉を高めるような仕事と工細の仕事と食い合ったとき、つい[#「つい」に傍点]自分の方のことから先きに手がついたことが一再ならずあった。これは勿論《もちろん》その後の仕事のなかで変ってきたが、それでも党員としての「廿四時間の政治生活」を私がしていたとは云えなかった。然しそれは私にばかり罪があるのではない。一定の生活が伴わない人間の意識的努力には限度がある。一切の個人的交渉が遮断され、党生活に従属されない個人的欲望の一切が規制される生活に置かれてみて、私が嘗《か》つて清算しよう清算しようとして、それがこの上もなく困難だったそれらのことが、極めて必然的に安々と行われていたのを知って驚いた。それはこれまでの一二カ年間の努力を二三カ月に縮めて行われた。と云うことが出来る。始めこの新しい生活は、小さい時誰が一番永く水の中に潜ぐっているかという競争をした時のような、あの堪えられない何んとも云えない、胸苦しさを、感じはしたが。――だが、勿論私はまだ本当の困難に鍛錬されてはいない。須山とちがった切抜《スクラップ》の好きなSは、私の「廿四時間の政治生活」というのに対して、「一日を廿八時間に働いても疲れを知らないタイプ」に自分を鍛えなければ駄目だと云っている。
 一日を廿八時間に働くということが、私には始めよくは分らなかったが、然し一日に十二三回も連絡を取らなければならないようになった時、私はその意味を諒解《りょうかい》した。――個人的な生活が同時に階級的生活であるような生活、私はそれに少しでも近附けたら本望である。
 倉田工業は、臨時工の若干を本工に直すかも知れないという噂《うわ》さで、最後のピッチを挙げていた。私たちはそれにそなえるために、細胞の再編成をやることにした。須山のグループ(影響下)から一人、それは若い本工だった、それから伊藤のグループから二人、そのうち一人は本工、一人は臨時工だった、この三人を新しく細胞に推薦することにして、「履歴」を取った。私はそれを「オル」に持って行き、承認を得た。そして各細胞に対しては職場内での責任を明確に分担して背負わせ、須山や伊藤に万一のことがあった場合、あとのものが直ちに予定された新しい部署について仕事が一日でも遮断《しゃだん》されることがないように手筈を決めた。須山や伊藤に何か事が起れば、工場にいると直《す》ぐ分るので、その時は新しい細胞が須山と私との連絡場所にやってくることにしてあった。私たちの会合は闘争の司令部なので、どんなことがあっても連絡が絶たれ、そのために一刻を争うときに対策や方針が出ないということは階級的裏切りであった。誰かゞやられ連絡が切れたゝめに、うまく行かなかった――こういう今迄のやり方は、恰《あた》かも我々に最初から弾圧が無いかのような、又はそれを全く予想していないかのような、敗北的な見地に立っている。誰かゞやられるかも知れないのは分り切っているのだ。私たちは、だから最初から二段、三段の準備をして闘争をすゝめて行かなければならぬ。
 事実「僚友会」で乱闘をやってから、須山は極度に危くなっていた。須山は今日やられるか、明日やられるかを覚悟して、毎日工場に出ていた。工場なので、仕事をしているときに「一寸《ちょっと》来い」をやられると、それっきりだった。然し組織の可能性が高まっていたので、彼は出ていた。危くなったが、同時に職場の中で或《あ》る程度のことを公然と云える自由を得たし、みんなの信用が出て来ていた。
 月末が近づいた。会社はこの三十日か三十一日に首切りをやるらしかった。本工に直すと云っても、まだそれが少しも具体化していないので、皆はようやく疑いをかけてきた。「マスク」で、このやり方がギマンであって、それによって一方では仕事の能率を高め、他方ではみんなの反抗を押しとゞめるためであることを書いたが、その意味がジカに分りかけていた。臨時工が重なので、首切りが発表されてからでは団結力が落ちる。この二三日に事を決めなければならなかった。
 私たちはビラやニュースで、戦争に反対しなければならないことをアッピールしてきたが、彼等が一度その首切りのことで立ち上ったら、それはレーニンの言い草ではないが、何故戦争に反抗しなければならないかを「お伽噺《とぎばなし》のような速さで」教える。殊《こと》に軍器を作っている工場であるだけ、ハッキリと意識的な闘争が出来るのだ。――まず事を起さなければならぬ。
 私は最後の肚《はら》をきめた。
 それは伊藤や須山の影響下のメンバー、新しい細胞に各職場を分担させて一斉《いっせい》に「馘首《かくしゅ》反対」の職場の集会を持たせることだった。そしてそれを成功させるために工場の中で須山に公然たるビラ撒《ま》きをさせる。――伊藤の「しるこや組」に、兄が倉田工業の社員である女工がいた。その女工の口から三十一日ではなくて(三十一日のように思い込ませて置いて)先手を打って二十九日に一斉に首切りをやることが分った。その時は警察ばかりでなく軍隊も出るらしかった。従って是が非でも二十八日[#「二十八日」に傍点]にストライキをやって、こっちが逆に先手を打たなければならない。
 ところが、須山には最近やられるらしい危険性がある。伊藤からの報告だったが、ケイサツの私服が事務所のなかゝら一二度出て行くのを見ているし、須山のいる第二工場の入口でよくおやじと立話していた。それがこの一二日なのである。太田がやられてからも、党のビラが二度、「マスク」が二度も入っている。向うが須山をにらんでいることは最早疑うことは出来なかった。それに「共産党」と云えば、何処か知れない「上《うえ》の方に」いたり、或《ある》いは「地の底に」もぐって出没している神様か魔物であるかのように考え、又考え込ませられている。だが本当は須山のように皆から信用のある、自分たちのそばで肩をならべて働いているものがそうであることを、ハッキリと示し、親しみと信頼を起させる必要があった。――私が須山に公然と党のビラを撒かせる決意をしたのは、そこから来ていた。
 最後を闘うためには、仮りに須山がいないとしてもそれは他の誰かゞやらなければならない任務だったのだ。陰謀的な仕方ばかりでは、大衆的動員は行われない。見えない組織をクモの巣のようにのばして置いて、そこへ公然たる煽動《せんどう》を持ち込まなければならないのだ。
 その最後の対策をたてるために、私たちはエンコすることになった。この案はそこに出され、決められるのだったが――然し須山のことを考えると、私はさすがに心がしめつけ[#「しめつけ」に傍点]られた。党のビラを撒いたとなれば、闘争経歴にもよるが、二三年から四五年の懲役を覚悟しなければならないのだ。何時《いつ》もなら、私は外へ一歩出たら、元とはちがって、一切の空想ごとや考えごとをやめて、四囲《まわり》に注意して歩くことにしていたが(そしてそれは可なり慣れていたが)、その日は、フト気付くと私は直ぐ須山のことを考えていた。だが、そんなに須山のことに立ち停《どま》っていることはよくないことなのだ。須山にしても、自分たちの置かれている情勢をハッキリと見ていれば、このことを一つの必然として、而かも不可欠のものとして理解することが出来る筈なのだ。そこに別の道或いは除けて通れる道が一つもなく、しかもプロレタリアートの解放のためにはどうしてもその道を通らなければならないとすれば、私たちはそこから何か仕事以外のもの、例えばこんな事をすることが「残酷なこと」ではないだろうかとか、又は「同情に堪えないこと」ではないだろうかとか、凡《およ》そそんなことが引き出せるわけがないのだ。
 だが、会合の場所に行くまで、私の頭にあの突拍子もない切抜帳《スクラップ》で私たちを笑わせる須山の顔が来て困った。
 場所は今まで三度位使ったことのある須山の昔の遊び(飲み)友達の家だった。足元の見えない土間で下駄を脱ぎ、それを懐に入れて、二階に上がって行くと、斜めに光が落ちて来て、須山の顔がのぞいた。
 伊藤は壁に倚《よ》りかゝって、横坐りに足をのばし、それを自分でもん[#「もん」に傍点]でいた。私が入って行くと、後れ毛を掻《か》き上げるようにして、下からチラと見た。私は「この前は!」と云った。彼女はそれには別に答えなかった。工場のオルグをやると、どうしても白粉ッ気が多くなるが、細胞の会合のときに伊藤は今まで一度も白粉気のある顔をしてきたことがなかった、又その必要もなかったので。フト見ると、ところが伊藤は今迄になく綺麗《きれい》な顔をしていた。
「同志伊藤は今男の本工を一人オルグしてのお帰りなんで――」
 と、須山は又すぐ茶目て、伊藤の顔を指さした。
 そんな時は何時もの伊藤で、黙っていた。が、彼女は何故《なぜ》か私の顔をその時見た。
 会が始まってから、私は何時もやることになっている須山の報告に特に注意した。彼はこの前の細胞会議の決定にもとづいて、職場々々に集会を持たせるように手配したが、工場の様子を見ていると、ここ二三日が決定的瞬間らしく、そのためには今至急何んとか[#「何んとか」に傍点]しなければならないと云った。
 伊藤はそれにつけ加えて、前に私に報告してある馘首《かくしゅ》がこの三十一日と見せかけて実は二十九日にやるらしいこと、パラシュートやマスクの引受高から胸算してみると、それが丁度当っていた、そのためには明後日にせまっている二十八日に少なくとも決定的な闘争をしなければならないと云った。
 見解は一致していた。だから問題はその決定的な闘争をどんな形で持ち込むかにあった。――須山は考えていたが、「こゝまで準備は整っているし、みんなの意気も上がっているのだから、あとは大衆的・煽動《せんどう》で一気に持って行くことだ。」と云った。それから一寸言葉を切って、
「この一気が、一気になるか二気になるかで、勝ち負けが決まるんじゃないかな……?」
「そ。あとは点火夫だけが必要なのよ――八百人のために!」
伊藤はめずらしく顔に興奮の色を出した。
「俺、最近――と云っても、この二三日なんだが、少しジレ/\してるんだ。今迄色々な遣《や》り方で福本イズムの時代のセクトを清算しながらやってきたが、まだ矢張りそれが残っている。今一息というところで、この工場を闘い抜けないのが、そこから来ているんじゃないかな……?」
 須山は私の顔を見て云った。
「誰かが大衆の前で公然とやらかさないと、闘いにならないと思うんだ。量から質への転換だからな。――俺、それは極左的でない[#「極左的でない」に傍点]と思うんだが、どうだろう?」
 須山は、誰かゞそれを「極左的だ」と云ったかのように、それに力をこめて云った。
 私は「独断《ドグマ》」ではなく、「納得」によって闘争を進めて行かなくてはならぬ。それで私は黙って、たゞ問題が正しい方向に進むように、注意していたゞけだった。ところが、それは矢張り正しいところへ向ってきていた。殊に伊藤や須山が仕事のやり方を理窟からではなく、刻々の工場内の動きの解決という点から出発して、而《し》かもそれが正しいところに合致しているのだ。これは労働者の生活と離れていないところから来ていることで、我々の場合こゝに理論と実践の微妙な統一がある。
 ――私は、それを極左的だというのは、卑怯《ひきょう》な右翼・日和見《ひよりみ》主義者が自分の実践上での敗北主義をゴマ化すために、相手に投げつける言葉でしかないと、須山に云った。須山は「そうだ!」と云った。
 私はそこで、私の案を持ち出した。瞬間、抑えられたような緊張がきた。が、それは極く短い瞬間だった。
「俺もそうだと思う……」
 須山はさすがにこわばった声で、最初に沈黙を破った。
 私は須山を見た。――と、彼は、
「それは当然俺がやらなけアならない。」
と云った。
 私はそれに肯《うなず》いた。
 伊藤は身体をこッちりと固くして、須山と私、私と須山と眼だけで見ていた。――私が伊藤の方を向くと、彼女は口の中の低い声で、「異議、な、し、――」と云った。
 見ると、須山は自分でも知らずに、胡坐《あぐら》の前のバットの空箱を細かく、細かく切り刻んでいた。
 それが決まった時、フト短い静まりが占めた。すると今迄気付かずにいた表通りを通る人達のゾロ/\した足音と、しきりなしに叫んでいる夜店のテキヤの大きな声が急に耳に入ってきた。
 それから具体的なことに入った。――最近ビラや工新の「マスク」が、女の身体検査がルーズなために女工の手で工場に入っていると見当をつけて、女工の身体検査が急に厳重になり出している。それで当日は伊藤が全責任を持ち、両股《もも》がゴムでぴッしりと強く締まるズロースをはいて、その中に入れてはいること。彼女は朝Sの方からビラを手に入れたら、街の共同便所に入って、それをズロースに入れる。工場に入ってからは一定の時間を決めて、やはり便所を使って須山に手渡す方法をとる。ビラは昼休に屋上で撒くこと。それらを決めた。
 会合が終ると、今迄抑えていた感情が急に胸一杯にきた。
「永い間のお別れだな……!」
と私が須山に云った。
 すると、彼は、
「俺の友達にこんなのがある」と云った、「仲の良い二人の友達なんだが、一人は三・一五で三年やられたんだ。ところがモウ一人は次の年の四・一六で四年やられた。三・一五の奴が出てきて、昨年の一二月又やられ、三年になった。そいつ[#「そいつ」に傍点]は四・一六の奴の出てくるのを楽しみにしていたんだ。それで監獄に入るときに曰《いわ》くさ、俺とあいつはどうも永久にこうやって入りくり[#「入りくり」に傍点]になって会えないらしい、だが結構なことだって……!」
 そして、「これは俺の最後の切抜帳《スクラップ・ブック》かな?」と自分で云った。
 私と伊藤は――思わず噴《ふ》き出した。が、泣かされるときのように私の顔は強わばった。
「どんなことがあったって、こゝ[#「こゝ」に傍点]の組織さえがッちりと残っていれば、闘争は根をもって続けられて行くんだから、君だけはつかまらないようにしてくれ。――君がつかまったら、俺のしたことまでもフイで、犬死になるんだからな!」
と、須山が云った。
 私たちは今日の決定通りに準備をすすめ、二十六日の夜モウ一度会うことにして、
「じア……」と立ち上がった。そのとき私と須山はそんなことをしようとは考えてもいなかったのに、部屋の真ん中に突ッ立ったまゝ両方から力をこめて手を握り合っていた。
 フト須山は子供のようにテレ[#「テレ」に傍点]て、
「何んだ、佐々木の手は小《ち》ッちゃいな!」
と、私に云った。

 須山は外へ出ながら、モウこれからは機会もないだろうと思って、私の家《うち》に寄ってきたと云った。「君のおふくろは、合う度に何んだか段々こう小さくなって行くようだ。」と云った。
「…………?」
 私は何を云うんだろうと思った。が、フイにその「段々小さくなってゆく」という須山の言葉は、私の心臓を打った。私はその言葉のうちに、心配事にやつれてゆく母の小さい姿がアリアリと見える気がした。――が、こういう時にそんな事を云う奴もないものだ、と思った。私はさりげなく、たゞ「そうだろうな……」と云って、その話の尻《しり》を切ってしまった。
 須山と別れてから、伊藤が次の連絡まで三十分程間があるというので、私と少しブラブラすることになった。私たちは、二十六日には須山のために小さい会をしてやろうということを話した。そのために伊藤が菓子とか果物を買ってくることにした。
 伊藤は何時もは男のように大股《おおまた》に、少し肩を振って歩くのが特徴だった、それが私の側を何んだが女ッぽく、ちょこちょこと歩いているように見えた。別れるとき彼女は「一寸待ってネ」と云って、小さい店屋に入って云った。やがて、買物の包みを持って出てくると、
「これ、あんたにあげるの――」
と云って、それを私に出した。そして、私が「困ったな!」と云うのに、無理矢理に手に持たしてしまった。
「此頃あんたのシャツなど汚れてるワ。向うじゃ、ヨクそんなところに眼をつけるらしいのよ!」
 下宿に帰って、その包みを開けてみながら、フト気付くと私は伊藤と笠原を比較してみていた。同じく女だったが、私は今までに一度も伊藤を笠原との比較で考えてみたことは無かったのだ。だが、伊藤と比らべてみて、始めて笠原が如何《いか》に私と遠く離れたところにいるかということを感じた。
 ――私はもう十日位も笠原のところへは行っていなかった……。



 倉田工業の屋上は、新築中の第三工場で、昼休になると皆はそこへ上って行って、はじめて陽の光りを身体一杯にうけて寝そべったり、話し込んだり、ふざけ廻ったり、バレー・ボールをやったりした。その日はコンクリートの床に初夏の光が眩《まぶ》しいほど照りかえっていた。須山は自分のまわりに仲間を配置して、いざという時の検束の妨害をさせる準備をしておいた。
 一時に丁度十五分前、彼はいきなり大声をあげて、ビラを力一杯、そして続け様に投げ上げた。――「大量馘首絶対反対だ!」「ストライキで反対せ!」……あとは然し皆の声で消されてしまった。赤と黄色のビラは陽をうけて、キラ/\と光った。ビラが撒《ま》かれると、みんなはハッとしたように立ち止まったが、次にはワアーッと云って、ビラの撒かれたところへ殺到してきた。すると、そのうちの何十人というものが、ムキになって拾いあげたビラを、てんでに高く撒きあげた。それで最初一カ所で撒かれたビラは、またゝく間に六百人の従業員の頭の上に拡がってしまった。――こんなことがあるだろうと、予《あらかじ》め屋上の所々に立ち番をしていた守衛は、「こら、こら! ビラを拾っちゃいかん!」と声を限り叫んで割り込んできたが、さて誰が撒いたのか見当がつかなくなってしまった。見ると誰でも、かれでもビラを撒いているのだ。
 仕方のなくなった守衛は、屋上からの狭い出口を厳《かた》めて、そこから一人ずつ通して首実検をしようとしたが、そんなことをしていたら一時間経っても仕事が出来ない。皆は、太いコンクリートの煙突から就業のボーが鳴り出すと、腕を組んでその狭い入口めがけて「ワッショ、ワッショ!」と押しかけてしまった。そうなれば、守衛には最早どうにも手がつかなかった。――伊藤が見ていると、須山はその人ごみの中を糞《くそ》落付きに落付いて、「悠然《ゆうぜん》と」降りて行ったそうである。
 あとでおやじが「誰が撒いたか知らないか?」と一人一人訊《き》きまわったが、確かに須山が撒いたことを知っているものが居るにも拘《かかわ》らず、誰も云うものがいなかった。青年団の馬鹿どもが、口惜しがって、プンプンした。その日、須山のいる第二工場と、伊藤たちのパラシュートでは気勢が挙がって、代表を選んで他の工場とも交渉し、会社に抗議しようというところまで来た。
 帰りに須山と伊藤が一緒になると、彼は「こういう時は、俺だちだって泣いてもいゝんだろうな!」と云って、無暗に帽子をかぶり直したり、顔をせわしくこすったりした。
 途中、彼は何べんも何べんも、「こうまでとは思わなかった!」「こうまでとは思わなかった! 大衆の支持って、恐ろしいもんだ!」と、繰りかえしていた。
 私はビラを撒いた日の様子をきくために、その日おそく伊藤と連絡をとっておいた。私は全く須山が一緒にやって来ようとは考えてもいなかったのだ。私は伊藤の後から入ってきた須山を、全く二三度見直した位である。それが紛れもなく須山であることが分ったとき、私は思わず立ち上がった。
 私はそこで詳しいことを聞いたのである。私も興奮し、須山が伊藤に云ったという云い方を真似して、「こういう時は俺だちだってビールの一杯位は飲んだっていゝだろう!」と、三人でキリンを一本飲むことにした。
 須山は躁《はしゃ》いで、何時《いつ》もの茶目を出した。
「あのビラ少し匂いがしていたぞ!」
と、伊藤にそんなことを云った。私は、「こら!」と云《い》って、須山の肩をつかんで、笑った。
 然《しか》し、決定的な闘争はむしろ明日のきん坤《こん》[#「きん坤」に傍点]一番にあるので、私たちはそれに対する準備を更に練った。

 次の朝、職工たちが工場に行くと、会社は六百人の臨時工のうち四百人に、二日分の日給を渡して、門のところで解雇してしまった。ケイサツが十五六人出張してきていて、日給を貰いはしたものゝ呆然《ぼうぜん》として、その辺にウロ/\している女工たちに、「さア帰った、帰った!」と、追い戻していた。
 勘定口の側に、「二十九日仕事の切上げの予定のところ、今日になりました。然し会社は決して皆さんに迷惑を掛けないようにと、それまでの二日分の日給を進んでお払いしますから、当会社の意のあるところをお汲《く》み願います。なお又新しい仕事がある時は、会社としては皆さんに採用の優先権を認めますから、お含み下さい。」と、大きな掲示が出ていた。臨時工を二百人だけ後に残したことにも、彼等のコンタンがある。歩調を乱れさせたわけだ。
 解雇組には須山も伊藤も入っていた。――私たちは土俵際でまんまと先手を打たれてしまった。――須山と伊藤は見ていられないほどショげてしまった。私とても同じである。然し敵だって、デクな人形ではない。私たちは直ぐ立ち直り、この失敗の経験を取り上げ、逆転した情勢をそのまゝに放棄せずに、次の闘争に役立てるようにしなければならない。
 蹴散らされたとは云うものゝ、本工のなかに二人メンバーが残っている。又解雇されたものたちは、それぞれの仕事を探がして散らばって行ったが、その中には伊藤と須山のグループが十人近くいる、従ってそれらとの連絡を今後とも確保することによって、私たちの闘争分野はかえって急に拡がりさえした。
 彼奴等は「先手」を打って、私たちの仕事を滅茶/\にし得たと信じているだろう、だが実は外ならぬ自分の手で、私たちの組織の胞子《たね》を吹き拡げたことをご存知ないのだ!
 今、私と須山と伊藤はモト以上の元気で、新しい仕事をやっている……(前編おわり)
                  (一九三二・八・二五)
   作者附記。 この一篇を同志蔵原惟人におくる。



底本:「党生活者」新日本文庫、新日本出版社
   1974年12月20日初版発行
入力:細見祐司
校正:浜野 智
1998年11月10日公開
2002年1月14日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

前のページに戻る 青空文庫アーカイブ