青空文庫アーカイブ

御萩と七種粥
河上肇

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)禄《ろく》十九石を食《は》む

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)元来|我儘《わがまま》な

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(例)※[#「糸+褞のつくり」、第3水準1-90-18]

 [#…]:返り点
 (例)応[#二]真意[#一]取組の内約仕置候間、
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 私の父方の祖父才一郎が嘉永五年七月一日、僅か六畳一間の栗林家の門部屋で病死した時――栗林家の次男坊に生れた才一郎は、この時すでに河上家の養子となっていたが、養家の瀬兵衛夫婦がまだ生きていた為めに、ずっと栗林家の門部屋で生活していたのである、――彼の残した遺族は三人、うち長男の源介(即ち私の父)は五歳、長女アサ(即ち私の叔母)は三歳、妻イハ(即ち私の祖母)は二十五歳であった。これより十数年にわたり、私の祖母のためには、日夜骨身を惜まざる勤労努力の歳月が続いた。が、その甲斐あって、慶応三年という頃になると、長男源介は、すでに二十歳に達して禄《ろく》十九石を食《は》む一人前の武士となり、長女アサも十八歳の娘盛りになった。
 かくて、私のために叔母に当るアサは、この年にめでたく藤村家に嫁いだ。残っている私の家の願書控を見ると、次のようなのがある。
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 「私妹此度藤村十兵衛世倅規矩太郎妻に所望御座候に付、応[#二]真意[#一]取組の内約仕置候間、其儀被[#二]差免[#一]被[#レ]下候様奉[#レ]願候、此段御組頭兼重重次郎兵衛殿へ被[#二]仰入[#一]、願之通り被[#二]成下[#一]候様、宜敷御取持可[#レ]被[#レ]下候頼存候、已上。
 慶応三年丁卯四月十一日  河上源介」
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 この控には、「四月二十七日被下被差免候」との追記がある。
 叔母には子が出来なかった。そして、どういう事情からであったか、明治十年十月七日、彼女は藤村家から離縁になって家に帰った。その時二十八歳である。
 しかし二ヶ月後の明治十一年一月五日には、玉井進という人の妻になった。この人は当時山口県庁の役人をしていた人で、叔母もまた山口に行った。
 叔母が玉井家に嫁いだ明治十一年には、私の父もすでに三十一歳になっていたが、この年の六月十五日に初めて、同族河上又三郎の次女タヅと結婚した。それが私の母で、文久二年八月誕生の彼女は、当時十七歳、正確に云えば満十五歳十ヶ月であった。
 私が生れたのは、その翌年の十月二十日である。従って以上の出来事は、みな私の見ることの出来なかった事実に属する。
 しかし叔母に関する私の最初の記憶は、後に述べるような事情から、彼女が藤村家に居た時代にまで遡《さかのぼ》る。私は幼い頃、祖母に連れられて、幾度か叔母の許《もと》を訪ねた。
 私の家は錦川に沿うて造られた土手に近かった。その土手の上を暫く城山の方に向って歩いてゆくと、渡場があった。舟に乗せて貰って向うへ渡ると、そこが川西と称される地帯で、叔母のうちは、その川西の山手にあった。川を渡ってから暫く街道を歩き、それから路地を右手に曲ると、そこは城山の峯尾の麓《ふもと》になるので、次第に急な爪先き上がりの坂道になる。こんもりと森の繁った薄暗いジメジメした坂を登って行くと、路の右側は深く掘れた細い横谷になっていて、谷底にはきれいな水が流れていた。叔母の家は、路の左側にあった。私はそこの二階で本を見せて貰ったことを覚えている。今では幼児のための絵本が沢山に出来ていて、普通の家庭に育った子供なら、早くから、色々の彩色を施した美しい絵本になじんでいるけれども、半世紀以上の昔である私の幼年時代には、そんなものは想像することも出来なかった。それに私の家は、私の父が家督を継いだ時、譲られたものは、家屋敷の外は質札ばかりであった、と云われるほどあって、書籍などいうものは殆ど一冊も無かった。で、偶々《たまたま》叔母のうちの二階で手にすることの出来た本は、私に非常な興味を感じさせた。それが何の本であったかは、今では想像して見ることすら出来ない。ただ私は、それが和綴《わとじ》の本で、中には色々な植物の花の絵などがあったのを、覚えているだけである。その時私はこれに非常な興味を覚えたものと見え、余所《よそ》で泊ったことなどまだ一度もないのに、今日はここへ泊ると云い出した。どうかなと案じながらも、祖母が私を残して帰った時、晩には藷《いも》を煮て食べさせて上げると云って、叔母は屋敷つづきの畑へ私を連れ出し、薩摩藷《さつまいも》を掘って見せた。蔓《つる》につれて黒い土の中から赤い藷がボコリボコリと出て来るのを見たのは、恐らくそれが生れて初めてであったろう、それがひどく私の好奇心をそそったために今でもそこの黒い土の色、そこから出て来た赤い藷の色の印象が、まだ眼に見えるように残っている。私はそんなことで昼間は上機嫌で過したが、やはり日が暮れて来ると、無暗《むやみ》にうちへ帰りたくなった。元来|我儘《わがまま》な子だったので、そう云い出したら無事に寝る見込もなく、とうとう夜になって、叔母は私を私のうちまで送り届けた。
 こうした事のあったのは、私のいくつの頃であったろう。泊るなど云ったところから見ると、多分小学校へまだ入学して居なかった頃の事だろうと思われる。ところで私が小学校へ入学したのは、調べて見ると、明治十七年三月、私が満四年五ヶ月になった時だが、これより先き、明治十四年十一月一日に、叔母は玉井家から離縁になって戻り、間もなく十一月二十一日にはまた元の藤村家へ再縁している。それは私が満二年一ヶ月に達した時のことである。して見ると、私がここに書いたような記憶は、私が満二年一ヶ月から四年五ヶ月になるまでの期間に属するものと推定されるのである。私は、近頃まで一緒に住んでいて、今は上海に行っている、自分の孫たちの齢《とし》を算《かぞ》えて見て、絢子の方はもう四年五ヶ月以上になって居るのだから、私が死んだ後からでも何か思い出してくれる事があるかも知れぬ、などと考え及んだ。
 さて、再び叔母のことに立ち返るが、叔母が一旦藤村家を出て後にまた再縁するまでの期間は、勘定して見ると、四年一ヶ月になる。この間に、藤村の方では、誰かを娶《めと》って復《ま》た離縁したのか、それとも死別したのか、私の記憶している頃には、叔母の産んだ子でない男の子が一人いて、私と同年であった。最初叔母が藤村家から離縁になったのは明治十年であり、私が生れたのは明治十二年であるから、話は丁度符合するのである。
 藤村家へ再縁してから八年目の明治二十二年一月二十五日には、叔母はまた離縁になって戻った。こんな風にどこにも落ちつかなかなったのは、一つは自分の産んだ子を有《も》たなかったせいであろう。齢を計算して見ると、この時叔母はもう四十になっていた筈である。
 藤村家から帰って来て翌年の明治二十三年には、叔母はまた稲田家へ嫁いだ。それは私の満十年九ヶ月になった時のことである。
 稲田家は錦川の下流、海に近い田畑の中にあった。今では山陽線の下り汽車に乗ると、麻里布駅の次が岩国駅になっているが、稲田家はその麻里布駅に近く、私の家は岩国駅に近い。しかし当時はまだそんな鉄道など見ることも出来なかった。で、叔母は川舟に乗って嫁入をした。
 叔母がその時どんな服装をしていたか、全く覚えていないが、ともかく彼女は私のうちを出て、土手を越し、竹藪《たけやぶ》の中の雑草の生茂った細道を通り抜け、川原畑の畦道《あぜみち》を歩いて、一面の石ころに覆われた川原に出で、そこから舟に乗ったものに相違ない。それは俥などの通り得る道ではなかった。祖母、父、母、私、弟、これがその一行であったであろう。末の弟は前年に生れてまだ誕生日を過ぎぬ頃のことであったから、多分誰かに預けられて留守居したであろう。
 赤い毛氈《もうせん》を敷いた一艘《いっそう》の屋形舟は、一行を載せ、夏の川風に吹かれながら、鮎や鮠《はえ》などの泳いでいる清い流れの錦川を棹《さお》さして下った。
 舟を下りてから稲田家までは、多分俥に乗ったであろう、私は今覚えていない。ただ覚えているのは、稲田家の門が寺の門のように大きく、扉には大きな鋲飾《びょうかざ》りなどが打ってあり、通された表座敷の襖《ふすま》には大字の書が張ってあって、芝居の舞台が聯想《れんそう》されたことである。
 稲田家は当時士族になっていたが、明治以前は香川という家老の家来で、謂《い》わゆる復家来《またげらい》であったから、私のうちより家柄は低かった。しかし村での大地主で、家の構えなどもそのあたりでは宏荘《こうそう》なものに見えていたのである。
 家風と云うか、生活態度と云うか、そう云った家庭の雰囲気は、貧しいながらも侍の家系を承け継いだ私の家と、おのずから趣を異にするものがあったが、叔母は日を経るに従って、自分の住む環境に同化して行った。そして遂にここでその一生を終ったのである。
 自分の実子がある訳ではなく、食うに困る訳でもないのに、後には麦稈真田《ばっかんさなだ》などの賃仕事を引受け、僅かばかりの小銭を儲《もう》けることを楽みにしたり、すべてが次第に吝嗇臭《けちくさ》く土臭くなって来た。しかし当人がそれに安住して生涯を終られたのだから、(不幸にして彼女は母に先だち兄に先だち夫にも先だったが、)この最後の結婚は彼女にとって幸福なものであったのだと、私は考えている。
 数え十五歳の時に、私は郷里の岩国学校(それは高等中学校の予備門となっていたもの)を卒業して、山口高等中学校の予科(高等中学校は当時本科三年、予科二年であった)に入学した。当時私は帰省する度毎に、大概叔母の所をも訪ねていたが、それはいつの休暇のことだったか覚えない、ただ私は一度そうした折に、叔母からおはぎを馳走されたことを記憶している。
 叔母は私が甘い物の好きなのを能《よ》く知っていた。で、私が訪問すると、お前におはぎを拵えて食べさすと言って、台所の土間に下り立ち、餅米をといだり、小豆を煮たり、忙しそうに振舞いながら、私を待たせておいて、わざわざおはぎを作ってくれた。しかしその頃は、叔母がここへ移ってから数年を経過していた時だったので、叔母はもうすっかり田舎風になって居り、折角拵えてくれたおはぎも全くお百姓流のもので、生意気な学生である私の口には合わなかった。それは野良仕事をする人達の握飯みたいな大きなもので、ご飯ばかり多くて餡《あん》は少かった、砂糖も足りなかった。それに私はその頃神経質的に間食を避けていたので、正直に言えば叔母の好意は却《かえっ》て迷惑だった。しかし折角私のために作って呉れたものではあり、頻《しき》りに勧められるので、私はその大きな急拵えのおはぎを二つか三つ食べて帰った。
 日暮時うちに帰って見ると、母は私のために夕餉《ゆうげ》の御馳走を拵えて待っていて呉れたが、おはぎのおかげで私は最早やそれを食べることが出来なかった。それを見て、母は私に、お前は人情負けをするからいかん、なんでそんな物を無理に食べたかと、小言めいた物の言い方をしたが、しかしあのおはぎは、私にとっては腹一杯食べずには居られなかったものであり、今になって考えて見ると、あれは私が生涯のうち頂いたものの中で最も有り難かった物の一つである。
 人間は人情を食べる動物である。少くとも私は、人から饗応《きょうおう》を受ける場合、食物と一緒に相手方の感情を味うことを免れ得ない人間である。で、相手が自分の住んでいる環境の中で、能《あた》う限りの才覚を働かせて献げて呉れた物であるなら、たといそれが舌にはまずく感覚されようとも、私の魂はそれを有り難く頂く。それと逆に、たといどんな結構な御馳走であろうとも、犬にでも遣るような気持で出された物は、食べても実際うまくない。折角御馳走を頂きながら、私は少しも感謝の情を起さず、むしろ反感を残す。場合によっては、その反感がいつまでも消えず、時々思い出しては反芻《はんすう》するうちに、次第に苦味を増しさえすることがある。
 私のこうした傾向は人並より強いらしく思われる。京都にいる娘から羊羹《ようかん》など送って呉れると、同じ店の同じ種類の製品ても、友人に貰った物より娘の呉れた物の方を、私は遥にうまく食べる。格段に味が違うので、私は客観的に品質が違うのだと主張することがあるが、妻などは笑って相手にしないから、これは私の味覚が感情によって左右されるのかも知れない。(この一文を書いて四ヶ月ばかり経ってから、私はふと高青邱の「呉中の新旧、遠く新酒を寄す」と題する詩に、「双壷遠く寄せて碧香新たに、酒内情多くして人を酔はしめ易し。上国|豈《あ》に千日の醸なからむや、独り憐む此は是れ故郷の春。」というのがあるのに邂逅《かいこう》して、古人|已《すで》に早く我が情を賦せりの感を深くした。)
 とにかく私はそういう人間だから、もう半世紀近くも昔になる私の少年時代に食べたおはぎの味を、未だに忘れることが出来ずに居り、その記憶は、叔母の姿をいつまでも懐しいものに思わせてくれ、今も私を駆って、この思い出を書かしめて居るのである。

 感謝する姿はしおらしくて上品だが、不平がましい面を曝《さら》すのは醜くて卑しい。しかし此の思い出も亦自画像のためのスケッチの一つだと考えている私は、序《ついで》に醜い側をも書き添えて置かねばなるまい。――書こうと思うことは、自分の事ばかりでなく、他人の事にも関係するので、心の中で思っているのはまだしも、物にまで書き残すのはどんなものかと、私はいくたびもためらったが、やはり書いて見ようという気になって、ここに筆を続ける。
 大正十二年九月、関東大震災の後、津田青楓氏は、三人のお子さんを東京に残し、一人の若い女を連れて、京都に移られた。当時私は京都帝大の教授をして居たが、或日思い掛けなく同氏の来訪を受け、その時から私と同氏との交際が始った。(昭和八年、私が検挙された頃、青楓氏は何回か私との関係を雑誌などに書かれた。昭和十二年、私が出獄してからも、更に二回ばかり物を書かれた。で、初対面の時のことも、その何れかで委《くわ》しく書かれている筈である。)その後私たちは、毎月一回、青楓氏の仮寓《かぐう》に集って翰墨《かんぼく》の遊びをするようになった。その常連は、私の外には、経済学部の河田博士と文学部の狩野博士で、時には法学部の佐々木博士、竹田博士、文学部の和辻博士、沢村専太郎などいう人が加わったこともある。いつも朝から集って、夕暮時になるまで遊んだもので、会費は五円ずつ持ち寄り、昼食は然るべき料理屋から取り寄せて貰った。当時はすでに故人となっていた有島武郎氏が京都ではいつも定宿にしていたあかまんや[#「あかまんや」に傍点]という素人風の宿屋があったが、そこの女主人がいつも席上の周旋に遣って来て、墨を磨《す》ったり、食事の世話を手伝ったりしていた。(この婦人は吾々《われわれ》のかいたものを役得に持って帰ることを楽みにしていた。いつも丸髷《まるまげ》を結っていた此の女は、美しくもなく粋《いき》でもなかったが、何彼と吾々の座興を助けた。近頃聞くところによれば、何かの事情で青楓氏はこの女と絶交されたそうだが、今はもう亡くなって居るとのことである。)
 私はこの翰墨会《かんぼくかい》で初めて画箋紙《がせんし》に日本画を描くことを学んだ。半截を赤毛氈《あかもうせん》の上に展《ひろ》げて、青楓氏が梅の老木か何かを描き、そこへ私に竹を添えろと云われた時、私はひどく躊躇《ちゅうちょ》したものだが、幼稚園の子供のような気持になって、恐る恐る筆を執ったのが皮切りで、その後次第に大胆になり、青楓氏と河田博士と私とで山水の合作を描き、狩野博士がそれへ賛を入れたりなどされたこともある。河田博士は絵専門、狩野博士は書専門、私は絵と書の双方をやった。集っていた人の組合せが好かったせいか、手持無沙汰で退屈するような人は一人もなく、誰かが大字でも書くと硯《すずり》の墨はすぐ無くなるので、あかまんやの女将までが、墨磨りだけにでも一人前の役割を有《も》っていた。当時私は経済学の研究に夢中になっていた時代なので、月に一回のこうした清遊は、実に沙漠の中のオアシスであり、忙中の閑日月であって、この上もなく楽しいものに思えた。それは私が一生のうちに見た美しい夢の一つである。
 後年|囹圄《れいご》の身となるに及び、私は獄窓の下で屡々《しばしば》この昔日の清夢を想い起した。幸に生命があって再び家に帰ることがあったならば、今度こそは一切の世縁を抛《なげう》たねばならぬ身の上であるから、ゆったりした気持で時折青楓氏の書房を訪い、たとい昔のような集りは出来なくとも、青楓氏と二人で、絵を描き字を書いて半日を過すことが出来たならば、どんなに嬉しいことであろう。出獄の日がやがて近づくにつれ、私は頻《しき》りにこうした空想に耽《ふけ》り、とうとうそんな意味のことを書いて、一度は獄中から青楓氏に手紙まで出したのであった。(その手紙は青楓氏により表装されているのを、後に見せて貰ったことがある。)
 昭和十二年の六月、私は刑期が満ちて自分の家庭へ帰ることが出来た。僅か二十二円の家賃で借りたという小さな借家は、私の不在中に結婚した芳子の家と並んで、東京市の――数年前までは市外になっていた――西の郊外、杉並区天沼という所にあった。偶然にもそれは青楓氏の邸宅と、歩いて十数分の近距離にあった。何年か前に京都を引払って東京に移り、一時はプロレタリア芸術を標榜《ひょうぼう》して洋画塾を開いていた青楓氏は、その頃もはや日本画専門となられ、以前からのアトリエも売ってしまい、新たに日本式の家屋を買い取って、住んで居られた。それは宏荘《こうそう》とまでは行かずとも、相当の構えの家であり、もちろん私の借家とは雲泥の差があった。
 出獄後半年たつと、昭和十三年になり、私は久振りに自分の家庭で新春を迎える喜びを有ち得たが、丁度その時、正月七日の朝のことである、青楓氏が自分のうちで書初めをしないかと誘いに来られた。私はかねてからの獄中での空想が漸《ようや》く実現されるのを喜んで、すぐに附いて行った。
 二階の二間つづきの座敷が青楓氏の画室になっていた。二人はそこで絵を描いたり字を書いたりして見た。しかしそれは、私の予期に反し、獄中で空想していたほど楽しいものではなかった。何と云うことなしに索然たるものがあって、二人とも興に乗ることが出来なかった。時は過ぎ人は老いた、あの時の夢はやはり二度とは見られませんね、私は思わずそんなことを言って見たりした。
 昼食時になると、私たちは階下の食堂に下りた。この室は最近に青楓氏が自分の好みで建て増しされたもりで、別号を雑炊子と称する同氏の絵に、どこか似通ったものが感じられた。同氏は油絵に日本絵具の金粉などを混用されたこともあり、日本画専門になってからも筆は総て油絵用のものを用いて居られるが、この室も、純白の壁や腰板などは洋風趣味であり、屋根裏へじかに板張りをした天井や、竹の格子子《こうしこ》の附いた丸窓などは、茶室か書院かを想わす日本趣味であった。炬燵《こたつ》も蒲団《ふとん》へ足を入れると、そこは椅子になっていて、下げた脚の底に行火《あんか》があった。障子の硝子《ガラス》越しに庭が見え、その庭には京都から取り寄せられたという白砂が敷き詰められていた。
 炬燵の櫓《やぐら》を卓子にして、私は昼食を供せられた。青楓氏、夫人、令嬢、それから私、この四人が炬燵の四方に座を占めた。
 私は出獄|匆々《そうそう》にも銀座の竹葉亭で青楓氏の饗応《きょうおう》を受けたりしているが、その家庭で馳走になるのは之が最初であり、この時初めて同氏の家庭の内部を見たわけである。ところで私の驚いたことは、夫人や令嬢の女中に対する態度がおそろしく奴隷的なことであった。令嬢はやがて女学校に入学さるべき年輩に思えたが、まだ食事を始めぬ前から、茶碗に何か着いていると云って洗いかえさせたり、出入りの時に襖《ふすま》をしめ忘れたと云って叱ったり、事毎に女中に向って絶間なく口ぎたない小言を浴びせ掛けられるので、客に来ている私は、その剣幕に、顔を上げて見て居られない思いがした。しかし之はいつものことらしく、青楓氏も夫人も別に之を制止するでもなかった。そればかりか、夫人の態度も頗《すこぶ》る之に似たものがあった。食後の菓子を半分食べ残し、之はそっちでお前が食べてもいいよと云って、女中に渡された仕草のうちに感じられる横柄な態度、私はそれを見て、来客の前で犬に扱われている女中の姿を、この上もなく気の毒なものに思った。貧しいがために人がその人格を無視されていることに対し、人並以上の憤懣《ふんまん》を感ぜずには居られない私である。私はこうした雰囲気に包まれて、眼を開けて居られないほどの不快と憂欝《ゆううつ》を味った。
 私は先きに、人間は人情を食べる動物であると云った。こうした雰囲気の裡《うち》に在っては、どんな結構な御馳走でも、おいしく頂かれるものではない。しかし私はともかく箸《はし》を取って、供された七種粥《ななくさがゆ》を食べた。浅ましい話をするが、しゃれた香の物以外に、おかずとしては何も食べるものがなかったので、食いしんぼうの私は索然として箸をおいた。
 人は落ち目になると僻《ひが》み根性を起し易い。ところで私自身は、他人から見たら蕭条《しょうじょう》たる落魄《らくはく》の一老爺《いちろうや》、気の毒にも憐むべき失意不遇の逆境人と映じているだろうが、自分では必ずしもそう観念しては居ない。どんな金持でも、どんな権力者でも、恐らく私のように、目分のしたいと思うこと、せねばならぬと思うことを、与えられている自分の力一杯に振舞い得たものは、そう多くはあるまいと思うほど、私は今日まで社会人としての自分の意志を貫き通して来た。首を回らして過去を顧みるとき、私は俯仰《ふぎょう》天地に愧《は》ずる所なく、今ではいつ死んでも悔いないだけの、心の満足を得ている積りだ。破れたる※[#「糸+褞のつくり」、第3水準1-90-18]袍《おんぼう》を衣《き》、狐貉《こかく》を衣る者と、与《とも》に立って恥じざる」位の自負心は、窃《ひそか》に肚《はら》の底に蓄えている。しかし何と云っても、社会的には一日毎に世人がらその姓名を忘られてゆく身の上であり、物質的には辛うじて米塩に事欠かぬ程度の貧乏人であるから、他人から、粗末に取扱われた場合、今までは気にも留めなかった些事《さじ》が、一々意識に上ぼるであろう。そうなれば、いやでもそこに一個の模型的な失意の老人が出来上る。私は注意してそれを避けねばならない。――私はこんな風に自分を警戒して居ながらも、簡素な七種粥の饗応を、何んだか自分が軽く扱われた表現であるかの如く感ぜざるを得なかった。
 青楓氏が今の夫人と法律上の結婚をされる際、その形式上の媒酌人となったのは、私達夫妻であるが、私はそれを何程の事とも思っていなかった。ところが、私が検挙されてから、青楓氏の雑誌に公にされたものを見ると、先きの夫人との離縁、今の夫人との結婚、そう云ったような面倒な仕事を、私たちがみな世話して纏《まと》めたもののように、人をして思わしめる書き振りがしてあり、殊に「私は今も尚その時の恩に感じ、これから先き永久にその恩をきようと思っている」などと云うことを、再三述懐して居られるので、最初私はひどく意外に感じたのであるが、後になると、馬鹿正直の私は、一挙手一投足の労に過ぎなかったあんな些事《さじ》を、それほどまで恩に感じていられるのかと、頗《すこぶ》る青楓氏の人柄に感心するようになっていた。私は丁度そうした心構で初めて其の家庭の内部に臨んだのだが、そこに漂うている空気は、何も彼も私にとって復《ま》た甚だ意外のものであった。後から考えると、私はこの時から、この画家の人柄やその文章の真実性などに対し、漸《ようや》く疑惑を有《も》ち始めたもののようである。
 その後の十一月の末、私はまた河田博士と共に青楓氏の画房を訪うた。今度上京するのを機会に、昔のように翰墨会《かんぼくかい》を今一度やって見たいというのが博士の希望であり、私も喜んで之に賛成したのであった。吾々《われわれ》は青楓氏の画房で絵を描いたり字を書いたりして一日遊び、昼食は青楓氏の宅の近所にあるという精進料理の桃山亭で済まし、その費用は河田博士が弁ぜられる。そういうことに、予《か》ねて打合せがしてあった。
 その日私は当日の清興を空想しながら、
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十余年前翰墨間
  十余年前翰墨の間、
洛東相会送春還
  洛東相会して春の還るを送る。
今日復逢都府北
  今日復た逢ふ都府の北、
画楼秋影似東山
  画楼の秋影東山に似たり。
[#ここで字下げ終わり]
という詩を用意して行った。画楼というのは元来彩色を施した楼閣の意味だろうが、ここでは青楓氏の画室を指したつもりであり、東山《とうざん》というのは京のひがしやまを指したのである。
 漢詩の真似事を始めて間もない頃のこととて、詩は甚だ幼稚だが、実際のところ私はまだそんな期待を抱いていたのである。しかし後に書くように、画楼の秋影は私のため残念ながらその昔の東山に似ることを得なかった。
 雑談を済まして吾々が筆を執り始めると、間もなく昼食時になった。ところがその時青楓氏から、桃山亭の方は夕刻そこで食事して別れることにし、昼は簡単な食事をうちで済ませてくれ、と申出があった。で、私は思い掛けなく再びここの家庭で饗応《きょうおう》にあずかる機会を有ったが、今度はその御馳走が余りにも立派なので、その立派さに比例する不快を感ぜざるを得なかった。私は正月の七種粥《ななくさがゆ》を思い出し、それと著しい対照を呈している今日の饗応ぶりを見て、簡素な待遇が必ずしもここの家風でないことを知った。そして私は、お前一人ならどうでもいいのだが、今日は河田博士に御馳走がしたいので、という意味の無言の挨拶を、その場の雰囲気や夫人の態度から、耳に聞えるほどに感じた。結構な御馳走が次から次へ運ばれるにつれて、私の心は益々《ますます》不快になった。人間は人情を食べる動物である。折角御馳走になりながら、私の舌に長《とこし》えに苦味を残した。それはその後|反芻《はんすう》される毎に、次第に苦味を増すかに覚える。――こういうのが恐らく落目になった老人の僻《ひが》み根性というものであろう、しかし私はそれをどうすることも出来ない。
 こうした類の経験が度重なるにつれ、それは次第に私をこの画家から遠ざけた。
 翰墨会の夢は再び返らず、獄中では、これからの晩年を絵でも描いて暮らそうかとさえ思ったことのある私も、今では、絵筆を手にする機会など殆ど無くなってしまった。
 以上の思い出を書いて郷里の舎弟に送り、母に読んで上げて貰ったところ、母の話によれば、叔母が稲田家へ嫁入りしたのは、明治二十三年ではなく、その前年の二十二年だと云うことである。私は父の手記に拠《よ》ったのだが、母の記憶によれば、当時母は末の弟を妊娠中だったとのことで、その記憶に間違いのあろう筈なく、これは父の誤記と思われる。当時末の弟は人に預けられて留守居したのだろう、などと私の書いたのも間違いで、弟はまだ生まれて居なかったのである。なお母の話によれば、舟を下りてから吾々は中宿《なかやど》の稲本家というに立ち寄り、叔母はそこで衣裳を改めたのだ、と云うことである。私は、私たちの家を出てから河原畑を通り抜けて舟に乗るまで、叔母はどんな服装をして居たのだろうか、紋服を着であの竹藪《たけやぶ》の間を歩いたものだろうかなどと、当時の様子を想像しかねて居たが、母の話のおかげでこうした疑問がすっかり解けた。結婚披露の宴が済んでから、私たちは人力車に乗って帰ったが、車夫がふるまい酒に酔っぱらって、喧嘩《けんか》など始めたため、吾々はみな途中から俥を下りて、歩いて帰った。これも母の思い出話である。
 序《ついで》に書き加えておくが、私が以上の本文の清書を了《お》えたのは、昭和十六年十二月十日のことであるが、私はそれから十日目の十二月二十日、満十二年ぶりに、東海道線の汽車に乗って、居を東京から京都に移した。その際、東京を引上げるについては、私は名残りを措しんでくれる一二の友人から思い掛けなき厚意を受け、忘れがたき思い出の種子を残すことが出来たが、ただ一つ心に寂しく思ったことは、世間からは無二の親交を続けて居るように思われている青楓氏と、まことにあっけない簡単な別れ方をしたことである。私は早くから同氏に転居の意思あることを話しておいた。そして、或日私は、北京土産に貰った玉版箋を携えて、暇乞《いとまご》いかたがた同氏を訪問した。これまで私は何遍か同氏を訪問しているが、不思議なほどいつも不在であり、この時も亦た不在であった。ところがその後夫人から手紙が来て、立つ時が決まったら知らしてくれ、送別の宴を張ると云えばよろしいが、それは出来ないので、お餞別《せんべつ》を上げるつもりだから、とのことであった。そして今居る女中は京都へ連れて行くつもりなのか、もしそうでなければ、こちらへ譲って呉れまいか、などと書いてあった。私は、立つなら物をやるから時日を知らせ、などという手紙の書き方を、不快に感じないわけに行かなかったが、しかし愈々《いよいよ》立とうという時にその事を知らせた。すると、丁度運送屋が来ていて混雑している最中に、青楓氏が玄関先きまで来られて、家内が食事を上げたいと云うから今晩二人で来てくれないか、との話があったが、取込んでいる最中そんなことは到底不可能だから断ると、それではと云うことで、玄関先きで別れてしまった。私は到底再び東京などへ遣って来られる人間ではなし、これで最早や一生の別れになるかも知れないと思ったが、同氏との多年にわたる交友の最後は、遂に斯様《かよう》な切れ目を見せたのてある。餞別をやるとのことであったが、――そして紙一枚でも好意の籠《こも》った贈物なら人並み以上に喜ぶ今の私であるけれども、――とうとう約束の餞別も受けずに済んだ。こんなことまで書き残しておくと、後で見る人はさもしくも思うであろうが、私は今「七種粥」の追記として、以上のことを書いておかねば気が済まないのである。
[#ここから4字下げ]
(「河上肇著作集」第9巻、昭和39年、筑摩書房刊。歴史的仮名遣い。)
[#ここで字下げ終わり]



底本:「昭和文学全集 第33巻」小学館
   1989(平成元)年10月1日初版第1刷発行
底本の親本:「河上肇著作集 第9巻」筑摩書房
   1964(昭和39)年
入力:林 幸雄
校正:本山智子
2001年5月1日公開
2004年2月23日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。


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