青空文庫アーカイブ

漱石と自分
狩野亨吉

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【テキスト中に現れる記号について】

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)いろ/\
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 夏目君のことを又話せといふが、どんなことにしろ物事の眞相が誤まらずに傳へられることは稀であり、その上近來甚だ記憶が不確であるからあんまり話をしたくない。
 夏目君に最初に會つたのは死んだ山川信次郎氏の紹介であつたと思ふ。尤もこれよりも前に自分が全然關係が無かつたといふわけでもない。日本で最初に中學校令の發布によつて出來た東京府第一中學に、明治十二年に自分は入學したのであるが、その折夏目君も又同じ學校に入つてゐた。しかしその頃は無論お互に知らずに過ごして何の記憶もない。
 この學校には、正則科と變則科といふのがあつて、自分は變則科で夏目君や幸田露伴氏などは正則科であつた。變則科といふの方は一切を英語でやることになつて居り、正則科はさうでない。この學校に一緒にゐたのが後年の文部省畑の連中で岡田良平、上田萬年、澤柳政太郎などであつた、時々自分などがさういふ連中とともに名前を引ぱり出されたのはそんな因縁によるものだらう。
 夏目君は大學卒業後、傳通院の傍の法藏院といふのに菅君が前にゐた關係から下宿したが、そこは尼さんが出入りすると言つて、それを恐れてどうも氣に入らぬ、それでは俺のところへ來いと、菅君がその頃住つてゐた指ヶ谷町の家へ引ぱつて行つた。そこで最初に菅君を驚かすやうなことがあつたのだが、それは菅君が一番詳しく知つてゐる事で、自分が語るべきではない。
 又これらのことは夏目夫人が或は『思ひ出』の中に書いてゐるかも知れない。一體自分の知つてゐることは多分『思ひ出』の中やその他にすでに發表されてゐて、世人に耳新しいことはないだらう。又あるとしてもそれは下らないことであるからここに話すのも無駄のやうに思ふのだ。
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 さて夏目君と自分が一番多く會つてゐたのは熊本時代で、自分が行くより先に彼は行つてゐたのであるが、その時分は毎日のやうに會ふ機會があつたが、大してお話するやうな事柄も記憶にない。その後夏目君が洋行して、ロンドンの宿で鬱ぎ込んでゐるといふ消息を誰かが持つて來た。慰めてやらなければいかんといふのだが、その第一の理由は熊本へ歸りたくない、東京へどうかして出たいといふにあるらしい。
 そこで自分が其頃は熊本から一高へ來て校長をしてゐたので菅君や山川君が夏目を一高へ取れといふ。しかし熊本から洋行して歸つたらすぐに一高へ出ると言ふのではまづいので、大學の方で欲しいといふことも理由となつて遂に一高へ來ることにきまつた。
 それですぐロンドンへ東京に地位が出來るといふことを報せる爲電報を打つた。それに對する返事だと思ふが長文の手紙を寄越した。その手紙は菅、大塚、山川、自分などに連名で宛てたもので、相當に理窟ぽいことも書いてあつたやうに覺えてゐる。その手紙は確自分が持つてゐる筈と思ふが、あるとしても一寸探し出せないやうなところに入つてゐるのだらう。先日このことを一寸人に話したら探し出し度いと言つたが、骨折つて探して見ても確にあるかどうかわからないから無駄だと言つて置いた。
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 例の有名な博士號辭退問題なども夏目君の一面を表してゐることで、その問題がやかましかつた時、友人の大塚保治君が自分のところへやつて來て、どうも困つた、何か名案はないかといふので、何も困ることはないではないかといつたら、自分よりも福原が困つてゐるのだといふ返事だつた。
 福原氏はその頃文部省の當面のお役人である。そこで自分は又何も困ることはない。文部省の方は正當の手續をとつてやつたのだし、受ける方の夏目はいやだといふのだから、文部省の方はやつたつもりでゐるがいいし、夏目の方は貰はないつもりでゐるがいい。それより他仕方があるまい。夏目は強ひると氣にしていけないから強ひてはいけぬ。といつたら大塚君は歸つて行つた。
 この問題なども夏目君自身恐らく後になつて考へたら馬鹿げたことをしたと思ひはせぬかとも考へられるが、その場ではさうもゆかなかつたらう。
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 その内でこれはまだあまり人に知られてゐないことかとも思ふが、夏目君と同期、即ち明治廿六年の卒業の中にはいろ/\面白い人がゐた。松本文三郎、松本亦太郎さんなどの樣に有名にならなかつたが米山保三郎といつて、哲學を出て後に數學をやつた人がある。丁度田邊元さんのやうな學問をしたのだが、自分でまた世界第一といふ意氣組を持つてゐて頗る變つた男であつた。この變り者の米山が夏目君のことを『あの男は普段默つてゐるが、いざといふ時相談すれば必ず事を處理する力を持つてゐる』といつて感心してゐた。自分はこの米山と親しかつたが松本亦太郎君も大變仲よしであつた。
 米山は奇人であるが研究すべき奇人であると思つてゐる。若くて死んでしまつたので、後年友人達が話して、彼の傳記を夏目君が書き、その遺稿は自分が見ることになつてゐたが、傳記は出來ずに終り、手帳の中には世に出す程まとまつたものはなかつた。
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 夏目君が自分のことを文學亡國論者だといつて、お前には小説などわからぬから本を出してもやらぬよと冗談のやうにいつたので、自分も貰はなくてもよいといつたが、これは事實上實行されて遂に一册も本を貰つたこともなく、又夏目君のものを讀んだこともない。ただ「猫」が出た當時、一高にゐた物理の須藤傳次郎君が「猫」の中にお前のことが書いてあると注意してくれたので、さうか自分のことが書いてあるなら見ようと、讀んで見たが自分のことが書いてあつたかどうか記憶して居らぬ。
 夏目君は一體に無口の方であり、自分もあまりしやべらぬ方であつたから、家へたづねて行つても此方がしやべらなければ向ふもしやべらぬと言ふ調子であつた。後年お弟子達が多く出入りするやうになつてからこの氣風は大分變つたのだらうと思ふ。(談)(東京朝日 昭和十年十二月八日)



底本:「狩野亨吉遺文集」岩波書店
   1958(昭和33)年11月1日第1刷
入力:はまなかひとし
校正:染川隆俊
2001年6月29日公開
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