青空文庫アーカイブ

眉《まゆ》かくしの霊《れい》
泉鏡花

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)木曾街道《きそかいどう》

|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)一五八|哩《マイル》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、底本のページと行数)
(例)※[#「※」は「火に共」、第3水準1-87-42、194-6]《おこ》って、
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      一

 木曾街道《きそかいどう》、奈良井《ならい》の駅は、中央線起点、飯田町《いいだまち》より一五八|哩《マイル》二、海抜三二〇〇尺、と言い出すより、膝栗毛《ひざくりげ》を思う方が手っ取り早く行旅の情を催させる。
 ここは弥次郎兵衛《やじろべえ》、喜多八《きだはち》が、とぼとぼと鳥居峠《とりいとうげ》を越すと、日も西の山の端《は》に傾きければ、両側の旅籠屋《はたごや》より、女ども立ち出《い》でて、もしもしお泊まりじゃござんしないか、お風呂《ふろ》も湧《わ》いていずに、お泊まりなお泊まりな――喜多八が、まだ少し早いけれど……弥次郎、もう泊まってもよかろう、のう姐《ねえ》さん――女、お泊まりなさんし、お夜食はお飯《まんま》でも、蕎麦《そば》でも、お蕎麦でよかあ、おはたご安くして上げませず。弥次郎、いかさま、安い方がいい、蕎麦でいくらだ。女、はい、お蕎麦なら百十六|銭《もん》でござんさあ。二人は旅銀の乏しさに、そんならそうときめて泊まって、湯から上がると、その約束の蕎麦が出る。さっそくにくいかかって、喜多八、こっちの方では蕎麦はいいが、したじが悪いにはあやまる。弥次郎、そのかわりにお給仕がうつくしいからいい、のう姐さん、と洒落《しゃれ》かかって、もう一杯くんねえ。女、もうお蕎麦はそれぎりでござんさあ。弥次郎、なに、もうねえのか、たった二ぜんずつ食ったものを、つまらねえ、これじゃあ食いたりねえ。喜多八、はたごが安いも凄《すさ》まじい。二はいばかり食っていられるものか。弥次郎……馬鹿なつらな、銭は出すから飯をくんねえ。……無慙《むざん》や、なけなしの懐中《ふところ》を、けっく蕎麦だけ余計につかわされて悄気《しょげ》返る。その夜、故郷の江戸お箪笥町《たんすまち》引出し横町、取手屋《とってや》の鐶兵衛《かんべえ》とて、工面のいい馴染《なじみ》に逢《あ》って、ふもとの山寺に詣《もう》でて鹿《しか》の鳴き声を聞いた処《ところ》……
 ……と思うと、ふとここで泊まりたくなった。停車場《ステエション》を、もう汽車が出ようとする間際《まぎわ》だったと言うのである。
 この、筆者の友、境賛吉《さかいさんきち》は、実は蔦《つた》かずら木曾《きそ》の桟橋《かけはし》、寝覚《ねざめ》の床《とこ》などを見物のつもりで、上松《あげまつ》までの切符を持っていた。霜月の半ばであった。
「……しかも、その(蕎麦二|膳《ぜん》)には不思議な縁がありましたよ……」
 と、境が話した。
 昨夜は松本で一泊した。御存じの通り、この線の汽車は塩尻《しおじり》から分岐点《のりかえ》で、東京から上松へ行くものが松本で泊まったのは妙である。もっとも、松本へ用があって立ち寄ったのだと言えば、それまででざっと済む。が、それだと、しめくくりが緩《ゆる》んでちと辻褄《つじつま》が合わない。何も穿鑿《せんさく》をするのではないけれど、実は日数の少ないのに、汽車の遊びを貪《むさぼ》った旅行《たび》で、行途《ゆき》は上野から高崎、妙義山を見つつ、横川、熊《くま》の平《たいら》、浅間を眺め、軽井沢、追分をすぎ、篠《しの》の井《い》線に乗り替えて、姨捨《おばすて》田毎《たごと》を窓から覗《のぞ》いて、泊りはそこで松本が予定であった。その松本には「いい娘の居る旅館があります。懇意ですから御紹介をしましょう」と、名のきこえた画家が添え手紙をしてくれた。……よせばいいのに、昨夜その旅館につくと、なるほど、帳場にはそれらしい束髪の女が一人見えたが、座敷へ案内したのは無論女中で。……さてその紹介状を渡したけれども、娘なんぞ寄っても着かない、……ばかりでない。この霜夜に、出しがらの生温《なまぬる》い渋茶一杯|汲《く》んだきりで、お夜食ともお飯《まんま》とも言い出さぬ。座敷は立派で卓は紫檀《したん》だ。火鉢《ひばち》は大きい。が火の気はぽっちり。で、灰の白いのにしがみついて、何しろ暖かいものでお銚子《ちょうし》をと云《い》うと、板前で火を引いてしまいました、なんにも出来ませんと、女中《ねえさん》の素気《そっけ》なさ。寒さは寒し、なるほど、火を引いたような、家中|寂寞《ひっそり》とはしていたが、まだ十一時前である……酒だけなりと、頼むと、おあいにく。酒はないのか、ござりません。――じゃ、麦酒《ビイル》でも。それもお気の毒様だと言う。姐《ねえ》さん……、境は少々居直って、どこか近所から取り寄せてもらえまいか。へいもう遅うござりますで、飲食店は寝ましたでな……飲食店だと言やあがる。はてな、停車場《ステエション》から、震えながら俥《くるま》でくる途中、ついこの近まわりに、冷たい音して、川が流れて、橋がかかって、両側に遊廓《ゆうかく》らしい家が並んで、茶めしの赤い行燈《あんどん》もふわりと目の前にちらつくのに――ああ、こうと知ったら軽井沢で買った二合|罎《びん》を、次郎どのの狗《いぬ》ではないが、皆なめてしまうのではなかったものを。大歎息《おおためいき》とともに空《す》き腹《ばら》をぐうと鳴らして可哀《あわれ》な声で、姐さん、そうすると、酒もなし、麦酒もなし、肴《さかな》もなし……お飯《まんま》は。いえさ、今晩の旅籠《はたご》の飯は。へい、それが間に合いませんので……火を引いたあとなもんでなあ――何の怨《うら》みか知らないが、こうなると冷遇を通り越して奇怪《きっかい》である。なまじ紹介状があるだけに、喧嘩面《けんかづら》で、宿を替えるとも言われない。前世《ぜんせ》の業《ごう》と断念《あきら》めて、せめて近所で、蕎麦《そば》か饂飩《うどん》の御都合はなるまいか、と恐る恐る申し出ると、饂飩なら聞いてみましょう。ああ、それを二ぜん頼みます。女中は遁《に》げ腰《ごし》のもったて尻《じり》で、敷居へ半分だけ突き込んでいた膝《ひざ》を、ぬいと引っこ抜いて不精《ぶしょう》に出て行く。
 待つことしばらくして、盆で突き出したやつを見ると、丼《どんぶり》がたった一つ。腹の空《す》いた悲しさに、姐さん二ぜんと頼んだのだが。と詰《なじ》るように言うと、へい、二ぜん分、装《も》り込んでございますで。いや、相わかりました。どうぞおかまいなく、お引き取りを、と言うまでもなし……ついと尻を見せて、すたすたと廊下を行くのを、継児《ままっこ》のような目つきで見ながら、抱き込むばかりに蓋《ふた》を取ると、なるほど、二ぜんもり込みだけに汁《したじ》がぽっちり、饂飩は白く乾いていた。
 この旅館が、秋葉山《あきばさん》三尺坊が、飯綱《いいづな》権現へ、客を、たちもの[#「たちもの」に傍点]にしたところへ打撞《ぶつか》ったのであろう、泣くより笑いだ。
 その……饂飩二ぜんの昨夜《ゆうべ》を、むかし弥次郎、喜多八が、夕旅籠《ゆうはたご》の蕎麦二ぜんに思い較《くら》べた。いささか仰山だが、不思議の縁というのはこれで――急に奈良井へ泊まってみたくなったのである。
 日あしも木曾の山の端《は》に傾いた。宿《しゅく》には一時雨《ひとしぐれ》さっとかかった。
 雨ぐらいの用意はしている。駅前の俥は便《たよ》らないで、洋傘《かさ》で寂しく凌《しの》いで、鴨居《かもい》の暗い檐《のき》づたいに、石ころ路《みち》を辿《たど》りながら、度胸は据《す》えたぞ。――持って来い、蕎麦二|膳《ぜん》。で、昨夜の饂飩は暗討《やみう》ちだ――今宵《こよい》の蕎麦は望むところだ。――旅のあわれを味わおうと、硝子《ガラス》張りの旅館一二軒を、わざと避けて、軒に山駕籠《やまかご》と干菜《ひば》を釣《つ》るし、土間の竈《かまど》で、割木《わりぎ》の火を焚《た》く、侘《わび》しそうな旅籠屋を烏《からす》のように覗《のぞ》き込み、黒き外套《がいとう》で、御免と、入ると、頬冠《ほおかぶ》りをした親父《おやじ》がその竈の下を焚いている。框《かまち》がだだ広く、炉が大きく、煤《すす》けた天井に八間行燈《はちけん》の掛かったのは、山駕籠と対《つい》の註文《ちゅうもん》通り。階子下《はしごした》の暗い帳場に、坊主頭の番頭は面白い。
「いらっせえ。」
 蕎麦二膳、蕎麦二膳と、境が覚悟の目の前へ、身軽にひょいと出て、慇懃《いんぎん》に会釈《えしゃく》をされたのは、焼麸《やきふ》だと思う(しっぽく)の加料《かやく》が蒲鉾《かまぼこ》だったような気がした。
「お客様だよ――鶴《つる》の三番。」
 女中も、服装《みなり》は木綿《もめん》だが、前垂《まえだれ》がけのさっぱりした、年紀《とし》の少《わか》い色白なのが、窓、欄干を覗く、松の中を、攀《よ》じ上るように三階へ案内した。――十畳敷。……柱も天井も丈夫造りで、床の間の誂《あつら》えにもいささかの厭味《いやみ》がない、玄関つきとは似もつかない、しっかりした屋台である。
 敷蒲団《しきぶとん》の綿も暖かに、熊《くま》の皮の見事なのが敷いてあるは。ははあ、膝栗毛時代に、峠路《とうげじ》で売っていた、猿《さる》の腹ごもり、大蛇《おろち》の肝、獣の皮というのはこれだ、と滑稽《おどけ》た殿様になって件《くだん》の熊の皮に着座に及ぶと、すぐに台十能《だいじゅう》へ火を入れて女中《ねえ》さんが上がって来て、惜し気もなく銅《あか》の大火鉢《おおひばち》へ打《ぶ》ちまけたが、またおびただしい。青い火さきが、堅炭を搦《から》んで、真赤に※[#「※」は「火に共」、第3水準1-87-42、385下-14]《おこ》って、窓に沁《し》み入る山颪《やまおろし》はさっと冴《さ》える。三階にこの火の勢いは、大地震のあとでは、ちと申すのも憚《はばか》りあるばかりである。
 湯にも入った。
 さて膳だが、――蝶脚《ちょうあし》の上を見ると、蕎麦扱いにしたは気恥ずかしい。わらさ[#「わらさ」に傍点]の照焼はとにかくとして、ふっと煙の立つ厚焼の玉子に、椀《わん》が真白な半ぺんの葛《くず》かけ。皿《さら》についたのは、このあたりで佳品《かひん》と聞く、鶫《つぐみ》を、何と、頭《かしら》を猪口《ちょく》に、股《また》をふっくり、胸を開いて、五羽、ほとんど丸焼にして芳《かんば》しくつけてあった。
「ありがたい、……実にありがたい。」
 境は、その女中に馴《な》れない手つきの、それも嬉《うれ》しい……酌《しゃく》をしてもらいながら、熊に乗って、仙人《せんにん》の御馳走《ごちそう》になるように、慇懃《いんぎん》に礼を言った。
「これは大した御馳走ですな。……実にありがたい……全く礼を言いたいなあ。」
 心底《しんそこ》のことである。はぐらかすとは様子にも見えないから、若い女中もかけ引きなしに、
「旦那《だんな》さん、お気に入りまして嬉しゅうございますわ。さあ、もうお一つ。」
「頂戴《ちょうだい》しよう。なお重ねて頂戴しよう。――時に姐《ねえ》さん、この上のお願いだがね、……どうだろう、この鶫《つぐみ》を別に貰《もら》って、ここへ鍋《なべ》に掛けて、煮ながら食べるというわけには行くまいか。――鶫はまだいくらもあるかい。」
「ええ、笊《ざる》に三杯もございます。まだ台所の柱にも束にしてかかっております。」
「そいつは豪気《ごうぎ》だ。――少し余分に貰いたい、ここで煮るように……いいかい。」
「はい、そう申します。」
「ついでにお銚子《ちょうし》を。火がいいから傍《そば》へ置くだけでも冷めはしない。……通いが遠くって気の毒だ。三本ばかり一時《いちどき》に持っておいで。……どうだい。岩見重太郎が註文《ちゅうもん》をするようだろう。」
「おほほ。」
 今朝、松本で、顔を洗った水瓶《みずがめ》の水とともに、胸が氷に鎖《とざ》されたから、何の考えもつかなかった。ここで暖かに心が解けると、……分かった、饂飩《うどん》で虐待した理由《わけ》というのが――紹介状をつけた画伯は、近頃でこそ一家をなしたが、若くて放浪した時代に信州路《しんしゅうじ》を経歴《へめぐ》って、その旅館には五月《いつつき》あまりも閉じ籠《こ》もった。滞《とどこお》る旅籠代《はたごだい》の催促もせず、帰途《かえり》には草鞋銭《わらじせん》まで心着けた深切な家《うち》だと言った。が、ああ、それだ。……おなじ人の紹介だから旅籠代を滞らして、草鞋銭を貰うのだと思ったに違いない。……
「ええ、これは、お客様、お麁末《そまつ》なことでして。」
 と紺の鯉口《こいぐち》に、おなじ幅広の前掛けした、痩《や》せた、色のやや青黒い、陰気だが律儀《りちぎ》らしい、まだ三十六七ぐらいな、五分刈りの男が丁寧に襖際《ふすまぎわ》に畏《かしこ》まった。
「どういたして、……まことに御馳走様。……番頭さんですか。」
「いえ、当家の料理人にございますが、至って不束《ふつつか》でございまして。……それに、かような山家辺鄙《やまがへんぴ》で、一向お口に合いますものもございませんで。」
「とんでもないこと。」
「つきまして、……ただいま、女どもまでおっしゃりつけでございましたが、鶫を、貴方様《あなたさま》、何か鍋でめしあがりたいというお言《ことば》で、いかようにいたして差し上げましょうやら、右、女どももやっぱり田舎《いなか》もののことでございますで、よくお言がのみ込めかねます。ゆえに失礼ではございますが、ちょいとお伺いに出ましてございますが。」
 境は少なからず面くらった。
「そいつはどうも恐縮です。――遠方のところを。」
 とうっかり言った。……
「串戯《じょうだん》のようですが、全く三階まで。」
「どう仕《つかまつ》りまして。」
「まあ、こちらへ――お忙しいんですか。」
「いえ、お膳《ぜん》は、もう差し上げました。それが、お客様も、貴方様のほか、お二組ぐらいよりございません。」
「では、まあこちらへ。――さあ、ずっと。」
「はッ、どうも。」
「失礼をするかも知れないが、まあ、一杯《ひとつ》。ああ、――ちょうどお銚子が来た。女中《ねえ》さん、お酌をしてあげて下さい。」
「は、いえ、手前不調法で。」
「まあまあ一杯《ひとつ》。――弱ったな、どうも、鶫《つぐみ》を鍋でと言って、……その何ですよ。」
「旦那様、帳場でも、あの、そう申しておりますの。鶫は焼いてめしあがるのが一番おいしいんでございますって。」
「お膳にもつけて差し上げましたが、これを頭から、その脳味噌《のうみそ》をするりとな、ひと噛《かじ》りにめしあがりますのが、おいしいんでございまして、ええとんだ田舎流儀ではございますがな。」
「お料理番さん……私は決して、料理をとやこう言うたのではないのですよ。……弱ったな、どうも。実はね、あるその宴会の席で、その席に居た芸妓《げいしゃ》が、木曾の鶫の話をしたんです――大分酒が乱れて来て、何とか節というのが、あっちこっちではじまると、木曾節というのがこの時|顕《あら》われて、――きいても可懐《なつか》しい土地だから、うろ覚えに覚えているが、(木曾へ木曾へと積み出す米は)何とかっていうのでね……」
「さようで。」
 と真四角に猪口《ちょく》をおくと、二つ提《さ》げの煙草《たばこ》入れから、吸いかけた煙管《きせる》を、金《かね》の火鉢《ひばち》だ、遠慮なくコッツンと敲《たた》いて、
「……(伊那《いな》や高遠《たかと》の余り米)……と言うでございます、米、この女中の名でございます、お米《よね》。」
「あら、何だよ、伊作《いさく》さん。」
 と女中が横にらみに笑って睨《にら》んで、
「旦那さん、――この人は、家《うち》が伊那だもんでございますから。」
「はあ、勝頼《かつより》様と同国ですな。」
「まあ、勝頼様は、こんな男ぶりじゃありませんが。」
「当り前よ。」
 とむッつりした料理番は、苦笑いもせず、またコッツンと煙管を払《はた》く。
「それだもんですから、伊那の贔屓《ひいき》をしますの――木曾で唄《うた》うのは違いますが。――(伊那や高遠へ積み出す米は、みんな木曾路《きそじ》の余り米)――と言いますの。」
「さあ……それはどっちにしろ……その木曾へ、木曾へのきっかけに出た話なんですから、私たちも酔ってはいるし、それがあとの贄川《にえがわ》だか、峠を越した先の藪原《やぶはら》、福島、上松《あげまつ》のあたりだか、よくは訊《き》かなかったけれども、その芸妓《げいしゃ》が、客と一所に、鶫あみを掛けに木曾へ行ったという話をしたんです。……まだ夜《よ》の暗いうちに山道をずんずん上って、案内者の指揮《さしず》の場所で、かすみを張って囮《おとり》を揚げると、夜明け前、霧のしらじらに、向うの尾上《おのえ》を、ぱっとこちらの山の端《は》へ渡る鶫の群れが、むらむらと来て、羽ばたきをして、かすみに掛かる。じわじわととって占めて、すぐに焚火《たきび》で附け焼きにして、膏《あぶら》の熱いところを、ちゅッと吸って食べるんだが、そのおいしいこと、……と言って、話をしてね……」
「はあ、まったくで。」
「……ぶるぶる寒いから、煮燗《にえかん》で、一杯のみながら、息もつかずに、幾口か鶫を噛《かじ》って、ああ、おいしいと一息して、焚火にしがみついたのが、すっと立つと、案内についた土地の猟師が二人、きゃッと言った――その何なんですよ、芸妓の口が血だらけになっていたんだとさ。生々《なまなま》とした半熟の小鳥の血です。……とこの話をしながら、うっかりしたようにその芸妓は手巾《ハンケチ》で口を圧《おさ》えたんですがね……たらたらと赤いやつが沁《し》みそうで、私は顔を見ましたよ。触《さわ》ると撓《しな》いそうな痩《や》せぎすな、すらりとした、若い女で。……聞いてもうまそうだが、これは凄《すご》かったろう、その時、東京で想像しても、嶮《けわ》しいとも、高いとも、深いとも、峰谷の重なり合った木曾山中のしらしらあけです……暗い裾《すそ》に焚火を搦《から》めて、すっくりと立ち上がったという、自然、目の下の峰よりも高い処《ところ》で、霧の中から綺麗《きれい》な首が。」
「いや、旦那《だんな》さん。」
「話は拙《まず》くっても、何となく不気味だね。その口が血だらけなんだ。」
「いや、いかにも。」
「ああ、よく無事だったな、と私が言うと、どうして? と訊くから、そういうのが、慌《あわ》てる銃猟家だの、魔のさした猟師に、峰越しの笹原《ささはら》から狙《ねら》い撃ちに二つ弾丸《だま》を食らうんです。……場所と言い……時刻と言い……昔から、夜待ち、あけ方の鳥あみには、魔がさして、怪しいことがあると言うが、まったくそれは魔がさしたんだ。だって、覿面《てきめん》に綺麗な鬼になったじゃあないか。……どうせそうよ、……私は鬼よ。――でも人に食われる方の……なぞと言いながら、でも可恐《こわ》いわね、ぞっとする。と、また口を手巾で圧えていたのさ。」
「ふーん。」と料理番は、我を忘れて沈んだ声して、
「ええ。旦那、へい、どうも、いや、全く。――実際、危のうございますな。――そういう場合には、きっと怪我《けが》があるんでして……よく、その姐《ねえ》さんは御無事でした。この贄川の川上、御嶽口《おんたけぐち》。美濃《みの》寄りの峡《かい》は、よけいに取れますが、その方《かた》の場所はどこでございますか存じません――芸妓衆《げいしゃしゅう》は東京のどちらの方《かた》で。」
「なに、下町の方ですがね。」
「柳橋……」
 と言って、覗《のぞ》くように、じっと見た。
「……あるいはその新橋とか申します……」
「いや、その真中ほどです……日本橋の方だけれど、宴会の席ばかりでの話ですよ。」
「お処が分かって差支《さしつか》えがございませんければ、参考のために、その場所を伺っておきたいくらいでございまして。……この、深山幽谷のことは、人間の智慧《ちえ》には及びません――」
 女中も俯向《うつむ》いて暗い顔した。
 境は、この場合|誰《だれ》もしよう、乗り出しながら、
「何か、この辺に変わったことでも。」
「……別にその、と云ってございません。しかし、流れに瀬がございますように、山にも淵《ふち》がございますで、気をつけなければなりません。――ただいまさしあげました鶫《つぐみ》は、これは、つい一両日続きまして、珍しく上の峠口《とうげぐち》で猟があったのでございます。」
「さあ、それなんですよ。」
 境はあらためて猪口《ちょく》をうけつつ、
「料理番さん。きみのお手際《てぎわ》で膳《ぜん》につけておくんなすったのが、見てもうまそうに、香《かんば》しく、脂《あぶら》の垂れそうなので、ふと思い出したのは、今の芸妓《げいしゃ》の口が血の一件でね。しかし私は坊さんでも、精進でも、何でもありません。望んでも結構なんだけれど、見たまえ。――窓の外は雨と、もみじで、霧が山を織っている。峰の中には、雪を頂いて、雲を貫いて聳《そび》えたのが見えるんです。――どんな拍子かで、ひょいと立ちでもした時口が血になって首が上へ出ると……野郎でこの面《つら》だから、その芸妓のような、凄《すご》く美しく、山の神の化身《けしん》のようには見えまいがね。落ち残った柿《かき》だと思って、窓の外から烏《からす》が突つかないとも限らない、……ふと変な気がしたものだから。」
「お米さん――電燈《でんき》がなぜか、遅いでないか。」
 料理番が沈んだ声で言った。
 時雨《しぐれ》は晴れつつ、木曾の山々に暮が迫った。奈良井川《ならいがわ》の瀬が響く。

      二

「何だい、どうしたんです。」
「ああ、旦那。」と暗夜《やみよ》の庭の雪の中で。
「鷺《さぎ》が来て、魚《うお》を狙《ねら》うんでございます。」
 すぐ窓の外、間近だが、池の水を渡るような料理番――その伊作の声がする。
「人間《ひと》が落ちたか、獺《かわうそ》でも駈《か》け廻《まわ》るのかと思った、えらい音で驚いたよ。」
 これは、その翌日の晩、おなじ旅店《はたごや》の、下《した》座敷でのことであった。……

 境は奈良井宿に逗留《とうりゅう》した。ここに積もった雪が、朝から降り出したためではない。別にこのあたりを見物するためでもなかった。……昨夜は、あれから――鶫を鍋《なべ》でと誂《あつら》えたのは、しゃも、かしわをするように、膳《ぜん》のわきで火鉢《ひばち》へ掛けて煮るだけのこと、と言ったのを、料理番が心得て、そのぶつ切りを、皿に山もり。目笊《めざる》に一杯、葱《ねぎ》のざくざくを添えて、醤油《しょうゆ》も砂糖も、むきだしに担《かつ》ぎあげた。お米が烈々と炭を継ぐ。
 越《こし》の方だが、境の故郷いまわりでは、季節になると、この鶫を珍重すること一通りでない。料理屋が鶫|御料理《おんりょうり》、じぶ、おこのみなどという立看板を軒に掲げる。鶫うどん、鶫|蕎麦《そば》と蕎麦屋までが貼紙《びら》を張る。ただし安価《やす》くない。何の椀《わん》、どの鉢《はち》に使っても、おん羮《あつもの》、おん小蓋《こぶた》の見識で。ぽっちり三臠《みきれ》、五臠《いつきれ》よりは附けないのに、葱と一所《ひとつ》に打《ぶ》ち覆《ま》けて、鍋からもりこぼれるような湯気を、天井へ立てたは嬉《うれ》しい。
 あまっさえ熱燗《あつかん》で、熊《くま》の皮に胡坐《あぐら》で居た。
 芸妓《げいしゃ》の化けものが、山賊にかわったのである。
 寝る時には、厚衾《あつぶすま》に、この熊《くま》の皮が上へ被《かぶ》さって、袖《そで》を包み、蔽《おお》い、裙《すそ》を包んだのも面白い。あくる日、雪になろうとてか、夜嵐《よあらし》の、じんと身に浸《し》むのも、木曾川の瀬の凄《すご》いのも、ものの数ともせず、酒の血と、獣の皮とで、ほかほかして三階にぐっすり寝込んだ。
 次第であるから、朝は朝飯から、ふっふっと吹いて啜《すす》るような豆腐の汁《しる》も気に入った。
 一昨日《いっさくじつ》の旅館の朝はどうだろう。……溝《どぶ》の上澄みのような冷たい汁に、おん羮ほどに蜆《しじみ》が泳いで、生煮えの臭さといったらなかった。……
 山も、空も氷を透《とお》すごとく澄みきって、松の葉、枯木の閃《きらめ》くばかり、晃々《きらきら》と陽《ひ》がさしつつ、それで、ちらちらと白いものが飛んで、奥山に、熊が人立《じんりつ》して、針を噴《ふ》くような雪であった。
 朝飯《あさ》が済んでしばらくすると、境はしくしくと腹が疼《いた》みだした。――しばらくして、二三度はばかりへ通った。
 あの、饂飩《うどん》の祟《たた》りである。鶫を過食したためでは断じてない。二ぜん分を籠《こ》みにした生がえりのうどん粉の中毒《あた》らない法はない。お腹《なか》を圧《おさ》えて、饂飩を思うと、思う下からチクチクと筋が動いて痛み出す。――もっとも、戸外《そと》は日当りに針が飛んでいようが、少々腹が痛もうが、我慢して、汽車に乗れないという容体《ようだい》ではなかったので。……ただ、誰も知らない。この宿の居心のいいのにつけて、どこかへのつらあてにと、逗留《とうりゅう》する気になったのである。
 ところで座敷だが――その二度めだったか、厠《かわや》のかえりに、わが座敷へ入ろうとして、三階の欄干《てすり》から、ふと二階を覗《のぞ》くと、階子段《はしごだん》の下に、開けた障子に、箒《ほうき》とはたきを立て掛けた、中の小座敷に炬燵《こたつ》があって、床の間が見通される。……床に行李《こうり》と二つばかり重ねた、あせた萌葱《もえぎ》の風呂敷《ふろしき》づつみの、真田紐《さなだひも》で中結わえをしたのがあって、旅商人《たびあきんど》と見える中年の男が、ずッぷり床を背負《しよ》って当たっていると、向い合いに、一人の、中年増《ちゅうどしま》の女中がちょいと浮腰で、膝《ひざ》をついて、手さきだけ炬燵に入れて、少し仰向くようにして、旅商人と話をしている。
 なつかしい浮世の状《さま》を、山の崖《がけ》から掘り出して、旅宿《やど》に嵌《は》めたように見えた。
 座敷は熊の皮である。境は、ふと奥山へ棄《す》てられたように、里心が着いた。
 一昨日《おととい》松本で城を見て、天守に上って、その五層《いつつ》めの朝霜の高層に立って、ぞっとしたような、雲に連なる、山々のひしと再び窓に来て、身に迫るのを覚えもした。バスケットに、等閑《なおざり》に絡《から》めたままの、城あとの崩《くず》れ堀《ぼり》の苔《こけ》むす石垣《いしがき》を這《は》って枯れ残った小さな蔦《つた》の紅《くれない》の、鶫《つぐみ》の血のしたたるごときのを見るにつけても。……急に寂しい。――「お米さん、下階《した》に座敷はあるまいか。――炬燵に入ってぐっすりと寝たいんだ。」
 二階の部屋々々は、時ならず商人衆《あきんどしゅう》の出入《ではい》りがあるからと、望むところの下座敷、おも屋から、土間を長々と板を渡って離れ座敷のような十畳へ導かれたのであった。
 肱掛窓《ひじかけまど》の外が、すぐ庭で、池がある。
 白雪の飛ぶ中に、緋鯉《ひごい》の背、真鯉の鰭《ひれ》の紫は美しい。梅も松もあしらったが、大方は樫槻《かしけやき》の大木である。朴《ほお》の樹《き》の二|抱《かか》えばかりなのさえすっくと立つ。が、いずれも葉を振るって、素裸《すはだか》の山神《さんじん》のごとき装いだったことは言うまでもない。
 午後三時ごろであったろう。枝に梢《こずえ》に、雪の咲くのを、炬燵で斜違《はすか》いに、くの字になって――いい婦《おんな》だとお目に掛けたい。
 肱掛窓を覗《のぞ》くと、池の向うの椿《つばき》の下に料理番が立って、つくねんと腕組して、じっと水を瞻《みまも》るのが見えた。例の紺の筒袖《つつッぽ》に、尻《しり》からすぽんと巻いた前垂《まえだれ》で、雪の凌《しの》ぎに鳥打帽を被《かぶ》ったのは、いやしくも料理番が水中の鯉を覗くとは見えない。大きな鷭《ばん》が沼の鰌《どじょう》を狙《ねら》っている形である。山も峰も、雲深くその空を取り囲む。
 境は山間の旅情を解した。「料理番さん、晩の御馳走《ごちそう》に、その鯉を切るのかね。」「へへ。」と薄暗い顔を上げてニヤリと笑いながら、鳥打帽を取ってお時儀をして、また被り直すと、そのままごそごそと樹《き》を潜《くぐ》って廂《ひさし》に隠れる。
 帳場は遠し、あとは雪がやや繁《しげ》くなった。
 同時に、さらさらさらさらと水の音が響いて聞こえる。「――また誰か洗面所の口金を開け放したな。」これがまた二度めで。……今朝三階の座敷を、ここへ取り替えない前に、ちと遠いが、手水《ちょうず》を取るのに清潔《きれい》だからと女中が案内をするから、この離座敷《はなれ》に近い洗面所に来ると、三カ所、水道口《みずぐち》があるのにそのどれを捻《ひね》っても水が出ない。さほどの寒さとは思えないが凍《い》てたのかと思って、谺《こだま》のように高く手を鳴らして女中に言うと、「あれ、汲《く》み込《こ》みます。」と駈《か》け出して行くと、やがて、スッと水が出た。――座敷を取り替えたあとで、はばかりに行くと、ほかに手水鉢《ちょうずばち》がないから、洗面所の一つを捻《ひね》ったが、その時はほんのたらたらと滴《したた》って、辛《かろ》うじて用が足りた。
 しばらくすると、しきりに洗面所の方で水音がする。炬燵《こたつ》から潜《もぐ》り出て、土間へ下りて橋がかりからそこを覗《のぞ》くと、三ツの水道口《みずぐち》、残らず三条《みすじ》の水が一齊《いちどき》にざっと灌《そそ》いで、徒《いたず》らに流れていた。たしない水らしいのに、と一つ一つ、丁寧にしめて座敷へ戻った。が、その時も料理番が池のへりの、同じ処《ところ》につくねんと彳《たたず》んでいたのである。くどいようだが、料理番の池に立ったのは、これで二度めだ。……朝のは十時ごろであったろう。トその時料理番が引っ込むと、やがて洗面所の水が、再び高く響いた。
 またしても三条の水道が、残らず開け放しに流れている。おなじこと、たしない水である。あとで手を洗おうとする時は、きっと涸《か》れるのだからと、またしても口金をしめておいたが。――
 いま、午後の三時ごろ、この時も、さらにその水の音が聞こえ出したのである。庭の外には小川も流れる。奈良井川の瀬も響く。木曾へ来て、水の音を気にするのは、船に乗って波を見まいとするようなものである。望みこそすれ、嫌《きら》いも避けもしないのだけれど、不思議に洗面所の開け放しばかり気になった。
 境はまた廊下へ出た。果して、三条とも揃《そろ》って――しょろしょろと流れている。「旦那《だんな》さん、お風呂《ふろ》ですか。」手拭《てぬぐい》を持っていたのを見て、ここへ火を直しに、台|十能《じゅうのう》を持って来かかった、お米が声を掛けた。「いや――しかし、もう入れるかい。」「じきでございます。……今日はこの新館のが湧《わ》きますから。」なるほど、雪の降りしきるなかに、ほんのりと湯の香が通う。洗面所の傍《わき》の西洋扉《せいようど》が湯殿らしい。この窓からも見える。新しく建て増した柱立てのまま、筵《むしろ》がこいにしたのもあり、足場を組んだ処《ところ》があり、材木を積んだ納屋《なや》もある。が、荒れた厩《うまや》のようになって、落葉に埋《う》もれた、一帯、脇本陣《わきほんじん》とでも言いそうな旧家が、いつか世が成金とか言った時代の景気につれて、桑《くわ》も蚕《かいこ》も当たったであろう、このあたりも火の燃えるような勢いに乗じて、贄川《にえがわ》はその昔は、煮え川にして、温泉《いでゆ》の湧いた処だなぞと、ここが温泉にでもなりそうな意気込みで、新館建増しにかかったのを、この一座敷と、湯殿ばかりで、そのまま沙汰《さた》やみになったことなど、あとで分《わ》かった。「女中《ねえ》さんかい、その水を流すのは。」閉めたばかりの水道の栓《せん》を、女中が立ちながら一つずつ開けるのを視《み》て、たまらず詰《なじ》るように言ったが、ついでにこの仔細《しさい》も分かった。……池は、樹《き》の根に樋《とい》を伏せて裏の川から引くのだが、一年に一二度ずつ水涸《みずが》れがあって、池の水が干《ひ》ようとする。鯉《こい》も鮒《ふな》も、一処《ひとところ》へ固まって、泡《あわ》を立てて弱るので、台所の大桶《おおおけ》へ汲《く》み込んだ井戸の水を、はるばるとこの洗面所へ送って、橋がかりの下を潜《くぐ》らして、池へ流し込むのだそうであった。
 木曾道中の新版を二三種ばかり、枕《まくら》もとに散らした炬燵へ、ずぶずぶと潜《もぐ》って、「お米さん、……折り入って、お前さんに頼みがある。」と言いかけて、初々《ういうい》しくちょっと俯向《うつむ》くのを見ると、猛然として、喜多八を思い起こして、わが境は一人で笑った。「ははは、心配なことではないよ。――おかげで腹あんばいも至ってよくなったし、……午飯《ひる》を抜いたから、晩には入り合せにかつ食い、大いに飲むとするんだが、いまね、伊作さんが渋苦い顔をして池を睨《にら》んで行きました。どうも、鯉のふとり工合《ぐあい》を鑑定《めきき》したものらしい……きっと今晩の御馳走《ごちそう》だと思うんだ。――昨夜《ゆうべ》の鶫《つぐみ》じゃないけれど、どうも縁あって池の前に越して来て、鯉と隣附き合いになってみると、目の前から引き上げられて、俎《まないた》で輪切りは酷《ひど》い。……板前の都合もあろうし、またわがままを言うのではない。……
 活《いき》づくりはお断わりだが、実は鯉汁《こいこく》大歓迎なんだ。しかし、魚屋か、何か、都合して、ほかの鯉を使ってもらうわけには行くまいか。――差し出たことだが、一|尾《ぴき》か二|尾《ひき》で足りるものなら、お客は幾人だか、今夜の入用《いりよう》だけは私がその原料を買ってもいいから。」女中の返事が、「いえ、この池のは、いつもお料理にはつかいませんのでございます。うちの旦那も、おかみさんも、お志の仏の日には、鮒だの、鯉だの、……この池へ放しなさるんでございます。料理番さんもやっぱり。……そして料理番《あのひと》は、この池のを大事にして、可愛《かわい》がって、そのせいですか、隙《ひま》さえあれば、黙ってああやって庭へ出て、池を覗いていますんです。」「それはお誂《あつら》えだ。ありがたい。」境は礼を言ったくらいであった。
 雪の頂から星が一つ下がったように、入相《いりあい》の座敷に電燈の点《つ》いた時、女中が風呂を知らせに来た。
「すぐに膳《ぜん》を。」と声を掛けておいて、待ち構えた湯どのへ、一散――例の洗面所の向うの扉《と》を開けると、上がり場らしいが、ハテ真暗である。いやいや、提灯《ちょうちん》が一燈ぼうと薄白く点いている。そこにもう一枚|扉《ひらき》があって閉まっていた。その裡《なか》が湯どのらしい。
「半作事《はんさくじ》だと言うから、まだ電燈《でんき》が点かないのだろう。おお、二《ふた》つ巴《どもえ》の紋だな。大星だか由良之助《ゆらのすけ》だかで、鼻を衝《つ》く、鬱陶《うっとう》しい巴の紋も、ここへ来ると、木曾殿の寵愛《ちょうあい》を思い出させるから奥床しい。」
 と帯を解きかけると、ちゃぶり――という――人が居て湯を使う気勢《けはい》がする。この時、洗面所の水の音がハタとやんだ。
 境はためらった。
 が、いつでもかまわぬ。……他《ひと》が済んで、湯のあいた時を知らせてもらいたいと言っておいたのである。誰も入ってはいまい。とにかくと、解きかけた帯を挟《はさ》んで、ずッと寄って、その提灯の上から、扉《と》にひったりと頬《ほお》をつけて伺うと、袖《そで》のあたりに、すうーと暗くなる、蝋燭《ろうそく》が、またぽうと明《あか》くなる。影が痣《あざ》になって、巴が一つ片頬《かたほ》に映るように陰気に沁《し》み込む、と思うと、ばちゃり……内端《うちわ》に湯が動いた。何の隙間《すきま》からか、ぷんと梅の香を、ぬくもりで溶かしたような白粉《おしろい》の香がする。
「婦人《おんな》だ」
 何しろ、この明りでは、男客にしろ、一所に入ると、暗くて肩も手も跨《また》ぎかねまい。乳に打着《ぶつ》かりかねまい。で、ばたばたと草履《ぞうり》を突っ掛けたまま引き返した。
「もう、お上がりになりまして?」と言う。
 通いが遠い。ここで燗《かん》をするつもりで、お米がさきへ銚子《ちょうし》だけ持って来ていたのである。
「いや、あとにする。」
「まあ、そんなにお腹《なか》がすいたんですの。」
「腹もすいたが、誰かお客が入っているから。」
「へい、……こっちの湯どのは、久しく使わなかったのですが、あの、そう言っては悪うございますけど、しばらくぶりで、お掃除《そうじ》かたがた旦那様《だんなさま》に立てましたのでございますから、……あとで頂きますまでも、……あの、まだどなたも。」
「かまやしない。私はゆっくりでいいんだが、婦人の客のようだったぜ。」
「へい。」
 と、おかしなベソをかいた顔をすると、手に持つ銚子が湯沸しにカチカチカチと震えたっけ、あとじさりに、ふいと立って、廊下に出た。一度ひっそり跫音《あしおと》を消すや否や、けたたましい音を、すたんと立てて、土間の板をはたはたと鳴らして駈《か》け出した。
 境はきょとんとして、
「何だい、あれは……」
 やがて膳《ぜん》を持って顕《あら》われたのが……お米でない、年増《としま》のに替わっていた。
「やあ、中二階のおかみさん。」
 行商人と、炬燵《こたつ》で睦《むつ》まじかったのはこれである。
「御亭主《ごていしゅ》はどうしたい。」
「知りませんよ。」
「ぜひ、承りたいんだがね。」
 半ば串戯《じょうだん》に、ぐッと声を低くして、
「出るのかい……何か……あの、湯殿へ……まったく?」
「それがね、旦那、大笑いなんでございますよ。……どなたもいらっしゃらないと思って、申し上げましたのに、御婦人の方が入っておいでだって、旦那がおっしゃったと言うので、米ちゃん、大変な臆病《おくびょう》なんですから。……久しくつかいません湯殿ですから、内のお上さんが、念のために、――」
「ああそうか、……私はまた、ちょっと出るのかと思ったよ。」
「大丈夫、湯どのへは出ませんけれど、そのかわりお座敷へはこんなのが、ね、貴方《あなた》。」
「いや、結構。」
 お酌《しゃく》はこの方が、けっく飲める。
 夜は長い、雪はしんしんと降り出した。床を取ってから、酒をもう一度、その勢いでぐっすり寝よう。晩飯《ばん》はいい加減で膳を下げた。
 跫音が入り乱れる。ばたばたと廊下へ続くと、洗面所の方へ落ち合ったらしい。ちょろちょろと水の音がまた響き出した。男の声も交じって聞こえる。それが止《や》むと、お米が襖《ふすま》から円《まる》い顔を出して、
「どうぞ、お風呂へ。」
「大丈夫か。」
「ほほほほ。」
 とちとてれたように笑うと、身を廊下へ引くのに、押し続いて境は手拭《てぬぐい》を提《さ》げて出た。
 橋がかりの下り口に、昨夜帳場に居た坊主頭の番頭と、女中|頭《がしら》か、それとも女房かと思う老けた婦《おんな》と、もう一人の女中とが、といった形に顔を並べて、一団《ひとかたまり》になってこなたを見た。そこへお米の姿が、足袋《たび》まで見えてちょこちょこと橋がかりを越えて渡ると、三人の懐《ふところ》へ飛び込むように一団《ひとかたまり》。
「御苦労様。」
 わがために、見とどけ役のこの人数で、風呂を検《しら》べたのだと思うから声を掛けると、一度に揃《そろ》ってお時儀をして、屋根が萱《かや》ぶきの長土間に敷いた、そのあゆみ板を渡って行く。土間のなかばで、そのおじやのかたまりのような四人の形が暗くなったのは、トタンに、一つ二つ電燈がスッと息を引くように赤くなって、橋がかりのも洗面所のも一齊《いっせい》にパッと消えたのである。
 と胸を吐《つ》くと、さらさらさらさらと三筋に……こう順に流れて、洗面所を打つ水の下に、さっきの提灯《ちょうちん》が朦朧《もうろう》と、半ば暗く、巴《ともえ》を一つ照らして、墨でかいた炎か、鯰《なまず》の跳《は》ねたか、と思う形に点《とも》れていた。
 いまにも電燈が点《つ》くだろう。湯殿口へ、これを持って入る気で、境がこごみざまに手を掛けようとすると、提灯がフッと消えて見えなくなった。
 消えたのではない。やっぱりこれが以前のごとく、湯殿の戸口に点いていた。これはおのずから雫《しずく》して、下の板敷の濡《ぬ》れたのに、目の加減で、向うから影が映《さ》したものであろう。はじめから、提灯がここにあった次第《わけ》ではない。境は、斜めに影の宿った水中の月を手に取ろうとしたと同じである。
 爪《つま》さぐりに、例の上がり場へ……で、念のために戸口に寄ると、息が絶えそうに寂寞《ひっそり》しながら、ばちゃんと音がした。ぞッと寒い。湯気が天井から雫になって点滴《したた》るのではなしに、屋根の雪が溶けて落ちるような気勢《けはい》である。
 ばちゃん、……ちゃぶりと微《かす》かに湯が動く。とまた得ならず艶《えん》な、しかし冷たい、そして、におやかな、霧に白粉《おしろい》を包んだような、人膚《ひとはだ》の気がすッと肩に絡《まつ》わって、頸《うなじ》を撫《な》でた。
 脱ぐはずの衣紋《えもん》をかつしめて、
「お米さんか。」
「いいえ。」
 と一呼吸《ひといき》間《ま》を置いて、湯どのの裡《なか》から聞こえたのは、もちろんわが心がわが耳に響いたのであろう。――お米でないのは言うまでもなかったのである。
 洗面所の水の音がぴったりやんだ。
 思わず立ち竦《すく》んで四辺《あたり》を見た。思い切って、
「入りますよ、御免。」

「いけません。」
 と澄みつつ、湯気に濡《ぬ》れ濡《ぬ》れとした声が、はっきり聞こえた。

「勝手にしろ!」
 我を忘れて言った時は、もう座敷へ引き返していた。
 電燈は明るかった。巴の提灯はこの光に消された。が、水は三筋、さらにさらさらと走っていた。
「馬鹿にしやがる。」
 不気味より、凄《すご》いより、なぶられたような、反感が起こって、炬燵《こたつ》へ仰向けにひっくり返った。
 しばらくして、境が、飛び上がるように起き直ったのは、すぐ窓の外に、ざぶり、ばちゃばちゃばちゃ、ばちゃ、ちゃッと、けたたましく池の水の掻《か》き攪《みだ》さるる音を聞いたからであった。
「何だろう。」
 ばちゃばちゃばちゃ、ちゃッ。
 そこへ、ごそごそと池を廻って響いて来た。人の来るのは、なぜか料理番だろうと思ったのは、この池の魚《うお》を愛惜すると、聞いて知ったためである。……
「何だい、どうしたんです。」
 雨戸を開けて、一面の雪の色のやや薄い処《ところ》に声を掛けた。その池も白いまで水は少ないのであった。

      三

「どっちです、白鷺《しらさぎ》かね、五位鷺《ごいさぎ》かね。」
「ええ――どっちもでございますな。両方だろうと思うんでございますが。」
 料理番の伊作は来て、窓下の戸際《とぎわ》に、がッしり腕組をして、うしろ向きに立って言った。
「むこうの山口の大林から下りて来るんでございます。」
 言《ことば》の中にも顕《あら》われる、雪の降りやんだ、その雲の一方は漆《うるし》のごとく森が黒い。
「不断のことではありませんが、……この、旦那《だんな》、池の水の涸《か》れるところを狙《ねら》うんでございます。鯉《こい》も鮒《ふな》も半分|鰭《ひれ》を出して、あがきがつかないのでございますから。」
「怜悧《りこう》な奴《やつ》だね。」
「馬鹿な人間は困っちまいます――魚《うお》が可哀相《かわいそう》でございますので……そうかと言って、夜一夜《よっぴて》、立番をしてもおられません。旦那、お寒うございます。おしめなさいまし。……そちこち御註文《ごちゅうもん》の時刻でございますから、何か、不手際《ふてぎわ》なものでも見繕って差し上げます。」
「都合がついたら、君が来て一杯、ゆっくりつき合ってくれないか。――私は夜ふかしは平気だから。一所に……ここで飲んでいたら、いくらか案山子《かかし》になるだろう。……」
「――結構でございます。……もう台所は片附きました、追ッつけ伺います。――いたずらな餓鬼どもめ。」
 と、あとを口こごとで、空を睨《にら》みながら、枝をざらざらと潜《くぐ》って行く。
 境は、しかし、あとの窓を閉めなかった。もちろん、ごく細目には引いたが。――実は、雪の池のここへ来て幾羽の鷺の、魚《うお》を狩る状《さま》を、さながら、炬燵で見るお伽話《とぎばなし》の絵のように思ったのである。すわと言えば、追い立つるとも、驚かすとも、その場合のこととして……第一、気もそぞろなことは、二度まで湯殿の湯の音は、いずれの隙間《すきま》からか雪とともに、鷺が起《た》ち込んで浴《ゆあ》みしたろう、とそうさえ思ったほどであった。
 そのままじっと覗《のぞ》いていると、薄黒く、ごそごそと雪を踏んで行く、伊作の袖《そで》の傍《わき》を、ふわりと巴の提灯が点《つ》いて行く。おお今、窓下では提灯を持ってはいなかったようだ。――それに、もうやがて、庭を横ぎって、濡縁《ぬれえん》か、戸口に入りそうだ、と思うまで距《へだ》たった。遠いまで小さく見える、としばらくして、ふとあとへ戻るような、やや大きくなって、あの土間廊下の外の、萱《かや》屋根のつま下をすれずれに、だんだんこなたへ引き返す、引き返すのが、気のせいだか、いつの間にか、中へはいって、土間の暗がりを点《とも》れて来る。……橋がかり、一方が洗面所、突当りが湯殿……ハテナとぎょッとするまで気がついたのは、その点れて来る提灯を、座敷へ振り返らずに、逆に窓から庭の方に乗り出しつつ見ていることであった。
 トタンに消えた。――頭からゾッとして、首筋を硬《こわ》く振り向くと、座敷に、白鷺かと思う女の後ろ姿の頸脚《えりあし》がスッと白い。
 違《ちが》い棚《だな》の傍《わき》に、十畳のその辰巳《たつみ》に据《す》えた、姿見に向かった、うしろ姿である。……湯気に山茶花《さざんか》の悄《しお》れたかと思う、濡《ぬ》れたように、しっとりと身についた藍鼠《あいねずみ》の縞小紋《しまこもん》に、朱鷺色《ときいろ》と白のいち松のくっきりした伊達巻《だてまき》で乳の下の縊《くび》れるばかり、消えそうな弱腰に、裾模様《すそもよう》が軽《かろ》く靡《なび》いて、片膝《かたひざ》をやや浮かした、褄《つま》を友染《ゆうぜん》がほんのり溢《こぼ》れる。露の垂《た》りそうな円髷《まるまげ》に、桔梗色《ききょういろ》の手絡《てがら》が青白い。浅葱《あさぎ》の長襦袢《ながじゅばん》の裏が媚《なまめ》かしく搦《から》んだ白い手で、刷毛《はけ》を優しく使いながら、姿見を少しこごみなりに覗くようにして、化粧をしていた。
 境は起《た》つも坐《い》るも知らず息を詰めたのである。
 あわれ、着た衣《きぬ》は雪の下なる薄もみじで、膚《はだ》の雪が、かえって薄もみじを包んだかと思う、深く脱いだ襟脚《えりあし》を、すらりと引いて掻《か》き合わすと、ぼっとりとして膝近だった懐紙《かみ》を取って、くるくると丸げて、掌《てのひら》を拭《ふ》いて落としたのが、畳へ白粉《おしろい》のこぼれるようであった。
 衣摺《きぬず》れが、さらりとした時、湯どのできいた人膚《ひとはだ》に紛《まが》うとめきが薫《かお》って、少し斜めに居返《いがえ》ると、煙草《たばこ》を含んだ。吸い口が白く、艶々《つやつや》と煙管《きせる》が黒い。
 トーンと、灰吹の音が響いた。
 きっと向いて、境を見た瓜核顔《うりざねがお》は、目《ま》ぶちがふっくりと、鼻筋通って、色の白さは凄《すご》いよう。――気の籠《こ》もった優しい眉《まゆ》の両方を、懐紙《かみ》でひたと隠して、大きな瞳《ひとみ》でじっと視《み》て、
「……似合いますか。」
 と、莞爾《にっこり》した歯が黒い。と、莞爾しながら、褄《つま》を合わせざまにすっくりと立った。顔が鴨居《かもい》に、すらすらと丈《たけ》が伸びた。
 境は胸が飛んで、腰が浮いて、肩が宙へ上がった。ふわりと、その婦《おんな》の袖《そで》で抱き上げられたと思ったのは、そうでない、横に口に引き銜《くわ》えられて、畳を空《くう》に釣《つ》り上げられたのである。
 山が真黒になった。いや、庭が白いと、目に遮《さえぎ》った時は、スッと窓を出たので、手足はいつか、尾鰭《おひれ》になり、我はぴちぴちと跳《は》ねて、婦《おんな》の姿は廂《ひさし》を横に、ふわふわと欄間の天人のように見えた。
 白い森も、白い家も、目の下に、たちまちさっと……空高く、松本城の天守をすれすれに飛んだように思うと、水の音がして、もんどり打って池の中へ落ちると、同時に炬燵《こたつ》でハッと我に返った。
 池におびただしい羽音が聞こえた。
 この案山子《かかし》になど追えるものか。
 バスケットの、蔦《つた》の血を見るにつけても、青い呼吸《いき》をついてぐったりした。
 廊下へ、しとしとと人の音がする。ハッと息を引いて立つと、料理番が膳《ぜん》に銚子《ちょうし》を添えて来た。
「やあ、伊作さん。」
「おお、旦那《だんな》。」

      四

「昨年のちょうど今ごろでございました。」
 料理番はひしと、身を寄せ、肩をしめて話し出した。
「今年は今朝から雪になりましたが、そのみぎりは、忘れもしません、前日雪が降りました。積もり方は、もっと多かったのでございます。――二時ごろに、目の覚《さ》めますような御婦人客が、ただお一方《ひとかた》で、おいでになったのでございます。――目の覚めるようだと申しましても派手ではありません。婀娜《あだ》な中に、何となく寂しさのございます、二十六七のお年ごろで、高等な円髷《まるまげ》でおいででございました。――御容子《ごようす》のいい、背のすらりとした、見立ての申し分のない、しかし奥様と申すには、どこか媚《なま》めかしさが過ぎております。そこは、田舎《いなか》ものでも、大勢お客様をお見かけ申しておりますから、じきにくろうと衆《しゅ》だと存じましたのでございまして、これが柳橋の蓑吉《みのきち》さんという姐《ねえ》さんだったことが、後に分かりました。宿帳の方はお艶様《つやさま》でございます。
 その御婦人を、旦那――帳場で、このお座敷へ御案内申したのでございます。
 風呂《ふろ》がお好きで……もちろん、お嫌《いや》な方もたんとございますまいが、あの湯へ二度、お着きになって、すぐと、それに夜分に一度、お入りなすったのでございます――都合で、新館の建出しは見合わせておりますが、温泉ごのみに石で畳《たた》みました風呂は、自慢でございまして、旧の二階三階のお客様にも、ちと遠うございますけれども、お入りを願っておりましたところが――実はその、時々、不思議なことがありますので、このお座敷も同様にしばらく使わずにおきましたのを、旦那のような方に試みていただけば、おのずと変なこともなくなりましょうと、相談をいたしまして、申すもいかがでございますが、今日《こんにち》久しぶりで、湧《わ》かしも使いもいたしましたような次第《わけ》なのでございます。
 ところで、お艶様、その御婦人でございますが、日のうち一風呂お浴びになりますと、(鎮守様のお宮は、)と聞いて、お参詣《まいり》なさいました。贄川街道《にえがわかいどう》よりの丘の上にございます。――山王様のお社《やしろ》で、むかし人身|御供《ごくう》があがったなどと申し伝えてございます。森々《しんしん》と、もの寂しいお社で。……村社はほかにもございますが、鎮守と言う、お尋ねにつけて、その儀を帳場で申しますと……道を尋ねて、そこでお一人でおのぼりなさいました。目を少々お煩いのようで、雪がきらきらして疼《いた》むからと言って、こんな土地でございます、ほんの出来あいの黒い目金を買わせて、掛けて、洋傘《こうもり》を杖《つえ》のようにしてお出掛けで。――これは鎮守様へ参詣《さんけい》は、奈良井宿一統への礼儀|挨拶《あいさつ》というお心だったようでございます。
 無事に、まずお帰りなすって、夕飯の時、お膳《ぜん》で一口あがりました。――旦那の前でございますが、板前へと、御丁寧にお心づけを下すったものでございますから私《てまい》……ちょいと御挨拶に出ました時、こういうおたずねでございます――お社へお供物《くもつ》にきざ柿《がき》と楊枝《ようじ》とを買いました、……石段下のそこの小店のお媼《ばあ》さんの話ですが、山王様の奥が深い森で、その奥に桔梗ヶ原《ききょうがはら》という、原の中に、桔梗の池というのがあって、その池に、お一方《ひとり》、お美しい奥様がいらっしゃると言うことですが、ほんとうですか。――
 ――まったくでございます、と皆まで承わらないで、私《てまい》が申したのでございます。
 論より証拠、申して、よいか、悪いか存じませんが、現に私《てまい》が一度見ましたのでございます。」
「…………」
「桔梗ヶ原とは申しますが、それは、秋草は綺麗《きれい》に咲きます、けれども、桔梗ばかりというのではございません。ただその大池の水が真桔梗《まっききょう》の青い色でございます。桔梗はかえって、白い花のが見事に咲きますのでございまして。……
 四年あとになりますが、正午《まひる》というのに、この峠向うの藪原宿《やぶはらじゅく》から火が出ました。正午《しょううま》の刻《こく》の火事は大きくなると、何国《いずこ》でも申しますが、全く大焼けでございました。
 山王様の丘へ上がりますと、一目に見えます。火の手は、七条《ななすじ》にも上がりまして、ぱちぱちぱんぱんと燃える音が手に取るように聞こえます。……あれは山間《やまあい》の滝か、いや、ぽんぷの水の走るのだと申すくらい。この大南風《おおみなみ》の勢いでは、山火事になって、やがて、ここもとまで押し寄せはしまいかと案じますほどの激しさで、駈《か》けつけるものは駈けつけます、騒ぐものは騒ぐ。私《てまい》なぞは見物の方で、お社《やしろ》前は、おなじ夥間《なかま》で充満《いっぱい》でございました。
 二百十日の荒れ前で、残暑の激しい時でございましたから、ついつい少しずつお社の森の中へ火を見ながら入りましたにつけて、不断は、しっかり行くまじきとしてある処《ところ》ではございますが、この火の陽気で、人の気の湧《わ》いている場所から、深いといっても半町とはない。大丈夫と。ところで、私《てまい》陰気もので、あまり若衆《わかしゅ》づきあいがございませんから、誰を誘うでもあるまいと、杉檜《すぎひのき》の森々としました中を、それも、思ったほど奥が深くもございませんで、一面の草花。……白い桔梗《ききょう》でへりを取った百畳敷ばかりの真青《まっさお》な池が、と見ますと、その汀《みぎわ》、ものの二……三……十間とはない処に……お一人、何ともおうつくしい御婦人が、鏡台を置いて、斜めに向かって、お化粧をなさっていらっしゃいました。
 お髪《ぐし》がどうやら、お召ものが何やら、一目見ました、その時の凄《すご》さ、可恐《おそろ》しさと言ってはございません。ただいま思い出しましても御酒《ごしゅ》が氷になって胸へ沁《し》みます。ぞっとします。……それでいてそのお美しさが忘れられません。勿体《もったい》ないようでございますけれども、家のないもののお仏壇に、うつしたお姿と存じまして、一日でも、この池の水を視《なが》めまして、その面影《おもかげ》を思わずにはおられませんのでございます。――さあ、その時は、前後も存ぜず、翼《はね》の折れた鳥が、ただ空から落ちるような思いで、森を飛び抜けて、一目散に、高い石段を駈け下りました。私《てまい》がその顔の色と、怯《おび》えた様子とてはなかったそうでございましてな。……お社前の火事見物が、一雪崩《ひとなだれ》になって遁《に》げ下《お》りました。森の奥から火を消すばかり冷たい風で、大蛇《だいじゃ》がさっと追ったようで、遁げた私《てまい》は、野兎《のうさぎ》の飛んで落ちるように見えたということでございまして。
 とこの趣を――お艶様、その御婦人に申しますと、――そうしたお方を、どうして、女神様《おんながみさま》とも、お姫様とも言わないで、奥さまと言うんでしょう。さ、それでございます。私《てまい》はただ目が暗んでしまいましたが、前々《ぜんぜん》より、ふとお見上げ申したものの言うのでは、桔梗の池のお姿は、眉《まゆ》をおとしていらっしゃりまするそうで……」
 境はゾッとしながら、かえって炬燵《こたつ》を傍《わき》へ払った。
「どなたの奥方とも存ぜずに、いつとなくそう申すのでございまして……旦那。――お艶様に申しますと、じっとお聞きなすって――だと、その奥さまのお姿は、ほかにも見た方がありますか、とおっしゃいます――ええ、月の山の端《は》、花の麓路《ふもとじ》、螢《ほたる》の影、時雨《しぐれ》の提灯《ちょうちん》、雪の川べりなど、随分村方でも、ちらりと拝んだものはございます。――お艶様はこれをきいて、猪口《ちょく》を下に置いて、なぜか、しょんぼりとおうつむきなさいました。――
 ――ところで旦那……その御婦人が、わざわざ木曾のこの山家《やまが》へ一人旅をなされた、用事がでございまする。」

      五

「ええ、その時、この、村方で、不思議千万な、色出入り、――変な姦通《まおとこ》事件がございました。
 村入りの雁股《かりまた》と申す処《ところ》に(代官|婆《ばば》)という、庄屋《しょうや》のお婆《ばあ》さんと言えば、まだしおらしく聞こえますが、代官婆。……渾名《あだな》で分かりますくらいおそろしく権柄《けんべい》な、家の系図を鼻に掛けて、俺《おら》が家はむかし代官だぞよ、と二言めには、たつみ上がりになりますので。その了簡《りょうけん》でございますから、中年から後家になりながら、手一つで、まず……伜《せがれ》どのを立派に育てて、これを東京で学士先生にまで仕立てました。……そこで一頃《ひところ》は東京|住居《ずまい》をしておりましたが、何でも一旦《いったん》微禄《びろく》した家を、故郷《ふるさと》に打《ぶ》っ開《ぱだ》けて、村中の面《つら》を見返すと申して、估券《こけん》潰《つぶ》れの古家を買いまして、両三年|前《ぜん》から、その伜の学士先生の嫁御、近頃で申す若夫人と、二人で引き籠もっておりますが。……菜大根、茄子《なすび》などは料理に醤油《したじ》が費《つい》え、だという倹約で、葱《ねぶか》、韮《にら》、大蒜《にんにく》、辣薤《らっきょう》と申す五|薀《うん》の類《たぐい》を、空地《あきち》中に、植え込んで、塩で弁ずるのでございまして。……もう遠くからぷんと、その家が臭《にお》います。大蒜屋敷の代官婆。……
 ところが若夫人、嫁御というのが、福島の商家の娘さんで学校をでた方だが、当世に似合わないおとなしい優《やさ》しい、ちと内輪すぎますぐらい。もっともこれでなくっては代官婆と二人住居はできません。……大蒜ばなれのした方《かた》で、鋤《すき》にも、鍬《くわ》にも、連尺にも、婆どのに追い使われて、いたわしいほどよく辛抱なさいます。
 霜月の半ば過ぎに、不意に東京から大蒜屋敷へお客人がございました。学士先生のお友だちで、この方はどこへも勤めてはいなさらない、もっとも画師《えかき》だそうでございますから、きまった勤めとてはございますまい。学士先生の方は、東京のある中学校でれっきとした校長さんでございますが。――
 で、その画師さんが、不意に、大蒜屋敷に飛び込んで参ったのは、ろくに旅費も持たずに、東京から遁《に》げ出して来たのだそうで。……と申しますのは――早い話が、細君がありながら、よそに深い馴染《なじみ》が出来ました。……それがために、首尾も義理も世の中は、さんざんで、思い余って細君が意見をなすったのを、何を! と言って、一つ横頬《よこぞっぽ》を撲《くら》わしたはいいが、御先祖、お両親《ふたおや》の位牌《いはい》にも、くらわされてしかるべきは自分の方で、仏壇のあるわが家には居たたまらないために、その場から門《かど》を駈け出したは出たとして、知合《ちかづき》にも友だちにも、女房に意見をされるほどの始末で見れば、行き処《どころ》がなかったので、一夜《ひとよ》しのぎに、この木曾谷まで遁げ込んだのだそうでございます、遁げましたなあ。……それに、その細君というのが、はじめ画師《えかき》さんには恋人で、晴れて夫婦になるのには、この学士先生が大層なお骨折りで、そのおかげで思いが叶《かな》ったと申したようなわけだそうで。……遁げ込み場所には屈竟《くっきょう》なのでございました。
 時に、弱りものの画師さんの、その深い馴染というのが、もし、何と……お艶様――手前どもへ一人でお泊まりになったその御婦人なんでございます。……ちょいと申し上げておきますが、これは画師さんのあとをたずねて、雪を分けておいでになったのではございません。その間がざっと半月ばかりございました。その間に、ただいま申しました、姦通《まおとこ》騒ぎが起こったのでございます。」
 と料理番は一息した。
「そこで……また代官|婆《ばば》に変な癖がございましてな。癖より病で――あるもの知りの方に承りましたのでは、訴訟狂とか申すんだそうで、葱《ねぶか》が枯れたと言っては村役場だ、小児《こども》が睨《にら》んだと言えば交番だ。……派出所だ裁判だと、何でも上沙汰《かみざた》にさえ持ち出せば、我に理があると、それ貴客《あなた》、代官婆だけに思い込んでおりますのでございます。
 その、大蒜《にんにく》屋敷の雁股《かりまた》へ掛かります、この街道《かいどう》、棒鼻《ぼうばな》の辻《つじ》に、巌穴《いわあな》のような窪地《くぼち》に引っ込んで、石松という猟師が、小児《がき》だくさんで籠《こ》もっております。四十|親仁《おやじ》で、これの小僧の時は、まだ微禄《びろく》をしません以前の……その婆のとこに下男奉公、女房《かかあ》も女中奉公をしたものだそうで。……婆がえろう家来扱いにするのでございますが、石松猟師も、堅い親仁で、はなはだしく御主人に奉っておりますので。……
 宵《よい》の雨が雪になりまして、その年の初雪が思いのほか、夜半《よなか》を掛けて積もりました。山の、猪《しし》、兎《うさぎ》が慌《あわ》てます。猟はこういう時だと、夜更《よふ》けに、のそのそと起きて、鉄砲しらべをして、炉端《ろばた》で茶漬《ちゃづけ》を掻《か》っ食らって、手製《てづくり》の猿《さる》の皮の毛頭巾《けずきん》を被《かぶ》った。筵《むしろ》の戸口へ、白髪《しらが》を振り乱して、蕎麦切色《そばきりいろ》の褌《ふんどし》……いやな奴《やつ》で、とき色の禿《は》げたのを不断まきます、尻端折《しりぱしょ》りで、六十九歳の代官婆が、跣足《はだし》で雪の中に突っ立ちました。(内へ怪《ば》けものが出た、来てくれせえ。)と顔色《がんしょく》、手ぶりで喘《あえ》いで言うので。……こんな時鉄砲は強うございますよ、ガチリ、実弾《たま》をこめました。……旧主人の後室様がお跣足でございますから、石松も素跣足。街道を突っ切って韮《にら》、辣薤《らっきょう》、葱畑《ねぶかばたけ》を、さっさっと、化けものを見届けるのじゃ、静かにということで、婆が出て来ました納戸口《なんどぐち》から入って、中土間へ忍んで、指さされるなりに、板戸の節穴から覗《のぞ》きますとな、――何と、六枚折の屏風《びょうぶ》の裡《なか》に、枕《まくら》を並べて、と申すのが、寝てはいなかったそうでございます。若夫人が緋《ひ》の長襦袢《ながじゅばん》で、掻巻《かいまき》の襟《えり》の肩から辷《すべ》った半身で、画師の膝《ひざ》に白い手をかけて俯向《うつむ》けになりました、背中を男が、撫《な》でさすっていたのだそうで。いつもは、もんぺを穿《は》いて、木綿《もめん》のちゃんちゃんこで居る嫁御が、その姿で、しかもそのありさまでございます。石松は化けもの以上に驚いたに相違ございません。(おのれ、不義もの……人畜生《にんちくしょう》。)と代官婆が土蜘蛛《つちぐも》のようにのさばり込んで、(やい、……動くな、その状《ざま》を一寸でも動いて崩《くず》すと――鉄砲《あれ》だぞよ、弾丸《あれ》だぞよ。)と言う。にじり上がりの屏風の端から、鉄砲の銃口《すぐち》をヌッと突き出して、毛の生えた蟇《ひきがえる》のような石松が、目を光らして狙《ねら》っております。
 人相と言い、場合と申し、ズドンとやりかねない勢いでごさいますから、画師さんは面喰《めんく》らったに相違ございますまい。(天罰は立《た》ち処《どころ》じゃ、足四本、手四つ、顔《つら》二つのさらしものにしてやるべ。)で、代官婆は、近所の村方四軒というもの、その足でたたき起こして廻って、石松が鉄砲を向けたままの、そのありさまをさらしました。――夜のあけ方には、派出所の巡査《おまわり》、檀那寺《だんなでら》の和尚《おしょう》まで立ち会わせるという狂い方でございまして。学士先生の若夫人と色男の画師さんは、こうなると、緋鹿子《ひがのこ》の扱帯《しごき》も藁《わら》すべで、彩色《さいしき》をした海鼠《なまこ》のように、雪にしらけて、ぐったりとなったのでございます。
 男はとにかく、嫁はほんとうに、うしろ手に縛《くく》りあげると、細引を持ち出すのを、巡査《おまわり》が叱《しか》りましたが、叱られるとなお吼《たけ》り立って、たちまち、裁判所、村役場、派出所も村会も一所にして、姦通《かんつう》の告訴をすると、のぼせ上がるので、どこへもやらぬ監禁同様という趣で、ひとまず檀那寺まで引き上げることになりましたが、活《い》き証拠《じょうこ》だと言い張って、嫁に衣服《きもの》を着せることを肯《き》きませんので、巡査《おまわり》さんが、雪のかかった外套《がいとう》を掛けまして、何と、しかし、ぞろぞろと村の女|小児《こども》まであとへついて、寺へ参ったのでございますが。」
 境はききつつ、ただ幾度《いくたび》も歎息《たんそく》した。
「――遁《に》がしたのでございましょうな。画師さんはその夜のうちに、寺から影をかくしました。これはそうあるべきでございます。――さて、聞きますれば、――伜《せがれ》の親友、兄弟同様の客じゃから、伜同様に心得る。……半年あまりも留守を守ってさみしく一人で居ることゆえ、嫁女や、そなたも、伜と思うて、つもる話もせいよ、と申して、身じまいをさせて、衣《き》ものまで着かえさせ、寝る時は、にこにこ笑いながら、床を並べさせたのだと申すことで。……嫁御はなるほど、わけしりの弟分の膝に縋《すが》って泣きたいこともありましたろうし、芸妓《げいしゃ》でしくじるほどの画師さんでございます、背中を擦《さす》るぐらいはしかねますまい、……でございますな。
 代官婆の憤り方をお察しなさりとう存じます。学士先生は電報で呼ばれました。何と宥《なだ》めても承知をしません。ぜひとも姦通の訴訟を起こせ。いや、恥も外聞もない、代官といえば帯刀じゃ。武士たるものは、不義ものを成敗《せいばい》するはかえって名誉じゃ、とこうまで間違っては事面倒で。たって、裁判沙汰にしないとなら、生きておらぬ。咽喉笛《のどぶえ》鉄砲じゃ、鎌腹《かまばら》じゃ、奈良井川の淵《ふち》を知らぬか。……桔梗ヶ池《ききょうがいけ》へ身を沈める……こ、こ、この婆《ばばあ》め、沙汰の限りな、桔梗ヶ池へ沈めますものか、身投げをしようとしたら、池が投げ出しましょう。」
 と言って、料理番は苦笑した。
「また、今時に珍しい、学校でも、倫理、道徳、修身の方を御研究もなされば、お教えもなさいます、学士は至っての御孝心。かねて評判な方で、嫁御をいたわる傍《はた》の目には、ちと弱すぎると思うほどなのでございますから、困《こう》じ果てて、何とも申しわけも面目《めんぼく》もなけれども、とにかく一度、この土地へ来てもらいたい。万事はその上で。と言う――学士先生から画師《えかき》さんへのお頼みでございます。
 さて、これは決闘状《はたしじょう》より可恐《おそろ》しい。……もちろん、村でも不義ものの面《つら》へ、唾《つば》と石とを、人間の道のためとか申して騒ぐ方《かた》が多い真中《まんなか》でございますから。……どの面さげて画師さんが奈良井へ二度面がさらされましょう、旦那《だんな》。」
「これは何と言われても来られまいなあ。」
「と言って、学士先生との義理合いでは来ないわけにはまいりますまい。ところで、その画師さんは、その時、どこに居たと思《おぼ》し召《め》します。……いろのことから、怪《け》しからん、横頬《よこぞっぽ》を撲《は》ったという細君の、袖《そで》のかげに、申しわけのない親御たちのお位牌《いはい》から頭をかくして、尻《しり》も足もわなわなと震えていましたので、弱った方でございます。……必ず、連れて参ります――と代官|婆《ばば》に、誓って約束をなさいまして、学士先生は東京へ立たれました。
 その上京中。その間のことなのでございます、――柳橋の蓑吉《みのきち》姉《ねえ》さん……お艶様が……ここへお泊まりになりましたのは。……」

      六

「――どんな用事の御都合にいたせ、夜中《やちゅう》、近所が静まりましてから、お艶様が、おたずねになろうというのが、代官婆の処《ところ》と承っては、一人ではお出し申されません。ただ道だけ聞けば、とのことでございましたけれども、おともが直接《じか》について悪ければ、垣根《かきね》、裏口にでもひそみまして、内々守って進じようで……帳場が相談をしまして、その人選に当たりましたのが、この、ふつつかな私《てまい》なんでございました。……
 お支度《したく》がよろしくばと、私《てまい》、これへ……このお座敷へ提灯《ちょうちん》を持って伺いますと……」
「ああ、二つ巴《どもえ》の紋のだね。」と、つい誘われるように境が言った。
「へい。」
 と暗く、含むような、頤《おとがい》で返事を吸って、
「よく御存じで。」
「二度まで、湯殿に点《つ》いていて、知っていますよ。」
「へい、湯殿に……湯殿に提灯を点《つ》けますようなことはございませんが、――それとも、へーい。」
 この様子では、今しがた庭を行く時、この料理番とともに提灯が通ったなどとは言い出せまい。境は話を促した。
「それから。」
「ちと変な気がいたしますが。――ええ、ざっとお支度済みで、二度めの湯上がりに薄化粧をなすった、めしものの藍鼠《あいねずみ》がお顔の影に藤色《ふじいろ》になって見えますまで、お色の白さったらありません、姿見の前で……」
 境が思わず振り返ったことは言うまでもない。
「金の吸口《くち》で、烏金《しゃくどう》で張った煙管《きせる》で、ちょっと歯を染めなさったように見えます。懐紙《かいし》をな、眉《まゆ》にあてて私《てまい》を、おも長に御覧なすって、
 ――似合いますか。――」
「むむ、む。」と言う境の声は、氷を頬張《ほおば》ったように咽喉《のど》に支《つか》えた。
「畳のへりが、桔梗《ききょう》で白いように見えました。
(ええ、勿体ないほどお似合いで。)と言うのを聞いて、懐紙をおのけになると、眉のあとがいま剃立《そりた》ての真青《まっさお》で。……(桔梗ヶ池の奥様とは?)――(お姉妹《きょうだい》……いや一倍お綺麗《きれい》で)と罰《ばち》もあたれ、そう申さずにはおられなかったのでございます。
 ここをお聞きなさいまし。」……

(お艶さん、どうしましょう。)
「雪がちらちら雨まじりで降る中を、破れた蛇目傘《じゃのめ》で、見すぼらしい半纏《はんてん》で、意気にやつれた画師さんの細君が、男を寝取った情婦《おんな》とも言わず、お艶様――本妻が、その体《てい》では、情婦《いろ》だって工面《くめん》は悪うございます。目を煩《わず》らって、しばらく親許《おやもと》へ、納屋《なや》同然な二階借りで引き籠《こ》もって、内職に、娘子供に長唄《ながうた》なんか、さらって暮らしていなさるところへ、思い余って、細君が訪ねたのでございます。」
(お艶さん、私《わたし》はそう存じます。私が、貴女《あなた》ほどお美しければ、「こんな女房がついています。何の夫《やど》が、木曾街道《きそかいどう》の女なんぞに。」と姦通《まおとこ》呼ばわりをするその婆《ばばあ》に、そう言ってやるのが一番早分りがすると思います。)(ええ、何よりですともさ。それよりか、なおその上に、「お妾《めかけ》でさえこのくらいだ。」と言って私《わたし》を見せてやります方が、上になお奥さんという、奥行があってようございます。――「奥さんのほかに、私ほどのいろがついています。田舎《いなか》で意地ぎたなをするもんですか。」婆《ばばあ》にそう言ってやりましょうよ。そのお嫁さんのためにも。)――

「――あとで、お艶様の、したためもの、かきおきなどに、この様子が見えることに、何ともどうも、つい立ち至ったのでございまして。……これでございますから、何の木曾の山猿《やまざる》なんか。しかし、念のために土地の女の風俗を見ようと、山王様|御参詣《ごさんけい》は、その下心だったかとも存じられます。……ところを、桔梗ヶ池の、凄《すご》い、美しいお方のことをおききなすって、これが時々人目にも触れるというので、自然、代官婆の目にもとまっていて、自分の容色《きりょう》の見劣りがする段《ひ》には、美しさで勝つことはできない、という覚悟だったと思われます。――もっとも西洋|剃刀《かみそり》をお持ちだったほどで。――それでいけなければ、世の中に煩《うるさ》い婆《ばばあ》、人だすけに切っちまう――それも、かきおきにございました。
 雪道を雁股《かりまた》まで、棒端《ぼうばな》をさして、奈良井川の枝流れの、青白いつつみを参りました。氷のような月が皎々《こうこう》と冴《さ》えながら、山気が霧に凝って包みます。巌石《がんせき》、がらがらの細谿川《ほそたにがわ》が、寒さに水涸《みずが》れして、さらさらさらさら、……ああ、ちょうど、あの音、……洗面所の、あの音でございます。」
「ちょっと、あの水口を留めて来ないか、身体《からだ》の筋々へ沁《し》み渡るようだ。」
「御同然でございまして……ええ、しかし、どうも。」
「一人じゃいけないかね。」
「貴方様《あなたさま》は?」
「いや、なに、どうしたんだい、それから。」
「岩と岩に、土橋が架《か》かりまして、向うに槐《えんじゅ》の大きいのが枯れて立ちます。それが危なかしく、水で揺れるように月影に見えました時、ジイと、私《てまい》の持ちました提灯《ちょうちん》の蝋燭《ろうそく》が煮えまして、ぼんやり灯《ひ》を引きます。(暗くなると、巴《ともえ》が一つになって、人魂《ひとだま》の黒いのが歩行《ある》くようね。)お艶様の言葉に――私《てまい》、はッとして覗《のぞ》きますと、不注意にも、何にも、お綺麗《きれい》さに、そわつきましたか、ともしかけが乏しくなって、かえの蝋燭が入れてございません。――おつき申してはおります、月夜だし、足許《あしもと》に差支《さしつか》えはございませんようなものの、当館の紋の提灯は、ちょっと土地では幅が利きます。あなたのおためにと思いまして、道はまだ半町足らず、つい一っ走りで、駈《か》け戻りました。これが間違いでございました。」
 声も、言《ことば》も、しばらく途絶えた。
「裏土塀《うらどべい》から台所口へ、……まだ入りませんさきに、ドーンと天狗星《てんぐぼし》の落ちたような音がしました。ドーンと谺《こだま》を返しました。鉄砲でございます。」
「…………」
「びっくりして土手へ出ますと、川べりに、薄い銀のようでございましたお姿が見えません。提灯も何も押《お》っ放《ぽ》り出して、自分でわッと言って駈《か》けつけますと、居処《いどころ》が少しずれて、バッタリと土手っ腹の雪を枕《まくら》に、帯腰が谿川の石に倒れておいででした。(寒いわ。)と現《うつつ》のように、(ああ、冷たい。)とおっしゃると、その唇《くちびる》から糸のように、三条《みすじ》に分かれた血が垂れました。
 ――何とも、かとも、おいたわしいことに――裾《すそ》をつつもうといたします、乱れ褄《づま》の友染《ゆうぜん》が、色をそのままに岩に凍りついて、霜の秋草に触《さわ》るようだったのでございます。――人も立ち会い、抱き起こし申す縮緬《ちりめん》が、氷でバリバリと音がしまして、古襖《ふるぶすま》から錦絵《にしきえ》を剥《は》がすようで、この方が、お身体《からだ》を裂く思いがしました。胸に溜《た》まった血は暖かく流れましたのに。――
 撃ちましたのは石松で。――親仁《おやじ》が、生計《くらし》の苦しさから、今夜こそは、どうでも獲《え》ものをと、しとぎ[#「しとぎ」に傍点]餅《もち》で山の神を祈って出ました。玉味噌《たまみそ》を塗《なす》って、串《くし》にさして焼いて持ちます、その握飯には、魔が寄ると申します。がりがり橋という、その土橋にかかりますと、お艶様の方では人が来るのを、よけようと、水が少ないから、つい川の岩に片足おかけなすった。桔梗ヶ池《ききょうがいけ》の怪しい奥様が、水の上を横に伝うと見て、パッと臥打《ふしう》ちに狙いをつけた。俺《おれ》は魔を退治たのだ、村方のために。と言って、いまもって狂っております。――
 旦那《だんな》、旦那、旦那、提灯が、あれへ、あ、あの、湯どのの橋から、……あ、あ、ああ、旦那、向うから、私《てまい》が来ます、私《てまい》とおなじ男が参ります。や、並んで、お艶様が。」
 境も歯の根をくいしめて、
「しっかりしろ、可恐《おそろ》しくはない、可恐しくはない。……怨《うら》まれるわけはない。」
 電燈の球《たま》が巴になって、黒くふわりと浮くと、炬燵《こたつ》の上に提灯がぼうと掛かった。

「似合いますか。」

 座敷は一面の水に見えて、雪の気はいが、白い桔梗の汀《みぎわ》に咲いたように畳に乱れ敷いた。



底本:「現代日本文学館3 幸田露伴・泉鏡花」文藝春秋
   1968(昭和43)年10月1日第1刷
底本の親本:「鏡花全集」岩波書店
初出:大正13年5月「苦楽」
入力:真先芳秋
校正:鈴木厚司
2001年6月7日公開
2001年7月2日修正
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