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国貞《くにさだ》えがく
泉鏡花

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)国貞《くにさだ》えがく

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(例)五月|中旬《なかば》

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(例)※[#「※」は「くちへん+愛」、215-14]《おくび》
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    一

 柳を植えた……その柳の一処《ひとところ》繁った中に、清水の湧《わ》く井戸がある。……大通り四《よ》ツ角《かど》の郵便局で、東京から組んで寄越《よこ》した若干金《なにがし》の為替《かわせ》を請取《うけと》って、三《み》ツ巻《まき》に包《くる》んで、ト先《ま》ず懐中に及ぶ。
 春は過ぎても、初夏《はつなつ》の日の長い、五月|中旬《なかば》、午頃《ひるごろ》の郵便局は閑《かん》なもの。受附にもどの口にも他に立集《たちつど》う人は一人もなかった。が、為替は直ぐ手取早《てっとりばや》くは受取《うけと》れなかった。
 取扱いが如何《いか》にも気長で、
 「金額は何ほどですか。差出人は誰でありますか。貴下《あなた》が御当人なのですか。」
 などと間伸《まのび》のした、しかも際立《きわだ》って耳につく東京の調子で行《や》る、……その本人は、受取口から見た処《ところ》、二十四、五の青年で、羽織《はおり》は着ずに、小倉《こくら》の袴《はかま》で、久留米《くるめ》らしい絣《かすり》の袷《あわせ》、白い襯衣《しゃつ》を手首で留めた、肥った腕の、肩の辺《あたり》まで捲手《まくりで》で何とも以《もっ》て忙しそうな、そのくせ、する事は薩張《さっぱり》捗《はかど》らぬ。態《なり》に似合わず悠然《ゆうぜん》と落着済《おちつきす》まして、聊《いささ》か権高《けんだか》に見える処《ところ》は、土地の士族の子孫らしい。で、その尻上がりの「ですか」を饒舌《しゃべ》って、時々じろじろと下目《しため》に見越すのが、田舎漢《いなかもの》だと侮《あなど》るなと言う態度の、それが明《あきら》かに窓から見透《みえす》く。郵便局員|貴下《きか》、御心安《おこころやす》かれ、受取人の立田織次《たつたおりじ》も、同国《おなじくに》の平民である。
 さて、局の石段を下りると、広々とした四辻《よつつじ》に立った。
 「さあ、何処《どこ》へ行《ゆ》こう。」
 何処へでも勝手に行くが可《よし》、また何処へも行かないでも可《い》い。このまま、今度の帰省中|転《ころ》がってる従姉《いとこ》の家《うち》へ帰っても可《い》いが、其処《そこ》は今しがた出て来たばかり。すぐに取って返せば、忘れ物でもしたように思うであろう。……先祖代々の墓詣《はかまいり》は昨日《きのう》済ますし、久しぶりで見たかった公園もその帰りに廻る。約束の会は明日《あした》だし、好《すき》なものは晩に食べさせる、と従姉《いとこ》が言った。差当《さしあた》り何の用もない。何年にも幾日《いくか》にも、こんな暢気《のんき》な事は覚えぬ。おんぶするならしてくれ、で、些《ち》と他愛《たわい》がないほど、のびのびとした心地《ここち》。
 気候は、と言うと、ほかほかが通り越した、これで赫《かっ》と日が当ると、日中は早《はや》じりじりと来そうな頃が、近山曇《ちかやまぐも》りに薄《うっす》りと雲が懸って、真綿《まわた》を日光に干《ほ》すような、ふっくりと軽い暖かさ。午頃《ひるごろ》の蔭もささぬ柳の葉に、ふわふわと柔《やわらか》い風が懸る。……その柳の下を、駈けて通る腕車《くるま》も見えず、人通りはちらほらと、都で言えば朧夜《おぼろよ》を浮れ出したような状《さま》だけれども、この土地ではこれでも賑《にぎやか》な町の分《ぶん》。城趾《しろあと》のあたり中空《なかぞら》で鳶《とび》が鳴く、と丁《ちょう》ど今が春《しゅん》の鰯《いわし》を焼く匂《におい》がする。
 飯を食べに行っても可《よし》、ちょいと珈琲《コオヒイ》に菓子でも可《よし》、何処《どこ》か茶店で茶を飲むでも可《よし》、別にそれにも及ばぬ。が、袷《あわせ》に羽織で身は軽し、駒下駄《こまげた》は新しし、為替は取ったし、ままよ、若干金《なにがし》か貸しても可《い》い。
 「いや、串戯《じょうだん》は止《よ》して……」
 そうだ! 小北《おぎた》の許《とこ》へ行《ゆ》かねばならぬ――と思うと、のびのびした手足が、きりきりと緊《しま》って、身体《からだ》が帽子まで堅くなった。
 何故《なぜ》か四辺《あたり》が視《なが》められる。
 こう、小北と姓を言うと、学生で、故郷の旧友のようであるが、そうでない。これは平吉《へいきち》……平《へい》さんと言うが早解《はやわか》り。織次の亡き親父と同じ夥間《なかま》の職人である。
 此処《ここ》からはもう近い。この柳の通筋《とおりすじ》を突当りに、真蒼《まっさお》な山がある。それへ向って二|町《ちょう》ばかり、城の大手《おおて》を右に見て、左へ折れた、屋並《やなみ》の揃《そろ》った町の中ほどに、きちんとして暮しているはず。
 その男を訪ねるに仔細《しさい》はないが、訪ねて行《ゆ》くのに、十年|越《ごし》の思出がある、……まあ、もう少し秘《ひ》して置こう。
 さあ、其処《そこ》へ、となると、早や背後《うしろ》から追立《おった》てられるように、そわそわするのを、なりたけ自分で落着いて、悠々《ゆうゆう》と歩行《ある》き出したが、取って三十という年紀《とし》の、渠《かれ》の胸の騒ぎよう。さては今の時の暢気《のんき》さは、この浪《なみ》が立とうとする用意に、フイと静まった海らしい。

    二

 この通《とおり》は、渠《かれ》が生れた町とは大分|間《あいだ》が離れているから、軒《のき》を並べた両側の家に、別に知己《ちかづき》の顔も見えぬ。それでも何かにつけて思出す事はあった。通りの中ほどに、一軒料理屋を兼ねた旅店《りょてん》がある。其処《そこ》へ東京から新任の県知事がお乗込《のりこみ》とあるについて、向った玄関に段々《だんだら》の幕を打ち、水桶《みずおけ》に真新しい柄杓《ひしゃく》を備えて、恭《うやうや》しく盛砂《もりずな》して、門から新莚《あらむしろ》を敷詰《しきつ》めてあるのを、向側の軒下に立って視《なが》めた事がある。通り懸《がか》りのお百姓は、この前を過ぎるのに、
 「ああっ、」といって腰をのめらして行った。……御威勢のほどは、後年地方長官会議の節《せつ》に上京なされると、電話第何番と言うのが見得《みえ》の旅館へ宿って、葱《ねぎ》の※[#「※」は「くちへん+愛」、215-14]《おくび》で、東京の町へ出らるる御身分とは夢にも思われない。
 また夢のようだけれども、今見れば麺麭《パン》屋になった、丁《ちょう》どその硝子《がらす》窓のあるあたりへ、幕を絞って――暑くなると夜店の中へ、見世《みせ》ものの小屋が掛《かか》った。猿芝居、大蛇、熊、盲目《めくら》の墨塗《すみぬり》――(この土俵は星の下に暗かったが)――西洋手品など一廓《ひとくるわ》に、※[#「※」は「葺の右下に戈が入る」、216-3]《どく》草《だみ》の花を咲かせた――表通りへ目に立って、蜘蛛男《くもおとこ》の見世物があった事を思出す。
 額《ひたい》の出た、頭の大きい、鼻のしゃくんだ、黄色い顔が、その長さ、大人《おとな》の二倍、やがて一尺、飯櫃形《いびつなり》の天窓《あたま》にチョン髷《まげ》を載せた、身の丈《たけ》というほどのものはない。頤《あご》から爪先の生えたのが、金ぴかの上下《かみしも》を着た処《ところ》は、アイ来た、と手品師が箱の中から拇指《おやゆび》で摘《つま》み出しそうな中親仁《ちゅうおやじ》。これが看板で、小屋の正面に、鼠《ねずみ》の嫁入《よめいり》に担《かつ》ぎそうな小さな駕籠《かご》の中に、くたりとなって、ふんふんと鼻息を荒くするごとに、その出額《おでこ》に蚯蚓《みみず》のような横筋を畝《うね》らせながら、きょろきょろと、込合《こみあ》う群集《ぐんじゅ》を視《なが》めて控える……口上言《こうじょういい》がその出番に、
 「太夫《たゆう》いの、太夫いの。」と呼ぶと、駕籠の中で、しゃっきりと天窓《あたま》を掉立《ふりた》て、
 「唯今《ただいま》、それへ。」
 とひねこびれた声を出し、頤《あご》をしゃくって衣紋《えもん》を造る。その身動きに、鼬《いたち》の香《におい》を芬《ぷん》とさせて、ひょこひょこと行《ゆ》く足取《あしどり》が蜘蛛《くも》の巣を渡るようで、大天窓《おおあたま》の頸窪《ぼんのくぼ》に、附木《つけぎ》ほどな腰板が、ちょこなんと見えたのを憶起《おもいおこ》す。
 それが舞台へ懸る途端に、ふわふわと幕を落す。その時|木戸《きど》に立った多勢《おおぜい》の方を見向いて、
 「うふん。」といって、目を剥《む》いて、脳天から振下《ぶらさが》ったような、紅《あか》い舌をぺろりと出したのを見て、織次は悚然《ぞっ》として、雲の蒸す月の下を家《うち》へ遁帰《にげかえ》った事がある。
 人間ではあるまい。鳥か、獣《けもの》か、それともやっぱり土蜘蛛《つちぐも》の類《たぐい》かと、訪ねると、……その頃六十ばかりだった織次の祖母《おばあ》さんが、
 「あれはの、二股坂《ふたまたざか》の庄屋《しょうや》殿じゃ。」といった。
 この二股坂と言うのは、山奥で、可怪《あやし》い伝説が少くない。それを越すと隣国への近路《ちかみち》ながら、人界との境《さかい》を隔《へだ》つ、自然のお関所のように土地の人は思うのである。
 この辺《あたり》からは、峰の松に遮《さえぎ》られるから、その姿は見えぬ。最《も》っと乾《いぬい》の位置で、町端《まちはずれ》の方へ退《さが》ると、近山《ちかやま》の背後《うしろ》に海がありそうな雲を隔てて、山の形が歴然《ありあり》と見える。……
 汽車が通じてから、はじめて帰ったので、停車場《ステエション》を出た所の、故郷《ふるさと》は、と一目見ると、石を置いた屋根より、赤く塗った柱より、先ずその山を見て、暫時《しばらく》茫然《ぼうぜん》として彳《たたず》んだのは、つい二、三日前の事であった。
 腕車《くるま》を雇って、さして行《ゆ》く従姉《いとこ》の町より、真先に、
 「あの山は?」
 「二股《ふたまた》じゃ。」と車夫《くるまや》が答えた。――織次は、この国に育ったが、用のない町端《まちはずれ》まで、小児《こども》の時には行《ゆ》かなかったので、唯《ただ》名に聞いた、五月晴《さつきばれ》の空も、暗い、その山。

    三

 その時は何んの心もなく、件《くだん》の二股を仰《あお》いだが、此処《ここ》に来て、昔の小屋の前を通ると、あの、蜘蛛大名《くもだいみょう》が庄屋をすると、可怪《あや》しく胸に響くのであった。
 まだ、その蜘蛛大名の一座に、胴の太い、脚の短い、芋虫《いもむし》が髪を結《ゆ》って、緋《ひ》の腰布《こしぬの》を捲《ま》いたような侏儒《いっすんぼし》の婦《おんな》が、三人ばかりいた。それが、見世ものの踊《おどり》を済まして、寝しなに町の湯へ入る時は、風呂の縁《ふち》へ両手を掛けて、横に両脚《りょうあし》でドブンと浸《つか》る。そして湯の中でぶくぶくと泳ぐと聞いた。
 そう言えば湯屋《ゆや》はまだある。けれども、以前見覚えた、両眼《りょうがん》真黄色《まっきいろ》な絵具の光る、巨大な蜈※[#「※」は「むしへん+松」、218-15]《むかで》が、赤黒い雲の如く渦《うず》を巻いた真中に、俵藤太《たわらとうだ》が、弓矢を挟《はさ》んで身構えた暖簾《のれん》が、ただ、男、女と上へ割って、柳湯《やなぎゆ》、と白抜きのに懸替《かけかわ》って、門《かど》の目印の柳と共に、枝垂《しだ》れたようになって、折から森閑《しんかん》と風もない。
 人通りも殆ど途絶えた。
 が、何処《どこ》ともなく、柳に暗い、湯屋の硝子戸《がらすど》の奥深く、ドブンドブンと、ふと湯の煽《あお》ったような響《ひびき》が聞える。……
 立淀《たちよど》んだ織次の耳には、それが二股から遠く伝わる、ものの谺《こだま》のように聞えた。織次の祖母《おおば》は、見世物のその侏儒《いっすんぼし》の婦《おんな》を教えて、
 「あの娘《こ》たちはの、蜘蛛庄屋《くもしょうや》にかどわかされて、その※[#「※」は「おんなへん+必」、219-8]《こしもと》になったいの。」
 と昔語りに話して聞かせた所為《せい》であろう。ああ、薄曇りの空低く、見通しの町は浮上《うきあが》ったように見る目に浅いが、故郷《ふるさと》の山は深い。
 また山と言えば思出す、この町の賑《にぎや》かな店々の赫《かっ》と明るい果《はて》を、縦筋《たてすじ》に暗く劃《くぎ》った一条《ひとすじ》の路《みち》を隔てて、数百《すひゃく》の燈火《ともしび》の織目《おりめ》から抜出《ぬけだ》したような薄茫乎《うすぼんやり》として灰色の隈《くま》が暗夜《やみ》に漾《ただよ》う、まばらな人立《ひとだち》を前に控えて、大手前《おおてまえ》の土塀《どべい》の隅《すみ》に、足代板《あじろいた》の高座に乗った、さいもん語りのデロレン坊主、但し長い頭髪《かみのけ》を額《ひたい》に振分《ふりわ》け、ごろごろと錫《しゃく》を鳴らしつつ、塩辛声《しおからごえ》して、
 「……姫松《ひめまつ》どのはエ」と、大宅太郎光国《おおやのたろうみつくに》の恋女房が、滝夜叉姫《たきやしゃひめ》の山寨《さんさい》に捕えられて、小賊《しょうぞく》どもの手に松葉燻《まつばいぶし》となる処《ところ》――樹の枝へ釣上げられ、後手《うしろで》の肱《ひじ》を空《そら》に、反返《そりかえ》る髪を倒《さかさ》に落して、ヒイヒイと咽《むせ》んで泣く。やがて夫の光国が来合わせて助けるというのが、明晩、とあったが、翌晩《あくるばん》もそのままで、次第に姫松の声が渇《か》れる。
 「我が夫《つま》いのう、光国どの、助けて給《た》べ。」とばかりで、この武者修業の、足の遅さ。
 三晩目《みばんめ》に、漸《やっ》とこさと山の麓《ふもと》へ着いたばかり。
 織次は、小児心《こどもごころ》にも朝から気になって、蚊帳《かや》の中でも髣髴《ほうふつ》と蚊燻《かいぶ》しの煙が来るから、続けてその翌晩も聞きに行って、汚《きたな》い弟子が古浴衣《ふるゆかた》の膝切《ひざぎり》な奴を、胸の処《ところ》でだらりとした拳固《げんこ》の矢蔵《やぞう》、片手をぬい、と出し、人の顋《あご》をしゃくうような手つきで、銭を強請《ねだ》る、爪の黒い掌《てのひら》へ持っていただけの小遣《こづかい》を載せると、目を※[#「※」はめへんに爭、220-10]《みは》ったが、黄色い歯でニヤリとして、身体《からだ》を撫《な》でようとしたので、衝《つ》と極《きまり》が悪く退《すさ》った頸《うなじ》へ、大粒な雨がポツリと来た。
 忽《たちま》ち大驟雨《おおゆうだち》となったので、蒼くなって駈出《かけだ》して帰ったが、家《うち》までは七、八町、その、びしょ濡れさ加減《かげん》思うべしで。
 あと二夜《ふたよ》ばかりは、空模様を見て親たちが出さなかった。
 さて晴れれば晴れるものかな。磨出《みがきだ》した良《い》い月夜に、駒《こま》の手綱を切放《きりはな》されたように飛出《とびだ》して行った時は、もうデロレンの高座は、消えたか、と跡もなく、後幕一重《うしろまくひとえ》引いた、あたりの土塀の破目《われめ》へ、白々《しろじろ》と月が射した。
 茫《ぼっ》となって、辻に立って、前夜の雨を怨《うら》めしく、空を仰《あお》ぐ、と皎々《こうこう》として澄渡《すみわた》って、銀河一帯、近い山の端《は》から玉《たま》の橋を町家《まちや》の屋根へ投げ懸ける。その上へ、真白《まっしろ》な形で、瑠璃《るり》色の透《す》くのに薄い黄金《きん》の輪郭した、さげ結びの帯の見える、うしろ向きで、雲のような女の姿が、すっと立って、するすると月の前を歩行《ある》いて消えた。……織次は、かつ思いかつ歩行《ある》いて、丁《ちょう》どその辻へ来た。

    四

 湯屋《ゆや》は郵便局の方へ背後《うしろ》になった。
 辻の、この辺《あたり》で、月の中空《なかぞら》に雲を渡る婦《おんな》の幻《まぼろし》を見たと思う、屋根の上から、城の大手《おおて》の森をかけて、一面にどんよりと曇った中に、一筋《ひとすじ》真白《まっしろ》な雲の靡《なび》くのは、やがて銀河になる時節も近い。……視《なが》むれば、幼い時のその光景《ありさま》を目前《まのあたり》に見るようでもあるし、また夢らしくもあれば、前世が兎《うさぎ》であった時、木賊《とくさ》の中から、ひょいと覗《のぞ》いた景色かも分らぬ。待て、希《こいねがわ》くは兎でありたい。二股坂《ふたまたざか》の狸《たぬき》は恐れる。
 いや、こうも、他愛《たわい》のない事を考えるのも、思出すのも、小北《おぎた》の許《とこ》へ行《ゆ》くにつけて、人は知らず、自分で気が咎《とが》める己《おの》が心を、我《われ》とさあらぬ方《かた》へ紛《まぎ》らそうとしたのであった。
 さて、この辻から、以前織次の家のあった、某《なにがし》……町の方へ、大手筋《おおてすじ》を真直《まっすぐ》に折れて、一|丁《ちょう》ばかり行った処《ところ》に、小北の家がある。
 両側に軒の並んだ町ながら、この小北の向側《むこうがわ》だけ、一軒づもりポカリと抜けた、一町内の用心水《ようじんみず》の水溜《みずたまり》で、石畳みは強勢《ごうせい》でも、緑晶色《ろくしょういろ》の大溝《おおみぞ》になっている。
 向うの溝から鰌《どじょう》にょろり、こちらの溝から鰌にょろり、と饒舌《しゃべ》るのは、けだしこの水溜《みずたまり》からはじまった事であろう、と夏の夜店へ行帰《ゆきかえ》りに、織次は独《ひと》りでそう考えたもので。
 同一《おなじ》早饒舌《はやしゃべ》りの中に、茶釜雨合羽《ちゃがまあまがっぱ》と言うのがある。トあたかもこの溝の左角《ひだりかど》が、合羽屋《かっぱや》、は面白い。……まだこの時も、渋紙《しぶかみ》の暖簾《のれん》が懸《かか》った。
 折から人通りが二、三人――中の一人が、彼の前を行過《ゆきす》ぎて、フト見返って、またひょいひょいと尻軽に歩行出《あるきだ》した時、織次は帽子の庇《ひさし》を下げたが、瞳《ひとみ》を屹《きっ》と、溝の前から、件《くだん》の小北の店を透かした。
 此処《ここ》にまた立留《たちどま》って、少時《しばらく》猶予《ためら》っていたのである。
 木格子《きごうし》の中に硝子戸《がらすど》を入れた店の、仕事の道具は見透《みえす》いたが、弟子の前垂《まえだれ》も見えず、主人《あるじ》の平吉が半纏《はんてん》も見えぬ。
 羽織の袖口《そでくち》両方が、胸にぐいと上《あが》るように両腕を組むと、身体《からだ》に勢《いきおい》を入れて、つかつかと足を運んだ。
 軒《のき》から直ぐに土間《どま》へ入って、横向きに店の戸を開けながら、
 「御免なさいよ。」
 「はいはい。」
 と軽い返事で、身軽にちょこちょこと茶の間から出た婦《おんな》は、下膨《しもぶく》れの色白で、真中から鬢《びん》を分けた濃い毛の束《たば》ね髪《がみ》、些《ち》と煤《すす》びたが、人形だちの古風な顔。満更《まんざら》の容色《きりょう》ではないが、紺の筒袖《つつそで》の上被衣《うわっぱり》を、浅葱《あさぎ》の紐で胸高《むなだか》にちょっと留《と》めた甲斐甲斐《かいがい》しい女房ぶり。些《ち》と気になるのは、この家《うち》あたりの暮向《くらしむ》きでは、これがつい通りの風俗で、誰《たれ》も怪《あや》しみはしないけれども、畳の上を尻端折《しりばしょり》、前垂《まえだれ》で膝を隠したばかりで、湯具《ゆのぐ》をそのままの足を、茶の間と店の敷居で留《と》めて、立ち身のなりで口早《くちばや》なものの言いよう。
 「何処《どこ》からおいで遊ばしたえ、何んの御用で。」
 と一向《いっこう》気のない、空《くう》で覚えたような口上《こうじょう》。言《ことば》つきは慇懃《いんぎん》ながら、取附《とりつ》き端《は》のない会釈をする。
 「私だ、立田《たつた》だよ、しばらく。」
 もう忘れたか、覚えがあろう、と顔を向ける、と黒目がちでも勢《せい》のない、塗ったような瞳を流して、凝《じっ》と見たが、
 「あれ。」と言いさま、ぐったりと膝を支《つ》いた。胸を衝《つ》と反らしながら、驚いた風をして、
 「どうして貴下《あなた》。」
 とひょいと立つと、端折《はしょ》った太脛《ふくらはぎ》の包《つつ》ましい見得《みえ》ものう、ト身を返して、背後《うしろ》を見せて、つかつかと摺足《すりあし》して、奥の方《かた》へ駈込みながら、
 「もしえ! もしえ! ちょっと……立田様の織《おり》さんが。」
 「何、立田さんの。」
 「織さんですがね。」
 「や、それは。」
 という平吉の声が台所で。がたがた、土間を踏む下駄《げた》の音。

    五

 「さあ、お上《あが》り遊ばして、まあ、どうして貴下《あなた》。」
 とまた店口《みせぐち》へ取って返して、女房は立迎《たちむか》える。
 「じゃ、御免なさい。」
 「どうぞこちらへ。」と、大きな声を出して、満面の笑顔を見せた平吉は、茶の室《ま》を越した見通しの奥へ、台所から駈込んで、幅の広い前垂《まえだれ》で、濡《ぬ》れた手をぐいと拭《ふ》きつつ、
 「ずっと、ずっとずっとこちらへ。」ともう真中へ座蒲団《ざぶとん》を持出して、床の間の方へ直しながら、一ツくるりと立身《たちみ》で廻る。
 「構っちゃ可厭《いや》だよ。」と衝《つ》と茶の間を抜ける時、襖《ふすま》二|間《けん》の上を渡って、二階の階子段《はしごだん》が緩《ゆる》く架《かか》る、拭込《ふきこ》んだ大戸棚《おおとだな》の前で、入《いれ》ちがいになって、女房は店の方へ、ばたばたと後退《あとずさ》りに退《すさ》った。
 その茶の室《ま》の長火鉢を挟《はさ》んで、差《さし》むかいに年寄りが二人いた。ああ、まだ達者だと見える。火鉢の向うに踞《つくば》って、その法然天窓《ほうねんあたま》が、火の気の少い灰の上に冷たそうで、鉄瓶《てつびん》より低い処《ところ》にしなびたのは、もう七十の上《うえ》になろう。この女房の母親《おふくろ》で、年紀《とし》の相違が五十の上《うえ》、余り間があり過ぎるようだけれども、これは女房が大勢の娘の中に一番|末子《すえっこ》である所為《せい》で、それ、黒のけんちゅうの羽織《はおり》を着て、小さな髷《まげ》に鼈甲《べっこう》の耳こじりをちょこんと極《き》めて、手首に輪数珠《わじゅず》を掛けた五十格好の婆《ばばあ》が背後向《うしろむき》に坐ったのが、その総領《そうりょう》の娘である。
 不沙汰《ぶさた》見舞に来ていたろう。この婆《ばばあ》は、よそへ嫁附《かたづ》いて今は産んだ忰《せがれ》にかかっているはず。忰というのも、煙管《きせる》、簪《かんざし》、同じ事を業《ぎょう》とする。
 が、この婆娘《ばばあむすめ》は虫が好かぬ。何為《なぜ》か、その上、幼い記憶に怨恨《うらみ》があるような心持《こころもち》が、一目見ると直ぐにむらむらと起ったから――この時黄色い、でっぷりした眉《まゆ》のない顔を上げて、じろりと額《ひたい》で見上げたのを、織次は屹《きっ》と唯一目《ただひとめ》。で、知らぬ顔して奥へ通った。
 「南無阿弥陀仏《なあまいだぶ》。」
 と折から唸《うな》るように老人《としより》が唱《とな》えると、婆娘《ばばあむすめ》は押冠《おっかぶ》せて、
 「南無阿弥陀仏《なあまいだんぶ》。」と生若《なまわか》い声を出す。
 「さて、どうも、お珍しいとも、何んとも早や。」と、平吉は坐りも遣《や》らず、中腰でそわそわ。
 「お忙しいかね。」と織次は構わず、更紗《さらさ》の座蒲団を引寄せた。
 「ははは、勝手に道楽で忙しいんでしてな、つい暇《ひま》でもございまするしね、怠《なま》け仕事に板前《いたまえ》で庖丁《ほうちょう》の腕前を見せていた所でしてねえ。ええ、織さん、この二、三日は浜で鰯《いわし》がとれますよ。」と縁《えん》へはみ出るくらい端近《はしぢか》に坐ると一緒に、其処《そこ》にあった塵《ちり》を拾って、ト首を捻《ひね》って、土間に棄てた、その手をぐいと掴《つか》んで、指を揉《も》み、
 「何時《いつ》、当地《こっち》へ。」
 「二、三日前さ。」
 「雑《ざっ》と十四、五年になりますな。」
 「早いものだね。」
 「早いにも、織さん、私《わっし》なんざもう御覧の通り爺《じじい》になりましたよ。これじゃ途中で擦違《すれちが》ったぐらいでは、ちょっとお分りになりますまい。」
 「否《いや》、些《ちっ》とも変らないね、相《あい》かわらず意気《いき》な人さ。」
 「これはしたり!」
 と天井抜けに、突出《つきだ》す腕《かいな》で額《ひたい》を叩《たた》いて、
 「はっ、恐入《おそれい》ったね。東京|仕込《じこみ》のお世辞は強《きつ》い。人《ひと》、可加減《いいかげん》に願いますぜ。」
 と前垂《まえだれ》を横に刎《は》ねて、肱《ひじ》を突張《つッぱ》り、ぴたりと膝に手を支《つ》いて向直《むきなお》る。
 「何、串戯《じょうだん》なものか。」と言う時、織次は巻莨《まきたばこ》を火鉢にさして俯向《うつむ》いて莞爾《にっこり》した。面色《おももち》は凛《りん》としながら優《やさ》しかった。
 「粗末なお茶でございます、直ぐに、あの、入《いれ》かえますけれど、お一《ひと》ツ。」
 と女房が、茶の室《ま》から、半身を摺《ず》らして出た。
 「これえ、私《わっし》が事を意気な男だとお言いなさるぜ、御馳走《ごちそう》をしなけりゃ不可《いか》んね。」
 「あれ、もし、お膝に。」と、うっかり平吉の言う事も聞落《ききおと》したらしかったのが、織次が膝に落ちた吸殻《すいがら》の灰を弾《はじ》いて、はっとしたように瞼《まぶた》を染めた。

    六

 「さて、どうも更《あらたま》りましては、何んとも申訳《もうしわけ》のない御無沙汰《ごぶさた》で。否《いえ》、もう、そりゃ実に、烏《からす》の鳴かぬ日はあっても、お噂《うわさ》をしない日はありませんが、なあ、これえ。」
 「ええ。」と言った女房の顔色の寂《さび》しいので、烏ばかり鳴くのが分る。が、別に織次は噂をされようとも思わなかった。
 平吉は畳《たた》み掛《か》け、
 「牛は牛づれとか言うんでえしょう。手前が何しますにつけて、これもまた、学校に縁遠《えんどお》い方だったものでえすから、暑さ寒さの御見舞だけと申すのが、書けないものには、飛んだどうも、実印《じついん》を捺《お》しますより、事も大層になります処《ところ》から、何とも申訳《もうしわけ》がございやせん。
 何しろ、まあ、御緩《ごゆる》りなすって、いずれ今晩は手前どもへ御一泊下さいましょうで。」
 と膝をすっと手先で撫《な》でて、取澄《とりす》ました風をしたのは、それに極《きま》った、という体《てい》を、仕方で見せたものである。 
 「串戯《じょうだん》じゃない。」と余りその見透《みえす》いた世辞の苦々《にがにが》しさに、織次は我知らず打棄《うっちゃ》るように言った。些《ち》とその言《ことば》が激しかったか、
 「え。」と、聞直《ききなお》すようにしたが、忽《たちま》ち唇の薄笑《うすわらい》。
 「ははあ、御同伴《おつれ》の奥さんがお待兼《まちか》ねで。」
 「串戯じゃない。」
 と今度は穏《おだや》かに微笑《ほほえ》んで、
 「そんなものがあるものかね。」
 「そんなものとは?」
 「貴下《あなた》、まだ奥様《おくさん》はお持ちなさりませんの。」
 と女房、胸を前へ、手を畳にす。
 織次は巻莨《まきたばこ》を、ぐいと、さし捨てて、
 「持つもんですか。」
 「織さん。」
 と平吉は薄く刈揃《かりそろ》えた頭を掉《ふ》って、目を据《す》えた。
 「まだ、貴下《あなた》、そんな事を言っていますね。持つものか! なんて貴下《あなた》、一生持たないでどうなさる。……また、こりゃお亡くなんなすった父様《おとっさん》に代《かわ》って、一説法《ひとせっぽう》せにゃならん。例の晩酌《ばんしゃく》の時と言うとはじまって、貴下《あなた》が殊《こと》の外《ほか》弱らせられたね。あれを一つ遣《や》りやしょう。」
 と片手で小膝をポンと敲《たた》き、
 「飲みながらが可《い》い、召飯《めしあが》りながら聴聞《ちょうもん》をなさい。これえ、何を、お銚子《ちょうし》を早く。」
 「唯《はい》、もう燗《つ》けてござりえす。」と女房が腰を浮かす、その裾端折《すそはしょり》で。
 織次は、酔った勢《いきおい》で、とも思う事があったので、黙っていた。
 「ぬたをの……今、私《わっし》が擂鉢《すりばち》に拵《こしら》えて置いた、あれを、鉢に入れて、小皿を二つ、可《い》いか、手綺麗《てぎれい》に装《よそ》わないと食えぬ奴さね。……もう不断《ふだん》、本場で旨《うま》いものを食《あが》りつけてるから、田舎料理なんぞお口には合わん、何にも入《い》らない、ああ、入《い》らないとも。」
 と独《ひと》りで極《き》めて、もじつく女房を台所へ追立《おった》てながら、
 「織さん、鰯《いわし》のぬただ、こりゃ御存じの通り、他国にはない味です。これえ、早くしなよ。」
 ああ、しばらく。座にその鰯《いわし》の臭気のない内《うち》、言わねばならぬ事がある……
 「あの、平さん。」
 と織次は若々しいもの言いした。
 「此家《こちら》に何だね、僕ン許《とこ》のを買ってもらった、錦絵《にしきえ》があったっけね。」
 「へい、錦絵。」と、さも年久《としひさ》しい昔を見るように、瞳《ひとみ》を凝《じっ》と上へあげる。
 「内《うち》で困って、……今でも貧乏は同一《おんなじ》だが。」
 と織次は屹《きっ》と腕を拱《く》んだ。
 「私が学校で要《い》る教科書が買えなかったので、親仁《おやじ》が思切《おもいき》って、阿母《おふくろ》の記念《かたみ》の錦絵を、古本屋に売ったのを、平さんが買戻《かいもど》して、蔵《しま》っといてくれた。その絵の事だよ。」
 時雨《しぐれ》の雲の暗い晩、寂しい水菜《みずな》で夕餉《ゆうげ》が済む、と箸《はし》も下に置かぬ前《さき》から、織次はどうしても持たねばならない、と言って強請《ねだ》った、新撰物理書《しんせんぶつりしょ》という四冊ものの黒表紙。これがなければ学校へ通《かよ》われぬと言うのではない。科目は教師が黒板《ボオルド》に書いて教授するのを、筆記帳へ書取《かきと》って、事は足りたのであるが、皆《みんな》が持ってるから欲しくてならぬ。定価がその時|金《きん》八十銭と、覚えている。

    七

 親父はその晩、一合の酒も飲まないで、燈火《ともしび》の赤黒い、火屋《ほや》の亀裂《ひび》に紙を貼った、笠の煤《すす》けた洋燈《ランプ》の下《もと》に、膳を引いた跡を、直ぐ長火鉢の向うの細工場《さいくば》に立ちもせず、袖《そで》に継《つぎ》のあたった、黒のごろの半襟《はんえり》の破れた、千草色《ちぐさいろ》の半纏《はんてん》の片手を懐《ふところ》に、膝を立てて、それへ頬杖《ほおづえ》ついて、面長《おもなが》な思案顔を重そうに支《ささ》えて黙然《だんまり》。
 ちょっと取着端《とりつきは》がないから、
 「だって、欲《ほし》いんだもの。」と言い棄てに、ちょこちょこと板の間《ま》を伝って、だだッ広い、寒い台所へ行《ゆ》く、と向うの隅《すみ》に、霜《しも》が見える……祖母《おばあ》さんが頭巾《ずきん》もなしの真白な小さなおばこで、皿小鉢を、がちがちと冷《つめた》い音で洗ってござる。
 「買っとくれよ、よう。」
 と聞分《ききわ》けもなく織次がその袂《たもと》にぶら下った。流《ながし》は高い。走りもとの破れた芥箱《ごみばこ》の上下《うえした》を、ちょろちょろと鼠が走って、豆洋燈《まめランプ》が蜘蛛《くも》の巣の中に茫《ぼう》とある……
 「よう、買っとくれよ、お弁当は梅干《うめぼし》で可《い》いからさ。」
 祖母《としより》は、顔を見て、しばらく黙って、
 「おお、どうにかして進ぜよう。」
 と洗いさした茶碗をそのまま、前垂《まえだれ》で手を拭《ふ》き拭き、氷のような板の間を、店の畳へ引返《ひきかえ》して、火鉢の前へ、力なげに膝をついて、背後《うしろ》向きに、まだ俯向《うつむ》いたなりの親父を見向いて、
 「の、そうさっしゃいよ。」
 「なるほど。」
 「他の事ではない、あの子も喜ぼう。」
 「それでは、母親《おっかさん》、御苦労でございます。」
 「何んの、お前。」
 と納戸《なんど》へ入って、戸棚から持出した風呂敷包《ふろしきづつみ》が、その錦絵《にしきえ》で、国貞《くにさだ》の画が二百余枚、虫干《むしぼし》の時、雛祭《ひなまつり》、秋の長夜《ながよ》のおりおりごとに、馴染《なじみ》の姉様《あねさま》三千で、下谷《したや》の伊達者《だてしゃ》、深川《ふかがわ》の婀娜者《あだもの》が沢山《たんと》いる。
 祖母《おばあ》さんは下に置いて、
 「一度見さっしゃるか。」と親父に言った。
 「いや、見ますまい。」
 と顔を背向《そむ》ける。
 祖母《としより》は解《ほど》き掛《か》けた結目《むすびめ》を、そのまま結《ゆわ》えて、ちょいと襟《えり》を引合わせた。細い半襟《はんえり》の半纏《はんてん》の袖《そで》の下に抱《かか》えて、店のはずれを板の間から、土間へ下りようとして、暗い処《ところ》で、
 「可哀《かわい》やの、姉様《あねさま》たち。私《わし》が許《もと》を離れてもの、蜘蛛男《くもおとこ》に買われさっしゃるな、二股坂《ふたまたざか》へ行《ゆ》くまいぞ。」
 と小さな声して言聞《いいき》かせた。織次は小児心《こどもごころ》にも、その絵を売って金子《かね》に代えるのである、と思った。……顔馴染《かおなじみ》の濃い紅《くれない》、薄紫《うすむらさき》、雪の膚《はだえ》の姉様《あねさま》たちが、この暗夜《やみのよ》を、すっと門《かど》を出る、……と偶《ふ》と寂しくなった。が、紅《べに》、白粉《おしろい》が何んのその、で、新撰物理書の黒表紙が、四冊並んで、目の前で、ひょい、と躍《おど》った。
 「待ってござい、織《おり》や。」
 ごろごろと静かな枢戸《くるるど》の音。
 台所を、どどんがたがた、鼠が荒野《あれの》と駈廻《かけまわ》る。
 と祖母《としより》が軒先から引返して、番傘《ばんがさ》を持って出直《でなお》す時、
 「あのう、台所の燈《あかり》を消しといてくらっしゃいよ、の。」
 で、ガタリと門《かど》の戸がしまった。
 コトコトと下駄《げた》の音して、何処《どこ》まで行《ゆ》くぞ、時雨《しぐれ》の脚《あし》が颯《さっ》と通る。あわれ、祖母《としより》に導かれて、振袖《ふりそで》が、詰袖《つめそで》が、褄《つま》を取ったの、裳《もすそ》を引いたの、鼈甲《べっこう》の櫛《くし》の照々《てらてら》する、銀の簪《かんざし》の揺々《ゆらゆら》するのが、真白な脛《はぎ》も露わに、友染《ゆうぜん》の花の幻めいて、雨具もなしに、びしゃびしゃと、跣足《はだし》で田舎の、山近《やまぢか》な町の暗夜《やみよ》を辿《たど》る風情《ふぜい》が、雨戸の破目《やぶれめ》を朦朧《もうろう》として透《す》いて見えた。
 それも科学の権威である。物理書というのを力に、幼い眼《まなこ》を眩《くら》まして、その美しい姉様たちを、ぼったて、ぼったて、叩き出した、黒表紙のその状《さま》を、後《のち》に思えば鬼であろう。
 台所の灯《ともしび》は、遙《はるか》に奥山家《おくやまが》の孤家《ひとつや》の如くに点《とも》れている。
 トその壁の上を窓から覗《のぞ》いて、風にも雨にも、ばさばさと髪を揺《ゆす》って、団扇《うちわ》の骨ばかりな顔を出す……隣の空地の棕櫚《しゅろ》の樹が、その夜は妙に寂《しん》として気勢《けはい》も聞えぬ。
 鼠も寂莫《ひっそり》と音を潜《ひそ》めた。……

    八

 台所と、この上框《あがりがまち》とを隔ての板戸《いたど》に、地方《いなか》の習慣《ならい》で、蘆《あし》の簾《すだれ》の掛ったのが、破れる、断《き》れる、その上、手の届かぬ何年かの煤《すす》がたまって、相馬内裏《そうまだいり》の古御所《ふるごしょ》めく。
 その蔭に、遠い灯《あかり》のちらりとするのを背後《うしろ》にして、お納戸色《なんどいろ》の薄い衣《きぬ》で、ひたと板戸に身を寄せて、今出て行った祖母《としより》の背後影《うしろかげ》を、凝《じっ》と見送る状《さま》に彳《たたず》んだ婦《おんな》がある。
 一目見て、幼い織次はこの現世《うつしよ》にない姿を見ながら、驚きもせず、しかし、とぼんとして小さく立った。
 その小児《こども》に振向《ふりむ》けた、真白な気高い顔が、雪のように、颯《さっ》と消える、とキリキリキリ――と台所を六角《ろっかく》に井桁《いげた》で仕切った、内井戸《うちいど》の轆轤《ろくろ》が鳴った。が、すぐに、かたりと小皿が響いた。
 流《ながし》の処《ところ》に、浅葱《あさぎ》の手絡《てがら》が、時ならず、雲から射す、濃い月影のようにちらちらして、黒髪《くろかみ》のおくれ毛がはらはらとかかる、鼻筋のすっと通《とお》った横顔が仄見《ほのみ》えて、白い拭布《ふきん》がひらりと動いた。
 「織坊《おりぼう》。」
 と父が呼んだ。
 「あい。」
 ばたばたと駈出して、その時まで同じ処《ところ》に、画《え》に描《か》いたように静《じっ》として動かなかった草色《くさいろ》の半纏《はんてん》に搦附《からみつ》く。
 「ああ、阿母《おっか》のような返事をする。肖然《そっくり》だ、今の声が。」
 と膝へ抱く。胸に附着《くッつ》き、
 「台所に母様《おっかさん》が。」
 「ええ!」と父親が膝を立てた。
 「祖母《おばあ》さんの手伝いして。」
 親父は、そのまま緊乎《しっか》と抱いて、
 「織坊、本を買って、何を習う。」
 「ああ、物理書を皆《みんな》読むとね、母様《おっかさん》のいる処《ところ》が分るって、先生がそう言ったよ。だから、早く欲しかったの、台所にいるんだもの、もう買わなくとも可《い》い。……おいでよ、父上《おとっさん》。」
 と手を引張《ひっぱ》ると、猶予《ためら》いながら、とぼとぼと畳に空足《からあし》を踏んで、板の間《ま》へ出た。
 その跫音《あしおと》より、鼠の駈ける音が激しく、棕櫚《しゅろ》の骨がばさりと覗《のぞ》いて、其処《そこ》に、手絡《てがら》の影もない。
 織次はわっと泣出した。
 父は立ちながら背《せな》を擦《さす》って、わなわな震えた。
 雨の音が颯《さっ》と高い。
 「おお、冷《つめて》え、本降《ほんぶり》、本降。」
 と高調子《たかぢょうし》で門を入ったのが、此処《ここ》に差向《さしむか》ったこの、平吉の平《へい》さんであった。
 傘《からかさ》をがさりと掛けて、提灯《ちょうちん》をふっと消す、と蝋燭《ろうそく》の匂《におい》が立って、家中《うちじゅう》仏壇の薫《かおり》がした。
 「呀《や》! 世話場《せわば》だね、どうなすった、父《とっ》さん。お祖母《としより》は、何処《どこ》へ。」
 で、父が一伍一什《いちぶしじゅう》を話すと――
 「立替《たてか》えましょう、可惜《あったら》ものを。七貫や八貫で手離すには当りゃせん。本屋じゃ幾干《いくら》に買うか知れないけれど、差当《さしあた》り、その物理書というのを求めなさる、ね、それだけ此処《ここ》にあれば可《い》い訳《わけ》だ、と先ず言った訳《わけ》だ。先方《さき》の買直《かいね》がぎりぎりの処《ところ》なら買戻《かいもど》すとする。……高く買っていたら破談にするだ、ね。何しろ、ここは一ツ、私に立替えさしてお置きなさい。……そらそら、はじめたはじめた、お株が出たぜえ。こんな事に済まぬも義理もあったものかね、ええ、君。」
 と太《ひど》く書生ぶって、
 「だから、気が済まないなら、預け給え。僕に、ね、僕は構わん。構わないけれど、唯《ただ》立替えさして気が済まない、と言うんなら、その金子《かね》の出来るまで、僕が預かって置けば可《よ》うがしょう。さ、それで極《きま》った。……一ツ莞爾《にっこり》としてくれ給え。君、しかし何んだね、これにつけても、小児《こども》に学問なんぞさせねえが可《い》いじゃないかね。くだらない、もうこれ織公《おりこう》も十一、吹※[#「※」は「韋+鞴のつくり、239-11]《ふいご》ばたばたは勤まるだ。二銭三銭の足《たし》にはなる。ソレ直ぐに鹿尾菜《ひじき》の代《だい》が浮いて出ようというものさ。……実の処《ところ》、僕が小指《レコ》の姉なんぞも、此家《ここ》へ一人|二度目妻《にどめの》を世話しようといってますがね、お互にこの職人が小児《こども》に本を買って遣《や》る苦労をするようじゃ、末《すえ》を見込んで嫁入《きて》がないッさ。ね、祖母《としより》が、孫と君の世話をして、この寒空《さむぞら》に水仕事だ。
 因果な婆さんやないかい、と姉がいつでも言ってます。」……とその時言った。
 ――その姉と言うのが、次室《つぎのま》の長火鉢の処《ところ》に来ている。――

    九

 そこへ、祖母《としより》が帰って来たが、何んにも言わず、平吉に挨拶《あいさつ》もせぬ先に、
 「さあ」と言って、本を出す。
 織次は飛んで獅子の座へ直《なお》った勢《いきおい》。上から新撰に飛付《とびつ》く、と突《つん》のめったようになって見た。黒表紙には綾《あや》があって、艶《つや》があって、真黒な胡蝶《ちょうちょう》の天鵝絨《びろうど》の羽のように美しく……一枚開くと、きらきらと字が光って、細流《せせらぎ》のように動いて、何がなしに、言いようのない強い薫《かおり》が芬《ぷん》として、目と口に浸込《しみこ》んで、中に描《か》いた器械の図などは、ずッしり鉄《くろがね》の楯《たて》のように洋燈《ランプ》の前に顕《あらわ》れ出《い》でて、絵の硝子《がらす》が燐《ばっ》と光った。
 さて、祖母《としより》の話では、古本屋は、あの錦絵《にしきえ》を五十銭から直《ね》を付け出して、しまいに七十五銭よりは出せぬと言う。きなかもその上はつかぬと断《ことわ》る。欲《ほし》い物理書は八十銭。何でも直ぐに買って帰って、孫が喜ぶ顔を見たさに、思案に余って、店端《みせさき》に腰を掛けて、時雨《しぐれ》に白髪《しらが》を濡らしていると、其処《そこ》の亭主が、それでは婆さんこうしなよ。此処《ここ》にそれ、はじめの一冊だけ、ちょっと表紙に竹箆《たけべら》の折返しの跡をつけた、古本の出物《でもの》がある。定価から五銭引いて、丁《ちょう》どに鍔《つば》を合わせて置く。で、孫に持って行って遣《や》るが可《い》い、と捌《さば》きを付けた。国貞《くにさだ》の画が雑《ざっ》と二百枚、辛《かろ》うじてこの四冊の、しかも古本と代ったのである。
 平吉はいきり出した。何んにも言うなで、一円出した。
 「織坊《おりぼう》、母様《おっかさん》の記念《かたみ》だ。お祖母《ばあ》さんと一緒に行って、今度はお前が、背負《しょ》って来い。」
 「あい。」
 とその四冊を持って立つと、
 「路《みち》が悪い、途中で落して汚すとならぬ、一冊だけ持って来さっしゃい、また抱いて寝るのじゃの。」
 と祖母《としより》も莞爾《にっこり》して、嫁の記念《かたみ》を取返す、二度目の外出《そとで》はいそいそするのに、手を曳《ひ》かれて、キチンと小口《こぐち》を揃えて置いた、あと三冊の兄弟を、父の膝許《ひざもと》に残しながら、出しなに、台所を竊《そっ》と覗《のぞ》くと、灯《ともしび》は棕櫚《しゅろ》の葉風《はかぜ》に自《おのず》から消えたと覚《おぼ》しく……真の暗がりに、もう何んにも見えなかった。
 雨は小止《こやみ》で。
 織次は夜道をただ、夢中で本の香《か》を嗅《か》いで歩行《ある》いた。
 古本屋は、今日この平吉の家《うち》に来る時通った、確か、あの湯屋《ゆや》から四、五軒手前にあったと思う。四辻《よつつじ》へ行《ゆ》く時分に、祖母《としより》が破傘《やぶれがさ》をすぼめると、蒼《あお》く光って、蓋《ふた》を払ったように月が出る。山の形は骨ばかり白く澄《す》んで、兎《うさぎ》のような雲が走る。
 織次は偶《ふ》と幻に見た、夜店の頃の銀河の上の婦《おんな》を思って、先刻《さっき》とぼとぼと地獄へ追遣《おいや》られた大勢の姉様《あねさん》は、まさに救われてその通り天にのぼる、と心が勇む。
 一足先へ駈出して、見覚えた、古本屋の戸へ附着《くッつ》いたが、店も大戸《おおど》も閉っていた。寒さは寒し、雨は降ったり、町は寂《しん》として何処《どこ》にも灯《ひ》の影は見えぬ。
 「もう寝たかの。」
 と祖母《としより》がせかせかござって、
 「御許《ごゆる》さい、御許さい。」
 と遠慮らしく店頭《みせさき》の戸を敲《たた》く。
 天窓《あまど》の上でガッタリ音して、
 「何んじゃ。」
 と言う太い声。箱のような仕切戸《しきりど》から、眉の迫った、頬の膨《ふく》れた、への字の口して、小鼻の筋から頤《おとがい》へかけて、べたりと薄髯《うすひげ》の生えた、四角な顔を出したのは古本屋の亭主で。……この顔と、その時の口惜《くやし》さを、織次は如何《いか》にしても忘れられぬ。
 絵はもう人に売った、と言った。
 見知越《みしりごし》の仁《じん》ならば、知らせて欲《ほし》い、何処《そこ》へ行って頼みたい、と祖母《としより》が言うと、ちょいちょい見懸ける男だが、この土地のものではねえの。越後《えちご》へ行《ゆ》く飛脚だによって、脚《あし》が疾《はや》い。今頃はもう二股《ふたまた》を半分越したろう、と小窓に頬杖《ほおづえ》を支《つ》いて嘲笑《あざわら》った。
 縁《えん》の早い、売口《うれくち》の美《い》い別嬪《べっぴん》の画《え》であった。主《ぬし》が帰って間《ま》もない、店の燈許《あかりもと》へ、あの縮緬着物《ちりめんぎもの》を散らかして、扱帯《しごき》も、襟《えり》も引《ひっ》さらげて見ている処《ところ》へ、三度笠《さんどがさ》を横っちょで、てしま茣蓙《ござ》、脚絆穿《きゃはんばき》、草鞋《わらじ》でさっさっと遣《や》って来た、足の高い大男が通りすがりに、じろりと見て、いきなり価《ね》をつけて、ずばりと買って、濡《ぬ》らしちゃならぬと腰づけに、きりりと、上帯《うわおび》を結び添えて、雨の中をすたすたと行方《ゆくえ》知れずよ。……
 「分ったか、お婆々《ばば》。」と言った。

    十

 断念《あきら》めかねて、祖母《としより》が何か二ツ三ツ口を利くと、挙句《あげく》の果《はて》が、
 「老耄婆《もうろくばばあ》め、帰れ。」
 と言って、ゴトンと閉めた。
 祖母《としより》が、ト目を擦《こす》った帰途《かえりみち》。本を持った織次の手は、氷のように冷めたかった。そこで、小さな懐中《ふところ》へ小口《こぐち》を半分|差込《さしこ》んで、圧《おさ》えるように頤《おとがい》をつけて、悄然《しょんぼり》とすると、辻《つじ》の浪花節《なにわぶし》が語った……
 「姫松《ひめまつ》殿がエ。」
 が暗《やみ》から聞える。――織次は、飛脚に買去《かいさ》られたと言う大勢の姉様《あねさん》が、ぶらぶらと甘干《あまぼし》の柿のように、樹の枝に吊下《つりさ》げられて、上《あ》げつ下《お》ろしつ、二股坂《ふたまたざか》で苛《さいな》まれるのを、目のあたりに見るように思った。
 とやっぱり芬《ぷん》とする懐中《ふところ》の物理書が、その途端に、松葉の燻《いぶ》る臭気《におい》がし出した。
 固《もと》より口実、狐が化けた飛脚でのうて、今時《いまどき》町を通るものか。足許《あしもと》を見て買倒《かいたお》した、十倍百倍の儲《もうけ》が惜《おし》さに、貉《むじな》が勝手なことを吐《ほざ》く。引受《ひきう》けたり平吉が。
 で、この平さんが、古本屋の店へ居直って、そして買戻《かいもど》してくれた錦絵《にしきえ》である。
 が、その後《のち》、折を見て、父が在世《ざいせ》の頃も、その話が出たし、織次も後《のち》に東京から音信《たより》をして、引取《ひきと》ろう、引取ろうと懸合《かけあ》うけれども、ちるの、びるので纏《まと》まらず、追っかけて追詰《せりつ》めれば、片音信《かただより》になって埒《らち》が明かぬ。
 今日こそ何んでも、という意気込《いきご》みであった。
 さて、その事を話し出すと、それ、案の定、天井睨《てんじょうにら》みの上睡《うわねむ》りで、ト先ず空惚《そらとぼ》けて、漸《やっ》と気が付いた顔色《がんしょく》で、
 「はあ、あの江戸絵《えどえ》かね、十六、七年、やがて二昔《ふたむかし》、久しいもんでさ、あったっけかな。」
 と聞きも敢《あ》えず……
 「ないはずはないじゃないか、あんなに頼んで置いたんだから。……」と何故《なぜ》かこの絵が、いわれある、活ける恋人の如く、容易《たやす》くは我が手に入《い》らない因縁《いんねん》のように、寝覚めにも懸念して、此家《ここ》へ入るのに肩を聳《そび》やかしたほど、平吉がかかる態度に、織次は早や躁立《いらだ》ち焦《あせ》る。
 平吉は他処事《よそごと》のように仰向《あおむ》いて、
 「なあ、これえ。」
 と戸棚の前で、膳ごしらえする女房を頤《あご》で呼んで、
 「知るまいな。忘れたろうよ、な、な、お前も、あの、江戸絵さ、蔵の中にあったっけか。」
 「唯《はい》、ござりえす、出しますかえ。」と女房は判然《はっきり》言った。
 「難有《ありがと》う、お琴《こと》さん。」
 とはじめて親しげに名を言って、凝《じっ》と振向くと、浪《なみ》の浅葱《あさぎ》の暖簾越《のれんごし》に、また颯《さっ》と顔を赧《あか》らめた処《ところ》は、どうやら、あの錦絵の中の、その、どの一人かに俤《おもかげ》が幽《かすか》に似通《にかよ》う。……
 「お一つ。」
 とそこへ膳を直《なお》して銚子《ちょうし》を取った。変れば変るもので、まだ、七八《ななや》ツ九《ここの》ツばかり、母が存生《ぞんしょう》の頃の雛祭《ひなまつり》には、緋《ひ》の毛氈《もうせん》を掛けた桃桜《ももさくら》の壇の前に、小さな蒔絵《まきえ》の膳に並んで、この猪口《ちょこ》ほどな塗椀《ぬりわん》で、一緒に蜆《しじみ》の汁《つゆ》を替えた時は、この娘が、練物《ねりもの》のような顔のほかは、着くるんだ花の友染《ゆうぜん》で、その時分から円《まる》い背を、些《ち》と背屈《せこご》みに座る癖《くせ》で、今もその通りなのが、こうまで変った。
 平吉は既《も》う五十の上、女房はまだ二十《はたち》の上を、二ツか、多くて三ツであろう。この姉だった平吉の前《ぜん》の家内が死んだあとを、十四、五の、まだ鳥も宿らぬ花が、夜半《よわ》の嵐に散らされた。はじめ孫とも見えたのが、やがて娘らしく、妹らしく、こうした処《ところ》では肖《ふさわ》しくなって、女房ぶりも哀《あわれ》に見える。
 これも飛脚に攫《さら》われて、平吉の手に捕われた、一枚の絵であろう。
 いや、何んにつけても、早く、とまた屹《きっ》と居直ると、女房の返事に、苦い顔して、横睨《よこにら》みをした平吉が、
 「だが、何だぜ、これえ、何それ、何、あの貸したきりになってるはずだぜ。催促はするがね……それ、な、これえ。まだ、あのまま返って来ないよ、そうだよ。ああ、そうだよ。」
 と幾度《いくだび》も一人で合点《のみこ》み、
 「ええ、織さん、いや、どうも、あの江戸絵ですがな、近所合壁《きんじょがっぺき》、親類中の評判で、平吉が許《とこ》へ行ったら、大黒柱より江戸絵を見い、という騒ぎで、来るほどに、集《たか》るほどに、丁《とん》と片時《かたとき》も落着いていた験《ためし》はがあせん。」
 と蔵の中に、何とやらと言った、その口の下……
 「手前《てまえ》じゃ、まあ、持物《もちもの》と言ったようなものの、言わばね、織さん、何んですわえ。それ、貴下《あなた》から預かっているも同然な品なんだから、出入れには、自然、指垢《ゆびあか》、手擦《てずれ》、つい汚れがちにもなりやしょうで、見せぬと言えば喧嘩《けんか》になる……弱るの何んの。そこで先ず、貸したように、預けたように、余所《よそ》の蔵に秘《しま》ってありますわ。ところが、それ。」
 と、これも気色《けしき》ばんだ女房の顔を、兀上《はげあが》った額越《ひたいごし》に、ト睨《や》って、
 「その蔵持《くらもち》の家《うち》には、手前が何でさ、……些《ち》とその銭式《レコしき》の不義理があって、当分顔の出せない、といったような訳《わけ》で、いずれ、取って来ます。取って来るには取って来ますが、ついちょっと、ソレ銭式《レコしき》の事ですからな。
 それに、織さん、近頃じゃ価《ね》が出ましたっさ。錦絵《にしきえ》は……唯《たっ》た一枚が、雑とあの当時の二百枚だってね、大事のものです。貴下《あなた》にも大事のもので、またこっちも大事のものでさ。価《ね》は惜《おし》まぬ、ね、価《ね》は惜まぬから手放さないか、と何度《なんたび》も言われますがね、売るものですか。そりゃ売らない。憚《はばか》りながら平吉売らないね。預りものだ、手放して可《い》いものですかい。
 けれども、おいそれとは今言ったような工合ですから、いずれ、その何んでさ。ま、ま、めし飲《あが》れ、熱い処《ところ》を。ね、御緩《ごゆっく》り。さあ、これえ、お焼物《やきもの》がない。ええ、間抜けな、ぬたばかり。これえ、御酒《ごしゅ》に尾頭《おかしら》は附物《つきもの》だわ。ぬたばかり、いやぬたぬたとぬたった婦《おんな》だ。へへへへへ、鰯《いわし》を焼きな、気は心よ、な、鰯をよ。」
 と何か言いたそうに、膝で、もじもじして、平吉の額《ひたい》をぬすみ見る女房の様《さま》は、湯船《ゆぶね》へ横飛びにざぶんと入る、あの見世物の婦《おんな》らしい。これも平吉に買われたために、姿まで変ったのであろう。
 坐り直って、
 「あなたえ。」
 と怨《うら》めしそうな、情《なさけ》ない顔をする。
 ぎょろりと目を剥《む》き、険《けん》な面《つら》で、
 「これえ。」と言った。
 が、鰯《いわし》の催促をしたようで。
 「今、焼いとるんや。」
 と隣室《となり》の茶の室《ま》で、女房の、その、上の姉が皺《しな》びた声。
 「なんまいだ。」
 と婆《ばば》が唱《とな》える。……これが――「姫松殿《ひめまつどの》がえ。」と耳を貫く。……称名《しょうみょう》の中から、じりじりと脂肪《あぶら》の煮える響《ひびき》がして、腥《なまぐさ》いのが、むらむらと来た。
 この臭気《しゅうき》が、偶《ふ》と、あの黒表紙に肖然《そっくり》だと思った。
 とそれならぬ、姉様《あねさん》が、山賊の手に松葉燻《まつばいぶ》しの、乱るる、揺《ゆら》めく、黒髪《くろかみ》までが目前《めさき》にちらつく。
 織次は激《はげし》くいった。
 「平吉、金子《かね》でつく話はつけよう。鰯《いわし》は待て。」



底本:「鏡花短篇集」川村二郎編、岩波文庫、岩波書店
   1987(昭和62)年9月16日第1刷発行
   1999(平成11)年3月15日第19刷発行
底本の親本:「鏡花全集」岩波書店
   1942(昭和17)年4月初版発行
※底本の親本は総ルビ。底本作成時にルビが取捨選択されています。
初出は1910(明治10)年1月号の「太陽」。
本作品中には、身体的・精神的資質、職業、地域、階層、民族などに関する不適切な表現が見られます。しかし、作品の時代背景と価値、加えて、作者の抱えた限界を読者自身が認識することの意義を考慮し、底本のままとしました。(青空文庫)
入力:今中一時
校正:青木直子
1999年12月16日公開
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