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小春の狐
泉鏡花

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)蜆《しじみ》の汁

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)雲|忽《たちま》ち

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)魴※[#「魚+弗」、第3水準1-94-37]《ほうぼう》の
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       一

 朝――この湖の名ぶつと聞く、蜆《しじみ》の汁で。……燗《かん》をさせるのも面倒だから、バスケットの中へ持参のウイスキイを一口。蜆汁にウイスキイでは、ちと取合せが妙だが、それも旅らしい。……
 いい天気で、暖かかったけれども、北国《ほっこく》の事だから、厚い外套《がいとう》にくるまって、そして温泉宿を出た。
 戸外の広場の一廓《ひとくるわ》、総湯の前には、火の見の階子《はしご》が、高く初冬の空を抽《ぬ》いて、そこに、うら枯れつつも、大樹の柳の、しっとりと静《しずか》に枝垂《しだ》れたのは、「火事なんかありません。」と言いそうである。
 横路地から、すぐに見渡さるる、汀《みぎわ》の蘆《あし》の中に舳《みよし》が見え、艫《とも》が隠れて、葉越葉末に、船頭の形が穂を戦《そよ》がして、その船の胴に動いている。が、あの鉄鎚《てっつい》の音を聞け。印半纏《しるしばんてん》の威勢のいいのでなく、田船を漕《こ》ぐお百姓らしい、もっさりとした布子《ぬのこ》のなりだけれども、船大工かも知れない、カーンカーンと打つ鎚《つち》が、一面の湖の北の天《そら》なる、雪の山の頂に響いて、その間々に、
[#ここから1字下げ]
「これは三保の松原に、伯良《はくりょう》と申す漁夫にて候。万里の好山に雲|忽《たちま》ちに起り、一楼の明月に雨始めて晴れたり……」
[#ここで字下げ終わり]
 と謡うのが、遠いが手に取るように聞えた。――船大工が謡を唄う――ちょっと余所《よそ》にはない気色《けしき》だ。……あまつさえ、地震の都から、とぼんとして落ちて来たものの目には、まるで別なる乾坤《てんち》である。
 脊の伸びたのが枯交《かれまじ》り、疎《まばら》になって、蘆が続く……傍《かたわら》の木納屋《きなや》、苫屋《とまや》の袖には、しおらしく嫁菜の花が咲残る。……あの戸口には、羽衣を奪われた素裸の天女が、手鍋《てなべ》を提げて、その男のために苦労しそうにさえ思われた。
[#ここから1字下げ]
「これなる松にうつくしき衣《ころも》掛《かか》れり、寄りて見れば色香|妙《たえ》にして……」
[#ここで字下げ終わり]
 と謡っている。木納屋の傍《わき》は菜畑で、真中《まんなか》に朱を輝かした柿の樹がのどかに立つ。枝に渡して、ほした大根のかけ紐《ひも》に青貝ほどの小朝顔が縋《すが》って咲いて、つるの下に朝霜の焚火《たきび》の残ったような鶏頭が幽《かすか》に燃えている。その陽だまりは、山霊に心あって、一封のもみじの音信《たより》を投げた、玉章《たまずさ》のように見えた。
 里はもみじにまだ早い。
 露地が、遠目鏡《とおめがね》を覗《のぞ》く状《さま》に扇形《おうぎなり》に展《ひら》けて視《なが》められる。湖と、船大工と、幻の天女と、描ける玉章を掻乱《かきみだ》すようで、近く歩《あゆみ》を入るるには惜《おし》いほどだったから……
 私は――
(これは城崎関弥《きざきせきや》と言う、筆者の友だちが話したのである。)
 ――道をかえて、たとえば、宿の座敷から湖の向うにほんのりと、薄い霧に包まれた、白砂の小松山の方に向ったのである。
 小店の障子に貼紙《はりがみ》して、
 (今日より昆布《こぶ》まきあり候。)
 ……のんびりとしたものだ。口上が嬉しかったが、これから漫歩《そぞろあるき》というのに、こぶ巻は困る。張出しの駄菓子に並んで、笊《ざる》に柿が並べてある。これなら袂《たもと》にも入ろう。「あり候」に挨拶《あいさつ》の心得で、
「おかみさん、この柿は……」
 天井裏の蕃椒《とうがらし》は真赤《まっか》だが、薄暗い納戸から、いぼ尻まきの顔を出して、
「その柿かね。へい、食べられましない。」
「はあ?」
「まだ渋が抜けねえだでね。」
「はあ、ではいつ頃食べられます。」
 きく奴《やつ》も、聞く奴だが、
「早うて、……来月の今頃だあねえ。」
「成程。」
 まったく山家《やまが》はのん気だ。つい目と鼻のさきには、化粧煉瓦《けしょうれんが》で、露台《バルコニイ》と言うのが建っている。別館、あるいは新築と称して、湯宿一軒に西洋づくりの一部は、なくてはならないようにしている盛場でありながら。
「お邪魔をしました。」
「よう、おいで。」
 また、おかしな事がある。……くどいと不可《いけな》い。道具だてはしないが、硝子戸《がらすど》を引きめぐらした、いいかげんハイカラな雑貨店が、細道にかかる取着《とッつき》の角にあった。私は靴だ。宿の貸下駄で出て来たが、あお桐の二本歯で緒が弛《ゆる》んで、がたくり、がたくりと歩行《ある》きにくい。此店《ここ》で草履を見着けたから入ったが、小児《こども》のうち覚えた、こんな店で売っている竹の皮、藁《わら》の草履などは一足もない。極く雑なのでも裏つきで、鼻緒が流行のいちまつと洒落《しゃ》れている。いやどうも……柿の渋は一月半おくれても、草履は駈足《かけあし》で時流に追着く。
「これを貰《もら》いますよ。」
 店には、ちょうど適齢前の次男坊といった若いのが、もこもこの羽織を着て、のっそりと立っていた。
「貰って穿《は》きますよ。」
 と断って……早速ながら穿替えた、――誰も、背負《しょ》って行《ゆ》く奴もないものだが、手一つ出すでもなし、口を利くでもなし、ただにやにやと笑って見ているから、勢い念を入れなければならなかったので。……
「お幾干《いくら》。」
「分りませんなあ。」
「誰かに聞いてくれませんか。」
 若いのは、依然としてにやにやで、
「誰も今|居《お》らんのでね……」
「じゃあ帰途《かえり》に上げましょう。じきそこの宿に泊ったものです。」
「へい、大きに――」
 まったくどうものんびりとしたものだ。私は何かの道中記の挿絵に、土手の薄《すすき》に野茨《のばら》の実がこぼれた中に、折敷《おしき》に栗を塩尻に積んで三つばかり。細竹に筒をさして、四《し》もんと、四つ、銭の形を描き入れて、傍《そば》に草鞋《わらじ》まで並べた、山路の景色を思出した。

       二

「この蕈《きのこ》は何と言います。」
 山沿《やまぞい》の根笹に小流《こながれ》が走る。一方は、日当《ひあたり》の背戸を横手に取って、次第|疎《まばら》に藁屋《わらや》がある、中に半農――この潟《かた》に漁《すなど》って活計《たつき》とするものは、三百人を越すと聞くから、あるいは半漁師――少しばかり商いもする――藁屋草履は、ふかし芋とこの店に並べてあった――村はずれの軒を道へ出て、そそけ髪で、紺の筒袖を上被《うわっぱり》にした古女房が立って、小さな笊に、真黄色《まっきいろ》な蕈を装《も》ったのを、こう覗《のぞ》いている。と笊を手にして、服装《なり》は見すぼらしく、顔も窶《やつ》れ、髪は銀杏返《いちょうがえし》が乱れているが、毛の艶《つや》は濡れたような、姿のやさしい、色の白い二十《はたち》あまりの女が彳《たたず》む。
 蕈は軸を上にして、うつむけに、ちょぼちょぼと並べてあった。
 
 実は――前年一度この温泉に宿った時、やっぱり朝のうち、……その時は町の方を歩行《ある》いて、通りの煮染屋《にしめや》の戸口に、手拭《てぬぐい》を頸《くび》に菅笠《すげがさ》を被《かぶ》った……このあたり浜から出る女の魚売が、天秤《てんびん》を下《おろ》した処に行《ゆ》きかかって、鮮《あたら》しい雑魚に添えて、つまといった形で、おなじこの蕈を笊に装ったのを見た事があったのである。
 銀杏の葉ばかりの鰈《かれい》が、黒い尾でぴちぴちと跳ねる。車蝦《くるまえび》の小蝦は、飴色《あめいろ》に重《かさな》って萌葱《もえぎ》の脚をぴんと跳ねる。魴※[#「魚+弗」、第3水準1-94-37]《ほうぼう》の鰭《ひれ》は虹《にじ》を刻み、飯鮹《いいだこ》の紫は五つばかり、断《ちぎ》れた雲のようにふらふらする……こち、めばる、青、鼠、樺色《かばいろ》のその小魚《こうお》の色に照映《てりは》えて、黄なる蕈は美しかった。
 山国に育ったから、学問の上の知識はないが……蕈の名の十《とお》やら十五は知っている。が、それはまだ見た事がなかった。……それに、私は妙に蕈が好きである。……覗込んで何と言いますかと聞くと「霜こしや。」と言った。「ははあ、霜こし。」――十一月初旬で――松蕈《まつたけ》はもとより、しめじの類にも時節はちと寒過ぎる。……そこへ出盛る蕈らしいから、霜を越すという意味か、それともこの蕈が生えると霜が降る……霜を起すと言うのかと、その時、考うる隙《ひま》もあらせず、「旦那《だんな》さんどうですね。」とその魚売が笊をひょいと突きつけると、煮染屋の女房が、ずんぐり横肥りに肥った癖に、口の軽い剽軽《ひょうきん》もので、
「買うてやらさい。旦那さん、酒の肴《さかな》に……はははは、そりゃおいしい、猪《しし》の味や。」と大口を開けて笑った。――紳士淑女の方々に高い声では申兼《もうしか》ねるが、猪はこのあたりの方言で、……お察しに任せたい。
 唄で覚えた。
[#ここから4字下げ]
薬師山から湯宿を見れば、ししが髪|結《ゆ》て身をやつす。
[#ここで字下げ終わり]
 いや……と言ったばかりで、外《ほか》に見当は付かない。……私はその時は前夜着いた電車の停車場の方へ遁足《にげあし》に急いだっけが――笑うものは笑え。――そよぐ風よりも、湖の蒼《あお》い水が、蘆の葉ごしにすらすらと渡って、おろした荷の、その小魚にも、蕈にも颯《さっ》とかかる、霜こしの黄茸《きたけ》の風情が忘れられない。皆とは言わぬが、再びこの温泉に遊んだのも、半ばこの蕈に興じたのであった。
 ――ほぼ心得た名だけれど、したしいものに近づくとて、あらためて、いま聞いたのである。

「この蕈は何と言います。」
 何が何でも、一方は人の内室である、他は淑女たるに間違いない。――その真中《まんなか》へ顔を入れたのは、考えると無作法千万で、都会だと、これ交番で叱られる。
「霜こしやがね。」と買手の古女房が言った。
「綺麗《きれい》だね。」
 と思わず言った。近優《ちかまさ》りする若い女の容色《きりょう》に打たれて、私は知らず目を外《そら》した。
「こちらは、」
 と、片隅に三つばかり。この方は笠を上にした茶褐色で、霜こしの黄なるに対して、女郎花《おみなえし》の根にこぼれた、茨《いばら》の枯葉のようなのを、――ここに二人たった渠等《かれら》女たちに、フト思い較《くら》べながら指すと、
「かっぱ。」
 と語音の調子もある……口から吹飛ばすように、ぶっきらぼうに古女房が答えた。
「ああ、かっぱ。」
「ほほほ。」
 かっぱとかっぱが顱合《はちあわ》せをしたから、若い女は、うすよごれたが姉《あね》さんかぶり、茶摘、桑摘む絵の風情の、手拭の口に笑《えみ》をこぼして、
「あの、川に居《お》ります可恐《こわ》いのではありませんの、雨の降る時にな、これから着ますな、あの色に似ておりますから。」
「そんで幾干《いくら》やな。」
 古女房は委細構わず、笊の縁に指を掛けた。
「そうですな、これでな、十銭下さいまし。」
「どえらい事や。」
 と、しょぼしょぼした目を※[#「目+爭」、第3水準1-88-85]《みは》った。睨《にら》むように顔を視《なが》めながら、
「高いがな高いがな――三銭や、えっと気張って。……三銭が相当や。」
「まあ、」
「三銭にさっせえよ。――お前《めえ》もな、青草ものの商売や。お客から祝儀とか貰うようには行《ゆ》かんぞな。」
「でも、」
 と蕈《きのこ》が映す影はないのに、女の瞼《まぶた》はほんのりする。
 安値《やす》いものだ。……私は、その言い値に買おうと思って、声を掛けようとしたが、隙《すき》がない。女が手を離すのと、笊を引手繰《ひったく》るのと一所で、古女房はすたすたと土間へ入って行《ゆ》く。
 私は腕組をしてそこを離れた。
 以前、私たちが、草鞋《わらじ》に手鎌、腰兵粮《こしびょうろう》というものものしい結束で、朝くらいうちから出掛けて、山々谷々を狩っても、見た数ほどの蕈を狩り得た験《ためし》は余りない。
 たった三銭――気の毒らしい。
「御免なして。」 
 と背後《うしろ》から、跫音《あしおと》を立てず静《しずか》に来て、早や一方は窪地の蘆の、片路《かたみち》の山の根を摺違《すれちが》い、慎ましやかに前へ通る、すり切《きれ》草履に踵《かかと》の霜。
「ああ、姉さん。」
 私はうっかりと声を掛けた。

       三

「――旦那さん、その虫は構うた事には叶《かな》いませんわ。――煩《うるそ》うてな……」
 もの言《いい》もやや打解けて、おくれ毛を撫《な》でながら、
「ほっといてお通りなさいますと、ひとりでに離れます。」
「随分居るね、……これは何と言う虫なんだね。」
「東京には居《お》りませんの。」
「いや、雨上りの日当りには、鉢前などに出はするがね。こんなに居やしないようだ。よくも気をつけはしないけれど、……(しょうじょう)よりもっと小さくって煙《けむ》のようだね。……またここにも一団《ひとかたまり》になっている。何と言う虫だろう。」
「太郎虫と言いますか、米搗虫《こめつきむし》と言うんですか、どっちかでございましょう。小さな児《こ》が、この虫を見ますとな、旦那さん……」
 と、言《ことば》が途絶えた。
「小さな児が、この虫を見ると?……」
「あの……」
「どうするんです。」
「唄をうとうて囃《はや》しますの。」
「何と言って……その唄は?」
「極《きまり》が悪うございますわ。……(太郎は米搗き、次郎は夕な、夕な。)……薄暮合《うすくれあい》には、よけい沢山《たんと》飛びますの。」
 ……思出した。故郷の町は寂しく、時雨の晴間に、私たちもやっぱり唄った。
「仲よくしましょう、さからわないで。」
 私はちょっかいを出すように、面《おもて》を払い、耳を払い、頭を払い、袖を払った。茶番の最明寺《さいみょうじ》どののような形を、更《あらた》めて静《しずか》に歩行《ある》いた。――真一文字の日あたりで、暖かさ過ぎるので、脱いだ外套《がいとう》は、その女が持ってくれた。――歩行《ある》きながら、
「……私は虫と同じ名だから。」
 しかし、これは、虫にくらべて謙遜した意味ではない。実は太郎を、浦島の子に擬《なぞら》えて、潜《ひそか》に思い上った沙汰《さた》なのであった。

 湖を遥《はるか》に、一廓《ひとくるわ》、彩色した竜の鱗《うろこ》のごとき、湯宿々々の、壁、柱、甍《いらか》を中に隔てて、いまは鉄鎚《てっつい》の音、謡の声も聞えないが、出崎の洲《す》の端《はた》に、ぽッつりと、烏帽子《えぼし》の転がった形になって、あの船も、船大工も見える。木納屋の苫屋《とまや》は、さながらその素袍《すおう》の袖である。
 ――今しがた、この女が、細道をすれ違った時、蕈《きのこ》に敷いた葉を残した笊《ざる》を片手に、行《ゆ》く姿に、ふとその手鍋《てなべ》提げた下界の天女の俤《おもかげ》を認めたのである。そぞろに声掛けて、「あの、蕈《きのこ》を、……三銭に売ったのか。」とはじめ聞いた。えんぶだごんの価値《あたい》でも説く事か、天女に対して、三銭也を口にする。……さもしいようだが、対手《あいて》が私だから仕方がない。「ええ、」と言うのに押被《おっかぶ》せて、「馬鹿々々しく安いではないか。」と義憤を起すと、せめて言いねの半分には買ってもらいたかったのだけれど、「旦那さんが見てであったしな。……」と何か、私に対して、値の押問答をするのが極《きまり》が悪くもあったらしい口振《くちぶり》で。……「失礼だが、世帯の足《たし》になりますか。」ときくと、そのつもりではあったけれど、まるで足りない。煩っていなさる母さんの本復を祈って願掛けする、「お稲荷様《いなりさま》のお賽銭《さいせん》に。」と、少しあれたが、しなやかな白い指を、縞目《しまめ》の崩れた昼夜帯へ挟んだのに、さみしい財布がうこん色に、撥袋《ばちぶくろ》とも見えず挟《はさま》って、腰帯ばかりが紅《べに》であった。「姉さんの言い値ほどは、お手間を上げます。あの松原は松露があると、宿で聞いて、……客はたて込む、女中は忙しいし、……一人で出て来たが覚束《おぼつか》ない。ついでに、いまの(霜こし)のありそうな処へ案内して、一つでも二つでも取らして下さい、……私は茸狩《たけがり》が大好き。――」と言って、言ううちに我ながら思入って、感激した。
 はかない恋の思出がある。

 もう疾《とく》に、余所《よそ》の歴《れっ》きとした奥方だが、その私より年上の娘さんの頃、秋の山遊びをかねた茸狩に連立った。男、女たちも大勢だった。茸狩に綺羅《きら》は要らないが、山深く分入るのではない。重箱を持参で茣蓙《ござ》に毛氈《もうせん》を敷くのだから、いずれも身ぎれいに装った。中に、襟垢《えりあか》のついた見すぼらしい、母のない児《こ》の手を、娘さん――そのひとは、厭《いと》わしげもなく、親しく曳《ひ》いて坂を上ったのである。衣《きぬ》の香に包まれて、藤紫の雲の裡《うち》に、何も見えぬ。冷いが、時めくばかり、優しさが頬に触れる袖の上に、月影のような青地の帯の輝くのを見つつ、心も空に山路を辿《たど》った。やがて皆、谷々、峰々に散って蕈《きのこ》を求めた。かよわいその人の、一人、毛氈に端坐して、城の見ゆる町を遥《はるか》に、開いた丘に、少しのぼせて、羽織を脱いで、蒔絵《まきえ》の重に片袖を掛けて、ほっと憩《やす》らったのを見て、少年は谷に下りた。が、何を秘《かく》そう。その人のいま居る背後《うしろ》に、一本《ひともと》の松は、我がなき母の塚であった。
 向った丘に、もみじの中に、昼の月、虚空に澄んで、月天《がってん》の御堂《みどう》があった。――幼い私は、人界の茸《きのこ》を忘れて、草がくれに、偏《ひとえ》に世にも美しい人の姿を仰いでいた。
 弁当に集《あつま》った。吸筒《すいづつ》の酒も開かれた。「関ちゃん――関ちゃん――」私の名を、――誰も呼ぶもののないのに、その人が優しく呼んだ。刺すよと知りつつも、引《ひッ》つかんで声を堪《こら》えた、茨《いばら》の枝に胸のうずくばかりなのをなお忍んだ――これをほかにしては、もうきこえまい……母の呼ぶと思う、なつかしい声を、いま一度、もう一度、くりかえして聞きたかったからであった。「打棄《うっちゃ》っておけ、もう、食いに出て来る。」私は傍《そば》の男たちの、しか言うのさえ聞える近まにかくれたのである。草を噛《か》んだ。草には露、目には涙、縋《すが》る土にもしとしとと、もみじを映す糸のような紅《くれない》の清水が流れた。「関ちゃん――関ちゃんや――」澄み透《とお》った空もやや翳《かげ》る。……もの案じに声も曇るよ、と思うと、その人は、たけだちよく、高尚に、すらりと立った。――この時、日月《じつげつ》を外にして、その丘に、気高く立ったのは、その人ただ一人であった。草に縋って泣いた虫が、いまは堪《たま》らず蟋蟀《こおろぎ》のように飛出すと、するすると絹の音、颯《さっ》と留南奇《とめき》の香で、もの静《しずか》なる人なれば、せき心にも乱れずに、衝《つ》と白足袋で氈《かも》を辷《すべ》って肩を抱いて、「まあ、可《よ》かった、怪我をなさりはしないかと姉さんは心配しました。」少年はあつい涙を知った。
 やがて、世の状《さま》とて、絶えてその人の俤《おもかげ》を見る事の出来ずなってから、心も魂もただ憧憬《あこがれ》に、家さえ、町さえ、霧の中を、夢のように※[#「彳+尚」、第3水準1-84-33]※[#「彳+羊」、第3水準1-84-32]《さまよ》った。――故郷《ふるさと》の大通りの辻に、老舗《しにせ》の書店の軒に、土地の新聞を、日ごとに額面に挿《はさ》んで掲げた。表《おもて》三の面上段に、絵入りの続きもののあるのを、ぼんやりと彳《たたず》んで見ると、さきの運びは分らないが、ちょうど思合った若い男女が、山に茸狩《たけがり》をする場面である。私は一目見て顔がほてり、胸が躍った。――題も忘れた、いまは朧気《おぼろげ》であるから何も言うまい。……その恋人同士の、人目のあるため、左右の谷へ、わかれわかれに狩入ったのが、ものに隔てられ、巌《いわ》に遮られ、樹に包まれ、兇漢《くせもの》に襲われ、獣に脅かされ、魔に誘われなどして、日は暗し、……次第に路を隔てつつ、かくて両方でいのちの限り名を呼び合うのである。一句、一句、会話に、声に――がある……がある……! が重る。――私は夜《よ》も寝られないまで、翌日の日を待ちあぐみ、日ごとにその新聞の前に立って読み耽《ふけ》った。が、三日、五日、六日、七日になっても、まだその二人は谷と谷を隔てている。!……も、――も、丶も、邪魔なようで焦《じれ》ったい。が、しかしその一つ一つが、峨々《がが》たる巌《いわお》、森《しん》とした樹立《こだち》に見えた。丶《くとう》さえ深く刻んだ谷に見えた。……赤新聞と言うのは唯今《ただいま》でもどこかにある……土地の、その新聞は紙が青かった。それが澄渡った秋深き空のようで、文字は一《ひとつ》ずつもみじであった。作中の娘は、わが恋人で、そして、とぼんと立って読むものは小さな茸《きのこ》のように思われた。――石になった恋がある。少年は茸になった。「関弥。」ああ、勿体ない。……余りの様子を、案じ案じ捜しに出た父に、どんと背中を敲《たた》かれて、ハッと思った私は、新聞の中から、天狗《てんぐ》の翼《はね》をこぼれたようにぽかんと落ちて、世に返って、往来《ゆきき》の人を見、車を見、且つ屋根越に遠く我が家の町を見た。――
 なつかしき茸狩よ。
 二十年あまり、かくてその後、茸狩らしい真似をさえする機会がなかったのであった。
「……おともしますわ。でも、大勢で取りますから、茸《きのこ》があればいいんですけど……」
 湯の町の女は、先に立って導いた。……
 湖のなぐれに道を廻《めぐ》ると、松山へ続く畷《なわて》らしいのは、ほかほかと土が白い。草のもみじを、嫁菜のおくれ咲が彩って、枯蘆《かれあし》に陽が透通る。……その中を、飛交うのは、琅※[#「王+干」、第3水準1-87-83]《ろうかん》のような螽《いなご》であった。
 一つ、別に、この畷を挟んで、大なる潟が湧《わ》いたように、刈田を沈め、鳰《かいつぶり》を浮かせたのは一昨日の夜《よ》の暴風雨の余残《なごり》と聞いた。蘆の穂に、橋がかかると渡ったのは、横に流るる川筋を、一つらに渺々《びょうびょう》と汐《しお》が満ちたのである。水は光る。
 橋の袂《たもと》にも、蘆の上にも、随所に、米つき虫は陽炎《かげろう》のごとくに舞って、むらむらむらと下へ巻き下《くだ》っては、トンと上って、むらむらとまた舞いさがる。
 一筋の道は、湖の只中《ただなか》を霞の渡るように思われた。
 汽車に乗って、がたがた来て、一泊|幾干《いくら》の浦島に取って見よ、この姫君さえ僭越《せんえつ》である。
「ほんとうに太郎と言います、太郎ですよ。――姉さんの名は?……」
「…………」
「姉さんの名は?……」
 女は幾度も口籠りながら、手拭《てぬぐい》の端を俯目《ふしめ》に加《くわ》えて、
「浪路《なみじ》。……」
 と言った。
 ――と言うのである。……読者諸君《みなさん》、女の名は浪路だそうです。

       四

 あれに、翁《おきな》が一人見える。
 白砂の小山の畦道《あぜみち》に、菜畑の菜よりも暖かそうな、おのが影法師を、われと慰むように、太い杖《つえ》に片手づきしては、腰を休め休め近づいたのを、見ると、大黒頭巾《だいこくずきん》に似た、饅頭形《まんじゅうがた》の黄なる帽子を頂き、袖なしの羽織を、ほかりと着込んで、腰に毛巾着《けぎんちゃく》を覗《のぞ》かせた……片手に網のついた畚《びく》を下げ、じんじん端折《ばしょり》の古足袋に、藁草履《わらぞうり》を穿《は》いている。
「少々、ものを伺います。」
 ゆるい、はけ水の小流《こながれ》の、一段ちょろちょろと落口を差覗いて、その翁の、また一息|憩《やす》ろうた杖に寄って、私は言った。
 翁は、頭《ず》なりに黄帽子を仰向《あおむ》け、髯《ひげ》のない円顔の、鼻の皺《しわ》深く、すぐにむぐむぐと、日向《ひなた》に白い唇を動かして、
「このの、私《わし》がいま来た、この縦筋を真直《まっす》ぐに、ずいずいと行かっしゃると、松原について畑を横に曲る処があるでの。……それをどこまでも行かせると、沼があっての。その、すぼんだ処に、土橋が一つ架《かか》っているわい。――それそれ、この見当じゃ。」
 と、引立てるように、片手で杖を上げて、釣竿《つりざお》を撓《た》めるがごとく松の梢《こずえ》をさした。
「じゃがの。」
 と頭《かぶり》を緩く横に掉《ふ》って、
「それをば渡ってはなりませぬぞ。(と強く言って)……渡らずと、橋の詰《つめ》をの、ちと後《あと》へ戻るようなれど、左へ取って、小高い処を上《あが》らっしゃれ。そこが尋ねる実盛塚《さねもりづか》じゃわいやい。」
 と杖を直す。
 安宅《あたか》の関の古蹟とともに、実盛塚は名所と聞く。……が、私は今それをたずねるのではなかった。道すがら、既に路傍《みちばた》の松山を二処《ふたとこ》ばかり探したが、浪路がいじらしいほど気を揉《も》むばかりで、茸も松露も、似た形さえなかったので、獲ものを人に問うもおかしいが、且《かつ》は所在なさに、連《つれ》をさし置いて、いきなり声を掛けたのであったが。
「いいえ、実盛塚へは――行こうかどうしようかと思っているので、……実はおたずね申しましたのは。」
「ほん、ほん、それでは、これじゃろうの。」
 と片手の畚を動かすと、ひたひたと音がして、ひらりと腹を飜《かえ》した魚《うお》の金色《こんじき》の鱗《うろこ》が光った。
「見事な鯉《こい》ですね。」
「いやいや、これは鮒《ふな》じゃわい。さて鮒じゃがの……姉《あね》さんと連立たっせえた、こなたの様子で見ればや。」
 と鼻の下を伸《のば》して、にやりとした。
 思わず、その言《ことば》に連れて振返ると、つれの浪路は、尾花で姿を隠すように、私の外套で顔を横に蔽《おお》いながら、髪をうつむけになっていた。湖の小波《さざなみ》が誘うように、雪なす足の指の、ぶるぶると震えるのが見えて、肩も袖も、その尾花に靡《なび》く。……手につまさぐるのは、真紅の茨《いばら》の実で、その連《つらな》る紅玉《ルビィ》が、手首に珊瑚《さんご》の珠数《じゅず》に見えた。
「ほん、ほん。こなたは、これ。(や、爺《じじ》い……その鮒をば俺に譲れ。)と、姉《ねえ》さんと二人して、潟に放いて、放生会《ほうじょうえ》をさっしゃりたそうな人相じゃがいの、ほん、ほん。おはは。」
 と笑いながら、ちょろちょろ滝に、畚をぼちゃんとつけると、背を黒く鮒が躍って、水音とともに鰭《ひれ》が鳴った。
「憂慮《きづかい》をさっしゃるな。割《さ》いて爺《じい》の口に啖《くら》おうではない。――これは稲荷殿《いなりでん》へお供物に献ずるじゃ。お目に掛けましての上は、水に放すわいやい。」
 と寄せた杖が肩を抽《ぬ》いて、背を円く流《ながれ》を覗いた。
「この魚《うお》は強いぞ。……心配をさっしゃるな。」
「お爺さん、失礼ですが、水と山と違いました。」
 私も笑った。
「茸だの、松露だのをちっとばかり取りたいのですが、霜こしなんぞは、どの辺にあるでしょう。御存じはありませんか。」
「ほん、ほん。」
 と黄饅頭を、点頭のままに動かして、
「茸――松露――それなら探さねば爺にかて分らぬがいやい。おはは、姉さんは土地の人じゃ。若いぱっちりとした目は、爺などより明《あきら》かじゃ。よう探いてもらわっしゃい。」
「これはお隙《ひま》づいえ、失礼しました。」
「いや、何の嵩高《かさだか》な……」
「御免。」
「静《しずか》にござれい。――よう遊べ。」
「どうかしたか、――姉さん、どうした。」
「ああ、可恐《こわ》い。……勿体ないようで、ありがたいようで、ああ、可恐《こお》うございましたわ。」
「…………」
「いまのは、山のお稲荷様か、潟の竜神様でおいでなさいましょう。風のない、うららかな、こんな時にはな、よくこの辺をおあるきなさいますそうですから。」
 いま畚を引上げた、水の音はまだ響くのに、翁は、太郎虫、米搗虫の靄《もや》のあなたに、影になって、のびあがると、日南《ひなた》の背《せな》も、もう見えぬ。
「しかし、様子は、霜こしの黄茸《きだけ》が化けて出たようだったぜ。」
「あれ、もったいない。……旦那さん、あなた……」

       五

「わ、何じゃい、これは。」
「霜こし、黄い茸《たけ》。……あはは、こんなばば蕈《きのこ》を、何の事じゃい。」
「何が松露や。ほれ、こりゃ、破ると、中が真黒《まっくろ》けで、うじゃうじゃと蛆《うじ》のような筋のある(狐の睾丸《がりま》)じゃがいの。」
「旦那、眉毛に唾《つば》なとつけっしゃれい。」
「えろう、女狐に魅《つま》まれたなあ。」
「これ、この合羽占地茸《かっぱしめじ》はな、野郎の鼻毛が伸びたのじゃぞいな。」
 戻道。橋で、ぐるりと私たちを取巻いたのは、あまのじゃくを訛《なま》ったか、「じゃあま。」と言い、「おんじゃ。」と称《とな》え、「阿婆《あばあ》。」と呼ばるる、浜方|屈竟《くっきょう》の阿婆摺媽々《あばずれかかあ》。町を一なめにする魚売の阿媽徒《おっかあてあい》で。朝商売《あさあきない》の帰りがけ、荷も天秤棒も、腰とともに大胯《おおまた》に振って来た三人づれが、蘆の横川にかかったその橋で、私の提げた笊《ざる》に集《たか》って、口々に喚《わめ》いて囃《はや》した。そのあるものは霜こしを指でつついた。あるものは松露をへし破《わ》って、チェッと言って水に棄てた。
「ほれ、ほんとうの霜こしを見さっしゃい。これじゃがいの。」
 と尻とともに天秤棒を引傾《ひっかた》げて、私の目の前に揺り出した。成程違う。
「松露とは、ちょっと、こんなものじゃ。」
 と上荷の笊を、一人が敲《たた》いて、
「ぼんとして、ぷんと、それ、香《こうば》しかろ。」
 成程違う。
「私が方には、ほりたての芋が残った。旦那が見たら蛸《たこ》じゃろね。」
「背中を一つ、ぶん撲《なぐ》って進じようか。」
「ばば茸《たけ》持って、おお穢《むさ》や。」
「それを食べたら、肥料桶《こえおけ》が、早桶になって即死じゃぞの、ぺッぺッぺッ。」
 私は茫然《ぼうぜん》とした。
 浪路は、と見ると、悄然《しょうぜん》と身をすぼめて首垂《うなだ》るる。
 ああ、きみたち、阿媽《おっかあ》、しばらく!……
 いかにも、唯今《ただいま》申さるる通り、較《くら》べては、玉と石で、まるで違う。が、似て非なるにせよ、毒にせよ。これをさえ手に狩るまでの、ここに連れだつ、この優しい女の心づかいを知ってるか。
 ――あれから菜畑を縫いながら、更に松山の松の中へ入ったが、山に山を重ね、砂に砂、窪地の谷を渡っても、余りきれいで……たまたま落ちこぼれた松葉のほかには、散敷いた木《こ》の葉もなかった。
 この浪路が、気をつかい、心を尽した事は言うまでもなかろう。
 阿媽、これを知ってるか。
 たちまち、口紅のこぼれたように、小さな紅茸《べにたけ》を、私が見つけて、それさえ嬉しくって取ろうとするのを、遮って留めながら、浪路が松の根に気も萎《な》えた、袖褄《そでつま》をついて坐った時、あせった頬は汗ばんで、その頸脚《えりあし》のみ、たださしのべて、討たるるように白かった。
 阿媽、それを知ってるか。
 薄色の桃色の、その一つの紅茸を、灯《ともしび》のごとく膝の前に据えながら、袖を合せて合掌して、「小松山さん、山の神さん、どうぞ茸《きのこ》を頂戴な。下さいな。」と、やさしく、あどけない声して言った。
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「小松山さん、山の神さん、
 どうぞ、茸を頂戴な。
 下さいな。――」
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 真の心は、そのままに唄である。
 私もつり込まれて、低声《こごえ》で唄った。
「ああ、ありました。」
「おお、あった。あった。」
 ふと見つけたのは、ただ一本、スッと生えた、侏儒《いっすんぼし》が渋蛇目傘《しぶじゃのめ》を半びらきにしたような、洒落《しゃれ》ものの茸であった。
「旦那さん、早く、あなた、ここへ、ここへ。」
「や、先刻見た、かっぱだね。かっぱ占地茸……」
「一つですから、一本占地茸とも言いますの。」
 まず、枯松葉を笊に敷いて、根をソッと抜いて据えたのである。
 続いて、霜こしの黄茸を見つけた――その時の歓喜を思え。――真打だ。本望だ。
「山の神さんが下さいました。」
 浪路はふたたび手を合した。
「嬉しく頂戴をいたします。」
 私も山に一礼した。
 さて一つ見つかると、あとは女郎花《おみなえし》の枝ながらに、根をつらねて黄色に敷く、泡のようなの、針のさきほどのも交《まじ》った。松の小枝を拾って掘った。尖《さき》はとがらないでも、砂地だからよく抜ける。
「松露よ、松露よ、――旦那さん。」
「素晴しいぞ。」
 むくりと砂を吹く、飯蛸《いいだこ》の乾《から》びた天窓《あたま》ほどなのを掻くと、砂を被《かぶ》って、ふらふらと足のようなものがついて取れる。頭をたたいて、
「飯蛸より、これは、海月《くらげ》に似ている、山の海月だね。」
「ほんになあ。」
 じゃあま、あばあ、阿媽《おっかあ》が、いま、(狐の睾丸《がりま》)ぞと詈《ののし》ったのはそれである。
 が、待て――蕈狩《たけがり》、松露取は闌《たけなわ》の興に入《い》った。
 浪路は、あちこち枝を潜《くぐ》った。松を飛んだ、白鷺《しらさぎ》の首か、脛《はぎ》も見え、山鳥の翼の袖も舞った。小鳥のように声を立てた。
 砂山の波が重《かさな》り重って、余りに二人のほかに人がない。――私はなぜかゾッとした。あの、翼、あの、帯が、ふとかかる時、色鳥とあやまられて、鉄砲で撃たれはしまいか。――今朝も潜水夫のごときしたたかな扮装《いでたち》して、宿を出た銃猟家《てっぽううち》を四五人も見たものを。
 遠くに、黒い島の浮いたように、脱ぎすてた外套《がいとう》を、葉越に、枝越に透《すか》して見つけて、「浪路さん――姉さん――」と、昔の恋に、声がくもった。――姿を見失ったその人を、呼んで、やがて、莞爾《にっこり》した顔を見た時は、恋人にめぐり逢った、世にも嬉しさを知ったのである。
 阿婆《おばば》、これを知ってるか。
 無理に外套に掛けさせて、私も憩った。
 着崩れた二子織《ふたこ》の胸は、血を包んで、羽二重よりも滑《なめらか》である。
 湖の色は、あお空と、松山の翠《みどり》の中に朗《ほがらか》に沁《し》み通った。
 もとのように、就中《なかんずく》遥《はるか》に離れた汀《みぎわ》について行く船は、二|艘《そう》、前後に帆を掛けて辷《すべ》ったが、その帆は、紫に見え、紅《あか》く見えて、そして浪路の襟に映り、肌を染めた。渡鳥がチチと囀《さえず》った。
「あれ、小松山の神さんが。」
 や、や、いかに阿媽《おっかあ》たち、――この趣を知ってるか。――

「旦那、眉毛を濡らさんかねえ。」
「この狐。」
 と一人が、浪路の帯を突きざまに行き抜けると、
「浜でも何人抜かれたやら。」一人がつづいて頤《あご》で掬《すく》った。
「また出て、魅《ばか》しくさるずらえ。」
「真昼間《まっぴるま》だけでも遠慮せいてや。」
「女《め》の狐の癖にして、睾丸《がりま》をつかませたは可笑《おかし》なや、あはははは。」
「そこが化けたのや。」
「おお、可恐《こわ》やの。」
「やあ、旦那、松露なと、黄茸なと、ほんものを売ってやろかね。」
「たかい銭《おあし》で買わっせえ。」
 行過ぎたのが、菜畑越に、縺《もつ》れるように、一斉《いっとき》に顔を重ねて振返った。三面|六臂《ろっぴ》の夜叉《やしゃ》に似て、中にはおはぐろの口を張ったのがある。手足を振って、真黒《まっくろ》に喚《わめ》いて行く。
 消入りそうなを、背を抱いて引留めないばかりに、ひしと寄った。我が肩するる婦《おんな》の髪に、櫛《くし》もささない前髪に、上手がさして飾ったように、松葉が一葉、青々としかも婀娜《あだ》に斜《はす》にささって、(前こぞう)とか言う簪《かんざし》の風情そのままなのを、不思議に見た。茸《たけ》を狩るうち、松山の松がこぼれて、奇蹟のごとく、おのずから挿さったのである。
「ああ、嬉しい事がある。姉さん、茸が違っても何でも構わない。今日中のいいものが手に入ったよ――顔をお見せ。」
 袖でかくすを、
「いや、前髪をよくお見せ。――ちょっと手を触って、当てて御覧、大したものだ。」
「ええ。」
 ソッと抜くと、掌《たなそこ》に軽くのる。私の名に、もし松があらば、げにそのままの刺青《いれずみ》である。
「素晴らしい簪《かんざし》じゃあないか。前髪にささって、その、容子《ようす》のいい事と言ったら。」
 涙が、その松葉に玉を添えて、
「旦那さん――堪忍して……あの道々、あなたがお幼《ちいさ》い時のお話もうかがいます。――真のあなたのお頼みですのに、どうぞしてと思っても、一つだって見つかりません……嘘と知っていて、そんな茸をあげました。余り欲しゅうございましたので、私にも、私にかってほんとうの茸に見えたんですもの。……お恥かしい身体《からだ》ですが、お言《ことば》のまま、あの、お宿までもお供して……もしその茸をめしあがるんなら、きっとお毒味を先へして、血を吐くつもりでおりました。生命《いのち》がけでだましました。……堪忍して下さいまし。」
「何を言うんだ、飛んでもない。――さ、ちょっと、自分の手でその松葉をさして御覧。……それは容子が何とも言えない、よく似合う。よ。頼むから。」
 と、かさに掛《かか》って、勢《いきおい》よくは言いながら、胸が迫って声が途切れた。
「後生だから。」
「はい、……あの、こうでございますか。」
「上手だ。自分でも髪を結えるね。ああ、よく似合う。さあ、見て御覧。何だ、袖に映したって、映るものかね。ここは引汐《ひきしお》か、水が動く。――こっちが可《い》い。あの松影の澄んだ処が。」
「ああ、御免なさい。堪忍して……映すと狐になりますから。」
「私が請合う、大丈夫だ。」
「まあ。」
「ね、そのままの細い翡翠《ひすい》じゃあないか。琅※[#「王+干」、第3水準1-87-83]《ろうかん》の珠《たま》だよ。――小松山の神さんか、竜神が、姉さんへのたまものなんだよ。」
 ここにも飛交う螽《いなご》の翠《みどり》に。――
「いや、松葉が光る、白金《プラチナ》に相違ない。」
「ええ。旦那さんのお情《なさけ》は、翡翠です、白金です……でも、私はだんだんに、……あれ、口が裂けて。」
「ええ。」
「目が釣上って……」
「馬鹿な事を。――蕈《きのこ》で嘘を吐《つ》いたのが狐なら、松葉でだました私は狸だ。――狸だ。……」
 と言って、真白《まっしろ》な手を取った。
 湖つづき蘆中《あしなか》の静《しずか》な川を、ぬしのない小船が流れた。
[#地から1字上げ]大正十三(一九二四)年一月



底本:「泉鏡花集成7」ちくま文庫、筑摩書房
   1995(平成7)年12月4日第1刷発行
底本の親本:「鏡花全集 第二十二巻」岩波書店
   1940(昭和15)年11月20日第1刷発行
入力:門田裕志
校正:今井忠夫
2003年8月31日作成
青空文庫作成ファイル:
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