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海城発電
泉鏡花

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)垢着《あかつ》きたる

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)富豪|柳氏《りゅうし》の家

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「目+爭」、第3水準1-88-85]《みは》りたる眼
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       一

「自分も実は白状をしやうと思つたです。」
 と汚れ垢着《あかつ》きたる制服を絡《まと》へる一名の赤十字社の看護員は静に左右を顧《かえり》みたり。
 渠《かれ》は清国《しんこく》の富豪|柳氏《りゅうし》の家なる、奥まりたる一室に夥多《あまた》の人数《にんず》に取囲まれつつ、椅子《いす》に懸りて卓《つくえ》に向へり。
 渠を囲みたるは皆|軍夫《ぐんぷ》なり。
 その十数名の軍夫の中に一人|逞《たく》ましき漢《おのこ》あり、屹《き》と彼《か》の看護員に向ひをれり。これ百人長なり。海野《うんの》といふ。海野は年配《ねんぱい》三十八、九、骨太《ほねぶと》なる手足あくまで肥へて、身の丈《たけ》もまた群を抜けり。
 今看護員のいひ出《い》だせる、その言《ことば》を聴くと斉《ひと》しく、
「何! 白状をしやうと思つたか。いや、実際味方の内情を、あの、敵に打明けやうとしたんか。君。」
 いふ言《ことば》ややあらかりき。
 看護員は何気《なにげ》なく、
「左様《そう》です。撲《ぶ》つな、蹴《け》るな、貴下《あなた》酷《ひど》いことをするぢやあありませんか。三日も飯《めし》を喰はさないで眼も眩《くら》むでゐるものを、赤條々《はだか》にして木の枝へ釣《つる》し上げてな、銃の台尻《だいじり》で以て撲《なぐ》るです。ま、どうでしやう。余り拷問《ごうもん》が厳《きび》しいので、自分もつひ苦しくつて堪《たま》りませんから、すつかり白状をして、早くその苦痛を助りたいと思ひました。けれども、軍隊のことについては、何にも知つちやあゐないので、赤十字の方ならば悉《くわ》しいから、病院のことなんぞ、悉しくいつて聞かして遣《や》つたです。が、其様《そん》なことは役に立たない。軍隊の様子を白状しろつて、益々酷く苛《さいな》むです。実は苦しくつて堪らなかつたですけれども、知らないのが真実《ほんとう》だからいへません。で、とうとう聞かさないでしまひましたが、いや、実に弱つたです。困りましたな、どうも支那人の野蛮なのにやあ。何しろ、まるでもつて赤十字なるものの組織を解さないで、自分らを何がなし、戦闘員と同一《おんなじ》に心得てるです。仕方がありませんな。」
 とあだかも親友に対して身《み》の上《うえ》談話《ばなし》をなすが如く、渠《かれ》は平気に物語れり。
 しかるに海野はこれを聞きて、不心服《ふしんぷく》なる色ありき。
「ぢやあ何だな、知つてれば味方の内情を、残らず饒舌《しゃべ》ツちまう処《ところ》だつたな。」
 看護員は軽《かろ》く答へたり。
「いかにも。拷問が酷かつたです。」
 百人長は憤然《むっ》として、
「何だ、それでも生命《いのち》があるでないか、譬《たと》ひ肉が爛《ただ》れやうが、さ、皮が裂けやうがだ、呼吸《いき》があつたくらゐの拷問なら大抵《たいてい》知れたもんでないか。それに、苟《いやしく》も神州男児で、殊《こと》に戦地にある御互《おたがい》だ。どんなことがあらうとも、いふまじきことを、何、撲《なぐ》られた位で痛いといふて、味方の内情を白状しやうとする腰抜が何処《どこ》にあるか。勿論、白状はしなかつたさ。白状はしなかつたに違《ちがい》ないが、自分で、知つてればいはうといふのが、既に我が同胞《どうぼう》の心でない、敵に内通も同一《おんなじ》だ。」
 といひつつ海野は一歩を進めて、更に看護員を一睨《いちげい》せり。
 看護員は落着|済《す》まして、
「いや、自分は何も敵に捕へられた時、軍隊の事情をいつては不可《いけ》ぬ、拷問《ごうもん》を堅忍して、秘密を守れといふ、訓令を請《う》けた事もなく、それを誓つた覚《おぼえ》もないです。また全く左様《そう》でしやう、袖《そで》に赤十字の着いたものを、戦闘員と同一《おんなじ》取扱をしやうとは、自分はじめ、恐らく貴下方《あなたがた》にしても思懸《おもいがけ》はしないでせう。」
「戦地だい、べらぼうめ。何を! 呑気《のんき》なことをいやがんでい。」
 軍夫の一人つかつかと立懸《たちかか》りぬ。百人長は応揚《おうよう》に左手《ゆんで》を広げて遮《さえぎ》りつつ、
「待て、ええ、屁《へ》でもない喧嘩《けんか》と違うぞ。裁判だ。罪が極《きま》つてから罰することだ。騒ぐない。噪々《そうぞう》しい。」
 軍夫は黙して退《しりぞ》きぬ。ぶつぶつ口小言《くちこごと》いひつつありし、他の多くの軍夫らも、鳴《なり》を留めて静まりぬ。されど尽く不穏の色あり。眼光鋭く、意気激しく、いづれも拳《こぶし》に力を籠《こ》めつつ、知らず知らず肱《ひじ》を張りて、強ひて沈静を装ひたる、一室にこの人数を容《い》れて、燈火の光|冷《ひやや》かに、殺気を籠《こ》めて風寒く、満州の天地|初夜《しょや》過ぎたり。

       二

 時に海野は面《おもて》を正し、警《いまし》むるが如き口気《くちぶり》以て、
「おい、それでは済むまい。よしむば、われわれ同胞が、君に白状をしろといつたからツて、日本人だ。むざむざ饒舌《しゃべ》るといふ法はあるまいぢやないか、骨が砂利にならうとままよ。それをさうやすやすと、知つてれば白状したものをなんのツて、面と向つてわれわれにいはれた道理《ぎり》か。え? どうだ。いはれた義理《ぎり》ではなからうでないか。」
 看護員は身を斜《なな》めにして、椅子に片手を投懸けつつ、手にせる鉛筆を弄《もてあそ》びて、
「いや。しかし大きに左様《そう》かも知れません。」
 と片頬《かたほ》を見せて横を向きぬ。
 海野は※[#「目+爭」、第3水準1-88-85]《みは》りたる眼《まなこ》を以て、避けし看護員の面《おもて》を追ひたり。
「何だ、左様かも知れません? これ、無責任の言語を吐いちやあ不可《いかん》ぞ。」
 またじりりと詰寄りぬ。看護員はやや俯向《うつむ》きつ。手なる鉛筆の尖《さき》を嘗《な》めて、筒服《ズボン》の膝《ひざ》に落書《らくがき》しながら、
「無責任? 左様ですか。」
 渠《かれ》は少しも逆らはず、はた意に介せる状《さま》もなし。
 百人長は大に急《せ》きて、
「唯《ただ》(左様ですか)では済まん。様子に寄つてはこれ、きつとわれわれに心得がある。しつかり性根《しょうね》を据《す》へて返答せないか。」
「何様《どん》な心得があるのです。」
 看護員は顔を上げて、屹《きっ》と海野に眼を合せぬ。
「一体、自分が通行をしてをる処を、何か待伏《まちぶせ》でもなすつたやうでしたな。貴下方《あなたがた》大勢で、自分を担《かつ》ぐやうにして、此家《ここ》へ引込《ひっこ》むだはどういふわけです。」
 海野は今この反問に張合を得たりけむ、肩を揺《ゆす》りて気兢《きお》ひ懸れり。
「うむ、聞きたいことがあるからだ。心得はある。心得はあるが、先《ま》づ聞くことを聞いてからのこととしやう。」
「は、それでは何か誰ぞの吩附《いいつけ》ででもあるのですか。」
 海野は傲然《ごうぜん》として、
「誰が人に頼まれるもんか。吾《おれ》の了簡で吾が聞くんだ。」
 看護員はそとその耳を傾けたり。
「ぢやあ貴下方に、他《ひと》を尋問する権利があるので?」
 百人長は面《おもて》を赤うし、
「囀《さえず》るない!」
 と一声高く、頭がちに一呵《いっか》しつ。驚破《すわ》といはば飛蒐《とびかか》らむず、気勢《きおい》激しき軍夫らを一わたりずらりと見渡し、その眼を看護員に睨返《ねめかえ》して、
「権利はないが、腕力じゃ!」
「え、腕力?」
 看護員は犇々《ひしひし》とその身を擁《よう》せる浅黄《あさぎ》の半被《はっぴ》股引《ももひき》の、雨風に色褪《いろあ》せたる、譬《たと》へば囚徒の幽霊の如き、数個《すか》の物体を※[#「目+旬」、第3水準1-88-80]《みま》はして、秀《ひい》でたる眉《まゆ》を顰《ひそ》めつ。
「解りました。で、そのお聞きにならうといふのは?」
「知れてる! 先刻《さっき》からいふ通りだ。何故《なぜ》、君には国家といふ観念がないのか。痛いめを見るがつらいから、敵に白状をしやうと思ふ。その精神が解らない。(いや、左様かも知れません)なんざ、無責任極まるでないか。そんなぬらくらじや了見せんぞ、しつかりと返答しろ。」
 咄々《とつとつ》迫る百人長は太き仕込杖《しこみづえ》を手にしたり。
「それでどういへば無責任にならないです?」
「自分でその罪を償ふのだ。」
「それではどうして償ひましやう。」
「敵状をいへ! 敵状を。」
 と海野は少し色解《いろとけ》てどかと身重《みおも》げに椅子に凭《よ》れり。
「聞けば、君が、不思議に敵陣から帰つて来て、係りの将校が、君の捕虜になつてゐた間の経歴について、尋問があつた時、特に敵情を語れといふ、命令があつたそうだが、どういふものか君は、知らない、存じませんの一点張で押通《おっとお》して、つまりそれなりで済《す》むだといふが。え、君、二月《ふたつき》も敵陣にゐて、敵兵の看護をしたといふでないか。それで、懇篤《こんとく》で、親切で、大層奴らのために尽力をしたさうで、敵将が君を帰す時、感謝状を送つたさうだ。その位信任をされてをれば、種々《いろいろ》内幕も聞いたらう、また、ただ見たばかりでも大概は知れさうなもんだ。知つてていはないのはどういふ訳だ。余《あんま》り愛国心がないではないか。」
「いえ、全く、聞いたのは呻吟声《うめきごえ》ばかりで、見たのは繃帯《ほうたい》ばかりです。」

       三

「何、繃帯と呻吟声、その他は見も聞きもしないんだ? 可加減《いいかげん》なことをいへ。」
 海野は苛立《いらだ》つ胸を押へて、務めて平和を保つに似たり。
 看護員は実際その衷情《ちゅうじょう》を語るなるべし、聊《いささか》も飾気《かざりけ》なく、
「全く、知らないです。いつて利益になることなら、何|秘《かく》すものですか。また些少《ちっと》も秘さねばならない必要も見出さないです。」
 百人長は訝《いぶ》かし気《げ》に、
「して見ると、何か、全然《まるで》無神経で、敵の事情を探らうとはしなかつたな。」
「別に聞いて見やうとも思はないでした。」
 と看護員は手をその額《ひたい》に加へたり。
 海野は仕込杖以て床《ゆか》をつつき、足蹈《あしぶみ》して口惜《くちおし》げに、
「無神経極まるじやあないか。敵情を探るためには斥候《せっこう》や、探偵《たんてい》が苦心に苦心を重ねてからに、命がけで目的を達しやうとして、十に八、九は失敗《しくじ》るのだ。それに最も安全な、最も便利な地位にあつて、まるでうつちやツて、や、聞かうとも思はない。無、無神経極まるなあ。」
 と吐息して慨然たり。看護員は頸《うなじ》を撫《な》でて打傾《うちかたむ》き、
「なるほど、左様でした。閑《ひま》だとそんな処まで気が着いたんでしやうけれども、何しろ病傷兵の方にばかり気を取られたので、ぬかつたです。些少《ちっと》も準備が整はないで、手当が行届かないもんですから随分繁忙を極めたです。五分と休む間《ひま》もない位で、夜の目も合はさないで尽力したです。けれども、器具も、薬品も不完全なので、満足に看護も出来ず、見殺にしたのが多いのですもの、敵情を探るなんて、なかなかどうして其処々《そこどころ》まで、手が廻るものですか。」
 といまだいひも果《はて》ざるに、
「何だ、何だ、何だ。」
 海野は獅子吼《ししぼえ》をなして、突立《つった》ちぬ。
「そりや、何の話だ、誰に対する何奴《どいつ》の言《ことば》だ。」
 と噛着《かみつ》かむずる語勢なりき。
 看護員は現在おのが身の如何《いか》に危険なる断崖《だんがい》の端《はし》に臨みつつあるかを、心着かざるものの如く、無心――否《いな》むしろ無邪気――の体《てい》にて、
「すべてこれが事実であるのです。」
「何だ、事実! むむ、味方のためには眼も耳も吝《おし》むで、問はず、聞かず、敵のためには粉骨碎身《ふんこつさいしん》をして、夜の目も合はさない、呼吸《いき》もつかないで働いた、それが事実であるか! いや、感心だ、恐れ入つた。その位でなければ敵から感状を頂戴《ちょうだい》する訳にはゆかんな。道理《もっとも》だ。」
 といい懸けて、夢見る如き対手《あいて》の顔を、海野はじつと瞻《みまも》りつつ、嘲《あざ》み笑ひて、声太く、
「うむ、得がたい豪傑だ。日本の名誉であらう。敵から感謝状を送られたのは、恐らく君を措《お》いて外にはあるまい。君も名誉と思ふであらうな。えらい! 実にえらい! 国の光だ。日本の花だ。われわれもあやかりたい。君、その大事の、いや、御秘蔵のものではあらうが、どうぞ一番《ひとつ》、その感謝状を拝ましてもらいたいな。」
 と口は和《やわ》らかにものいへども、胸に満《みち》たる不快の念は、包むにあまりて音《ね》に出《い》でぬ。
 看護員は異議もなく、
「確かありましたツけ、お待ちなさい。」
 手にせる鉛筆を納《おさむ》るとともに、衣兜《かくし》の裡《うち》をさぐりつつ、
「あ、ありました。」
 と一通の書を取出して、
「なかなか字体がうまいです。」
 無雑作《むぞうさ》に差出《さしいだ》して、海野の手に渡しながら、
「裂いちやあ不可《いけ》ません。」
「いや、謹《つつし》むで、拝見する。」
 海野はことさらに感謝状を押戴《おしいただ》き、書面を見る事久しかりしが、やがてさらさらと繰広げて、両手に高く差翳《さしかざ》しつ。声を殺し、鳴《なり》を静め、片唾《かたず》を飲みて群《むらが》りたる、多数の軍夫に掲げ示して、
「こいつを見い。貴様たちは何と思ふ、礼手紙だ。可《いい》か、支那人《チャンチャン》から礼をいつて寄越した文《ふみ》だぞ。人間は正直だ。わけもなく天窓《あたま》を下げて、お辞儀をする者はない。殊《こと》に敵だ、われわれの敵たる支那人《チャンチャン》だ。支那人が礼をいつて捕虜《とりこ》を帰して寄越したのは、よくよくのことだと思へ!」
 いふことば半ばにして海野はまた感謝状を取直し、ぐるりと押廻して後背《うしろ》なる一団の軍夫に示せし時、戸口に丈長《たけたか》き人物あり。頭巾《ずきん》黒く、外套《がいとう》黒く、面《おもて》を蔽《おお》ひ、身躰《からだ》を包みて、長靴を穿《うが》ちたるが、纔《わずか》に頭《こうべ》を動かして、屹《きっ》とその感謝状に眼を注ぎつ。濃《こまや》かなる一脈《いちみゃく》の煙は渠《かれ》の唇辺《くちびる》を籠《こ》めて渦巻《うずま》きつつ葉巻《はまき》の薫《かおり》高かりけり。

       四

 百人長は向直《むきなお》りてその言《ことば》を続けたり。
「何と思ふ。意気地もなく捕虜《とりこ》になつて、生命《いのち》が惜さに降参して、味方のことはうつちやつてな、支那人《チャンチャン》の介抱《かいほう》をした。そのまた尽力といふものが、一通りならないのだ。この中にも書いてある、まるで何だ、親か、兄弟にでも対するやうに、恐ろしく親切を尽して遣《や》つてな、それで生命を助かつて、阿容々々《おめおめ》と帰つて来て、剰《あまつさ》へこの感状を戴いた。どうだ、えらいでないか貴様たちなら何とする?」
 といまだいひもはてざるに、満堂|忽《たちま》ち黙を破りて、哄《どっ》と諸声《もろごえ》をぞ立てたりける、喧轟《けんごう》名状すべからず。国賊逆徒、売国奴、殺せ、撲《なぐ》れと、衆口一斉|熱罵《ねつば》恫喝《どうかつ》を極めたる、思ひ思ひの叫声は、雑音意味もなき響となりて、騒然としてかまびすしく、あはや身の上ぞと見る眼危き、唯|単身《みひとつ》なる看護員は、冷々然として椅子に恁《よ》りつ。あたりを見たる眼配《まくばり》は、深夜時計の輾《きし》る時、病室に患者を護りて、油断せざるに異《こと》ならざりき。看護員に迫害を加ふべき軍夫らの意気は絶頂に達しながら、百人長の手を掉《ふ》りて頻《しき》りに一同を鎮《しず》むるにぞ、その命なきに前《さき》だちて決して毒手を下さざるべく、予《かね》て警《いまし》むる処やありけん、地踏※[#「韋+備のつくり」、第3水準1-93-84]《じだんだ》蹈《ふ》みてたけり立つをも、夥間《なかま》同志が抑制して、拳《こぶし》を押へ、腕を扼《やく》して、野分《のわけ》は無事に吹去りぬ。海野は感謝状を巻き戻し、卓子《ていぶる》の上に押遣りて、
「それでは返す。しかしこの感謝状のために、血のある奴らが如彼《あんな》に騒ぐ。殺せの、撲れのといふ気組《きぐみ》だ。うむ、やつぱり取つて置くか。引裂《ひっさ》いて踏むだらどうだ。さうすりや些少《ちっと》あ念ばらしにもなつて、いくらか彼奴《あいつ》らが合点《がってん》しやう。さうでないと、あれでも御国《みくに》のためには、生命《いのち》も惜まない徒《てあい》だから、どんなことをしやうも知れない。よく思案して請取るんだ、可《いい》か。」
 耳にしながら看護員は、事もなげに手に取りて、海野が言《ことば》の途切れざるに、敵より得たる感謝状は早くも衣兜《かくし》に納まりぬ。
「取つたな。」と叫びたる、海野の声の普通《ただ》ならざるに、看護員は怪む如く、
「不可《いけ》ないですか。」
「良心に問へ!」
「やましいことは些少《ちっと》もないです。」
 いと潔くいひ放《はな》ちぬ。その面貌の無邪気なる、そのいふことの淡泊なる、要するに看護員は、他の誘惑に動かされて、胸中その是非に迷ふが如き、さる心弱きものにはあらず、何らか固き信仰ありて、譬《たと》ひその信仰の迷へるにもせよ、断々乎一種他の力の如何ともしがたきものありて存せるならむ。
 海野はその答を聞くごとに、呆《あき》れもし、怒りもし、苛立《いらだ》ちもしたりけるが、真個《しんこ》天真なる状《さま》見えて言《ことば》を飾るとは思はれざるにぞ、これ実に白痴者なるかを疑ひつつ、一応試に愛国の何たるかを教え見むとや、少しく色を和げる、重きものいひの渋《しぶり》がちにも、
「やましいことがないでもあるまい。考へて見るが可《いい》。第一敵のために虜《とりこ》にされるといふがあるか。抵抗してかなはなかつたら、何故《なぜ》切腹をしなかつた。いやしくも神州男児だ、腸《はらわた》を掴《つか》み出して、敵のしやツ面《つら》へたたきつけて遣《や》るべき処だ。それも可《いい》、時と場合で捕はれないにも限らんが、撲《なぐ》られて痛いからつて、平気で味方の内情を白状しやうとは、呆《あき》れ果《はて》た腰抜だ。其上《それに》まだ親切に支那人《チャンチャン》の看護をしてな、高慢らしく尽力をした吹聴《ふいちょう》もないもんだ。のみならず、一旦恥辱を蒙《こうむ》つて、われわれ同胞の面汚《つらよごし》をしてゐながら、洒亜《しあ》つくで帰つて来て、感状を頂《いただ》きは何といふ心得だ。せめて土産《みやげ》に敵情でも探つて来れば、まだ言訳《いいわけ》もあるんだが、刻苦《こっく》して探つても敵の用心が厳しくつて、残念ながら分らなかつたといふならまだも恕《じょ》すべきであるに、先に将校に検《しら》べられた時も、前刻《さっき》吾《おれ》が聞いた時も、いひやうもあらうものを、敵情なんざ聞かうとも、見やうとも思はなかつたは、実に驚く。しかも敵兵の介抱が急がしいので、其様《そんな》ことあ考へてる隙《ひま》もなかつたなんぞと、憶面《おくめん》もなくいふ如きに至つては言語同断《ごんごどうだん》といはざるを得ん。国賊だ、売国奴だ、疑つて見た日にやあ、敵に内通をして、我軍の探偵に来たのかも知れない、と言はれた処で仕方がないぞ。」

       五

「さもなければ、あの野蛮な、残酷な敵がさうやすやす捕虜《とりこ》を返す法はない。しかしそれには証拠がない、強《しい》て敵に内通をしたとはいはん、が、既に国民の国民たる精神のない奴を、そのままにして見遁《みの》がしては、我軍の元気の消長に関するから、屹《きっ》と改悟の点を認むるか、さもなくば相当の制裁を加へなければならん。勿論軍律を犯したといふでもないから、将校方は何の沙汰《さた》をもせられなかつたのであらう。けれどもが、われわれ父母妻子をうつちやつて、御国《みくに》のために尽さうといふ愛国の志士が承知せん。この室にゐるものは、皆な君の所置ぶりに慊焉《けんえん》たらざるものがあるから、将校方は黙許なされても、其様《そん》な国賊は、屹《きっ》と談じて、懲戒を加ゆるために、おのおの決する処があるぞ。可《いい》か。その悪《にく》むべき感謝状を、かういつた上でも、裂いて棄てんか。やつぱり疚《や》ましいことはないが、些少《ちょっと》も良心が咎《とが》めないか、それが聞きたい。ぬらくらの返事をしちやあ不可《いかん》ぞ。」
 看護員は傾聴して、深くその言《ことば》を味ひつつ、黙然として身動きだもせず、良《やや》猶予《ためら》ひて言《ものい》はざりき。
 こなたはしたり顔に附入《つけい》りぬ。
「屹《きっ》と責任のある返答を、此室《ここ》にゐる皆《みんな》に聞かしてもらはう。」
 いひつつ左右を※[#「目+旬」、第3水準1-88-80]《みまわ》したり。
 軍夫の一人は叫び出《いだ》せり。「先生。」
 渠《かれ》らは親方といはざりき。海野は老壮士なればなり。
「先生、はやくしておくむなせえ。いざこざは面倒でさ。」
「撲《なぐ》つちまへ!」と呼ばるるものあり。
「隊長、おい、魂《たましい》を据《す》へて返答しろよ。へむ、どうするか見やあがれ。」
「腰抜め、口イきくが最後だぞ。」
 と口々にまたひしめきつ。四、五名の足のばたばたばたと床板《ゆかいた》を踏鳴《ふみな》らす音ぞ聞こえたる。
 看護員は、海野がいはゆる腕力の今ははやその身に加へらるべきを解したらむ。されども渠は聊《いささか》も心に疚《や》ましきことなかりけむ、胸苦《むねぐる》しき気振《けぶり》もなく、静に海野に打向《うちむか》ひて、
「些少《ちっと》も良心に恥ぢないです。」
 軽く答へて自若《じじゃく》たりき。
「何、恥ぢない。」
 といひ返して海野は眼《まなこ》を※[#「目+爭」、第3水準1-88-85]《みは》りたり。
「もう一度、屹《きっ》とやましい処はないか。」
 看護員は微笑《ほほえ》みながら、
「繰返すに及びません。」
 その信仰や極めて確乎《かっこ》たるものにてありしなり。海野は熱し詰めて拳《こぶし》を握りつ。容易《たやす》くはものも得いはで唯、唯、渠《かれ》を睨《にら》まへ詰めぬ。
 時に看護員は従容《しょうよう》、
「戦闘員とは違ひます、自分をお責めなさるんなら、赤十字社の看護員として、そしておはなしが願ひたいです。」
 いひ懸けて片頬《かたほ》笑《え》みつ。
「敵の内情を探るには、たしか軍事探偵といふのがあるはずです。一体戦闘力のないものは敵に抵抗する力がないので、遁《に》げらるれば遁げるんですが、行《や》り損なへばつかまるです。自分の職務上病傷兵を救護するには、敵だの、味方だの、日本だの、清国《しんこく》だのといふ、左様《さよう》な名称も区別もないです。唯《ただ》病傷兵のあるばかりで、その他には何にもないです。丁度《ちょうど》自分が捕虜《とりこ》になつて、敵陣にゐました間に、幸ひ依頼をうけましたから、敵の病兵を預りました。出来得る限り尽力をして、好結果を得ませんと、赤十字の名折《なおれ》になる。いや名折は構はないでもつまり職務の落度となるのです。しかしさつきもいひます通り、我軍と違つて実に可哀想だと思ひます。気の毒なくらゐ万事が不整頓で、とても手が届かないので、ややともすれば見殺しです。でもそれでは済まないので、大変に苦労をして、やうやう赤十字の看護員といふ躰面《たいめん》だけは保つことが出来ました。感謝状は先《ま》づそのしるしといつていいやうなもので、これを国への土産《みやげ》にすると、全国の社員は皆《みんな》満足に思ふです。既に自分の職務さへ、辛《かろ》うじて務めたほどのものが、何の余裕があつて、敵情を探るなんて、探偵や、斥候の職分が兼ねられます。またよしんば兼ねることが出来るにしても、それは余計なお世話であるです。今|貴下《あなた》にお談《はな》し申すことも、お検《しら》べになつて将校方にいつたことも、全くこれにちがひはないのでこのほかにいふことは知らないです。毀誉褒貶《きよほうへん》は仕方がない、逆賊でも国賊でも、それは何でもかまはないです。唯看護員でさへあれば可《いい》。しかし看護員たる躰面を失つたとでもいふことなら、弁解も致します、罪にも服します、責任も荷ふです。けれども愛国心がどうであるの、敵愾心《てきがいしん》がどうであるのと、左様《さよう》なことには関係しません。自分は赤十字の看護員です。」
 と淀《よど》みなく陳《の》べたりける。看護員のその言語には、更に抑揚と頓挫《とんざ》なかりき。

       六

 見る見る百人長は色|激《げき》して、碎《くだ》けよとばかり仕込杖を握り詰めしが、思ふこと乱麻《らんま》胸を衝《つ》きて、反駁《はんばく》の緒《いとぐち》を発見《みいだ》し得ず、小鼻と、髯《ひげ》のみ動かして、しらけ返りて見えたりける。時に一人の軍夫あり、
「畜生、好《すき》なことをいつてやがらあ。」
 声高《こわだか》に叫びざま、足疾《あしばや》に進出《すすみいで》て、看護員の傍《かたえ》に接し、その面《おもて》を覗《のぞ》きつつ、
「おい、隊長、色男の隊長、どうだ。へむ、しらばくれはよしてくれ。その悪済《わるす》ましが気に喰はねえんだい。赤十字社とか看護員とかツて、べらんめい、漢語なんかつかいやあがつて、何でえ、躰《てい》よく言抜けやうとしたつて駄目《だめ》だぜ。おいらア皆《みん》な知てるぞ、間抜《まぬけ》めい。へむ畜生、支那《チャン》の捕虜《とりこ》になるやうぢやあとても日本で色の出来ねえ奴だ。唐人《とうじん》の阿魔《あま》なんぞに惚《ほ》れられやあがつて、この合《あい》の子《こ》め、手前《てめえ》、何だとか、彼《か》だとかいふけれどな、南京《なんきん》に惚れられたもんだから、それで支那の介抱をしたり、贔負《ひいき》をしたりして、内幕を知つててもいはねえんぢやあねえか。かう、おいらの口は浄玻璃《じょうはり》だぜ。おいらあしよつちう知つてるんだ。おい皆《みんな》聞かつし、初手《しょて》はな、支那人《チャンチャン》の金満が流丸《ながれだま》を啖《くら》つて路傍《みちばた》に僵《たお》れてゐたのを、中隊長様が可愛想だつてえんで、お手当をなすつてよ、此奴《こいつ》にその家まで送らしてお遣《や》んなすつたのがはじまりだ。するとお前その支那人《チャン》を介抱して送り届けて帰りしなに、支那人の兵隊が押込むだらう。面くらいやアがつてつかまる処をな、金満の奴《やっこ》さん恩儀を思つて、無性《むしょう》に難有《ありがた》がつてる処だから、きわどい処を押隠して、やうやう人目を忍ばしたが、大勢押込むでゐるもんだから、秘《かく》しきれねえでとうどう奥の奥の奥ウの処の、女《むすめ》の部屋へ秘したのよ。ね、隠れて五日《いつか》ばかり対向《さしむか》ひでゐるあひだに、何でもその女が惚《ほ》れたんだ。無茶におツこちたと思ひねえ。五日目に支那の兵が退《ひ》いてく時つかめえられてしよびかれた。何でもその日のこつた。おいら五、六人で宿営地へ急ぐ途中、酷《ひど》く吹雪《ふぶ》く日で眼も口もあかねへ雪ン中に打倒《ぶったお》れの、半分|埋《う》まつて、ひきつけてゐた婦人《おんな》があつたい。いつて見りや支那人《チャン》の片割《かたわれ》ではあるけれど、婦人だから、ねえ、おい、構ふめえと思つて焚火《たきび》であつためて遣ると活返《いきけえ》つた李花[#「李花」に丸傍点]てえ女《むすめ》で、此奴《こいつ》がエテよ。別離苦《わかれ》に一目《ひとめ》てえんで唯《たった》一人《ひとり》駈出《かけだ》してさ、吹雪僵《ふぶきだおれ》になつたんだとよ。そりや後《あと》で分つたが、そン時あ、おいらツちが負《おぶ》つて家《うち》まで届けて遣つた。その因縁でおいらちよいちよい父親《おやじ》の何とかてえ支那の家へ出入をするから、悉《くわ》しいことを知つてるんだ。女はな、ものずきじやあねえか、この野郎が恋しいとつて、それつきり床着《とこづ》いてよ、どうだい、この頃じやもう湯も、水も通らねえツさ。父親なんざ気を揉《も》んで銃創《てっぽうきず》もまだすつかりよくならねえのに、此奴《こいつ》の音信《たより》を聞かうとつて、旅団本部へ日参《にっさん》だ。だからもう皆《みんな》がうすうす知つてるぜ。つい隊長様なんぞのお耳へ入つて、御存じだから、おい奴《やっこ》さむ。お前お検《しらべ》の時もそのお談話《はなし》をなすつたらう。ほんによ、お前がそんねえな腰抜たあ知らねえから、勿体《もってえ》ねえ、隊長様までが、ああ、可哀想だ、その女の父親とか眼を懸けて遣《つか》はせとおつしやらあ、恐しい冥伽《みょうが》だぜ。お前そんなことも思はねえで、べんべんと支那兵《チャンチャン》の介抱《かいほう》をして、お礼をもらつて、恥かしくもなく、のんこのしやあで、唯今帰つて来はどういふ了見だ。はじめに可哀想だと思つたほど、憎《にく》くてならねえ。支那《チャン》の探偵《いぬ》になるやうな奴は大和魂《やまとだましい》を知らねえ奴だ、大和魂を知らねえ奴あ日本人のなかまじやあねえぞ、日本人のなかまでなけりや支那人《チャン》も同一《おんなじ》だ。どてツ腹あ蹴破《けやぶ》つて、このわたを引ずり出して、噛潰《かみつぶ》して吐出すんだい!」
「其処《そこ》だ!」と海野は一喝《いっかつ》して、はたと卓子《ていぶる》を一打《ひとうち》せり。かかりし間《あいだ》他の軍夫は、しばしば同情の意を表して、舌者《ぜっしゃ》の声を打消すばかり、熱罵《ねつば》を極めて威嚇《いかく》しつ。
 楚歌《そか》一身に聚《あつま》りて集合せる腕力の次第に迫るにもかかはらず眉宇《びう》一点の懸念《けねん》なく、いと晴々《はればれ》しき面色《おももち》にて、渠《かれ》は春昼《しゅんちゅう》寂《せき》たる時、無聊《むりょう》に堪《た》えざるものの如く、片膝を片膝にその片膝を、また片膝に、交《かわ》る交る投懸けては、その都度《つど》靴音を立つるのみ。胸中おのづから閑ある如し。
 けだし赤十字社の元素たる、博愛のいかなるものなるかを信ずること、渠の如きにあらざるよりは、到底これ保ち得がたき度量ならずや。
「其処《そこ》だ。」と今|卓子《ていぶる》を打てる百人長は大に決する処ありけむ、屹《きっ》と看護員に立向ひて、
「無神経でも、おい、先刻《さっき》からこの軍夫のいふたことは多少耳へ入つたらうな。どうだ、衆目の見る処、貴様は国体のいかむを解さない非義、劣等、怯奴《きょうど》である、国賊である、破廉恥、無気力の人外《にんがい》である。皆《みんな》が貴様を以て日本人たる資格のないものと断定したが、どうだ。それでも良心に恥ぢないか。」
「恥ぢないです。」と看護員は声に応じて答へたり。百人長は頷《うなず》きぬ。
「可《よし》、改めていへ、名を聞かう。」
「名ですか、神崎愛三郎《かんざきあいさぶろう》。」

       七

「うむ、それでは神崎、現在ゐる、此処《ここ》は一体|何処《どこ》だと思ふか。」
 海野は太《いた》くあらたまりてさもものありげに問懸けたり。問はれて室内を※[#「目+旬」、第3水準1-88-80]《みまわ》しながら、
「左様《さよう》、何処か見覚えてゐるやうな気持もするです。」
「うむ分るまい。それが分つてゐさへすりや、口広いことはいへないわけだ。」
 顔に苔《こけ》むしたる髯《ひげ》を撫《な》でつつ、立ちはだかりたる身《み》の丈《たけ》豊かに神崎を瞰下《みお》ろしたり。
「此処はな、柳[#「柳」に丸傍点]が家だ。貴様に惚《ほ》れてゐる李花[#「李花」に丸傍点]の家だぞ。」
 今経歴を語りたりし軍夫と眼と眼を見合はして二人はニタリと微笑《ほほえ》めり。
 神崎は夢の裡《うち》なる面色《おももち》にてうつとりとその眼《まなこ》を※[#「目+爭」、第3水準1-88-85]《みは》りぬ。
「ぼんやりするない。柳[#「柳」に丸傍点]が住居だ。女《むすめ》の家だぞ。聞くことがありや何処でも聞かれるが、故《わざ》と此処ん処へ引張つて来たのには、何かわれわれに思ふ処がなければならない。その位なことは、いくら無神経な男でも分るだらう。家族は皆《みんな》追出してしまつて、李花[#「李花」に丸傍点]はわれわれの手の内のものだ。それだけ予《あらかじ》め断つて置く、可《いい》か。
 さ、断つた上でも、やつぱり看護員は看護員で、看護員だけのことをさへすれば可《いい》、むしろ他《ほか》のことはしない方が当前《あたりまえ》だ。敵情を探るのは探偵の係で、戦《たたかい》にあたるものは戦闘員に限る、いふて見れば、敵愾心《てきがいしん》を起すのは常業のない閑人《ひまじん》で、進《すすん》で国家に尽すのは好事家《ものずき》がすることだ。人は自分のすべきことをさへすれば可《いい》、われわれが貴様を責めるのも、勿論のこと、ひまだからだ、と煎《せん》じ詰めた処さういふのだな。」
 神崎は猶予《ため》らはで、
「左様《さよう》、自分は看護員です。」
 この冷かなる答を得え百人長は決意の色あり。
「しつかり聞かう、職務外のことは、何にもせんか!」
「出来ないです。余裕があれば綿繖糸《めんざんし》を造るです。」
 応答はこれにて決せり。
 百人長はいふこと尽きぬ。
 海野は悲痛の声を挙げて、
「駄目だ。殺しても何にもならない。可《よし》、いま一ツの手段を取らう。権《ごん》! 吉《きち》! 熊《くま》! 一件だ。」
 声に応じて三名の壮佼《わかもの》は群を脱して、戸口に向へり。時に出口の板戸を背にして、木像の如く突立ちたるまま両手を衣兜《かくし》にぬくめつつ、身動きもせで煙草《たばこ》をのみたる彼《か》の真黒なる人物は、靴音高く歩を転じて、渠《かれ》らを室外に出《いだ》しやりたり。三人は走り行きぬ。走り行きたる三人《みたり》の軍夫は、二人左右より両手を取り、一人|後《うしろ》より背《せな》を推《お》して、端麗《たんれい》多く世に類なき一個清国の婦人の年少《としわか》なるを、荒けなく引立て来りて、海野の傍《かたえ》に推据《おしす》へたる、李花[#「李花」に丸傍点]は病床にあれりしなる、同じ我家の内ながら、渠は深窓に養はれて、浮世の風は知らざる身の、爾《しか》くこの室に出でたるも恐らくその日が最初《はじめて》ならむ、長き病《やまい》に俤《おもかげ》窶《やつ》れて、寝衣《しんい》の姿なよなよしく、簪《かんざし》の花も萎《しぼ》みたる流罪《るざい》の天女《てんにょ》憐《あわれ》むべし。
「国賊!」
 と呼懸けつ。百人長は猿臂《えんぴ》を伸ばして美しき犠牲《いけにえ》の、白き頸《うなじ》を掻掴《かいつか》み、その面《おもて》をば仰《の》けざまに神崎の顔に押向けぬ。
 李花[#「李花」に丸傍点]は猛獣に手を取られ、毒蛇《どくじゃ》に膚《はだ》を絡《まと》はれて、恐怖の念もあらざるまで、遊魂《ゆうこん》半ば天に朝《ちょう》して、夢現の境にさまよひながらも、神崎を一目見るより、やせたる頬《ほお》をさとあかめつ。またたきもせで見詰めたりしが、俄《にわか》に総《そう》の身を震《ふる》はして、
「あ。」と一声血を絞《しぼ》れる、不意の叫声に驚きて、思はず軍夫が放てる手に、身を支えたる力を失して後居《しりい》にはたと僵《たお》れたり。
 看護員は我にもあらで衝《つ》とその椅子より座を立ちぬ。
 百人長は毛脛《けずね》をかかげて、李花[#「李花」に丸傍点]の腹部を無手《むず》と蹈《ふ》まへ、ぢろりと此方《こなた》を流眄《しりめ》に懸けたり。
「どうだ。これでも、これでも、職務外のことをせねばならない必要を感ぜんか。」
 同時に軍夫の一団はばらばらと立懸りて、李花[#「李花」に丸傍点]の手足を圧伏《おしふ》せぬ。
「国賊! これでどうだ。」
 海野はみづから手を下《お》ろして、李花[#「李花」に丸傍点]が寝衣《しんい》の袴《はかま》の裾《すそ》をびりりとばかり裂《つんざ》けり。

       八

 時に彼《か》の黒衣《こくい》長身の人物は、ハタと煙管《きせる》を取落しつ、其方《そなた》を見向ける頭巾《ずきん》の裡《うち》に一双の眼《まなこ》爛々《らんらん》たりき。
 あはれ、看護員はいかにせしぞ。
 面《おもて》の色は変へたれども、胸中無量の絶痛は、少しも挙動に露《あら》はさで、渠はなほよく静《せい》を保ち、徐《おもむ》ろにその筒服《ズボン》を払ひ、頭髪のややのびて、白き額《ひたい》に垂れたるを、左手《ゆんで》にやをら掻上《かきあ》げつつ、卓《つくえ》の上に差置きたる帽を片手に取ると斉《ひと》しく、粛然《しゅくぜん》と身を起して、
「諸君。」
 とばかり言ひすてつ。
 海野と軍夫と、軍夫と、軍夫と、軍夫と、軍夫の隙《ひま》より、真白く細き手の指の、のびつ、屈《かが》みつ、洩《も》れたるを、纔《わずか》に一目《ひとめ》見たるのみ。靴音|軽《かろ》く歩を移して、そのまま李花[#「李花」に丸傍点]に辞し去りたり。かくて五分時を経たりし後は、失望したる愛国の志士と、及びその腕力と、皆|疾《と》く室を立去りて、暗澹たる孤燈の影に、李花[#「李花」に丸傍点]のなきがらぞ蒼《あお》かりける。この時までも目を放たで直立したりし黒衣の人は、濶歩《かっぽ》坐中に動《ゆる》ぎ出《いで》て、燈火を仰ぎ李花[#「李花」に丸傍点]に俯《ふ》して、厳然として椅子に凭《よ》り、卓子《ていぶる》に片肱《かたひじ》附きて、眼光|一閃《いっせん》鉛筆の尖《さき》を透《すか》し見つ。電信用紙にサラサラと、
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 月 日  海城《かいじょう》発
予は目撃せり。
日本軍の中には赤十字の義務を完《まっとう》して、敵より感謝状を送られたる国賊あり。しかれどもまた敵愾心《てきがいしん》のために清国《てきこく》の病婦を捉《とら》へて、犯し辱《はずかし》めたる愛国の軍夫あり。委細はあとより。
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[#地より5字上げ]じよん[#「じよん」に傍線]、べるとん[#「べるとん」に傍線]
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英国ロンドン府、アワリー、テレグラフ社|編輯《へんしゅう》行
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底本:「外科室・海城発電 他五篇」岩波文庫、岩波書店
   1991(平成3)年9月17日第1刷発行
   2000(平成12)年9月5日第18刷発行
底本の親本:「鏡花全集 別巻」岩波書店
   1976(昭和50)年3月26日第1刷発行
初出:「太陽」第二巻第一号
   1896(明治29)年1月
※本文中、「恁りつ」は「凭りつ」、「※[#「目+旬」、第3水準1-88-80]」は「※[#「目+句」、第4水準2-81-91]」の誤りと思われますが、底本の通りにしました。
※「読みにくい語、読み誤りやすい語には現代仮名づかいで振り仮名を付す。」との底本の編集方針にそい、ルビの拗促音は小書きしました。
入力:門田裕志
校正:鈴木厚司
2003年8月31日作成
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