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義血侠血
泉鏡花

[表記について]
本文中、底本のルビは「《ルビ》」の形式で処理した。また、JIS外字にない外字は「※」で代用し、そのあとに[#注釈]の形式で字形などを示した。

     一

 越中|高岡《たかおか》より倶利伽羅下《くりからじた》の建場《たてば》なる石動《いするぎ》まで、四里八町が間を定時発の乗り合い馬車あり。
 賃銭の廉《やす》きがゆえに、旅客はおおかた人力車を捨ててこれに便《たよ》りぬ。車夫はその不景気を馬車会社に怨《うら》みて、人と馬との軋轢《あつれき》ようやくはなはだしきも、わずかに顔役の調和によりて、営業上|相干《あいおか》さざるを装えども、折に触れては紛乱を生ずることしばしばなりき。
 七月八日の朝、一番発の馬車は乗り合いを揃《そろ》えんとて、奴《やっこ》はその門前に鈴を打ち振りつつ、
「馬車はいかがです。むちゃに廉くって、腕車《くるま》よりお疾《はよ》うござい。さあお乗んなさい。すぐに出ますよ」
 甲走《かんばし》る声は鈴の音《ね》よりも高く、静かなる朝の街《まち》に響き渡れり。通りすがりの婀娜者《あだもの》は歩みを停《とど》めて、
「ちょいと小僧さん、石動までいくら? なに十銭だとえ。ふう、廉いね。その代わりおそいだろう」
 沢庵《たくあん》を洗い立てたるように色揚げしたる編片《アンペラ》の古帽子の下より、奴《やっこ》は猿眼《さるまなこ》を晃《きらめ》かして、
「ものは可試《ためし》だ。まあお召しなすってください。腕車よりおそかったら代は戴《いただ》きません」
 かく言ううちも渠《かれ》の手なる鈴は絶えず噪《さわ》ぎぬ。
「そんなりっぱなことを言って、きっとだね」
 奴は昂然《こうぜん》として、
「虚言《うそ》と坊主の髪《あたま》は、いったことはありません」
「なんだね、しゃらくさい」
 微笑《ほおえ》みつつ女子《おんな》はかく言い捨てて乗り込みたり。
 その年紀《としごろ》は二十三、四、姿はしいて満開の花の色を洗いて、清楚《せいそ》たる葉桜の緑浅し。色白く、鼻筋通り、眉《まゆ》に力みありて、眼色《めざし》にいくぶんのすごみを帯び、見るだに涼しき美人なり。
 これはたして何者なるか。髪は櫛巻《くしま》きに束《つか》ねて、素顔を自慢に※[#「※」は「月に因」、6-15]脂《べに》のみを点《さ》したり。服装《いでたち》は、将棊《しょうぎ》の駒《こま》を大形に散らしたる紺縮みの浴衣《ゆかた》に、唐繻子《とうじゅす》と繻珍《しゅちん》の昼夜帯をばゆるく引っ掛けに結びて、空色|縮緬《ちりめん》の蹴出《けだ》しを微露《ほのめか》し、素足に吾妻下駄《あずまげた》、絹張りの日傘《ひがさ》に更紗《さらさ》の小包みを持ち添えたり。
 挙止《とりなり》侠《きゃん》にして、人を怯《おそ》れざる気色《けしき》は、世磨《よず》れ、場慣れて、一条縄《ひとすじなわ》の繋《つな》ぐべからざる魂を表わせり。想《おも》うに渠《かれ》が雪のごとき膚《はだ》には、剳青淋漓《さっせいりんり》として、悪竜《あくりょう》焔《ほのお》を吐くにあらざれば、寡《すく》なくも、その左の腕《かいな》には、双枕《ふたつまくら》に偕老《かいろう》の名や刻みたるべし。
 馬車はこの怪しき美人をもって満員となれり。発車の号令は割るるばかりにしばらく響けり。向者《さき》より待合所の縁に倚《よ》りて、一|篇《ぺん》の書を繙《ひもと》ける二十四、五の壮佼《わかもの》あり。盲縞《めくらじま》の腹掛け、股引《ももひ》きに汚《よご》れたる白小倉の背広を着て、ゴムの解《ほつ》れたる深靴《ふかぐつ》を穿《は》き、鍔広《つばびろ》なる麦稈《むぎわら》帽子を阿弥陀《あみだ》に被《かぶ》りて、踏ん跨《また》ぎたる膝《ひざ》の間に、茶褐色《ちゃかっしょく》なる渦毛《うずげ》の犬の太くたくましきを容《い》れて、その頭を撫《な》でつつ、専念に書見したりしが、このとき鈴の音《ね》を聞くと斉《ひと》しく身を起こして、ひらりと御者台に乗り移れり。
 渠の形躯《かたち》は貴公子のごとく華車《きゃしゃ》に、態度は森厳《しんげん》にして、そのうちおのずから活溌《かっぱつ》の気を含めり。陋《いや》しげに日に※[#「※」は「禾+勿の斜め線が一本少ないものの下に黒の旧字」、7-12]《くろ》みたる面《おもて》も熟視《よくみ》れば、清※[#「※」は「目に盧」、7-12]明眉《せいろめいび》、相貌《そうぼう》秀《ひい》でて尋常《よのつね》ならず。とかくは馬蹄《ばてい》の塵《ちり》に塗《まみ》れて鞭《べん》を揚《あ》ぐるの輩《はい》にあらざるなり。
 御者は書巻を腹掛けの衣兜《かくし》に収め、革紐《かわひも》を附《つ》けたる竹根の鞭《むち》を執《と》りて、徐《しず》かに手綱を捌《さば》きつつ身構うるとき、一|輛《りょう》の人力車ありて南より来たり、疾風のごとく馬車のかたわらを掠《かす》めて、瞬《またた》く間《ひま》に一点の黒影となり畢《おわ》んぬ。
 美人はこれを望みて、
「おい小僧さん、腕車《くるま》よりおそいじゃないか」
 奴のいまだ答えざるに先だちて、御者はきと面を抗《あ》げ、かすかになれる車の影を見送りて、
「吉公、てめえまた腕車より疾《はえ》えといったな」
 奴は愛嬌《あいきょう》よく頭を掻《か》きて、
「ああ、言った。でもそう言わねえと乗らねえもの」
 御者は黙して頷《うなず》きぬ。たちまち鞭の鳴るとともに、二頭の馬は高く嘶《いなな》きて一文字に跳《は》ね出《い》だせり。不意を吃《くら》いたる乗り合いは、座に堪《たま》らずしてほとんど転《まろ》び墜《お》ちなんとせり。奔馬《ほんば》は中《ちゅう》を駈《か》けて、見る見る腕車を乗っ越したり。御者はやがて馬の足掻《あが》きを緩《ゆる》め、渠に先を越させぬまでに徐々として進行しつ。
 車夫は必死となりて、やわか後《おく》れじと焦《あせ》れども、馬車はさながら月を負いたる自家《おのれ》の影のごとく、一歩を進むるごとに一歩を進めて、追えども追えども先んじがたく、ようよう力衰え、息|逼《せま》りて、今や殪《たお》れぬべく覚ゆるころ、高岡より一里を隔つる立野《たての》の駅に来たりぬ。
 この街道《かいどう》の車夫は組合を設けて、建場建場に連絡を通ずるがゆえに、今この車夫が馬車に後《おく》れて、喘《あえ》ぎ喘ぎ走るを見るより、そこに客待ちせる夥間《なかま》の一人は、手に唾《つば》して躍《おど》り出で、
「おい、兄弟《きょうでえ》しっかりしなよ。馬車の畜生どうしてくりょう」
 やにわに対曳《さしび》きの綱を梶棒《かじぼう》に投げ懸《か》くれば、疲れたる車夫は勢いを得て、
「ありがてえ! 頼むよ」
「合点《がってん》だい!」
 それと言うまま挽《ひ》き出だせり。二人の車夫は勇ましく相呼び相応《あいこた》えつつ、にわかに驚くべき速力をもて走りぬ。やがて町はずれの狭く急なる曲がりかどを争うと見えたりしが、人力車《くるま》は無二無三に突進して、ついに一歩を抽《ぬ》きけり。
 車夫は諸声《いっせい》に凱歌《かちどき》を揚げ、勢いに乗じて二歩を抽き、三歩を抽き、ますます馳《は》せて、軽迅|丸《たま》の跳《おど》るがごとく二、三間を先んじたり。
 向者《さきのほど》は腕車を流眄《しりめ》に見て、いとも揚々たりし乗り合いの一人《いちにん》は、
「さあ、やられた!」と身を悶《もだ》えて騒げば、車中いずれも同感の色を動かして、力瘤《ちからこぶ》を握るもあり、地蹈※[#「※」は鞴のへんが革でなく韋、9-12]《じだたら》を踏むもあり、奴を叱《しっ》してしきりに喇叭《らっぱ》を吹かしむるもあり。御者は縦横に鞭を揮《ふる》いて、激しく手綱を掻《か》い繰れば、馬背の流汗|滂沱《ぼうだ》として掬《きく》すべく、轡頭《くつわづら》に噛《は》み出《い》だしたる白泡《しろあわ》は木綿《きわた》の一袋もありぬべし。
 かかるほどに車体は一上一下と動揺して、あるいは頓挫《とんざ》し、あるいは傾斜し、ただこれ風の落ち葉を捲《ま》き、早瀬の浮き木を弄《もてあそ》ぶに異ならず。乗り合いは前後に俯仰《ふぎょう》し、左右に頽《なだ》れて、片時《へんじ》も安き心はなく、今にもこの車|顛覆《くつがえ》るか、ただしはその身投げ落とさるるか。いずれも怪我《けが》は免《のが》れぬところと、老いたるは震い慄《おのの》き、若きは凝瞳《すえまなこ》になりて、ただ一秒ののちを危ぶめり。
 七、八町を競争して、幸いに別条なく、馬車は辛くも人力車を追い抽きぬ。乗り合いは思わず手を拍《う》ちて、車も憾《うご》くばかりに喝采《かっさい》せり。奴は凱歌《かちどき》の喇叭を吹き鳴らして、後《おく》れたる人力車を麾《さしまね》きつつ、踏み段の上に躍れり。ひとり御者のみは喜ぶ気色《けしき》もなく、意《こころ》を注ぎて馬を労《いたわ》り駈《か》けさせたり。
 怪しき美人は満面に笑《え》みを含みて、起伏常ならざる席に安んずるを、隣なる老人は感に堪えて、
「おまえさんどうもお強い。よく血の道が発《おこ》りませんね。平気なものだ、女丈夫《おとこまさり》だ。私《わたし》なんぞはからきし意気地《いくじ》はない。それもそのはずかい、もう五十八だもの」
 その言《ことば》の訖《お》わらざるに、車は凸凹路《でこぼこみち》を踏みて、がたくりんと跌《つまず》きぬ。老夫《おやじ》は横様に薙仆《なぎたお》されて、半ば禿《は》げたる法然頭《ほうねんあたま》はどっさりと美人の膝に枕《まくら》せり。
「あれ、あぶない!」
 と美人はその肩をしかと抱《いだ》きぬ。
 老夫はむくむく身を擡《もた》げて、
「へいこれは、これはどうもはばかり様。さぞお痛うございましたろう。御免なすってくださいましよ。いやはや、意気地はありません。これさ馬丁《べっとう》さんや、もし若い衆《しゅ》さん、なんと顛覆《ひっくりかえ》るようなことはなかろうの」
 御者は見も返らず、勢|籠《こ》めたる一鞭《べん》を加えて、
「わかりません。馬が跌きゃそれまででさ」
 老夫は眼《め》を円《まる》くして狼狽《うろた》えぬ。
「いやさ、転《ころ》ばぬ前《さき》の杖《つえ》だよ。ほんにお願いだ、気を着けておくれ。若い人と違って年老《としより》のことだ、放《ほう》り出されたらそれまでだよ。もういいかげんにして、徐々《やわやわ》とやってもらおうじゃないか。なんと皆さんどうでございます」
「船に乗れば船頭任せ。この馬車にお乗んなすった以上は、わたしに任せたものとして、安心しなければなりません」
「ええ途方もない。どうして安心がなるものか」
 呆《あき》れはてて老夫は呟《つぶや》けば、御者ははじめて顧みつ。
「それで安心ができなけりゃ、御自分の脚《あし》で歩くです」
「はいはい。それは御深切に」
 老夫は腹だたしげに御者の面《かお》を偸視《とうし》せり。
 後れたる人力車は次の建場にてまた一人を増して、後押《あとお》しを加えたれども、なおいまだ逮《およ》ばざるより、車夫らはますます発憤して、悶《もだ》ゆる折から松並み木の中ほどにて、前面《むかい》より空車《からぐるま》を挽《ひ》き来たる二人の車夫に出会いぬ。行き違いさまに、綱曳《つなひ》きは血声《ちごえ》を振り立て、
「後生だい、手を仮《か》してくんねえか。あの瓦多《がた》馬車の畜生、乗っ越さねえじゃ」
「こっとらの顔が立たねえんだ」と他の一箇《ひとり》は叫べり。
 血気事を好む徒《てあい》は、応と言うがままにその車を道ばたに棄《す》てて、総勢五人の車夫は揉《も》みに揉んで駈けたりければ、二、三町ならずして敵に逐《お》い着き、しばらくは相並びて互いに一歩を争いぬ。
 そのとき車夫はいっせいに吶喊《とっかん》して馬を駭《おど》ろかせり。馬は懾《おび》えて躍り狂いぬ。車はこれがために傾斜して、まさに乗り合いを振り落とさんとせり。
 恐怖、叫喚、騒擾《そうじょう》、地震における惨状は馬車の中《うち》に顕《あら》われたり。冷々然たるはひとりかの怪しき美人のみ。
 一身をわれに任せよと言いし御者は、風波に掀翻《きんぽん》せらるる汽船の、やがて千尋《ちひろ》の底に汨没《こつぼつ》せんずる危急に際して、蒸気機関はなお漾《よう》々たる穏波を截《き》ると異ならざる精神をもって、その職を竭《つ》くすがごとく、従容《しょうよう》として手綱を操り、競争者に後《おく》れず前《すす》まず、隙《ひま》だにあらば一躍して乗っ越さんと、睨《にら》み合いつつ推し行くさまは、この道|堪能《かんのう》の達者と覚しく、いと頼もしく見えたりき。
 されども危急の際この頼もしさを見たりしは、わずかにくだんの美人あるのみなり。他はみな見苦しくも慌《あわ》て忙《ふため》きて、あまたの神と仏とは心々に祷《いの》られき。なおかの美人はこの騒擾の間、終始御者の様子を打ち瞶《まも》りたり。
 かくて六箇《むつ》の車輪はあたかも同一《ひとつ》の軸にありて転ずるごとく、両々相並びて福岡《ふくおか》というに着けり。ここに馬車の休憩所ありて、馬に飲《みずか》い、客に茶を売るを例とすれども、今日《きょう》ばかりは素通りなるべし、と乗り合いは心々に想《おも》いぬ。
 御者はこの店頭《みせさき》に馬を駐《とど》めてけり。わが物得つと、車夫はにわかに勢いを増して、手を揮《ふ》り、声を揚《あ》げ、思うままに侮辱して駈け去りぬ。
 乗り合いは切歯《はがみ》をしつつ見送りたりしに、車は遠く一団の砂煙《すなけぶり》に裹《つつ》まれて、ついに眼界のほかに失われき。
 旅商人体《たびあきゅうどてい》の男は最も苛《いらだ》ちて、
「なんと皆さん、業肚《ごうはら》じゃございませんか。おとなげのないわけだけれど、こういう行き懸かりになってみると、どうも負けるのは残念だ。おい、馬丁《べっとう》さん、早く行《や》ってくれたまえな」
「それもそうですけれどもな、老者《おやじ》はまことにはやどうも。第一この疝《せん》に障りますのでな」
 と遠慮がちに訴うるは、美人の膝枕せし老夫《おやじ》なり。馬は群がる蠅《はえ》と虻《あぶ》との中に優々と水飲み、奴は木蔭《こかげ》の床几《しょうぎ》に大の字なりに僵《たお》れて、むしゃむしゃと菓子を吃《く》らえり。御者は框《かまち》に息《いこ》いて巻き莨《たばこ》を燻《くゆら》しつつ茶店の嚊《かか》と語《ものがた》りぬ。
「こりゃ急に出そうもない」と一人が呟《つぶや》けば、田舎《いなか》女房と見えたるがその前面《むかい》にいて、
「憎々しく落ち着いてるじゃありませんかね」
 最初の発言者《はつごんしゃ》はますます堪えかねて、
「ときに皆さん、あのとおり御者も骨を折りましたんですから、お互い様にいくらか酒手を奮《はず》みまして、もう一骨折ってもらおうじゃございませんか。どうぞ御賛成を願います」
 渠は直ちに帯佩《おびさ》げの蟇口《がまぐち》を取り出して、中なる銭を撈《さぐ》りつつ、
「ねえあなた、ここでああ惰《なま》けられてしまった日には、仏造って魂入れずでさ、冗談じゃない」
 やがて銅貨三銭をもって隗《かい》より始めつ。帽子を脱ぎてその中に入れたるを、衆人《ひとびと》の前に差し出して、渠はあまねく義捐《ぎえん》を募れり。
 あるいは勇んで躍り込みたる白銅あり。あるいはしぶしぶ捨てられたる五厘もあり。ここの一銭、かしこの二銭、積もりて十六銭五厘とぞなりにける。
 美人は片すみにありて、応募の最終なりき。隗の帽子は巡回して渠の前に着せるとき、世話人は辞《ことば》を卑《ひく》うして挨拶《あいさつ》せり。
「とんだお附《つ》き合いで、どうもおきのどく様でございます」
 美人は軽《かろ》く会釈するとともに、その手は帯の間に入りぬ。小菊にて上包みせる緋塩瀬《ひしおぜ》の紙入れを開きて、渠はむぞうさに半円銀貨を投げ出だせり。
 余所目《よそめ》に瞥《み》たる老夫はいたく驚きて面《かお》を背《そむ》けぬ、世話人は頭を掻《か》きて、
「いや、これは剰銭《おつり》が足りない。私もあいにく小《こま》かいのが……」
 と腰なる蟇口に手を掛くれば、
「いいえ、いいんですよ」
 世話人は呆《あき》れて叫びぬ。
「これだけ? 五十銭!」
 これを聞ける乗り合いは、さなきだに、何者なるか、怪しき別品と目を着けたりしに、今この散財《きれはなれ》の婦女子《おんな》に似気なきより、いよいよ底気味悪く訝《いぶか》れり。
 世話人は帽子を揺り動かして銭を鳴らしつつ、
「〆《しめ》て金六十六銭と五厘! たいしたことになりました。これなら馬は駈けますぜ」
 御者はすでに着席して出発の用意せり。世話人は酒手を紙に包みて持ち行きつ。
「おい、若い衆さん、これは皆さんからの酒手だよ。六十六銭と五厘あるのだ。なにぶんひとつ奮発してね。頼むよ」
 彼は気軽に御者の肩を拊《たた》きて、
「隊長、一晩遊べるぜ」
 御者は流眄《ながしめ》に紙包みを見遣《みや》りて空嘯《そらうそぶ》きぬ。
「酒手で馬は動きません」
 わずかに五銭六厘を懐《ふところ》にせる奴は驚きかつ惜しみて、有意的《こころありげ》に御者の面《おもて》を眺《なが》めたり。好意を無にせられたる世話人は腹立ちて、
「せっかく皆さんが下さるというのに、それじゃいらないんだね」
 車は徐々として進行せり。
「戴《いただ》く因縁がありませんから」
「そんな生意気なことを言うもんじゃない。骨折り賃だ。まあ野暮を言わずに取っときたまえてことさ」
 六十六銭五厘はまさに御者のポケットに闖入《ちんにゅう》せんとせり。渠は固《かた》く拒《こば》みて、
「思し召しはありがとうございますが、規定《きめ》の賃銭のほかに骨折り賃を戴く理由《わけ》がございません」
 世話人は推し返されたる紙包みを持ち扱いつつ、
「理由《わけ》も糸瓜《へちま》もあるものかな。お客が与《くれ》るというんだから、取っといたらいいじゃないか。こういうものを貰《もら》って済まないと思ったら、一骨折って今の腕車《くるま》を抽《ぬ》いてくれたまえな」
「酒手なんぞは戴かなくっても、十分骨は折ってるです」
 世話人は冷笑《あざわら》いぬ。
「そんなりっぱな口を※[#「※」は「口に世」、16-16]《き》いたって、約束が違や世話はねえ」
 御者はきと振り顧《かえ》りて、
「なんですと?」
「この馬車は腕車より迅《はや》いという約束だぜ」
 儼然《げんぜん》として御者は答えぬ。
「そんなお約束はしません」
「おっと、そうは言わせない。なるほど私たちにはしなかったが、この姉《ねえ》さんにはどうだい。六十六銭五厘のうち、一人で五十銭の酒手をお出しなすったのはこのかただよ。あの腕車より迅く行ってもらおうと思やこそ、こうして莫大《ばくだい》な酒手も奮《はず》もうというのだ。どうだ、先生、恐れ入ったか」
 鼻|蠢《うごめ》かして世話人は御者の背《そびら》を指もて撞《つ》きぬ。渠は一言《いちごん》を発せず、世話人はすこぶる得意なりき。美人は戯るるがごとくに詰《なじ》れり。
「馬丁さん、ほんとに約束だよ、どうしたってんだね」
 なお渠は緘黙《かんもく》せり。その唇《くちびる》を鼓動すべき力は、渠の両腕に奮いて、馬蹄《ばてい》たちまち高く挙《あ》がれば、車輪はその輻《やぼね》の見るべからざるまでに快転せり。乗り合いは再び地上の瀾《なみ》に盪《ゆ》られて、浮沈の憂《う》き目に遭《あ》いぬ。
 縦騁《しょうてい》五分間ののち、前途はるかに競争者の影を認め得たり。しかれども時遅れたれば、容易に追迫すべくもあらざりき。しこうして到着地なる石動《いするぎ》はもはや間近になれり。今にして一躍のもとに乗り越さずんば、ついに失敗《おくれ》を取らざるを得ざるべきなり。憐《あわ》れむべし過度の馳※[#「※」は「務から力をのぞいたものの下に馬」、18-1]《ちぶ》に疲れ果てたる馬は、力なげに俛《た》れたる首を聯《なら》べて、策《う》てども走れども、足は重りて地を離れかねたりき。
 何思いけん、御者は地上に下り立ちたり。乗り合いはこはそもいかにと見る間に、渠は手早く、一頭の馬を解き放ちて、
「姉さん済みませんが、ちょっと下りてください」
 乗り合いは顔を見合わせて、この謎《なぞ》を解くに苦しめり。美人は渠の言うがままに車を下れば、
「どうかこちらへ」と御者はおのれの立てる馬のそばに招きぬ。美人はますますその意を得ざれども、なお渠の言うがままに進み寄りぬ。御者はものをも言わず美人を引っ抱えて、ひらりと馬に跨《またが》りたり。
 魂消《たまげ》たるは乗り合いなり。乗り合いは実に魂消たるなり。渠らは千体仏のごとく面《おもて》を鳩《あつ》め、あけらかんと頤《おとがい》を垂れて、おそらくは画《え》にも観《み》るべからざるこの不思議の為体《ていたらく》に眼《め》を奪われたりしに、その馬は奇怪なる御者と、奇怪なる美人と、奇怪なる挙動《ふるまい》とを載せてましぐらに馳《は》せ去りぬ。車上の見物はようやくわれに復《かえ》りて響動《どよ》めり。
「いったいどうしたんでしょう」
「まず乗せ逃げとでもいうんでしょう」
「へえ、なんでございます」
「客の逃げたのが乗り逃げ。御者のほうで逃げたのだから乗せ逃げでしょう」
 例の老夫は頭を悼《ふ》り悼り呟《つぶや》けり。
「いや洒落《しゃれ》どころか。こりゃ、まあどうしてくれるつもりだ」
 不審の眉《まゆ》を※[#「※」は「てへんに賛の旧字」、19-4]《あつ》めたる前《さき》の世話人は、腕を拱《こまぬ》きつつ座中を※[#「※」は「目に句」、19-4]《みまわ》して、
「皆さん、なんと思し召す? こりゃ尋常事《ただごと》じゃありませんぜ。ばかを見たのはわれわれですよ。全く駈《か》け落ちですな。どうもあの女がさ、尋常《ただ》の鼠《ねずみ》じゃあんめえと睨《にら》んでおきましたが、こりゃあまさにそうだった。しかしいい女だ」
「私は急ぎの用を抱《かか》えている身《からだ》だから、こうして安閑《あんかん》としてはいられない。なんとこの小僧に頼んで、一匹の馬で遣《や》ってもらおうじゃございませんか。ばかばかしい、銭を出して、あの醜態《ざま》を見せられて、置き去りを吃《く》うやつもないものだ」
「全くそうでごさいますよ。ほんとに巫山戯《ふざけ》た真似《まね》をする野郎だ。小僧早く遣ってくんな」
 奴《やっこ》は途方に暮れて、曩《さき》より車の前後に出没したりしが、
「どうもおきのどく様です」
「おきのどく様は知れてらあ。いつまでこうしておくんだ。早く遣ってくれ、遣ってくれ!」
「私にはまだよく馬が動きません」
「活《い》きてるものの動かないという法があるものか」
「臀部《けつっぺた》を引《ひ》っ撲《ぱた》け引っ撲け」
 奴は苦笑いしつつ、
「そんなことを言ったっていけません。二頭|曳《び》きの車ですから、馬が一匹じゃ遣り切れません」
「そんならここで下りるから銭を返してくれ」
 腹立つ者、無理言う者、呟く者、罵《ののし》る者、迷惑せる者、乗り合いの不平は奴の一身に湊《あつ》まれり。渠はさんざんに苛《さいな》まれてついに涙ぐみ、身の措《お》き所に窮して、辛くも車の後《あと》に竦《すく》みたりき。乗り合いはますます躁《さわ》ぎて、敵手《あいて》なき喧嘩《けんか》に狂いぬ。
 御者は真一文字に馬を飛ばして、雲を霞《かすみ》と走りければ、美人は魂身に添わず、目を閉じ、息を凝らし、五体を縮めて、力の限り渠の腰に縋《すが》りつ。風は※[#「※」は「風に容の口のかわりに又」、20-11]々《しゅうしゅう》と両腋《りょうえき》に起こりて毛髪|竪《た》ち、道はさながら河《かわ》のごとく、濁流脚下に奔注《ほんちゅう》して、身はこれ虚空を転《まろ》ぶに似たり。
 渠は実に死すべしと念《おも》いぬ。しだいに風|歇《や》み、馬|駐《とど》まると覚えて、直ちに昏倒《こんとう》して正気《しょうき》を失いぬ。これ御者が静かに馬より扶《たす》け下ろして、茶店の座敷に舁《か》き入れたりしときなり。渠はこの介抱を主《あるじ》の嫗《おうな》に嘱《たの》みて、その身は息をも継《つ》かず再び羸馬《るいば》に策《むちう》ちて、もと来し路《みち》を急ぎけり。
 ほどなく美人は醒《さ》めて、こは石動の棒端《ぼうばな》なるを覚《さと》りぬ。御者はすでにあらず。渠はその名を嫗に訊《たず》ねて、金さんなるを知りぬ。その為人《ひととなり》を問えば、方正謹厳、その行ないを質《ただ》せば学問好き。

     二

 金沢なる浅野川の磧《かわら》は、宵々ごとに納涼の人出のために熱了せられぬ。この節を機として、諸国より入り込みたる野師らは、磧も狭しと見世物小屋を掛け聯《つら》ねて、猿芝居《さるしばい》、娘|軽業《かるわざ》、山雀《やまがら》の芸当、剣の刃渡り、活《い》き人形、名所の覗《のぞ》き機関《からくり》、電気手品、盲人相撲《めくらずもう》、評判の大蛇《だいじゃ》、天狗《てんぐ》の骸骨《がいこつ》、手なし娘、子供の玉乗りなどいちいち数うるに遑《いとま》あらず。
 なかんずく大評判、大当たりは、滝の白糸が水芸《みずげい》なり。太夫《たゆう》滝の白糸は妙齢一八、九の別品にて、その技芸は容色と相称《あいかな》いて、市中の人気山のごとし。されば他はみな晩景の開場なるにかかわらず、これのみひとり昼夜二回の興行ともに、その大入りは永当《えいとう》たり。
 時まさに午後一時、撃柝《げきたく》一声、囃子《はやし》は鳴りを鎮《しず》むるとき、口上は渠《かれ》がいわゆる不弁舌なる弁を揮《ふる》いて前口上を陳《の》べ了《お》われば、たちまち起こる緩絃《かんげん》朗笛の節《せつ》を履《ふ》みて、静々歩み出でたるは、当座の太夫元滝の白糸、高島田に奴元結《やっこもとゆ》い掛けて、脂粉こまやかに桃花の媚《こ》びを粧《よそお》い、朱鷺《とき》色|縮緬《ちりめん》の単衣《ひとえ》に、銀糸の浪《なみ》の刺繍《ぬい》ある水色|絽《ろ》の※※[#「※※」は「ころもへんに上 ころもへんに下」、21-15]《かみしも》を着けたり。渠はしとやかに舞台よき所に進みて、一礼を施せば、待ち構えたりし見物は声々に喚《わめ》きぬ。
「いよう、待ってました大明神《だいみょうじん》様!」
「あでやかあでやか」
「ようよう金沢|暴《あら》し!」
「ここな命取り!」
 喝采《やんや》の声のうちに渠は徐《しず》かに面《おもて》を擡《もた》げて、情を含みて浅笑せり。口上は扇を挙《あ》げて一咳《いちがい》し、
「東西! お目通りに控えさせましたるは、当座の太夫元滝の白糸にござりまする。お目見え相済みますれば、さっそくながら本芸に取り掛からせまする。最初|腕調《こてしら》べとして御覧に入れまするは、露に蝶《ちょう》の狂いを象《かたど》りまして、(花野の曙《あけぼの》)。ありゃ来た、よいよいよいさて」
 さて太夫はなみなみ水を盛りたるコップを左手《ゆんで》に把《と》りて、右手《めて》には黄白《こうはく》二面の扇子を開き、やと声|発《か》けて交互《いれちがい》に投げ上ぐれば、露を争う蝶|一双《ひとつ》、縦横上下に逐《お》いつ、逐われつ、雫《しずく》も滴《こぼ》さず翼も息《やす》めず、太夫の手にも住《とど》まらで、空に文《あや》織る練磨《れんま》の手術、今じゃ今じゃと、木戸番は濁声《だみごえ》高く喚《よば》わりつつ、外面《おもて》の幕を引き揚《あ》げたるとき、演芸中の太夫はふと外《と》の方《かた》に眼を遣《や》りたりしに、何にか心を奪われけん、はたとコップを取り落とせり。
 口上は狼狽《ろうばい》して走り寄りぬ。見物はその為損《しそん》じをどっと囃《はや》しぬ。太夫は受け住《と》めたる扇を手にしたるまま、その瞳《ひとみ》をなお外の方に凝らしつつ、つかつかと土間に下りたり。
 口上はいよいよ狼狽して、為《せ》ん方を知らざりき。見物は呆《あき》れ果てて息を斂《おさ》め、満場|斉《ひと》しく頭《こうべ》を回《めぐ》らして太夫の挙動《ふるまい》を打ち瞶《まも》れり。
 白糸は群れいる客を推し排《わ》け、掻《か》き排け、
「御免あそばせ、ちょいと御免あそばせ」
 あわただしく木戸口に走り出で、項《うなじ》を延べて目送せり。その視線中に御者体の壮佼《わかもの》あり。
 何事や起こりたると、見物は白糸の踵《あと》より、どろどろと乱れ出ずる喧擾《ひしめき》に、くだんの男は振り返りぬ。白糸ははじめてその面《おもて》を見るを得たり。渠は色白く瀟洒《いなせ》なりき。
「おや、違ってた!」
 かく独語《ひとりご》ちて、太夫はすごすご木戸を入りぬ。

     三

 夜《よ》はすでに十一時に近づきぬ。磧《かわら》は凄涼《せいりょう》として一箇《いっこ》の人影《じんえい》を見ず、天高く、露気《ろき》ひややかに、月のみぞひとり澄めりける。
 熱鬧《ねっとう》を極《きわ》めたりし露店はことごとく形を斂《おさ》めて、ただここかしこに見世物小屋の板囲いを洩《も》るる燈火《ともしび》は、かすかに宵のほどの名残《なごり》を留《とど》めつ。河《かわ》は長く流れて、向山《むこうやま》の松風静かに度《わた》る処《ところ》、天神橋の欄干に靠《もた》れて、うとうとと交睫《まどろ》む漢子《おのこ》あり。
 渠《かれ》は山に倚《よ》り、水に臨み、清風を担《にな》い、明月を戴《いただ》き、了然たる一身、蕭然《しょうぜん》たる四境、自然の清福を占領して、いと心地《ここち》よげに見えたりき。
 折から磧の小屋より顕《あら》われたる婀娜者《あだもの》あり。紺絞りの首抜きの浴衣《ゆかた》を着て、赤|毛布《ゲット》を引き絡《まと》い、身を持て余したるがごとくに歩みを運び、下駄《げた》の爪頭《つまさき》に戞々《かつかつ》と礫《こいし》を蹴遣《けや》りつつ、流れに沿いて逍遥《さまよ》いたりしが、瑠璃《るり》色に澄み渡れる空を打ち仰ぎて、
「ああ、いいお月夜だ。寝るには惜しい」
 川風はさっと渠の鬢《びん》を吹き乱せり。
「ああ、薄ら寒くなってきた」
 しかと毛布《ケット》を絡《まと》いて、渠はあたりを※[#「※」は「目に句」、24-7]《みまわ》しぬ。
「人っ子一人いやしない。なんだ、ほんとに、暑いときはわあわあ騒いで、涼しくなる時分には寝てしまうのか。ふふ、人間というものはいこじなもんだ。涼むんならこういうときじゃないか。どれ、橋の上へでも行ってみようか。人さえいなけりゃ、どこでもいい景色《けしき》なもんだ」
 渠は再び徐々として歩を移せり。
 この女は滝の白糸なり。渠らの仲間は便宜上|旅籠《はたご》を取らずして、小屋を家とせるもの寡《すく》なからず。白糸も然《さ》なり。
 やがて渠は橋に来りぬ。吾妻下駄《あずまげた》の音は天地の寂黙《せきもく》を破りて、からんころんと月に響けり。渠はその音の可愛《おかし》さに、なおしいて響かせつつ、橋の央《なかば》近く来たれるとき、やにわに左手《ゆんで》を抗《あ》げてその高髷《たかまげ》を攫《つか》み、
「ええもう重っ苦しい。ちょっうるせえ!」
 暴々《あらあら》しく引き解《ほど》きて、手早くぐるぐる巻きにせり。
「ああこれで清々した。二十四にもなって高島田に厚化粧でもあるまい」
 かくて白糸は水を聴《き》き、月を望み、夜色の幽静を賞して、ようやく橋の半ばを過ぎぬ。渠はたちまちのんきなる人の姿を認めぬ。何者かこれ、天地を枕衾《ちんきん》として露下月前に快眠せる漢子《おのこ》は、数歩のうちにありて※[#「※」は「鼻の旧字に句」、25-6]《いびき》を立てつ。
「おや! いい気なものだよ。だれだい、新じゃないか」
 囃子方《はやしかた》に新という者あり。宵より出《い》でていまだ小屋に還《かえ》らざれば、それかと白糸は間近に寄りて、男の寝顔を※[#「※」は「虎のひとあしのかわりに且、そして見」、25-9]《のぞ》きたり。
 新はいまだかくのごとくのんきならざるなり。彼ははたして新にはあらざりき。新の相貌《そうぼう》はかくのごとく威儀あるものにあらざるなり。渠は千の新を合わせて、なおかつ勝《まさ》ること千の新なるべき異常の面魂《つらだましい》なりき。
 その眉《まゆ》は長くこまやかに、睡《ねむ》れる眸子《まなじり》も凛如《りんじょ》として、正しく結びたる唇《くちびる》は、夢中も放心せざる渠が意気の俊爽《しゅんそう》なるを語れり。漆のごとき髪はやや生《お》いて、広き額《ひたい》に垂れたるが、吹き揚ぐる川風に絶えず戦《そよ》げり。
 つくづく視《なが》めたりし白糸はたちまち色を作《な》して叫びぬ。
「あら、まあ! 金さんだよ」
 欄干に眠れるはこれ余人ならず、例の乗り合い馬車の馭者《ぎょしゃ》なり。
「どうして今時分こんなところにねえ」
 渠は跫音《あしおと》を忍びて、再び男に寄り添いつつ、
「ほんとに罪のない顔をして寝ているよ」
 恍惚《こうこつ》として瞳《ひとみ》を凝らしたりしが、にわかにおのれが絡《まと》いし毛布《ケット》を脱ぎて被《き》せ懸《か》けたれども、馭者は夢にも知らで熟睡《うまいね》せり。
 白糸は欄干に腰を憩《やす》めて、しばらくなすこともあらざりしが、突然声を揚げて、
「ええひどい蚊だ」膝《ひざ》のあたりをはたと拊《う》てり。この音にや驚きけん、馭者は眼覚《めざ》まして、叭《あくび》まじりに、
「ああ、寝た。もう何時《なんどき》か知らん」
 思い寄らざりしわがかたわらに媚《なま》めける声ありて、
「もうかれこれ一時ですよ」
 馭者は愕然《がくぜん》として顧みれば、わが肩に見覚えぬ毛布《ケット》ありて、深夜の寒を護《まも》れり。
「や、毛布を着せてくだすったのは! あなた? でございますか」
 白糸は微笑《えみ》を含みて、呆《あき》れたる馭者の面《おもて》を視《み》つつ、
「夜露に打たれると体《からだ》の毒ですよ」
 馭者は黙して一礼せり。白糸はうれしげに身を進めて、
「あなた、その後は御機嫌《ごきげん》よう」
 いよいよ呆《あき》れたる馭者は少しく身を退《すさ》りて、仮初《かりそめ》ながら、狐狸変化《こりへんげ》のものにはあらずやと心ひそかに疑えり。月を浴びてものすごきまで美しき女の顔を、無遠慮に打ち眺《なが》めたる渠の眼色《めざし》は、顰《ひそ》める眉の下より異彩を放てり。
「どなたでしたか、いっこう存じません」
白糸は片頬笑《かたほえ》みて、
「あれ、情なしだねえ。私は忘れやしないよ」
「はてな」と馭者は首《こうべ》を傾けたり。
「金さん」と女はなれなれしく呼びかけぬ。
 馭者はいたく驚けり。月下の美人|生面《せいめん》にしてわが名を識《し》る。馭者たる者だれか驚かざらんや。渠は実にいまだかつて信ぜざりし狐狸《こり》の類にはあらずや、と心はじめて惑いぬ。
「おまえさんはよっぽど情なしだよ。自分の抱いた女を忘れるなんということがあるものかね」
「抱いた? 私が?」
「ああ、お前さんに抱かれたのさ」
「どこで?」
「いい所《とこ》で!」
 袖《そで》を掩《おお》いて白糸は嫣然《えんぜん》一笑せり。
 馭者は深く思案に暮れたりしが、ようよう傾けし首《こうべ》を正して言えり。
「抱いた記憶《おぼえ》はないが、なるほどどこかで見たようだ」
「見たようだもないもんだ。高岡から馬車に乗ったとき、人力車と競走《かけっくら》をして、石動《いするぎ》手前からおまえさんに抱かれて、馬上《うま》の合い乗りをした女さ」
「おお! そうだ」横手《よこで》を拍《う》ちて、馭者は大声《たいせい》を発せり、白糸はその声に驚かされて、
「ええびっくりした。ねえおまえさん、覚えておいでだろう」
「うむ、覚えとる。そうだった、そうだった」
 馭者は唇辺《しんぺん》に微笑を浮かべて、再び横手を拍てり。
「でも言われるまで憶《おも》い出さないなんざあ、あんまり不実すぎるのねえ」
「いや、不実というわけではないけれど、毎日何十人という客の顔を、いちいち覚えていられるものではない」
「それはごもっともさ。そうだけれども、馬上《うま》の合い乗りをするお客は毎日はありますまい」
「あんなことが毎日あられてたまるものか」
 二人は相見て笑いぬ。ときに数杵《すうしょ》の鐘声遠く響きて、月はますます白く、空はますます澄めり。
 白糸はあらためて馭者に向かい、
「おまえさん、金沢へは何日《いつ》、どうしてお出でなすったの?」
 四顧寥廓《しこりょうかく》として、ただ山水と明月とあるのみ。※[#「※」は「風に寥のかんむりを除いたもの」、29-3]戻《りょうれい》たる天風《てんぷう》はおもむろに馭者の毛布《ケット》を飄《ひるがえ》せり。
「実はあっちを浪人してね……」
「おやまあ、どうして?」
「これも君ゆえさ」と笑えば、
「御冗談もんだよ」と白糸は流眄《ながしめ》に見遣《みや》りぬ。
「いや、それはともかくも、話説《はなし》をせんけりゃ解《わか》らん」
 馭者は懐裡《ふところ》を捜《さぐ》りて、油紙の蒲簀莨入《かますたばこい》れを取り出だし、いそがわしく一服を喫して、直ちに物語の端を発《ひら》かんとせり。白糸は渠が吸い殻を撃《はた》くを待ちて、
「済みませんが、一服貸してくださいな」
 馭者は言下《ごんか》に莨入れとマッチとを手渡して、
「煙管が壅《つま》ってます」
「いいえ、結構」
 白糸は一吃《いっきつ》を試みぬ。はたしてその言《ことば》のごとく、煙管は不快《こころわろ》き脂《やに》の音のみして、煙《けむり》の通うこと縷《いとすじ》よりわずかなり。
「なるほどこれは壅《つま》ってる」
「それで吸うにはよっぽど力が要《い》るのだ」
「ばかにしないねえ」
 美人は紙縷《こより》を撚《ひね》りて、煙管を通し、溝泥《どぶどろ》のごとき脂に面《おもて》を皺《しわ》めて、
「こら! 御覧な、無性《ぶしょう》だねえ。おまえさん寡夫《やもめ》かい」
「もちろん」
「おや、もちろんとは御挨拶《あいさつ》だ。でも、情婦《いろ》の一人や半分《はんぶん》はありましょう」
「ばかな!」と馭者は一喝《いっかつ》せり。
「じゃないの?」
「知れたこと」
「ほんとに?」
「くどいなあ」
 渠はこの問答を忌まわしげに空嘯《そらうそぶ》きぬ。
「おまえさんの壮年《とし》で、独身《ひとりみ》で、情婦がないなんて、ほんとに男子《おとこ》の恥辱《はじ》だよ。私が似合わしいのを一人世話してあげようか」
 馭者は傲然《ごうぜん》として、
「そんなものは要《い》らんよ」
「おや、ご免なさいまし。さあ、お掃除《そうじ》ができたから、一服|戴《いただ》こう」
 白糸はまず二服を吃《きっ》して、三服目を馭者に、
「あい、上げましょう」
「これはありがとう。ああよく通ったね」
「また壅《つま》ったときは、いつでも持ってお出でなさい」
 大口|開《あ》いて馭者は心快《こころよ》げに笑えり。白糸は再び煙管を仮《か》りて、のどかに烟《けぶり》を吹きつつ、
「今の顛末《はなし》というのを聞かしてくださいな」
 馭者は頷《うなず》きて、立てりし態《すがた》を変えて、斜めに欄干に倚《よ》り、
「あのとき、あんな乱暴を行《や》って、とうとう人力車を乗っ越したのはよかったが、きゃつらはあれを非常に口惜《くや》しがってね、会社へむずかしい掛け合いを始めたのだ」
 美人は眉《まゆ》を昂《あ》げて、
「なんだってまた?」
「何もかにも理窟《りくつ》なんぞはありゃせん。あの一件を根に持って、喧嘩《けんか》を仕掛けに来たのさね」
「うむ、生意気な! どうしたい?」
「相手になると、事がめんどうになって、実は双方とも商売のじゃまになるのだ。そこで、会社のほうでは穏便《おんびん》がいいというので、むろん片手落ちの裁判だけれど、私が因果を含められて、雇を解かれたのさ」
 白糸は身に沁《し》む夜風にわれとわが身を抱《いだ》きて、
「まあ、おきのどくだったねえ」
 渠は慰むる語《ことば》なきがごとき面色《おももち》なりき。馭者は冷笑《あざわら》いて、
「なあに、高が馬方だ」
「けれどもさ、まことにおきのどくなことをしたねえ、いわば私のためだもの」
 美人は愁然として腕を拱《こまぬ》きぬ。馭者はまじめに、
「その代わり煙管の掃除をしてもらった」
「あら、冗談じゃないよ、この人は。そうしておまえさんこれからどうするつもりなの?」
「どうといって、やっぱり食う算段さ。高岡に彷徨《ぶらつ》いていたって始まらんので、金沢には士官がいるから、馬丁《べっとう》の口でもあるだろうと思って、探《さが》しに出て来た。今日《きょう》も朝から一日|奔走《かけある》いたので、すっかり憊《くたび》れてしまって、晩方|一風呂《ひとっぷろ》入《はい》ったところが、暑くて寝られんから、ぶらぶら納涼《すずみ》に出掛けて、ここで月を観《み》ていたうちに、いい心地《こころもち》になって睡《ね》こんでしまった」
「おや、そう。そうして口はありましたか」
「ない!」と馭者は頭《かしら》を掉《ふ》りぬ。
 白糸はしばらく沈吟したりしが、
「あなた、こんなことを申しちゃ生意気だけれど、お見受け申したところが、馬丁なんぞをなさるような御人体じゃないね」
 馭者は長嘆せり。
「生得《うまれ》からの馬丁でもないさ」
 美人は黙して頷《うなず》きぬ。
「愚痴《ぐち》じゃあるが、聞いてくれるか」
 わびしげなる男の顔をつくづく視《なが》めて、白糸は渠の物語るを待てり。
「私は金沢の士族だが、少し仔細《しさい》があって、幼少《ちいさい》ころに家《うち》は高岡へ引っ越したのだ。そののち私一人金沢へ出て来て、ある学校へ入っているうち、阿爺《おやじ》に亡《な》くなられて、ちょうど三年前だね、余儀なく中途で学問は廃止《やめ》さ。それから高岡へ還《かえ》ってみると、その日から稼《かせ》ぎ人というものがないのだ。私が母親を過ごさにゃならんのだ。何を言うにも、まだ書生中の体《からだ》だろう、食うほどの芸はなし、実は弱ったね。亡父《おやじ》は馬の家じゃなかったけれど、大の所好《すき》で、馬術では藩で鳴らしたものだそうだ。それだから、私も小児《こども》の時分|稽古《けいこ》をして、少しは所得《おぼえ》があるので、馬車会社へ住み込んで、馭者となった。それでまず活計《くらし》を立てているという、まことに愧《は》ずかしい次第さ。しかし、私だってまさか馬方で果てる了簡《りょうけん》でもない、目的も希望《のぞみ》もあるのだけれど、ままにならぬが浮き世かね」
 渠は茫々《ぼうぼう》たる天を仰ぎて、しばらく悵然《ちょうぜん》たりき。その面上《おもて》にはいうべからざる悲憤の色を見たり。白糸は情に勝《た》えざる声音《こわね》にて、
「そりゃあ、もうだれしも浮き世ですよ」
「うむ、まあ、浮き世とあきらめておくのだ」
「今おまえさんのおっしゃった希望《のぞみ》というのは、私たちには聞いても解《わか》りはしますまいけれど、なんぞ、その、学問のことでしょうね?」
「そう、法律という学問の修業さ」
「学問をするなら、金沢なんぞより東京のほうがいいというじゃあありませんか」
 馭者は苦笑いして、
「そうとも」
「それじゃいっそ東京へお出でなさればいいのにねえ」
「行けりゃ行くさ。そこが浮き世じゃないか」
 白糸は軽《かろ》く小|膝《ひざ》を拊《う》ちて、
「黄金《かね》の世の中ですか」
「地獄の沙汰《さた》さえ、なあ」
 再び馭者は苦笑いせり。
 白糸は事もなげに、
「じゃあなた、お出《い》でなさいな、ねえ、東京へさ。もし、腹を立っちゃいけませんよ、失礼だが、私が仕送ってあげようじゃありませんか」
 深沈なる馭者の魂も、このとき跳《おど》るばかりに動《ゆらめ》きぬ。渠は驚くよりむしろ呆れたり。呆るるよりむしろ慄《おのの》きたるなり。渠は色を変えて、この美しき魔性《ましょう》のものを睨《ね》めたりけり。さきに半円の酒銭《さかて》を投じて、他の一銭よりも吝《お》しまざりしこの美人の胆《たん》は、拾人の乗り合いをしてそぞろに寒心せしめたりき。銀貨一片に※[#「※」は「目に登」、35-6]目《とうもく》せし乗り合いよ、君らをして今夜天神橋上の壮語を聞かしめなば、肝胆たちまち破れて、血は耳に迸出《ほとばし》らん。花顔柳腰の人、そもそもなんじは狐狸《こり》か、変化《へんげ》か、魔性か。おそらくは※[#「※」は「月に因」、35-8]脂《えんし》の怪物なるべし。またこれ一種の魔性たる馭者だも驚きかつ慄けり。
 馭者は美人の意《こころ》をその面《おもて》に読まんとしたりしが、能《あた》わずしてついに呻《うめ》き出だせり。
「なんだって?」
 美人も希有《けう》なる面色《おももち》にて反問せり。
「なんだってとは?」
「どういうわけで」
「わけも何もありはしない、ただおまえさんに仕送りがしてみたいのさ」
「酔興な!」と馭者はその愚に唾《つば》するがごとく独語《ひとりご》ちぬ。
「酔興さ。私も酔興だから、おまえさんも酔興に一番《ひとつ》私の志を受けてみる気はなしかい。ええ、金さん、どうだね」
 馭者はしきりに打ち案じて、とこうの分別に迷いぬ。
「そんなに慮《かんが》えることはないじゃないか」
「しかし、縁も由縁《ゆかり》もないものに……」
「縁というのも始めは他人どうし。ここでおまえさんが私の志を受けてくだされば、それがつまり縁になるんだろうじゃありませんかね」
「恩を受ければ報《かえ》さんければならぬ義務がある。その責任が重いから……」
「それで断わるとお言いのかい。なんだねえ、報恩《おんがえし》ができるの、できないのと、そんなことを苦にするおまえさんでもなかろうじゃないか。私だって泥坊に伯父《おじ》さんがあるのじゃなし、知りもしない人を捉《つかま》えて、やたらにお金を貢《みつ》いでたまるものかね。私はおまえさんだから貢いでみたいのさ。いくらいやだとお言いでも、私は貢ぐよ。後生《ごしょう》だから貢がしてくださいよ。ねえ、いいでしょう、いいよう! うんとお言いよ。構うものかね、遠慮も何も要《い》るものじゃない。私はおまえさんの希望《のぞみ》というのが※[#「※」は「りっしんべんにはこがまえに夾」、36-13]《かな》いさえすれば、それでいいのだ。それが私への報恩《おんがえし》さ、いいじゃないか。私はおまえさんはきっとりっぱな人物《ひと》になれると想《おも》うから、ぜひりっぱな人物にしてみたくってたまらないんだもの。後生だから早く勉強して、りっぱな人物になってくださいよう」
 その音《おん》柔媚《じゅうび》なれども言々風霜を挟《さしはさ》みて、凛《りん》たり、烈たり。馭者は感奮して、両眼に熱涙を浮かべ、
「うん、せっかくのお志だ。ご恩に預かりましょう」
 渠は襟《きん》を正して、うやうやしく白糸の前に頭《かしら》を下げたり。
「なんですねえ、いやに改まってさ。そう、そんなら私の志を受けてくださるの?」
 美人は喜色満面に溢《あふ》るるばかりなり。
「お世話になります」
「いやだよ、もう金さん、そんなていねいな語《ことば》を遣《つか》われると、私は気が逼《つま》るから、やっぱり書生言葉を遣ってくださいよ。ほんとに凛々《りり》しくって、私は書生言葉は大好きさ」
「恩人に向かって済まんけれども、それじゃぞんざいな言葉を遣おう」
「ああ、それがいいんですよ」
「しかしね、ここに一つ窮《こま》ったのは、私が東京へ行ってしまうと、母親がひとりで……」
「それは御心配なく。及ばずながら私がね……」
 馭者は夢みる心地《ここち》しつつ耳を傾けたり。白糸は誠を面《おもて》に露《あら》わして、
「きっとお世話をしますから」
「いや、どうも重ね重ね、それでは実に済まん。私もこの報恩《おんがえし》には、おまえさんのために力の及ぶだけのことはしなければならんが、何かお所望《のぞみ》はありませんか」
「だからさ、私の所望はおまえさんの希望が※[#「※」は「りっしんべんにはこがまえに夾」、37-17]《かな》いさえすれば……」
「それはいかん! 自分の所望《のぞみ》を遂げるために恩を受けて、その望みを果たしたで、報恩《おんがえし》になるものではない。それはただ恩に対するところのわが身だけの義務というもので、けっして恩人に対する義務ではない」
「でも私が承知ならいいじゃありませんかね」
「いくらおまえさんが承知でも、私が不承知だ」
「おや、まあ、いやにむずかしいのね」
 かく言いつつ美人は微笑《ほほえ》みぬ。
「いや、理屈《りくつ》を言うわけではないがね、目的を達するのを報恩《おんがえし》といえば、乞食《こじき》も同然だ。乞食が銭をもらう、それで食っていく、渠らの目的は食うのだ。食っていけるからそれが方々で銭を乞《もら》った報恩《おんがえし》になるとはいわれまい。私は馬方こそするが、まだ乞食はしたくない。もとよりお志は受けたいのは山々だ。どうか、ねえ、受けられるようにして受けさしてください。すれば、私は喜んで受ける。さもなければ、せっかくだけれどお断わり申そう」
 とみには返す語《ことば》もなくて、白糸は頭《かしら》を低《た》れたりしが、やがて馭者の面《おもて》を見るがごとく見ざるがごとく※[#「※」は「虎のひとあしのかわりに且、そして見」、38-15]《うかが》いつつ、
「じゃ言いましょうか」
「うん、承ろう」と男はやや容《かたち》を正せり。
「ちっと羞《は》ずかしいことさ」
「なんなりとも」
「諾《き》いてくださるか。いずれおまえさんの身に適《かな》ったことじゃあるけれども」
「一応|聴《き》いた上でなければ、返事はできんけれど、身に適ったことなら、ずいぶん諾くさ」
 白糸は鬢《びん》の乱《おく》れを掻《か》き上げて、いくぶんの赧羞《はずか》しさを紛らわさんとせり。馭者は月に向かえる美人の姿の輝くばかりなるを打ち瞶《まも》りつつ、固唾《かたず》を嚥《の》みてその語るを待てり。白糸は始めに口籠《くちご》もりたりしが、直ちに心を定めたる気色《けしき》にて、
「処女《きむすめ》のように羞《は》ずかしがることもない、いい婆《ばばあ》のくせにさ。私の所望《のぞみ》というのはね、おまえさんにかわいがってもらいたいの」
「ええ!」と馭者は鋭く叫びぬ。
「あれ、そんなこわい顔をしなくったっていいじゃありませんか。何も内君《おかみさん》にしてくれと言うんじゃなし。ただ他人らしくなく、生涯《しょうがい》親類のようにして暮らしたいと言うんでさね」
 馭者は遅疑せず、渠の語るを追いて潔く答えぬ。
「よろしい。けっしてもう他人ではない」
 涼しき眼《め》と凛々しき眼とは、無量の意を含みて相合えり。渠らは無言の数秒の間に、不能語、不可説なる至微至妙の霊語を交えたりき。渠らが十年語りて尽くすべからざる心底の磅※[#「※」は「石に薄」、40-2]《ほうはく》は、実にこの瞬息において神会黙契されけるなり。ややありて、まず馭者は口を開きぬ。
「私は高岡の片原町《かたはらまち》で、村越欣也《むらこしきんや》という者だ」
「私は水島友といいます」
「水島友? そうしてお宅は?」
 白糸ははたと語《ことば》に塞《つま》りぬ。渠は定まれる家のあらざればなり。
「お宅はちっと窮《こま》ったねえ」
「だって、家《うち》のないものがあるものか」
「それがないのだからさ」
 天下に家なきは何者ぞ。乞食《こつじき》の徒といえども、なおかつ雨露を凌《しの》ぐべき蔭《かげ》に眠らずや。世上の例《ならい》をもってせば、この人まさに金屋に入り、瑶輿《たまのこし》に乗るべきなり。しかるを渠は無宿《やどなし》と言う。その行ないすでに奇にして、その心また奇なりといえども、いまだこの言の奇なるには如《し》かず、と馭者は思えり。
「それじゃどこにいるのだ」
「あすこさ」と美人は磧《かわら》の小屋を指させり。
 馭者はそなたを望みて、
「あすことは?」
「見世物小屋さ」と白糸は異様の微笑《えみ》を含みぬ。
「ははあ、見世物小屋とは異《かわ》っている」
 馭者は心ひそかに驚きたるなり。渠はもとよりこの女をもって良家の女子とは思い懸《が》けざりき、寡《すく》なくとも、海に山に五百年の怪物たるを看破したりけれども、見世物小屋に起き臥しせる乞食芸人の徒ならんとは、実に意表に出でたりしなり。とはいえども渠はさあらぬ体に答えたりき。白糸は渠の心を酌《く》みておのれを嘲《あざけ》りぬ。
「あんまり異《かわ》りすぎてるわね」
「見世物の三味線《しゃみせん》でも弾《ひ》いているのかい」
「これでも太夫元《たゆうもと》さ。太夫だけになお悪いかもしれない」
 馭者は軽侮《けいぶ》の色をも露《あら》わさず、
「はあ、太夫! なんの太夫?」
「無官の太夫じゃない、水芸の太夫さ。あんまり聞いておくれでないよ、面目《きまり》が悪いからさ」
 馭者はますますまじめにて、
「水芸の太夫? ははあ、それじゃこのごろ評判の……」
 かく言いつつ珍しげに女の面《おもて》を※[#「※」は「虎のひとあしのかわりに且、そして見」、41-17]《のぞ》きぬ。白糸はさっと赧《あから》む顔を背《そむ》けつつ、
「ああもうたくさん、堪忍《かに》しておくれよ」
「滝の白糸というのはおまえさんか」
 白糸は渠の語《ことば》を手もて制しつ。
「もういいってばさ!」
「うん、なるほど!」と心の問うところに答え得たる風情《ふぜい》にて、欣弥は頷《うなず》けり。白糸はいよいよ羞じらいて、
「いやだよ、もう。何がなるほどなんだね」
「非常にいい女だと聞いていたが、なるほど……」
「もういいってばさ」
 つと身を寄せて、白糸はやにわに欣弥を撞《つ》きたり。
「ええあぶねえ! いい女だからいいと言うのに、撞き飛ばすことはないじゃないか」
「人をばかにするからさ」
「ばかにするものか。実に美しい、何歳《いくつ》になるのだ」
「おまえさん何歳《いくつ》になるの?」
「私は二十六だ」
「おや六なの? まだ若いねえ。私なんぞはもう婆《ばばあ》だね」
「何歳《いくつ》さ」
「言うと愛想を尽かされるからいや」
「ばかな! ほんとに何歳だよ」
「もう婆だってば。四さ」
「二十四か! 若いね。二十歳《はたち》ぐらいかと想《おも》った」
「何か奢《おご》りましょうよ」
 白糸は帯の間より白|縮緬《ちりめん》の袱紗《ふくさ》包みを取り出だせり。解《ひら》けば一束の紙幣を紙包みにしたるなり。
「ここに三十円あります。まあこれだけ進《あ》げておきますから、家《うち》の処置《かた》をつけて、一日も早く東京へおいでなさいな」
「家《うち》の処置といって、別に金円《かね》の要《い》るようなことはなし、そんなには要らない」
「いいからお持ちなさいよ」
「全額《みんな》もらったらおまえさんが窮《こま》るだろう」
「私はまた明日《あす》入《はい》る口があるからさ」
「どうも済まんなあ」
 欣弥は受け取りたる紙幣を軽《かろ》く戴《いただ》きて懐《ふところ》にせり。時に通り懸かりたる夜稼ぎの車夫は、怪しむべき月下の密会を一瞥《いちべつ》して、
「お合い乗り、都合で、いかがで」
 渠は愚弄《ぐろう》の態度を示して、両箇《ふたり》のかたわらに立ち住《ど》まりぬ。白糸はわずかに顧眄《みかえ》りて、棄《す》つるがごとく言い放てり。
「要らないよ」
「そうおっしゃらずにお召しなすって。へへへへへ」      
「なんだね、人をばかにして。一人《いちにん》乗りに同乗《あいのり》ができるかい」
「そこはまたお話合いで、よろしいようにしてお乗んなすってください」
 おもしろ半分に※[#「※」は「夕の下に寅」、44-7]《まつわ》るを、白糸は鼻の端《さき》に遇《あしら》いて、
「おまえもとんだ苦労性だよ。他《ひと》のことよりは、早く還《かえ》って、内君《うちの》でも悦《よろこ》ばしておやんな」
 さすがに車夫もこの姉御の与《くみ》しやすからざるを知りぬ。
「へい、これははばかり様。まああなたもお楽しみなさいまし」
 渠は直ちに踵《きびす》を回《めぐ》らして、鼻唄《はなうた》まじりに行き過ぎぬ。欣弥は何思いけん、
「おい、車夫《くるまや》!」とにわかに呼び住《と》めたり。
 車夫《しゃふ》は頭《かしら》を振り向けて、
「へえ、やっばりお合い乗りですかね」
「ばか言え! 伏木《ふしき》まで行くか」
 渠の答うるに先だちて、白糸は驚きかつ怪しみて問えり。
「伏木……あの、伏木まで?」
 伏木はけだし上都《じょうと》の道、越後直江津《えちごなおえつ》まで汽船便ある港なり。欣弥は平然として、
「これからすぐに発《た》とうと思う」
「これから?!」と白糸はさすがに心《むね》を轟《とどろ》かせり。
 欣弥は頷きたりし頭《かしら》をそのまま低《た》れて、見るべき物もあらぬ橋の上に瞳《ひとみ》を凝らしつつ、その胸中は二途の分別を追うに忙しかりき。
「これからとはあんまり早急じゃありませんか。まだお話したいこともあるのだから、今夜はともかくも、ねえ」
 一面は欣弥を説き、一面は車夫に向かい、
「若い衆《しゅ》さん、済まないけれど、これを持って行っとくれよ」
 渠が紙入れを捜《さぐ》るとき、欣弥はあわただしく、
「車夫《くるまや》、待っとれ。行っちゃいかんぜ」
「あれさ、いいやね。さあ、若い衆さんこれを持って行っとくれよ」
 五銭の白銅を把《と》りて、まさに渡さんとせり。欣弥はその間《なか》に分け入りて、
「少し都合があるのだから、これから遣《や》ってくれ」
 渠は十分に決心の色を露わせり。白糸はとうていその動かす能わざるを覚《さと》りて、潔く未練を棄《す》てぬ。
「そう。それじゃ無理に留めないけれども……」
 このとき両箇《ふたり》の眼《まなこ》は期せずして合えり。
「そうしてお母《かあ》さんには?」
「道で寄って暇乞《いとまご》いをする、ぜひ高岡を通るのだから」
「じゃ町はずれまで送りましょう。若衆さん、もう一台ないかねえ」
「四、五町行きゃいくらもありまさあ。そこまでだからいっしょに召していらっしゃい」
「お巫山戯《ふざけ》でないよ」
 欣弥はすでに車上にありて、
「車夫《くるまや》、どうだろう。二人乗ったら毀《こわ》れるかなあ、この車は?」
「なあにだいじょうぶ。姉《ねえ》さんほんとにお召しなさいよ」
「構うことはない。早く乗った乗った」
 欣弥は手招けば、白糸は微笑《ほおえ》む。その肩を車夫はとんと拊《う》ちて、
「とうとう異《おつ》な寸法になりましたぜ」
「いやだよ、欣さん」
「いいさ、いいさ!」と欣弥は一笑せり。
 月はようやく傾きて、鶏声ほのかに白し。

     四

 滝の白糸は越後の国|新潟《にいがた》の産にして、その地特有の麗質を備えたるが上に、その手練の水芸は、ほとんど人間|業《わざ》を離れて、すこぶる驚くべきものなりき。さればいたるところ大入り叶《かな》わざるなきがゆえに、四方の金主《きんしゅ》は渠《かれ》を争いて、ついに例《ためし》なき莫大《ばくだい》の給金を払うに到《いた》れり。
 渠は親もあらず、同胞《はらから》もあらず、情夫《つきもの》とてもあらざれば、一切《いっさい》の収入はことごとくこれをわが身ひとつに費やすべく、加うるに、豁達豪放《かったつごうほう》の気は、この余裕あるがためにますます膨張《ぼうちょう》して、十金《じっきん》を獲《う》れば二十金《にじっきん》を散ずべき勢いをもって、得るままに撒《ま》き散らせり。これ一つには、金銭を獲るの難《かた》きを渠は知らざりしゆえなり。
 渠はまた貴族的生活を喜ばず、好みて下等社会の境遇を甘んじ、衣食の美と辺幅の修飾とを求めざりき。渠のあまりに平民的なる、その度を放越《ほうえつ》して鉄拐《てっか》となりぬ。往々見るところの女流の鉄拐は、すべて汚行と、罪業と、悪徳との養成にあらざるなし。白糸の鉄拐はこれを天真に発して、きわめて純潔清浄なるものなり。
 渠は思うままにこの鉄拐を振り舞わして、天高く、地広く、この幾歳《いくとせ》をのどかに過ごしたりけるが、いまやすなわちしからざるなり。村越欣弥は渠が然諾を信じて東京に遊学せり。高岡に住めるその母は、箸《はし》を控えて渠が饋餉《きしょう》を待てり。白糸は月々渠らを扶持すべき責任ある世帯持ちの身となれり。
 従来の滝の白糸は、まさにその放逸を縛し、その奇骨を挫《ひし》ぎて、世話女房のお友とならざるを得ざるべきなり。渠はついにその責任のために石を巻き、鉄を捩《ね》じ、屈すべからざる節を屈して、勤倹小心の婦人となりぬ。その行ないにおいてはなおかつ滝の白糸たる活気をば有《たも》ちつつ、その精神は全く村越友として経営苦労しつ。その間は実に三年《みとせ》の長きに亙《わた》れり。
 あるいは富山《とやま》に赴《おもむ》き、高岡に買われ、はた大聖寺《だいしょうじ》福井に行き、遠くは故郷の新潟に興行し、身を厭《いと》わず八方に稼《かせ》ぎ廻《まわ》りて、幸いにいずくも外《はず》さざりければ、あるいは血をも濺《そそ》がざるべからざる至重《しちょう》の責任も、その収入によりて難なく果たされき。
 されども見世物の類《たぐい》は春夏の二季を黄金期とせり。秋は漸《ようや》く寂しく、冬は霜枯れの哀れむべきを免れざるなり。いわんや北国の雪《せつ》世界はほとんど一年の三分の一を白き物の中に蟄居《ちっきょ》せざるべからざるをや。ことに時候を論ぜざる見世物と異なりて、渠の演芸はおのずから夏炉冬扇のきらいあり。その喝采《やんや》は全く暑中にありて、冬季は坐食す。
 よし渠は糊口《ここう》に窮せざるも、月々十数円の工面《くめん》は尋常手段の及ぶべきにあらざるなり。渠はいかにしてかなき袖《そで》を振りける? 魚は木に縁《よ》りて求むべからず、渠は他日の興行を質入れして前借したりしなり。
 その一年、その二年は、とにもかくにもかくのごとき算段によりて過ごしぬ。その三年ののちは、さすがに八方|塞《ふさ》がりて、融通の道も絶えなむとせり。
 翌年の初夏金沢の招魂祭を当て込みて、白糸の水芸は興行せられたりき。渠は例の美しき姿と妙なる技《わざ》とをもって、希有《けう》の人気を取りたりしかば、即座に越前福井なるなにがしという金主|附《つ》きて、金沢を打ち揚げしだい、二箇月間三百円にて雇わんとの相談は調《ととの》いき。
 白糸は諸方に負債ある旨を打ち明けて、その三分の二を前借し、不義理なる借金を払いて、手もとに百余円を剰《あま》してけり。これをもってせば欣弥|母子《おやこ》が半年の扶持に足るべしとて、渠は顰《ひそ》みたりし愁眉《しゅうび》を開けり。
 されども欣弥は実際半年間の仕送りを要せざるなり。
 渠の希望《のぞみ》はすでに手の達《とど》くばかりに近づきて、わずかにここ二、三箇月を支《ささ》うるを得ば足れり。無頓着《むとんじゃく》なる白糸はただその健康を尋ぬるのみに安んじて、あえてその成業の期を問わず、欣弥もまたあながちこれを告げんとは為《な》さざりき。その約に負《そむ》かざらんことを虞《おそ》るる者と、恩中に恩を顧みざる者とは、おのおのその務むべきところを務むるに専《もっぱら》なりき。
 かくて翌日まさに福井に向かいて発足すべき三日目の夜の興行を※[#「※」は「門のなかに癸」、49-13]《お》わりたりしは、一時に垂《なんな》んとするころなりき。白昼《ひるま》を欺くばかりなりし公園内の万燈《まんどう》は全く消えて、雨催《あまもよい》の天《そら》に月はあれども、四面|※※[#「※※」は「さんずいに翁 さんずいに勃の偏」、49-15]《おうぼつ》として煙《けぶり》の布《し》くがごとく、淡墨《うすずみ》を流せる森のかなたに、たちまち跫音《あしおと》の響きて、がやがやと罵《ののし》る声せるは、見世物師らが打ち連れ立ちて公園を引き払うにぞありける。この一群れの迹《あと》に残りて語合《かたら》う女あり。
「ちょいと、お隣の長松《ちょうまつ》さんや、明日《あした》はどこへ行きなさる?」
 年増《としま》の抱《いだ》ける猿《さる》の頭を撫《な》でて、かく訊《たず》ねしは、猿芝居と小屋を並べし轆轤首《ろくろくび》の因果娘なり。
「はい、明日は福井まで参じます」
 年増は猿に代わりて答えぬ。轆轤首は愛想よく、
「おおおお、それはまあ遠い所へ」
「はい、ちと遠方でございますと言いなよ。これ、長松、ここがの、金沢の兼六園といって、百万石のお庭だよ。千代公《ちょんこ》のほうは二度目だけれど、おまえははじめてだ。さあよく見物しなよ」
 渠は抱《いだ》きし猿を放ち遣《や》りぬ。
 折からあなたの池のあたりに、マッチの火のぱっと燃えたる影に、頬被《ほおかぶ》りせる男の顔は赤く顕《あら》われぬ。黒き影法師も両三箇《ふたつみつ》そのかたわらに見えたりき。因果娘は偸視《すかしみ》て、
「おや、出刃打ちの連中があすこに憩《やす》んでいなさるようだ」
「どれどれ」と見向く年増の背後《うしろ》に声ありて、
「おい、そろそろ出掛けようぜ」
 旅装束したる四、五人の男は二人のそばに立ち住《ど》まりぬ。年増は直ちに猿を抱き取りて、
「そんなら、姉《ねえ》さん」
「参りましょうかね」
 両箇《ふたり》の女は渠らとともに行きぬ。続きて一団また一団、大蛇《だいじゃ》を籠《かご》に入れて荷《にな》う者と、馬に跨《またが》りて行く曲馬芝居の座頭《ざがしら》とを先に立てて、さまざまの動物と異形の人類が、絡繹《らくえき》として森蔭《もりかげ》に列を成せるその状《さま》は、げに百鬼夜行一幅の活図《かっと》なり。
 ややありて渠らはみな行き尽くせり。公園は森邃《しんすい》として月色ますます昏《くら》く、夜はいまや全くその死寂に眠れるとき、※[#「※」は「谷に含」、51-6]谺《こだま》に響き、水に鳴りて、魂消《たまぎ》る一声《ひとこえ》、
「あれえ!」

     五

 水は沈濁して油のごとき霞《かすみ》が池《いけ》の汀《みぎわ》に、生死も分かず仆《たお》れたる婦人あり。四|肢《し》を弛《ゆる》めて地《つち》に領伏《ひれふ》し、身動きもせでしばらく横たわりたりしが、ようよう枕《まくら》を返して、がっくりと頭《かしら》を俛《た》れ、やがて草の根を力におぼつかなくも立ち起《あ》がりて、※[#「※」は「あしへんに禹」、51-12]《よろめ》く体《たい》をかたわらなる露根松《ねあがりまつ》に辛《から》くも支《ささ》えたり。
 その浴衣《ゆかた》は所々引き裂け、帯は半ば解《ほど》けて脛《はぎ》を露《あら》わし、高島田は面影を留《とど》めぬまでに打ち頽《くず》れたり。こはこれ、盗難に遇《あ》えりし滝の白糸が姿なり。
 渠はこの夜の演芸を※[#「※」は「門のなかに癸」、51-16]《お》わりしのち、連日の疲労一時に発して、楽屋の涼しき所に交睫《まどろ》みたりき。一座の連中は早くも荷物を取|纏《まと》めて、いざ引き払わんと、太夫《たゆう》の夢を喚《よ》びたりしに、渠は快眠を惜しみて、一足先に行けと現《うつつ》に言い放ちて、再び熟睡せり。渠らは豪放なる太夫の平常《へいぜい》を識《し》りければ、その言うままに捨て置きて立ち去りけるなり。
 程《ほど》経て白糸は目覚《めざ》ましぬ。この空小屋《あきごや》のうちに仮寝《うたたね》せし渠の懐《ふところ》には、欣弥が半年の学資を蔵《おさ》めたるなり。されども渠は危うかりしとも思わず、昼の暑さに引き替えて、涼しき真夜中の幽静《しずか》なるを喜びつつ、福井の金主が待てる旅宿に赴《おもむ》かんとて、これまで来たりけるに、ばらばらと小蔭より躍《おど》り出ずる人数《にんず》あり。
 みなこれ屈竟《くっきょう》の大男《おおおのこ》、いずれも手拭《てぬぐ》いに面《おもて》を覆《つつ》みたるが五人ばかり、手に手に研《と》ぎ澄ましたる出刃庖丁《でばぼうちょう》を提《ひさ》げて、白糸を追っ取り巻きぬ。
 心剛《こころたしか》なる女なれども、渠はさすがに驚きて佇《たたず》めり。狼藉者《ろうぜきもの》の一個《ひとり》は濁声《だみごえ》を潜めて、
「おう、姉《ねえ》さん、懐中《ふところ》のものを出しねえ」
「じたばたすると、これだよ、これだよ」
 かく言いつつ他の一個《ひとり》はその庖丁を白糸の前に閃《ひらめ》かせば、四|挺《ちょう》の出刃もいっせいに晃《きらめ》きて、女の眼《め》を脅かせり。
 白糸はすでにその身は釜中《ふちゅう》の魚たることを覚悟せり。心はいささかも屈せざれども、力の及ぶべからざるをいかにせん。進みて敵すべからず、退きては遁《のが》るること難《かた》し。
 渠はその平生《へいぜい》においてかつて百金を吝《お》しまざるなり。されども今夜|懐《ふところ》にせる百金は、尋常一様の千万金に直《あたい》するものにして、渠が半身の精血とも謂《い》っつべきなり。渠は換えがたく吝しめり。今ここにこれを失わんか、渠はほとんど再びこれを獲《う》るの道あらざるなり。されども渠はついに失わざるべからざるか、豪放|豁達《かったつ》の女丈夫も途方に暮れたりき。
「何をぐずぐずしてやがるんで! サッサと出せ、出せ」
 白糸は死守せんものと決心せり。渠の唇《くちびる》は黒くなりぬ。彼の声はいたく震いぬ。
「これは与《や》られないよ」
「与《く》れなけりゃ、ふんだくるばかりだ」
「遣《や》っつけろ、遣っつけろ!」
 その声を聞くとひとしく、白糸は背後《うしろ》より組み付かれぬ。振り払わんとする間もあらで、胸も挫《ひし》ぐるばかりの翼緊《はがいじ》めに遭《あ》えり。たちまち暴《あら》くれたる四隻《よつ》の手は、乱雑に渠の帯の間と内懐とを撈《かきさが》せり。
「あれえ!」と叫びて援《すく》いを求めたりしは、このときの血声なりき。
「あった、あった」と一個《ひとり》の賊は呼びぬ。
「あったか、あったか」と両三人の声は※[#「※」は「應の心のかわりに言」、53-13]《こた》えぬ。
 白糸は猿轡《さるぐつわ》を吃《はま》されて、手取り足取り地上に推し伏せられつ。されども渠は絶えず身を悶《もだ》えて、跋《は》ね覆《か》えさんとしたりしなり。にわかに渠らの力は弛《ゆる》みぬ。虚《すか》さず白糸は起き復《かえ》るところを、はたと※[#「※」は「あしへんに易」、53-16]仆《けたお》されたり。賊はその隙《ひま》に逃げ失《う》せて行くえを知らず。
 惜しみても、惜しみてもなお余りある百金は、ついに還《かえ》らざるものとなりぬ。白糸の胸中は沸くがごとく、焚《も》ゆるがごとく、万感の心《むね》を衝《つ》くに任せて、無念|已《や》む方なき松の下蔭《したかげ》に立ち尽くして、夜の更《ふ》くるをも知らざりき。
「ああ、しかたがない、何も約束だと断念《あきら》めるのだ。なんの百ぐらい! 惜しくはないけれど、欣さんに済まない。さぞ欣さんが困るだろうねえ。ええ、どうしよう、どうしたらよかろう?!」
 渠はひしとわが身を抱《いだ》きて、松の幹に打ち当てつ。ふとかたわらを見れば、漾々《ようよう》たる霞が池は、霜の置きたるように微黯《ほのぐら》き月影を宿せり。
 白糸の眼色《めざし》はその精神の全力を鍾《あつ》めたるかと覚しきばかりの光を帯びて、病めるに似たる水の面《おも》を屹《き》と視《み》たり。
「ええ、もうなんともかとも謂《い》えないいやな心地《こころもち》だ。この水を飲んだら、さぞ胸が清々するだろう! ああ死にたい。こんな思いをするくらいなら死んだほうがましだ。死のう! 死のう!」
 渠は胸中の劇熱を消さんがために、この万斛《ばんこく》の水をば飲み尽くさんと覚悟せるなり。渠はすでに前後を忘じて、一心死を急ぎつつ、蹌踉《よろよろ》と汀《みぎわ》に寄れば、足下《あしもと》に物ありて晃《きらめ》きぬ。思わず渠の目はこれに住《とど》まりぬ。出刃庖丁なり! 
 これ悪漢が持てりし兇器《きょうき》なるが、渠らは白糸を手籠《てご》めにせしとき、かれこれ悶着《もんちゃく》の間に取り遺《おと》せしを、忘れて捨て行きたるなり。
 白糸はたちまち慄然《りつぜん》として寒さを感《おぼ》えたりしが、やがて拾い取りて月に翳《かざ》しつつ、
「これを証拠に訴えれば手掛かりがあるだろう。そのうちにはまたなんとか都合もできよう。……これは今死ぬのは。……」
 この証拠物件を獲《え》たるがために、渠はその死を思い遏《とどま》りて、いちはやく警察署に赴かんと、心変わればいまさら忌まわしきこの汀《みぎわ》を離れて、渠は推し仆《たお》されたりしあたりを過ぎぬ。無念の情は勃然《ぼつぜん》として起これり。繊弱《かよわ》き女子《おんな》の身なりしことの口惜《くちお》しさ!  男子《おとこ》にてあらましかばなど、言い効《がい》もなき意気地《いくじ》なさを憶《おも》い出でて、しばしはその恨めしき地を去るに忍びざりき。
 渠は再び草の上に一物《あるもの》を見出だせり。近づきてとくと視れば、浅葱地《あさぎじ》に白く七宝|繋《つな》ぎの洗い晒《ざら》したる浴衣《ゆかた》の片袖《かたそで》にぞありける。
 またこれ賊の遺物なるを白糸は暁《さと》りぬ。けだし渠が狼藉《ろうぜき》を禦《ふせ》ぎし折に、引き断《ちぎ》りたる賊の衣《きぬ》の一片なるべし。渠はこれをも拾い取り、出刃を裹《つつ》みて懐中《ふところ》に推し入れたり。
 夜はますます闌《た》けて、霄《そら》はいよいよ曇りぬ。湿りたる空気は重く沈みて、柳の葉末も動かざりき。歩むにつれて、足下《あしもと》の叢《くさむら》より池に跋《は》ね込む蛙《かわず》は、礫《つぶて》を打つがごとく水を鳴らせり。
 行く行く項《うなじ》を低《た》れて、渠は深くも思い悩みぬ。
「だが、警察署へ訴えたところで、じきにあいつらが捕《つかま》ろうか。捕ったところで、うまく金子《かね》が戻るだろうか。あぶないものだ。そんなことを期《あて》にしてぐずぐずしているうちには、欣さんが食うに窮《こま》ってくる。私の仕送りを頼みにしている身の上なのだから、お金が到《い》かなかった日には、どんなに窮るだろう。はてなあ! 福井の金主のほうは、三百円のうち二百円前借りをしたのだから、まだ百円というものはあるのだ。貸すだろうか、貸すまい。貸さない、貸さない、とても貸さない! 二百円のときでもあんなに渋ったのだ。けれども、こういう事情《わけ》だとすっかり打ち明けて、ひとつ泣き付いてみようかしらん。だめなことだ、あの老爺《おやじ》だもの。のべつに小癪《こしゃく》に障《さわ》ることばっかり陳《なら》べやがって、もうもうほんとに顔を見るのもいやなんだ。そのくせまた持ってるのだ! どうしたもんだろうなあ。ああ、窮った、窮った。やっぱり死ぬのか。死ぬのはいいが、それじゃどうも欣さんに義理が立たない。それが何より愁《つら》い! といって才覚のしようもなし。……」
 陰々として鐘声の度《わた》るを聞けり。
「もう二時だ。はてなあ!」
 白糸は思案に余って、歩むべき力も失せつ。われにもあらで身を靠《もた》せたるは、未央柳《びおうりゅう》の長く垂《た》れたる檜《ひのき》の板塀《いたべい》のもとなりき。
 こはこれ、公園地内に六勝亭《ろくしょうてい》と呼べる席貸《せきが》しにて、主翁《あるじ》は富裕の隠居なれば、けっこう数寄《すき》を尽くして、営業のかたわらその老いを楽しむところなり。
 白糸が佇《たたず》みたるは、その裏口の枝折《しおり》門の前なるが、いかにして忘れたりけむ、戸を鎖《さ》さでありければ、渠が靠《もた》るるとともに戸はおのずから内に啓《ひら》きて、吸い込むがごとく白糸を庭の内にぞ引き入れたる。
 渠はしばらく惘然《ぼうぜん》として佇みぬ。その心には何を思うともなく、きょろきょろとあたりを※[#「※」は「目に句」、57-4]《みまわ》せり。幽寂に造られたる平庭を前に、縁の雨戸は長く続きて、家内は全く寝鎮《ねしず》まりたる気勢《けはい》なり。白糸は一歩を進め、二歩を進めて、いつしか「寂然の森《しげり》」を出でて、「井戸囲い」のほとりに抵《いた》りぬ。
 このとき渠は始めて心着きて驚けり。かかる深夜に人目を窃《ぬす》みて他の門内に侵入するは賊の挙動《ふるまい》なり。われははからずも賊の挙動をしたるなりけり。
 ここに思い到《いた》りて、白糸はいまだかつて念頭に浮かばざりし盗《とう》というなる金策の手段あるを心着きぬ。ついで懐なる兇器に心着きぬ。これ某《なにがし》らがこの手段に用いたりし記念《かたみ》なり。白糸は懐に手を差し入れつつ、頭《かしら》を傾けたり。
 良心は疾呼《しっこ》して渠を責めぬ。悪意は踴躍《ゆうやく》して渠を励ませり。渠は疾呼の譴責《けんせき》に遭《あ》いては慚悔《ざんかい》し、また踴躍の教峻を受けては然諾せり。良心と悪意とは白糸の恃《たの》むべからざるを知りて、ついに迭《たが》いに闘《たたか》いたりき。
「道ならないことだ。そんな真似《まね》をした日には、二度と再び世の中に顔向けができない。ああ、恐ろしいことだ、……けれども才覚ができなければ、死ぬよりほかはない。この世に生きていないつもりなら、羞汚《はじ》も顔向けもありはしない。大それたことだけれども、金は盗《と》ろう。盗ってそうして死のう死のう!」
 かく思い定めたれども、渠の良心はけっしてこれを可《ゆる》さざりき。渠の心は激動して、渠の身は波に盪《ゆら》るる小舟《おぶね》のごとく、安んじかねて行きつ、還《もど》りつ、塀ぎわに低徊《ていかい》せり。ややありて渠は鉢前《はちまえ》近く忍び寄りぬ。されどもあえて曲事《くせごと》を行なわんとはせざりしなり。渠《かれ》は再び沈吟せり。
 良心に逐《お》われて恐惶《きょうこう》せる盗人は、発覚を予防すべき用意に遑《いとま》あらざりき。渠が塀ぎわに徘徊《はいかい》せしとき、手水口《ちょうずぐち》を啓《ひら》きて、家内の一個《ひとり》は早くすでに白糸の姿を認めしに、渠は鈍《おぞ》くも知らざりけり。
 鉢前の雨戸は不意に啓きて、人は面《おもて》を露《あら》わせり。白糸あなやと飛び退《すさ》る遑《ひま》もなく、
「偸児《どろぼう》!」と男の声は号《さけ》びぬ。
 白糸の耳には百雷の一時に落ちたるごとく轟《とどろ》けり。精神錯乱したるその瞬息に、懐なりし出刃は渠の右手《めて》に閃《ひらめ》きて、縁に立てる男の胸をば、柄《つか》も透《とお》れと貫きたり。
 戸を犇《ひしめ》かして、男は打ち僵《たお》れぬ。朱《あけ》に染みたるわが手を見つつ、重傷《いたで》に唸《うめ》く声を聞ける白糸は、戸口に立ち竦《すく》みて、わなわなと顫《ふる》いぬ。
 渠はもとより一点の害心だにあらざりしなり。われはそもそもいかにしてかかる不敵の振舞《ふるまい》をなせしかを疑いぬ。見れば、わが手は確かに出刃を握れり。その出刃は確かに男の胸を刺しけるなり。胸を刺せしによりて、男は殪《たお》れたるなり。されば人を殺せしはわれなり、わが手なりと思いぬ。しかれども白糸はわが心に、わが手に、人を殺せしを覚えざりしなり。渠は夢かと疑えり。
「全く殺したのだ。こりゃ、まあ大変なことをした! どういう気で私はこんなことをしたろう?」
 白糸は心乱れて、ほとんどその身を忘れたる背後《うしろ》に、
「あなた、どうなすった?」
 と聞こゆるは寝惚《ねぼ》れたる女の声なり。白糸は出刃を隠して、きっとそなたを見遣《みや》りぬ。
 灯影《ひかげ》は縁を照らして、跫音《あしおと》は近づけり。白糸はひたと雨戸に身を寄せて、何者か来たると※[#「※」は「虎のひとあしのかわりに且、そして見」、59-9]《うかが》いぬ。この家の内儀なるべし。五十ばかりの女は寝衣姿《ねまきすがた》のしどけなく、真鍮《しんちゅう》の手燭《てしょく》を翳《かざ》して、覚めやらぬ眼を※[#「※」は「目に争の旧字」、59-10]《みひら》かんと面《おもて》を顰《ひそ》めつつ、よたよたと縁を伝いて来たりぬ。死骸《しがい》に近づきて、それとも知らず、
「あなた、そんな所《とこ》に寝て……どうなすっ。……」
 燈《あかし》を差し向けて、いまだその血に驚く遑《いとま》あらざるに、
「静かに!」と白糸は身を露わして、庖丁を衝《つ》き付けたり。
 内儀は賊の姿を見るより、ペったりと膝《ひざ》を折り敷き、その場に打ち俯《ふ》して、がたがたと慄《ふる》いぬ。白糸の度胸はすでに十分定まりたり。
「おい、内君《おかみさん》、金を出しな。これさ、金を出せというのに」
 俯して答《いら》えなき内儀の項《うなじ》を、出刃にてぺたぺたと拍《たた》けり。内儀は魂魄《たましい》も身に添わず、
「は、は、はい、はい、は、はい」
「さあ、早くしておくれ。たんとは要《い》らないんだ。百円あればいい」
 内儀はせつなき呼吸《いき》の下より、
「金子《かね》はあちらにありますから。……」
「あっちにあるならいっしょに行こう。声を立てると、おいこれだよ」
 出刃庖丁は内儀の頬《ほお》を見舞えり。渠はますます恐怖して立つ能《あた》わざりき。
「さあ早くしないかい」
「た、た、た、ただ……いま」
 渠は立たんとすれども、その腰は挙《あ》がらざりき。されども渠はなお立たんと焦《あせ》りぬ。腰はいよいよ挙がらず。立たざればついに殺されんと、渠はいとど慌《あわ》てつ、悶《もだ》えつ、辛くも立ち起がりて導けり。二間《ふたま》を隔つる奥に伴いて、内儀は賊の需《もと》むる百円を出だせり。白糸はまずこれを収めて、
「内君、いろいろなことを言ってきのどくだけれど、私の出たあとで声を立てるといけないから、少しの間だ、猿轡《さるぐつわ》を箝《は》めてておくれ」
 渠は内儀を縛《いまし》めんとて、その細帯を解かんとせり。ほとんど人心地《ひとごこち》あらざるまでに恐怖したりし主婦《あるじ》は、このときようよう渠の害心あらざるを知るより、いくぶんか心落ちいつつ、はじめて賊の姿をば認め得たりしなり。こはそもいかに! 賊は暴《あら》くれたる大の男《おのこ》にはあらで、軆度《とりなり》優しき女子《おんな》ならんとは、渠は今その正体を見て、与《くみ》しやすしと思えば、
「偸児《どろぼう》!」と呼び懸《か》けて白糸に飛び蒐《かか》りつ。
 自糸は不意を撃たれて驚きしが、すかさず庖丁の柄《え》を返して、力任せに渠の頭を撃てり。渠は屈せず、賊の懐に手を捻《ね》じ込みて、かの百円を奪い返さんとせり。白糸はその手に咬《か》み着き、片手には庖丁振り抗《あ》げて、再び柄をもて渠の脾腹《ひばら》を吃《くら》わしぬ。
「偸児! 人殺し!」と地蹈鞴《じだたら》を踏みて、内儀はなお暴《あら》らかに、なおけたたましく、
「人殺し! 人殺しだ!」と血声を絞りぬ。
 これまでなりと観念したる白糸は、持ちたる出刃を取り直し、躍り狂う内儀の吭《のんど》を目懸《めが》けてただ一突きと突きたりしに、覘《ねら》いを外《はず》して肩頭《かたさき》を刎《は》ね斫《き》りたり。
 内儀は白糸の懐に出刃を裹《つつ》みし片袖を撈《さぐ》り得《あ》てて、引っ掴《つか》みたるまま遁《のが》れんとするを、畳み懸けてその頭《かしら》に斫《き》り着けたり。渠はますます狂いて再び喚《わめ》かんとしたりしかば、白糸は触《あた》るを幸いめった斫《ぎ》りにして、弱るところを乳の下深く突き込みぬ。これ実に最後の一撃なりけるなり。白糸は生まれてよりいまだかばかりおびただしき血汐《ちしお》を見ざりき。一坪の畳は全く朱《あけ》に染みて、あるいは散り、あるいは迸《ほとばし》り、あるいはぽたぽたと滴《したた》りたる、その痕《あと》は八畳の一間にあまねく、行潦《にわたずみ》のごとき唐紅《からくれない》の中に、数箇所の傷を負いたる内儀の、拳《こぶし》を握り、歯を噛《く》い緊《し》めてのけざまに顛覆《うちかえ》りたるが、血塗《ちまぶ》れの額越《ひたいご》しに、半ば閉じたる眼《まなこ》を睨《にら》むがごとく凝《す》えて、折もあらばむくと立たんずる勢いなり。
 白糸は生まれてより、いまだかかる最期《さいご》の愴惻《あさましき》を見ざりしなり。かばかりおびただしき血汐! かかるあさましき最期! こはこれ何者の為業《しわざ》なるぞ。ここに立てるわが身のなせし業なり。われながら恐ろしきわが身かな、と白糸は念《おも》えり。渠の心は再び得堪《えた》うまじく激動して、その身のいまや殺されんとするを免《のが》れんよりも、なお幾層の危うき、恐ろしき想《おも》いして、一秒もここにあるにあられず、出刃を投げ棄《す》つるより早く、あとをも見ずしていっさんに走り出ずれば、心急《こころせ》くまま手水口の縁に横たわる躯《むくろ》のひややかなる脚《あし》に跌《つまず》きて、ずでんどうと庭前《にわさき》に転《まろ》び墜《お》ちぬ。渠は男の甦《よみがえ》りたるかと想いて、心も消え消えに枝折門まで走れり。
 風やや起こりて庭の木末《こずえ》を鳴らし、雨はぽっつりと白糸の面《おもて》を打てり。

     六

 高岡|石動《いするぎ》間の乗り合い馬車は今ぞ立野《たての》より福岡までの途中にありて走れる。乗客の一個《ひとり》は煙草火《たばこび》を乞《か》りし人に向かいて、雑談の口を開きぬ。
「あなたはどちらまで? へい、金沢へ、なるほど、御同様に共進会でございますか」
「さようさ、共進会も見ようと思いますが、ほかに少し。……」
 渠《かれ》は話好きと覚しく、
「ヘへ、何か公務《おつとめむき》の御用で」
 その人は髭《ひげ》を貯《たくわ》えて、洋服を着けたるより、渠《かれ》はかく言いしなるべし。官吏?は吸い窮《つ》めたる巻煙草を車の外に投げ棄《す》て、次いで忙《いそが》わしく唾《つば》吐きぬ。
「実は明日《あす》か、明後日《あさって》あたり開くはずの公判を聴《き》こうと思いましてね」
「へへえ、なるほど、へえ」
 渠はその公判のなんたるを知らざるがごとし。かたわらにいたる旅商人《たびあきゅうど》は、卒然|我《われ》は顔《がお》に喙《くちばし》を容《い》れたり。
「ああ、なんでございますか。この夏公園で人殺しをした強盗の一件?」
 髭ある人は眼《まなこ》を「我は顔」に転じて、
「そう。知っておいでですか」
「話には聞いておりますが、詳細事《くわしいこと》は存じませんで。じゃあの賊は逮捕《つかま》りましてすか」
 話を奪われたりし前の男も、思い中《あた》る筋やありけん、
「あ、あ、あ、ひとしきりそんな風説《うわさ》がございましたっけ。有福《かねもち》の夫婦を斬《き》り殺したとかいう……その裁判があるのでございますか」
 髭は再びこなたを振り向きて、
「そう、ちょっとおもしろい裁判でな」
 渠は話児《はなし》を釣るべき器械なる、渠が特有の「へへえ」と「なるほど」とを用いて、しきりにその顛末《てんまつ》を聞かんとせり。乙者《おつ》も劣らず水を向けたりき。髭ある人の舌本《ぜっぽん》はようやく軟《やわら》ぎぬ。
「賊はじきにその晩|捕《や》られた」
「こわいものだ!」と甲者《こう》は身を反《そ》らして頭《かしら》を掉《ふ》りぬ。
「あの、それ、南京《ナンキン》出刃打ちという見世物な、あの連中の仕事だというのだがね」
 乙者《おつ》は直ちにこれに応ぜり。
「南京出刃打ち? いかさま、見たことがございました。あいつらが? ふうむ。ずいぶん遣《や》りかねますまいよ」
「その晩橋場の交番の前を怪しい風体のやつが通ったので、巡査が咎《とが》めるとこそこそ遁《に》げ出したから、こいつ胡散《うさん》だと引っ捉《とら》えて見ると、着ている浴衣《ゆかた》の片袖《かたそで》がない」
 談ここに到《いた》りて、甲と乙とは、思わず同音に嗟《うめ》きぬ。乗り合いは弁者の顔を※[#「※」は「虎のひとあしのかわりに且、そして見」、64-11]《うかが》いて、その後段を渇望せり。
 甲者は重ねて感嘆の声を発して、
「おもしろい! なるほど。浴衣の片袖がない! 天も……なんとやらで、なんとかして漏らさず……ですな」
 弁者はこの訛言《かたこと》をおかしがりて、
「天網恢々《てんもうかいかい》疎にして漏らさずかい」
 甲者は聞くより手を抗《あ》げて、
「それそれ、恢々、恢々、へえ、恢々でした」
 乗り合いの過半《おおく》はこの恢々に笑えり。
「そこで、こいつを拘引して調べると、これが出刃打ちの連中だ。ところがね、ちょうどその晩兼六園の席貸しな、六勝亭、あれの主翁《あるじ》は桐田《きりた》という金満家の隠居だ。この夫婦とも、何者の仕業《しわざ》だか、いや、それは、実に残酷に害《や》られたというね。亭主は鳩尾《みぞおち》のところを突き洞《とお》される、女房は頭部《あたま》に三箇所、肩に一箇所、左の乳の下を刳《えぐ》られて、僵《たお》れていたその手に、男の片袖を掴《つか》んでいたのだ」
 車中声なく、人は固唾《かたず》を嚥《の》みて、その心を寒うせり。まさにこれ弁者得意の時。
「証拠になろうという物はそればかりではない。死骸《しがい》のそばに出刃庖丁《でばぼうちょう》が捨ててあった。柄《え》の所に片仮名《かたかな》のテの字の焼き印のある、これを調べると、出刃打ちの用《つか》っていた道具だ。それに今の片袖がそいつの浴衣に差違《ちがい》ないので、まず犯罪人はこいつとだれも目を着けたさ」
 旅商人は膝《ひざ》を進めつ。
「へえ、それじゃそいつじゃないんでございますかい」
 弁者はたちまち手を抗《あ》げてこれを抑《おさ》えぬ。
「まあお聞きなさい。ところで出刃打ちの白状には、いかにも賊を働きました。賊は働いたが、けっして人殺しをした覚えはございません。奪《と》りましたのは水芸の滝の白糸という者の金で、桐田の門《かど》は通過《とおり》もしませんっ」
「はて、ねえ」と甲者は眉《まゆ》を動かして、弁者を凝視《みつ》めたり、乙者は黙して考えぬ。ますますその後段を渇望せる乗り合いは、順繰りに席を進めて、弁者に近づかんとせり。渠はそのとき巻莨《まきたばこ》を取り出だして、唇《くちびる》に湿しつつ、
「話はこれからだ」
 左側《さそく》の席の前端《まえはし》に並びたる、威儀ある紳士とその老母とは、顔を見合わせて迭《たが》いに色を動かせり。渠は質素なる黒の紋着きの羽織に、節仙台《ふしせんだい》の袴《はかま》を穿《は》きて、その髭は弁者より麗しきものなりき。渠は紳士というべき服装《いでたち》にはあらざるなり。されどもその相貌《そうぼう》とその髭とは、多く得《う》べからざる紳士の風采《ふうさい》を備えたり。
 弁者は仔細《しさい》らしく煙を吹きて、
「滝の白糸というのはご存じでしょうな」
 乙者は頷《うなず》き頷き、
「知っとります段か、富山で見ました大評判の美艶《うつくしい》ので」
「さよう。そこでそのころ福井の方で興行中のあの女を喚び出して対審に及んだところが、出刃打ちの申し立てには、その片袖は、白糸の金を奪《と》るときに、おおかた断《ちぎ》られたのであろうが、自分は知らずに遁《に》げたので、出刃庖丁とてもそのとおり、女を脅《おど》すために持っていたのを、慌《あわ》てて忘れて来たのであるから、たといその二品が桐田の家にあろうとも、こっちの知ったことではないと、理窟《りくつ》には合わんけれど、やつはまずそう言い張るのだ。そこで女が、そのとおりだと言えば、人殺しは出刃打ちじゃなくって、ほかにあるとなるのだ」
 甲者は頬杖《ほおづえ》※[#「※」は「てへんに主の旧字」、67-5]《つ》きたりし面《おもて》を外《はず》して、弁者の前に差し寄せつつ、
「へえへえ、そうして女はなんと申しました」
「ぜひおまえさんに逢いたいと言ったね」
 思いも寄らぬ弁者の好謔《こうぎゃく》は、大いに一場の笑いを博せり。渠もやむなく打ち笑いぬ。
「ところが金子《かね》を奪られた覚えなどはない、と女は言うのだ。出刃打ちは、なんでも奪ったという。偸児《どろぼう》のほうから奪ったというのに、奪られたほうでは奪られないと言い張る。なんだか大岡《おおおか》政談にでもありそうな話さ」
「これにはだいぶ事情《わけ》がありそうです」
 乙者は首を捻《ひね》りつつ腕を拱《こまぬ》けり。例の「なるほど」は、談《はなし》のますます佳境に入るを楽しめる気色《けしき》にて、
「なるほど、これだから裁判はむずかしい! へえ、それからどう致《いた》しました」
 傍聴者は声を斂《おさ》めていよいよ耳を傾けぬ。威儀ある紳士とその老母とは最も粛然として死黙せり。
 弁者はなおも語《ことば》を継ぎぬ。
「実にこれは水掛け論さ。しかしとどのつまり出刃打ちが殺したになって、予審は終結した。今度開くのが公判だ。予審が済んでからこの公判までにはだいぶ間《ひま》があったのだ。この間《あいだ》に出刃打ちの弁護士は非常な苦心で、十分弁護の方法を考えておいて、いざ公判という日には、一番腕を揮《ふる》って、ぜひとも出刃打ちを助けようと、手薬煉《てぐすね》を引いているそうだから、これは裁判官もなかなか骨の折れる事件さ」
 甲者は例の「なるほど」を言わずして、不平の色を作《な》せり。
「へえ、そのなんでございますか、旦那《だんな》、その弁護士というやつは出刃打ちの肩を持って、人殺しの罪を女に誣《なす》ろうという姦計《たくみ》なんでございますか」
 弁者は渠の没分暁《ぼつぶんぎょう》を笑いて、
「何も姦計《たくみ》だの、肩を持つの、というわけではない。弁護を引き受ける以上は、その者の罪を軽くするように尽力するのが弁護士の職分だ」
 甲者はますます不平に堪えざりき。渠は弁者を睨《げい》して、
「職分だって、あなた、出刃打ちなんぞの肩を持つてえことがあるもんですか。敵手《あいて》は女じゃありませんか。かわいそうに。私なら弁護を頼まれたってなんだって管《かま》やしません。おまえが悪い、ありていに白状しな、と出刃打ちの野郎を極《き》め付けてやりまさあ」
 渠の鼻息はすこぶる暴《あら》らかなりき。
「そんな弁護士をだれが頼むものか」
 と弁者は仰ぎて笑えり。乗り合いは、威儀ある紳士とその老母を除きて、ことごとく大笑せり。笑い寝《や》むころ馬車は石動に着きぬ。車を下らんとて弁者は席を起《た》てり。甲と乙とは渠に向かいて慇懃《いんぎん》に一揖《いちゆう》して、
「おかげさまでおもしろうございました」
「どうも旦那《だんな》ありがとう存じました」
 弁者は得々として、
「おまえさんがたも間《ひま》があったら、公判を行ってごらんなさい」
「こりゃ芝居よりおもしろいでございましょう」
 乗客は忙々《いそがわしく》下車して、思い思いに別れぬ。最後に威儀ある紳士はその母の手を執りて扶《たす》け下ろしつつ、
「あぶのうございますよ。はい、これからは腕車《くるま》でございます」
 渠らの入りたる建場の茶屋の入り口に、馬車会社の老いたる役員は佇《たたず》めり。渠は何気なく紳士の顔を見たりしが、にわかにわれを忘れてその瞳《ひとみ》を凝らせり。
 たちまち進み来たれる紳士は帽を脱して、ボタンの二所|失《と》れたる茶羅紗《ちゃらしゃ》のチョッキに、水晶の小印《こいん》を垂下《ぶらさ》げたるニッケル鍍《めっき》の※[#「※」は「金に巣の旧字」、69-16]《くさり》を繋《か》けて、柱に靠《もた》れたる役員の前に頭《かしら》を下げぬ。
「その後は御機嫌《ごきげん》よろしゅう。あいかわらずお達者で……」
 役員は狼狽《ろうばい》して身を正し、奪うがごとくその味噌漉《みそこ》し帽子を脱げり。
「やあこれは! 欣様だったねえ。どうもさっきから肖《に》ているとは思ったけれど、えらくりっぱになったもんだから。……しかしおまえさんも無事で、そうしてまありっぱになんなすって結構だ。あれからじきに東京へ行って、勉強しているということは聞いていたっけが、ああ、見上げたもんだ。そうして勉強してきたのは、法律かい。法律はいいね。おまえさんは好きだった。好きこそものの上手《じょうず》なりけれ、うん、それはよかった。ああ、なるほど、金沢の裁判所に……うむ、検事代理というのかい」
 老いたる役員はわが子の出世を看《み》るがごとく懽《よろこ》べり。
 当時《むかし》盲縞《めくらじま》の腹掛けは今日黒の三つ紋の羽織となりぬ。金沢裁判所新任検事代理村越欣弥氏は、実に三年前の馭者台上の金公なり。

     七

 公判は予定の日において金沢地方裁判所に開かれたり。傍聴席は人の山を成して、被告および関係者水島友は弁護士、押丁《おうてい》らとともに差し控えて、判官の着席を待てり。ほどなく正面の戸をさっと排《ひら》きて、躯高《たけたか》き裁判長は入り来たりぬ。二名の陪席判事と一名の書記とはこれに続けり。
 満廷粛として水を打ちたるごとくなれば、その靴音《くつおと》は四壁に響き、天井に※[#「※」は「應の心のかわりに言」、70-17]《こた》えて、一種の恐ろしき音を生《な》して、傍聴人の胸に轟《とどろ》きぬ。
 威儀おごそかに渠《かれ》らの着席せるとき、正面の戸は再び啓《ひら》きて、高爽《こうそう》の気を帯び、明秀の容《かたち》を具《そな》えたる法官は顕《あら》われたり。渠はその麗しき髭《ひげ》を捻《ひね》りつつ、従容《しょうよう》として検事の席に着きたり。
 謹慎なる聴衆を容《い》れたる法廷は、室内の空気|些《さ》も熱せずして、渠らは幽谷の木立ちのごとく群がりたり。制服を絡《まと》いたる判事、検事は、赤と青とカバーを異にせるテーブルを別ちて、一段高き所に居並びつ。
 はじめ判事らが出廷せしとき、白糸は徐《しず》かに面《おもて》を挙《あ》げて渠らを見遣《みや》りつつ、臆《おく》せる気色《けしき》もあらざりしが、最後に顕われたりし検事代理を見るやいなや、渠は色|蒼白《あおざ》めて戦《おのの》きぬ。この俊爽なる法官は実に渠が三年《みとせ》の間|夢寐《むび》も忘れざりし欣さんならずや。渠はその学識とその地位とによりて、かつて馭者《ぎょしゃ》たりし日の垢塵《こうじん》を洗い去りて、いまやその面《おもて》はいと清らに、その眉はひときわ秀《ひい》でて、驚くばかりに見違えたれど、紛《まが》うべくもあらず、渠は村越欣弥なり。白糸は始め不意の面会に駭《おどろ》きたりしが、再び渠を熟視するに及びておのれを忘れ、三たび渠を見て、愁然として首を低《た》れたり。
 白糸はありうべからざるまでに意外の想《おも》いをなしたりき。
 渠はこのときまで、一箇《ひとり》の頼もしき馬丁《べっとう》としてその意中に渠を遇せしなり。いまだかくのごとく畏敬すべき者ならんとは知らざりき。ある点においては渠を支配しうべしと思いしなり。されども今この検事代理なる村越欣弥に対しては、その一髪をだに動かすべき力のわれにあらざるを覚えき。ああ、闊達《かったつ》豪放なる滝の白糸! 渠はこのときまで、おのれは人に対してかくまで意気地《いくじ》なきものとは想わざりしなり。
 渠はこの憤りと喜びと悲しみとに摧《くじ》かれて、残柳の露に俯《ふ》したるごとく、哀れに萎《しお》れてぞ見えたる。
 欣弥の眼《まなこ》は陰《ひそか》に始終恩人の姿に注げり。渠ははたして三年《みとせ》の昔天神橋上|月明《げつめい》のもとに、臂《ひじ》を把《と》りて壮語し、気を吐くこと虹《にじ》のごとくなりし女丈夫なるか。その面影もあらず、いたくも渠は衰えたるかな。
 恩人の顔は蒼白《あおざ》めたり。その頬《ほお》は削《こ》けたり。その髪は乱れたり。乱れたる髪! その夕べの乱れたる髪は活溌溌《かつはつはつ》の鉄拐《てっか》を表わせしに、今はその憔悴《しょうすい》を増すのみなりけり。
 渠は想えり。濶達豪放の女丈夫! 渠は垂死の病蓐《びょうじょく》に横たわらんとも、けっしてかくのごとき衰容をなさざるべきなり。烈々たる渠が心中の活火はすでに燼《き》えたるか。なんぞ渠のはなはだしく冷灰に似たるや。
 欣弥はこの体《てい》を見るより、すずろ憐愍《あわれ》を催して、胸も張り裂くばかりなりき。同時に渠はおのれの職務に心着きぬ。私をもって公に代えがたしと、渠は拳《こぶし》を握りて眼《まなこ》を閉じぬ。
 やがて裁判長は被告に向かいて二、三の訊問ありけるのち、弁護士は渠の冤《えん》を雪《すす》がんために、滔々《とうとう》数千言を陳《つら》ねて、ほとんど余すところあらざりき。裁判長は事実を隠蔽《いんぺい》せざらんように白糸を諭《さと》せり。渠はあくまで盗難に遭《あ》いし覚えのあらざる旨を答えて、黒白は容易に弁ずべくもあらざりけり。
 検事代理はようやく閉じたりし眼《まなこ》を開くとともに、悄然《しょうぜん》として項《うなじ》を垂《た》るる白糸を見たり。渠はそのとき声を励まして、
「水島友、村越欣弥が……本官があらためて訊問するが、裹《つつ》まず事実を申せ」
 友はわずかに面《おもて》を擡《あ》げて、額越《ひたいご》しに検事代理の色を候《うかが》いぬ。渠は峻酷《しゅんこく》なる法官の威容をもて、
「そのほうは全く金子《きんす》を奪《と》られた覚えはないのか。虚偽《いつわり》を申すな。たとい虚偽をもって一時を免《のが》るるとも、天知る、地知る、我知るで、いつがいつまで知れずにはおらんぞ。しかし知れるの、知れぬのとそんなことは通常の人に言うことだ。そのほうも滝の白糸といわれては、ずいぶん名代《なだい》の芸人ではないか。それが、かりそめにも虚偽《いつわり》などを申しては、その名に対しても実に愧《は》ずべきことだ。人は一代、名は末代だぞ。またそのほうのような名代の芸人になれば、ずいぶん多数《おおく》の贔屓《ひいき》もあろう、その贔屓が、裁判所においてそのほうが虚偽を申し立てて、それがために罪なき者に罪を負わせたと聞いたならば、ああ、白糸はあっぱれな心掛けだと言って誉《ほ》めるか、喜ぶかな。もし本官がそのほうの贔屓であったなら、今日《きょう》限り愛想《あいそ》を尽かして、以来は道で遭《あ》おうとも唾《つば》もしかけんな。しかし長年の贔屓であってみれば、まず愛想を尽かす前に十分勧告をして、卑怯《ひきょう》千万な虚偽の申し立てなどは、命に換えてもさせんつもりだ」
 かく諭《さと》したりし欣弥の声音《こわね》は、ただにその平生を識《し》れる、傍聴席なる渠の母のみにあらずして、法官も聴衆もおのずからその異常なるを聞き得たりしなり。白糸の愁《うれ》わしかりし眼《まなこ》はにわかに清く輝きて、
「そんなら事実《ほんとう》を申しましょうか」
 裁判長はしとやかに、
「うむ、隠さずに申せ」
「実は奪《と》られました」
 ついに白糸は自白せり。法の一貫目は情の一匁なるかな、渠はそのなつかしき検事代理のために喜びて自白せるなり。
「なに? 盗《と》られたと申すか」
 裁判長は軽《かろ》く卓《たく》を拍《う》ちて、きと白糸を視《み》たり。
「はい、出刃打ちの連中でしょう、四、五人の男が手籠《てご》めにして、私の懐中の百円を奪りました」
「しかとさようか」
「相違ござりません」

 これに次ぎて白糸はむぞうさにその重罪をも白状したりき。裁判長は直ちに訊問を中止して、即刻この日の公判を終われり。
 検事代理村越欣弥は私情の眼《まなこ》を掩《おお》いてつぶさに白糸の罪状を取り調べ、大恩の上に大恩を累《かさ》ねたる至大の恩人をば、殺人犯として起訴したりしなり。さるほどに予審終わり、公判開きて、裁判長は検事代理の請求は是《ぜ》なりとして、渠に死刑を宣告せり。
 一生他人たるまじと契りたる村越欣弥は、ついに幽明を隔てて、永《なが》く恩人と相見るべからざるを憂いて、宣告の夕べ寓居《ぐうきょ》の二階に自殺してけり。


[校正者註]全集版をもとに、以下の書き換えを行った。
 全集版:『鏡花全集 巻一』岩波書店(1942年7月30日発行、1986年9月3日第3刷)
 数字は底本のページ数と行数と示す。「底本」→「修正」。
 9-12「握るものあり」→「握るもあり」
 10-7「隣たる」→「隣なる」
 14-4「なにとぞ」→「どうぞ」
 16-11「持て扱いつつ」→「持ち扱いつつ」
 17-12「脣」→「唇」。25-13、28-9、53-4、66-5も同様。
 17-13 「挙ぐれば」→「挙がれば」
 23-11「一箇《ひとり》」→「一箇《いっこ》」
 26-8「眼覚《めさ》まして」→「眼覚《めざ》まして」
 34-8「いうじゃありませんか」→「いうじゃあありませんか」
 36-5「縁というものも」→「縁というのも」
 41-4「思い懸《か》けざりき」→「思い懸《が》けざりき」
 43-8「これに」→「ここに」
 47-5「金主《きんす》」→「金主《きんしゅ》」
 48-7「赴《い》き」→「赴《おもむ》き」
 48-12「べからざるや」→「べからざるをや」
 48-16「前借りしたりしなり」→「前借《ぜんしゃく》したりしなり」
 49-5「前借りし」→「前借《ぜんしゃく》し」
 50-5「愛相よく」→「愛想よく」
 52-5「そこまで」→「これまで」
 52-16「かつ」→「かつて」
 58-7「鈍《おそ》くも」→「鈍《おぞ》くも」
 59-1「されども」→「しかれども」
 64-16「訛言《かたごと》」→「訛言《かたこと》」
 65-10「かたわらに」→「そばに」
 66-15「かの女」→「あの女」
 69-5「おかげで」→「おかげさまで」
 73-4「虚偽に」→「虚偽を」



底本:「高野聖」角川文庫、角川書店
   1971(昭和46)年4月20日改版初版発行
   1999(平成11)年2月10日改版40版発行
初出:「読売新聞」1894(明治27)年11月1日〜30日
入力:真先芳秋
校正:鈴木厚司
1999年10月23日公開
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