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鷭狩
泉鏡花

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)初冬《はつふゆ》の

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(例)半月館|弓野屋《ゆんのや》の

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「彳+尚」、第3水準1-84-33]
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       一

 初冬《はつふゆ》の夜更《よふけ》である。
 片山津《かたやまづ》(加賀)の温泉宿、半月館|弓野屋《ゆんのや》の二階――だけれど、広い階子段《はしごだん》が途中で一段大きく蜿《うね》ってS形に昇るので三階ぐらいに高い――取着《とッつき》の扉《ドア》を開けて、一人旅の、三十ばかりの客が、寝衣《ねまき》で薄ぼんやりと顕《あらわ》れた。
 この、半ば西洋づくりの構《かまえ》は、日本間が二室《ふたま》で、四角な縁が、名にしおうここの名所、三湖の雄なる柴山潟《しばやまがた》を見晴しの露台の誂《あつらえ》ゆえ、硝子戸《がらすど》と二重を隔ててはいるけれど、霜置く月の冷たさが、渺々《びょうびょう》たる水面から、自《おのず》から沁徹《しみとお》る。……
 いま偶《ふ》と寝覚の枕を上げると、電燈は薄暗し、硝子戸を貫いて、障子にその水の影さえ映るばかりに見えたので、
「おお、寒い。」
 頸《えり》から寒くなって起きて出た。が、寝ぬくもりの冷めないうち、早く厠《かわや》へと思う急心《せきごころ》に、向う見ずに扉《ドア》を押した。
 押して出ると、不意に凄《すご》い音で刎返《はねかえ》した。ドーンと扉の閉るのが、広い旅館のがらんとした大天井から地の底まで、もっての外に響いたのである。
 一つ、大きなもの音のしたあとは、目の前の階子段も深い穴のように見えて、白い灯も霜を敷いた状《さま》に床に寂しい。木目の節の、点々《ぼつぼつ》黒いのも鼠の足跡かと思われる。
 まことに、この大旅館はがらんとしていた。――宵に受持の女中に聞くと、ひきつづき二十日《はつか》余りの間団体観光の客が立てつけて毎日百人近く込合ったそうである。そこへ女中がやっと四人ぐらいだから、もし昨日《きのう》にもおいでだと、どんなにお気の毒であったか知れない。すっかり潮のように引いたあとで、今日はまた不思議にお客が少く、此室《ここ》に貴方《あなた》と、離室《はなれ》の茶室をお好みで、御隠居様御夫婦のお泊りがあるばかり、よい処で、よい折から――と言った癖に……客が膳《ぜん》の上の猪口《ちょく》をちょっと控えて、それはお前さんたちさぞ疲れたろう、大掃除の後の骨休め、という処だ。ここは構わないで、湯にでも入ったら可《よ》かろうと、湯治の客には妙にそぐわない世辞を言うと、言《ことば》に随《つ》いて、ではそうさして頂きます、後生ですわ、と膠《にべ》もなく引退《ひきさが》った。畳も急に暗くなって、客は胴震いをしたあとを呆気《あっけ》に取られた。
 ……思えば、それも便宜《たより》ない。……
 さて下りる階子段は、一曲り曲る処で、一度ぱっと明るく広くなっただけに、下を覗《のぞ》くとなお寂しい。壁も柱もまだ新しく、隙間《すきま》とてもないのに、薄い霧のようなものが、すっと這入《はい》っては、そッと爪尖《つまさき》を嘗《な》めるので、変にスリッパが辷《すべ》りそうで、足許《あしもと》が覚束《おぼつか》ない。
 渠《かれ》は壁に掴《つかま》った。
 掌《てのひら》がその壁の面に触れると、遠くで湯の雫《しずく》の音がした。
 聞き澄《すま》すと、潟の水の、汀《みぎわ》の蘆間《あしま》をひたひたと音訪《おとず》れる気勢《けはい》もする。……風は死んだのに、遠くなり、近くなり、汽車が谺《こだま》するように、ゴーと響くのは海鳴《うみなり》である。
 更に遠く来た旅を知りつつ、沈むばかりに階段を下切《おりき》った。
 どこにも座敷がない、あっても泊客《とまりきゃく》のないことを知った長廊下の、底冷《そこびえ》のする板敷を、影の※[#「彳+尚」、第3水準1-84-33]※[#「彳+羊」、第3水準1-84-32]《さまよ》うように、我ながら朦朧《もうろう》として辿《たど》ると……
「ああ、この音だった。」
 汀の蘆に波の寄ると思ったのが、近々と聞える処に、洗面所のあったのを心着いた。
 機械口が緩《ゆる》んだままで、水が点滴《したた》っているらしい。
 その袖壁の折角《おれかど》から、何心なく中を覗くと、
「あッ。」と、思わず声を立てて、ばたばたと後《あと》へ退《さが》った。
 雪のような女が居て、姿見に真蒼《まっさお》な顔が映った。
 温泉《いでゆ》の宿の真夜中である。

       二

 客は、なまじ自分の他《ほか》に、離室《はなれ》に老人夫婦ばかりと聞いただけに、廊下でいきなり、女の顔の白鷺《しらさぎ》に擦違ったように吃驚《びっくり》した。
 が、雪のようなのは、白い頸《くび》だ。……背後《うしろ》むきで、姿見に向ったのに相違ない。燈《ひ》の消えたその洗面所の囲《まわり》が暗いから、肩も腰も見えなかったのであろう、と、疑《うたがい》の幽霊を消しながら、やっぱり悚然《ぞっ》として立淀《たちよど》んだ。
 洗面所の壁のその柱へ、袖の陰が薄《うっす》りと、立縞《たてじま》の縞目が映ると、片頬《かたほ》で白くさし覗いて、
「お手水《ちょうず》……」
 と、ものを忍んだように言った。優しい柔かな声が、思いなしか、ちらちらと雪の降りかかるようで、再び悚然《ぞっ》として息を引く。……
「どうぞ、こちらへ。」
 と言った時は――もう怪しいものではなかった――紅鼻緒の草履に、白い爪さきも見えつつ、廊下を導いてくれるのであろう。小褄《こづま》を取った手に、黒繻子《くろじゅす》の襟が緩い。胸が少しはだかって、褄を引揚げたなりに乱れて、こぼれた浅葱《あさぎ》が長く絡《からま》った、ぼっとりものの中肉が、帯もないのに、嬌娜《しなやか》である。
「いや知っています。」
 これで安心して、衝《つ》と寄りざまに、斜《ななめ》に向うへ離れる時、いま見たのは、この女の魂だったろう、と思うほど、姿も艶《えん》に判然《はっきり》して、薄化粧した香さえ薫る。湯上りの湯のにおいも可懐《なつかし》いまで、ほんのり人肌が、空《くう》に来て絡《まつわ》った。
 階段を這《は》った薄い霧も、この女の気を分けた幽《かすか》な湯の煙であったろうと、踏んだのは惜《おし》い気がする。
「何だろう、ここの女中とは思うが、すばらしい中年増《ちゅうどしま》だ。」
 手を洗って、ガタン、トンと、土間穿《どまばき》の庭下駄を引摺る時、閉めて出た障子が廊下からすッと開《あ》いたので、客はもう一度ハッとした。
 と小がくれて、その中年増がそこに立つ。
「これは憚《はばか》り……」
「いいえ。」
 と、もう縞の小袖をしゃんと端折《はしょ》って、昼夜帯を引掛《ひっかけ》に結んだが、紅《あか》い扱帯《しごき》のどこかが漆の葉のように、紅《くれない》にちらめくばかり。もの静《しずか》な、ひとがらな、おっとりした、顔も下ぶくれで、一重瞼《ひとえまぶた》の、すっと涼しいのが、ぽっと湯に染まって、眉の優しい、容子《ようす》のいい女で、色はただ雪をあざむく。
「しかし、驚きましたよ、まったくの処驚きましたよ。」
 と、懐中《ふところ》に突込《つっこ》んで来た、手巾《ハンケチ》で手を拭《ふ》くのを見て、
「あれ、貴方《あなた》……お手拭《てぬぐい》をと思いましたけれど、唯今《ただいま》お湯へ入りました、私のだものですから。――それに濡れてはおりますし……」
「それは……そいつは是非拝借しましょう。貸して下さい。」
「でも、貴方。」
「いや、結構、是非願います。」
 と、うっかりらしく手に持った女の濡手拭を、引手繰《ひったく》るようにぐいと取った。
「まあ。」
「ばけもののする事だと思って下さい。丑満時《うしみつどき》で、刻限が刻限だから。」
 ほぼその人がらも分ったので、遠慮なしに、半《なかば》調戯《からか》うように、手どころか、するすると面《おもて》を拭いた。湯のぬくもりがまだ残る、木綿も女の膚馴《はだな》れて、柔《やわら》かに滑《なめら》かである。
「あれ、お気味が悪うございましょうのに。」
 と釣込まれたように、片袖を頬に当てて、取戻そうと差出す手から、ついと、あとじさりに離れた客は、手拭を人質のごとく、しかと取って、
「気味の悪かったのは只今でしたな――この夜ふけに、しかも、ここから、唐突《だしぬけ》だろう。」
 そのまま洗面所へ肩を入れて、
「思いも寄らない――それに、余り美しい綺麗《きれい》な人なんだから。」
 声が天井へもつき通して、廊下へも響くように思われたので、急に、ひっそりと声の調子を沈めた。
「ほんとうに胆《きも》が潰《つぶ》れたね。今思ってもぞッとする……別嬪《べっぴん》なのと、不意討で……」
「お巧言《じょうず》ばっかり。」
 と、少し身を寄せたが、さしうつむく。
「串戯《じょうだん》じゃありません。……(お手水……)の時のごときは、頭から霜を浴びて潟の底へ引込まれるかと思ったのさ。」
 大袈裟《おおげさ》に聞えたが。……
「何とも申訳がありません。――時ならない時分に、髪を結ったりなんかしましたものですから。――あの、実は、今しがた、遠方のお客様から電報が入りまして、この三時十分に動橋《いぶりばし》へ着きます汽車で、当方へおいでになるッて事だものですから、あとは皆《みんな》年下の女たちが疲れて寝ていますし……私がお世話を申上げますので。あの、久しぶりで宵に髪を洗いましたものですから、ちょっと束ねておりました処なんでございますよ。」
 いまは櫛巻《くしまき》が艶々《つやつや》しく、すなおな髪のふっさりしたのに、顔がやつれてさえ見えるほどである。
「女中《おんな》部屋でいたせばようございますのに、床も枕も一杯になって寝ているものでございますから、つい、一風呂頂きましたあとを、お客様のお使いになります処を拝借をいたしまして、よる夜中だと申すのに。……変化《おばけ》でございますわね――ほんとうに。」
 と鬢《びん》に手を触ったまままた俯向《うつむ》く。
「何、温泉宿の夜中に、寂しい廊下で出会《でっくわ》すのは、そんなお化に限るんだけれど、何てたって驚きましたよ――馬鹿々々しいほど驚いたぜ。」
 言うまでもなく、女中と分って、ものいいぶりも遠慮なしに、
「いまだに、胸がどきどきするね。」
 と、どうした料簡《りょうけん》だか、ありあわせた籐椅子《とういす》に、ぐったりとなって肱《ひじ》をもたせる。
「あなた、お寒くはございませんの。」
「今度は赫々《かっか》とほてるんだがね。――腰が抜けて立てません。」
「まあ……」

       三

「お澄さん……私は見事に強請《ねだ》ったね。――強請ったより強請《ゆすり》だよ。いや、この時刻だから強盗の所業《わざ》です。しかし難有《ありがた》い。」
 と、枕だけ刎《は》ねた寝床の前で、盆の上ながらその女中――お澄――に酌をしてもらって、怪《け》しからず恐悦している。
 客は、手を曳《ひ》いてくれないでは、腰が抜けて二階へは上《あが》れないと、串戯《じょうだん》を真顔で強いると、ちょっと微笑《ほほえ》みながら、それでも心《しん》から気の毒そうに、否《いや》とも言わず、肩を並べて、階子段《はしごだん》を――上《あが》ると蜿《うね》りしなの寂しい白い燈《ひ》に、顔がまた白く、褄《つま》が青かった。客は、機会のこんな事は人間一生の旅行のうちに、幾度《いくたび》もあるものではない。辻堂の中で三々九度の杯をするように一杯飲もう、と言った。――酒は、宵の、膳の三本めの銚子《ちょうし》が、給仕は遁《に》げたし、一人では詰《つま》らないから、寝しなに呷《あお》ろうと思って、それにも及ばず、ぐっすり寐込《ねこ》んだのが、そのまま袋戸棚の上に忍ばしてある事を思い出したし、……またそうも言った。――お澄が念のため時間を訊《き》いた時、懐中時計は二時半に少し間《ま》があった。
「では、――ちょっと、……掃除番の目ざとい爺やが一人起きましたから、それに言って、心得さす事がありますから。」と軽く柔《やわらか》にすり抜けて、扉《ひらき》の口から引返す。……客に接しては、草履を穿《は》かない素足は、水のように、段の中途でもう消える。……宵に鯊《はぜ》を釣落した苦き経験のある男が、今度は鱸《すずき》を水際で遁《にが》した。あたかもその影を追うごとく、障子を開けて硝子戸《がらすど》越《ごし》に湖《うみ》を覗《のぞ》いた。
 連《つらな》り亘《わた》る山々の薄墨の影の消えそうなのが、霧の中に縁《へり》を繞《めぐ》らす、湖《うみ》は、一面の大《おおい》なる銀盤である。その白銀《しろがね》を磨いた布目ばかりの浪もない。目の下の汀《みぎわ》なる枯蘆《かれあし》に、縦横に霜を置いたのが、天心の月に咲いた青い珊瑚珠《さんごじゅ》のように見えて、その中から、瑪瑙《めのう》の桟《さん》に似て、長く水面を遥《はるか》に渡るのは別館の長廊下で、棟に欄干を繞《めぐら》した月の色と、露の光をうけるための台《うてな》のような建ものが、中空にも立てば、水にも映る。そこに鎖《とざ》した雨戸々々が透通って、淡く黄を帯びたのは人なき燈《ともしび》のもれるのであろう。
 鐘の音《ね》も聞えない。
 潟、この湖の幅の最も広く、山の形の最も遠いあたりに、ただ一つ黒い点が浮いて見える。船か雁《かり》か、※[#「辟/鳥」、436-12]※[#「(厂+虎)+鳥」、第4水準2-94-36]《かいつぶり》か、ふとそれが月影に浮ぶお澄の、眉の下の黒子《ほくろ》に似ていた。
 冷える、冷い……女に遁げられた男はすぐに一すくみに寒くなった。一人で、蟻《あり》が冬籠《ふゆごもり》に貯えたような件《くだん》のその一銚子《ひとちょうし》。――誰に習っていつ覚えた遣繰《やりくり》だか、小皿の小鳥に紙を蔽《おお》うて、煽《あお》って散らないように杉箸《すぎばし》をおもしに置いたのを取出して、自棄《やけ》に茶碗で呷った処へ――あの、跫音《あしおと》は――お澄が来た。「何もございませんけれど、」と、いや、それどころか、瓜の奈良漬。「山家《やまが》ですわね。」と胡桃《くるみ》の砂糖煮。台十能《だいじゅう》に火を持って来たのを、ここの火鉢と、もう一つ。……段の上り口の傍《わき》に、水屋のような三畳があって、瓶掛《びんかけ》、茶道具の類が置いてある。そこの火鉢とへ、取分けた。それから隣座敷へ運ぶのだそうで、床の間の壁裏が、その隣座敷。――「旦那様の前ですけど、この二室《ふたま》が取って置きの上等」で、電報の客というのが、追ってそこへ通るのだそうである。――
「まあお一杯《ひとつ》。……お銚子が冷めますから、ここでお燗《かん》を。ぶしつけですけれど、途中が遠うございますから、おかわりの分も、」と銚子を二本。行届いた小取まわしで、大びけすぎの小酒《こざか》もり。北の海なる海鳴《うみなり》の鐘に似て凍る時、音に聞く……安宅《あたか》の関は、この辺《あたり》から海上三里、弁慶がどうしたと? 石川県|能美郡《のみごおり》片山津の、直侍《なおざむらい》とは、こんなものかと、客は広袖《どてら》の襟を撫《な》でて、胡坐《あぐら》で納まったものであった。
「だけど……お澄さんあともう十五分か、二十分で隣座敷《となり》へ行ってしまわれるんだと思うと、情《なさけ》ない気がするね。」
「いいえ。――まあ、お重ねなさいまし、すぐにまたまいります。」
「何、あっちで放すものかね。――電報一本で、遠くから魔術のように、旅館の大戸をがらがらと開けさせて、お澄さんに、夜中に湯をつかわせて、髪を結わせて、薄化粧で待たせるほどの大したお客なんだもの。」
「まあ、……だって貴方、さばき髪でお迎えは出来ないではございませんか。――それに、手順で私が承りましたばかりですもの。何も私に用があっていらっしゃるのではありません。唯今は、ちょうど季節だものでございますから、この潟へ水鳥を撃ちに。」
「ああ、銃猟に――鴫《しぎ》かい、鴨《かも》かい。」
「はあ、鴫も鴨も居ますんですが、おもに鷭《ばん》をお撃ちになります。――この間おいでになりました時などは、お二人で鷭が、一百《いっそく》二三十も取れましてね、猟袋に一杯、七つも持ってお帰りになりましたんですよ。このまだ陽が上《あが》りません、霜のしらしらあけが一番よく取れますって、それで、いま時分お着《つき》になります。」
「どこから来るんだね、遠方ッて。」
「名古屋の方でございますの。おともの人と、犬が三頭、今夜も大方そうなんでございましょうよ。ここでお支度をなさる中《うち》に、馴《な》れました船頭が参りますと、小船二|艘《そう》でお出かけなさるんでございますわ。」
「それは……対手《あいて》は大紳士だ。」と客は歎息して怯《おび》えたように言った。
「ええ、何ですか、貸座敷の御主人なんでございます。」
「貸座敷――女郎屋《じょろや》の亭主かい。おともはざっと幇間《たいこもち》だな。」
「あ、当りました、旦那。」
 と言ったが、軽く膝で手を拍《う》って、
「ほんに、辻占《つじうら》がよくって、猟のお客様はお喜びでございましょう。」
「お喜びかね。ふう成程――ああ大した勢いだね。おお、この静寂《しずか》な霜の湖を船で乱して、谺《こだま》が白山《はくさん》へドーンと響くと、寝ぬくまった目を覚して、蘆の間から美しい紅玉の陽の影を、黒水晶のような羽に鏤《ちりば》めようとする鷭が、一羽ばたりと落ちるんだ。血が、ぽたぽたと流れよう。犬の口へぐたりとはまって、水しぶきの中を、船へ倒れると、ニタニタと笑う貸座敷の亭主の袋へ納まるんだな。」
 お澄は白い指を扱《しご》きつつ、うっかり聞いて顔を見た。
「――お澄さん、私は折入って姐《ねえ》さんにお願いが一つある。」
 客は膝をきめて居直ったのである。

       四

 渠《かれ》は稲田《いなだ》雪次郎と言う――宿帳の上を更《あらた》めて名を言った。画家である。いくたびも生死《しょうし》の境にさまよいながら、今年初めて……東京上野の展覧会――「姐さんは知っているか。」「ええこの辺でも評判でございます。」――その上野の美術展覧会に入選した。
 構図というのが、湖畔の霜の鷭なのである。――
「鷭は一生を通じての私のために恩人なんです。生命《いのち》の親とも思う恩人です。その大恩のある鷭の一類が、夫も妻も娘も忰《せがれ》も、貸座敷の亭主と幇間の鉄砲を食《くら》って、一時《いっとき》に、一百《いっそく》二三十ずつ、袋へ七つも詰込まれるんでは遣切《やりき》れない。――深更《よふけ》に無理を言ってお酌をしてもらうのさえ、間違っている処へ、こんな馬鹿な、無法な、没常識な、お願いと言っちゃあないけれど、頼むから、後生だから、お澄さん、姐さんの力で、私が居る……この朝だけ、その鷭|撃《うち》を留《や》めさしてはもらえないだろうか。……男だてなら、あの木曾川の、で、留《と》めて見ると言ったって、水の流《ながれ》は留められるものではない。が、女の力だ。あなたの情《なさけ》だ。――この潟の水が一時凍らないとも、火にならないとも限らない。そこが御婦人の力です。勿論まるきり、その人たちに留《や》めさせる事の出来ない事は、解って、あきらめなければならないまでも、手筈《てはず》を違えるなり、故障を入れるなり、せめて時間でも遅れさして、鷭が明らかに夢からさめて、水鳥相当に、自衛の守備の整うようにして、一羽でも、獲ものの方が少く、鳥の助かる方が余計にしてもらいたい。――実は小松からここに流れる桟川《かけはしがわ》で以前――雪間の白鷺を、船で射た友だちがあって、……いままですらりと立って遊んでいたのが、弾丸《たま》の響《ひびき》と一所に姿が横に消えると、颯《さっ》と血が流れたという……話を聞いた事があって、それ一羽、私には他人の鷺でさえ、お澄さんのような女が殺されでもしたように、悚然《ぞっ》として震え上った。――しかるに鷭は恩人です。――姐さん、これはお酌を強請《ねだ》ったような料簡《りょうけん》ではありません。真人間が、真面目《まじめ》に、師の前、両親の前、神仏の前で頼むのとおなじ心で云うんです。――私は孤児《みなしご》だが、かつて志を得たら、東京へ迎えます。と言ううちに、両親はなくなりました。その親たちの位牌《いはい》を、……上野の展覧会の今最中、故郷の寺の位牌堂から移して来たのが、あの、大《おおき》な革鞄《かばん》の中に据えてあります。その前で、謹んで言うのです。――お位牌も、この姐さんに、どうぞお力をお添え下さい。」
 と言った。面《おもて》が白蝋《はくろう》のように色澄んで、伏目で聞入ったお澄の、長い睫毛《まつげ》のまたたくとともに、床《とこ》に置いた大革鞄が、揺れて熊の動くように見えたのである。
「あら! 私……」
 この、もの淑《しずか》なお澄が、慌《あわただ》しく言葉を投げて立った、と思うと、どかどかどかと階子段《はしごだん》を踏立てて、かかる夜陰を憚《はばか》らぬ、音が静寂間《しじま》に湧上《わきあが》った。
「奥方は寝床で、お待ちで。それで、お出迎えがないといった寸法でげしょう。」
 と下から上へ投掛けに肩へ浴びせたのは、旦那に続いた件《くだん》の幇間と頷《うなず》かれる。白い呼吸《いき》もほッほッと手に取るばかり、寒い声だが、生ぬるいことを言う。
「や、お澄――ここか、座敷は。」
 扉《ドア》を開けた出会頭《であいがしら》に、爺やが傍《そば》に、供が続いて突立《つった》った忘八《くつわ》の紳士が、我がために髪を結って化粧したお澄の姿に、満悦らしい鼻声を出した。が、気疾《きばや》に頸《くび》からさきへ突込《つっこ》む目に、何と、閨《ねや》の枕に小ざかもり、媚薬《びやく》を髣髴《ほうふつ》とさせた道具が並んで、生白《なまじろ》けた雪次郎が、しまの広袖《どてら》で、微酔《ほろよい》で、夜具に凭《もた》れていたろうではないか。
 正《しょう》の肌身はそこで藻抜けて、ここに空蝉《うつせみ》の立つようなお澄は、呼吸《いき》も黒くなる、相撲取ほど肥った紳士の、臘虎襟《らっこえり》の大外套《おおがいとう》の厚い煙に包まれた。
「いつもの上段の室《ま》でございますことよ。」
 と、さすが客商売の、透かさず機嫌を取って、扉《ドア》隣へ導くと、紳士の開閉《あけたて》の乱暴さは、ドドンドシン、続けさまに扉が鳴った。

       五

「旦那《だんな》は――ははあ、奥方様と成程。……それから御入浴という、まずもっての御寸法。――そこでげす。……いえ、馬鹿でもそのくらいな事は心得ておりますんで。……しかし御口中《ごこうちゅう》ぐらいになさいませんと、これから飛道具を扱います。いえ、第一遠く離れていらっしゃるで、奥方の方で御承知をなさいますまい。はははは、御遠慮なくお先へ。……しかしてその上にゆっくりと。」
 階子段《はしごだん》に足踏《あしぶみ》して、
「鷭だよ、鷭だよ、お次の鷭だよ、晩の鷭だよ、月の鷭だよ、深夜《よなか》の鷭だよ、トンと打《ぶ》つけてトントントンとサ、おっとそいつは水鶏《くいな》だ、水鶏だ、トントントトン。」と下りて行《ゆ》く。
 あとは、しばらく、隣座敷に、火鉢があるまいと思うほど寂寞《ひっそり》した。が、お澄のしめやかな声が、何となく雪次郎の胸に響いた。
「黙れ!」
 と梁《はり》から天井へ、つつぬけにドス声で、
「分った! そうか。三晩つづけて、俺が鷭撃に行って怪我をした夢を見たか。そうか、分った。夢がどうした、そんな事は木片《こっぱ》でもない。――俺が汝等《うぬら》の手で面《つら》へ溝泥《どぶどろ》を塗られたのは夢じゃないぞ。この赫《かッ》と開けた大きな目を見ろい。――よくも汝《うぬ》、溝泥を塗りおったな。――聞えるか、聞えるか。となりの野郎には聞えまいが、このくらいな大声だ。われが耳は打《ぶち》ぬいたろう。どてッ腹へ響いたろう。」
「響いたがどうしたい。」と、雪次郎は鸚鵡《おうむ》がえしで、夜具に凭《もた》れて、両の肩を聳《そび》やかした。そして身構えた。
 が、そのまま何もなくバッタリ留《や》んだ。――聞け、時に、ピシリ、ピシリ、ピシャリと肉を鞭打《むちう》つ音が響く。チンチンチンチンと、微《かすか》に鉄瓶の湯が沸《たぎ》るような音が交《まじ》る。が、それでないと、湯気のけはいも、血汐《ちしお》が噴くようで、凄《すさま》じい。
 雪次郎はハッと立って、座敷の中を四五|度《たび》廻った。――衝《つ》と露台へ出る、この片隅に二枚つづきの硝子《がらす》を嵌《は》めた板戸があって、青い幕が垂れている。晩方の心覚えには、すぐその向うが、おなじ、ここよりは広い露台で、座敷の障子が二三枚|覗《のぞ》かれた――と思う。……そのまま忍寄って、密《そっ》とその幕を引《ひき》なぐりに絞ると、隣室の障子には硝子が嵌め込《こみ》になっていたので、一面に映るように透いて見えた。ああ、顔は見えないが、お澄の色は、あの、姿見に映った時とおなじであろう。真うつむけに背ののめった手が腕のつけもとまで、露呈《あらわ》に白く捻上《ねじあ》げられて、半身の光沢《つや》のある真綿をただ、ふっくりと踵《かかと》まで畳に裂いて、二条《ふたすじ》引伸ばしたようにされている。――ずり落ちた帯の結目《むすびめ》を、みしと踏んで、片膝を胴腹へむずと乗掛《のりかか》って、忘八《くつわ》の紳士が、外套も脱がず、革帯を陰気に重く光らしたのが、鉄の火箸《ひばし》で、ため打ちにピシャリ打ちピシリと当てる。八寸釘を、横に打つようなこの拷掠《ごうりゃく》に、ひッつる肌に青い筋の蜿《うね》るのさえ、紫色にのたうちつつも、お澄は声も立てず、呼吸《いき》さえせぬのである。
「ええ! ずぶてえ阿魔《あま》だ。」
 と、その鉄火箸《かなひばし》を、今は突刺しそうに逆に取った。
 この時、階段の下から跫音《あしおと》が来なかったら、雪次郎は、硝子を破って、血だらけになって飛込んだろう。
 さまでの苦痛を堪《こら》えたな。――あとでお澄の片頬に、畳の目が鑢《やすり》のようについた。横顔で突《つっ》ぷして歯をくいしばったのである。そして、そのくい込んだ畳の目に、あぶら汗にへばりついて、鬢《びん》のおくれ毛が彫込んだようになっていた。その髪の一条《ひとすじ》を、雪次郎が引いてとった時、「あ痛、」と声を上げたくらいであるから。……
 かくまでの苦痛を知らぬ顔で堪えた。――幇間《ほうかん》が帰ってからは、いまの拷掠については、何の気色もしなかったのである。
 銃猟家のいいつけでお澄は茶漬の膳を調えに立った。
 扉《ドア》から雪次郎が密《そっ》と覗くと、中段の処で、肱《ひじ》を硬直に、帯の下の腰を圧《おさ》えて、片手をぐったりと壁に立って、倒れそうにうつむいた姿を見た。が、気勢《けはい》がしたか、ふいに真青《まっさお》な顔して見ると、寂しい微笑を投げて、すっと下りたのである。
 隣室には、しばらく賤《いやし》げに、浅ましい、売女商売の話が続いた。
「何をしてうせおる。――遅いなあ。」
 二度まで爺やが出て来て、催促をされたあとで、お澄が膳を運んだらしい。
「何にもございません。――料理番がちょと休みましたものですから。」
「奈良漬、結構。……お弁当もこれが関でげすぜ、旦那。」
 と、幇間が茶づけをすする音、さらさらさら。スウーと歯ぜせりをしながら、
「天気は極上、大猟でげすぜ、旦那。」
「首途《かどで》に、くそ忌々《いまいま》しい事があるんだ。どうだかなあ。さらけ留《や》めて、一番新地で飲んだろうかと思うんだ。」

       六

「貴方《あなた》、ちょっと……お話がございます。」

 ――弁当は帳場に出来ているそうだが、船頭の来ようが、また遅かった。――
「へい、旦那御機嫌よう。」と三人ばかり座敷へ出ると、……「遅いじゃねえか。」とその御機嫌が大不機嫌。「先刻《さっき》お勝手へ参りましただが、お澄さんが、まだ旦那方、御飯中で、失礼だと言わっしゃるものだで。」――「撃《ぶ》つぞ。出ろ。ここから一発はなしたろか。」と銃猟家が、怒りだちに立った時は、もう横雲がたなびいて、湖の面《おもて》がほんのりと青ずんだ。月は水線に玉を沈めて、雪の晴れた白山に、薄紫の霧がかかったのである。
 早いもので、湖に、小さい黒い点が二つばかり、霧を曳《ひ》いて動いた。船である。
 睡眠《ねむり》は覚めたろう。翼を鳴らせ、朝霜に、光あれ、力あれ、寿《いのちなが》かれ、鷭よ。
 雪次郎は、しかし、青い顔して、露台に湖に面して、肩をしめて立っていた。
 お澄が入って来た――が、すぐに顔が見られなかった。首筋の骨が硬《こわ》ばったのである。

「貴方、ちょっと……お話がございます。」
 お澄が静《しずか》にそう言うと、からからと釣《つり》を手繰って、露台の硝子戸《がらすど》に、青い幕を深く蔽《おお》うた。
 閨《ねや》の障子はまだ暗い。
「何とも申しようがない。」
 雪は※[#「てへん+堂」、第4水準2-13-41]《どう》となって手を支《つ》いた。
「私は懺悔《ざんげ》をする、皆嘘だ。――画工《えかき》は画工で、上野の美術展覧会に出しは出したが、まったくの処は落第したんだ。自棄《やけ》まぎれに飛出したんで、両親には勘当はされても、位牌《いはい》に面目のあるような男じゃない。――その大革鞄《おおかばん》も借《かり》ものです。樊※[#「口+會」、第3水準1-15-25]《はんかい》の盾だと言って、貸した友だちは笑ったが、しかし、破りも裂きも出来ないので、そのなかにたたき込んである、鷭を画《か》いたのは事実です。女郎屋《じょろや》の亭主が名古屋くんだりから、電報で、片山津の戸を真夜中にあけさせた上に、お澄さんほどの女に、髪を結《い》わせ、化粧をさせて、給仕につかせて、供をつれて船を漕《こ》がせて、湖の鷭を狙撃《ねらいうち》に撃って廻る。犬が三頭――三疋とも言わないで、姐さんが奴等《やつら》の口うつしに言うらしい、その三頭も癪《しゃく》に障った。なにしろ、私の画《え》が突刎《つっぱ》ねられたように口惜《くやし》かった。嫉妬《ねたみ》だ、そねみだ、自棄なんです。――私は鷭になったんだ。――鷭が命乞いに来た、と思って堪《こら》えてくれ、お澄さん、堪忍してくれたまえ。いまは、勘定があるばかりだ、ここの勘定に心配はないが、そのほかは何にもない。――無論、私が志を得たら……」
「貴方。」
 とお澄がきっぱり言った。
「身を切られるより、貴方の前で、お恥かしい事ですが、親兄弟を養いますために、私はとうから、あの旦那のお世話になっておりますんです。それも棄て、身も棄てて、死ぬほどの思いをして、あなたのお言葉を貫きました。……あなたはここをお立ちになると、もうその時から、私なぞは、山の鳥です、野の薊《あざみ》です。路傍《みちばた》の塵《ちり》なんです。見返りもなさいますまい。――いいえ、いいえ……それを承知で、……覚悟の上でしました事です。私は女が一生に一度と思う事をしました。貴方、私に御褒美を下さいまし。」
「その、その、その事だよ……実は。」
「いいえ、ほかのものは要りません。ただ一品《ひとしな》。」
「ただ一品。」
「貴方の小指を切って下さい。」
「…………」
「澄に、小指を下さいまし。」
 少からず不良性を帯びたらしいまでの若者が、わなわなと震えながら、
「親が、両親《ふたおや》があるんだよ。」
「私にもございますわ。」
 と凜《りん》と言った。
 拳《こぶし》を握って、屹《きっ》と見て、
「お澄さん、剃刀《かみそり》を持っているか。」
「はい。」
「いや、――食切《くいき》ってくれ、その皓歯《しらは》で。……潔くあなたに上げます。」
 やがて、唇にふくまれた時は、かえって稚児《おさなご》が乳を吸うような思いがしたが、あとの疼痛《いたみ》は鋭かった。
 渠《かれ》は大夜具を頭から引被《ひっかぶ》った。
「看病をいたしますよ。」
 お澄は、胸白く、下じめの他《ほか》に血が浸《にじ》む。……繻子《しゅす》の帯がするすると鳴った。
[#地から1字上げ]大正十二(一九二三)年一月



底本:「泉鏡花集成7」ちくま文庫、筑摩書房
   1995(平成7)年12月4日第1刷発行
底本の親本:「鏡花全集 第二十二巻」岩波書店
   1940(昭和15)年11月20日第1刷発行
入力:門田裕志
校正:今井忠夫
2003年8月31日作成
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