青空文庫アーカイブ

売色鴨南蛮
泉鏡花

-------------------------------------------------------
【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)緋縮緬《ひぢりめん》であった

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)停車|場《じょう》の

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「目+爭」、第3水準1-88-85]《みは》った顔は
-------------------------------------------------------

       一

 はじめ、目に着いたのは――ちと申兼ねるが、――とにかく、緋縮緬《ひぢりめん》であった。その燃立つようなのに、朱で処々《ところどころ》ぼかしの入った長襦袢《ながじゅばん》で。女は裙《すそ》を端折《はしょ》っていたのではない。褄《つま》を高々と掲げて、膝で挟んだあたりから、紅《くれない》がしっとり垂れて、白い足くびを絡《まと》ったが、どうやら濡しょびれた不気味さに、そうして引上げたものらしい。素足に染まって、その紅《あか》いのが映りそうなのに、藤色の緒の重い厚ぼったい駒下駄《こまげた》、泥まみれなのを、弱々と内輪に揃えて、股《また》を一つ捩《よじ》った姿で、降《ふり》しきる雨の待合所の片隅に、腰を掛けていたのである。
 日永《ひなが》の頃ゆえ、まだ暮《くれ》かかるまでもないが、やがて五時も過ぎた。場所は院線電車の万世橋《まんせいばし》の停車|場《じょう》の、あの高い待合所であった。
 柳はほんのりと萌《も》え、花はふっくりと莟《つぼ》んだ、昨日今日、緑、紅《くれない》、霞の紫、春のまさに闌《たけなわ》ならんとする気を籠《こ》めて、色の濃く、力の強いほど、五月雨《さみだれ》か何ぞのような雨の灰汁《あく》に包まれては、景色も人も、神田川の小舟さえ、皆黒い中に、紅梅とも、緋桃とも言うまい、横しぶきに、血の滴るごとき紅木瓜《べにぼけ》の、濡れつつぱっと咲いた風情は、見向うものの、面《おもて》のほてるばかり目覚しい。……
 この目覚しいのを見て、話の主人公となったのは、大学病院の内科に勤むる、学問と、手腕を世に知らるる、最近留学して帰朝した秦宗吉《はたそうきち》氏である。
 辺幅《へんぷく》を修めない、質素な人の、住居《すまい》が芝の高輪《たかなわ》にあるので、毎日病院へ通うのに、この院線を使って、お茶の水で下車して、あれから大学の所在地まで徒歩するのが習《ならい》であったが、五日も七日もこう降り続くと、どこの道もまるで泥海のようであるから、勤人《つとめにん》が大路の往還《ゆきき》の、茶なり黒なり背広で靴は、まったく大袈裟《おおげさ》だけれど、狸が土舟という体《てい》がある。
 秦氏も御多分に漏れず――もっとも色が白くて鼻筋の通った処はむしろ兎の部に属してはいるが――歩行《あるき》悩んで、今日は本郷どおりの電車を万世橋で下りて、例の、銅像を横に、大《おおき》な煉瓦《れんが》を潜《くぐ》って、高い石段を昇った。……これだと、ちょっと歩行《ある》いただけで甲武線は東京の大中央を突抜けて、一息に品川へ……
 が、それは段取だけの事サ、時間が時間だし、雨は降る……ここも出入《ではいり》がさぞ籠むだろう、と思ったより夥《おびただ》しい混雑で、ただ停車場などと、宿場がって済《すま》してはおられぬ。川留《かわどめ》か、火事のように湧立《わきた》ち揉合《もみあ》う群集の黒山。中野行を待つ右側も、品川の左側も、二重三重に人垣を造って、線路の上まで押覆《おっかぶ》さる。
 すぐに電車が来た処で、どうせ一度では乗れはしまい。
 宗吉はそう断念《あきら》めて、洋傘《こうもり》の雫《しずく》を切って、軽く黒の外套《がいとう》の脇に挟みながら、薄い皮の手袋をスッと手首へ扱《しご》いて、割合に透いて見える、なぜか、硝子囲《がらすがこい》の温室のような気のする、雨気《あまけ》と人の香の、むっと籠《こも》った待合の裡《うち》へ、コツコツと――やはり泥になった――侘《わびし》い靴の尖《さき》を刻んで入った時、ふとその目覚しい処を見たのである。
 たしか、中央の台に、まだ大《おおき》な箱火鉢が出ていた……そこで、ハタと打撞《ぶつか》ったその縮緬の炎から、急に瞳を傍《わき》へ外《そ》らして、横ざまにプラットフォームへ出ようとすると、戸口の柱に、ポンと出た、も一つ赤いもの。

       二

 威《おどか》しては不可《いけな》い。何、黒山の中の赤帽で、そこに腕組をしつつ、うしろ向きに凭掛《もたれかか》っていたが、宗吉が顔を出したのを、茶色のちょんぼり髯《ひげ》を生《はや》した小白い横顔で、じろりと撓《た》めると、
「上りは停電……下りは故障です。」
 と、人の顔さえ見れば、返事はこう言うものと極《き》めたようにほとんど機械的に言った。そして頸窪《ぼんのくぼ》をその凭掛った柱で小突いて、超然とした。
「へッ! 上りは停電。」
「下りは故障だ。」
 響《ひびき》の応ずるがごとく、四五人口々に饒舌《しゃべ》った。
「ああ、ああ、」
「堪《たま》らねえなあ。」
「よく出来てら。」
「困ったわねえ。」と、つい釣込まれたかして、連《つれ》もない女学生が猪首《いくび》を縮めて呟《つぶや》いた。
 が、いずれも、今はじめて知ったのでは無さそうで、赤帽がしかく機械的に言うのでも分る。
 かかる群集の動揺《どよ》む下に、冷然たる線路は、日脚に薄暗く沈んで、いまに鯊《はぜ》が釣れるから待て、と大都市の泥海に、入江のごとく彎曲《わんきょく》しつつ、伸々《のびのび》と静まり返って、その癖|底光《そこびかり》のする歯の土手を見せて、冷笑《あざわら》う。
 赤帽の言葉を善意に解するにつけても、いやしくも中|山高帽《やまたか》を冠《かぶ》って、外套も服も身に添った、洋行がえりの大学教授が、端近《はしぢか》へ押出して、その際じたばたすべきではあるまい。
 宗吉は――煙草《たばこ》は喫《の》まないが――その火鉢の傍《そば》へ引籠《ひきこも》ろうとして、靴を返しながら、爪尖《つまさき》を見れば、ぐしょ濡《ぬれ》の土間に、ちらちらとまた紅《くれない》の褄が流れる。
 緋鯉《ひごい》が躍ったようである。
 思わず視線の向うのと、肩を合せて、その時、腰掛を立上った、もう一人の女がある。ちょうど緋縮緬のと並んでいた、そのつれかとも思われる、大島の羽織を着た、丸髷《まるまげ》の、脊の高い、面長な、目鼻立のきっぱりした顔を見ると、宗吉は、あっと思った。
 再び、おや、と思った。
 と言うのは、このごろ忙しさに、不沙汰《ぶさた》はしているが、知己《ちかづき》も知己、しかもその婚礼の席に列《つらな》った、従弟《いとこ》の細君にそっくりで。世馴《よな》れた人間だと、すぐに、「おお。」と声を掛けるほど、よく似ている。がその似ているのを驚いたのでもなければ、思い掛けず出会ったのを驚いたのでもない。まさしくその人と思うのが、近々《ちかぢか》と顔を会わせながら、すっと外らして窓から雨の空を視《み》た、取っても附けない、赤の他人らしい処置|振《ぶり》に、一驚を吃《きっ》したのである。
 いや、全く他人に違いない。
 けれども、脊恰好《せいかっこう》から、形容《なりかたち》、生際《はえぎわ》の少し乱れた処、色白な容色《きりょう》よしで、浅葱《あさぎ》の手柄《てがら》が、いかにも似合う細君だが、この女もまた不思議に浅葱の手柄で。鬢《びん》の色っぽい処から……それそれ、少し仰向《あおむ》いている顔つき。他人が、ちょっと眉を顰《ひそ》める工合《ぐあい》を、その細君は小鼻から口元に皺《しわ》を寄せる癖がある。……それまでが、そのままで、電車を待草臥《まちくたび》れて、雨に侘《わび》しげな様子が、小鼻に寄せた皺に明白《あからさま》であった。
 勿論、別人とは納得しながら、うっかり口に出そうな挨拶《こんにちは》を、唇で噛留《かみと》めて、心着くと、いつの間にか、足もやや近づいて、帽子に手を掛けていた極《きまり》の悪さに、背を向けて立直ると、雲低く、下谷《したや》、神田の屋根一面、雨も霞も漲《みなぎ》って濁った裡《なか》に、神田明神の森が見える。
 と、緋縮緬の女が、同じ方を凝《じっ》と視《み》ていた。

       三

 鼻の隆《たか》いその顔が、ひたひたと横に寄って、胸に白粉《おしろい》の着くように思った。
 宗吉は、愕然《がくぜん》とするまで、再び、似た人の面影をその女に発見《みいだ》したのである。
 緋縮緬の女は、櫛巻《くしまき》に結って、黒縮緬の紋着《もんつき》の羽織を撫肩《なでがた》にぞろりと着て、痩《や》せた片手を、力のない襟に挿して、そうやって、引上げた褄《つま》を圧《おさ》えるように、膝に置いた手に萌黄色《もえぎいろ》のオペラバッグを大事そうに持っている。もう三十を幾つも越した年紀《とし》ごろから思うと、小児《こども》の土産にする玩弄品《おもちゃ》らしい、粗末な手提《てさげ》を――大事そうに持っている。はきものも、襦袢《じゅばん》も、素足も、櫛巻も、紋着も、何となくちぐはぐな処へ、色白そうなのが濃い化粧、口の大きく見えるまで濡々《ぬれぬれ》と紅《べに》をさして、細い頸《えり》の、真白な咽喉《のど》を長く、明神の森の遠見に、伸上るような、ぐっと仰向いて、大きな目を凝《じっ》と※[#「目+爭」、第3水準1-88-85]《みは》った顔は、首だけ活人形《いきにんぎょう》を継《つ》いだようで、綺麗《きれい》なよりは、もの凄《すご》い。ただ、美しく優しく、しかもきりりとしたのは類《たぐい》なきその眉である。
 眉は、宗吉の思う、忘れぬ女と寸分違わぬ。が、この似たのは、もう一人の丸髷の方が、従弟の細君に似たほど、適格《しっくり》したものでは決してない。あるいはそれが余りよく似たのに引込まれて、心に刻んだ面影が緋縮緬の方に宿ったのであろうも知れぬ。
 よし、眉の姿ただ一枚でも、秦宗吉の胸は、夢に三日月を呑んだように、きらりと尊く輝いて、時めいて躍ったのである。
 ――お千と言った、その女は、実に宗吉が十七の年紀《とし》の生命《いのち》の親である。――
 しかも場所は、面前《まのあたり》彼処《かしこ》に望む、神田明神の春の夜《よ》の境内であった。
「ああ……もう一呼吸《ひといき》で、剃刀《かみそり》で、……」
 と、今|視《なが》めても身の毛が悚立《よだ》つ。……森のめぐりの雨雲は、陰惨な鼠色の隈《くま》を取った可恐《おそろし》い面のようで、家々の棟は、瓦の牙《きば》を噛み、歯を重ねた、その上に二処《ふたところ》、三処《みところ》、赤煉瓦《あかれんが》の軒と、亜鉛《トタン》屋根の引剥《ひっぺがし》が、高い空に、赫《かっ》と赤い歯茎を剥《む》いた、人を啖《く》う鬼の口に髣髴《ほうふつ》する。……その森、その樹立《こだち》は、……春雨の煙《けぶ》るとばかり見る目には、三ツ五ツ縦に並べた薄紫の眉刷毛《まゆばけ》であろう。死のうとした身の、その時を思えば、それも逆《さかしま》に生えた蓬々《おどろおどろ》の髯《ひげ》である。
 その空へ、すらすらと雁《かりがね》のように浮く、緋縮緬の女の眉よ! 瞳も据《すわ》って、瞬《まばた》きもしないで、恍惚《うっとり》と同じ処を凝視《みつ》めているのを、宗吉はまたちらりと見た。
 ああその女?
 と波を打って轟《とどろ》く胸に、この停車場は、大《おおい》なる船の甲板の廻るように、舳《みよし》を明神の森に向けた。
 手に取るばかりなお近い。
「なぞえに低くなった、あそこが明神坂だな。」
 その右側の露路の突当りの家で。……
 ――死のうとした日の朝――宗吉は、年紀上《としうえ》の渠《かれ》の友達に、顔を剃《あた》ってもらった。……その夜《よ》、明神の境内で、アワヤ咽喉《のんど》に擬したのはその剃刀であるが。
(ちょっと順序を附《つけ》よう。)
 宗吉は学資もなしに、無鉄砲に国を出て、行処《ゆきどころ》のなさに、その頃、ある一団の、取留めのない不体裁なその日ぐらしの人たちの世話になって、辛うじて雨露《うろ》を凌《しの》いでいた。
 その人たちというのは、主に懶惰《らんだ》、放蕩《ほうとう》のため、世に見棄てられた医学生の落第なかまで、年輩も相応、女房持《にょうぼうもち》なども交《まじ》った。中には政治家の半端もあるし、実業家の下積、山師も居たし、真面目《まじめ》に巡査になろうかというのもあった。
 そこで、宗吉が当時寝泊りをしていたのは、同じ明神坂の片側長屋の一軒で、ここには食うや食わずの医学生あがりの、松田と云うのが夫婦で居た。
 その突当りの、柳の樹に、軒燈の掛った見晴《みはらし》のいい誰かの妾宅《しょうたく》の貸間に居た、露の垂れそうな綺麗なのが……ここに緋縮緬の女が似たと思う、そのお千さんである。

       四

 お千は、世を忍び、人目を憚《はばか》る女であった。宗吉が世話になる、渠等《かれら》なかまの、ほとんど首領とも言うべき、熊沢という、追《おっ》て大実業家となると聞いた、絵に描いた化地蔵《ばけじぞう》のような大漢《おおおとこ》が、そんじょその辺のを落籍《ひか》したとは表向《おもてむき》、得心させて、連出して、内証で囲っていたのであるから。
 言うまでもなく商売人《くろうと》だけれど、芸妓《げいしゃ》だか、遊女《おいらん》だか――それは今において分らない――何しろ、宗吉には三ツ四ツ、もっとかと思う年紀上の綺麗な姉さん、婀娜《あだ》なお千さんだったのである。
 前夜まで――唯今《ただいま》のような、じとじと降《ぶり》の雨だったのが、花の開くように霽《あが》った、彼岸前の日曜の朝、宗吉は朝飯前《あさはんまえ》……というが、やがて、十時。……ここは、ひもじい経験のない読者にも御推読を願っておく。が、いつになってもその朝の御飯はなかった。
 妾宅では、前の晩、宵に一度、てんどんのお誂《あつら》え、夜中一時頃に蕎麦《そば》の出前が、芬《ぷん》と枕頭《まくらもと》を匂って露路を入ったことを知っているので、行《ゆ》けば何かあるだろう……天気が可《い》いとなお食べたい。空腹《すきばら》を抱いて、げっそりと落込むように、溝《みぞ》の減った裏長屋の格子戸を開けた処へ、突当りの妾宅の柳の下から、ぞろぞろと長閑《のどか》そうに三人出た。
 肩幅の広いのが、薄汚れた黄八丈の書生羽織を、ぞろりと着たのは、この長屋の主人《あるじ》で。一度戸口へ引込《ひっこ》んだ宗吉を横目で見ると、小指を出して、
「どうした。」
 と小声で言った。
「まだ、お寝《よ》ってです。」
 起きるのに張合がなくて、細君の、まだ裸体《はだか》で柏餅《かしわもち》に包《くる》まっているのを、そう言うと、主人はちょっと舌を出して黙って行《ゆ》く。
 次のは、剃《そ》りたての頭の青々とした綺麗な出家。細面《ほそおもて》の色の白いのが、鼠の法衣下《ころもした》の上へ、黒縮緬の五紋《いつつもん》、――お千さんのだ、振《ふり》の紅《あか》い――羽織を着ていた。昨夜《ゆうべ》、この露路に入った時は、紫の輪袈裟《わげさ》を雲のごとく尊く絡《まと》って、水晶の数珠《じゅず》を提げたのに。――
 と、うしろから、拳固《げんこ》で、前の円い頭をコツンと敲《たた》く真似して、宗吉を流眄《ながしめ》で、ニヤリとして続いたのは、頭毛《かみのけ》の真中《まんなか》に皿に似た禿《はげ》のある、色の黒い、目の窪《くぼ》んだ、口の大《おおき》な男で、近頃まで政治家だったが、飜って商業に志した、ために紋着《もんつき》を脱いで、綿銘仙の羽織を裄短《ゆきみじか》に、めりやすの股引《ももひき》を痩脚《やせずね》に穿《は》いている。……小皿の平四郎。
 いずれも、花骨牌《はちはち》で徹夜の今、明神坂の常盤湯《ときわゆ》へ行ったのである。
 行違いに、ぼんやりと、宗吉が妾宅へ入ると、食う物どころか、いきなり跡始末の掃除をさせられた。
「済まないことね、学生さんに働かしちゃあ。」
 とお千さんは、伊達巻一つの艶《えん》な蹴出《けだ》しで、お召の重衣《かさね》の裙《すそ》をぞろりと引いて、黒天鵝絨《くろびろうど》の座蒲団《ざぶとん》を持って、火鉢の前を遁《に》げながらそう言った。
「何、目下は私《あっし》たちの小僧です。」
 と、甘谷《あまや》という横肥《よこぶと》り、でぶでぶと脊の低い、ばらりと髪を長くした、太鼓腹に角帯を巻いて、前掛《まえかけ》の真田《さなだ》をちょきんと結んだ、これも医学の落第生。追って大実業家たらんとする準備中のが、笑いながら言ったのである。
 二人が、この妾宅の貸ぬしのお妾《めかけ》――が、もういい加減な中婆さん――と兼帯に使う、次の室《ま》へ立った間《ま》に、宗吉が、ひょろひょろして、時々浅ましく下腹をぐっと泣かせながら、とにかく、きれいに掃出すと、
「御苦労々々。」
 と、調子づいて、
「さあ、貴女《あなた》。」
 と、甘谷が座蒲団を引攫《ひっさら》って、もとの処へ。……身体《からだ》に似ない腰の軽い男。……もっとも甘谷も、つい十日ばかり前までは、宗吉と同じ長屋に貸蒲団の一ツ夜着《よぎ》で、芋虫ごろごろしていた処――事業の運動に外出《そとで》がちの熊沢旦那が、お千さんの見張兼番人かたがた妾宅の方へ引取って置くのであるから、日蔭ものでもお千は御主人。このくらいな事は当然で。
 対《つい》の蒲団を、とんとんと小形の長火鉢の内側へ直して、
「さ、さ、貴女。」
 と自分は退《の》いて、
「いざまず……これへ。」と口も気もともに軽い、が、起居《たちい》が石臼《いしうす》を引摺《ひきず》るように、どしどしする。――ああ、無理はない、脚気《かっけ》がある。夜あかしはしても、朝湯には行けないのである。
「可厭《いや》ですことねえ。」
 と、婀娜な目で、襖際《ふすまぎわ》から覗《のぞ》くように、友染の裾《すそ》を曳《ひ》いた櫛巻の立姿。

       五

 桜にはちと早い、木瓜《ぼけ》か、何やら、枝ながら障子に映る花の影に、ほんのりと日南《ひなた》の薫《かおり》が添って、お千がもとの座に着いた。
 向うには、旦那の熊沢が、上下大島の金鎖、あの大々したので、ドカリと胡坐《あぐら》を組むのであろう。
「お留守ですか。」
 宗吉が何となく甘谷に言った。ここにも見えず、湯に行った中にも居なかった。その熊沢を訊《き》いたのである。
 縁側の片隅で、
「えへん!」と屋鳴りのするような咳払《せきばらい》を響かせた、便所の裡《なか》で。
「熊沢はここに居《お》るぞう。」
「まあ。」
「随分ですこと、ほほほ。」
 と家主《いえぬし》のお妾が、次の室《ま》を台所へ通《とおり》がかりに笑って行《ゆ》くと、お千さんが俯向《うつむ》いて、莞爾《にっこり》して、
「余《あんま》り色気がなさ過ぎるわ。」
「そこが御婦人の毒でげす。」
 と甘谷は前掛をポンポンと敲《たた》いて、
「お千さんは大将のあすこン処へ落ッこちたんだ。」
「あら、随分……酷《ひど》いじゃありませんか、甘谷さん、余《あんま》りだよ。」
 何にも知らない宗吉にも、この間違は直ぐ分った、汚いに相違ない。
「いやあ、これは、失敗、失敬、失礼。」
 甘谷は立続けに叩頭《おじぎ》をして、
「そこで、おわびに、一つ貴女の顔を剃《あた》らして頂きやしょう。いえ、自慢じゃありませんがね、昨夜《ゆうべ》ッから申す通り、野郎|図体《ずうたい》は不器用でも、勝奴《かつやっこ》ぐらいにゃ確《たしか》に使えます。剃刀《かみそり》を持たしちゃ確《たしか》です。――秦君、ちょっと奥へ行って、剃刀を借りて来たまえ。」
 宗吉は、お千さんの、湯にだけは密《そっ》と行っても、床屋へは行《ゆ》けもせず、呼ぶのも慎むべき境遇を頷《うなず》きながら、お妾に剃刀を借りて戻る。……
「おっと!……ついでに金盥《かなだらい》……気を利かして、気を利かして。」
 この間に、いま何か話があったと見える。
「さあ、君、ここへ顔を出したり、一つ手際を御覧に入れないじゃ、奥さん御信用下さらない。」
「いいえ、そうじゃありませんけれどもね、私まだ、そんなでもないんですから。」
「何、御遠慮にゃあ及びません。間違った処でたかが小僧の顔でさ。……ちょうど、ほら、むく毛が生えて、※[#「滔」の「さんずい」に代えて「しょくへん」、第4水準2-92-68]子《あんこ》の撮食《つまみぐい》をしたようだ。」
 宗吉は、可憐《あわれ》やゴクリと唾《つ》を呑んだ。
「仰向いて、ぐっと。そら、どうです、つるつるのつるつると、鮮かなもんでげしょう。」
「何だか危《あぶな》ッかしいわね。」
 と少し膝を浮かしながら、手元を覗いて憂慮《きづかわ》しそうに、動かす顔が、鉄瓶の湯気の陽炎《かげろう》に薄絹を掛けつつ、宗吉の目に、ちらちら、ちらちら。
「大丈夫、それこの通り、ちょいちょいの、ちょいちょいと、」
「あれ、止《よ》して頂戴、止してよ。」
 と浮かした膝を揺ら揺らと、袖が薫って伸上る。
「なぜですてば。」
「危いわ、危いわ。おとなしい、その優しい眉毛《まみえ》を、落したらどうしましょう。」
「その事ですかい。」
 と、ちょっと留めた剃刀をまた当てた。
「構やしません。」
「あれ、目の縁はまだしもよ、上は止して、後生だから。」
「貴女の襟脚を剃《す》ろうてんだ。何、こんなものぐらい。」
「ああ、ああああ、ああーッ。」
 と便所の裡《なか》で屋根へ投げた、筒抜けな大欠伸《おおあくび》。
「笑っちゃあ……不可《いけな》い不可い。」
「ははははは、笑ったって泣いたって、何、こんな小僧ッ子の眉毛《まゆげ》なんか。」
「厭《いや》、厭、厭。」
 と支膝《つきひざ》のまま、するすると寄る衣摺《きぬずれ》が、遠くから羽衣の音の近《ちかづ》くように宗吉の胸に響いた……畳の波に人魚の半身。
「どんな母《おっか》さんでしょう、このお方。」
 雪を欺く腕《かいな》を空に、甘谷の剃刀の手を支え、突いて離して、胸へ、抱くようにして熟《じっ》と視《み》た。
「羨《うらやま》しい事、まあ、何て、いい眉毛《まみえ》だろう。親御はさぞ、お可愛いだろうねえ。」
 乳も白々と、優しさと可懐《なつか》しさが透通るように視《み》えながら、衣《きぬ》の綾《あや》も衣紋《えもん》の色も、黒髪も、宗吉の目の真暗《まっくら》になった時、肩に袖をば掛けられて、面《おもて》を襟に伏せながら、忍び兼ねた胸を絞って、思わず、ほろほろと熱い涙。
 お妾が次の室《ま》から、
「切れますか剃刀は……あわせに遣《や》ろう遣ろうと思いましちゃあ……ついね……」

 自殺をするのに、宗吉は、床屋に持って行《ゆ》きましょう、と言って、この剃刀を取って出た。それは同じ日の夜《よ》に入《い》ってからである。
 仔細《しさい》は……

       六

 ……さて、やがて朝湯から三人が戻って来ると、長いこと便所に居た熊沢も一座で、また花札を弄《もてあそ》ぶ事になって、朝飯は鮨《すし》にして、湯豆腐でちょっと一杯、と言う。
 この使《つかい》のついでに、明神の石坂、開化楼裏の、あの切立《きったて》の段を下りた宮本町の横小路に、相馬《そうま》煎餅《せんべい》――塩煎餅の、焼方の、醤油《したじ》の斑《ふ》に、何となく轡《くつわ》の形の浮出して見える名物がある。――茶受にしよう、是非お千さんにも食べさしたいと、甘谷の発議。で、宗吉がこれを買いに遣られたのが事の原因《おこり》であった。
 何分にも、十六七の食盛《くいざか》りが、毎日々々、三度の食事にがつがつしていた処へ、朝飯前とたとえにも言うのが、突落されるように嶮《けわ》しい石段を下りたドン底の空腹《ひもじ》さ。……天麩羅《てんぷら》とも、蕎麦《そば》とも、焼芋とも、芬《ぷん》と塩煎餅の香《こうば》しさがコンガリと鼻を突いて、袋を持った手がガチガチと震う。近飢《ちかがつ》えに、冷い汗が垂々《たらたら》と身うちに流れる堪え難さ。
 その時分の物価で、……忘れもしない七銭が煎餅の可なり嵩《かさ》のある中から……小判のごとく、数二枚。
 宗吉は、一坂《ひとさか》戻って、段々にちょっと区劃《くぎり》のある、すぐに手を立てたように石坂がまた急になる、平面な処で、銀杏《いちょう》の葉はまだ浅し、樅《もみ》、榎《えのき》の梢《こずえ》は遠し、楯《たて》に取るべき蔭もなしに、崕《がけ》の溝端《どぶばた》に真俯向《まうつむ》けになって、生れてはじめて、許されない禁断の果《このみ》を、相馬の名に負う、轡をガリリと頬張る思いで、馬の口にかぶりついた。が、甘《うま》さと切なさと恥かしさに、堅くなった胸は、自《おのず》から溝《どぶ》の上へのめって、折れて、煎餅は口よりもかえって胃の中でボリボリと破《わ》れた。
 ト突出《つきだし》た廂《ひさし》に額を打たれ、忍返《しのびがえし》の釘に眼を刺され、赫《かっ》と血とともに総身《そうしん》が熱く、たちまち、罪ある蛇になって、攀上《よじのぼ》る石段は、お七が火の見を駆上った思いがして、頭《こうべ》に映《さ》す太陽は、血の色して段に流れた。
 宗吉はかくてまた明神の御手洗《みたらし》に、更に、氷に閑《とじ》らるる思いして、悚然《ぞっ》と寒気を感じたのである。
「くすくす、くすくす。」
 花骨牌《はちはち》の車座の、輪に身を捲《ま》かるる、危《あやう》さを感じながら、宗吉が我知らず面《おもて》を赤めて、煎餅の袋を渡したのは、甘谷の手で。
「おっと来た、めしあがれ。」
 と一枚めくって合せながら、袋をお千さんの手に渡すと、これは少々疲れた風情で、なかまへは入らぬらしい。火鉢を隔てたのが請取って、膝で覗《のぞ》くようにして開けて、
「御馳走様ですね……早速お毒見。」
 と言った。
 これにまた胸が痛んだ。だけなら、まださほどまでの仔細はなかった。
「くすくす、くすくす。」
 宗吉がこの座敷へ入りしなに、もうその忍び笑いの声が耳に附いたのであるが、この時、お千さんの一枚|撮《つま》んだ煎餅を、見ないように、ちょっと傍《わき》へかわした宗吉の顔に、横から打撞《ぶつか》ったのは小皿の平四郎。……頬骨の張った菱形の面《つら》に、窪《くぼ》んだ目を細く、小鼻をしかめて、
「くすくす。」
 とまた遣った。手にわるさに落ちたと見えて札は持たず、鍍金《めっき》の銀煙管《ぎんぎせる》を構えながら、めりやすの股引《ももひき》を前はだけに、片膝を立てていたのが、その膝頭に頬骨をたたき着けるようにして、
「くすくすくす。」
 続けて忍び笑《わらい》をしたのである。
 立続《たてつ》けて、
「くッくッくッ。」

       七

「こっちは、びきを泣かせてやれか。」
 と黄八丈が骨牌《ふだ》を捲《めく》ると、黒縮緬の坊さんが、紅《あか》い裏を翻然《ひらり》と翻《かえ》して、
「餓鬼め。」
 と投げた。
「うふ、うふ、うふ。」と平四郎の忍び笑が、歯茎を洩《も》れて声に出る。
「うふふ、うふふ、うふふふふふ。」
「何じゃい。」と片手に猪口《ちょく》を取りながら、黒天鵝絨《くろびろうど》の蒲団《ふとん》の上に、萩、菖蒲《あやめ》、桜、牡丹《ぼたん》の合戦を、どろんとした目で見据えていた、大島揃《おおしまぞろい》、大胡坐《おおあぐら》の熊沢が、ぎょろりと平四郎を見向いて言うと、笑いの虫は蕃椒《とうがらし》を食ったように、赤くなるまで赫《かっ》と競勢《きお》って、
「うはははは、うふふ、うふふ。うふふ。えッ、いや、あ、あ、チ、あははははは、はッはッはッはッ、テ、ウ、えッ、えッ、えッ、えへへ、うふふ、あはあはあは、あは、あはははははは、あはははは。」
「馬鹿な。」
 と唇を横舐《よこな》めずって、熊沢がぬっと突出した猪口に、酌をしようとして、銅壺《どうこ》から抜きかけた銚子《ちょうし》の手を留め、お千さんが、
「どうしたの。」
「おほほ、や、お尋ねでは恐入るが、あはは、テ、えッ。えへ、えへへ、う、う、ちえッ、堪《たま》らない。あッはッはッはッ。」
「魔が魅《さ》したようだ。」
 甘谷が呆《あき》れて呟《つぶや》く、……と寂然《しん》となる。
 寂寞《しん》となると、笑《わらい》ばかりが、
「ちゃはははは、う、はは、うふ、へへ、ははは、えへへへへ、えッへ、へへ、あははは、うは、うは、うはは。どッこい、ええ、チ、ちゃはは、エ、はははは、ははははは、うッ、うッ、えへッへッへッ。」
 と横のめりに平四郎、煙管の雁首《がんくび》で脾腹《ひばら》を突《つつ》いて、身悶《みもだ》えして、
「くッ、苦しい……うッ、うッ、うッふふふ、チ、うッ、うううう苦しい。ああ、切ない、あはははは、あはッはッはッ、おお、コ、こいつは、あはは、ちゃはは、テ、チ、たッたッ堪らん。ははは。」
 と込上げ揉立《もみた》て、真赤《まっか》になった、七|顛《てん》八|倒《とう》の息継《いきつぎ》に、つぎ冷《ざま》しの茶を取って、がぶりと遣ると、
「わッ。」と咽《む》せて、灰吹を掴《つか》んだが間に合わず、火入の灰へぷッと吐くと、むらむらと灰かぐら。
「ああ、あの児《こ》、障子を一枚開けていな。」
 と黒縮緬の袖で払って出家が言った。
 宗吉は針の筵《むしろ》を飛上るように、そのもう一枚、肘懸窓《ひじかけまど》の障子を開けると、颯《さっ》と出る灰の吹雪は、すッと蒼空《あおぞら》に渡って、遥《はるか》に品川の海に消えた。が、蔵前の煙突も、十二階も、睫毛《まつげ》に一眸《ひとめ》の北の方《かた》、目の下、一雪崩《ひとなだれ》に崕《がけ》になって、崕下の、ごみごみした屋根を隔てて、日南《ひなた》の煎餅屋の小さな店が、油障子も覗かれる。
 ト斜《ななめ》に、がッくりと窪《くぼ》んで暗い、崕と石垣の間の、遠く明神の裏の石段に続くのが、大蜈蚣《おおむかで》のように胸前《むなさき》に畝《うね》って、突当りに牙《きば》を噛合《かみあ》うごとき、小さな黒塀の忍び返《がえし》の下に、溝《どぶ》から這上《はいあが》った蛆《うじ》の、醜い汚い筋をぶるぶると震わせながら、麸《ふ》を嘗《な》めるような形が、歴然《ありあり》と、自分《おの》が瞳に映った時、宗吉はもはや蒼白《まっさお》になった。
 ここから認《み》られたに相違ない。
 と思う平四郎は、涎《よだれ》と一所に、濡らした膝を、手巾《ハンケチ》で横撫でしつつ、
「ふ、ふ、ふ、ふ、ふ。」……大歎息《おおためいき》とともに尻を曳《ひ》いたなごりの笑《わらい》が、更に、がらがらがらと雷の鳴返すごとく少年の耳を打つ!……
「お煎《せん》をめしあがれな。」
 目の下の崕が切立《きった》てだったら、宗吉は、お千さんのその声とともに、倒《さかしま》に落ちてその場で五体を微塵《みじん》にしたろう。
 産《うみ》の親を可懐《なつか》しむまで、眉の一片《ひとひら》を庇《かば》ってくれた、その人ばかりに恥かしい。……
「ちょっと、宅《うち》まで。」
 と息を呑んで言った――宅とは露路のその長屋で。
 宗吉は、しかし、その長屋の前さえ、遁隠《にげかく》れするように素通りして、明神の境内のあなたこなた、人目の隙《すき》の隅々に立って、飢《うえ》さえ忘れて、半日を泣いて泣きくらした。
 星も曇った暗き夜《よ》に、
「おかみさん――床屋へ剃刀を持って参りましょう。ついでがございますから……」
 宗吉はわざと格子戸をそれて、蚯蚓《みみず》の這うように台所から、密《そっ》と妾宅へおとずれて、家主の手から剃刀を取った。
 間《ま》を隔てた座敷に、艶《あで》やかな影が気勢《けはい》に映って、香水の薫《かおり》は、つとはしり下《もと》にも薫った。が、寂寞《ひっそり》していた。
 露路の長屋の赤い燈《あかり》に、珍しく、大入道やら、五分刈やら、中にも小皿で禿《かむろ》なる影法師が動いて、ひそひそと声の漏れるのが、目を忍び、音《ね》を憚《はばか》る出入りには、宗吉のために、むしろ僥倖《さいわい》だったのである。

       八

「何をするんですよ、何をするんですよ、お前さん、串戯《じょうだん》ではありません。」
 社殿の裏なる、空茶店《あきちゃみせ》の葦簀《よしず》の中で、一方の柱に使った片隅なる大木の銀杏《いちょう》の幹に凭掛《よりかか》って、アワヤ剃刀を咽喉《のど》に当てた時、すッと音して、滝縞《たきじま》の袖で抱いたお千さんの姿は、……宗吉の目に、高い樹の梢から颯《さっ》と下りた、美しい女の顔した不思議な鳥のように映った――
 剃刀をもぎ取られて後は、茫然《ぼうぜん》として、ほとんど夢心地である。
「まあ! 可《よ》かった。」
 と、身を捻《ね》じて、肩を抱きつつ、社《やしろ》の方を片手拝みに、
「虫が知らしたんだわね。いま、お前さんが台所で、剃刀を持って行《ゆ》くって声が聞えたでしょう、ドキリとしたのよ。……秦さん秦さんと言ったけれど、もう居ないでしょう。何だかね、こんな間違がありそうな気がしてならない、私。私、でね、すぐに後から駆出したのさ。でも、どこって当《あて》はないんだもの、鳥居前のあすこの床屋で聞いてみたの。まあね、……まるでお見えなさらないと言うじゃあないの。しまった、と思ったわ。半分夢中で、それでも私がここへ来たのは神仏《かみほとけ》のお助けです。秦さん、私が助けるんだと思っちゃあ不可《いけな》い。可《よ》うござんすか、可《い》いかえ、貴方《あなた》。……親御さんが影身に添っていなさるんですよ。可《よう》ござんすか、分りましたか。」
 と小児《こども》のように、柔い胸に、帯も扱帯《しごき》もひったりと抱き締めて、
「御覧なさい、お月様が、あれ、仏様《ののさん》が。」
 忘れはしない、半輪の五日の月が黒雲を下りるように、荘厳なる銀杏の枝に、梢さがりに掛《かか》ったのが、可懐《なつかし》い亡き母の乳房の輪線の面影した。
「まあ、これからという、……女にしても蕾《つぼみ》のいま、どうして死のうなんてしたんですよ。――私に……私……ええ、それが私に恥かしくって、――」
 その乳《ち》の震《ふるえ》が胸に響く。
「何の塩煎餅の二枚ぐらい、貴方が掏賊《ちぼ》でも構やしない――私はね、あの。……まあ、とにかく、内へ行《ゆ》きましょう。可《い》い塩梅《あんばい》に誰も居ないから。」
 促して、急いで脱放しの駒下駄を捜《さぐ》る時、白脛《しらはぎ》に緋《ひ》が散った。お千も慌《あわただ》しかったと見えて、宗吉の穿物《はきもの》までは心着かず、可恐《おそろ》しい処を遁《に》げるばかりに、息せいて手を引いたのである。
 魔を除《よ》け、死神を払う禁厭《まじない》であろう、明神の御手洗《みたらし》の水を掬《すく》って、雫《しずく》ばかり宗吉の頭髪《かみ》を濡らしたが、
「……息災、延命、息災延命、学問、学校、心願成就。」
 と、手よりも濡れた瞳を閉じて、頸《えり》白く、御堂《みどう》をば伏拝み、
「一口めしあがれ、……気を静めて――私も。」
 と柄杓《ひしゃく》を重げに口にした。
「動悸《どうき》を御覧なさいよ、私のさ。」
 その胸の轟《とどろ》きは、今より先に知ったのである。
「秦さん、私は貴方を連れて、もうあすこへは戻らない。……身にも命にもかえてね、お手伝をしますがね、……実はね、今明神様におわびをして、貴方のお頭《つむ》を濡らしたのは――実は、あの、一度内へ帰ってね。……この剃刀で、貴方を、そりたての今道心にして、一緒に寝ようと思ったのよ。――あのね、実はね、今夜あたり紀州のあの坊さんに、私が抱かれて、そこへ、熊沢だの甘谷だのが踏込んで、不義いたずらの罪に落そうという相談に……どうでも、と言って乗せられたんです。
 ……あの坊さんは、高野山とかの、金高《かねだか》なお宝ものを売りに出て来ているんでしょう。どことかの大金持だの、何省の大臣だのに売ってやると言って、だまして、熊沢が皆質に入れて使ってしまって、催促される、苦しまぎれに、不断、何だか私にね、坊さんが厭味《いやみ》らしい目つきをするのを知っていて、まあ大それた美人局《つつもたせ》だわね。
 私が弱いもんだから、身体《からだ》も度胸もずばぬけて強そうな、あの人をたよりにして、こんな身裁《しだら》になったけれど、……そんな相談をされてからはね……その上に、この眉毛《まみえ》を見てからは……」
 と、お千は密《そっ》と宗吉の肩を撫でた。
「つくづく、あんな人が可厭《いや》になった。――そら、どかどかと踏込むでしょう。貴方を抱いて、ちゃんと起きて、居直って、あいそづかしをきっぱり言って、夜中に直ぐに飛出して、溜飲《りゅういん》を下げてやろうと思ったけれど……どんな発機《はずみ》で、自棄腹《やけばら》の、あの人たちの乱暴に、貴方に怪我でもさせた日にゃ、取返しがつかないから、といま胸に手を置いて、分別をしたんですよ。
 さ、このままどこかへ行《ゆ》きましょう。私に任して安心なさいよ。……貴方もきっとあの人たちに二度とつき合っては不可《いけ》ません。」
 裏崕《うらがけ》の石段を降りる時、宗吉は狼の峠を越して、花やかな都を見る気がした。
「ここ……そう……」
 お千さんが莞爾《にっこり》して、塩煎餅を買うのに、昼夜帯を抽《ぬ》いたのが、安ものらしい、が、萌黄《もえぎ》の金入《かねいれ》。
「食べながら歩行《あるき》ましょう。」

「弱虫だね。」
 大通《おおどおり》へ抜ける暗がりで、甘く、且つ香《かんば》しく、皓歯《しらは》でこなしたのを、口移し……

       九

 宗吉が夜学から、徒士町《おかちまち》のとある裏の、空瓶屋と襤褸屋《ぼろや》の間の、貧しい下宿屋へ帰ると、引傾《ひきかし》いだ濡縁《ぬれえん》づきの六畳から、男が一人|摺違《すれちが》いに出て行《ゆ》くと、お千さんはパッと障子を開けた。が、もう床が取ってある……
 枕元の火鉢に、はかり炭を継いで、目の破れた金網を斜《はす》に載せて、お千さんが懐紙《ふところがみ》であおぎながら、豌豆餅《えんどうもち》を焼いてくれた。
 そして熱いのを口で吹いて、嬉しそうな宗吉に、浦里の話をした。
 お千は、それよりも美しく、雪はなけれど、ちらちらと散る花の、小庭の湿地《しけち》の、石炭殻につもる可哀《あわれ》さ、痛々しさ。
 時次郎でない、頬被《ほおかぶり》したのが、黒塀の外からヌッと覗く。
 お千が脛白《はぎしろ》く、はっと立って、障子をしめようとする目の前へ、トンと下りると、つかつかと縁側へ。
「あれ。」
「おい、気の毒だがちょっと用事だ。」
 と袖から蛇の首のように捕縄《とりなわ》をのぞかせた。
 膝をなえたように支《つ》きながら、お千は宗吉を背後《うしろ》に囲って、
「……この人は……」
「いや、小僧に用はない。すぐおいで。」
「宗ちゃん、……朝の御飯はね、煮豆が買って蓋《ふた》ものに、……紅生薑《べにしょうが》と……紙の蔽《おおい》がしてありますよ。」
 風俗係は草履を片手に、もう入口の襖《ふすま》を開けていた。
 お千が穿《はき》ものをさがすうちに、風俗係は、内から、戸の錠をあけたが、軒を出ると、ひたりと腰縄を打った。
 細腰はふっと消えて、すぼめた肩が、くらがりの柳に浮く。
 ……そのお千には、もう疾《とう》に、羽織もなく、下着もなく、膚《はだえ》ただ白く縞《しま》の小袖の萎《な》えたるのみ。
 宗吉は、跣足《はだし》で、めそめそ泣きながら後を追った。
 目も心も真暗《まっくら》で、町も処も覚えない。颯《さっ》と一条の冷い風が、電燈の細い光に桜を誘った時である。
「旦那。」
 とお千が立停《たちど》まって、
「宗ちゃん――宗ちゃん。」
 振向きもしないで、うなだれたのが、気を感じて、眉を優しく振向いた。
「…………」
「姉さんが、魂をあげます。」――辿《たど》りながら折ったのである。……懐紙の、白い折鶴が掌《て》にあった。
「この飛ぶ処へ、すぐおいで。」
 ほっと吹く息、薄紅《うすくれない》に、折鶴はかえって蒼白《あおじろ》く、花片《はなびら》にふっと乗って、ひらひらと空を舞って行く。……これが落ちた大《おおき》な門で、はたして宗吉は拾われたのであった。

 電車が上り下りともほとんど同時に来た。
 宗吉は身動きもしなかった。
 と見ると、丸髷《まるまげ》の女が、その緋縮緬《ひぢりめん》の傍《そば》へ衝《つ》と寄って、いつか、肩ぬげつつ裏の辷《すべ》った効性《かいしょう》のない羽織を、上から引合せてやりながら、
「さあ、来ました。」
「自動車ですか。」
 と目を※[#「目+爭」、第3水準1-88-85]《みは》ったまま、緋縮緬の女はきょろんとしていた。

       十

 年若《としわか》い駅員が、
「貴方がたは?」
 と言った。
 乗り余った黒山の群集も、三四輛立続けに来た電車が、泥まで綺麗に浚《さら》ったのに、まだ待合所を出なかった女二人、(別に一人)と宗吉をいぶかったのである。
 宗吉は言った。
「この御婦人が御病気なんです。」
 と、やっぱり、けろりと仰向《あおむ》いている緋縮緬の女を、外套《がいとう》の肘《ひじ》で庇《かば》って言った。
 駅員の去ったあとで、
「唯今《ただいま》、自動車を差上げますよ。」
 と宗吉は、優しく顔を覗《のぞ》きつつ、丸髷の女に瞳を返して、
「巣鴨はお見合せを願えませんか。……きっと御介抱申します。私《わたくし》はこういうものです。」
 なふだに医学博士――秦宗吉とあるのを見た時、……もう一人居た、散切《ざんぎり》で被布の女が、P形に直立して、Zのごとく敬礼した。これは附添の雑仕婦《ぞうしふ》であったが、――博士が、その従弟の細君に似たのをよすがに、これより前《さき》、丸髷の女に言《ことば》を掛けて、その人品のゆえに人をして疑わしめず、連《つれ》は品川の某楼の女郎で、気の狂ったため巣鴨の病院に送るのだが、自動車で行きたい、それでなければ厭《いや》だと言う。そのつもりにして、すかして電車で来ると、ここで自動車でないからと言って、何でも下りて、すねたのだと言う。……丸髷は某楼のその娘分。女郎の本名をお千と聞くまで、――この雑仕婦は物頂面《ぶっちょうづら》して睨《にら》んでいた。

 不時の回診に驚いて、ある日、その助手たち、その白衣の看護婦たちの、ばらばらと急いで、しかも、静粛に駆寄るのを、徐《おもむ》ろに、左右に辞して、医学博士秦宗吉氏が、
「いえ、個人で見舞うのです……皆さん、どうぞ。」
 やがて博士は、特等室にただ一人、膝も胸も、しどけない、けろんとした狂女に、何と……手に剃刀《かみそり》を持たせながら、臥床《ベッド》に跪《ひざまず》いて、その胸に額を埋めて、ひしと縋《すが》って、潸然《さんぜん》として泣きながら、微笑《ほほえ》みながら、身も世も忘れて愚に返ったように、だらしなく、涙を髯《ひげ》に伝わらせていた。
[#地から1字上げ]大正九(一九二○)年五月



底本:「泉鏡花集成7」ちくま文庫、筑摩書房
   1995(平成7)年12月4日第1刷発行
底本の親本:「鏡花全集 第二十巻」岩波書店
   1941(昭和16)年5月20日第1刷発行
入力:門田裕志
校正:今井忠夫
2003年8月31日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。


前のページに戻る 青空文庫アーカイブ