青空文庫アーカイブ

こがね丸
巌谷小波

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)或《あ》る深山《みやま》の奥に

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一山|万獣《ばんじゅう》の、

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(例)※[#「口+愛」、第3水準1-15-23]

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     少年文学序

 奇獄小説に読む人の胸のみ傷《いた》めむとする世に、一巻の穉《おさな》物語を著す。これも人|真似《まね》せぬ一流のこころなるべし。欧羅巴《ヨーロッパ》の穉物語も多くは波斯《ペルシア》の鸚鵡冊子《おうむさっし》より伝はり、その本源は印度の古文にありといへば、東洋は実にこの可愛らしき詩形の家元なり。あはれ、ここに染出す新|暖簾《のれん》、本家再興の大望を達して、子々孫々までも巻をかさねて栄へよかしと祷《いの》るものは、
[#地から9字上げ]本郷千駄木町《ほんごうせんだぎちょう》の
[#地から3字上げ]鴎外《おうがい》漁史なり
[#改頁]

     凡  例

[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
一 この書題して「少年文学」といへるは、少年用文学[#「少年用文学」に白丸傍点]との意味にて、独逸《ドイツ》語の Jugendschrift (juvenile literature) より来れるなれど、我邦に適当の熟語なければ、仮にかくは名付けつ。鴎外兄がいはゆる穉物語[#「穉物語」に白丸傍点]も、同じ心なるべしと思ふ。
一 されば文章に修飾を勉《つと》めず、趣向に新奇を索《もと》めず、ひたすら少年の読みやすからんを願ふてわざと例の言文一致も廃しつ。時に五七の句調など用ひて、趣向も文章も天晴《あっぱ》れ時代ぶりたれど、これかへつて少年には、誦《しょう》しやすく解しやすからんか。
一 作者この『こがね丸』を編むに当りて、彼のゲーテーの Reineke Fuchs(狐の裁判)その他グリム、アンデルゼン等の Maerchen(奇異談)また我邦には桃太郎かちかち山を初めとし、古きは『今昔《こんじゃく》物語』、『宇治拾遺《うじしゅうい》』などより、天明ぶりの黄表紙《きびょうし》類など、種々思ひ出して、立案の助けとなせしが。されば引用書として、名記するほどにもあらず。
一 ちと手前味噌《てまえみそ》に似たれど、かかる種の物語現代の文学界には、先づ稀有《けう》のものなるべく、威張《いばり》ていへば一の新現象なり。されば大方の詞友諸君、縦令《たとい》わが作[#「わが作」に傍点]の取るに足らずとも[#「取るに足らずとも」に傍点]、この後諸先輩の続々討て出で賜ふなれば、とかくこの少年文学[#「少年文学」に白丸傍点]といふものにつきて、充分|論《あげつ》らひ賜ひてよト、これも予《あらかじ》め願ふて置く。
一 詞友われを目《もく》して文壇の少年家といふ、そはわがものしたる小説の、多く少年を主人公にしたればなるべし。さるにこの度また少年文学の前坐を務む、思へば争はれぬものなりかし。
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから3字下げ]
庚寅《かのえとら》の臘月《ろうげつ》。もう八ツ寝るとお正月といふ日
[#ここで字下げ終わり]
[#地から3字上げ]昔桜亭において  漣山人《さざなみさんじん》誌《しるす》
[#改丁]

   上巻

     第一回

 むかし或《あ》る深山《みやま》の奥に、一匹の虎住みけり。幾星霜《いくとしつき》をや経たりけん、躯《からだ》尋常《よのつね》の犢《こうし》よりも大《おおき》く、眼《まなこ》は百錬の鏡を欺き、鬚《ひげ》は一束《ひとつか》の針に似て、一度《ひとたび》吼《ほ》ゆれば声|山谷《さんこく》を轟《とどろ》かして、梢《こずえ》の鳥も落ちなんばかり。一|山《さん》の豺狼《さいろう》麋鹿《びろく》畏《おそ》れ従はぬものとてなかりしかば、虎はますます猛威を逞《たくまし》うして、自ら金眸《きんぼう》大王と名乗り、数多《あまた》の獣類《けもの》を眼下に見下《みくだ》して、一山|万獣《ばんじゅう》の君とはなりけり。
 頃《ころ》しも一月の初《はじめ》つ方《かた》、春とはいへど名のみにて、昨日《きのう》からの大雪に、野も山も岩も木も、冷《つめた》き綿《わた》に包まれて、寒風|坐《そぞ》ろに堪えがたきに。金眸は朝より洞《ほら》に籠《こも》りて、独《ひと》り蹲《うずく》まりゐる処へ、兼《かね》てより称心《きにいり》の、聴水《ちょうすい》といふ古狐《ふるぎつね》、岨《そば》伝ひに雪踏み分《わげ》て、漸《ようや》く洞の入口まで来たり。雪を払ひてにじり入り、まづ慇懃《いんぎん》に前足をつかへ、「昨日よりの大雪に、外面《そとも》に出《いず》る事もならず、洞にのみ籠り給ひて、さぞかし徒然《つれづれ》におはしつらん」トいへば。金眸は身を起こして、「※[#「口+愛」、第3水準1-15-23]《オー》聴水なりしか、よくこそ来りつれ。実《まこと》に爾《なんじ》がいふ如く、この大雪にて他出《そとで》もならねば、独り洞に眠りゐたるに、食物《かて》漸く空《むな》しくなりて、やや空腹《ものほし》う覚ゆるぞ。何ぞ好《よ》き獲物はなきや、……この大雪なればなきも宜《むべ》なり」ト嘆息するを。聴水は打消し、「いやとよ大王。大王もし実《まこと》に空腹《ものほし》くて、食物《かて》を求め給ふならば、僕《やつがれ》好き獲物を進《まいら》せん」「なに好き獲物とや。……そは何処《いずこ》に持来りしぞ」「否《いな》。此処《ここ》には持ち侍《はべ》らねど、大王|些《ちと》の骨を惜まずして、この雪路《ゆきみち》を歩みたまはば、僕よき処へ東道《あんない》せん。怎麼《いか》に」トいへば。金眸|呵々《からから》と打笑ひ、「やよ聴水。縦令《たと》ひわれ老いたりとて、焉《いずく》ンぞこれしきの雪を恐れん。かく洞にのみ垂籠《たれこ》めしも、決して寒気を厭《いと》ふにあらず、獲物あるまじと思へばなり。今爾がいふ処|偽《いつわり》ならずば、速《すみやか》に東道《あんない》せよ、われ往《ゆ》きてその獲物を取らんに、什麼《そも》そは何処《いずく》ぞ」トいへば。聴水はしたり顔にて、「大王速かに承引《うけがい》たまひて、僕《やつがれ》も実《まこと》に喜ばしく候。されば暫く心を静め給ひて、わがいふ事を聞き給へ。そもその獲物と申すは、この山の麓《ふもと》の里なる、荘官《しょうや》が家の飼犬にて、僕|他《かれ》には浅からぬ意恨《うらみ》あり。今大王|往《ゆき》て他《かれ》を打取たまはば、これわがための復讐《あだがえし》、僕が欣喜《よろこび》これに如《し》かず候」トいふに金眸|訝《いぶか》りて、「こは怪《け》しからず。その意恨《うらみ》とは怎麼《いか》なる仔細《しさい》ぞ、苦しからずば語れかし」「さん候。一昨日《おとつい》の事なりし、僕かの荘官が家の辺《ほとり》を過《よぎ》りしに、納屋《なや》と覚《おぼし》き方《かた》に当りて、鶏の鳴く声す。こは好き獲物よと思ひしかば、即《すなわ》ち裏の垣より忍び入りて※[#「穴/果」、第3水準1-89-51]宿《とや》近く往かんとする時、他《かれ》目慧《めざと》くも僕を見付《みつけ》て、驀地《まっしぐら》に飛《とん》で掛《かか》るに、不意の事なれば僕は狼狽《うろた》へ、急ぎ元入りし垣の穴より、走り抜けんとする処を、他《かれ》わが尻尾《しりお》を咬《くわ》へて引きもどさんとす、われは払《はらっ》て出でんとす。その勢にこれ見そなはせ、尾の先少し齧《か》み取られて、痛きこと太《はなはだ》しく、生れも付かぬ不具にされたり。かくては大切なるこの尻尾も、老人《としより》の襟巻《えりまき》にさへ成らねば、いと口惜しく思ひ侍れど。他は犬われは狐、とても適《かな》はぬ処なれば、復讐《あだがえし》も思ひ止《とど》まりて、意恨《うらみ》を呑《のん》で過ごせしが。大王、僕《やつがれ》不憫《ふびん》と思召《おぼしめ》さば、わがために仇《あだ》を返してたべ。さきに獲物を進《まいら》せんといひしも、実《まこと》はこの事願はんためなり」ト、いと哀れげに訴《うったう》れば。金眸は打点頭《うちうなず》き、「憎き犬の挙動《ふるまい》かな。よしよし今に一攫《ひとつか》み、目に物見せてくれんずほどに、心安く思ふべし」ト、かつ慰めかつ怒り、やがて聴水を前《さき》に立てて、脛《すね》にあまる雪を踏み分けつつ、山を越え渓《たに》を渉《わた》り、ほどなく麓に出でけるに、前《さき》に立ちし聴水は立止まり、「大王、彼処《かしこ》に見ゆる森の陰に、今煙の立昇《たちのぼ》る処は、即ち荘官《しょうや》が邸《やしき》にて候が、大王自ら踏み込み給ふては、徒《いたず》らに人間《ひと》を驚かすのみにて、敵《かたき》の犬は逃げんも知れず。これには僕よき計策《はかりごと》あり」とて、金眸の耳に口よせ、何やらん耳語《ささやき》しが、また金眸が前《さき》に立ちて、高慢顔にぞ進みける。

     第二回

 ここにこの里の荘官《しょうや》の家に、月丸《つきまる》花瀬《はなせ》とて雌雄《ふうふ》の犬ありけり。年頃|情《なさけ》を掛《かけ》て飼ひけるほどに、よくその恩に感じてや、いとも忠実《まめやか》に事《つか》ふれば、年久しく盗人《ぬすびと》といふ者|這入《はい》らず、家は増々《ますます》栄えけり。
 降り続く大雪に、伯母《おば》に逢ひたる心地《ここち》にや、月丸は雌《つま》諸共《もろとも》に、奥なる広庭に戯れゐしが。折から裏の※[#「穴/果」、第3水準1-89-51]宿《とや》の方《かた》に当りて、鶏の叫ぶ声|切《しき》りなるに、哮々《こうこう》と狐の声さへ聞えければ。「さては彼の狐めが、また今日も忍入りしよ。いぬる日あれほど懲《こら》しつるに、はや忘《わすれ》しと覚えたり。憎き奴め用捨はならじ、此度《こたび》こそは打ち取りてん」ト、雪を蹴立《けだ》てて真一文字に、※[#「穴/果」、第3水準1-89-51]宿の方へ走り往《ゆけ》ば、狐はかくと見《みる》よりも、周章狼狽《あわてふためき》逃げ行くを、なほ逃《のが》さじと追駆《おっか》けて、表門を出《いで》んとする時、一声|※[#「口+翁」、66-5]《おう》と哮《たけ》りつつ、横間《よこあい》より飛《とん》で掛るものあり。何者ならんと打見やれば、こはそも怎麼《いか》にわれよりは、二|層《まわり》も大《おおい》なる虎の、眼《まなこ》を怒らし牙《きば》をならし、爪《つめ》を反《そ》らしたるその状態《ありさま》、恐しなんどいはん方《かた》なし。尋常《よのつね》の犬なりせば、その場に腰をも抜《ぬか》すべきに。月丸は原来心|猛《たけ》き犬なれば、そのまま虎に※[#「口+敢」、第3水準1-15-19]《くっ》てかかり、喚《おめき》叫んで暫時《しばし》がほどは、力の限り闘《たたか》ひしが。元より強弱敵しがたく、無残や肉裂け皮破れて、悲鳴の中《うち》に息|絶《たえ》たる。その死骸《なきがら》を嘴《くち》に咬《くわ》へ、あと白雪を蹴立《けたて》つつ、虎は洞《ほら》へと帰り行く。あとには流るる鮮血《ちしお》のみ、雪に紅梅の花を散らせり。
 雌《つま》の花瀬は最前より、物陰にありて件《くだん》の様子を、残りなく詠《なが》めゐしが。身は軟弱《かよわ》き雌犬《めいぬ》なり。かつはこのほどより乳房|垂《た》れて、常ならぬ身にしあれば、雄《おっと》が非業《ひごう》の最期《さいご》をば、目前《まのあたり》見ながらも、救《たす》くることさへ成りがたく、独《ひと》り心を悶《もだ》へつつ、いとも哀れなる声張上げて、頻《しき》りに吠《ほ》え立つるにぞ、人々漸く聞きつけて、凡事《ただごと》ならずと立出でて見れば。門前の雪八方に蹴散らしたる上に、血|夥《おびただ》しく流れたるが、只《と》見れば遙《はるか》の山陰《やまかげ》に、一匹の大虎が、嘴に咬へて持て行くものこそ、正《まさ》しく月丸が死骸《なきがら》なれば、「さては彼の虎めに喰《く》はれしか、今一足早かりせば、阿容々々《おめおめ》他《かれ》は殺さじものを」ト、主人《あるじ》は悶蹈《あしずり》して悔《くや》めども、さて詮術《せんすべ》もあらざれば、悲しみ狂ふ花瀬を賺《す》かして、その場は漸くに済ませしが。済まぬは花瀬が胸の中《うち》、その日よりして物狂はしく。旦暮《あけくれ》小屋にのみ入りて、与ふる食物《かて》も果敢々々敷《はかばかしく》は喰《くら》はず。怪しき声して啼《なき》狂ひ、門《かど》を守ることだにせざれば、物の用にも立《たた》ぬなれど、主人は事の由来《おこり》を知れば、不憫さいとど増さりつつ、心を籠めて介抱なせど。花瀬は次第に窶《やつ》るるのみにて、今は肉落ち骨|秀《ひい》で、鼻頭《はなかしら》全く乾《かわ》きて、この世の犬とも思はれず、頼み少なき身となりけり。かかる折から月満ちけん、俄《にわ》かに産の気|萌《きざ》しつつ、苦痛の中に産み落せしは、いとも麗はしき茶色毛の、雄犬ただ一匹なるが。背のあたりに金色の毛混りて、妙《たえ》なる光を放つにぞ、名をばそのまま黄金丸《こがねまる》と呼びぬ。
 さなきだに病《やみ》疲れし上に、嬰児《みどりご》を産み落せし事なれば、今まで張りつめし気の、一時に弛《ゆる》み出でて、重き枕いよいよ上らず、明日《あす》をも知れぬ命となりしが。臨終《いまわ》の際《きわ》に、兼てより懇意《こころやすく》せし、裏の牧場《まきば》に飼はれたる、牡丹《ぼたん》といふ牝牛《めうし》をば、わが枕|辺《べ》に乞《こ》ひよせ。苦しき息を喘《ほっ》ト吻《つ》き、「さて牡丹ぬし。見そなはす如き妾《わらわ》が容体《ありさま》、とても在命《ながらえ》る身にしあらねば、臨終の際にただ一|事《こと》、阿姐《あねご》に頼み置きたき件《こと》あり。妾が雄《おっと》月丸ぬしは、いぬる日猛虎|金眸《きんぼう》がために、非業の最期を遂げしとは、阿姐も知り給ふ処なるが。彼《かの》時妾|目前《まのあた》り、雄が横死《おうし》を見ながらに、これを救《たす》けんともせざりしは、見下げ果てたる不貞の犬よと、思ひし獣もありつらんが。元より犬の雌《つま》たる身の、たとひその身は亡《ほろ》ぶとも、雄が危急を救ふべきは、いふまでもなき事にして、義を知る獣の本分なれば、妾とて心付かぬにはあらねど、彼《かの》時命を惜みしは、妾が常ならぬ身なればなり。もし妾も彼処《かしこ》に出でて、虎と争ひたらんには。雄と共に殺されてん。さる時は誰《たれ》か仇をば討つべきぞ。結句《つまり》は親子三匹して、命を捨《すつ》るに異ならねば、これ貞に似て貞にあらず、真《まこと》の犬死とはこの事なり。かくと心に思ひしかば、忍びがたき処を忍び、堪《こら》えがたきを漸《ようや》く堪えて、見在《みすみす》雄を殺せしが。これも偏《ひと》へに胎《はら》の児《こ》を、産み落したるその上にて。仇を討たせんと思へばなり。さるに妾不幸にして、いひ甲斐《がい》なくも病に打ち臥《ふ》し、已《すで》に絶えなん玉の緒を、辛《から》く繋《つな》ぎて漸くに、今この児は産み落せしか。これを養育《はぐく》むこと叶《かな》はず、折角頼みし仇討ちも、仇になりなん口惜しさ、推量なして給はらば、何卒《なにとぞ》この児を阿姐《あねご》の児となし、阿姐が乳《ち》もて育てあげ。他《かれ》もし一匹|前《まえ》の雄犬となりなば、その時こそは妾が今の、この言葉をば伝へ給ひて、妾がためには雄の仇、他《かれ》がためには父の仇なる、彼の金眸めを打ち取るやう、力に成《なっ》て給はれかし。頼みといふはこの件《こと》のみ。頼む/\」トいふ声も、次第に細る冬の虫草葉の露のいと脆《もろ》き、命は犬も同じことなり。

     第三回

 悼《いた》はしや花瀬は、夫の行衛《ゆくえ》追ひ駆けて、後《あと》より急ぐ死出《しで》の山、その日の夕暮に没《みまか》りしかば。主人《あるじ》はいとど不憫《ふびん》さに、その死骸《なきがら》を棺《ひつぎ》に納め、家の裏なる小山の蔭に、これを埋《うず》めて石を置き、月丸の名も共に彫《え》り付けて、形《かた》ばかりの比翼塚、跡《あと》懇切《ねんごろ》にぞ弔《とぶら》ひける。
 かくて孤児《みなしご》の黄金丸《こがねまる》は、西東だにまだ知らぬ、藁《わら》の上より牧場なる、牡丹《ぼたん》が許《もと》に養ひ取られ、それより牛の乳を呑《の》み、牛の小屋にて生立《おいた》ちしが。次第に成長するにつけ、骨格《ほねぐみ》尋常《よのつね》の犬に勝《すぐ》れ、性質《こころばせ》も雄々《おお》しくて、天晴《あっぱ》れ頼もしき犬となりけり。
 さてまた牡丹が雄《おっと》文角《ぶんかく》といへるは、性来《うまれえて》義気深き牛なりければ、花瀬が遺言を堅く守りて、黄金丸の養育に、旦暮《あけくれ》心を傾けつつ、数多《あまた》の犢《こうし》の群《むれ》に入れて。或時は角闘《すもう》を取らせ、または競争《はしりくら》などさせて、ひたすら力業《ちからわざ》を勉めしむるほどに。その甲斐ありて黄金丸も、力量《ちから》あくまで強くなりて、大概《おおかた》の犬と噬《か》み合ふても、打ち勝つべう覚えしかば。文角も斜《ななめ》ならず喜び、今は時節もよかるべしと、或時黄金丸を膝《ひざ》近くまねき、さて其方《そなた》は実《まこと》の児にあらず、斯様々々云々《かようかようしかじか》なりと、一伍一什《いちぶしじゅう》を語り聞かせば。黄金丸聞きもあへず、初めて知るわが身の素性《すじょう》に、一度《ひとたび》は驚き一度は悲しみ、また一度は金眸《きんぼう》が非道を、切歯《はぎしり》して怒り罵《ののし》り、「かく聞く上は一日も早く、彼の山へ走《は》せ登り、仇敵《かたき》金眸を噬《か》み殺さん」ト、敦圉《いきまき》あらく立《たち》かかるを、文角は霎時《しばし》と押し止《とど》め、「然《しか》思ふは理《ことわり》なれど、暫くまづわが言葉を、心ろを静めて聞きねかし。原来|其方《そなた》が親の仇敵《かたき》、ただに彼の金眸のみならず。他《かれ》が配下に聴水《ちょうすい》とて、いと獰悪《はらぐろ》き狐あり。此奴《こやつ》ある日鶏を盗みに入りて、端《はし》なく月丸ぬしに見付られ、他《かれ》が尻尾を噛み取られしを、深く意恨に思ひけん。自己《おのれ》の力に及ばぬより、彼の虎が威を仮りて、さてはかかる事に及びぬ。然《しか》れば真《まこと》の仇敵《かたき》とするは、虎よりもまづ狐なり。さるに今|其方《そなた》が、徒らに猛り狂ふて、金眸が洞に駆入り、他《かれ》と雌雄を争ふて、万一誤つて其方負けなば、当の仇敵の狐も殺さず、その身は虎の餌《えじき》とならん。これこそわれから死を求むる、火取虫《ひとりむし》より愚《おろか》なる業《わざ》なれ。殊《こと》に対手《あいて》は年経し大虎、其方は犬の事なれば、縦令《たと》ひ怎麼《いか》なる力ありとも、尋常に噬《か》み合ふては、彼に勝《かた》んこといと難し。それよりは今霎時、牙《きば》を磨《みが》き爪を鍛へ、まづ彼の聴水めを噛み殺し、その上時節の到《いた》るを待《まっ》て、彼の金眸を打ち取るべし。今匹夫の勇を恃《たの》んで、世の胡慮《ものわらい》を招かんより、無念を堪《こら》えて英気を養ひ以《もっ》て時節を待つには如《し》かじ」ト、事を分けたる文角が言葉に、実《げに》もと心に暁得《さと》りしものから。黄金丸はややありて、「かかる義理ある中なりとは、今日まで露|知《しら》ず、真《まこと》の父君《ちちぎみ》母君と思ひて、我儘《わがまま》気儘に過《すご》したる、無礼の罪は幾重《いくえ》にも、許したまへ」ト、数度《あまたたび》養育の恩を謝し。さて更《あらた》めていへるやう、「知らぬ疇昔《むかし》は是非もなけれど、かくわが親に仇敵あること、承はりて知る上は、黙《もだ》して過すは本意ならず、それにつき、爰《ここ》に一件《ひとつ》の願ひあり、聞入れてたびてんや」「願ひとは何事ぞ、聞し上にて許しもせん」「そは余の事にも候はず、某《それがし》に暇《いとま》を賜はれかし。某これより諸国を巡《め》ぐり、あまねく強き犬と噬《か》み合ふて、まづわが牙を鍛へ。傍《かたわ》ら仇敵の挙動《ふるまい》に心をつけ、機会《おり》もあらば名乗りかけて、父の讐《あだ》を復《かえ》してん。年頃受けし御恩をば、返しも敢《あ》へずこれよりまた、御暇《おんいとま》を取らんとは、義を弁へぬに似たれども、親のためなり許し給へ。もし某《それがし》幸ひにして、見事父の讐を復し、なほこの命|恙《つつが》なくば、その時こそは心のまま、御恩に報ゆることあるべし。まづそれまでは文角ぬし、霎時《しばし》の暇賜はりて……」ト、涙ながらに掻口説《かきくど》けば、文角は微笑《ほほえみ》て、「さもこそあらめ、よくぞいひし。其方がいはずば此方《こなた》より、強《しい》ても勧めんと思ひしなり。思《おもい》のままに武者修行して、天晴れ父の仇敵《かたき》を討ちね」ト、いふに黄金丸も勇み立ち。善は急げと支度《したく》して、「見事金眸が首取らでは、再び主家《しゅうか》には帰るまじ」ト、殊勝《けなげ》にも言葉を盟《ちか》ひ文角牡丹に別《わかれ》を告げ、行衛定めぬ草枕、われから野良犬《のらいぬ》の群《むれ》に入りぬ。

     第四回

 昨日《きのう》は富家《ふうか》の門を守りて、頸《くび》に真鍮の輪を掛《かけ》し身の、今日は喪家《そうか》の狗《く》となり果《はて》て、寝《いぬ》るに※[#「穴/果」、第3水準1-89-51]《とや》なく食するに肉なく、夜《よ》は辻堂の床下《ゆかした》に雨露を凌《しの》いで、無躾《ぶしつけ》なる土豚《もぐら》に驚かされ。昼は肴屋《さかなや》の店頭《みせさき》に魚骨《ぎょこつ》を求めて、情《なさけ》知らぬ人の杖《しもと》に追立《おいたて》られ。或時は村童《さとのこら》に曳《ひ》かれて、大路《おおじ》に他《あだ》し犬と争ひ、或時は撲犬師《いぬころし》に襲はれて、藪蔭《やぶかげ》に危き命を拾《ひら》ふ。さるほどに黄金丸は、主家を出でて幾日か、山に暮らし里に明かしけるに。或る日いと広やかなる原野《のはら》にさし掛りて、行けども行けども里へは出でず。日さへはや暮れなんとするに、宿るべき木陰だになければ、有繋《さすが》に心細きままに、ひたすら路を急げども。今日は朝より、一滴の水も飲まず、一塊の食も喰《くら》はねば、肚饑《ひだる》きこといはん方《かた》なく。苦しさに堪えかねて、暫時《しばし》路傍《みちのべ》に蹲《うずく》まるほどに、夕風|肌膚《はだえ》を侵し、地気《じき》骨に徹《とお》りて、心地《ここち》死ぬべう覚えしかば。黄金丸は心細さいやまして、「われ主家を出でしより、到る処の犬と争《あらそい》しが、かつて屑《もののかず》ともせざりしに。饑《うえ》てふ敵には勝ちがたく、かくてはこの原の露と消《きえ》て、鴉《からす》の餌《えじき》となりなんも知られず。……里まで出づれば食物《くいもの》もあらんに、それさへ四足疲れはてて、今は怎麼《いか》にともすべきやうなし。ああいひ甲斐なき事|哉《かな》」ト、途方に打《うち》くれゐたる折しも。何処《いずく》よりか来りけん、忽《たちま》ち一団の燐火《おにび》眼前《めのまえ》に現れて、高く揚《あが》り低く照らし、娑々《ふわふわ》と宙を飛び行くさま、われを招くに等しければ。黄金丸はやや暁得《さと》りて、「さてはわが亡親《なきおや》の魂魄《たま》、仮に此処《ここ》に現はれて、わが危急を救ひ給ふか。阿那《あな》感謝《かたじけな》し」ト伏し拝みつつ、その燐火の行くがまにまに、路四、五町も来ると覚しき頃、忽ち鉄砲の音耳近く聞えつ、燐火は消えて見えずなりぬ。こはそも怎麼なる処ぞと、四辺《あたり》を見廻はせば、此処は大《おおい》なる寺の門前なり。訝《いぶか》しと思ふものから、門の中《うち》に入りて見れば。こは大なる古刹《ふるでら》にして、今は住む人もなきにや、床《ゆか》は落ち柱斜めに、破れたる壁は蔓蘿《つたかずら》に縫はれ、朽ちたる軒は蜘蛛《くも》の網《す》に張られて、物凄《ものすご》きまでに荒れたるが。折しも秋の末なれば、屋根に生《お》ひたる芽生《めばえ》の楓《かえで》、時を得顔《えがお》に色付きたる、その隙《ひま》より、鬼瓦《おにがわら》の傾きて見ゆるなんぞ、戸隠《とがく》し山《やま》の故事《ふること》も思はれ。尾花|丈《せ》高《たか》く生茂《おいしげ》れる中に、斜めにたてる石仏《いしぼとけ》は、雪山《せつざん》に悩む釈迦仏《しゃかぶつ》かと忍ばる。――只《と》見れば苔《こけ》蒸したる石畳の上に。一羽の雉子《きぎす》身体《みうち》に弾丸《たま》を受けしと覚しく、飛ぶこともならで苦《くるし》みをるに。こは好《よ》き獲物よと、急ぎ走り寄《よっ》て足に押へ、已《すで》に喰はんとなせしほどに。忽ち後《うしろ》に声ありて、「憎き野良犬、其処《そこ》動きそ」ト、大喝《だいかつ》一|声《せい》吠《ほ》えかかるに。黄金丸は打驚き、後《しりえ》を顧《ふりかえ》りて見れば、真白なる猟犬《かりいぬ》の、われを噛まんと身構《みがまえ》たるに、黄金丸も少し焦燥《いら》つて、「無礼なり何奴《なにやつ》なれば、われを野良犬と詈《ののし》るぞ」「無礼なりとは爾《なんじ》が事なり。わが飼主の打取りたまひし、雉子《きぎす》を爾盗まんとするは、言語に断えし無神狗《やまいぬ》かな」「否《いな》、こはわれ此処にて拾ひしなり」「否、爾が盗みしなり。見れば頸筋に輪もあらず、爾|曹《ら》如き奴あればこそ、撲犬師《いぬころし》が世に殖《ふ》えて、わが們《ともがら》まで迷惑するなれ」「許しておけば無礼な雑言《ぞうごん》、重ねていはば手は見せまじ」「そはわれよりこそいふことなれ、爾曹如きと問答|無益《むやく》し。怪我《けが》せぬ中《うち》にその鳥を、われに渡して疾《と》く逃げずや」「返す返すも舌長し、折角拾ひしこの鳥を、阿容々々《おめおめ》爾に得させんや」「這《しゃ》ツ面倒なりかうしてくれん」ト、飛《とん》でかかれば黄金丸も、稜威《ものもの》しやと振り払《はらっ》て、また噬《か》み付くを丁《ちょう》と蹴返《けかえ》し、その咽喉《のどぶえ》を噬《かま》んとすれば、彼方《あなた》も去る者身を沈めて、黄金丸の股《もも》を噬む。黄金丸は饑渇《うえ》に疲れて、勇気日頃に劣れども、また尋常《なみなみ》の犬にあらぬに、彼方《かなた》もなかなかこれに劣らず、互ひに挑闘《いどみたたか》ふさま、彼の花和尚《かおしょう》が赤松林《せきしょうりん》に、九紋竜《くもんりゅう》と争ひけるも、かくやと思ふ斗《ばか》りなり。
 先きのほどより、彼方《かなた》の木陰に身を忍ばせ、二匹の問答を聞《きき》ゐたる、一匹の黒猫ありしが。今二匹が噬合ひはじめて、互ひに負けじと争ひたる、その間隙《すき》を見すまして、静かに忍び寄るよと見えしが、やにはに捨てたる雉子《きぎす》を咬《くわ》へて、脱兎の如く逃げ行くを、ややありて二匹は心付き。南無三《なむさん》してやられしと思ひしかども今更追ふても及びもせずと、雉子を咬へて磚※[#「片+嗇」、75-7]《ついじ》をば、越え行く猫の後姿、打ち見やりつつ茫然《ぼうぜん》と、噬み合ふ嘴《くち》も開《あ》いたままなり。

     第五回

 鷸蚌《いつぼう》互ひに争ふ時は遂《つい》に猟師の獲《えもの》となる。それとこれとは異なれども、われ曹《ら》二匹争はずば、彼の猫如きに侮られて、阿容々々《おめおめ》雉子は取られまじきにト、黄金丸も彼の猟犬《かりいぬ》も、これかれ斉《ひと》しく左右に分れて、ひたすら嘆息なせしかども。今更に悔いても詮《せん》なしト、漸《ようや》くに思ひ定めつ。ややありて猟犬は、黄金丸にうち向ひ、「さるにても御身《おんみ》は、什麼《そも》何処《いずこ》の犬なれば、かかる処にに漂泊《さまよ》ひ給ふぞ。最前より噬《かみ》あひ見るに、世にも鋭き御身が牙尖《きばさき》、某《それがし》如きが及ぶ処ならず。もし彼の鳥猫に取られずして、なほも御身と争ひなば、わが身は遂に噬斃《かみたお》されて、雉子は御身が有《もの》となりてん。……これを思へば彼の猫も、わがためには救死の恩あり。ああ、危ふかりし危ふかりし」ト、数度《あまたたび》嘆賞するに。黄金丸も言葉を改め、「こは過分なる賛詞《ほめこと》かな。さいふ御身が本事《てなみ》こそ。なかなか及《およ》ばぬ処なれト、心|私《ひそ》かに敬服せり。今は何をか裹《つつ》むべき、某が名は黄金丸とて、以前は去る人間に事《つか》へて、守門の役を勤めしが、宿願ありて暇《いとま》を乞《こ》ひ、今かく失主狗《はなれいぬ》となれども、決して怪しき犬ならず。さてまた御身が尊名|怎麼《いか》に。苦しからずば名乗り給へ」ト、いへば猟犬《かりいぬ》は打点頭《うちうなず》き、「さもありなんさもこそと、某も疾《と》く猜《すい》したり。さらば御身が言葉にまかせて、某が名も名乗るべし。見らるる如く某は、この辺《あたり》の猟師《かりうど》に事ふる、猟犬にて候が。ある時|鷲《わし》を捉《とっ》て押へしより、名をば鷲郎《わしろう》と呼ばれぬ。こは鷲を捉《と》りし白犬《しろいぬ》なれば、鷲白《わししろ》といふ心なるよし。元より屑《かず》ならぬ犬なれども、猟《かり》には得たる処あれば、近所の犬ども皆恐れて、某が前に尾を垂《た》れぬ者もなければ、天下にわれより強き犬は、多くあるまじと誇りつれど。今しも御身が本事《てなみ》を見て、わが慢心を太《いた》く恥ぢたり。そはともあれ、今御身が語られし、宿願の仔細《しさい》は怎麼にぞや」ト、問ふに黄金丸は四辺《あたり》を見かへり、「さらば委敷《くわしく》語り侍《はべ》らん……」とて、父が非業の死を遂げし事、わが身は牛に養はれし事、それより虎と狐を仇敵《かたき》とねらひ、主家《しゅうか》を出でて諸国を遍歴せし事など、落ちなく語り聞かすほどに。鷲郎はしばしば感嘆の声を発せしが、ややありていへるやう、「その事なれば及ばずながら、某一肢の力を添へん。われ彼の金眸《きんぼう》に意恨《うらみ》はなけれど、彼奴《きゃつ》猛威を逞《たくまし》うして、余の獣類《けもの》を濫《みだ》りに虐《しいた》げ。あまつさへ饑《うゆ》る時は、市《いち》に走りて人間《ひと》を騒がすなんど、片腹痛き事のみなるに、機会《おり》もあらば挫《とりひし》がんと、常より思ひゐたりしが。名に負ふ金眸は年経し大虎、われ怎麼《いか》に猟《かり》に長《た》けたりとも、互角の勝負なりがたければ、虫を殺して無法なる、他《かれ》が挙動《ふるまい》を見過せしが。今御身が言葉を聞けば、符《わりふ》を合《あわ》す互ひの胸中。これより両犬心を通じ、力を合せて彼奴《きゃつ》を狙《ねら》はば、いづれの時か討たざらん」ト。いふに黄金丸も勇み立ちて、「頼もしし頼もしし、御身|已《すで》にその意《こころ》ならば、某また何をか恐れん。これより両犬義を結び、親こそ異《かわ》れこの後《のち》は、兄となり弟《おとと》となりて、共に力を尽すべし。某この年頃諸所を巡りて、数多《あまた》の犬と噬《か》み合ひたれども、一匹だにわが牙に立つものなく、いと本意《ほい》なく思ひゐしに。今日|不意《ゆくりな》く御身に出逢《であい》て、かく頼もしき伴侶《とも》を得ること、実《まこと》に亡《なき》父の紹介《ひきあわせ》ならん。さきに路を照らせし燐火《おにび》も、今こそ思ひ合はしたれ」ト、独《ひと》り感涙にむせびしが。猟犬は霎時《しばし》ありて、「某今御身と契《ちぎり》を結びて、彼の金眸を討たんとすれど、飼主ありては心に任せず。今よりわれも頸輪《くびわ》を棄《すて》て、御身と共に失主狗《はなれいぬ》とならん」ト、いふを黄金丸は押止《おしとど》め、「こは漫《そぞろ》なり鷲郎ぬし、わがために主を棄《すつ》る、その志は感謝《かたじけな》けれど、これ義に似て義にあらず、かへつて不忠の犬とならん。この儀は思ひ止まり給へ」「いやとよ、その心配《こころづかい》は無用なり。某|猟師《かりうど》の家に事《つか》へ、をさをさ猟の業《わざ》にも長《た》けて、朝夕《あけくれ》山野を走り巡り、数多の禽獣《とりけもの》を捕ふれども。熟《つらつ》ら思へば、これ実《まこと》に大《おおい》なる不義なり。縦令《たと》ひ主命とはいひながら、罪なき禽獣《もの》を徒《いたず》らに傷《いた》めんは、快き事にあらず。彼の金眸に比べては、その悪五十歩百歩なり。此《ここ》をもて某常よりこの生業《なりわい》を棄てんと、思ふこと切《しきり》なりき。今日この機会《おり》を得しこそ幸《さち》なれ、断然|暇《いとま》を取るべし」ト。いひもあへず、頸輪を振切りて、その決心を示すにぞ。黄金丸も今は止むる術《すべ》なく、「かく御身の心定まる上は、某また何をかいはん。幸ひなる哉《かな》この寺は、荒果てて住む人なく、われ曹《ら》がためには好《よ》き棲居《すみか》なり。これより両犬|此処《ここ》に棲みてん」ト、それより連立ちて寺の中《うち》に踏入り、方丈と覚しき所に、畳少し朽ち残りたるを撰《えら》びて、其処《そこ》をば棲居と定めける。

     第六回

 恁《かく》て黄金丸は鷲郎《わしろう》と義を結びて、兄弟の約をなし、この古刹《ふるでら》を棲居となせしが。元より養ふ人なければ、食物も思ふにまかせぬにぞ、心ならずも鷲郎は、慣《なれ》し業《わざ》とて野山に猟《かり》し、小鳥など捉《と》りきては、漸《ようや》くその日の糧《かて》となし、ここに幾日を送りけり。
 或日黄金丸は、用事ありて里に出でし帰途《かえるさ》、独り畠径《はたみち》を辿《たど》り往《ゆ》くに、只《と》見れば彼方《かなた》の山岸の、野菊あまた咲き乱れたる下《もと》に、黄なる獣《けもの》眠《ねぶ》りをれり。大《おおき》さ犬の如くなれど、何処《どこ》やらわが同種《みうち》の者とも見えず。近づくままになほよく見れば、耳立ち口|尖《とが》りて、正《まさ》しくこれ狐なるが、その尾の尖《さき》の毛抜けて醜し。この時黄金丸思ふやう、「さきに文角《ぶんかく》ぬしが物語に、聴水《ちょうすい》といふ狐は、かつてわが父|月丸《つきまる》ぬしのために、尾の尖|咬《かみ》切られてなしと聞きぬ。今彼の狐を見るに、尾の尖|断離《ちぎ》れたり。恐らくは聴水ならん。阿那《あな》、有難や感謝《かたじけな》や。此処にて逢ひしは天の恵みなり。将《いで》一噬《ひとか》みに……」ト思ひしが。有繋《さすが》義を知る獣なれば、眠込《ねご》みを噬まんは快からず。かつは誤りて他の狐ならんには、無益の殺生《せっしょう》なりと思ひ。やや近く忍びよりて、一声高く「聴水」ト呼べば、件《くだん》の狐は打ち驚き、眼《まなこ》も開かずそのままに、一|間《けん》ばかり跌※[#「足へん+易」、第4水準2-89-38]《けしと》んで、慌《あわただ》しく逃《に》げんとするを。逃がしはせじと黄金丸は、※[#「口+畫」、79-4]《おめき》叫んで追駆《おっかく》るに。彼方《かなた》の狐も一生懸命、畠《はた》の作物を蹴散《けち》らして、里の方《かた》へ走りしが、只《と》ある人家の外面《そとべ》に、結ひ繞《めぐ》らしたる生垣《いけがき》を、閃《ひらり》と跳《おど》り越え、家の中《うち》に逃げ入りしにぞ。続いて黄金丸も垣を越え、家の中を走り抜けんとせし時。六才《むつ》ばかりなる稚児《おさなご》の、余念なく遊びゐたるを、過失《あやまち》て蹴倒せば、忽《たちま》ち唖《わっ》と泣き叫ぶ。その声を聞き付《つけ》て、稚児の親なるべし、三十ばかりなる大男、裏口より飛で入《いり》しが。今走り出でんとする、黄金丸を見るよりも、さては此奴《こやつ》が噬《か》みしならんト、思ひ僻《ひが》めつ大《おおい》に怒《いかっ》て、あり合ふ手頃の棒おつとり、黄金丸の真向《まっこう》より、骨も砕けと打ちおろすに、さしもの黄金丸肩を打たれて、「呀《あっ》」ト一声叫びもあへず、後に撲地《はた》と倒るるを、なほ続けさまに打ちたたかれしが。やがて太き麻縄《あさなわ》もて、犇々《ひしひし》と縛《いまし》められぬ。その間《ひま》に彼の聴水は、危き命助かりて、行衛《ゆくえ》も知らずなりけるに。黄金丸は、無念に堪へかね、切歯《はぎしり》して吠《ほ》え立つれば。「おのれ人間《ひと》の子を傷《きずつ》けながら、まだ飽きたらで猛《たけ》り狂ふか。憎き狂犬《やまいぬ》よ、今に目に物見せんず」ト、曳《ひき》立て曳立て裏手なる、槐《えんじゅ》の幹に繋《つな》ぎけり。
 倶不戴天《ぐふたいてん》の親の仇《あだ》、たまさか見付けて討たんとせしに、その仇は取り逃がし、あまつさへその身は僅少《わずか》の罪に縛められて邪見の杖《しもと》を受《うく》る悲しさ。さしもに猛き黄金丸も、人間《ひと》に牙向《はむか》ふこともならねば、ぢつと無念を圧《おさ》ゆれど、悔《くや》し涙に地は掘れて、悶踏《あしずり》に木も動揺《ゆら》ぐめり。
 却説《かへつてと》く鷲郎は、今朝《けさ》より黄金丸が用事ありとて里へ行きしまま、日暮れても帰り来ぬに、漸く心安からず。幾度《いくたび》か門に出でて、彼方此方《かなたこなた》を眺《ながむ》れども、それかと思ふ影だに見えねば。万一|他《かれ》が身の上に、怪我《あやまち》はなきやと思ふものから。「他《かれ》元より尋常《なみなみ》の犬ならねば、無差《むざ》と撲犬師《いぬころし》に打たれもせまじ。さるにても心元なや」ト、頻《しき》りに案じ煩ひつつ。虚々《うかうか》とおのれも里の方《かた》へ呻吟《さまよ》ひ出でて、或る人家の傍《かたわら》を過《よぎ》りしに。ふと聞けば、垣の中《うち》にて怪《あやし》き呻《うめ》き声す。耳傾けて立聞けば、何処《どこ》やらん黄金丸の声音《こわね》に似たるに。今は少しも逡巡《ためら》はず。結ひ繞《めぐ》らしたる生垣の穴より、入らんとすれば生憎《あやにく》に、枳殻《からたち》の針腹を指すを、辛《かろ》うじてくぐりつ。声を知るべに忍びよれば。太き槐《えんじゅ》の樹《き》に括《くく》り付けられて、蠢動《うごめ》きゐるは正しくそれなり。鷲郎はつと走りよりて、黄金丸を抱《いだ》き起し、耳に口あてて「喃《のう》、黄金丸、気を確《たしか》に持ちねかし。われなり、鷲郎なり」ト、呼ぶ声耳に通じけん、黄金丸は苦しげに頭《こうべ》を擡《もた》げ、「こは鷲郎なりしか。嬉《うれ》しや」ト、いふさへ息も絶々《たえだえ》なるに、鷲郎は急ぎ縄を噬み切りて、身体《みうち》の痍《きず》を舐《ねぶ》りつつ、「怎麼《いか》にや黄金丸、苦しきか。什麼《そも》何としてこの状態《ありさま》ぞ」ト、かつ勦《いた》はりかつ尋ぬれば。黄金丸は身を震はせ、かく縛《いまし》められし事の由来《おこり》を言葉短に語り聞かせ。「とかくは此処を立ち退《の》かん見付けられなば命危し」ト、いふに鷲郎も心得て、深痍《ふかで》になやむ黄金丸をわが背に負ひつ、元入りし穴を抜け出でて、わが棲居《すみか》へと急ぎけり。

     第七回

 鷲郎に助けられて、黄金丸は漸く棲居へ帰りしかど、これより身体《みうち》痛みて堪えがたく。加之《しかのみならず》右の前足|骨《ほね》挫《くじ》けて、物の用にも立ち兼ぬれば、口惜《くや》しきこと限りなく。「われこのままに不具の犬とならば、年頃の宿願いつか叶《かな》へん。この宿願叶はずば、養親《やしないおや》なる文角ぬしに、また合すべき面《おもて》なし」ト、切歯《はぎしり》して掻口説《かきくど》くに、鷲郎もその心中|猜《すい》しやりて、共に無念の涙にくれしが。「さな嘆きそ。世は七顛八起《ななころびやおき》といはずや。心静かに養生せば、早晩《いつか》は癒《いえ》ざらん。某《それがし》身辺《かたわら》にあるからは、心丈夫に持つべし」ト、あるいは詈《ののし》りあるいは励まし、甲斐々々しく介抱なせど、果敢々々《はかばか》しき験《しるし》も見《みえ》ぬに、ひたすら心を焦燥《いら》ちけり。或日鷲郎は、食物を取らんために、午前《ひるまえ》より猟《かり》に出で、黄金丸のみ寺に残りてありしが。折しも小春の空|長閑《のどけ》く、斜廡《ひさし》を洩《も》れてさす日影の、払々《ほかほか》と暖きに、黄金丸は床《とこ》をすべり出で、椽端《えんがわ》に端居《はしい》して、独り鬱陶《ものおもい》に打ちくれたるに。忽ち天井裏に物音して、救助《たすけ》を呼ぶ鼠《ねずみ》の声かしましく聞えしが。やがて黄金丸の傍《かたわら》に、一匹の雌《め》鼠走り来て、股《もも》の下に忍び入りつ、救助《たすけ》を乞ふものの如し。黄金丸はいと不憫《ふびん》に思ひ、件《くだん》の雌鼠を小脇《こわき》に蔽《かば》ひ、そも何者に追はれしにやと、彼方《かなた》を佶《きっ》ト見やれば、破《や》れたる板戸の陰に身を忍ばせて、此方《こなた》を窺《うかが》ふ一匹の黒猫あり。只《と》見れば去《いぬ》る日鷲郎と、かの雉子《きぎす》を争ひける時、間隙《すき》を狙ひて雉子をば、盗み去りし猫なりければ。黄金丸は大《おおい》に怒りて、一飛びに喰《くっ》てかかり、慌《あわ》てて柱に攀昇《よじのぼ》る黒猫の、尾を咬《くわ》へて曳きおろし。踏躙《ふみにじ》り噬《か》み裂きて、立在《たちどころ》に息の根|止《とど》めぬ。
 この時雌鼠は恐る恐る黄金丸の前へ這《は》ひ寄りて、慇懃《いんぎん》に前足をつかへ、数度《あまたたび》頭《こうべ》を垂れて、再生の恩を謝すほどに、黄金丸は莞爾《にっこ》と打ち笑《え》み、「爾《なんじ》は何処《いずこ》に棲《す》む鼠ぞ。また彼の猫は怎麼《いか》なる故に、爾を傷《きずつ》けんとはなせしぞ」ト、尋ぬれば。鼠は少しく膝《ひざ》を進め、「さればよ殿《との》聞き給へ。妾《わらわ》が名は阿駒《おこま》と呼びて、この天井に棲む鼠にて侍《はべ》り。またこの猫は烏円《うばたま》とて、この辺《あたり》に棲む無頼猫《どらねこ》なるが。兼《かね》てより妾に懸想《けそう》し、道ならぬ戯《たわぶ》れなせど。妾は定まる雄《おっと》あれば、更に承引《うけひ》く色もなく、常に強面《つれな》き返辞もて、かへつて他《かれ》を窘《たしな》めしが。かくても思切れずやありけん、今しも妾が巣に忍び来て、無残にも妾が雄を噬みころし、妾を奪ひ去らんとするより、逃げ惑ふて遂にかく、殿の枕辺《まくらべ》を騒がせし、無礼の罪は許したまへ」ト、涙ながらに物語れば、黄金丸も不憫の者よト、件《くだん》の鼠を慰めつつ、彼の烏円を尻目《しりめ》にかけ、「さりとては憎き猫かな。這奴《しゃつ》はいぬる日わが鳥を、盗み去りしことあれば、われまた意恨《うらみ》なきにあらず。年頃なせし悪事の天罰、今報ひ来てかく成りしは、実《まこと》に気味よき事なりけり」ト、いふ折から彼の鷲郎は、小鳥二、三羽|嘴《くち》に咬《く》はへて、猟《かり》より帰り来りしが。この体態《ていたらく》を見て、事の由来《おこり》を尋ぬるに、黄金丸はありし仕末を落ちなく語れば。鷲郎もその功労《てがら》を称賛しつ、「かくては御身が疾病《いたつき》も、遠ほからずして癒ゆべし」など、いひて共に打ち興じ。やがて持ち来りし小鳥と共に、烏円が肉を裂きて、思ひのままにこれを喰《くら》ひぬ。
 さてこの時より彼の阿駒は、再生の恩に感じけん、朝夕《あけくれ》黄金丸が傍に傅《かしず》きて、何くれとなく忠実《まめやか》に働くにぞ、黄金丸もその厚意《こころ》を嘉《よみ》し、情《なさけ》を掛《かけ》て使ひけるが、もとこの阿駒といふ鼠は、去る香具師《こうぐし》に飼はれて、種々《さまざま》の芸を仕込まれ、縁日の見世物《みせもの》に出《いで》し身なりしを、故《ゆえ》ありて小屋を忍出で、今この古刹《ふるでら》に住むものなれば。折々は黄金丸が枕辺にて、有漏覚《うろおぼ》えの舞の手振《てぶり》、または綱渡り籠抜《かごぬ》けなんど。古《むか》し取《とっ》たる杵柄《きねづか》の、覚束《おぼつか》なくも奏《かな》でけるに、黄金丸も興に入りて、病苦もために忘れけり。

     第八回

 黄金丸が病に伏してより、やや一月にも余りしほどに、身体《みうち》の痛みも失《う》せしかど、前足いまだ癒《い》えずして、歩行もいと苦しければ、心|頻《しき》りに焦燥《いらち》つつ、「このままに打ち過ぎんには、遂に生れもつかぬ跛犬となりて、親の仇《あだ》さへ討ちがたけん。今の間《あいだ》によき薬を得て、足を癒《いや》さでは叶《かな》ふまじ」ト、その薬を索《たずね》るほどに。或日鷲郎は慌《あわただ》しく他より帰りて、黄金丸にいへるやう、「やよ黄金丸喜びね。某《それがし》今日|好《よ》き医師《くすし》を聞得たり」トいふに。黄金丸は膝《ひざ》を進め、「こは耳寄りなることかな、その医師とは何処《いずこ》の誰《たれ》ぞ」ト、連忙《いそが》はしく問へば、鷲郎は荅《こた》へて、「さればよ。某今日里に遊びて、古き友達に邂逅《めぐりあ》ひけるが。その犬語るやう、此処を去ること南の方一里ばかりに、木賊《とくさ》が原といふ処ありて、其処に朱目《あかめ》の翁《おきな》とて、貴《とうと》き兎住めり。この翁若き時は、彼の柴刈《しばか》りの爺《じじ》がために、仇敵《かたき》狸《たぬき》を海に沈めしことありしが。その功によりて月宮殿《げっきゅうでん》より、霊杵《れいきょ》と霊臼《れいきゅう》とを賜はり、そをもて万《よろず》の薬を搗《つ》きて、今は豊《ゆたか》に世を送れるが。この翁が許《もと》にゆかば、大概《おおかた》の獣類《けもの》の疾病《やまい》は、癒えずといふことなしとかや。その犬も去《いぬ》る日|村童《さとのこ》に石を打たれて、左の後足《あとあし》を破られしが、件《くだん》の翁が薬を得て、その痍《きず》とみに癒しとぞ。さればわれ直ちに往きて、薬を得て来んとは思ひしかど。御身自ら彼が許にゆきて、親しくその痍を見せなば、なほ便宜《たより》よからんと思ひて、われは行かでやみぬ。御身少しは苦しくとも、全く歩行出来ぬにはあらじ、明日《あす》にも心地よくば、試みに往きて見よ」ト、いふに黄金丸は打喜び、「そは実《まこと》に嬉しき事かな。さばれかく貴き医師《くすし》のあることを、今日まで知らざりし鈍《おぞ》ましさよ。とかくは明日往きて薬を求めん」ト、海月《くらげ》の骨を得し心地して、その翌日《あけのひ》朝未明《あさまだき》より立ち出で、教へられし路を辿《たど》りて、木賊《とくさ》が原に来て見るに。櫨《はじ》楓《かえで》なんどの色々に染めなしたる木立《こだち》の中《うち》に、柴垣結ひめぐらしたる草庵《いおり》あり。丸木の柱に木賊もて檐《のき》となし。竹椽《ちくえん》清らかに、筧《かけひ》の水も音澄みて、いかさま由緒《よし》ある獣の棲居《すみか》と覚し。黄金丸は柴門《しばのと》に立寄りて、丁々《ほとほと》と訪《おとな》へば。中より「誰《た》ぞ」ト声して、朱目《あかめ》自ら立出づるに。見れば耳長く毛は真白《ましろ》に、眼《まなこ》紅《くれない》に光ありて、一目《みるから》尋常《よのつね》の兎とも覚えぬに。黄金丸はまづ恭《うやうや》しく礼を施し、さて病の由を申聞《もうしきこ》えて、薬を賜はらんといふに、彼の翁心得て、まづその痍《きず》を打見やり、霎時《しばし》舐《ねぶ》りて後、何やらん薬をすりつけて。さていへるやう、「わがこの薬は、畏《かしこ》くも月宮殿《げっきゅうでん》の嫦娥《じょうが》、親《みずか》ら伝授したまひし霊法なれば、縦令《たとい》怎麼《いか》なる難症なりとも、とみに癒《いゆ》ること神《しん》の如し。今御身が痍を見るに、時期《とき》後《おく》れたればやや重けれど、今宵《こよい》の中《うち》には癒やして進ずべし。ともかくも明日《あす》再び来たまへ、聊《いささ》か御身に尋ねたき事もあれば……」ト、いふに黄金丸打よろこび、やがて別を告げて立帰りしが。途《みち》すがら只《と》ある森の木陰を過《よぎ》りしに、忽ち生茂《おいしげ》りたる木立の中《うち》より、兵《ひょう》ト音して飛び来る矢あり。心得たりと黄金丸は、身を捻《ひね》りてその矢をば、発止《はっし》ト牙に噬《か》みとめつ、矢の来し方《かた》を佶《きっ》ト見れば。二抱《ふたかか》へもある赤松の、幹|両股《ふたまた》になりたる処に、一匹の黒猿昇りゐて、左手《ゆんで》に黒木の弓を持ち、右手《めて》に青竹の矢を採りて、なほ二の矢を注《つが》へんとせしが。黄金丸が睨《ね》め付《つけ》し、眼《まなこ》の光に恐れけん、その矢も得《え》放《はな》たで、慌《あわただ》しく枝に走り昇り、梢《こずえ》伝ひに木隠《こがく》れて、忽ち姿は見えずなりぬ。かくて次の日になりけるに、不思議なるかな萎《な》えたる足、朱目が言葉に露たがはず、全く癒えて常に異ならねば。黄金丸は雀躍《こおどり》して喜び。急ぎ礼にゆかんとて、些《ちと》ばかりの豆滓《きらず》を携へ、朱目が許《もと》に行きて、全快の由|申聞《もうしきこ》え、言葉を尽して喜悦《よろこび》を陳《の》べつ。「失主狗《はなれいぬ》にて思ふに任せねど、心ばかりの薬礼なり。願《ねがわ》くは納め給へ」ト、彼の豆滓を差し出《いだ》せば。朱目も喜びてこれを納め。ややありていへるやう、「昨日《きのう》御身に聞きたきことありといひしが、余の事ならず」ト、いひさして容《かたち》をあらため、「某《それがし》幾歳《いくとせ》の劫量《こうろう》を歴《へ》て、やや神通を得てしかば、自《おのずか》ら獣の相を見ることを覚えて、十《とお》に一《ひとつ》も誤《あやまり》なし。今御身が相を見るに、世にも稀《まれ》なる名犬にして、しかも力量《ちから》万獣《ばんじゅう》に秀《ひい》でたるが、遠からずして、抜群の功名あらん。某この年月《としつき》数多《あまた》の獣に逢ひたれども、御身が如きはかつて知らず。思ふに必ず由緒《よし》ある身ならん、その素性聞かまほし」トありしかば。黄金丸少しもつつまず、おのが素性来歴を語れば。朱目は聞いて膝を打ち。「それにてわれも会得《えとく》したり。総じて獣類《けもの》は胎生なれど、多くは雌雄|数匹《すひき》を孕《はら》みて、一親一子はいと稀なり。さるに御身はただ一匹にて生まれしかば、その力五、六匹を兼ねたり。加之《しかのみならず》牛に養はれて、牛の乳に育《はぐく》まれしかば、また牛の力量をも受得《うけえ》て、けだし尋常《よのつね》の犬の猛きにあらず。さるに怎麼《いか》なればかく、鈍《おぞ》くも足を傷《やぶ》られ給ひし」ト、訝《いぶ》かり問へば黄金丸は、「これには深き仔細《しさい》あり。原来某は、彼の金眸と聴水を、倶不戴天《ぐふたいてん》の仇《あだ》と狙《ねら》ふて、常に油断《ゆだん》なかりしが。去《いぬ》る日|件《くだん》の聴水を、途中にて見付しかば、名乗りかけて討たんとせしに、かへつて他《かれ》に方便《たばか》られて、遂にかかる不覚を取りぬ」ト、彼のときの事|具《つぶさ》に語りつつ、「思へば憎き彼の聴水、重ねて見当らばただ一噬みと、朝夕《あけくれ》心を配《く》ばれども、彼も用心して更に里方へ出でざれば、意恨《うらみ》を返す手掛りなく、無念に得堪えず候」ト、いひ畢《おわ》りて切歯《はがみ》をすれば、朱目も点頭《うなず》きて、「御身が心はわれとく猜《すい》しぬ、さこそ無念におはすらめ。さりながら黄金ぬし。御身|実《まこと》に他《かれ》を討たんとならば。われに好《よ》き計略《はかりごと》あり、及ばぬまでも試み給はずや、凡《およ》そ狐《きつね》狸《たぬき》の類《たぐい》は、その性質《さが》至《いたっ》て狡猾《わるがしこ》く、猜疑《うたがい》深き獣なれば、憖《なまじ》いに企《たく》みたりとも、容易《たやす》く捕へ得つべうもあらねど。その好む処には、君子も迷ふものと聞く、他《かれ》が好むものをもて、釣り出《いだ》して罠《わな》に落さんには、さのみ難きことにあらず」トいふに。黄金丸は打喜び、「その釣り落す罠とやらんは、兼《かね》てより聞きつれど、某いまだ見し事なし。怎麼《いか》にして作り候や」「そは斯様々々《かようかよう》にして拵《こしら》へ、それに餌《えば》をかけ置くなり」「して他《かれ》が好む物とは」「そは鼠の天麩羅《てんぷら》とて、肥《こえ》太りたる雌鼠を、油に揚げて掛けおくなり。さすればその香気|他《かれ》が鼻を穿《うが》ちて、心魂忽ち空になり、われを忘れて大概《おおかた》は、その罠に落つるものなり。これよく猟師《かりうど》のなす処にして、かの狂言にもあるにあらずや。御身これより帰りたまはば、まづその如く罠を仕掛て、他が来《きた》るを待ち給へ。今宵あたりは彼の狐の、その香気に浮かれ出でて、御身が罠に落ちんも知れず」ト、懇切《ねんごろ》に教へしかば。「こは好《よ》きことを聞き得たり」ト、数度《あまたたび》喜び聞え、なほ四方山《よもやま》の物語に、時刻を移しけるほどに、日も山端《やまのは》に傾《かたぶ》きて、塒《ねぐら》に騒ぐ群烏《むらがらす》の、声かしましく聞えしかば。「こは意外長坐しぬ、宥《ゆる》したまへ」ト会釈しつつ、わが棲居《すみか》をさして帰り行く、途すがら例の森陰まで来たりしに、昨日の如く木の上より、矢を射かくるものありしが。此度《こたび》は黄金丸肩をかすらして、思はず身をも沈めつ、大声あげて「おのれ今日も狼藉《ろうぜき》なすや、引捕《ひっとら》へてくれんず」ト、走り寄《よっ》て木の上を見れば、果して昨日の猿にて、黄金丸の姿を見るより、またも木葉《このは》の中《うち》に隠れしが、われに木伝《こづた》ふ術あらねば、追駆《おっか》けて捕ふることもならず。憎き猿めと思ふのみ、そのままにして打棄てたれど。「さるにても何故《なにゆえ》に彼の猿は、一度ならず二度までも、われを射んとはしたりけん。われら猿とは古代《いにしえ》より、仲|悪《あ》しきものの譬《たとえ》に呼ばれて、互ひに牙《きば》を鳴らし合ふ身なれど、かくわれのみが彼の猿に、執念《しゅうね》く狙はるる覚えはなし。明日にもあれ再び出でなば、引捕《ひっとら》へて糺《ただ》さんものを」ト、その日は怒りを忍びて帰りぬ。――畢竟《ひっきょう》この猿は何者ぞ。また狐罠の落着《なりゆき》怎麼《いかん》。そは次の巻《まき》を読みて知れかし。

   上巻終
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   下巻

     第九回

 かくて黄金丸は、ひたすら帰途《かえり》を急ぎしが、路程《みちのほど》も近くはあらず、かつは途中にて狼藉せし、猿を追駆《おいか》けなどせしほどに。意外《おもいのほか》に暇どりて、日も全く西に沈み、夕月|田面《たのも》に映る頃《ころ》、漸《ようや》くにして帰り着けば。鷲郎《わしろう》ははや門に馮《よ》りて、黄金丸が帰着《かえり》を待ちわびけん。他《かれ》が姿を見るよりも、連忙《いそがわ》しく走り迎へつ、「※[#「口+約」、89-6]《やよ》、黄金丸、今日はなにとてかくは遅《おそ》かりし。待たるる身より待つわが身の、気遣《きづか》はしさを猜《すい》してよ。去《いぬ》る日の事など思ひ出でて、安き心はなきものを」ト、喞言《かこと》がましく聞ゆれば、黄金丸は呵々《かやかや》と打ち笑ひて、「さな恨みそ。今日は朱目《あかめ》ぬしに引止められて、思はず会話《はなし》に時を移し、かくは帰着《かえり》の後《おく》れしなり。構へて待たせし心ならねば……」ト、詫《わ》ぶるに鷲郎も深くは咎《とが》めず、やがて笑ひにまぎらしつつ、そのまま中《うち》に引入れて、共に夕餉《ゆうげ》も喰《くら》ひ果てぬ。
 暫《しばらく》して黄金丸は、鷲郎に打向ひて、今日朱目が許《もと》にて聞きし事ども委敷《くわしく》語り、「かかる良計ある上は、速《すみや》かに彼の聴水を、誑《おび》き出《いだ》して捕《とらえ》んず」ト、いへば鷲郎もうち点頭《うなず》き、「狐を釣るに鼠《ねずみ》の天麩羅《てんぷら》を用ふる由は、われ猟師《かりうど》に事《つか》へし故、疾《とく》よりその法は知りて、罠《わな》の掛け方も心得つれど、さてその餌《えば》に供すべき、鼠のあらぬに逡巡《ためら》ひぬ」ト、いひつつ天井を打眺《うちなが》め、少しく声を低めて、「御身がかつて救《たす》けたる、彼の阿駒《おこま》こそ屈竟《くっきょう》なれど。他《かれ》頃日《このごろ》はわれ曹《ら》に狎《なず》みて、いと忠実《まめやか》に傅《かしず》けば、そを無残に殺さんこと、情も知らぬ無神狗《やまいぬ》なら知らず、苟《かり》にも義を知るわが們《ともがら》の、作《な》すに忍びぬ処ならずや」「実《まこと》に御身がいふ如く、われも途《みち》すがら考ふるに、まづ彼《あ》の阿駒に気は付きたれど。われその必死を救ひながら、今また他《かれ》が命を取らば、怎麼《いか》にも恩を被《き》するに似て、わが身も快くは思はず。とてもかくてもこの外に、鼠を探《さが》し捕《と》らんに如《し》かじ」ト、言葉いまだ畢《おわ》らざるに、忽《たちま》ち「呀《あっ》」と叫ぶ声して、鴨居《かもい》より撲地《はた》ト顛落《まろびおつ》るものあり。二匹は思はず左右に分れ、落ちたるものを佶《きっ》と見れば、今しも二匹が噂《うわさ》したる、かの阿駒なりけるが。なにとかしたりけん、口より血|夥《おびただ》しく流れ出《いず》るに。鷲郎は急ぎ抱《いだ》き起しつ、「こや阿駒、怎麼にせしぞ」「見れば面《おもて》も血に塗《まみ》れたるに、……また猫にや追はれけん」「鼬《いたち》にや襲はれたる」「疾《と》くいへ仇敵《かたき》は討ちてやらんに」ト、これかれ斉《ひと》しく勦《いた》はり問へば。阿駒は苦しき息の下より、「いやとよ。猫にも追はれず、鼬にも襲はれず、妾《わらわ》自らかく成り侍《はべ》り」「さは何故の生害《しょうがい》ぞ」「仔細ぞあらん聞かまほし」ト、また連忙《いそがわ》しく問《とい》かくれば。阿駒は潸然《はらはら》と涙を落し、「さても情深き殿たち哉《かな》。かかる殿のためにぞならば、捨《すつ》る命も惜《おし》くはあらず。――妾が自害は黄金ぬしが、御用に立たん願《ねがい》に侍り」「さては今の物語を」「爾《なんじ》は残らず……」「鴨居の上にて聞いて侍り。――妾|去《いぬ》る日|烏円《うばたま》めに、無態の恋慕しかけられて、已《すで》に他《かれ》が爪《つめ》に掛り、絶えなんとせし玉の緒を、黄金ぬしの御情《おんなさけ》にて、不思議に繋《つな》ぎ候ひしが。彼《かの》時わが雄《おっと》は烏円《うばたま》のために、非業の死をば遂げ給ひ。残るは妾ただ一匹、年頃契り深からず、石見銀山《いわみぎんざん》桝落《ますおと》し、地獄落しも何のその。縦令《たと》ひ石油の火の中も、盥《たらい》の水の底までも、死なば共にと盟《ちこ》ふたる、恋し雄に先立たれ、何がこの世の快楽《たのしみ》ぞ。生きて甲斐なきわが身をば、かく存命《ながら》へて今日までも、君に傅《かしず》きまゐらせしは、妾がために雄の仇なる、かの烏円をその場を去らせず、討ちて給ひし黄金ぬしが、御情に羈《ほだ》されて、早晩《いつ》かは君の御為《おんため》に、この命を進《まい》らせんと、思ふ心のあればのみ。かくて今宵図らずも、殿たち二匹の物語を、鴨居の上にて洩《も》れ聞きつ。さても嬉しや今宵こそ、御恩に報ゆる時来れと、心|私《ひそ》かに喜ぶものから。今殿たちが言葉にては、とても妾を牙《きば》にかけて、殺しては給はらじと、思ひ定めつさてはかく、われから咽喉《のど》を噛《か》みはべり。恩のために捨る命の。露ばかりも惜しくは侍らず。まいてや雄は妾より、先立ち登る死出の山、峰に生《お》ひたる若草の、根を齧《かじ》りてやわれを待つらん。追駆け行くこそなかなかに、心楽しく侍るかし。願ふはわが身をこのままに、天麩羅とやらんにしたまひて、彼の聴水を打つて給《た》べ。日頃|大黒天《だいこくてん》に願ひたる、その甲斐ありて今ぞかく、わが身は恩ある黄金ぬしの、御用に立たん嬉れしさよ。……ああ苦しや申すもこれまで、おさらばさらば」ト夕告《ゆうつげ》の、とり乱したる前|掻《か》き合せ。西に向ふて双掌《もろて》を組み、眼《まなこ》を閉ぢてそのままに、息絶えけるぞ殊勝なる。
 二匹の犬は初《はじめ》より耳|側《そばた》てて、阿駒《おこま》が語る由を聞きしが。黄金丸はまづ嗟嘆《さたん》して、「さても珍しき鼠かな。国には盗人《ぬすびと》家に鼠と、人間《ひと》に憎まれ卑《いやし》めらるる、鼠なれどもかくまでに、恩には感じ義には勇《いさ》めり。これを彼の猫の三年|飼《こう》ても、三日にして主を忘るてふ、烏円如きに比べては、雪と炭との差別《けじめ》あり。むかし唐土《もろこし》の蔡嘉夫《さいかふ》といふ人間《ひと》、水を避けて南壟《なんろう》に住す。或夜|大《おおい》なる鼠浮び来て、嘉夫が床《とこ》の辺《ほとり》に伏しけるを、奴《ど》憐《あわれ》みて飯を与へしが。かくて水退きて後、件《くだん》の鼠|青絹玉顆《せいけんぎょくか》を捧《ささ》げて、奴に恩を謝せしとかや。今この阿駒もその類か。復讐《ふくしゅう》の報恩《むくい》に復讐の、用に立ちしも不思議の約束、思へば免《のが》れぬ因果なりけん。さばれ生《いき》とし生ける者、何かは命を惜まざる。朝《あした》に生れ夕《ゆうべ》に死すてふ、蜉蝣《ふゆ》といふ虫だにも、追へば逃《のが》れんとするにあらずや。ましてこの鼠の、恩のためとはいひながら、自ら死して天麩羅《てんぷら》の、辛き思ひをなさんとは、実《まこと》に得がたき阿駒が忠節、賞《ほ》むるになほ言葉なし。……とまれ他《かれ》が願望《のぞみ》に任せ、無残なれども油に揚げ。彼の聴水《ちょうすい》を釣《つり》よせて、首尾よく彼奴《きゃつ》を討取らば、聊《いささ》か菩提《ぼだい》の種《たね》ともなりなん、善は急げ」ト勇み立ちて、黄金丸まづ阿駒の死骸《なきがら》を調理すれば、鷲郎はまた庭に下《お》り立ち、青竹を拾ひ来りて、罠の用意にぞ掛りける。

     第十回

 不題《ここにまた》彼の聴水は、去《いぬ》る日途中にて黄金丸に出逢ひ、已《すで》に命も取らるべき処を、辛《かろ》うじて身一ツを助かりしが。その時よりして畏気《おじけ》附き、白昼《ひる》は更なり、夜《よ》も里方へはいで来らず、をさをさ油断《ゆだん》なかりしが。その後《のち》他の獣|們《ら》の風聞《うわさ》を聞けば、彼の黄金丸はその夕《ゆうべ》、太《いた》く人間《ひと》に打擲《ちょうちゃく》されて、そがために前足|痿《な》えしといふに。少しく安堵《あんど》の思ひをなし、忍び忍びに里方へ出でて、それとなく様子をさぐれば、その痍《きず》意外《おもいのほか》重くして、日を経《ふ》れども愈《い》えず。さるによつて明日《あす》よりは、木賊《とくさ》ヶ原《はら》の朱目《あかめ》が許《もと》に行きて、療治を乞《こ》はんといふことまで、怎麼《いか》にしけんさぐり知《しり》つ、「こは棄《す》ておけぬ事どもかな、他《かれ》もし朱目が薬によりて、その痍全く愈えたらんには、再び怎麼なる憂苦《うきめ》をや見ん。とかく彼奴《きゃつ》を亡きものにせでは、枕《まくら》を高く眠《ねぶ》られじ」ト、とさまかうさま思ひめぐらせしが。忽ち小膝《こひざ》を礑《はた》と撲《う》ち、「爰《ここ》によき計《はかりごと》こそあれ、頃日《このころ》金眸《きんぼう》大王が御内《みうち》に事《つか》へて、新参なれども忠《まめ》だちて働けば、大王の寵愛《おおぼえ》浅からぬ、彼の黒衣《こくえ》こそよかんめれ。彼の猿弓を引く業《わざ》に長《た》けて、先つ年|他《かれ》が叔父|沢蟹《さわがに》と合戦せし時も、軍功少からざりしと聞く。その後《のち》叔父は臼《うす》に撲《う》たれ、他《かれ》は木から落猿《おちざる》となつて、この山に漂泊《さまよ》ひ来つ、金眸大王に事へしなれど、むかし取《とっ》たる杵柄《きねづか》とやら、一束《ひとつか》の矢|一張《ひとはり》の弓だに持たさば、彼の黄金丸如きは、事もなく射殺《いころ》してん。まづ他《かれ》が許《もと》に往《ゆ》きて、事の由来《おこり》を白地《あからさま》に語り、この件《こと》を頼むに如《し》かじ」ト思ふにぞ、直ちに黒衣が許へ走り往きつ、ひたすらに頼みければ。元より彼の黒衣も、心|姦佞《ねじけ》し悪猿なれば、異議なく承引《うけあ》ひ、「われも久しく試《ため》さねば、少しは腕も鈍りたらんが。多寡《たか》の知れたる犬一匹、われ一矢にて射て取らんに、何の難き事かあらん。さらば先づ弓矢を作りて、明日|他《かれ》の朱目が許より、帰る処を待ち伏せて、見事仕止めてくれんず」ト、いと頼もしげに見えければ。聴水は打ち喜び、「万《よろ》づは和主《おぬし》に委《まか》すべければ、よきに計ひ給ひてよ。謝礼は和主が望むにまかせん」ト。それより共に手伝ひつつ、櫨《はじ》の弓に鬼蔦《おにづた》の弦《つる》をかけ、生竹《なまだけ》を鋭《と》く削りて矢となし、用意やがて備《ととの》ひける。
 さて次日《つぎのひ》の夕暮、聴水は件《くだん》の黒衣が許に往きて、首尾|怎麼《いか》にと尋ぬるに。黒衣まづ誇貌《ほこりがお》に冷笑《あざわら》ひて「さればよ聴水ぬし聞き給へ。われ今日かの木賊《とくさ》ヶ原《はら》に行き、路傍《みちのほとり》なる松の幹の、よき処に坐をしめて、黄金丸が帰来《かえり》を待ちけるが。われいまだ他《かれ》を見しことなければ、もし過失《あやま》ちて他《た》の犬を傷《きずつ》け、後の禍《わざわい》をまねかんも本意《ほい》なしと、案じわづらひてゐけるほどに。暫時《しばらく》して彼方《かなた》より、茶色毛の犬の、しかも一|足《そく》痿《な》えたるが、覚束《おぼつか》なくも歩み来ぬ。兼《かね》て和主が物語に、他《かれ》はその毛茶色にて、右の前足痿えしと聞《きき》しかば。必定《ひつじょう》これなんめりと思ひ。矢比《やごろ》を測つて兵《ひょう》と放てば。竄点《ねらい》誤たず、他《かれ》が右の眼《まなこ》に篦深《のぶか》くも突立《つった》ちしかば、さしもに猛《たけ》き黄金丸も、何かは以《もっ》てたまるべき、忽《たちま》ち撲地《はた》と倒れしが四足を悶掻《もが》いて死《しん》でけり。仕済ましたりと思ひつつ、松より寸留々々《するする》と走り下りて、他《かれ》が躯《むくろ》を取らんとせしに、何処《いずく》より来りけん一人の大男、思ふに撲犬師《いぬころし》なるべし、手に太やかなる棒持ちたるが、歩み寄《よっ》てわれを遮《さえぎ》り、なほ争はば彼の棒もて、われを打たんず勢《いきおい》に。われも他《かれ》さへ亡きものにせば、躯はさのみ要なければ、わが功名《てがら》を横奪《よこどり》されて、残念なれども争ふて、傷《きずつ》けられんも無益《むやく》しと思ひ、そのまま棄てて帰り来ぬ。されども聴水ぬし、他《かれ》は確《たしか》に仕止めたれば、証拠の躯はよし見ずとも、心強く思はれよ。ああ彼の黄金丸も今頃は、革屋《かわや》が軒に鉤下《つりさ》げられてん。思へばわれに意恨《うらみ》もなきに、無残なことをしてけり」ト、事実《まこと》しやかに物語れば、聴水喜ぶこと斜《ななめ》ならず、「こは有難し、われもこれより気強くならん。原来彼の黄金丸は、われのみならず畏《かしこ》くも、大王までを仇敵《かたき》と狙《ねら》ふて、他《かれ》が足痍《あしのきず》愈《いえ》なば、この山に討入《うちいり》て、大王を噬《か》み斃《たお》さんと計る由。……怎麼《いか》に他《かれ》獅子《しし》([#ここから割り注]畑時能が飼ひし犬の名[#ここで割り注終わり])の智勇ありとも、わが大王に牙向《はむか》はんこと蜀犬《しょっけん》の日を吠《ほ》ゆる、愚を極めし業《わざ》なれども。大王これを聞《きこ》し召して、聊《いささ》か心に恐れ給へば、佻々《かるがる》しくは他出《そとで》もしたまはず。さるを今《いま》和主が、一|箭《ぜん》の下《もと》に射殺《いころ》したれば、わがために憂《うれい》を去りしのみか、取不直《とりもなおさず》大王が、眼上《めのうえ》の瘤《こぶ》を払ひしに等し。今より後は大王も、枕を高く休みたまはん、これ偏《ひと》へに和主が働き、その功実に抜群なりかし。われはこれより大王に見《まみ》え、和主が働きを申上げて、重き恩賞得さすべし。」とて、いと嬉しげに立去りけり。

     第十一回

 かくて聴水は、黒衣《こくえ》が棲居《すみか》を立出でしが、他《かれ》が言葉を虚誕《いつわり》なりとは、月に粲《きら》めく路傍《みちのべ》の、露ほども暁得《さと》らねば、ただ嬉しさに堪えがたく、「明日よりは天下晴れて、里へも野へも出らるるぞ。喃《のう》、嬉れしやよろこばしや」ト。永《なが》く牢《ひとや》に繋《つなが》れし人間《ひと》の、急に社会《このよ》へ出でし心地して、足も空に金眸《きんぼう》が洞《ほら》に来《きた》れば。金眸は折しも最愛の、照射《ともし》といへる侍妾《そばめ》の鹿を、辺《ほとり》近くまねき寄《よせ》て、酒宴に余念なかりけるが。聴水はかくと見るより、まづ慇懃《いんぎん》に安否を尋ね。さて今日|斯様《かよう》のことありしとて、黒衣が黄金丸を射殺せし由を、白地《ありのまま》に物語れば。金眸も斜《ななめ》ならず喜びて、「そは大《おおい》なる功名《てがら》なりし。さばれ爾《なんじ》何とて他《かれ》を伴はざる、他に褒美《ほうび》を取らせんものを」ト、いへば聴水は、「僕《やつがれ》も然《しか》思ひしかども、今ははや夜も更《ふ》けたれば、今宵は思ひ止《とど》まり給ふて、明日の夜更に他をまねき、酒宴を張らせ給へかし。さすれば僕明日里へ行きて、下物《さかな》数多《あまた》索《もと》めて参らん」ト、いふに金眸も点頭《うなず》きて、「とかくは爾よきに計らへ」「お命《おせ》畏《かしこ》まり候」とて。聴水は一礼なし、己《おの》が棲居《すみか》へ帰りける。
 さてその翌朝《あけのあさ》、聴水は身支度《みじたく》なし、里の方《かた》へ出で来つ。此処《ここ》の畠|彼処《かしこ》の廚《くりや》と、日暮るるまで求食《あさ》りしかど、はかばかしき獲物もなければ、尋ねあぐみて只《と》ある藪陰《やぶかげ》に憩《いこ》ひけるに。忽ち車の軋《きし》る音して、一匹の大牛《おおうし》大《おおい》なる荷車を挽《ひ》き、これに一人の牛飼つきて、罵立《ののしりた》てつつ此方《こなた》をさして来れり。聴水は身を潜めて件《くだん》の車の上を見れば。何処《いずく》の津より運び来にけん、俵にしたる米の他《ほか》に、塩鮭《しおざけ》干鰯《ほしか》なんど数多《あまた》積めるに。こは好《よ》き物を見付けつと、なほ隠れて車を遣《や》り過し、閃《ひら》りとその上に飛び乗りて、積みたる肴《さかな》をば音せぬやうに、少しづつ路上《みちのべ》に投落《なげおと》すを、牛飼は少しも心付かず。ただ彼《かの》牛のみ、車の次第に軽くなるに、訝《いぶか》しとや思ひけん、折々立止まりて見返るを。牛飼はまだ暁得《さと》らねば、かへつて牛の怠るなりと思ひて、ひたすら罵り打ち立てて行きぬ。とかくして一町ばかり来るほどに、肴大方取下してければ、はや用なしと車を飛び下り。投げたる肴を一ツに拾ひ集め、これを山へ運ばんとするに。層《かさ》意外《おもいのほか》に高くなりて、一匹にては持ても往かれず。さりとて残し置かんも口惜し、こは怎麼《いか》にせんと案じ煩ひて、霎時《しばし》彳《たたず》みける処に。彼方《あなた》の森の陰より、驀地《まっしぐら》に此方《こなた》をさして走《は》せ来る獣あり。何者ならんと打見やれば。こは彼の黒衣にて。小脇に弓矢をかかへしまま、側目《わきめ》もふらず走り過ぎんとするに。聴水は連忙《いそがわ》しく呼び止めて、「喃々《のうのう》、黒衣ぬし待ちたまへ」と、声を掛《かく》れば。漸くに心付きし乎《か》、黒衣は立止まり、聴水の方《かた》を見返りしが。ただ眼を見張りたるのみにて、いまだ一言も発し得ぬに。聴水は可笑《おか》しさを堪《こら》えて、「慌《あわただ》し何事ぞや。面《おもて》の色も常ならぬに……物にや追はれ給ひたる」ト、問《とい》かくれば。黒衣は初めて太息《といき》吻《つ》き、「さても恐しや。今かの森の中にて、黄金《こがね》……黄金色なる鳥を見しかば。一矢に射止めんとしたりしに、豈《あに》計らんや他《かれ》は大《おおい》なる鷲《わし》にて、われを見るより一攫《ひとつか》みに、攫みかからんと走り来ぬ。ああ 恐しや恐しや」ト、胸を撫《な》でつつ物語れば。聴水は打ち笑ひ、「そは実《まこと》に危急《あやう》かりし。さりながら黒衣ぬし、今日は和主は客品《かくぼん》にて、居ながら佳肴《かこう》を喰《くら》ひ得んに、なにを苦しんでか自ら猟《かり》に出で、かへつてかかる危急き目に逢ふぞ。毛を吹いて痍《きず》を求むる、酔狂《ものずき》もよきほどにしたまへ。そはともあれわれ今日は大王の御命《おおせ》を受け、和主を今宵招かんため、今朝《けさ》より里へ求食《あさ》り来つ、かくまで下物《さかな》は獲たれども、余りに層《かさ》多ければ、独りにては運び得ず、思量《しあん》にくれし処なり。今和主の来りしこそ幸《さち》なれ、大王もさこそ待ち侘びて在《おわ》さんに、和主も共に手伝ひて、この下物《さかな》を運びてたべ。情《なさけ》は他《あだ》しためならず、皆これ和主に進《まい》らせんためなり」ト、いふに黒衣も打ち笑《わらい》て、「そはいと易《やす》き事なり。幸ひこれに弓あれば、これにて共に扛《か》き往かん。まづ待ち給へせん用あり」ト。やがて大《おおい》なる古菰《ふるごも》を拾ひきつ、これに肴を包みて上より縄《なわ》をかけ。件《くだん》の弓をさし入れて、人間《ひと》の駕籠《かご》など扛くやうに、二匹|前後《まえうしろ》にこれを担《にな》ひ、金眸が洞へと急ぎけり。

     第十二回

 聴水黒衣の二匹の獣は、彼の塩鮭《しおざけ》干鰯《ほしか》なんどを、総《すべ》て一包みにして、金眸が洞へ扛きもて往き。やがてこれを調理して、数多《あまた》の獣類《けもの》を呼び集《つど》ひ、酒宴を初めけるほどに。皆々黒衣が昨日の働きを聞て、口を極めて称賛《ほめそや》すに、黒衣はいと得意顔に、鼻|蠢《うご》めかしてゐたりける。金眸も常に念頭《こころ》に懸《か》けゐて、後日の憂ひを気遣ひし、彼の黄金丸を失ひし事なれば、その喜悦《よろこび》に心|弛《ゆる》みて、常よりは酒を過ごし、いと興づきて見えけるに。聴水も黒衣も、茲《ここ》を先途《せんど》と機嫌《きげん》を取り。聴水が唄《うた》へば黒衣が舞ひ、彼が篠田《しのだ》の森を躍《おど》れば、これはあり合ふ藤蔓《ふじづる》を張りて、綱渡りの芸などするに、金眸ますます興に入りて、頻《しき》りに笑ひ動揺《どよ》めきしが。やがて酔《えい》も十二分にまはりけん、照射《ともし》が膝を枕にして、前後も知らず高鼾《たかいびき》、霎時《しばし》は谺《こだま》に響きけり。かくて時刻も移りしかば、はや退《まか》らんと聴水は、他の獣|們《ら》に別《わかれ》を告げ、金眸が洞を立出でて、※[#「人べん+稜のつくり」、98-15]※[#「人べん+登」、98-15]《よろめ》く足を踏〆《ふみし》め踏〆め、わが棲居《すみか》へと辿《たど》りゆくに。この時《とき》空は雲晴れて、十日ばかりの月の影、隈《くま》なく冴《さ》えて清らかなれば、野も林も一面《ひとつら》に、白昼《まひる》の如く見え渡りて、得も言はれざる眺望《ながめ》なるに。聴水は虚々《うかうか》と、わが棲《す》へ帰ることも忘れて、次第に麓《ふもと》の方《かた》へ来りつ、只《と》ある切株に腰うちかけて、霎時《しばし》月を眺めしが。「ああ、心地|好《よ》や今日の月は、殊更《ことさら》冴え渡りて見えたるぞ。これも日頃|気疎《けぶた》しと思ふ、黄金|奴《め》を亡き者にしたれば、胸にこだはる雲霧の、一時に晴れし故なるべし。……さても照りたる月|哉《かな》、われもし狸ならんには、腹鼓も打たんに」ト、彼の黒衣が虚誕《いつわり》を、それとも知らで聴水が、佻々《かるがる》しくも信ぜしこそ、年頃なせし悪業の、天罰ここに報い来て、今てる空の月影は、即ちその身の運のつき[#「つき」に白丸傍点]、とは暁得《さと》らずしてひたすらに、興じゐるこそ愚なれ。
 折しも微吹《そよふ》く風のまにまに、何処《いずく》より来るとも知らず、いとも妙《たえ》なる香《かおり》あり。怪しと思ひなほ嗅《か》ぎ見れば、正にこれおのが好物、鼠の天麩羅《てんぷら》の香なるに。聴水忽ち眼《まなこ》を細くし、「さても甘《うま》くさや、うま臭《くさ》や。何処《いずく》の誰がわがために、かかる馳走《ちそう》を拵《こしら》へたる。将《いで》往《ゆ》きて管待《もてなし》うけん」ト、径《みち》なき叢《くさむら》を踏み分けつつ、香を知辺《しるべ》に辿《たど》り往くに、いよいよその物近く覚えて、香|頻《しき》りに鼻を撲《う》つにぞ。心魂《こころ》も今は空になり、其処《そこ》か此処《ここ》かと求食《あさ》るほどに、小笹《おざさ》一叢《ひとむら》茂れる中に、漸《ようや》く見当る鼠の天麩羅《てんぷら》。得たりと飛び付き咬《く》はんとすれば、忽ち発止《ぱっし》と物音して、その身の頸《くび》は物に縛《し》められぬ。「南無三《なむさん》、罠《わな》にてありけるか。鈍《おぞ》くも釣《つ》られし口惜《くちお》しさよ。さばれ人間《ひと》の来らぬ間に、逃《のが》るるまでは逃れて見ん」ト。力の限り悶掻《もが》けども、更にその詮《せん》なきのみか咽喉《のど》は次第に縊《しば》り行きて、苦しきこといはん方《かた》なし。
 恁《かか》る処へ、左右の小笹|哦嗟々々《がさがさ》と音して、立出《たちいず》るものありけり。「さてはいよいよ猟師《かりうど》よ」ト、見やればこれ人間《ひと》ならず、いと逞《たく》ましき二匹の犬なり。この時|右手《めて》なる犬は進みよりて、「やをれ聴水われを見識《みし》れりや」ト、いふに聴水|覚束《おぼつか》なくも、彼の犬を見やれば、こは怎麼《いか》に、昨日黒衣に射らせたる黄金丸なるに。再び太《いた》く驚きて、物いはんとするに声は出でず、眼《まなこ》を見はりて悶《もだ》ゆるのみ。犬はなほ語を続《つ》ぎて、「怎麼に苦しきか、さもありなん。されど耳あらばよく聞けかし。爾《なんじ》よくこそわが父を誑《たぶら》かして、金眸には咬《く》はしたれ。われもまた爾がためには、罪もなきに人間《ひと》に打たれて、太《いた》く足を傷《きずつ》けられたれば、重なる意恨《うらみ》いと深かり。然るに爾その後《のち》は、われを恐れて里方へは、少しも姿を出《いだ》さざる故、意恨をはらす事ならで、いとも本意《ほい》なく思ふ折から。朱目《あかめ》ぬしが教へに従ひ、今宵此処に罠を掛《かけ》て、私《ひそ》かに爾が来《きた》るを待ちしに。さきにわがため命を棄《すて》し、阿駒《おこま》が赤心《まごころ》通じけん、鈍《おぞ》くも爾釣り寄せられて、罠に落ちしも免《の》がれぬ天命。今こそ爾を思ひのままに、肉を破り骨を砕き、寸断々々《ずたずた》に噛みさきて、わが意恨《うらみ》を晴らすべきぞ。思知つたか聴水」ト、いひもあへず左右より、掴《つか》みかかつて噛まんとするに。思ひも懸けず後より、「※[#「口+約」、101-4]《やよ》黄金丸|暫《しばら》く待ちね。某《それがし》聊《いささ》か思ふ由あり。這奴《しゃつ》が命は今|霎時《しばし》、助け得させよ」ト、声かけつつ、徐々《しずしず》と立出《たちいず》るものあり。二匹は驚き何者ぞと、月光《つきあかり》に透《すか》し見れば。何時《いつ》のほどにか来りけん、これなん黄金丸が養親《やしないおや》、牡牛《おうし》文角《ぶんかく》なりけるにぞ。「これはこれは」トばかりにて、二匹は再び魂《きも》を消しぬ。

     第十三回

 恁《かか》る処へ文角の来らんとは、思ひ設けぬ事なれば、黄金丸驚くこと大方ならず。「珍らしや文角ぬし。什麼《そも》何として此処には来《きたり》たまひたる。そはとまれかくもあれ、その後《のち》は御健勝にて喜ばし」ト、一礼すれば文角は点頭《うなず》き、「その驚きは理《ことわり》なれど、これには些《ちと》の仔細あり。さて其処にゐる犬殿は」ト、鷲郎《わしろう》を指《ゆびさ》し問へば。黄金丸も見返りて、「こは鷲郎ぬしとて、去《いぬ》る日|斯様々々《かようかよう》の事より、図らず兄弟の盟《ちか》ひをなせし、世にも頼もしき勇犬なり。さて鷲郎この牛殿は、日頃|某《それがし》が噂《うわさ》したる、養親の文角ぬしなり」ト、互に紹介《ひきあわ》すれば。文角も鷲郎も、恭《うやうや》しく一礼なし、初対面の挨拶《あいさつ》もすめば。黄金丸また文角にむかひて、「さるにても文角ぬしには、怎麼《いか》なる仔細の候《そうろう》て、今宵此処には来たまひたる」ト、連忙《いそがわ》しく尋ぬれば。「さればとよよく聞《きき》ね、われ元より御身たちと、今宵此処にて邂逅《めぐりあ》はんとは、夢にだも知らざりしが。今日しも主家の廝《こもの》に曳《ひ》かれて、この辺《あたり》なる市場へ、塩鮭|干鰯《ほしか》米なんどを、車に積《つみ》て運び来りしが。彼の大藪《おおやぶ》の陰を通る時、一匹の狐物陰より現はれて、わが車の上に飛び乗り、肴《さかな》を取《とっ》て投げおろすに。這《しゃ》ツ憎き野良狐めト、よくよく見れば年頃日頃、憎しと思ふ聴水なれば。這奴《しゃつ》いまだ黄金丸が牙にかからず、なほこの辺を徘徊《はいかい》して、かかる悪事を働けるや。将《いで》一突きに突止めんと、気はあせれども怎麼にせん、われは車に繋《つ》けられたれば、心のままに働けず。これを廝に告げんとすれど、悲しや言語《ことば》通ぜざれば、他《かれ》は少しも心付かで、阿容々々《おめおめ》肴を盗み取られ。やがて市場に着きし後、代物《しろもの》の三分《みつ》が一《ひとつ》は、あらぬに初めて心付き。廝は太《いた》く狼狽《うろた》へて、さまざまに罵《ののし》り狂ひ。さては途中にふり落せしならんと、引返して求むれど、これかと思ふ影だに見えぬに、今はた詮《せん》なしとあきらめしが。諦《あきら》められぬはわが心中。彼の聴水が所業《しわざ》なること、目前《まのあたり》見て知りしかば、いかにも無念さやるせなく。殊《こと》には他《かれ》は黄金丸が、倶不戴天《ぐふたいてん》の讐《あだ》なれば、意恨はかの事のみにあらず。よしよし今宵は引捕《ひっとら》へて、後黄金丸に逢ひし時、土産《みやげ》になして取らせんものと、心に思ひ定めつつ。さきに牛小屋を忍び出でて、其処よ此処よと尋ねめぐり、端《はし》なくこの場に来合せて、思ひもかけぬ御身たちに、邂逅ふさへ不思議なるに、憎しと思ふかの聴水も、かく捕はれしこそ嬉しけれ」ト、語るを聞きて黄金丸は、「さは文角ぬしにまで、かかる悪戯《いたずら》作《な》しけるよな。返す返すも憎き聴水、いで思ひ知らせんず」ト、噬《か》みかかるをば文角は、再び霎時《しばし》と押し隔て、「さな焦燥《いら》ちそ黄金丸。他《かれ》已《すで》に罠に落ちたる上は、俎板《まないた》の上なる魚《うお》に等しく、殺すも生《いか》すも思ひのままなり。されども彼の聴水は、金眸が股肱《ここう》の臣なれば、他《かれ》を責めなば自《おのず》から、金眸が洞《ほら》の様子も知れなんに、暫くわが為《な》さんやうを見よ」ト、いひつつ進みよりて、聴水が襟頭《えりがみ》を引掴《ひっつか》み、罠を弛《ゆる》めてわが膝《ひざ》の下に引き据《す》えつ。「いかにや聴水。かくわれ曹《ら》が計略に落ちしからは、爾《なんじ》が悪運もはやこれまでとあきらめよ。原来爾は稲荷大明神《いなりだいみょうじん》の神使《かみつかい》なれば、よくその分を守る時は、人も貴《とうと》みて傷《きずつ》くまじきに。性|邪悪《よこしま》にして慾深ければ、奉納の煎《あげ》豆腐を以《も》て足れりとせず。われから宝珠を棄てて、明神の神祠《みやしろ》を抜け出で、穴も定めぬ野良狐となりて、彼の山に漂泊《さまよ》ひ行きつ。金眸が髭《ひげ》の塵《ちり》をはらひ、阿諛《あゆ》を逞《たく》ましうして、その威を仮り、数多《あまた》の獣類《けもの》を害せしこと、その罪|諏訪《すわ》の湖よりも深く、また那須野《なすの》が原《はら》よりも大《おおい》なり。さばれ爾が尾いまだ九ツに割《さ》けず、三国《さんごく》飛行《ひぎょう》の神通なければ、つひに鈍《おぞ》くも罠に落ちて、この野の露と消えんこと、けだし免《のが》れぬ因果応報、大明神の冥罰《みょうばつ》のほど、今こそ思ひ知れよかし。されども爾|確乎《たしか》に聞け。過ちて改むるに憚《はばか》ることなく、末期《まつご》の念仏一声には、怎麼《いか》なる罪障も消滅するとぞ、爾今前非を悔いなば、速《すみや》かに心を翻へして、われ曹《ら》がために尋ぬることを答へよ。已《すで》に爾も知る如く、年頃われ曹彼の金眸を讐《あだ》と狙ひ。機会《おり》もあらば討入りて、他《かれ》が髭首|掻《かか》んと思へと。怎麼にせん他が棲む山、路《みち》嶮《けん》にして案内知りがたく。加之《しかのみならず》洞の中《うち》には、怎麼なる猛獣|侍《はん》べりて、怎麼《いか》なる守備《そなえ》ある事すら、更に探り知る由なければ、今日までかくは逡巡《ためら》ひしが、早晩《いつか》爾を捕へなば、糺問なして語らせんと、日頃思ひゐたりしなり。されば今われ曹《ら》が前にて、彼の金眸が洞の様子、またあの山の要害怎麼に、委敷《くわし》く語り聞かすべし。かくてもなお他を重んじ、事の真実《まこと》を語らずば、その時こそは爾をば、われ曹三匹|更《かわ》る更る。角に掛け牙に裂き、思ひのままに憂苦《うきめ》を見せん。もしまたいはば一思ひに、息の根止めて楽に死なさん。とても逃れぬ命なれば、臨終《いまわ》の爾が一言にて、地獄にも落ち極楽にも往かん。とく思量《しあん》して返答せよ」ト、あるいは威《おど》しあるいは賺《すか》し、言葉を尽していひ聞かすれば。聴水は何思ひけん、両眼より溢落《はふりおつ》る涙|堰《せ》きあへず。「ああわれ誤てり誤てり。道理《ことわり》切《せ》めし文角ぬしが、今の言葉に僕《やつがれ》が、幾星霜《いくとしつき》の迷夢|醒《さ》め、今宵ぞ悟るわが身の罪障思へば恐しき事なりかし。とまれ文角ぬし、和殿《わどの》が言葉にせめられて、今こそ一|期《ご》の思ひ出に、聴水物語り候べし。黄金ぬしも聞き給へ」ト、いひつつ咳《しわぶき》一咳《ひとつ》して、喘《ほ》と吻《つ》く息も苦しげなり。

     第十四回

 この時文角は、捕へし襟頭《えりがしら》少し弛《ゆる》めつ、されども聊《いささ》か油断せず。「いふ事あらば疾《と》くいへかし。この期に及びわれ曹《ら》を欺き、間隙《すき》を狙《ねら》ふて逃げんとするも、やはかその計《て》に乗るべきぞ」ト、いへば聴水|頭《こうべ》を打ちふり、「その猜疑《うたがい》は理《ことわり》なれど、僕《やつがれ》すでに罪を悔い、心を翻へせしからは、などて卑怯《ひきょう》なる挙動《ふるまい》をせんや。さるにても黄金ぬしは、怎麼《いか》にしてかく恙《つつが》なきぞ」ト。訝《いぶか》り問へば冷笑《あざわら》ひて、「われ実《まこと》に爾《なんじ》に誑《たばか》られて、去《いぬ》る日|人間《ひと》の家に踏み込み、太《いた》く打擲《ちょうちゃく》されし上に、裏の槐《えんじゅ》の樹《き》に繋《つな》がれて、明けなば皮も剥《はが》れんずるを、この鷲郎に救ひ出《いだ》され、危急《あやう》き命は辛く拾ひつ。その時足を挫《くじ》かれて、霎時《しばし》は歩行もならざりしが。これさへ朱目《あかめ》の翁《おきな》が薬に、かく以前《もと》の身になりにしぞ」ト、足踏《あしぶみ》して見すれば。聴水は皆まで聞かず、「いやとよ、和殿が彼時《かのとき》人間《ひと》に打たれて、足を傷《やぶ》られたまひし事は、僕|私《ひそ》かに探り知れど。僕がいふはその事ならず。――さても和殿に追はれし日より、わが身|仇敵《かたき》と附狙《つけねら》はれては、何時《いつ》また怎麼なる事ありて、われ遂に討たれんも知れず。とかく和殿を亡き者にせでは、わが胸到底安からじト、左様右様《とさまこうさま》思ひめぐらし。機会《おり》を窺《うかが》ふとも知らず、和殿は昨日彼の痍《きず》のために、朱目の翁を訪れたまふこと、私《ひそ》かに聞きて打ち喜び。直ちにわが腹心の友なる、黒衣と申す猿に頼みて、途中に和殿を射させしに、見事仕止めつと聞きつるが。……さては彼奴《きゃつ》に欺かれしか」ト。いへば黄金丸|呵々《からから》と打ち笑ひ、「それにてわれも会得したり。いまだ鷲郎にも語らざりしが。昨日朱目が許より帰途《かえるさ》、森の木陰を通りしに、われを狙ふて矢を放つものあり。畢竟《ひっきょう》村童們《さとのこら》が悪戯《いたずら》ならんと、その矢を嘴《くち》に咬《く》ひ止めつつ、矢の来し方《かた》を打見やれば。こは人間と思ひのほか、大《おおい》なる猿なりければ。憎《にっく》き奴めと睨《にら》まへしに、そのまま這奴《しゃつ》は逃げ失《う》せぬ。されどもわれ彼の猿に、意恨《うらみ》を受くべき覚《おぼえ》なければ、何故《なにゆえ》かかる事を作《な》すにやト、更に心に落ちざりしに、今爾が言葉によりて、他《かれ》が狼藉の所以《ゆえ》も知りぬ。然るに他《かれ》今日もまた、同じ処に忍びゐて。われを射んとしたりしかど。此度《こたび》もその矢われには当らず、肩の辺《あたり》をかすらして、後の木根《きのね》に立ちしのみ」ト。聞くに聴水は歯を咬切《くいしば》り、「口惜しや腹立ちや。聴水ともいはれし古狐が、黒衣ごとき山猿に、阿容々々《おめおめ》欺かれし悔しさよ。かかることもあらんかと、覚束なく思へばこそ、昨夕《ゆうべ》他が棲《す》を訪づれて、首尾|怎麼《いか》なりしと尋ねしなれ。さるに他《かれ》事もなげに、見事仕止めて帰りぬト、語るをわれも信ぜしが。今はた思へば彼時に、躯《むくろ》は人間《ひと》に取られしなどと、いひくろめしも虚誕《いつわり》の、尾を見せじと思へばなるべし。かくて他われを欺きしも、もしこの後《のち》和殿に逢ふことあらば、事|発覚《あらわ》れんと思ひしより、再び今日も森に忍びて、和殿を射んとはしたりしならん。それにて思ひ合すれば、さきに藪陰にて他に逢ひし時、太《いた》く物に畏《お》ぢたる様子なりしが、これも黄金ぬしに追はれし故なるべし。さりとは露ほども心付かざりしこそ、返す返すも不覚なれ。……ああ、これも皆聴水が、悪事の報《むくい》なりと思へば、他を恨みん由あらねど。這奴《しゃつ》なかりせば今宵もかく、罠目《わなめ》の恥辱はうけまじきに」ト、悔《くい》の八千度百千度《やちたびももちたび》、眼を釣りあげて悶《もだ》えしが。ややありて胸押し鎮《しず》め、「ああ悔いても及ぶことかは。とてもかくても捨《すつ》る命の、ただこの上は文角ぬしの、言葉にまかせて金眸が、洞の様子を語り申さん。――そもかの金眸大王が洞は、麓を去ること二里あまり、山を越え谷を渉《わた》ること、その数幾つといふことを知らねど。もし間道より登る時は、僅《わずか》十町ばかりにして、その洞口《ほらのくち》に達しつべし。さてまた大王が配下には、鯀化《こんか》(羆《ひぐま》)黒面《こくめん》(猪《しし》)を初めとして、猛き獣|們《ら》なきにあらねど。そは皆各所の山に分れて、己《おの》が持場を守りたれば、常には洞の辺《ほとり》にあらずただ僕《やつがれ》とかの黒衣のみ、旦暮《あけくれ》大王の傍《かたわら》に侍りて、他《かれ》が機嫌を取《とる》ものから。このほど大王|何処《いずく》よりか、照射《ともし》といへる女鹿《めじか》を連れ給ひ、そが容色に溺《おぼ》れたまへば、われ曹《ら》が寵《ちょう》は日々に剥《そ》がれて、私《ひそ》かに恨めしく思ひしなり。かくて僕|去《いぬ》る日、黄金ぬしに追れしより、かの月丸《つきまる》が遺児《わすれがたみ》、僕及び大王を、仇敵《かたき》と狙ふ由なりと、金眸に告げしかば。他《か》れもまた少しく恐れて、件《くだん》の鯀化、黒面などを呼びよせ、洞ちかく守護さしつつ、自身《おのれ》も佻々《かるがる》しく他出《そとで》したまはざりしが。これさへ昨日黒衣めが、和殿を打ちしと聞き給ひ、喜ぶこと斜《ななめ》ならず、忽《たちま》ち守護《まもり》を解かしめつ。今宵は黄金丸を亡き者にせし祝《いわい》なりとて、盛《さかん》に酒宴を張らせたまひ。僕もその席に侍りて、先のほどまで酒|酌《く》みしが、独り早く退《まか》り出《いで》つ、その帰途《かえるさ》にかかる状態《ありさま》、思へば死神の誘ひしならん」ト。いふに黄金丸は立上りて、彼方《あなた》の山を佶《きっ》と睨《にら》めつ、「さては今宵彼の洞にて、金眸はじめ配下の獣|們《ら》、酒宴《さかもり》なして戯《たわぶ》れゐるとや。時節到来今宵こそ。宿願成就する時なれ。阿那《あな》喜ばしやうれしや」ト、天に喜び地に喜び、さながら物に狂へる如し。聴水はなほ語を続《つ》ぎて、「実《げ》に今宵こそ屈竟《くっきょう》なれ。さきに僕|退出《まかりで》し時は、大王は照射《ともし》が膝を枕として、前後も知らず酔臥《えいふ》したまひ。その傍《ほとり》には黒衣めが、興に乗じて躍りゐしのみ、余の獣們は腹を満たして、各自《おのおの》棲居《すみか》に帰りしかば、洞には絶えて守護《まもり》なし。これより彼処《かしこ》へ向ひたまはば、かの間道より登《のぼり》たまへ。少しは路の嶮岨《けわし》けれど、幸ひ今宵は月冴えたれば、辿《たど》るに迷ふことはあらじ。その間道は……あれ臠《みそな》はせ、彼処《かしこ》に見ゆる一叢《ひとむら》の、杉の森の小陰《こかげ》より、小川を渡りて東へ行くなり。さてまた洞は岩畳み、鬼蔦《おにづた》あまた匐《は》ひつきたれど、辺《ほと》りに榎《えのき》の大樹あれば、そを目印《めじるし》に討入りたまへ」ト、残る隈なく教ふるにぞ。鷲郎聞きて感嘆なし、「げにや悪に強きものは、また善にも強しといふ。爾《なんじ》今前非を悔いて、吾|曹《ら》がために討入りの、計策《はかりごと》を教ふること忠《まめ》なり。さればわれその厚意《こころざし》に愛《め》で、おつつけ彼の黒衣とやらんを討《うっ》て、爾がために恨《うらみ》を雪《すす》がん。心安く成仏《じょうぶつ》せよ」「こは有難き御命《おおせ》かな。かくては思ひ置くこともなし、疾《と》くわが咽喉《のど》を噬《か》みたまへ」ト。覚悟|極《き》むればなかなかに、些《ちっと》も騒がぬ狐が本性。天晴《あっぱれ》なりと称《たた》へつつ、黄金丸は牙を反《そ》らし、やがて咽喉をぞ噬み切りける。

     第十五回

 黄金丸はまづ聴水を噬みころして、喜ぶこと限りなく、勇気日頃に十倍して、直ちに洞へむかはんと、連忙《いそがわ》しく用意をなし。文角鷲郎もろともに、彼の聴水が教へし路を、ひたすら急ぎ往くほどに、やがて山の峡間《はざま》に出でしが、これより路次第に嶮岨《けわし》く。荊棘《けいきょく》いやが上に生《お》ひ茂りて、折々|行方《ゆくて》を遮《さえぎ》り。松柏《しょうはく》月を掩《おお》ひては、暗きこといはんかたなく、動《やや》もすれば岩に足をとられて、千仞《せんじん》の渓《たに》に落ちんとす。鷲郎は原来|猟犬《かりいぬ》にて、かかる路には慣れたれば、「われ東道《あんない》せん」とて先に立ち、なほ路を急ぎけるほどに、とかくして只《と》ある尾上《おのえ》に出でしが。此処はただ草のみ生ひて、樹は稀《まれ》なれば月光《つきあかり》に、路の便《たより》もいと易《やす》かり。かかる処に路傍《みちのほとり》の叢《くさむら》より、つと走り出でて、鷲郎が前を横切るものあり。「這《しゃつ》伏勢ござんなれ」ト、身構へしつつ佶《きっ》と見れば、いと大《おおい》なる黒猿の、面《おもて》蘇枋《すおう》に髣髴《さもに》たるが、酒に酔ひたる人間《ひと》の如く、※[#「人べん+稜のつくり」、109-3]※[#「人べん+登」、109-3]《よろめ》きよろめき彼方《かなた》に行きて、太き松の幹にすがりつ、攀《よじ》登らんとあせれども、怎麼《いか》にしけん登り得ず。幾度《いくたび》かすべり落ちては、また登りつかんとするに。鷲郎は見返りて、黄金丸に打向ひ、「怎麼に黄金丸、彼処《かしこ》を見ずや。松の幹に攀らんとして、頻《しき》りにあせる一匹の猿あり。もし彼の黒衣にてはあらぬか」ト、指《さ》し示せば黄金丸は眺めやりて、「いかさま見違《みまご》ふべきもあらぬ黒衣なり。彼奴《きゃつ》松の幹に登らんとして登り得ぬは、思ふに今まで金眸が洞にありて、酒を飲みしにやあらん。引捕《ひっとら》へて吟味せば、洞の様子も知れなんに……」「他《かれ》果して黒衣ならば、われまづ往きて他を噬《か》まん。さきに聴水とも約したれば」ト、いひつつ走りよりて、「やをれ黒衣、逃《にぐ》るとて逃さんや」ト、一声高く吠《ほ》えかくれば。猿は礑《はた》と地に平伏《ひれふ》して、熟柿《じゅくし》臭き息を吻《つ》き、「こは何処《いずく》の犬殿にて渡らせ給ふぞ。僕《やつがれ》はこの辺《あたり》に棲《す》む賤《いや》しき山猿にて候。今|宣《のたも》ふ黒衣とは、僕が無二の友ならねば、元より僕が事にも候はず」ト。いふ時鷲郎が後より、黄金丸は歩み来て、呵々《からから》と打笑ひ、「爾《なんじ》黒衣。縦令《たと》ひ酒に酔ひたりともわが面《おもて》は見忘れまじ。われは昨日|木賊《とくさ》ヶ原《はら》にて、爾に射られんとせし黄金丸なるぞ」ト、罵れば。他なほ知らぬがほにて、「黄金殿か白銀《しろかね》殿か、われは一向|親交《ちかづき》なし。鉄《くろがね》を掘りに来給ふとも、この山には銅《あかがね》も出はせじ」ト、訳も解らぬことをいふに。「酔ひたる者と問答無益し、ただ一噬み」ト寄らんとすれば、黒衣は慌しく松の幹にすがりつつ、「こは情なの犬殿かな。和殿も知らぬことはあるまじ、わが先祖《とおつおや》巌上甕猿《いわのえのみかざる》は。和殿が先祖|文石大白君《あやしのおおしろぎみ》と共に、斉《ひとし》く桃太郎子《もものおおいらつこ》に従ひて、淤邇賀島《おにがじま》に押し渡り、軍功少からざりけるに。何時《いつ》のほどよりか隙《ひま》を生じて、互に牙を鳴《なら》し争ふこと、実《まこと》に本意なき事ならずや。さるによつて僕《やつがれ》は、常に和殿|們《ら》を貴とみ、早晩《いつか》は款《よしみ》を通ぜんとこそ思へ、聊《いささ》かも仇する心はなきに、何罪科《なにとが》あつて僕を、噬《かま》んとはしたまふぞ。山王権現の祟《たた》りも恐れ給はずや」ト、様々にいひ紛らし、間隙《すきま》を見て逃げんと構ふるにぞ。鷲郎|大《おおい》に焦燥《いら》ちて、「爾《なんじ》悪猿、怎麼《いか》に人間に近ければとて、かくはわれ曹《ら》を侮るぞ。われ曹|疾《と》くより爾が罪を知れり。たとひ言葉を巧《たくみ》にして、いひのがれんと計るとも、われ曹いかで欺かれんや。重ねて虚誕《いつわり》いへぬやう、いでその息の根止めてくれん」ト、※[#「口+畫」、110-10]叫《おめきさけ》んで飛びかかるほどに。元より悟空《ごくう》が神通なき身の、まいて酒に酔ひたれば、争《いか》で犬にかなふべき、黒衣は忽ち咬《く》ひ殺されぬ。

     第十六回

 鷲郎は黒衣が首級《くび》を咬ひ断離《ちぎ》り、血祭よしと喜びて、これを嘴《くち》に提《ひっさ》げつつ、なほ奥深く辿《たど》り行くに。忽ち路|窮《きわ》まり山|聳《そび》えて、進むべき岨道《そばみち》だになし。「こは訝《いぶ》かし、路にや迷ふたる」ト、彼方《あなた》を透《すか》し見れば、年|経《ふ》りたる榎《えのき》の小暗《おぐら》く茂りたる陰に、これかと見ゆる洞ありけり。「さては金眸が棲居《すみか》なんめり」ト、なほ近く進み寄りて見れば、彼の聴水がいひしに違《たが》はず、岩高く聳えて、鑿《のみ》もて削れるが如く、これに鬼蔦の匐《は》ひ付きたるが、折から紅葉《もみじ》して、さながら絵がける屏風《びょうぶ》に似たり。また洞の外には累々たる白骨の、堆《うずたか》く積みてあるは、年頃金眸が取り喰《くら》ひたる、鳥獣《とりけもの》の骨なるべし。黄金丸はまづ洞口《ほらぐち》によりて。中《うち》の様子を窺《うかが》ふに、ただ暗うして確《しか》とは知れねど、奥まりたる方《かた》より鼾《いびき》の声高く洩《も》れて、地軸の鳴るかと疑はる。「さては他《かれ》なほ熟睡《うまい》してをり、この隙《ひま》に跳《おど》り入らば、輒《たやす》く打ち取りてん」ト。黄金丸は鷲郎と面《おもて》を見合せ、「脱《ぬかり》給ふな」「脱りはせじ」ト、互に励ましつ励まされつ。やがて両犬進み入りて、今しも照射《ともし》ともろともに、岩角《いわかど》を枕として睡《ねぶ》りゐる、金眸が脾腹《ひばら》を丁《ちょう》と蹴《け》れば。蹴られて金眸|岸破《がば》と跳起《はねお》き、一声|※[#「口+皐」、第4水準2-4-33]《ほ》えて立上らんとするを、起しもあへず鷲郎が、襟頭《えりがみ》咬《く》はへて引据ゆれば。その隙《ひま》に逃げんとする、照射は洞の出口にて、文角がために突止められぬ、この時黄金丸は声をふり立て、「やをれ金眸|確《たしか》に聞け。われは爾《なんじ》が毒牙《どくが》にかかり、非業にも最期をとげたる、月丸が遺児《わすれがたみ》、黄金丸といふ犬なり。彼時《かのとき》われ母の胎内にありしが、その後《のち》養親《やしないおや》文角ぬしに、委敷《くわし》き事は聞きて知りつ。爾がためには父のみか、母も病《やみ》て歿《みまか》りたれば、取不直《とりもなおさず》両親《ふたおや》の讐《あだ》、年頃|積《つも》る意恨の牙先、今こそ思ひ知らすべし」ト。名乗りかくれば金眸は、恐ろしき眼《まなこ》を見張り、「爾は昨日黒衣がために、射殺されたる野良犬ならずや。さては妄執《もうしゅう》晴れやらで、わが酔臥《えいふ》せし隙《ひま》に著入《つけい》り、祟《たたり》をなさんず心なるか。阿那《あな》嗚呼《おこ》の白物《しれもの》よ」ト。いはせも果てず冷笑《あざわら》ひ、「愚《おろか》や金眸。爾も黒衣に欺かれしよな。他《かれ》が如き山猿に、射殺さるべき黄金丸ならんや。爾が股肱《ここう》と頼みつる、聴水もさきに殺しつ。その黒衣といふ山猿さへ、われはや咬ひ殺して此《ここ》にあり」ト、携へ来りし黒衣が首級《くび》を、金眸が前へ投げ遣《や》れば。金眸は大《おおい》に怒り、「さては黒衣が虚誕《いつわり》なりしか。さばれ何ほどの事かあらん」ト、いひつつ、鷲郎を払ひのけ、黄金丸に掴《つか》みかかるを、引《ひっ》ぱづして肩を噛《か》めば。金眸も透《とお》さず黄金丸が、太股《ふともも》を噛まんとす。噛ましはせじと横間《よこあい》より、鷲郎は躍《おど》り掛《かかっ》て、金眸が頬《ほお》を噛めば。その隙に黄金丸は跳起きて、金眸が脊《せ》に閃《ひら》りと跨《またが》り、耳を噛んで左右に振る。金眸は痛さに身を悶《もが》きつつ、鷲郎が横腹を引※[#「爪+國」、112-7]《ひきつか》めば、「呀嗟《あなや》」と叫んで身を翻へし、少し退《しさ》つて洞口の方《かた》へ、行くを続いて追《おっ》かくれば。猛然として文角が、立閉《たちふさ》がりつつ角を振りたて、寄らば突かんと身構《みがまえ》たり。「さては加勢の者ありや。這《しゃ》ものものし金眸が、死物狂ひの本事《てなみ》を見せん」ト、いよいよ猛り狂ふほどに。その※[#「口+皐」、第4水準2-4-33]《ほ》ゆる声百雷の、一時に落ち来《きた》るが如く、山谷《さんこく》ために震動して、物凄きこといはん方なし。
 去るほどに三匹の獣は、互ひに尽す秘術|剽挑《はやわざ》、右に衝《つ》き左に躍り、縦横|無礙《むげ》に暴《あ》れまはりて、半時《はんとき》ばかりも闘《たたか》ひしが。金眸は先刻《さき》より飲みし酒に、四足の働き心にまかせず。対手《あいて》は名に負ふ黄金丸、鷲郎も尋常《なみなみ》の犬ならねば、さしもの金眸も敵しがたくや、少しひるんで見えける処を、得たりと著入《つけい》る黄金丸、金眸が咽喉《のんど》をねらひ、頤《あご》も透れと噬《か》みつけ、鷲郎もすかさず後より、金眸が睾丸《ふぐり》をば、力をこめて噬みたるにぞ。灸所《きゅうしょ》の痛手に金眸は、一声|※[#「口+翁」、112-16]《おう》と叫びつつ、敢《あえ》なく躯《むくろ》は倒れしが。これに心の張り弓も、一度に弛みて両犬は、左右に※[#「手へん+堂」、第4水準2-13-41]《どう》と俯伏《ひれふ》して、霎時《しばし》は起きも得ざりけり。
 文角は今まで洞口にありて、二匹の犬の働きを、眼《まなこ》も放たず見てありしが、この時|徐《おもむ》ろに進み入り、悶絶なせし二匹をば、さまざまに舐《ねぶ》り勦《いた》はり。漸く元に復《かえ》りしを見て、今宵の働きを言葉を極めて称賛《ほめたた》へつ。やがて金眸が首級《くび》を噬み切り、これを文角が角に着けて、そのまま山を走《は》せ下《くだ》り、荘官《しょうや》が家にと急ぎけり、かくて黄金丸は主家に帰り、件《くだん》の金眸が首級《くび》を奉れば。主人《あるじ》も大概《おおかた》は猜《すい》しやりて、喜ぶことななめならず、「さても出来《でか》したり黄金丸、また鷲郎も天晴《あっぱ》れなるぞ。その父の讐《あだ》を討《うち》しといはば、事|私《わたくし》の意恨にして、深く褒《ほ》むるに足らざれど。年頃|数多《あまた》の獣類《けもの》を虐《しいた》げ、あまつさへ人間を傷《きずつ》け、猛威日々に逞《たくま》しかりし、彼の金眸を討ち取りて、獣類《けもの》のために害を除き、人間のために憂《うれい》を払ひしは、その功けだし莫大《ばくだい》なり」トて、言葉の限り称賛《ほめたた》へつ、さて黄金丸には金の頸輪《くびわ》、鷲郎には銀の頸輪とらして、共に家の守衛《まもり》となせしが。二匹もその恩に感じて、忠勤怠らざりしとなん。めでたしめでたし。



底本:「日本児童文学名作集(上)」岩波文庫、岩波書店
   1994(平成6)年2月16日第1刷発行
底本の親本:「こがね丸」博文館
   1891(明治24)年1月初版発行
※「ルビは現代仮名遣い」とする底本の編集方針にそい、ルビの拗促音は小書きしました。
※ルビの「却説《かへってと》く」は、歴史的仮名遣いのままと思われますが、底本通りとしました。
※「堪え」のように歴史的仮名遣いの規則に合わない表記も、すべて底本通りとしました。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:hongming
校正:門田裕志
2001年12月22日公開
2003年9月12日修正
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