青空文庫アーカイブ

テンコツさん一家
長谷川時雨

-------------------------------------------------------
【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)鼠小僧《ねずみこぞう》の

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)神田|和泉町《いずみちょう》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#ここから5字下げ]
-------------------------------------------------------

[#ここから5字下げ]
――老母よりの書信――
鼠小僧《ねずみこぞう》の家は、神田|和泉町《いずみちょう》ではなく、日本橋区和泉町、人形町通り左側大通りが和泉町で、その手前の小路が三光新道、向側――人形町通りを中にはさんで右側大通りが堺町、及《および》がくや新道、水天宮は明治七、八年から芝三田辺より来られ候。
三光新道が鼠小僧の家、母親と妹がすまつてゐて、妹には旦那《だんな》があつて、その旦那の来てゐる時は、表のこうし戸の前に万年草の植木鉢が出してある。鼠小僧は小がらな、うすあばたのある、ちいさなよき男のよし、その母は引廻しの日にとうといお寺へ参つて坊さんになつたさうです。祖母《おばあ》さんの若いころには堺町に芝居が三座あり、その外人形座もあり、かげま茶屋といふものもあつたよしに候。
[#ここで字下げ終わり]

 私は微笑した。こんなつまらない事ではあるが、他人のいった事が正しいような気がして無意識に従うことがある。実は、前章の末に書いた鼠小僧のくだんの中に、神田和泉町と書いたのは何処《どこ》かに目に残っていた文字をそのまま書いてしまったのだった。講釈本からかも知れない。あるいは戯曲の台本などからかも知れない。
 和泉橋は今でも神田と下谷《したや》にかけてかかっている。和泉町といえば神田の方がゴロがよい、というわけでもあるまいが、日本橋区内の和泉町は知る人がすけない。そこで、ちっとばかり古い事を並べて見ると、本編最初からお馴染《なじみ》になっている大門通りは、廓《くるわ》の大門の通りなのだから大門《おおもん》とよんでください。芝にも大門があるがあれは大門《だいもん》である。
 日本の首都である東京の日本橋の中央の大問屋町が、遊女屋町吉原の大門通りであって、堺町、和泉町、浪花町《なにわちょう》、住吉町、大坂町でとんで伊勢町など、みんな関西から出稼ぎ――遊女屋の出身地だとばかりはいわれまいが――人の地名から来ている。長谷川町は大和からの名であろうが、其処《そこ》には長谷川という大きな木綿問屋が現今《いま》でもある。
 葭町《よしちょう》を廓の中心地とすると、人形町の名がどうやらわかってくる。人形屋もありはあったが、室町十軒店《むろまちじっけんだな》の方が有名でもあり、数も多い。ここの人形商はおやま[#「おやま」に傍点]商業《あきない》であったことがわかる。親父橋《おやじばし》が渡しで廓がよいに不便だろうと、遊女屋側からかけたので、遊人それを徳とし、その特志家を――実は商業上手を、おやじおやじ[#「おやじおやじ」に傍点]と尊称した名が残ったのであると記録にもある。このよし原が浅草|田圃《たんぼ》に移され、新吉原となってからでも、享楽地としては人形町通りを境にして親父橋|寄《よ》りに、葭町、堺町、葺屋《ふきや》町側に三座の櫓《やぐら》があり、かげま茶屋、色子《いろこ》、比丘尼《びくに》が繁昌《はんじょう》した。今では反対の側の住吉町、浪花町の方に芸妓屋がのこり、明治の末大正にかけて、かきがら町に私娼、大正芸妓があった。
 新吉原は浅草公園を外苑地帯として根を張り、あとから移転していった芝居――山之宿の市村座、鳥越《とりこえ》の中村座など、激しい時代転歩にサッサと押流され、昔日《せきじつ》の夢のあとは失《なく》なってしまったが、堺町、葺屋町の江戸三座が、新吉原附近に移るには間《ま》があった。古い廓のロマンスというようなものが残っていたかというと、私が知っているのは禿《かむろ》が池というのが大門通りの突当り、住吉町の地尻《じち》りにあった。今でも何か神社が残っているであろうが、かなり広い池をもった社《やしろ》で神楽堂《かぐらどう》が池の中にあった。昔日はもっともっと大きな池だったときいていたが、埋立《うめたて》られて、清元家内太夫の家や、芸妓屋や、お妾《めかけ》さんの家がギッシリと建ってしまった。向側に粋《いき》なうなぎ[#「うなぎ」に傍点]やがあったが、そうなっては掛行燈《かけあんどん》の風致《ふうち》もなにもなくなってしまった。この池に悲しい禿《かむろ》が沈んだのだということが子供心を湿らせたに過ぎない。
 テンコツさん一家に対して、あまり長い前置詞であるが、この池尻りの向う一帯が、松島町という細民の部落で、その附近にこの一家が散在していたからだ。

 とはいえ、私は松島町の姿を多くは知らない。よく見ておくべきだったが、子供心にはそんな欲心がない。中島座という小芝居が非常に繁昌した――それも目で見たより、家の人がいうのが耳に残っていた方がかっている。
 テンコツさん森口嘉造氏はそこら一帯の大屋さんで、口利きで、対談事、訴訟にもおくれをとらぬ人、故松助演じるところの『梅雨小袖《つゆこそで》』の白木屋お駒の髪結《かみゆい》新三《しんざ》をとっちめる大屋さん、鰹《かつお》は片身もらってゆくよの型《タイプ》で、もちっとゴツクした、ガッチリした才槌頭《さいづちあたま》である。テンコツさんのいわれは知らない。一度何のことかと父に訊《き》いたら、拳固《げんこ》をかためて頭のところへもっていったようなことをしたが、私にはなんのことなのか分ったようで訳《わか》らなかった。たぶん、頭がかたい――頑迷だというのかも知れない。母にきいたら、頭の脳天《のうてん》に丁字髷《ちょんまげ》をのせていたのだともいった。
 テンコツさんの住居は、中島座の通りで、露路にはいった突当りだった。露路口に総後架《そうこうか》の扉《と》のような粗末な木戸があった。入口に三間|間口《まぐち》位な猿小屋があった。大猿小猿が幾段かにつながれていて、おかみさんが忙《せわ》しなく食《たべ》ものの世話をしていた。人参やお芋を見物のやる棒のついた板の上に運んでいた。私ははじめ猿芝居かと思っていたがそうではなく、といって、見物に小銭で食物をやらせるのばかりが商業でなく、猿を買出しにくる人もあったかも知れないが、貸猿がおもなのだから、猿廻しの問屋とでもいったらよいかもしれない。
 ざわざわと人の多い、至るところ細い道だった。毎年冬になると鯨《くじら》の味噌漬の樽《たる》がテンコツさんからの到来ものだった。大橋の下へ船がついたからとりにいってくれといってよこした。で、このせまい町から、ある年の冬火事をだしたおり、荷物は大橋から船へ積めと手伝いにゆく者たちはいっていた。
 その時の火事は大きかった。江戸時代の残物で、日本橋区内のコブであった汚《きた》ない町が一掃されたが、哀れな焼け出されも沢山あった。一度眠った私の家が叩《たた》き起された時は、大門通り一ぱい火の子がかぶっていた。家々では大|提燈《ちょうちん》を出して店の灯を明るくした。酒屋はせわしげで、蕎麦屋《そばや》は火をおこし、おでんの屋台はさかんに湯気《ゆげ》をたてた。纏《まとい》がくる、梯子《はしご》がつづく、各組の火消《ひけし》が提燈をふりかざして続いてくる。見舞人が飛ぶ。とても大通りは通られはしない。
 子供たちは角に立って、ガクガクして飛んできておちくだける火の子の華《はな》を眺めていた。火喰鳥《ひくいどり》が空をまわってるからこの火事は大きくなるなどとろく[#「ろく」に傍点]な事はいわなかった。でなくてもこの火事はある[#「ある」に傍点]べきものとしてこの近辺の者には予想されていたのだった。松島町の方に火柱がたつということは毎夜|噂《うわさ》されていた。祖母をさすりに毎晩交替でくる、栄良だの栄信だのという小あんまたちまでが、自分たちも見たように咄《はな》すのだった。私たちも怖々《こわごわ》夜更けに出て見たことがある。そういえば気のせいか、下の方は見えないで、一抱え以上もある火気が――丸い柱が、ポッと立っているように思えたのだった。
 書生たちは早くからあつまってきた。河岸《かし》を廻って細川様(浜町清正公様)のさきから、火事場の裏からでなければはいれまいと父も洋服を着て出ていった(その前までは刺《さし》っ子を着るのだったが)。火事場の中には、テンコツさん一家の一人に、肺病で寝ている、来春大学を出る法律書生の、父のたった一人の甥《おい》もいたから、家のものは案じきっていた。
 と、大通りの勢いのよい人たちに突きのめされながら、薄いきもの一枚で、葛籠《つづら》を肩にした青い少年がフラフラと現われた。待ちには待っていたが、手厚く連れてこられるものとして待ちかまえていた女たちはそれを見ると戦慄《ふるえ》た。長病《ながわずらい》の少年が――火葬場《やきば》の薬《くすり》までもらおうというものが、この夜寒に、――しかも重い病人に、荷物をもたせて、綿のはいったものもきせずに――
 母一人《ははひとり》子一人《こひとり》なのに――なにがほしいんだ、祖母はグッと胸に来たらしかった。全然|肌合《はだあい》のちがう嫁ではあるが――祖母には、その少年がたった一人の男の孫であり、その子の母親は私の父の兄の後妻であった。父の兄は維新後の世の中のゴタゴタのころ、懐に金を入れて出たまま行衛《ゆくえ》不明になって、幼子と後妻だけが残ったのを、家を売った金や残りのものと一緒に実家《さとかた》の兄、テンコツさんの近くへいっていた。
 少年は暖かい床に入れられ、私の母に静かにさすられていた。祖母はやがて帰ってくる、自分の子でも私の父には、少年が背負されて来た葛籠は見せたくなかった。
「おやそ、こんな葛籠はなぜ焼いてしまわなかった。お前はなぜ猪之《いの》をおぶってすぐに来なかった。」
と、少年の母が来るとすぐ祖母は激しくいった。だが、いかにも後家相《ごけそう》をした、色の黒い、小欲で眼の光っている、痩《や》せた長顔の、綿入れを三枚重ねて着て、もてるだけの荷物の包を両手にさげて、転がったら最後焼け死んでしまいそうなかたちしたおやそさんは、いまや息子のことよりは荷物だった。
「葛籠はまいりましたか?」
と洒然《けろり》として訊《たず》ねた。

 哀れな少年猪之さんは寒夜の火事と、重い葛籠が災いして死んでしまった。
 テンコツさんは大屋さんから立派な家主さんに代った。人形町通りも半分焼けたので銀座に似た煉瓦建《れんがだて》になった。その幾軒かはテンコツさんの持家であった。住居も紳士風にした。石のような羊羹《ようかん》を紙に包んでくれなくなった。
 大きな納屋《なや》――物置きが母屋から離れたところに出来たと思ったらその隅に床をつくり、畳を二畳ばかり敷いておやそさんのいるところが出来た。沢庵桶《たくあんおけ》や漬け菜との同居である。あんまりの事に、こんどは私の母が不服だった。
「家からの仕送りが毎月行くのに、まるで……」
 そんな年齢でもなかったであろうに、おやそさんは鼠《ねずみ》の骨のようにほしかたまっていた。でも何かあると、例の葛籠の中に焼けのこった裾模様の派手なのを着てくるのではたのものの方が困っていた。彼女の嫁入り衣裳《いしょう》なのだから、いかに黒の紋附でも悲惨だった。
 おやそさんは忠実に雇われてきた。夜でも急用があるといえば、巾《はば》の広い木綿じまの前掛けをかけて、提灯《ちょうちん》をさげて、朴歯《ほうば》をならして、謹《つつま》しやかに通ってきた。袋物商の娘だったので、袋ものをキチンとつくった。私たちのお弁当箱の袋や、祖母の巾着《きんちゃく》を気に入るようにつくりあげた。或《ある》日、そのおやそさんが、クドクド祖母や母を説いていた結果が、六つの年からあがった長唄の師匠をとりかえられる事になった。おやそさんの姪《めい》が、杵屋《きねや》勝梅という名取りになったが、まだよい弟子がないのだというのだ。
 私の長唄のおしょさん六喜美さんは、眼玉にホクロのあるような目で、背中が丸くて、猫がコウバコをつくったようなお婆さんだったが、後取《あとと》りにする内弟子のふうちゃんより、名取りのおなっちゃんより私を可愛がって、御自慢で附合|浚《さら》いに連れ廻った。鉄砲町の百瀬《ももせ》という接骨医の裏にいたが、半片《はんぺん》を三角にきって煮附《につ》けたお菜をわけてくれて、絵|硝子《ガラス》のはまった行燈《あんどん》のわきで一緒に御膳をたべさせるのを楽しみにしていた。お浚いの時は、二間の戸棚を開けはなし、中央《まんなか》の柱を上だけぬいて山台《やまだい》にする。十銭札や二十銭札――この間中あったのとは違った――が廃《や》められる時、戸棚の方へむかって、そっと勘定していたが、部厚なのを見せて、誰にもいってはいけないよといった。大きな、どてらを着ていた背中を忘れない。その親しみのある人から離そうというのだから、私は厭《いや》だといった。では、どっちのおしょさんにもやらないと母は叱った。

 浪花《なにわ》町の裏にいた勝梅さんも、焼け出された一家だから、三味線よりほかなんにも持ってなかった。兄さんは叔母《おば》のおやそさんそっくりの人で、肺病かもしれなかった。だんまりで袋物の細工をして、時折トントンと小さい木槌《きづち》の音をたてるばかりだった。母親がおやそさんやテンコツさんの姉さんで、額の大きい、落ちくぼんだ大きな眼――この人は美人だったと思われたが、しどくしどく貧乏にやつれて、骸骨《がいこつ》みたいな顔をしていた。おきみさんという娘は父親似で、大きなふっくりした顔と、フンダンな髪の毛をもっていたが、人がよすぎてポンとしていた。父親の善兵衛さんは、名の通りの人物で、今なら差当り、クラシカルなモデルにでも役にたとうが、そのころでは高い鼻と豊頬《ほうきょう》とのもちぐされで、水鼻をたらして、水天宮様のお札を製造する内職よりほか仕事がなかった。
「六喜美さんは好いお弟子が沢山あるけれど、勝梅さんはお前がいかないと困るのだから。」
と説きおとされて厭々通うことになった。最初は何も教えてはくれなかった。毎日一、二段ずつお浚《さら》いのように唄《うた》わされた。まあ、助六を知っていますか? ではそれを――勧進帳《かんじんちょう》も? 牛若も? まあ、あれも? これも? いい声だいい声だとそやされて無中になって唄った。しまいには、兄さんが体がわるいので気むずかしいが、やっちゃんの唄をきくと大層よろこぶからと――これは体《てい》のよいおとり[#「おとり」に傍点]で、窓はいつもあけはなち簾《すだれ》だけにしてあったから人だかりがした。そのうちポツポツお弟子が出来てきた。
 お弟子の種類が所がらで面白い、水天宮様のおきよめ[#「おきよめ」に傍点]――門前で五の日五の日に、神前へそなえる小さいお供餅《そなえもち》を細い白紙でちょいと結んで売る商売、中には売色で名高い女もあった。年増《としま》の芸妓の手ほどきなどで、そのうち裏から表通りへ越すようになった。階下《した》が住居で二階が稽古場、壁が汚《きた》ないので古新聞を一ぱいに善兵衛おじいさんが張ってくれた。勝梅さんは色白の毛の薄い大あばたで、眼が見えないから、壁の汚ないのは平気だが、子供のくせに潔癖性で、気味悪げに私が見廻すので、来なくなるといけないからと、大ふんぱつで張ってくれたのだった。
 三味線が二張に見台《けんだい》。そのほかは壁の隅に天理王を祭った白木の小机があるだけ。私はお稽古を待っているうち中、うらさびしさにボンヤリしていた。六喜美さんのところは上り口に赤い鼻緒のポックリが足も入れられないほど並んで、入口の三畳でふうちゃんが下ざらいをしているし、八畳の隅でなっちゃんが出来ない子に撥《ばち》をもってやって教えているし、おしょさんの前にはあとからあとからとおじぎをして出てゆくし、私は縁側で、千なりほおずきをとったり、石菖《せきしょう》に水をやったりして怒られたり褒《ほ》められたり、お手だまをとったり、みんなで鞠《まり》をかがったり、千代紙で畳んだ香箱へ、唄の出来ないところへ貼《は》りつける細かい紙を刻んだり、おちぢれをこしらえたり、お三宝だの菊皿だのと、時間なんて気にもしなかったのに――だが、古新聞はそれらにました悦《よろこ》びを与えた。あたしは善兵衛さんに手伝って、いつになく機嫌よく壁張りの手伝いや見物や助言をした。それは逆さまだ、こっちの面《ほう》へ糊《のり》をつけた方がよいのと。
 古新聞が壁にはられてからあたしはせっせと稽古に通うようになった。番がきてもなかなか座らない。おまけにお弟子がすけないからいつも私の番がすぐにある。私は這入《はい》ってゆくにも足音を忍ばせて、こんちはも言わないで壁にゆく。勝梅さんは内職の毛糸の編物をしているが、勘のよい盲目《めくら》さんで、ニヤニヤ笑いながらいった。
「おやっちゃん、はじめましょう。」
 あたしの背の――目のとどくところのうちは無事だったが、とうとう天理様の机がもちだされることになった。それでたりずに見台まで、鼠がひくようにひっぱった。勝梅さんが不思議がって探り廻しだしたのに吃驚《びっくり》した私は二ツ重ねた足台からおっこって、階下の人を驚かせ、二階へ駈《かけ》上らせた。勿体《もったい》ないといって盲目さんは泣いた。階下からは兄さんが、かわりの読物をかしてくれた。たしか『都の花』という新聞の附録だったが、苦しい生活を知らないあたしは遠慮もなく頁をあわせて立ちきってしまったので、コチコチの兄さんが疳癖玉《かんしゃくだま》を破裂させて梯子段《はしごだん》からどなり上って来た。だが、何が彼をそんなに怒らせたのか分らなかった。
『都の花』は近所からの借ものだったのだ。あたしはまた高いところの古新聞を読んだ。厠《かわや》のはどうにもならないが、梯子段の近辺は手すりにのぼった。窓の近くは窓にのぼり、欄間に手をかけて屋守《やもり》の這うかたちでした。向側のキリ昆布屋から危なくて見ていられないと苦情を申込んで来たので、また兄貴が呶鳴《どな》った。翌日ゆくと、善兵衛おじいさんが股《また》の間へ摺鉢《すりばち》を入れて、赤っぽい大きなお団子《だんご》をゴロゴロやっているので、摺鉢をおさえてやりながら、なににするのだときくと、ただニヤニヤ笑っていたが、やがて、古新聞がお団子色にぬりたてられた。

 兄さんが死んで、おきねさんが三ツ輪に結って、浅黄がのこをかけてお歯黒をつけて、どこかみだらな顔つきになったが、それも見えなくなった。骸骨《がいこつ》の顔に大きな即効紙を張ったおばあさんも死んだ、善兵衛さんはどうしたのか、勝梅さんは天理教をやめて耶蘇《ヤソ》になったといった。外国婦人につれられて歩いているのを見かけたといったものもある。
 おやそさんに、も一人の姉さんがあった。やっぱり近所に住んでいたが、みんな後家《ごけ》さん――後家さんはお母《っか》さん一人で、あとは老嬢《おうるどみす》だったのかも知れないが、女ばかり四人《よったり》してキチンと住んでいた。母子《おやこ》なのだか姉妹なのだかアンポンタンにはわからないほど、梯子段《はしごだん》のようにだんだん年をとった四人だった。一番若い下の娘だけが廿二、三でもあったのだろうが、一体に黒っぽいおつくり[#「おつくり」に傍点]の時代で、ことにテンコツさん一家だから花の香はなかった。大きいおうるどみすがおとよさんといって学校の先生だった。中位《ちゅうぐらい》のおうるどみすも教師だった。下のミスも先生になりかけていた。お母さんだけが台所をしていた。この女ばかりの家は用心堅固で、貧乏が入りこまないようにしていた。大きいミスの名が通りものになって、おとよ[#「おとよ」に傍点]さんの家と呼んでいた。
 善兵衛がおひとよしだから姉さんはあんなになってしまってと、おやそさんは言ったが、勝梅さんのお母《っか》さんよりおやそさんの方がよっぽど貧乏性だった。

 おやそさんは、あたしの祖母がなくなったとき、寐棺《ねがん》が来たら蓋《ふた》をとって見て、
「まあ結構な――どれまあ。ちょいとお初《はつ》に入れて見せて頂いて――どんな具合だかおあんばいを」
と中にはいって横に寐《ねて》て言った。
「なんて楽なことで御座《ござ》いましょう。お布団はふくふくして、なんとももうされないよい気持ちで御座います。おばあ様にあやかりまして、私も極楽|往生《おうじょう》いたしますように。」
 なまいだ、なまいだ、なまいだ、と棺から出てきても空念仏《そらねんぶつ》を言いつづけていた。
 おやそさんが、漬物桶《つけものおけ》と同居して死んだ時、十本の指に十本、手首にも結びつけていた紐《ひも》がある。その紐はみんな寐床の下から出ていた。死体を棺に入れたら床の下からずるずると幾つもの巾着《きんちゃく》が引きずられて畳を這《は》った。貸金の証文、鍵《かぎ》類、お札のいれたの、銀貨の入れたの、銅貨の入れたの、穴のあいたビタ銭のまであった。大概のものは棺の中へ一所に入れて、現金は何処《どこ》へか寄附された。



底本:「旧聞日本橋」岩波文庫、岩波書店
   1983(昭和58)年8月16日第1刷発行
   2000(平成12)年8月17日第6刷発行
底本の親本:「旧聞日本橋」岡倉書房
   1935(昭和10)年刊行
※「老母よりの書信」は旧仮名遣いになっていますが、ルビにつきましては、岩波文庫編集部の方針「現代仮名づかいで振り仮名を付す」に従い「いずみちょう」としました。
入力:門田裕志
校正:小林繁雄
2003年7月7日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。


前のページに戻る 青空文庫アーカイブ