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最初の外国保険詐欺
長谷川時雨

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)噛《かじ》って

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(例)御亭主|清水異之助《しみずいのすけ》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)吉原雀というあだ名[#「あだ名」に傍点]
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 この章にうつろうとして、あんぽんたんはあまりあんぽんたんであった事を残念に思う。ここに書こうとする事は、私の幼時の記憶と、おぼろげに聞き噛《かじ》っていただけの話ではちと荷がかちすぎる。
 私はまことに呑気《のんき》な、ぽかんとした顔をしているが、私というものが生をこの世にうける前は江戸が甦生《こうせい》し、新たに生れた東京という都《みやこ》が、総《すべ》てに新生の姿をとって漸《ようや》く腰がすわったところであった。いたるところに文明開化という言葉がもちいられた。チョン髷《まげ》がとれて、腰の刀が廃された位の相違ではない。一般庶民が王侯と肩をならべられるようになったのだ。これはなんという急激な改革だかしれない。昨日《きのう》まで土下座《どげざ》の身分の者が、ともかく同等の権利を認められようというのだ。そして憲法は発布され、国会も開設されようというのだ。
 そしてそこには幾多の衝突と犠牲があった。幕末からかけて五、六十年間、尊い血潮が流され、有為《ゆうい》の士の多くが倒れている。その最後が佐賀の乱、西南《せいなん》の役《えき》であるが、自由党の頭初《とうしょ》といい倒幕維新の大きな渦の中にはフランスコンミュンの影もかなり濃かったのではなかろうか、時代の流れ、思潮の渦は、この島国の首都をも捲《ま》きこんだのであった。
 私はなんでそんなむずかしいことを言いだしたかというと、「娼妓《しょうぎ》解放令」についていいたかったからだが、あんぽんたんはそれを聞いておくにはあまり幼稚すぎた。いま私が語ろうとする、おぼろげながら私の頭に残る二人の男は、その当時での当世男であると思うが、いつでもきける話だと思っていた油断が父が死んでしまったので、私の記憶はただ外形だけのものとなってしまった。その一人を通称金兵衛さんといった松本秀造《まつもとしゅうぞう》という人と、秀造さんの妹《いもと》の御亭主|清水異之助《しみずいのすけ》という人だ。
 秀造さんは吉原の大籬《おおまがき》金瓶大黒《きんぺいだいこく》の恋婿で、吉原に文明開化をもちこんで、幾分でも吉原を明るくしたかわりに養家はつぶしてしまった人。異之助さんは本邦最初の、外国火災保険詐欺をやった男。
 秀造さんは眼から鼻へぬけるような才人だったという――これは後に大人が言ってるのを聞いていたのだが、吉原の積立金(税金だともきいた)使い込み事件で体があぶない時、父にかくまわれていた。
 そのころ私は赤ん坊で、家は大火事に焼かれて土蔵前に庇《ひさし》かけをしていたというから、明治十三、四年のころでもあったろう。ある夜、神田柳原河岸の米屋、村勝という爺《じい》さんにつれられて、唐桟《とうざん》の絆纏《はんてん》を着て手拭《てぬぐい》の吉原かむり、枝豆や里芋の籠《かご》を包んだ小風呂敷を肩にむすんで、すっと這入《はい》って来たのが秀造さんだという。
 金瓶大黒という名はよく講談にも出てくる。目下、『日日新聞』夕刊に載《の》っている田中貢太郎《たなかこうたろう》氏の「旋風時代」には金瓶大黒として、時の高官たちの遊興ぶりを書いてある。事実その遊びぶりは大《た》いしたものであったらしい。金瓶大黒の今紫の男舞といえば、明治もずっと末になって、今紫といった妓《こ》の晩年まで地方の劇場では売りものにしていた。その今紫には、土佐の容堂侯が硝子《ガラス》の大姿鏡《おおすがたみ》をかつぎこませたのを、うらやましがってお婆さんになってもその事ばかりいっていた女もある。金欄手《きんらんで》の陶器の高脚《コップ》で、酒盛りをしたものと見えて、私の家にも、その幾個《いくつ》かがきていた。
 秀造さんは上野の(山内《さんない》の寺院《おてら》)のおちごさんで美貌《びぼう》で評判だったそうだ。振袖姿で吉原へ通って、吉原雀というあだ名[#「あだ名」に傍点]だった。鬼の金兵衛さんとよばれた楼主《ろうしゅ》の娘おやすさんに惚《ほ》れられて養子になった。このお父さんの方の金兵衛さんは大柄な人で、美男でおちごさんの婿には不服だったが、よっぽど娘が可愛かったものと見えて秀造さんを養子にした。
 この、おやすさんという女《ひと》を、私が十一、二になってから見覚えている印象は、とても大柄なすらりとした――まだコートはない時分だったから、吉原から人力車《くるま》でくるのに、上に黒ちりめんの羽織を着てきて玄関で脱いでいた。下にもひとつ羽織を着ていた。根下《ねさが》りの丸髷に大きな珊瑚珠《さんごじゅ》の簪《かんざし》を挿し、鼈甲《べっこう》の櫛《くし》をさしていた、ことさらに私の眼についているのは、大きくとった前髪のあまりを、ふっさりきって二つにわけ、前額《ひたい》の方へさげている。これは下町の娘たちはみんなそうしていたが、すこし大きくなると、も一つ奥の、髷《まげ》の横前へ、分けないで片っぽだけにして毛のきりめ[#「きりめ」に傍点]をゾッキリと揃えて曲げておく――男の小姓髷の前髪のように――その風俗が四十位の女の人がしていておかしくないほど、パラリとした顔立ちの、派手者《はでしゃ》だった。
 秀造さんは私の老母《はは》にいわせると、伊井蓉峰《いいようほう》の顔を、もっと優しく――優しくの意味は美男を鼻にかけない――柔和《にゅうわ》にしたようなと言っている。私の眼には文壇では里見さんを大柄にして、ドッシリと落ちつかせ、ソツなく愛嬌《あいきょう》をもたせた面影《おもかげ》が残っている。
 金瓶大黒はそうした時代の空気につつまれ、そしてまたその時代のある空気をつくっていた。高位高官の宿坊であり、鬼の金兵衛さんがパリパリさせていた楼《みせ》ではあり、そこへこの新智識の才子が大事の娘の恋婿である。言うことに行なわれないことはない。吉原の改革はズバズバと行われた。その廓《さと》の権者《きれもの》が日影者になったのだから、吉原の動揺は一通りではなかったろう。ここで私に分らないのは、土地のためにならない事をしたのならば、土地のものがこぞって彼をかばうわけはないから、この税金費消事件には何か綾がありそうに思われる。後に金瓶大黒は娼妓《しょうぎ》も二、三人になり、しがなくなって止めたそうだが、浅草観世音仁王門わきの弁天山の弁天様の池を埋めたり、仲見世を造ったり、六区に大がかりな富士山の模型をつくったりした。公園事務所長は初代が福地桜痴《ふくちおうち》居士《こじ》、二代目が若い方の金兵衛さんだときいた。
 秀造さんは蔵の二階にかくまわれたのだ。階下《した》は祖母の住居になって、さしかけへ赤ん坊の私と両親がいたわけだ。そんなところへよく逃げこんだものだが、隠密《おんみつ》がくると(隠密とはスパイ)、父はわざと蔵の階下へ通して話をするので他の者がハラハラしたという。この裁判は勝訴になったのだそうだ。そんなばかな話もあるまいが、私の老母《はは》はうろ[#「うろ」に傍点]覚えでこんな事をいっている。
 裁判官が代言人の父に「では、それだけの金をどうしてつくる。」――保証するという意味をいうのであろう。
 父の答えがふるっている。「私の母はあの辺で有名な金持ちでありますからおしらべになればわかります。私は母の金をかりて納めます。」
 裁判官「さようか。」
 嘘《うそ》でない、それですんだのだといっているが、そんなばかなはずはない。それに吉原の方では、金は吉原から出して決して不自由をさせないからと言って来たが、とうとう出さないで済んだといっている。しかし父は秀造さんを自首させたそうだ。すこしばかり未決にいて放免になったがこの事件は被告が無罪になるまでにはかなりの骨折だったので、吉原では私の父でなければならないように大事にした。
 またその頃でもあろうか、吉原に娼妓の自由廃業があった。これは恥かしい事に父が楼主の方の味方をして勝たせた不名誉な事件だ。勝ったときくと、全国の女郎屋からおなじような訴訟を頼んできた。母は欲張って商業繁昌《しょうばいはんじょう》だとよろこんだが、父は断わって、あれは、あの事件が最後になるもので、もう法律が変るといって諭《いまし》めたそうだ。私はいまこれらの事をよくきいておかなかったのを悔《くや》んでいる。娼妓解放と、この自由廃業とのことについて耳にとめておいたらば、もすこし報告的なことが書けたであろうに――
 ともあれ金兵衛さんの生活は豪華だったものに違いない。私がもっている古裂《ふるぎ》れに、中巾《ちゅうはば》の絹縮みに唐人が体操をしている図柄の更紗《サラサ》がある。それを一巻《ひとまき》もって来て、私の着物の無垢《むく》に仕立たのも金兵衛さんの秀造おじさんである。六代目菊五郎の幼時にも、横浜からおなじ柄の着物をもらったというので、いつぞや裂地《きれじ》をくらべて見たが、秀造おじさんの手に入れたのの方が上等品であった。その他《ほか》に、好事《こうず》な手だんすだとか、古い竹屋町裂《たけやまちぎ》れでつくった茶ぶくさ入れだとかみな大名道具であった。私の父はよくいった。他人の泣きを悦《よろ》こぶ不浄な銭《ぜに》で買ったのだと。――
 秀造さんの兄弟は、かなり有名な人たちであった。沼間守一《ぬまもりかず》という刑法学者、銀行家の須藤、代言人の高梨哲四郎――この人は長髪で騎馬へ乗り歩くので有名だった。その頃の代言人(弁護士)は長髪の人が多かったが、高梨は白皙《はくせき》[#「白皙」は底本では「白晢」]美貌《びぼう》、長髪がよく似合った。

 清水異之助さんは、秀造さんの妹を細君にして、横浜で外国商館の番頭と通弁をかねていた。この人は坂東しうか(今の中村吉右衛門のお父さん歌六の弟のしうかではない、もう一代前の有名な役者)と、品川の土蔵相模《どぞうさがみ》という妓楼の娘との仲に出来た子だという。
 ある日、あんぽんたんの家の前に近所の人たちが立っていた。その人だかりの中には、日ごろは外《おもて》などへ出たこともない大問屋の内儀《ないぎ》たちも交っている。私はよそから帰って来て、なにごとだろうかと思った。それよりも小さな子供らしいことで、自分もみんなに交って、自分の家になにがあるのかと立って見ていた(見物の雰囲気がやわらかいものであったのが、子供にも安心させていたものであろう)。
 そこにはピカピカした黒塗りの車があった。車夫は勢いのいい人たちで汗をふいていた。一人はさしびきの綱を肩からかけていた。
 何が出てくるかな? と私も好奇心に待ちながめていると、横浜の清水さんが長い顔に山高帽子をかぶって出てきて、車に載った。見物人はざわついた。
「しうかだ、しうかだ。」
「松島屋だ、我童《がどう》だ。」
「違う時蔵だ。」
 みんな役者の名である。あんぽんたんは通弁さんだということを知っているからニコリと笑った。すると、通弁さんもニコリと笑った。青い顔に、薄芋《うすいも》があって鼻が高い。
 見物たちはきまり悪くもなく、しうかだの、時蔵だの、我童だのと取り廻いて騒いだ。車が曳《ひ》きだせないので、通弁さんは車の上から、
「あぶない、あぶない。」
 なんて、技巧的に、やや身を前|屈《かが》みにして、手を出して制した。そして反身《そりみ》になって車を飛ばせた。前綱は片手をグルグル振って、見送られているので得意に駈《か》けた。
 あんぽんたんがポカンとしていると、近所の女たちはいった。
「いいわねえ、あなたのとこ、役者がくるのねえ。」
 私は返事に困った。その通辞さんが、廿万円の火災保険の最初の詐欺をしたのだ。その時分日本にはまだ保険事業はなかった。外国との契約にしても早い方なのであろう。
 この事件も、どんな風にまたどう繋争《けいそう》したかということが知れたら面白くもあり、一つの記録ともなるであろうし、清水という人の性格もしっていたら書きたいが、子供心にはそうたいした事件《こと》であろうと思うどころか、覚えていたのが不思議なほどの、かすかな聞きかじりだ。老母《はは》にきいても、ぼんやりと、そんなこともあったっけというだけにしか覚えていない。
 ある朝、お父さんが新聞に眼を通していると、横浜山手の、ある商館番頭の新築の家が焼けたと出ていた。それを見ると、父は「ああ、やったな。」と叫んだと、老母は言った。
 その家には外国の火災保険がついていたのだ――
 家財はその前に運び出してある。細君は東京によこし、自分とコックだけだったのだ。だが、彼は服罪しない。獄にもいれられた。だが、保険金は手にはいったのだ。商館では腕ききな番頭なので彼の下獄に困らされて、罪にしたくないといったのだとか。
 とりとめもない記憶だが、私はこの二人の人を思出すと、時代の子という感を深くする。この人たちのそうした道にゆく心の動きと時代相を、もっとよく知ってるものにきかせてもらったならば、鬱勃《うつぼつ》たる野心と機智をもったこの男たちが、どんな気持ちで田舎侍の権官らの躍るにまかせる時代を睨《ね》めたか、一足飛びに平民の世界がくるように思えていて、その実士族の上下がひっくりかえったばかりだった世相に、才人だった彼らの不満がなかったか――



底本:「旧聞日本橋」岩波文庫、岩波書店
   1983(昭和58)年8月16日第1刷発行
   2000(平成12)年8月17日第6刷発行
底本の親本:「旧聞日本橋」岡倉書房
   1935(昭和10)年刊行
入力:門田裕志
校正:松永正敏
2003年7月4日作成
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