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朝散太夫の末裔
長谷川時雨

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)朝散《ちょうさん》太夫《だいぶ》とは

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)五|品下《ほんげ》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#「このわた」に傍点]
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 朝散《ちょうさん》太夫《だいぶ》とは、支那唐朝の制にて従《じゅ》五|品下《ほんげ》の雅称、我国にて従五位下の唐名《とうめい》とある。
 太夫とは、支那周代の朝廷及諸侯の、国の官吏の階級の一、卿《けい》の下、士の上に位《くらい》すとある。もっと委《くわ》しく、博学《ものしり》らしく書きたてると、支那唐代の官職に依る貴族の階級中、従二品より従五品下までの名目《めいもく》だった語で、従二品が光禄《こうろく》太夫、正三品が金紫光禄太夫、従三品銀青光禄太夫、正四品上が正議《せいぎ》太夫、正四品下が通儀太夫、従四品上が大中太夫、同下が中太夫、正五品上が中散太夫、下が朝議太夫、従五品上が朝請太夫、下が朝散太夫ナリである。
 我国|右近衛将監《うこんえしょうげん》を右近太夫、公卿の子でまだ官位のないのを、いずれ五位に叙せられるからというので無官の太夫という。
 ここまでくるとやっと馴染《なじみ》がある。無官の太夫なら敦盛《あつもり》という美しい平家の若武者で、大概の人が芝居や浄るりや、あるいは稗史《はいし》でよく知っている。もっとも朝散太夫|浅野内匠頭長矩《あさのたくみのかみながのり》、即ち忠臣蔵の塩冶判官《えんやはんがん》高貞もそうである。
 その、従五位下朝散太夫の唐名をもった人が、湯川氏一族、御直参ならずもの仲間の、藤木の先祖の一人。

 藤木一門には、それよりもっと偉《えら》い人物があったのかも知れないが、アンポンタンには見上げるような高い石碑に、××院殿従五位下|前《さきの》朝散太夫なんとかのなんのなんとかと、とても長く彫《きざ》みつけてあった朝散太夫を子供心にすっかり覚えこんでしまったのだった。藤木家の寺院《おてら》は、浅草菊屋橋の畔《ほとり》にあって、堂々とした、そのくせ閑雅な、広い庫裏《くり》をもち、藪《やぶ》をもち、かなり墓地も手広かった。昔はもっと広大《ひろ》かったのであろうと思わせたのは、藤木氏一門のどれも美事な見上げるような墓石が、両側に五十余基も正然《せいぜん》と、間隔《あいだ》をもって立ちならんでいたのでもわかる。震災後の市区改正で、いまでは電車の走る区域になってしまっているかも知れない。
「よくあの墓石を売らなかったな。」
と誰かいうと、このお旗本は、杯口《ちょく》を下の膳《ぜん》の上において、痩身《そうしん》の男が、猫のように丸めた背中をくねらし、木乃伊《みいら》みたいに黒い長い顔から、抓《つま》みよせた小さな眼を光らせて、
「やったさ、お前さん。」
 まあお聴きといったふうに、招き猫の手つきをする。
「大《あら》いところは目につくから――ヘッ、鰻《うなぎ》だと思ってるんだね、小串《こぐし》のところをやったのでね。性質《たち》(石の)のいいやつばかりお好みと来たのさ。そうさ、姐《ねえ》さんおかわりだ、ヘイ宜しゅうってんで、なんしたんだが、あんまり大きすぎたのはいけないね、眼にたつんで、客の方が二の足でね、なにせ、だいぶお立派な方々でございまして、ヘッて、平伏《かしこま》っちまやがるんだから。ありゃいけないね、あんまりゴテゴテの戒名《かいみょう》なんぞつけたのは。子孫へ不孝っていうもんだ――なにってやがる、さんざ香《こう》このように食っといて――」
 自嘲《じちょう》して、お酒をまた一口のんで、長いまばらな黄歯《きば》を出して見せて、
「いまじゃこの歯じゃ喰《く》えもしないさ。」
「鰻《うなぎ》をおあがり。」
「おおけに。」
 わざと京阪《かみがた》言葉のまねをして、箸《はし》のさきにつけたこのわた[#「このわた」に傍点]を舌の上にたらす。
 中の間《ま》の十二畳、蔵前の拭き込んだ板の間の方によって、茶だんすや菓子戸棚や、釣棚《つりだな》のある隅に大きな長火鉢がある。その前の座布団には、祖母か、父か、たまに母が座る。その近くに夜の洋燈《ランプ》も釣りさげられる。夏でもなければ庭にむかった縁側や、玄関前の庭にむかった肘《ひじ》かけ窓の方へ寄らず、懇意なものはみんな火鉢の方へ丸くなった。無論アンポンタンの生れた家のことで、藤木さんは此処《ここ》へくると、気さくで皮肉で、小心な正直ものだった。
 彼は気の弱さと小ささからくる偽悪家だった。それは若い時は仕様《しよう》のない放蕩者《ほうとうもの》でもあったであろうが、それは時代と環境の罪もあって、彼ばかりがわるいとは言えない。ヘドッコになってしまった江戸児の末裔《まつえい》は、誰もがそうであるように、辛辣《しんらつ》な軽口《かるくち》で自家ざんぶをやる。自分自身で自分をメチャクチャにこきおろして、どうですといったふうに聴手の困るのを痛快がる。みじん見得《みえ》はないようで、そのくせ見得ばりで、それがせめて[#「せめて」に傍点]もの自棄した修飾である。鼻っぱりの強い意気地なしなのである。
 寄席《よせ》の高座《こうざ》にのぼる江戸風軽口の話口《はなしくち》をきくと、大概みんな自分の顔の棚下《たなおろ》しや、出来そくなった生れつきのこきおろしをやる。それがみんな本気だと思ったらおめでたすぎる、全部が全部みな徹底した市井《しせい》の聖人だとおもうものもなかろう、とおなじで、生活惨敗者は自己をこきおろして自慰《じい》する。そこまで察してやらないものは、厭がらせばっかりいう人だと鼻っつまみにする。あの時代の藤木さんもそんな風にとられもしたが、家のものたちも彼が小心で正直ものなのは許しきっていた。子供は変なところで対手《あいて》の直情に面してしまうものだから、対手を職業や、その折の境遇で見直したり見違えたりはしない。それにあたしがアンポンタンで無口だったということが、彼に自分の子供の前より安心させ気楽に思わせたのかも知れない。
 自宅《うち》にいると皮肉やで毒舌で、朝から晩まで女房に口小言をいっている藤木さんも、アンポンタンには馴染《なじみ》深い面白い大人だった。あたしは玄関の八畳で、角火鉢の大きなのにあたっている彼の顔を穴のあくほどマジマジと見ていることがあった。子供心には、それから十年も十五年もたった後の顔と、そんなに違わなかったように思えた。眼は青かったが、その眼は高すぎる鼻の方へ引っぱれて、猿猴《えんこう》にも似ていたが、見ようでは高僧にでもありそうな相もあった。やや下卑《げび》ていたこともたしかだった。福は内の晩に――年越しの豆撒《まめまき》の夜――火鉢の炭火のカッカッと熾《おこ》っているのにあたっている時、あたしは祖父さんの遺品《かたみ》の、霰小紋《あられこもん》の、三ところ家紋《もん》のついている肩衣《かたぎぬ》をもってきて藤木さんの肩にかけて見た。すると藤木さんは言った。
「チョン髷《まげ》に結《い》っておくれ。」
 あたしは前かけをとって、彼の頭にチョン髷を結びつけた。小僧さんのする盲目縞《めくらじま》の真黒な前かけでもあることか、紫地に桜の花がらんまんと咲いて、裏には紅絹《もみ》のついているちりめんのチョン髷、しかも額《ひたい》に緋《ひ》ぢりめんの紐《ひも》の結び目が瘤《こぶ》のように乗っかっている。それで平気で煙草《タバコ》を吹かしている。その背中が真ん丸いので、あたしは拳骨《げんこ》でコツコツ叩《たた》いた。
「痛いよ、痛いよ。」
「でも猫のようだから。」
「ニャアン、鍋島《なべしま》の猫だよ、化猫《ばけねこ》だよ。ゴロニャーン。」
 彼はフーッといって、背中を見る見る盛上げた。
 それは全く奇怪な存在だった。アンポンタンはおしっこが出るほど吃驚《びっくり》して、火鉢の縁《ふち》を握ったまま、首をすくめて中腰になった彼を見詰めた。
 その頃藤木さんは、災難つづきで極度な落目だった。下谷青石横町の露路裏のドンヅマリの、塵埃《ごみ》すて場の前にいたが、隣家《となり》の女髪結さんから夜中火事を出して、髪結さんは荷物を運び出してしまってから騒ぎだした。一ツ棟だ、かえって火元よりは火廻りの早かった藤木の方が何もかも丸焼けで、垣根を破って隣裏《となりうら》へ逃出し一家《いっか》命だけは無事だった。で、神田|白銀町《しろかねちょう》の煙草問屋へチンコッきりに通うようになった。あたしたちが牢屋《ろうや》の原《はら》とよぶ、以前《もと》の伝馬町大牢のあった後の町から、夕方になると、蝙蝠《こうもり》におくられて、日和下駄《ひよりげた》をならして弁当箱をさげて、宿《とま》り番に通って来てくれたのだった。
 藤木さんはよくいろんな話をしてくれた。御上洛(将軍慶喜)のお供《とも》をしたことや、京女のこと――京女の体つきまでにせて、ヘンな京言葉をつかった。
「うつるか。」
ってやがるから、
「かさか。」
って聞いたらね、
「なにいうてやな。」
って怒りやがった。といった時、母がちらと聞いて、
「子供の前でそんなばかな事をいって。」
と立腹した。藤木さんは亀《かめ》の子のように首をすくめて、
「なにね、女郎《おやま》のはなしをしていたのですよ。女郎人形《おやまにんぎょう》なんていうと美しいが、ブヨブヨで汚ねえってね。」
 アンポンタンは藤木さんの黄色い歯を見て、どうしても京の女郎というものが美しくないとは信じられなかった。
「ねえお滝さん、女郎《おやま》がこういったんでさあ、旦那さんうつる[#「うつる」に傍点]かって。だから、梅毒《かさ》かってたら、なにいうてやの、あほらし、ったんでね、なんのことかとおもったら、それ、やっぱり京女は優しいところがあるのさ。情がうつるかと聞いたんだってえのよ、返事がとんちんかんだから、厭《いや》な奴《やつ》だと思われようってもんさ。だけれど、その時いってたね、東男《あずまおとこ》は金ばなれがいいってさ。そういったってお前さん。貧乏旗本に金なんぞあるわけはないんだが――男振りでもてたのかもしれないねえ。――なにしと、それこそ、なにいうてやの、あほらしいだ。」
「藤木さん、藤木さんも小さい時分、前髪を結ってたの?」
 あたしにはそんな駄じゃれはわからなかったから、自分の質問を出した。
「オ・イエース。」
 藤木さんは胸を反《そら》して膝《ひざ》の上に両手をおいた。
「秀才だったのだよ。なんて、菅秀才《かんしゅうさい》はお芝居の寺小屋へ出る。他《ほか》の秀才は他人《ひと》のことで榎本《えのもと》の釜《かま》さんなんかがそうだったのだね。僕なんぞはおんなじように、子《し》のたまわくなんてやって、なんの事だかチンプンカンプンだったのだ。だからだめさ、勉強しなくっちゃ、なんでもいけないさ、君のお父さんなんか、剣が利いたからたいしたものだ、剣の方じゃどうして立派な手腕《うでまえ》だったそうな。今だってなみたいていなものは前へ廻れまいさ。」
「釜さんて誰のこと。」
「榎本武揚《えのもとたけあき》って人があるだろう。」
「ああ、知ってる。」
「あの人のちいさい時分には、家が貧乏で――はて、彼処《あすこ》は何人|扶持《ふち》だったけかな? 根岸の奥でね、藪《やぶ》のある、門に大きな樹《き》のあった家さ。釜さん、遊ばないかったって返事もしやしない。子《し》のたまわくだ。なにしてやがるかと思って、破《やぶ》けた窓の障子から覗《のぞ》くとね、ポンポチ米を徳久利《とっくり》で舂《つ》きながら勉強してやがるんだ。使いにゆく時だって破れ袴《はかま》をはいてね、こちとら悪太郎の仲間になんかはいらねえで、いやに賢人ぶった子供だったよ。ヤイ釜公、どうして遊ばないんだと怒鳴ってもだめ。みんなで石っころを投《ほう》りこんで逃出すんだ、そりゃね、時には、外《おもて》でいじめたこともあるさ。だけれど、その時|敗《ま》けて泣いた奴の方があんなに偉くなって、わしゃチンコッきりだ。わしゃかなしい。」
 悲しそうにわざといって唄《うた》のように唄った。
 そこでアンポンタンは、武家は精《しら》けた白米《こめ》をもらうのでないという事を知った。どんな風にして、お米を精《しら》けるのかきくと、薬研《やげん》で薬を刻むようにするのだといった。本町辺は薬種《やくしゅ》問屋の多いところなので、あたしは安座《あぐら》をかいて、薬草《くすりぐさ》を刻んでいるのを見て知っていたからよくわかった。祖母の持薬《あいぐすり》を買いにゆくと、種々な薬を集めて、薬研でくだいて袋に入れてくれた事も見ている。徳久利でどうして舂くのかといったら、薬研では玄米《こめ》が破《くだ》けてしまうから、貧乏徳久利で舂くのだといった。
「藤木さんもお米をついたの?」
「私の家は禄高《とりだか》だけ売ってお金にして、入用だけ白いお米で届けてもらったから――ていうと人聞きがいいが、来年の分も、さらい年の分も、金にし貸りてしまうので、よこす米がないってわけさ。浅草のお蔵前に、幕府の米蔵をあずかっている商人があってね、旗本の咽喉《のど》を押えつけたのさ。そこから金にしてもらったり、白米で渡してもらったりしたものでね。清元の唄にある――首尾の松が枝竹町のって――百本|杭《くい》の向う河岸の、お船蔵の首尾の松さ、あすこにわれわれのもらう、幕府の米がうん[#「うん」に傍点]とうなっていても、そりゃもう我々のものじゃないって訳《わけ》でね。」
「どうしてお金にしてしまうの?」
「そこがね、どうも、ちっとお話にならない訳でね。」
 藤木さんは頭をクルクル撫《な》でた。すると祖母が赤い胴の着物をもって来て、
「寝間着《ねまき》の丈《たけ》が短くて、足がつめたいとお言いだそうだが、長いのが間にあわないから私の下着を着て寝たらよい。」
「へえ?」
 さすがの藤木さんも鹿《か》の子《こ》模様の赤い絹の胴をつまんで、呆《あき》れた顔をして言った。
「結構でございます。だが――いやに思わせぶりっていうわけで、有難いような、嬉しいような――百貫めの借銭負うて、紙衣《かみこ》着た伊左衛門じゃないが、昔をいやに思いださせるね。尤《もっと》も伊左衛門っていう柄じゃなかったってね。そうそう、あかい胴の方が似合う、お軽っていう役どころさ。――え? なんだって、猿芝居だって? 戯談《じょうだん》じゃないよ、廻りの八丈の方が本役だって? そうですよ、そうだよ。ヘイ、三角銀杏老《みつかどぎんなんろう》お見舞いたす。おみゃくはいかがかな?」
 あたしの手をとって脈を見る真似をする。その晩、子供たちは何時《いつ》までも眠《ね》なかった。藤木さんがおひきすその、赤い胴ぬきの着物を着るのを見るまで――



底本:「旧聞日本橋」岩波文庫、岩波書店
   1983(昭和58)年8月16日第1刷発行
   2000(平成12)年8月17日第6刷発行
底本の親本:「旧聞日本橋」岡倉書房
   1935(昭和10)年刊行
入力:門田裕志
校正:松永正敏
2003年7月4日作成
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