青空文庫アーカイブ

詩集〈月に吠える〉 全篇
従兄 萩原栄次氏に捧ぐ
萩原朔太郎

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)縦《よ》しそこにそれぞれ天稟の相違はあつても

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)詩とは感情の神経[#「感情の神経」に傍点]
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 萩原君。
 何と云つても私は君を愛する。さうして室生君を。それは何と云つても素直な優しい愛だ。いつまでもそれは永続するもので、いつでも同じ温かさを保つてゆかれる愛だ。此の三人の生命を通じ、縦《よ》しそこにそれぞれ天稟の相違はあつても、何と云つてもおのづからひとつ流の交感がある。私は君達を思ふ時、いつでも同じ泉の底から更に新らしく湧き出してくる水の清《すず》しさを感ずる。限りなき親しさと驚きの眼を以て私は君達のよろこびとかなしみとを理会する。さうして以心伝心に同じ哀憐の情が三人の上に益々深められてゆくのを感ずる。それは互の胸の奥底に直接に互の手を触れ得るたつた一つの尊いものである。

 私は君をよく知つてゐる。さうして室生君を。さうして君達の詩とその詩の生ひたちとをよく知つてゐる。『朱欒』のむかしから親しく君達は私に君達の心を開いて呉れた。いい意味に於て其後もわれわれの心の交流は常住新鮮であつた。恐らく今後に於ても。それは廻り澄む三つの独楽が今や将に相触れむとする刹那の静謐である。そこには限りの知られぬをののきがある。無論三つの生命は確実に三つの据りを保つてゐなけらばならぬ。然るのちにそれぞれ澄みきるのである。微妙な接吻がそののちに来《く》る。同じ単純と誠実とを以て。而も互の動悸を聴きわけるほどの澄徹さを以て。幸に君達の生命も玲瓏乎としてゐる。

 室生君と同じく君も亦生れた詩人の一人である事は誰も否むわけにはゆくまい。私は信ずる。さうして君の異常な神経と感情の所有者である事も。譬へばそれは憂鬱な香水に深く涵した剃刀である。而もその予覚は常に来る可き悲劇に向て顫へてゐる。然しそれは恐らく凶悪自身の為に使用されると云ふよりも、凶悪に対する自衛、若くは自分自身に向けらるる懺悔の刃となる種類のものである。何故ならば、君の感情は恐怖の一刹那に於て、正《まさ》しく君の肋骨の一本一本をも数へ得るほどの鋭さを持つてゐるからだ。
 然しこの剃刀は幾分君の好奇な趣味性に匂づけられてゐる事もほんとうである。時には安らかにそれで以て君は君の薄い髯を当《あた》る。

 清純な凄さ、それは君の詩を読むものの誰しも認め得る特色であらう。然しそれは室生君の云ふ通り、ポオやボオドレエルの凄さとは違ふ。君は寂しい、君は正直で、清楚で、透明で、もつと細かにぴちぴち動く。少くとも彼等の絶望的な暗さや頽廃した幻覚の魔睡は無い。宛然涼しい水銀の鏡に映る剃刀の閃めきである。その鏡に映るものは真実である。そして其処には玻璃製の上品な市街や青空やが映る。さうして恐る可き殺人事件が突如として映つたり、素敵に気の利いた探偵が走つたりする。

 君の気稟は又譬へば地面に直角に立つ一本の竹である。その細い幹は鮮かな青緑で、その葉は華奢《きやしや》でこまかに動く。たつた一本の竹、竹は天を直観する。而も此竹の感情は凡てその根に沈潜して行くのである。根の根の細《こま》かな繊毛のその岐れの殆ど有るか無きかの毛の尖《さき》のイルミネエション、それがセンチメンタリズムの極致とすれば、その毛の尖端にかじりついて泣く男、それは病気の朔太郎である。それは君も認めてゐる。

 「詩は神秘でも象徴でも何でも無い。詩はただ病める魂の所有者と孤独者との寂しい慰めである。」と君は云ふ。まことに君が一本の竹は水面にうつる己が影を神秘とし象徴として不思議がる以前に、ほんとうの竹、ほんとうの自分自身を切に痛感するであらう。鮮純なリズムの歔欷《すすりなき》はそこから来《く》る。さうしてその葉その根の尖《さき》まで光り出す。

 君の霊魂は私の知つてゐる限りまさしく蒼い顔をしてゐた。殆ど病み暮らしてばかりゐるやうに見えた。然しそれは真珠貝の生身《なまみ》が一顆小砂に擦《す》られる痛さである。痛みが突きつめれば突きつめるほど小砂は真珠になる。それがほんとうの生身《なまみ》であり、生身から滴《したた》らす粘液がほんとうの苦しみからにじみ出たものである事は、君の詩が証明してゐる。

 外面的に見た君も極めて痩せて尖つてゐる。さうしてその四肢《てあし》が常に鋭角に動く、まさしく竹の感覚である。而も突如として電流体の感情が頭から足の爪先まで震はす時、君はぴよんぴよん跳ねる。さうでない時の君はいつも眼から涙がこぼれ落ちさうで、何かに縋りつきたい風である。
 潔癖で我儘なお坊つちやんで(この点は私とよく似てゐる)その癖寂しがりの、いつも白い神経を露はに顫へさしてゐる人だ。それは電流の来ぬ前の電球の硝子の中の顫へてやまぬ竹の線である。

 君の電流体の感情はあらゆる液体を固体に凝結せずんばやまない。竹の葉の水気が集つて一滴の露となり、腐れた酒の蒸気が冷《つめ》たいランビキの玻璃に透明な酒精の雫を形づくる迄のそれ自身の洗練はかりそめのものではない。君のセンチメンタリズムの信条はまさしく木炭が金剛石になるまでの永い永い時の長さを、一瞬の間に縮める、この凝念の強さであらう。摩訶不思議なる此の真言の秘密はただ詩人のみが知る。

 月に吠える、それは正しく君の悲しい心である。冬になつて私のところの白い小犬もいよいよ吠える。昼のうちは空に一羽の雀が啼いても吠える。夜はなほさらきらきらと霜が下りる。霜の下りる声まで嗅ぎ知つて吠える。天を仰ぎ、真実に地面《ぢべた》に生きてゐるものは悲しい。

 ぴようぴようと吠える、何かがぴようぴようと吠える。聴いてゐてさへも身の痺れるやうな寂しい遺瀬ない声、その声が今夜も向うの竹林を透してきこえる。降り注ぐものは新鮮な竹の葉に雪のごとく結晶し、君を思へば蒼白い月天がいつもその上にかかる。

 萩原君。
 何と云つても私は君を愛する。さうして室生君を。君は私より二つ年下で、室生君は君より又二つ年下である。私は私より少しでも年若く、私より更に新らしく生れて来た二つの相似た霊魂の為めに祝福し、更に甚深な肉親の交歓に酔ふ。
 又更に君と室生君との芸術上の熱愛を思ふと涙が流れる。君の歓びは室生君の歓びである。さうして又私の歓びである。
 この機会を利用して、私は更に君に讃嘆の辞を贈る。

大正六年一月十日
葛飾の紫烟草舎にて
北原白秋





 詩の表現の目的は単に情調のための情調を表現することではない。幻覚のための幻覚を描くことでもない。同時にまたある種の思想を宣伝演繹することのためでもない。詩の本来の目的は寧ろそれらの者を通じて、人心の内部に顫動する所の感情そのものの本質を凝視し、かつ感情をさかんに流露させることである。

 詩とは感情の神経[#「感情の神経」に傍点]を掴んだものである。生きて働く心理学[#「生きて働く心理学」に傍点]である。

 すべてのよい叙情詩には、理屈や言葉で説明することの出来ない一種の美感が伴ふ。これを詩のにほひ[#「にほひ」に傍点]といふ。(人によつては気韻とか気稟とかいふ)にほひ[#「にほひ」に傍点]は詩の主眼とする陶酔的気分の要素である。順つてこのにほひ[#「にほひ」に傍点]の稀薄な詩は韻文としての価値のすくないものであつて、言はば香味を欠いた酒のやうなものである。かふいふ酒を私は好まない。
 詩の表現は素樸なれ、詩のにほひ[#「にほひ」に傍点]は芳純でありたい。

 私の詩の読者にのぞむ所は、詩の表面に表はれた概念や「ことがら」ではなくして、内部の核心である感情そのものに感触してもらひたいことである。私の心の「かなしみ」「よろこび」「さびしみ」「おそれ」その他言葉や文章では言ひ現はしがたい複雑した特種の感情を、私は自分の詩のリズムによつて表現する。併しリズムは説明ではない。リズムは以心伝心である。そのリズムを無言で感知することの出来る人とのみ、私は手をとつて語り合ふことができる。

 『どういふわけでうれしい?』といふ質問に対して人は容易にその理由を説明することができる。けれども『どういふ工合にうれしい』といふ問に対しては何・人《びと》もたやすくその心理を説明することは出来ない。
 思ふに人間の感情といふものは、極めて単純であつて、同時に極めて複雑したものである。極めて普遍性のものであつて、同時に極めて個性的な特異なものである。
 どんな場合にも、人が自己の感情を完全[#「完全」に傍点]に表現しようと思つたら、それは容易のわざではない。この場合には言葉は何の役にもたたない。そこには音楽と詩があるばかりである。

 私はときどき不幸な狂水病者のことを考へる。
 あの病気にかかつた人間は非常に水を恐れるといふことだ。コップに盛つた一杯の水が絶息するほど恐ろしいといふやうなことは、どんなにしても我々には想像のおよばないことである。
 『どういふわけで水が恐ろしい?』『どういふ工合に水が恐ろしい?』これらの心理は、我々にとつては只々不可思議千万のものといふの外はない。けれどもあの患者にとつてはそれが何よりも真実な事実なのである。そして此の場合に若しその患者自身が……何等かの必要に迫られて……この苦しい実感を傍人に向つて説明しようと試みるならば(それはずゐぶん有りさうに思はれることだ。もし傍人がこの病気について特種の智識をもたなかつた場合には彼に対してどんな惨酷な悪戯が行はれないとも限らない。こんな場合を考へると私は戦慄せずには居られない。)患者自身はどんな手段をとるべきであらう。恐らくはどのやうな言葉の説明を以てしても、この奇異な感情を表現することは出来ないであらう。
 けれども、若し彼に詩人としての才能があつたら、もちろん彼は詩を作るにちがひない。詩は人間の言葉で説明することの出来ないものまでも説明する。詩は言葉以上の言葉である。

 狂水病者の例は極めて特異の例である。けれどもまた同時に極めてありふれた例でもある。
 人間は一人一人にちがつた肉体と、ちがつた神経とをもつて居る。我のかなしみは彼のかなしみではない。彼のよろこびは我のよろこびではない。
 人は一人一人では、いつも永久に、永久に、恐ろしい孤独である。[#この一行すべてに傍点]
 原始以来、神は幾億万人といふ人間を造つた。けれども全く同じ顔の人間を、決して二人とは造りはしなかつた。人はだれでも単位で生れて、永久に単位で死ななければならない。
 とはいへ、我々は決してぽつねん[#「ぽつねん」に傍点]と切りはなされた宇宙の単位ではない。
 我々の顔は、我々の皮膚は、一人一人にみんな異つて居る。けれども、実際は一人一人にみんな同一のところをもつて居るのである。この共通[#「共通」に傍点]を人間同志の間に発見するとき、人類間の『道徳』と『愛』とが生れるのである。この共通[#「共通」に傍点]を人類と植物との間に発見するとき、自然間の『道徳』と『愛』とが生れるのである。そして我々はもはや永久に孤独ではない。

 私のこの肉体とこの感情とは、もちろん世界中で私一人しか所有して居ない。またそれを完全に理解してゐる人も一人しかない。これは極めて極めて特異な性質をもつたものである。けれども、それはまた同時に、世界中の何ぴとにも共通なものでなければならない。この特異にして共通なる個々の感情の焦点に、詩歌のほんとの『よろこび』と『秘密性』とが存在するのだ。この道理をはなれて、私は自ら詩を作る意義を知らない。

 詩は一瞬間に於ける霊智の産物である。ふだんにもつてゐる所のある種の感情が、電流体の如きものに触れて始めてリズムを発見する。この電流体は詩人にとつては奇蹟である。詩は予期して作らるべき者ではない。

 以前、私は詩といふものを神秘[#「神秘」に傍点]のやうに考へて居た。ある霊妙な宇宙の聖霊と人間の叡智との交霊作用のやうにも考へて居た。或はまた不可思議な自然の謎を解くための鍵のやうにも思つて居た。併し今から思ふと、それは笑ふべき迷信であつた。
 詩とは、決してそんな奇怪な鬼のやうなものではなく、実は却つて我々とは親しみ易い兄妹や愛人のやうなものである。
 私どもは時々、不具な子供のやうないぢらしい心で、部屋の暗い片隅にすすり泣きをする。さういふ時、ぴつたりと肩により添ひながら、ふるへる自分の心臓の上に、やさしい手をおいてくれる乙女がある。その看護婦の乙女が詩である。
 私は詩を思ふと、烈しい人間のなやみ[#「なやみ」に傍点]とそのよろこび[#「よろこび」に傍点]とをかんずる。
 詩は神秘でも象徴でも鬼でもない。詩はただ、病める魂の所有者と孤独者との寂しいなぐさめである。
 詩を思ふとき、私は人情のいぢらしさに自然と涙ぐましくなる。

 過去は私にとつて苦しい思ひ出である。過去は焦躁と無為と悩める心肉との不吉な悪夢であつた。
 月に吠える犬は、自分の影に怪しみ恐れて吠えるのである。疾患する犬の心に、月は青白い幽霊のやうな不吉の謎である。犬は遠吠えをする。
 私は私自身の陰鬱な影を、月夜の地上に釘づけにしてしまひたい。影が、永久に私のあとを追つて来ないやうに。

萩原朔太郎



詩集例言

一、過去三年以来の創作九十余篇中より叙情詩五十五篇、及び長篇詩篇二篇を選びてこの集に納む。集中の詩篇は主として「地上巡礼」「詩歌」「アルス」「卓上噴水」「プリズム」「感情」及び一、二の地方雑誌に掲載した者の中から抜粋した。その他、機会がなくて創作当時発表することの出来なかつたもの数篇を加へた。詩稿はこの集に納めるについて概ね推敲を加へた。

一、詩篇の排列順序は必ずしも正確な創作年順を追つては居ない。けれども大体に於ては旧稿からはじめて新作に終つて居る。即ち「竹とその哀傷」「雲雀料理」最も古く、「悲しい月夜」之に次ぎ、「くさつた蛤」「さびしい情慾」等は大抵同年代の作である。而して「見知らぬ犬」と「長詩二篇」とは比較的最近の作に属す。

一、極めて初期の作で「ザムボア」「創作」等に発表した小曲風のもの、及び「異端」「水甕」「アララギ」「風景」等に発表した二、三の作はこの集では割愛することにした。詩風の関係から詩集の感じの統一を保つためである。
 すべて初期に属する詩篇は作者にとつてはなつかしいものである。それらは機会をみて別の集にまとめることにする。

一、この詩集の装幀に就いては、以前著者から田中恭吉氏にお願ひして氏の意匠を煩はしたのである。所が不幸にして此の仕事が完成しない中に田中氏は病死してしまつた。そこで改めて恩地孝氏にたのんで著者のために田中氏の遺志を次いでもらふことにしたのである。恩地氏は田中氏とは生前無二の親友であつたのみならず、その芸術上の信念を共にすることに於て田中氏とは唯一の知己であつたからである。(尚、本集の挿画については巻末の附録「挿画附言」を参照してもらひたい。)

一、詩集出版に関して恩地孝氏と前田夕暮氏とには色々な方面から一方ならぬ迷惑をかけて居る。二兄の深甚なる好意に対しては深く感謝の意を表する次第である。

一、集中二、三の旧作は目下の著者の芸術的信念や思想の上から見て飽き足らないものである。併しそれらの詩篇も過去の道程の記念として貴重なものであるので特に採篇したのである。



再版の序

 この詩集の初版は大正六年に出版された。自費の負担で僅かに五百部ほど印刷し、内四百部ほど市場に出したがその年の中に売り切れてしまつた。その後今日に到るまで可成長い間絶版になつて居た。私は之れをそのままで絶版にしておかうかと思つた。これはこの詩集に珍貴な値を求めたいといふ物好きな心からであつた。
 しかし私の詩の愛好者は、私が当初に予期したよりも遙かに多数であり且つ熱心でさへあつた。最初市場に出した少数の詩集は、人々によつて手から手へ譲られ奪ひあひの有様となつた。古本屋は法外の高価でそれを皆に売りつけて居た。(古本の時価は最初の定価の五倍にもなつて居た。)私の許へは幾通となく未知の人々から手紙が来た。どうしても再版を出してくれといふ督促の書簡である。
 すべてそれらの人々の熱心な要求に対し、私はいつも心苦しい思ひをしなければならなかつた。やがて私は自分のつまらぬ物好きを後悔するやうになつた。そんなにも多数の人々によつて示された自分への切実の愛を裏切りたくなくなつた。自分は再版の意を決した。しかも私の骨に徹する怠惰癖と物臭さ根性とは、書肆との交渉を甚だ煩はしいものに考へてしまつた。そしておよそ此等の理由からして、今日まで長い間この詩集が絶版となつて居たのである。
 顧みれば詩壇は急調の変化をした。この詩集の初版が初めて世に出た時の詩壇と今日の詩壇とは、何といふ著しい相違であらう。始め私は、友人室生犀星と結んで人魚詩社を起し次に感情詩社を設立した。その頃の私等を考へると我ながら情ない次第である。当時の文壇に於て「詩」は文芸の仲間に入れられなかつた。稿料を払つて詩を掲載するような雑誌はどこにもなかつた。勿論この事実は、詩といふものが極めて特殊なものであつて、一般的の読者を殆んど持たなかつたことに基因する。我々の詩が、なぜそんなに民衆から遠ざかつて居たか。そこには色々な理由があらう。しかしその最も主なる理由は、時代が久しく自然主義の美学によつて誤まられ、叙情的な一切の感情を排斥したことに原因する。然り、そしてそこには勿論真の時代的叙情詩が発生しなかつたことも原因である。我々の芸術は日本語の純真性を失つてゐた。言ひ代へれば日本的な感情――時代の求めてゐる日本的な感情――が、皮相なる翻訳詩の西洋模倣によつて光輝を汚されて居た。我が国の詩人らはリズムを失つて居た。かかる芸術は特殊はペダンチズムに属するであらう。そこには「気取り」を悦ぶ一階級の趣味が満足される。そして一般公衆の生活は之れに関与されないのである。
 ともあれ当時の詩壇はかやうな薄命の状態にあつた。詩は公衆から顧みられず、文壇は詩を犬小舎の隅に廃棄してしまつた。されば私等の仕事には、ある根本的な力が[#「ある根本的な力が」に傍点]要求された。私等の仕事は、正に荒寥たる地方に於ける流刑囚の移民の如きものであつた。私等はすべて[#「すべて」に傍点]を開墾せねばならなかつた。詳説すれば、既に在る一切の物を根本からくつがへして、新しき最初の土壌を地に盛りあげねばならなかつた。即ち私等のした最初の行動は、徹頭徹尾「時流への叛逆」であつた。当時自然主義の文壇に於て最もひどく軽蔑された言葉は、実に「感情」といふ言葉の響であつた。それ故私等は故意にその「呪はれたる言葉」をとつて詩社の標語とした。それは明白なる時流への叛逆であり、併せて詩の新興を絶叫する最初の狼火《のろし》であつたのだ。況んやまた詩の情想に於ても、表現に於ても、言葉に於ても、まるで私等のスタイルは当時の時流とちがつてゐた。むしろ私等は流行の裏を突破した[#「流行の裏を突破した」に傍点]。そのため私等の創作は詩壇の正流から異端視され、衆俗からは様々の嘲笑と悪罵とを蒙つたほどである。
 然るに幾程もなく時代の潮流は変向した。さしも暴威を振つた自然主義の美学は、新しい浪漫主義の美学によつて論駁されてしまつた。今や廃れたる一切の情緒が出水のように溢れてきた。二度《ふたたび》我が叙情詩の時代が来た。一旦民衆によつて閑却された詩は、更にまた彼等の生活にまで帰つて来た。しかも之より先、我等の雑誌『感情』は詩壇の標準時計となつて居た。主義に於ても、内容に於ても、殆んど全然『感情』を標準にしたところのパンフレットが続々として後から後から刊行された。正に感情型雑誌の発行は詩壇の一流行であつた。尚且つ私等の詩風は詩壇の「時代的流行」にまでなつてしまつた。先には反時代的な詩風であり、珍奇な異端的なものであつた私等の詩のスタイルは、今日では最も有りふれた一般的な詩風となり、正にそれが時代の流行を示す通俗のスタイル[#「通俗のスタイル」に傍点]とまでなつてしまつて居る。げにや此所数年の間に、我が国の詩壇は驚くべき変化をした。すべてが面目を一新した。そしてすべてが私の「予感の実証」として現実されてゐる。
 されば私の詩集『月に吠える』――それは感情詩社の記念事業である――は、正に今日の詩壇を予感した最初の黎明であつたにちがひない。およそこの詩集以前にかうしたスタイルの口語詩は一つもなく、この詩集以前に今日の如き溌剌たる詩壇の気運は感じられなかつた。すべての新しき詩のスタイルは此所から発生されて来た。すべての時代的な叙情詩のリズムは此所から生まれて来た。即ちこの詩集によつて、正に時代は一つのエポックを作つたのである[#「この詩集によつて、正に時代は一つのエポックを作つたのである」に傍点]。げにそれは夜明けんとする時の最初の鶏鳴であつた。――そして、実に私はこの詩集に対する最大の自信が此所にある。
 千九百二十二年二月
 著者



「竹とその哀傷」

 地面の底の病気の顔

地面の底に顔があらはれ、
さみしい病人の顔があらはれ。

地面の底のくらやみに、
うらうら草の茎が萌えそめ、
鼠の巣が萌えそめ、
巣にこんがらかつてゐる、
かずしれぬ髪の毛がふるえ出し、
冬至のころの、
さびしい病気の地面から、
ほそい青竹の根が生えそめ、
生えそめ、
それがじつにあはれふかくみえ、
けぶれるごとくに視え、
じつに、じつに、あはれふかげに視え。

地面の底のくらやみに、
さみしい病人の顔があらはれ。


 草の茎

冬のさむさに、
ほそき毛をもてつつまれし、
草の茎をみよや、
あをらみ茎はさみしげなれども、
いちめんにうすき毛をもてつつまれし、
草の茎をみよや。

雪もよひする空のかなたに、
草の茎はもえいづる。


 竹

ますぐなるもの地面に生え、
するどき青きもの地面に生え、
凍れる冬をつらぬきて、
そのみどり葉光る朝の空路に、
なみだたれ、
なみだをたれ、
いまはや懺悔をはれる肩の上より、
けぶれる竹の根はひろごり、
するどき青きもの地面に生え。


 竹

光る地面に竹が生え、
青竹が生え、
地下には竹の根が生え、
根がしだいにほそらみ、
根の先より繊毛が生え、
かすかにけぶる繊毛が生え、
かすかにふるえ。

かたき地面に竹が生え、
地上にするどく竹が生え、
まつしぐらに竹が生え、
凍れる節節りんりんと、
青空のもとに竹が生え、
竹、竹、竹が生え。

     ○

   みよすべての罪はしるされたり、
   されどすべては我にあらざりき、
   まことにわれに現はれしは、
   かげなき青き炎の幻影のみ、
   雪の上に消えさる哀傷の幽霊のみ、
   ああかかる日のせつなる懺悔をも何かせむ、
   すべては青きほのほの幻影のみ。


 すえたる菊

その菊は醋え、
その菊はいたみしたたる、
あはれあれ霜つきはじめ、
わがぷらちなの手はしなへ、
するどく指をとがらして、
菊をつまむとねがふより、
その菊をばつむことなかれとて、
かがやく天の一方に、
菊は病み、
饐《す》えたる菊はいたみたる。


 亀

林あり、
沼あり、
蒼天あり、
ひとの手にはおもみを感じ
しづかに純金の亀ねむる、
この光る、
寂しき自然のいたみにたへ、
ひとの心霊《こころ》にまさぐりしづむ、
亀は蒼天のふかみにしづむ。


 笛

あふげば高き松が枝に琴かけ鳴らす、
をゆびに紅をさしぐみて、
ふくめる琴をかきならす、
ああ かき鳴らすひとづま琴の音にもつれぶき、
いみじき笛は天にあり。
けふの霜夜の空に冴え冴え、
松の梢を光らして、
かなしむものの一念に、
懺悔の姿をあらはしぬ。

いみじき笛は天にあり。


 冬

つみとがのしるし天にあらはれ、
ふりつむ雪のうへにあらはれ、
木木の梢にかがやきいで、
ま冬をこえて光るがに、
おかせる罪のしるしよもに現はれぬ。
みよや眠れる、
くらき土壌にいきものは、
懺悔の家をぞ建てそめし。


 天上縊死

遠夜に光る松の葉に、
懺悔の涙したたりて、
遠夜の空にしも白ろき、
天上の松に首をかけ。
天上の松を恋ふるより、
祈れるさまに吊されぬ。


 卵

いと高き梢にありて、
ちいさなる卵ら光り、
あふげば小鳥の巣は光り、
いまはや罪びとの祈るときなる。



「雲雀料理」
五月の朝の新緑と薫風は私の生活を貴族にする。したたる空色の窓の下で、私の愛する女と共に純銀のふおうく[#「ふおうく」に傍点]を動かしたい。私の生活にもいつかは一度、あの空に光る、雲雀料理の愛の皿を盗んで喰べたい。


 感傷の手

わが性のせんちめんたる、
あまたある手をかなしむ、
手はつねに頭上にをどり、
また胸にひかりさびしみしが、
しだいに夏おとろへ、
かへれば燕はや巣を立ち、
おほ麦はつめたくひやさる。
ああ、都をわすれ、
われすでに胡弓を弾かず、
手ははがねとなり、
いんさんとして土地《つち》を掘る。
いぢらしき感傷の手は土地を掘る。


 山居

八月は祈祷、
魚鳥遠くに消え去り、
桔梗いろおとろへ、
しだいにおとろへ、
わが心いたくおとろへ、
悲しみ樹蔭をいでず、
手に聖書は銀となる。


 苗

苗は青空に光り、
子供は土地《つち》を掘る。

生えざる苗をもとめむとして、
あかるき鉢の底より、
われは白き指をさしぬけり。


 殺人事件

とほい空でぴすとるが鳴る。
またぴすとるが鳴る。
ああ私の探偵は玻璃の衣裳をきて、
こひびとの窓からしのびこむ、
床は晶玉、
ゆびとゆびとのあひだから、
まつさをの血がながれてゐる、
かなしい女の屍体のうへで、
つめたいきりぎりすが鳴いてゐる。

しもつき上旬《はじめ》のある朝、
探偵は玻璃の衣裳をきて、
街の十字巷路《よつつじ》を曲つた。
十字巷路に秋のふんすゐ、
はやひとり探偵はうれひをかんず。

みよ、遠いさびしい大理石の歩道を、
曲者《くせもの》はいつさんにすべつてゆく。


 盆景

春夏すぎて手は琥珀、
瞳《め》は水盤にぬれ、
石はらんすゐ、
いちいちに愁ひをくんず、
みよ山水のふかまに、
ほそき滝ながれ、
滝ながれ、
ひややかに魚介はしづむ。


 雲雀料理

ささげまつるゆふべの愛餐、
燭に魚蝋のうれひを薫じ、
いとしがりみどりの窓をひらきなむ。
あはれあれみ空をみれば、
さつきはるばると流るるものを、
手にわれ雲雀の皿をささげ、
いとしがり君がひだりにすすみなむ。


 掌上の種

われは手のうへに土《つち》を盛り、
土《つち》のうへに種をまく、
いま白きじようろ[#「じようろ」に傍点]もて土に水をそそぎしに、
水はせんせんとふりそそぎ、
土《つち》のつめたさはたなごころの上にぞしむ。
ああ、とほく五月の窓をおしひらきて、
われは手を日光のほとりにさしのべしが、
さわやかなる風景の中にしあれば、
皮膚はかぐはしくぬくもりきたり、
手のうへの種はいとほしげにも呼吸《いき》づけり。


 天景

しづかにきしれ四輪馬車、
ほのかに海はあかるみて、
麦は遠きにながれたり、
しづかにきしれ四輪馬車。
光る魚鳥の天景を、
また窓青き建築を、
しづかにきしれ四輪馬車。


 焦心

霜ふりてすこしつめたき朝を、
手に雲雀料理をささげつつ歩みゆく少女《をとめ》あり、
そのとき並木にもたれ、
白粉もてぬられたる女のほそき指と指との隙間《すきま》をよくよく窺ひ、
このうまき雲雀料理をば盗み喰べんと欲して、
しきりにも焦心し、
あるひと[#「あるひと」に傍点]のごときはあまりに焦心し、まつたく合掌せるにおよべり。



「悲しい月夜」


 かなしい遠景

かなしい薄暮になれば、
労働者にて東京市中が満員なり、
それらの憔悴した帽子のかげ[#「かげ」に傍点]が、
市街《まち》中いちめんにひろがり、
あつちの市区でも、こつちの市区でも、
堅い地面を掘つくりかへす、
掘り出して見るならば、
煤ぐろい嗅煙草の銀紙だ。
重さ五匁ほどもある、
にほひ菫のひからびきつた根つ株だ。
それも本所深川あたりの遠方からはじめ、
おひおひ市中いつたいにおよぼしてくる。
なやましい薄暮のかげで、
しなびきつた心臓がしやべる[#「しやべる」に傍点]を光らしてゐる。


 悲しい月夜

ぬすつと犬めが、
くさつた波止場の月に吠えてゐる。
たましひが耳をすますと、
陰気くさい声をして、
黄いろい娘たちが合唱してゐる、
合唱してゐる。
波止場のくらい石垣で。

いつも、
なぜおれはこれなんだ、
犬よ、
青白いふしあはせの犬よ。


 死

みつめる土地《つち》の底から、
奇妙きてれつの手がでる、
足がでる、
くびがでしやばる、
諸君、
こいつはいつたい、
なんといふ鵞鳥だい。
みつめる土地《つち》の底から、
馬鹿づらをして、
手がでる、
足がでる、
くびがでしやばる。


 危険な散歩

春になつて、
おれは新らしい靴のうらにごむ[#「ごむ」に傍点]をつけた、
どんな粗製の歩道をあるいても、
あのいやらしい音がしないやうに、
それにおれはどつさり壊れものをかかへこんでる、
それがなによりけんのんだ。
さあ、そろそろ歩きはじめた、
みんなそつとしてくれ、
そつとしてくれ、
おれは心配で心配でたまらない、
たとへどんなことがあつても、
おれの歪んだ足つきだけは見ないでおくれ。
おれはぜつたいぜつめいだ、
おれは病気の風船のりみたいに、
いつも憔悴した方角で、
ふらふらふらふらあるいてゐるのだ。


 酒精中毒者の死

あふむきに死んでゐる酒精中毒者《よつぱらひ》の、
まつしろい腹のへんから、
えたいのわからぬものが流れてゐる、
透明な青い血漿と、
ゆがんだ多角形の心臓と、
腐つたはらわたと、
らうまちす[#「らうまちす」に傍点]の爛れた手くびと、
ぐにやぐにやした臓物と、
そこらいちめん、
地べたはぴかぴか光つてゐる、
草はするどくとがつてゐる、
すべてがらぢうむ[#「らぢうむ」に傍点]のやうに光つてゐる。
こんなさびしい風景の中にうきあがつて、
白つぽけた殺人者の顔が、
草のやうにびらびら笑つてゐる。


 干からびた犯罪

どこから犯人は逃走した?
ああ、いく年もいく年もまへから、
ここに倒れた椅子がある、
ここに兇器がある、
ここに屍体がある、
ここに血がある、
さうして青ざめた五月の高窓にも、
おもひにしづんだ探偵のくらい顔と、
さびしい女の髪の毛とがふるへて居る。


 蛙の死

蛙が殺された、
子供がまるくなつて手をあげた、
みんないつしよに、
かわゆらしい、
血だらけの手をあげた、
月が出た、
丘の上に人が立つてゐる。
帽子の下に顔がある。
   (幼年思慕篇)



「くさつた蛤」
なやましき春夜の感覚とその疾患


 内部に居る人が畸形な病人に見える理由

わたしは窓かけのれいす[#「れいす」に傍点]のかげに立つて居ります、
それがわたくしの顔をうすぼんやりと見せる理由です。
わたしは手に遠めがねをもつて居ります、
それでわたくしは、ずつと遠いところを見て居ります、
につける製の犬だの羊だの、
あたまのはげた子供たちの歩いてゐる林をみて居ります、
それらがわたくしの瞳《め》を、いくらか[#「いくらか」に傍点]かすんでみせる理由です。
わたくしはけさきやべつ[#「きやべつ」に傍点]の皿を喰べすぎました、
そのうへこの窓硝子は非常に粗製です、
それがわたくしの顔をこんなに甚だしく歪んで見せる理由です。
じつさいのところを言へば、
わたくしは健康すぎるぐらゐなものです、
それだのに、なんだつて君は、そこで私をみつめてゐる。
なんだつてそんなに薄気味わるく笑つてゐる。
おお[#「おお」に傍点]、もちろん、わたくしの腰から下ならば、
そのへんがはつきり[#「はつきり」に傍点]しないといふのならば、
いくらか馬鹿げた疑問であるが、
もちろん、つまり、この青白い窓の壁にそうて、
家の内部に立つてゐるわけです。


 椅子

椅子の下にねむれるひとは、
おほいなる家《いへ》をつくれるひとの子供らか。


 春夜

浅蜊のやうなもの、
蛤のやうなもの、
みぢんこのやうなもの、
それら生物の身体は砂にうもれ、
どこからともなく、
絹いとのやうな手が無数に生え、
手のほそい毛が浪のまにまにうごいてゐる。
あはれこの生あたたかい春の夜に、
そよそよと潮みづながれ、
生物の上にみづながれ、
貝るゐの舌も、ちらちらとしてもえ哀しげなるに、
とほく渚の方を見わたせば、
ぬれた渚路には、
腰から下のない病人の列があるいてゐる、
ふらりふらりと歩いてゐる。
ああ、それら人間の髪の毛にも、
春の夜のかすみいちめんにふかくかけ、
よせくる、よせくる、
このしろき浪の列はさざなみです。


 ばくてりやの世界

ばくてりやの足、
ばくてりやの口、
ばくてりやの耳、
ばくてりやの鼻、

ばくてりやがおよいでゐる。

あるものは人物の胎内に、
あるものは貝るゐの内臓に、
あるものは玉葱の球心に、
あるものは風景の中心に。

ばくてりやがおよいでゐる。

ばくてりやの手は左右十文字に生え、
手のつまさきが根のやうにわかれ、
そこからするどい爪が生え、
毛細血管の類はべたいちめん[#「べたいちめん」に傍点]にひろがつてゐる。

ばくてりやがおよいでゐる。

ばくてりやが生活するところには、
病人の皮膚をすかすやうに、
べにいろの光線がうすくさしこんで、
その部分だけほんのりとしてみえ、
じつに、じつに、かなしみたへがたく見える。

ばくてりやがおよいでゐる。


 およぐひと

およぐひとのからだはななめにのびる、
二本の手はながくそろへてひきのばされる、
およぐひとの心臓《こころ》はくらげのやうにすきとほる、
およぐひとの瞳《め》はつりがねのひびきをききつつ、
およぐひとのたましひは水《みづ》のうへの月《つき》をみる。


 ありあけ

ながい疾患のいたみから、
その顔はくもの巣だらけとなり、
腰からしたは影のやうに消えてしまひ、
腰からうへには藪が生え、
手が腐れ
身体《からだ》いちめんがじつにめちやくちやなり、
ああ、けふも月が出で、
有明の月が空に出で、
そのぼんぼりのやうなうすらあかりで、
畸形の白犬が吠えてゐる。
しののめちかく、
さみしい道路の方で吠える犬だよ。


 猫

まつくろけの猫が二疋、
なやましいよるの家根のうへで、
ぴんとたてた尻尾のさきから、
糸のやうなみかづき[#「みかづき」に傍点]がかすんでゐる。
『おわあ、こんばんは』
『おわあ、こんばんは』
『おぎやあ、おぎやあ、おぎやあ』
『おわああ、ここの家の主人は病気です』


 貝

つめたきもの生れ、
その歯はみづにながれ、
その手はみづにながれ、
潮さし行方もしらにながるるものを、
浅瀬をふみてわが呼ばへば、
貝は遠音《とほね》にこたふ。


 麦畑の一隅にて

まつ正直の心をもつて、
わたくしどもは話がしたい、
信仰からきたるものは、
すべて幽霊のかたちで視える、
かつてわたくしが視たところのものを、
はつきりと汝にもきかせたい、
およそこの類のものは、
さかんに装束せる、
光れる、
おほいなるかくしどころをもつた神の半身であつた。


 陽春

ああ、春は遠くからけぶつて来る、
ぽつくりふくらんだ柳の芽のしたに、
やさしいくちびるをさしよせ、
をとめのくちづけを吸ひこみたさに、
春は遠くからごむ[#「ごむ」に傍点]輪のくるまにのつて来る。
ぼんやりした景色のなかで、
白いくるまやさんの足はいそげども、
ゆくゆく車輪がさかさにまわり、
しだいに梶棒が地面をはなれ出し、
おまけにお客さまの腰がへん[#「へん」に傍点]にふらふらとして、
これではとてもあぶなさうなと、
とんでもない時に春がまつしろの欠伸をする。


 くさつた蛤

半身は砂のなかにうもれてゐて、
それで居てべろべろ舌を出して居る。
この軟体動物のあたまの上には、
砂利や潮《しほ》みづが、ざら、ざら、ざら、ざら流れてゐる、
ながれてゐる、
ああ夢のやうにしづかにもながれてゐる。

ながれてゆく砂と砂との隙間から、
蛤はまた舌べろをちらちらと赤くもえいづる、
この蛤は非常に憔悴《やつ》れてゐるのである。
みればぐにやぐにやした内臓がくさりかかつて居るらしい、
それゆゑ哀しげな晩かたになると、
青ざめた海岸に坐つてゐて、
ちら、ちら、ちら、ちらとくさつた息をするのですよ。


 春の実体

かずかぎりもしれぬ虫けらの卵にて、
春がみつちりとふくれてしまつた、
げにげに眺めみわたせば、
どこもかしこもこの類の卵にてぎつちりだ。
桜のはなをみてあれば、
桜のはなにもこの卵いちめんに透いてみえ、
やなぎの枝にも、もちろんなり、
たとへば蛾蝶のごときものさへ、
そのうすき羽は卵にてかたちづくられ、
それがあのやうに、ぴかぴかぴかぴか光るのだ。
ああ、瞳《め》にもみえざる、
このかすかな卵のかたちは楕円形にして、
それがいたるところに押しあひへしあひ、
空気中いつぱいにひろがり、
ふくらみきつたごむまり[#「ごむまり」に傍点]のやうに固くなつてゐるのだ、
よくよく指のさきでつついてみたまへ、
春といふものの実体がおよそこのへんにある。


 贈物にそへて

兵隊どもの列の中には、
性分のわるいものが居たので、
たぶん標的の図星をはづした。
銃殺された男が、
夢のなかで息をふきかへしたときに、
空にはさみしいなみだがながれてゐた。
『これはさういふ種類の煙草です』



「さびしい情慾」

 愛憐

きつと可愛いかたい歯で、
草のみどりをかみしめる女よ、
女よ、
このうす青い草のいんき[#「いんき」に傍点]で、
まんべんなくお前の顔をいろどつて、
おまへの情慾をたかぶらしめ、
しげる草むらでこつそりあそぼう、
みたまへ、
ここにはつりがね草がくびをふり、
あそこではりんだう[#「りんだう」に傍点]の手がしなしなと動いてゐる、
ああわたしはしつかりとお前の乳房を抱きしめる、
お前はお前で力いつぱいに私のからだを押へつける、
さうしてこの人気のない野原の中で、
わたしたちは蛇のやうなあそびをしよう、
ああ私は私できりきりとお前を可愛がつてやり、
おまへの美しい皮膚の上に、青い草の葉の汁をぬりつけてやる。


 恋を恋する人

わたしはくちびるにべに[#「べに」に傍点]をぬつて、
あたらしい白樺の幹に接吻した、
よしんば私が美男であらうとも、
わたしの胸にはごむまり[#「ごむまり」に傍点]のやうな乳房がない、
わたしの皮膚からはきめ[#「きめ」に傍点]のこまかい粉おしろいのにほひがしない、
わたしはしなびきつた薄命男だ、
ああ、なんといふいぢらしい男だ、
けふのかぐはしい初夏の野原で、
きらきらする木立の中で、
手には空色の手ぶくろをすつぽりとはめてみた、
腰にはこるせつと[#「こるせつと」に傍点]のやうなものをはめてみた、
襟には襟おしろいのやうなものをぬりつけた、
かうしてひつそりとしな[#「しな」に傍点]をつくりながら、
わたしは娘たちのするやうに、
こころもちくびをかしげて、
あたらしい白樺の幹に接吻した、
くちびるにばらいろ[#「ばらいろ」に傍点]のべにをぬつて、
まつしろの高い樹木にすがりついた。


 五月の貴公子

若草の上をあるいてゐるとき、
わたしの靴は白い足あとをのこしてゆく、
ほそいすてつき[#「すてつき」に傍点]の銀が草でみがかれ、
まるめてぬいだ手ぶくろが宙でおどつて居る、
ああすつぱりといつさいの憂愁をなげだして、
わたしは柔和の羊になりたい、
しつとりとした貴女《あなた》のくびに手をかけて、
あたらしいあやめおしろいのにほひをかいで居たい、
若くさの上をあるいてゐるとき、
わたしは五月の貴公子である。


 白い月

はげしいむし歯のいたみから、
ふくれあがつた頬つぺたをかかへながら、
わたしは棗の木の下を掘つてゐた、
なにかの草の種を蒔かうとして、
きやしやの指を泥だらけにしながら、
つめたい地べたを堀つくりかへした、
ああ、わたしはそれをおぼえてゐる、
うすらさむい日のくれがたに、
まあたらしい穴の下で、
ちろ、ちろ、とみみずがうごいてゐた、
そのとき低い建物のうしろから、
まつしろい女の耳を、
つるつるとなでるやうに月があがつた、
月があがつた。
(幼童思慕詩篇)


 肖像

あいつはいつも歪んだ顔をして、
窓のそばに突つ立つてゐる、
白いさくらが咲く頃になると、
あいつはまた地面の底から、
むぐらもちのやうに這ひ出してくる、
ぢつと足音をぬすみながら、
あいつが窓にしのびこんだところで、
おれは早取写真にうつした。
ぼんやりした光線のかげで、
白つぽけた乾板をすかして見たら、
なにかの影のやうに薄く写つてゐた。
おれのくびから上だけが、
おいらん草のやうにふるへてゐた。


 さびしい人格

さびしい人格が私の友を呼ぶ、
わが見知らぬ友よ、早くきたれ、
ここの古い椅子に腰をかけて、二人でしづかに話してゐよう、
なにも悲しむことなく、きみと私でしづかな幸福な日をくらさう、
遠い公園のしづかな噴水の音をきいて居よう、
しづかに、しづかに、二人でかうして抱き合つて居よう、
母にも父にも兄弟にも遠くはなれて、
母にも父にも知らない孤児の心をむすび合はさう、
ありとあらゆる人間の生活《らいふ》の中で、
おまへと私だけの生活について話し合はう、
まづしいたよりない、二人だけの秘密の生活について、
ああ、その言葉は秋の落葉のやうに、そうそうとして膝の上にも散つてくるではないか。

わたしの胸は、かよわい病気したをさな児の胸のやうだ。
わたしの心は恐れにふるえる、せつない、せつない、熱情のうるみに燃えるやうだ。
ああいつかも、私は高い山の上へ登つて行つた、
けはしい坂路をあふぎながら、虫けらのやうにあこがれて登つて行つた、
山の絶頂に立つたとき、虫けらはさびしい涙をながした。
あふげば、ぼうぼうたる草むらの山頂で、おほきな白つぽい雲がながれてゐた。

自然はどこでも私を苦しくする、
そして人情は私を陰鬱にする、
むしろ私はにぎやかな都会の公園を歩きつかれて、
とある寂しい木蔭に椅子をみつけるのが好きだ、
ぼんやりした心で空を見てゐるのが好きだ、
ああ、都会の空をとほく悲しくながれてゆく煤煙、
またその建築の屋根をこえて、はるかに小さくつばめの飛んで行く姿を見るのが好きだ。

よにもさびしい私の人格が、
おほきな声で見知らぬ友をよんで居る、
わたしの卑屈な不思議な人格が、
鴉のやうなみすぼらしい様子をして、
人気のない冬枯れの椅子の片隅にふるえて居る。



「見知らぬ犬」

 見しらぬ犬

この見もしらぬ犬が私のあとをついてくる、
みすぼらしい、後足でびつこをひいてゐる不具《かたわ》の犬のかげだ。

ああ、わたしはどこへ行くのか知らない、
わたしのゆく道路の方角では、
長屋の家根がべらべらと風にふかれてゐる、
道ばたの陰気な空地では、
ひからびた草の葉つぱがしなしなとほそくうごいて居る。

ああ、わたしはどこへ行くのか知らない、
おほきな、いきもの[#「いきもの」に傍点]のやうな月が、ぼんやりと行手に浮んでゐる、
さうして背後《うしろ》のさびしい往来では、
犬のほそながい尻尾の先が地べたの上をひきずつて居る。

ああ、どこまでも、どこまでも、
この見もしらぬ犬が私のあとをついてくる、
きたならしい地べたを這ひまはつて、
わたしの背後《うしろ》で後足をひきずつてゐる病気の犬だ、
とほく、ながく、かなしげにおびえながら、
さびしい空の月に向つて遠白く吠えるふしあはせ[#「ふしあはせ」に傍点]の犬のかげだ。


 青樹の梢をあふぎて

まづしい、さみしい町の裏通りで、
青樹がほそほそと生えてゐた。

わたしは愛をもとめてゐる、
わたしを愛する心のまづしい乙女を求めてゐる、
そのひとの手は青い梢の上でふるへてゐる、
わたしの愛を求めるために、いつも高いところでやさしい感情にふるへてゐる。

わたしは遠い遠い街道で乞食をした、
みぢめにも飢ゑた心が腐つた葱や肉のにほひを嗅いで涙をながした、
うらぶれはてた乞食の心でいつも町の裏通りを歩きまはつた。

愛をもとめる心は、かなしい孤独の長い長いつかれの後にきたる、
それはなつかしい、おほきな海のやうな感情である。

道ばたのやせ地に生えた青樹の梢で、
ちつぽけな葉つぱがひらひらと風にひるがへつてゐた。


 蛙よ

蛙《かへる》よ、
青いすすきやよし[#「すすき」と「よし」に傍点]の生えてる中で、
蛙《かへる》は白くふくらんでゐるやうだ、
雨のいつぱいにふる夕景に、
ぎよ、ぎよ、ぎよ、ぎよ、と鳴く蛙《かへる》。

まつくらの地面をたたきつける、
今夜は雨や風のはげしい晩だ、
つめたい草の葉つぱの上でも、
ほつと息をすひこむ蛙《かへる》、
ぎよ、ぎよ、ぎよ、ぎよ、と鳴く蛙《かへる》。

蛙《かへる》よ、
わたしの心はお前から遠くはなれて居ない、
わたしは手に燈灯《あかり》をもつて、
くらい庭の面《おもて》を眺めて居た、
雨にしほるる草木の葉を、つかれた心もちで眺めて居た。


 山に登る

 旅よりある女に贈る

山の山頂にきれいな草むらがある、
その上でわたしたちは寝ころんでゐた。
眼をあげてとほい麓の方を眺めると、
いちめんにひろびろとした海の景色のやうにおもはれた。
空には風がながれてゐる、
おれは小石をひろつて口《くち》にあてながら、
どこといふあてもなしに、
ぼうぼうとした山の頂上をあるいてゐた。

おれはいまでも、お前のことを思つてゐるのだ。


 海水旅館

赤松の林をこえて、
くらきおほなみはとほく光つてゐた、
このさびしき越後の海岸、
しばしはなにを祈るこころぞ、
ひとり夕餉ををはりて、
海水旅館の居間に灯《ひ》を点ず。
(くぢら浪海岸にて)


 孤独

田舎の白つぽい道ばたで、
つかれた馬のこころが、
ひからびた日向の草をみつめてゐる、
ななめに、しのしのとほそくもえる、
ふるへるさびしい草をみつめる。

田舎のさびしい日向に立つて、
おまへはなにを視てゐるのか、
ふるへる、わたしの孤独のたましひよ。

このほこりつぽい風景の顔に、
うすく涙がながれてゐる。


 白い共同椅子

森の中の小径にそうて、
まつ白い共同椅子がならんでゐる、
そこらはさむしい山の中で、
たいそう緑のかげがふかい、
あちらの森をすかしてみると、
そこにもさみしい木立がみえて、
上品な、まつしろな椅子の足がそろつてゐる。


 田舎を恐る

わたしは田舎をおそれる、
田舎の人気のない水田の中にふるへて、
ほそながくのびる苗の列をおそれる。
くらい家屋の中に住むまづしい人間のむれをおそれる。
田舎のあぜみちに坐つてゐると、
おほなみのやうな土壌の重みが、わたしの心をくらくする、
土壌のくさつたにほひが私の皮膚をくろずませる、
冬枯れのさびしい自然が私の生活をくるしくする。

田舎の空気は陰鬱で重くるしい、
田舎の手触りはざらざらして気もちがわるい、
わたしはときどき田舎を思ふと、
きめ[#「きめ」に傍点]のあらい動物の皮膚のにほひに悩まされる。
わたしは田舎をおそれる、
田舎は熱病の青じろい夢である。



「長詩二篇」


 雲雀の巣

おれはよにも悲しい心を抱いて故郷《ふるさと》の河原を歩いた。
河原には、よめな、つくしのたぐひ、せり、なづな、すみれの根もぼうぼうと生えてゐた。
その低い砂山の蔭には利根川がながれてゐる。ぬすびとのやうに暗くやるせなく流れてゐる。
おれはぢつと河原にうづくまつてゐた。
おれの眼のまへには河原よもぎの草むらがある。
ひとつかみほどの草むらである。蓬はやつれた女の髪の毛のやうに、へらへらと風にうごいてゐた。
おれはあるいやなことをかんがへこんでゐる。それは恐ろしく不吉なかんがへだ。
そのうへ、きちがひじみた太陽がむしあつく帽子の上から照りつけるので、おれはぐつたり汗ばんでゐる。
あへぎ苦しむひとが水をもとめるやうに、おれはぐいと手をのばした。
おれのたましひをつかむやうにしてなにもの[#「なにもの」に傍点]かをつかんだ。
干からびた髪の毛のやうなものをつかんだ。
河原よもぎの中にかくされた雲雀の巣。

ぴよ、ぴよ、ぴよ、ぴよ、ぴよ、ぴよ、ぴよ、ぴよと空では雲雀の親が鳴いてゐる。
おれはかわいさうな雲雀の巣をながめた。
巣はおれの大きな掌の上で、やさしくも毬のやうにふくらんだ。
いとけなく育《はぐ》くまれるものの愛に媚びる感覚が、あきらかにおれの心にかんじられた。
おれはへんてこに寂しくそして苦しくなつた。
おれはまた親鳥のやうに頸をのばして巣の中をのぞいた。
巣の中は夕暮どきの光線のやうに、うすぼんやりとしてくらかつた。
かぼそい植物の繊毛に触れるやうな、たとへやうもなくDELICATEの哀傷が、影のやうに神経の末梢をかすめて行つた。
巣の中のかすかな光線にてらされて、ねずみいろの雲雀の卵が四つほどさびしげに光つてゐた。
わたしは指をのばして卵のひとつをつまみあげた。
生あつたかい生物の呼吸が親指の腹をくすぐつた。
死にかかつた犬をみるときのやうな歯がゆい感覚が、おれの心の底にわきあがつた。
かういふときの人間の感覚の生ぬるい不快さから惨虐な罪が生れる。罪をおそれる心は罪を生む心のさきがけである。
おれは指と指とにはさんだ卵をそつと日光にすかしてみた。
うす赤いぼんやりしたものが血のかたまりのやうに透いてみえた。
つめたい汁のやうなものが感じられた、
そのとき指と指とのあひだに生ぐさい液体がじくじくと流れてゐるのをかんじた。
卵がやぶれた、
野蛮な人間の指が、むざんにも繊細なものを押しつぶしたのだ。
鼠いろの薄い卵の殻にはKといふ字が、赤くほんのりと書かれてゐた。

いたいけな小鳥の芽生、小鳥の親。
その可愛らしいくちばしから造つた巣、一所けんめいでやつた小動物の仕事、愛すべき本能のあらはれ。
いろいろな善良な、しほらしい考が私の心の底にはげしくこみあげた。
おれは卵をやぶつた。
愛と悦びとを殺して悲しみと呪ひとにみちた仕事をした。
くらい不愉快なおこなひをした。
おれは陰鬱な顔をして地面をながめつめた。
地面には小石や、硝子かけや、草の根などがいちめんにかがやいてゐた。
ぴよ、ぴよ、ぴよ、ぴよ、ぴよ、ぴよ、ぴよ、ぴよと空では雲雀の親が鳴いてゐる。
なまぐさい春のにほひがする。
おれはまたあのいや[#「いや」に傍点]のことをかんがへこんだ。
人間が人間の皮膚のにほひを嫌ふといふこと。
人間が人間の生殖器を醜悪にかんずること。
あるとき人間が馬のやうに見えること。
人間が人間の愛にうらぎりすること。
人間が人間をきらふこと。
ああ、厭人病者。
ある有名なロシヤ人の小説、非常に重たい小説をよむと厭人病者の話が出て居た。
それは立派な小説だ、けれども恐ろしい小説だ。
心が愛するものを肉体で愛することの出来ないといふのは、なんたる邪悪の思想であらう。なんたる醜悪の病気であらう。
おれは生れていつぺんでも娘たちに接吻したことはない、
ただ愛する小鳥たちの肩に手をかけて、せめては兄らしい言葉を言つたことすらもない。
ああ、愛する、愛する、愛する小鳥たち。
おれは人間を愛する。けれどもおれは人間を恐れる。
おれはときどき、すべての人々から脱れて孤独になる。そしておれの心は、すべての人々を愛することによつて涙ぐましくなる。
おれはいつでも、人気のない寂しい海岸を歩きながら、遠い都の雑閙を思ふのがすきだ。
遠い都の灯ともし頃に、ひとりで故郷《ふるさと》の公園地をあるくのがすきだ。
ああ、きのふもきのふとて、おれは悲しい夢をみつづけた。
おれはくさつた人間の血のにほひをかいだ。
おれはくるしくなる。
おれはさびしくなる。
心で愛するものを、なにゆゑに肉体で愛することができないのか。
おれは懺悔する。
懺悔する。
おれはいつでも、くるしくなると懺悔する。
利根川の河原の砂の上に坐つて懺悔をする。

ぴよ、ぴよ、ぴよ、ぴよ、ぴよ、ぴよ、ぴよ、ぴよと、空では雲雀の親たちが鳴いてゐる。
河原蓬の根がぼうぼうとひろがつてゐる。
利根川はぬすびとのやうにこつそりと流れてゐる。
あちらにも、こちらにも、うれはしげな農人の顔がみえる。
それらの顔はくらくして地面をばかりみる。
地面には春が疱瘡のやうにむつくりと吹き出して居る。

おれはいぢらしくも雲雀の卵を拾ひあげた。


 笛

子供は笛が欲しかつた。
その時子供のお父さんは書きものをして居るらしく思はれた。
子供はお父さんの部屋をのぞきに行つた。
子供はひつそりと扉《とびら》のかげに立つてゐた。
扉のかげにはさくらの花のにほひがする。

そのとき室内で大人《おとな》はかんがへこんでゐた、
大人《おとな》の思想がくるくると渦まきをした、ある混み入つた思想のぢれんま[#「ぢれんま」に傍点]が大人の心を痙攣《ひきつけ》させた。
みれば、ですく[#「ですく」に傍点]の上に突つ伏した大人の額を、いつのまにか蛇がぎりぎりとまきつけてゐた。
それは春らしい今朝の出来事が、そのひとの心を憂はしくしたのである。

本能と良心と、
わかちがたき一つの心をふたつにわかたんとする大人《おとな》の心のうらさびしさよ、
力をこめて引きはなされた二つの影は、糸のやうにもつれあひつつ、ほのぐらき明窓《あかりまど》のあたりをさまようた。
人は自分の頭のうへに、それらの悲しい幽霊の通りゆく姿をみた。
大人《おとな》は恐ろしさに息をひそめながら祈をはじめた
「神よ、ふたつの心をひとつにすることなからしめたまへ」
けれどもながいあひだ、幽霊は扉《とびら》のかげを出這入りした。
扉のかげにはさくらの花のにほひがした。
そこには青白い顔をした病身のかれの子供が立つて居た。
子供は笛が欲しかつたのである。

子供は扉をひらいて部屋の一隅に立つてゐた。
子供は窓際のですく[#「ですく」に傍点]に突つ伏したおほいなる父の頭脳をみた。
その頭脳のあたりは甚だしい陰影になつてゐた。
子供の視線が蠅のやうにその場所にとまつてゐた。
子供のわびしい心がなにもの[#「なにもの」に傍点]かにひきつけられてゐたのだ。
しだいに子供の心が力をかんじはじめた、
子供は実に、はつきりとした声で叫んだ。
みればそこには笛がおいてあつたのだ。
子供が欲しいと思つてゐた紫いろの小さい笛があつたのだ。

子供は笛に就いてなにごとも父に話してはなかつた。
それ故この事実はまつたく偶然の出来事であつた。
おそらくはなにかの不思議なめぐりあはせであつたのだ。
けれども子供はかたく父の奇蹟を信じた。
もつとも偉大なる大人の思想が生み落した陰影の笛について、
卓の上に置かれた笛について。



[#ここに室生犀星氏が寄稿した「健康の都市」という長文が入ります。氏の著作権は現時点(1998年8月)保護されていますので、掲載をひかえさせていただきます]



  故田中恭吉氏の芸術に就いて

 雑誌「月映」を通じて、私が恭吉氏の芸術を始めて知つたのは、今から二年ほど以前のことである。当時、私があの素ばらしい芸術に接して、どんなに驚異と嘆美の瞳をみはつたかと言ふことは、殊更らに言ふまでもないことであらう。実に私は自分の求めてゐる心境の世界の一部分を、田中氏の芸術によつて一層はつきりと凝視することが出来たのである。
 その頃、私は自分の詩集の装幀や挿画を依頼する人を物色して居た際なので、この新らしい知己を得た悦びは一層深甚なものであつた。まもなく恩地孝氏の紹介によつて私と恭吉氏とは、互にその郷里から書簡を往復するやうな間柄になつた。
 幸にも、恭吉氏は以前から私の詩を愛読して居られたので、二人の友情はたちまち深い所まで進んで行つた。当時、重患の病床中にあつた恭吉氏は、私の詩集の計画をきいて自分のことのやうに悦んでくれた。そしてその装幀と挿画のために、彼のすべての「生命の残部」を傾注することを約束された。
 とはいへ、それ以来、氏からの消息はばつたり絶えてしまつた。そして恩地氏からの手紙では「いよいよ恭吉の最後も近づいた」といふことであつた。それから暫らくして或日突然、恩地氏から一封の書留小包が届いた。それは恭吉氏の私のために傾注しつくされた「生命の残部」であつた。床中で握りつめながら死んだといふ傷ましい形見の遺作であつた。私はきびしい心でそれを押戴いた。(この詩集に挿入した金泥の口絵と、赤地に赤いインキで薄く画いた線画がその形見である。この赤い絵[#「赤い絵」に傍点]は、劇薬を包む赤い四角の紙に赤いインキで描かれてあつた。恐らくは未完成の下図であつたらう。非常に緊張した鋭どいものである。その他の数葉は氏の遺作集から恩地君が選抜した。)
 恭吉氏は自分の芸術を称して、自ら「傷める芽」と言つて居た。世にも稀有な鬼才をもちながら、不幸にして現代に認められることが出来ないで、あまつさへその若い生涯の殆んど全部を不治の病床生活に終つて寂しく夭死して仕舞つた無名の天才画家のことを考へると、私は胸に釘をうたれたやうな苦しい痛みをかんずる。
 思ふに恭吉氏の芸術は「傷める生命《いのち》」そのもののやるせない[#「やるせない」に傍点]絶叫であつた。実に氏の芸術は「語る」といふのではなくして、殆んど「絶叫」に近いほど張りつめた生命の苦喚の声であつた。私は日本人の手に成つたあらゆる芸術の中で、氏の芸術ほど真に生命的な、恐ろしい真実性にふれたものを、他に決して見たことはない。
 恭吉氏の病床生活を通じて、彼の生命を悩ましたものは、その異常なる性慾の発作と、死に面接する絶えまなき恐怖であつた。
 就中、その性慾は、ああした病気に特有な一種の恐ろしい熱病的執拗をもつて、絶えず此の不幸な青年を苦しめたものである。恭吉氏の芸術に接した人は、そのありとあらゆる線が、無気味にも悉く「性慾の嘆き」を語つて居る事に気がつくであらう。それらの異常なる絵画は、見る人にとつては真に戦慄すべきものである。
「押へても押へても押へきれない性慾の発作」それはむざむざと彼の若い生命を喰ひつめた悪魔の手であつた。しかも身動きも出来ないやうな重病人にとつて、かうした性慾の発作が何にならうぞ。彼の芸術では、凡ての線が此の「対象の得られない性慾」の悲しみを訴へて居る。そこには気味の悪いほど深酷な音楽と祈祷とがある。
 襲ひくる性慾の発作のまへに、彼はいつも瞳を閉ぢて低く唄つた。

  こころよ こころよ しづまれ しのびて しのびて しのべよ

 何といふ善良な、至純な心根をもつた人であらう。たれかこのいぢらしい感傷の声をきいて涙を流さずに居られよう。
 一方、かうした肉体の苦悩に呪はれながら、一方に彼はまた、眼のあたり死に面接する絶えまなき恐怖に襲はれて居た。彼はどんなに死を恐れて居たか解らない。「とても取り返すことの出来ない生」を取り返さうとして、墓場の下から身を起さうとして無益に焦心する、悲しいたましひのすすりなき[#「すすりなき」に傍点]のやうなものが、彼の不思議の芸術の一面であつた。そこには深い深い絶望の嗟嘆と、人間の心のどん底からにじみ出た恐ろしい深酷なセンチメンタリズムとがある。
 併し此等のことは、私がここに拙悪な文章で紹介するまでもないことである。見る人が、彼の芸術を見さへすれば、何もかも全感的に解ることである。すべて芸術をみるに、その形状や事実の概念を離れて、直接その内部生命であるリズムにまで触感することの出来る人にとつては、一切の解説や紹介は不要なものにすぎないから。
 要するに、田中恭吉氏の芸術は「異常な性慾のなやみ」と「死に面接する恐怖」との感傷的交錯である。
 もちろん、私は絵画の方面では、全く智識のない素人であるから、専門的の立場から観照的に氏の芸術の優劣を批判することは出来ない。ただ私の限りなく氏を愛敬してその夭折を傷む所以は、勿論、氏の態度や思想や趣味性に私と共鳴する所の多かつたにもよるが、それよりも更に大切なことは、氏の芸術が真に恐ろしい人間の生命そのものに根ざした絶叫であつたと言ふことである。そしてかうした第一義的の貴重な創作を見ることは、現代の日本に於ては、極めて極めて特異な現象であるといふことである。
萩原朔太郎



底本:「現代詩文庫 1009 萩原朔太郎」思潮社
   1975(昭和50)年10月10日発行
入力:福田芽久美
校正:野口英司
1998年8月28日公開
2001年11月14日修正
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