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余が言文一致の由來

 言文一致に就いての意見、と、そんな大した研究はまだしてないから、寧ろ一つ懺悔話をしよう。それは、自分が初めて言文一致を書いた由來――もすさまじいが、つまり、文章が書けないから始まったといふ一伍一什の顛末さ。
 もう何年ばかりになるか知らん、余程前のことだ。何か一つ書いて見たいとは思ったが、元來の文章下手で皆目方角が分らぬ。そこで、坪内先生の許へ行って、何うしたらよからうかと話して見ると、君は圓朝の落語を知ってゐよう、あの圓朝の落語通りに書いて見たら何うかといふ。
 で、仰せの侭にやって見た。所が自分は東京者であるからいふ迄もなく東京辯だ。即ち東京辯の作物が一つ出來た譯だ。早速、先生の許へ持って行くと、篤と目を通して居られたが、忽ち礑と膝を打って、これでいゝ、その侭でいゝ、生じっか直したりなんぞせぬ方がいゝ、とかう仰有る。
 自分は少し氣味が惡かったが、いゝと云ふのを怒る譯にも行かず、と云ふものゝ、内心少しは嬉しくもあったさ。それは兎に角、圓朝ばりであるから無論言文一致體にはなってゐるが、茲にまだ問題がある。それは「私が……で厶います」調にしたものか、それとも、「俺はいやだ」調で行ったものかと云ふことだ。坪内先生は敬語のない方がいゝと云ふお説である。自分は不服の點もないではなかったが、直して貰はうとまで思ってゐる先生の仰有る事ではあり、まづ兎も角もと、敬語なしでやって見た。これが自分の言文一致を書き初めた抑もである。
 暫くすると、山田美妙君の言文一致が發表された。見ると、「私は……です」の敬語調で、自分とは別派である。即ち自分は「だ」主義、山田君は「です」主義だ。後で聞いて見ると、山田君は始め敬語なしの「だ」調を試みて見たが、どうも旨く行かぬと云ふので「です」調に定めたといふ。自分は始め、「です」調でやらうかと思って、遂に「だ」調にした。即ち行き方か全然反對であったのだ。
 けれども、自分には元來文章の素養がないから、動もすれば俗になる、突拍子もねえことを云やあがる的になる。坪内先生は、も少し上品にしなくちゃいけぬといふ。徳富さんは(其の頃『國民之友』に書いたことがあったから)文章にした方がよいと云ふけれども、自分は兩先輩の説に不服であった、と云ふのは、自分の規則が、國民語の資格を得てゐない漢語は使はない、例へば、行儀作法といふ語は、もとは漢語であったらうが、今は日本語だ、これはいゝ。しかし擧止閑雅といふ語は、まだ日本語の洗禮を受けてゐないから、これはいけない。磊落といふ語も、さっぱりしたといふ意味ならば、日本語だが、石が轉がってゐるといふ意味ならば日本語ではない。日本語にならぬ漢語は、すべて使はないといふのが自分の規則であった。日本語でも、侍る的のものはすでに一生涯の役目を終ったものであるから使はない。どこまでも今の言葉を使って、自然の發達に任せ、やがて花の咲き、實の結ぶのを待つとする。支那文や和文を強ひてこね合せようとするのは無駄である、人間の私意でどうなるもんかといふ考であったから、さあ馬鹿な苦しみをやった。
 成語、熟語、凡て取らない。僅に參考にしたものは、式亭三馬の作中にある所謂深川言葉といふ奴だ。「べらぼうめ、南瓜畑に落っこちた凧ぢゃあるめえし、乙うひっからんだことを云ひなさんな」とか、「井戸の釣瓶ぢゃあるめえし、上げたり下げたりして貰ふめえぜえ」とか、「紙幟の鍾馗といふもめッけへした中揚げ底で折りがわりい」とか、乃至は「腹は北山しぐれ」の、「何で有馬の人形筆」のといった類で、いかにも下品であるが、併しポエチカルだ。俗語の精神は茲に存するのだと信じたので、これだけは多少便りにしたが、外には何にもない。尤も西洋の文法を取りこまうといふ氣はあったのだが、それは言葉の使ひざまとは違ふ。
 當時、坪内先生は少し美文素を取り込めといはれたが、自分はそれが嫌ひであった。否寧ろ美文素の入って來るのを排斥しようと力めたといった方が適切かも知れぬ。そして自分は、有り觸れた言葉をエラボレートしようとかゝったのだが、併しこれは遂う/\不成功に終った。恐らく誰がやっても不成功に終るであらうと思ふ、中々困難だからね。自分はかうして詰らぬ無駄骨を折ったものだが……。
 思へばそれも或る時期以前のことだ。今かい、今はね、坪内先生の主義に降參して、和文にも漢文にも留學中だよ。
 (明治三十九年五月「文章世界」所載)

昭和十三年一月十五日
岩波書店『二葉亭四迷全集第五巻』



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