青空文庫アーカイブ

私は懐疑派だ
二葉亭四迷

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)一向気乗りが為《せ》ぬ

|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)到底|偽《うそ》ッぱちより

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   (数字は、底本のページと行数)
(例)くだらない[#「くだらない」に傍点]
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 私は筆を執っても一向気乗りが為《せ》ぬ。どうもくだらなくて仕方がない。「平凡」なんて、あれは試験をやって見たのだね。ところが題材の取り方が不充分だったから、試験もとうとう達しなくって了った。充分に達しなかったというのは、サタイアになったからだ。その意《つもり》ではなかったのが、どうしても諷刺になって了った。
 「其面影」の時には生人形を拵えるというのが自分で付けた註文で、もともと人間を活かそうというのだから、自然、性格に重きを置いたんだが、今度の「平凡」と来ちゃ、人間そのものの性格なんざ眼中に無いんさ。丸ッきり無い訳ではないが、性格はまア第二義に落ちて、それ以外に睨んでいたものがある。一言すれば、それは色々の人が人生に対する態度だな……人間そのものではなくて、人間が人生に対する態度……というと何だか言葉を弄するような嫌いがあるが、つまり具体的の一箇の人じゃなくて、ある一種の人が人生に対する態度だ、而《そ》してその一種の人とは即ち文学者……必ずしも今の文学者ばかりじゃなく、凡そ人間在って以来の文学者という意味も幾らか含ませたつもりだ。だから今度の作では那様《そんな》関係ばかりを眼に見ていて、人間を活躍させようなんぞという気もなけりゃ、従って活躍もしなかった。これが「其面影」と「平凡」とを創作した時の、私の態度の違いさ。
 だが、要するに、書いていてまことにくだらない[#「くだらない」に傍点]。子供が戦争《いくさ》ごッこをやッたり、飯事《ままごと》をやる、丁度そう云った心持だ。そりゃ私の技倆が不足な故《せい》もあろうが、併しどんなに技倆が優れていたからって、真実《ほんと》の事は書ける筈がないよ。よし自分の頭には解っていても、それを口にし文にする時にはどうしても間違って来る、真実《ほんと》の事はなかなか出ない、髣髴として解るのは、各自《めいめい》の一生涯を見たらばその上に幾らか現われて来るので、小説の上じゃ到底|偽《うそ》ッぱちより外書けん、と斯う頭から極めて掛っている所があるから、私にゃ弥々《いよいよ》真劒にゃなれない。
 併しながら、斯う云うと、私一人を以て凡ての人を律するように取られるかも知らんが、そう云う心持でもないんだ。私一人がいけないんだね。ただ自分がそういう心持で、筆を持っちゃどうしても真劒になれんから、なれるという人の心持が想像されない。真の文学者の心持が解らん。だから真劒になれるという人があれば私は疑う。が、単に疑うだけで、決してその心持にゃなれぬと断定するまでの信念を持っている訳でもない。雖然《けれども》どう考えても、例えば此間盗賊に白刃《はくじん》を持て追掛けられて怖かったと云う時にゃ、其人は真実《ほんと》に怖くはないのだ。怖いのは真実《ほんと》に追掛けられている最中なので、追想して話す時にゃ既に怖さは余程失せている。こりゃ誰でもそうなきゃならんように思う。私も同じ事で、直接の実感でなけりゃ真劒になるわけには行かん。ところが小説を書いたり何かする時にゃ、この直接の実感という奴が起って来ない。人生に対するのが盗賊に追われた時の心持になって了う。議論から考えて見ると、人生というものが何も具体的にそこに転がっている訳じゃない。斯うやって御互に坐っているのも亦人生に漬かっているのだから、人生に対する感を持たれぬという筈もない。だから追想とか空想とかで作の出来る人ならば兎も角、私にゃどうしても書きながら実感が起らぬから真劒になれない。古い説かも知らんが私の知ってる限りじゃ、今迄の美学者も実感を芸術の真髄とはせず、空想が即ち本態であるとしている。この空想とは、例の賊に追われたことを後から追懐する奴なんだ。そうすると小説は第二義のもので、第一義のものじゃなくなって来る。否《いや》、小説ばかりじゃない、一体の人生観という奴が私にゃ然う思えるんだよ……思えると云うと語弊があるが、那様《そんな》気がするのだ。どうも莫迦々々《ばかばか》しくてね。だから作をする時にゃ、精神は非常に緊張させるけれども、心には遊びがある。丁度、撃劒で丁々と撃合っては居るが、つまり真劒勝負じゃない、その心持と同《おん》なじ事だ。こんな風だから、他人は作をしていねば生活が無意味だというが、私は作をしていれば無意味だ、して居らんと大に有意味になる。この相違を来すにゃ何か相当の原因が無くばなるまい。
 私は二十世紀の文明は皆《みん》な無意義になるんじゃないかと思う。何と云っても今はまだレフレクションの影響を免がれていない。十九世紀で暴威を逞くした思索の奴隷になっていたんで、それを弥々《いよいよ》脱却する機会に近づいているらしく見える。新理想とか何とか云い出すな、まだレフレクションに捉われてる証拠さ。併しさすがに以前の理想では満足出来ん所から、新理想主義になって来たんだ。文学の方で最近の傾向はシンボリズムとか、ミスチシズムとか云うのだが、イズム[#「イズム」に傍点]の中《うち》に彷徨《うろつ》いてる間《うち》や未だ駄目だね。象徴主義で云う霊肉一致も思想だけで、真実一致はして居らんじゃないか。で、私は露語の所謂ストリャッフヌスト(身震いする)と云ったような時代……つまりこびり[#「こびり」に傍点]着いて居る思想の血を払って、新たな清い生活に入ろうとする過渡の時代のように今を思う。思想じゃ人生の意義は解らんという結論までにゃ疾くに達しているくせに、まだまだ思想に未練を残して、やはり其から蝉脱することが出来ずに居るのが今の有様だ。文学が精神的の人物の活動だというが、その「精神」が何となく有り難く見えるのは、その余弊を受けて居るんで、霊肉一致どころじゃない、よほど霊が勝《まさ》ってる証拠だ。だからシンボリストでも、思想では霊肉一致だろうが自分の存在では未だ其処までは行って居らんよ。そんなら行き着いた先きは何うなるかと云うに、そりゃ想像は一寸付かん。第二義から第一義に行って霊も肉も無い……文学が高尚でも何でも無くなる境涯に入れば偖《さ》てどうなるかと云うに、それは私だけにゃ大概の見当は付いているようにも思われるが、ま、ま、殆ど想像が出来んと云って可《い》いな。――ただ何だか遠方の地平線に薄ぼんやりとあかるく夜《よ》が明けかかっているような所が見えるばかりだ。
 未知《アンノーン》の神《ゴット》、未知《アンノーン》の幸福《ハッピネス》――これは象徴派《シムボリスト》のよく口にする所だが、あすこいらは私と同じ傾向に来て居るんじゃないかと思うね。併し彼等はまるで今迄とは性質の変った思いもかけぬ神様や幸福が先きにあるように考えてるらしいが、私はそうは思わん。我々が斯うして生きてるのは即ち「アンノーン、ハッピネス」じゃないか。ただ気が付かずに迷ってるだけだ。聖人は赤児の如しという言葉が、其に幾らか似た事情で、かねて成り度いと望んでた聖人に弥々《いよいよ》成って見れば、やはり子供の心持に還る。これ変ったと云えば大に変り、変らんと云えば大に変らん所じゃないか。だから先きへばかり眼を向けるのが抑《そもそも》の迷い。偶《たま》には足許も見ては何《ど》うか。すると「いや、此儘で幸福だ」というような事がありはせんか、と、まア思うんだな。
 私は何も仏《ほとけ》を信じてる訳じゃないが、禅で悟を開くとか、見性成仏《けんしょうじょうぶつ》とかいった趣きが心の中《うち》には有る。そんなら今が幸福だと満足して、此上に社会改良も何も不必要かと云うに然うでもない、大変パラドクサルになって了って……ある意味じゃ此儘幸福だが、他の意味じゃ不幸福だ。一見矛盾しているようだが私の心では為《し》て居らん。ここが象徴派《シムボリスト》と同じ所へ来ている証拠じゃないかと思う。だから人が文学や哲学を難有《ありがた》がるのは余程後れていやせんかと考えられる。第一其等が有難いと云うな、偽《うそ》の有難いんだ。何となれば、文学哲学の価値を一旦根底から疑って掛らんけりゃ、真の価値は解らんじゃないか。ところが日本の文学の発達を考えて見るに果してそう云うモーメントが有ったか、有るまい。今の文学者なざ殊に、西洋の影響を受けていきなり[#「いきなり」に傍点]文学は有難いものとして担ぎ廻って居る。これじゃ未だ未だ途中だ。何にしても、文学を尊ぶ気風を一旦壊して見るんだね。すると其|敗滅《ルーインス》の上に築かれて来る文学に対する態度は「文学も悪くはないな!」ぐらいな処《とこ》になる。心持ちは第一義に居ても、人間の行為は第二義になって現われるんだから、ま、文学でも仕方がないと云うように、価値が定《き》まって来るんじゃないかと思う。
 一寸親子の愛情に譬えて見れば、自分の児は他所《よそ》の児より賢くて行儀が可《い》いと云う心持ちは、濁って垢抜けのしない心持ちである。然るに垢抜けのした精美《リファインド》された心持ちで考えると、自分の児は可愛いには違いないが、欠点も仲々ある、どうしても他所の児の方が可い、併し可愛いとなる。これと同じ事で、文学にしがみ[#「しがみ」に傍点]付いて、其でなきゃ夜も日も明けぬと云うな、真に文学を愛するもんじゃないね。今の文学者が文学に対する態度は真面目になったと云うが、真面目じゃなくて熱心になっただけだろう。法華信者が偏頗《へんぱ》心で法華に執着する熱心、碁客が碁に対する凝り方、那様《そんな》のと同様で、自分の存在は九分九厘は遊んでいるのさ。真面目と云うならば、今迄の文学を破壊する心が、一度はどうしても出て来なくちゃならん。
 だから私の態度は……私は到底文学者じゃない。併し文学が児戯に類すると云う話と、今の話は別だよ。ただ批評をして見ると、一寸そんな事を云って見度くなるのだね。
 私は、まア、懐疑派《スケプチスト》だ。第一|論理《ロジック》という事が馬鹿々々しい。思想之法則《ローオブソート》は人間の頭に上る思想を整理《アドジャスト》するだけで、其が人間の真生活《リーヤルライフ》とどれだけの関係があるか。心理学上、人間は思想だけじゃない。精神活動力《メンタルエナージー》の現われ方には情もあれば知もあり意もある。それを思想だけ整理しても駄目じゃないか。成程、相等しき物は同一なりは尤もの次第で、他に考えようもないが、併し「何故《ホワイ》」という観念が出て来ると、私はそれに依頼されなくなる。心理学上の識覚《コンシアスネス》について云って見ても、識覚に上らぬ働き(アンダー、コンシアス、ウオーク)が幾らあるか知れぬ。反射的動作《レフレクチブアクション》なぞは其卑近の一例で、斯んな心持ちがする……云々と云う事も亦其働きだ。だから識覚の上にのぼって来る思想だけじゃ、到底人間全体の型は付けられない。じゃ、何うすりゃ好《い》いかと云うに、矢張《やっぱ》りそりゃ解らんよ。ただ手探りでやって見るんだ。要するに人間生きてる以上は思想を使うけれども、それは便宜の為に使うばかり。と云う考えだから、私の主義は思想《シンキング》の為《フォーワ》の思想《シンキング》でもなけりゃ芸術《アート》の為《フォーワ》の芸術《アート》でもなく、また科学《サイアンス》の為《フォーワ》の科学《サイアンス》でもない。人生の為の思想、人生の為の芸術、将《は》た人生の為の科学なのだ。
 人生《ライフ》、々々《ライフ》というが、人生《ライフ》た一体何だ。一個の想念《ノーション》じゃないか。今の文学者連中に聞き度いのは、よく人生に触れなきゃ不可《いかん》と云う、其人生だ。作物を読んで、こりゃ何となく身に浸みるとか、こりゃ何となく急所に当らぬとかの区別はある。併しそれが直ちに人生に触れる触れぬの標準となるんなら、大変軽卒のわけじゃないか。引緊った感を起させる、起させぬの別と、人生に触れる、触れぬとの間にゃ大なるギャップが有りゃせんか。私はどうも那様《そんな》気がするね。触れる云々は形容詞に過ぎんように思う。哲学上の見解から小説と人生との接触を見たんではないらしい。にも係《かかわ》らず其無意味のことに意味をつけて、やれ触れたの、やれ人生の真髄は斯うだのと云う。一片の形容詞が何時の間にか人生観と早変りをするのは、これ何とも以て不思議の至りさ。
 いや、何時のまにか私も大気焔を吐いて了って。先ずここらで御免を蒙ろう。
(明治四十一年二月「文章世界」)[#行末揃え]



底本:「平凡・私は懐疑派だ」講談社文芸文庫、講談社
   1997(平成9)年12月10日第1刷発行
底本の親本:「二葉亭四迷全集」第一、二、三、四、七巻、筑摩書房
   1984(昭和59)年11月〜1991(平成3)年11月
入力:長住由生
校正:もりみつじゅんじ
2000年5月4日公開
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