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母となる
福田英子

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)姙娠《にんしん》

|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)最初|妾《せふ》に誓ひ

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(例)[#次の文は一字下げ]春のなかばに

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)いよ/\
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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一 姙娠《にんしん》
 是より先き妾《せふ》の尚《な》ほ郷地《きやうち》に滞在せし時、葉石《はいし》との関係につき他より正式の申込あり、葉石《はいし》よりも直接に旧情を温めたき旨《むね》申来《まをしきた》るなど、心も心ならざるより、東京なる重井《おもゐ》に柬《かん》して其《その》承諾を受け、父母にも告げて再び上京の途《と》に就きしは廿二年七月下旬なり。此頃より妾《せふ》の容体《ようだい》尋常《たゞ》ならず、日を経るに従ひ胸悪く頻《しき》りに嘔吐《おうど》を催しければ、扨《さて》はと心に悟《さと》る所あり、出京後《しゆつきやうご》重井《おもゐ》に打明《うちあけ》て、郷里なる両親に謀《はか》らんとせしに彼は許さず、暫らく秘して人に知らしむる勿《なか》れとの事に、妾《せふ》は不快の念に堪へざりしかど、斯《かゝ》る不自由の身となりては、今更に詮方《せんかた》もなく、彼の言ふが儘《まゝ》に従ふに如《し》かずと閑静なる処に寓居を構《かま》へ、下婢《かひ》と書生の三人暮しにていよ/\世間婦人の常道を歩み始めんとの心構《こゝろがま》へなりしに、事実は之に反して、重井《おもゐ》は最初|妾《せふ》に誓ひ、将《は》た両親に誓ひしことをも忘れし如く、妾《せふ》を遇すること彼《か》の口にするだも忌《いま》はしき外妾《ぐわいせふ》同様の姿なるは何事ぞや。如何なる事情あるかは知らざれども、妾《せふ》を斯《かゝ》る悲境に沈ましめ、殊に胎児にまで世の謗《そし》りを受《うけ》しむるを慮《おもんばか》らずとは、是れをしも親の情といふべきかと、会合の都度《つど》切《せつ》に言聞《いひきこ》えけるに、彼も流石《さすが》に憂慮の体《てい》にて、今暫らく発表を見合《みあは》し呉れよ、今郷里の両親に御身《おんみ》懐胎《くわいたい》の事を報ぜんには、両親とても直ちに結婚発表を迫らるべし、発表は容易なれども、自分の位地として、又|御身《おんみ》の位地として相当の準備なくては叶《かな》はず、第一病婦の始末だに、尚《なほ》付《つ》きがたき今日の場合、如何《いかん》ともせんやうなきを察し給へ。目下弁護事務にて頗《すこぶ》る有望の事件を担当し居り、此《この》事件にして成就《じやうじゆ》せば、数万《すまん》の報酬《はうしう》を得んこと容易なれば、其上《そのうへ》にて総《すべ》て花々しく処断すべし、何卒《なにとぞ》暫しの苦悶を忍びて、胎児を大切に注意し呉れよと他事《たじ》もなき頼みなり。素《もと》より彼を信ずればこそ此《この》百年の生命をも任《まか》したるなれ、斯《か》くまで事を分けられて、尚《な》ほしも※[#「※」は「形」の左部分の字、149-8]《そ》は偽りならん、一時《いちじ》遁《のが》れの間に合せならんなど、疑ふべき妾《せふ》にはあらず、他日両親の憤《いきどほ》りを受くるとも、言ひ解《と》く術《すべ》のなからんやと、事に托して叔母なる人の上京を乞ひ、事情を打明《うちあ》けて一身《いつしん》の始末を托し、只管《ひたすら》胎児の健全を祈り、自《みづ》から堅く外出を戒《いまし》めし程に、景山《かげやま》は今|何処《いづく》に居るぞ、一時を驚動せし彼《か》の女《ぢよ》の所在こそ聞《きか》まほしけれなど、新聞紙上にさへ謳《うた》はるゝに至りぬ。
二 分娩《ぶんべん》、奇夢《きむ》
 その間の苦悶そも幾何《いくばく》なりしぞや。面白からぬ月日を重ねて翌廿三年三月上旬一男子を挙ぐ。名はいはざるべし、悔《くい》ある堕落の化身《けしん》を母として、明《あか》らさまに世の耳目《じもく》を惹《ひ》かせんは、子の行末の為め、決して好《よ》き事にはあらざるべきを思うてなり。唯《た》だその命名につきて一場《いちぢやう》の奇談あり、迷信の謗《そし》り免《まぬ》かれずとも、事実なれば記《しる》しおくべし。其子《そのこ》の身に宿りしより常に殺気《さつき》を帯《お》べる夢のみ多く、或時は深山《しんざん》に迷ひ込みて数千《すせん》の狼《おほかみ》に囲まれ、一生懸命の勇を鼓《なら》して、其《その》首領《しゆりやう》なる老狼《らうらう》を引倒《ひきたふ》し、上顎《うはあご》と下顎《したあご》に手をかけて、口より身体までを両断せしに、他《た》の狼児《らうじ》は狼狽《らうばい》して悉《ことごと》く遁失《にげう》せ、又或時は幼時|嘗《かつ》て講読したりし、十八|史略《しりやく》中《ちゆう》の事実、即ち『禹《う》江《こう》を渡《わた》る時《とき》、蛟龍《かうりよう》船《ふね》を追ふ、舟中《しうちゆう》の人《ひと》皆《みな》慴《おそ》る、禹《う》天を仰いで、嘆じて曰《いは》く、我《われ》命《めい》を天に享《う》く、力を尽して、万民を労す、生は寄《き》なり、死は帰《き》なりと、龍《りよう》を見る事、蜿※[#「※」は「虫」扁に「廷」、150-5]《えんてい》の如く、眼色《がんしよく》変《へん》ぜず、龍《りよう》首《こうべ》を俯《ふ》し尾を垂《た》れて、遁《のが》る。』と云へる有様の歴々《あり/\》と目前に現はれ、しかも妾《せふ》は禹《う》の位置に立ちて、禹《う》の言葉を口に誦《しよう》し、龍《りよう》をして遂《つひ》に辟易《へきえき》せしめぬ。然るに分娩《ぶんべん》の際《さい》は非常なる難産にして苦悶二昼夜に亙《わた》り、医師の手術によらずば、分娩《ぶんべん》覚束《おぼつか》なしなど人々|立騒《たちさわ》げる折しも、恰《あたか》も陣痛起りて、それと同時に大雨《たいう》篠《しの》を乱《みだ》しかけ、鳴神《なるかみ》おどろ/\しく、はためき渡りたる其《その》刹那《せつな》に、児《じ》の初声《うぶごゑ》は挙《あが》りて、左《さ》しも盆《ぼん》を覆《くつがへ》さんばかりの大雨《たいう》も忽《たちま》ちにして霽《は》れ上《あが》りぬ。後《あと》にて書生の語る所によれば、其日《そのひ》雨の降りしきれる時、世に云ふ龍《たつ》まきなるものありて、その蛇《へび》の如き細き長き物の天上するを見たりきといふ。妾《せふ》は児《じ》の重《かさ》ね/″\龍《りよう》に縁《えん》あるを奇《き》として、それに因《ちな》める名をば命《つ》けつ、生《お》ひ先きの幸《さち》多かれと祷《いの》れるなりき。
三 児《じ》の入籍
 児《じ》を分娩《ぶんべん》すると同時に、又も一《いつ》の苦悶は出で来《きた》りぬ。そは重井《おもゐ》と公然の夫婦ならねば、児《じ》の籍をば如何《いか》にせんとの事なりき。幸《さいはひ》なるかな、妾《せふ》の姙娠中《にんしんちゆう》屡※[#二の字点、150-15]《しば/\》診察を頼みし医師は重井《おもゐ》と同郷の人にして、日頃《ひごろ》重井《おもゐ》の名声を敬慕し、彼と交誼《こうぎ》を結ばん事を望み居たれば、此人《このひと》によりて双方の秘密を保たんとて、親戚の者より同医に謀《はか》る所ありしに、義侠《ぎけふ》に富める人なりければ直ちに承諾し、己《おの》れ未《いま》だ一子《いつし》だになきを幸ひ、嫡男《ちやくなん》として役所に届出《とゞけい》でられぬ。斯《かく》て両人とも辛《から》ふじて世の耳目《じもく》を免《まぬ》かれ、死よりもつらしと思へる難関《なんくわん》を打越えて、ヤレ嬉しやと思ふ間もなく、郷里より母上|危篤《きとく》の電報は来《きた》りぬ。
四 愛着
 分娩後《ぶんべんご》未《いま》だ三十日とは過ぎざりし程なりければ、遠路《ゑんろ》の旅行危険なりと医師は切《せつ》に忠告したり。左《さ》れど今回の分娩《ぶんべん》は両親に報じやらざりし事なれば今更にそれぞとも言ひ分けがたく、殊には母上の病気とあるに、争《いか》で余所《よそ》にやは見過《みすご》すべき、仮《よ》し途中にて死なば死ね、思ひ止《と》まるべくもあらずとて、人々の諫《いさ》むるを聞かず、叔母と乳母とに小児を托して引かるゝ後髪《うしろがみ》を切払《きりはら》ひ、書生と下女とに送られて新橋《しんばし》に至り、発車を待つ間にも児《じ》は如何《いか》になし居るやらんと、心は千々《ちゞ》に砕けて、血を吐く思ひとは是なるべし。実《げ》に人生の悲しみは頑是《ぐわんぜ》なき愛児を手離すより悲しきはなきものを、それをすら強《し》ひて堪へねばならぬとは、是れも偏《ひとへ》に秘密を契《ちぎ》りし罪悪の罰ならんと、吾れと心を取り直《なほ》して、唯《たゞ》一人心細き旅路に上《のぼ》りけるに、車中《しやちゆう》片岡直温《かたをかちよくをん》氏《し》が嫂《あによめ》某女《ぼうぢよ》と同行《どうかう》せられしに逢ひ、同女が嬰児《えいじ》を懐《ふところ》に抱きて愛撫《あいぶ》一方《ひとかた》ならざる有様を目撃するにつけても、他人の手に愛児を残す母親の浅ましさ、愛児の不憫《ふびん》さ、探《さぐ》りなれたる母の乳房に離れて、俄《には》かに牛乳を与へらるゝさへあるに、哺乳器の哺《ふく》みがたくて、今頃は如何《いか》に泣き悲しみてやあらん、汝《なれ》が恋ふる乳房はこゝに在るものを、そも一秒時毎に、汝《なれ》と遠ざかりまさるなりなど、吾れながら日頃の雄々しき心は失《う》せて、児《じ》を産みてよりは、世の常の婦人よりも一層《ひとしほ》女々《めゝ》しうなりしぞかし。左《さ》しも気遣《きづか》ひたりし身体には障《さは》りもなくて、神戸|直行《ちよくかう》と聞きたる汽車の、俄《には》かに静岡に停車する事となりしかば、其夜は片岡《かたをか》氏《し》の家族と共に、停車場《ステーシヨン》近《ちか》き旅宿に投じぬ。宿泊帳には故意《わざ》と偽名を書《しよ》したれば、片岡《かたをか》氏《し》も妾《せふ》をば景山英《かげやまひで》とは気付《きづ》かざりしならん。
五 一大事
 翌日岡山に到着して、なつかしき母上を見舞ひしに、危篤《きとく》なりし病気の、やう/\怠《おこた》りたりと聞くぞ嬉しき。久《ひさ》し振《ぶ》りの妾《せふ》が帰郷を聞《きゝ》て、親戚ども打寄《うちよ》りしが、母上よりは却《かへつ》て妾《せふ》の顔色の常ならぬに驚きて、何様《なにさま》尋常《じんじやう》にてはあらぬらし、医師を迎へよと口々に勧《すゝ》め呉れぬ。さては一大事、医師の診察によりて、分娩《ぶんべん》の事|発覚《はつかく》せば、妾《せふ》は兎も角、折角|怠《おこた》りたる母上の病気の、又はそれが為めに募《つの》り行きて、悔《く》ゆとも及ばざる事ともならん。死するも診察は受けじとて、堅く心に決しければ、人々には少しも気分に障《さは》りなき旨《むね》を答へ、胸の苦痛を忍び/\て、只管《ひたすら》母上の全快を祈る程に、追々《おひ/\》薄紙《はくし》を剥《は》ぐが如くに癒《い》え行きて、はては、床《とこ》の上に起き上られ、妾《せふ》の月琴《げつきん》と兄上の八雲琴《やくもごと》に和して、健やかに今様《いまやう》を歌ひ出で給ふ。
[#次の文は一字下げ]春のなかばに病み臥《ふ》して、花の盛りもしら雲の、消ゆるに近かき老《おい》の身を、うからやからのあつまりて、日々にみとりし甲斐《かひ》ありて、病《やまひ》はいつか怠《おこた》りぬ、実《げ》に子宝の尊きは、医薬の効にも優《まさ》るらん、[#字下げ終わり]
 滞在一週間ばかりにて、母上の病気全く癒《い》えければ、児《じ》を見たき心の矢竹《やたけ》にはやり来て、今は思ひ止《とま》るべくもあらねば、吾れにもあらず、能《よ》き程の口実を設けて帰京の旨《むね》を告げ、且つ妾《せふ》も思ふ仔細《しさい》あれば、遠からず父上母上を迎へ取り、膝下《しつか》に奉仕《ほうじ》することとなすべきなど語り聞《きこ》えて東京に帰り、先づ愛児の健《すこや》かなる顔を見て、始めて十|数日来《すうにちらい》の憂《う》さを霽《はら》しぬ。



底本:「日本の名随筆42・母」作品社
   1986(昭和61)年4月25日第1刷発行
   1988(昭和63)年1月20日第5刷発行
底本の親本:「妾の半生涯」岩波文庫、岩波書店
   1958(昭和33)年4月
入力:もりみつじゅんじ
校正:菅野朋子
2000年6月1日公開
2000年11月10日修正
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