青空文庫アーカイブ

火事とポチ
有島武郎

-------------------------------------------------------
【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)真赤《まっか》な火が

|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)三度三度|官舎《かんしゃ》の人たちが
-------------------------------------------------------

 ポチの鳴き声でぼくは目がさめた。
 ねむたくてたまらなかったから、うるさいなとその鳴き声をおこっているまもなく、真赤《まっか》な火が目に映《うつ》ったので、おどろいて両方の目をしっかり開いて見たら、戸《と》だなの中じゅうが火になっているので、二度おどろいて飛び起きた。そうしたらぼくのそばに寝《ね》ているはずのおばあさまが何か黒い布《きれ》のようなもので、夢中《むちゅう》になって戸だなの火をたたいていた。なんだか知れないけれどもぼくはおばあさまの様子《ようす》がこっけいにも見え、おそろしくも見えて、思わずその方に駆《か》けよった。そうしたらおばあさまはだまったままでうるさそうにぼくをはらいのけておいてその布のようなものをめったやたらにふり回した。それがぼくの手にさわったらぐしょぐしょにぬれているのが知れた。
「おばあさま、どうしたの?」
 と聞いてみた。おばあさまは戸だなの中の火の方ばかり見て答えようともしない。ぼくは火事じゃないかと思った。
 ポチが戸の外で気ちがいのように鳴いている。
 部屋《へや》の中は、障子《しょうじ》も、壁《かべ》も、床《とこ》の間《ま》も、ちがいだなも、昼間のように明るくなっていた。おばあさまの影法師《かげぼうし》が大きくそれに映《うつ》って、怪物《ばけもの》か何かのように動いていた。ただおばあさまがぼくに一言《ひとこと》も物をいわないのが変だった。急に唖《おし》になったのだろうか。そしていつものようにはかわいがってくれずに、ぼくが近寄ってもじゃま者あつかいにする。
 これはどうしても大変だとぼくは思った。ぼくは夢中《むちゅう》になっておばあさまにかじりつこうとした。そうしたらあんなに弱いおばあさまがだまったままで、いやというほどぼくをはらいのけたのでぼくはふすまのところまでけし飛ばされた。
 火事なんだ。おばあさまが一人《ひとり》で消そうとしているんだ。それがわかるとおばあさま一人ではだめだと思ったから、ぼくはすぐ部屋を飛び出して、おとうさんとおかあさんとが寝《ね》ている離《はな》れの所へ行って、
「おとうさん……おかあさん……」
 と思いきり大きな声を出した。
 ぼくの部屋の外で鳴いていると思ったポチがいつのまにかそこに来ていて、きゃんきゃんとひどく鳴いていた。ぼくが大きな声を出すか出さないかに、おかあさんが寝巻《ねま》きのままで飛び出して来た。
「どうしたというの?」
 とおかあさんはないしょ話のような小さな声で、ぼくの両肩《りょうかた》をしっかりおさえてぼくに聞いた。
「たいへんなの……」
「たいへんなの、ぼくの部屋が火事になったよう」といおうとしたが、どうしても「大変なの」きりであとは声が出なかった。
 おかあさんの手はふるえていた。その手がぼくの手を引いて、ぼくの部屋の方に行ったが、あけっぱなしになっているふすまの所から火が見えたら、おかあさんはいきなり「あれえ」といって、ぼくの手をふりはなすなり、その部屋に飛びこもうとした。ぼくはがむしゃらにおかあさんにかじりついた。その時おかあさんははじめてそこにぼくのいるのに気がついたように、うつ向いてぼくの耳の所に口をつけて、
「早く早くおとうさんをお起こしして……それからお隣《となり》に行って、……お隣のおじさんを起こすんです、火事ですって……いいかい、早くさ」
 そんなことをおかあさんはいったようだった。
 そこにおとうさんも走って来た。ぼくはおとうさんにはなんにもいわないで、すぐ上がり口に行った。そこは真暗《まっくら》だった。はだしで土間《どま》に飛びおりて、かけがねをはずして戸をあけることができた。すぐ飛び出そうとしたけれども、はだしだと足をけがしておそろしい病気になるとおかあさんから聞いていたから、暗やみの中で手さぐりにさぐったら大きなぞうりがあったから、だれのだか知らないけれどもそれをはいて戸外《そと》に飛び出した。戸外《そと》も真暗で寒かった。ふだんなら気味が悪くって、とても夜中《よなか》にひとりで歩くことなんかできないのだけれども、その晩だけはなんともなかった。ただ何かにつまずいてころびそうなので、思いきり足を高く上げながら走った。ぼくを悪者《わるもの》とでも思ったのか、いきなりポチが走って来て、ほえながら飛びつこうとしたが、すぐぼくだと知れると、ぼくの前になったりあとになったりして、門の所まで追っかけて来た。そしてぼくが門を出たら、しばらくぼくを見ていたが、すぐ変な鳴き声を立てながら家の方に帰っていってしまった。
 ぼくも夢中で駆《か》けた。お隣《となり》のおじさんの門をたたいて、
「火事だよう!」
 と二、三度どなった。その次の家も起こすほうがいいと思ってぼくは次の家の門をたたいてまたどなった。その次にも行った。そして自分の家の方を見ると、さっきまで真暗《まっくら》だったのに、屋根の下の所あたりから火がちょろちょろと燃え出していた。ぱちぱちとたき火のような音も聞こえていた。ポチの鳴き声もよく聞こえていた。
 ぼくの家は町からずっとはなれた高台《たかだい》にある官舎町《かんしゃまち》にあったから、ぼくが「火事だよう」といって歩いた家はみんな知った人の家だった。あとをふりかえって見ると、二人三人黒い人影《ひとかげ》がぼくの家の方に走って行くのが見える。ぼくはそれがうれしくって、なおのこと、次の家から次の家へとどなって歩いた。
 二十・軒《けん》ぐらいもそうやってどなって歩いたら、自分の家からずいぶん遠くに来てしまっていた。すこし気味が悪くなってぼくは立ちどまってしまった。そしてもう一度家の方を見た。もう火はだいぶ燃え上がって、そこいらの木や板べいなんかがはっきりと絵にかいたように見えた。風がないので、火はまっすぐに上の方に燃えて、火の子が空の方に高く上がって行った。ぱちぱちという音のほかに、ぱんぱんと鉄砲《てっぽう》をうつような音も聞こえていた。立ちどまってみると、ぼくのからだはぶるぶるふるえて、ひざ小僧《こぞう》と下あごとががちがち音を立てるかと思うほどだった。急に家がこいしくなった。おばあさまも、おとうさんも、おかあさんも、妹や弟たちもどうしているだろうと思うと、とてもその先までどなって歩く気にはなれないで、いきなり来た道を夢中《むちゅう》で走りだした。走りながらもぼくは燃え上がる火から目をはなさなかった。真暗《まっくら》ななかに、ぼくの家だけがたき火のように明るかった。顔までほてってるようだった。何か大きな声でわめき合う人の声がした。そしてポチの気ちがいのように鳴く声が。
 町の方からは半鐘《はんしょう》も鳴らないし、ポンプも来ない。ぼくはもうすっかり焼けてしまうと思った。明日《あす》からは何を食べて、どこに寝《ね》るのだろうと思いながら、早くみんなの顔が見たさにいっしょうけんめいに走った。
 家のすこし手前で、ぼくは一人の大きな男がこっちに走って来るのに会った。よく見るとその男は、ぼくの妹と弟とを両脇《りょうわき》にしっかりとかかえていた。妹も弟も大きな声を出して泣《な》いていた。ぼくはいきなりその大きな男は人さらいだと思った。官舎町《かんしゃまち》の後ろは山になっていて、大きな森の中の古寺に一人の乞食《こじき》が住んでいた。ぼくたちが戦《いくさ》ごっこをしに山に遊びに行って、その乞食を遠くにでも見つけたら最後、大急ぎで、「人さらいが来たぞ」といいながらにげるのだった。その乞食《こじき》の人はどんなことがあっても駆《か》けるということをしないで、ぼろを引きずったまま、のそりのそりと歩いていたから、それにとらえられる気づかいはなかったけれども、遠くの方からぼくたちのにげるのを見ながら、牛のような声でおどかすことがあった。ぼくたちはその乞食を何よりもこわがった。ぼくはその乞食が妹と弟とをさらって行くのだと思った。うまいことには、その人はぼくのそこにいるのには気がつかないほどあわてていたとみえて、知らん顔をして、ぼくのそばを通りぬけて行った。ぼくはその人をやりすごして、すこしの間どうしようかと思っていたが、妹や弟のいどころが知れなくなってしまっては大変だと気がつくと、家に帰るのはやめて、大急ぎでその男のあとを追いかけた。その人はほんとうに早かった。はいている大きなぞうりがじゃまになってぬぎすてたくなるほどだった。
 その人は、大きな声で泣きつづけている妹たちをこわきにかかえたまま、どんどん石垣《いしがき》のある横町へと曲がって行くので、ぼくはだんだん気味が悪くなってきたけれども、火事どころのさわぎではないと思って、ほおかぶりをして尻《しり》をはしょったその人の後ろから、気づかれないようにくっついて行った。そうしたらその人はやがて橋本《はしもと》さんという家の高い石段をのぼり始めた。見るとその石段の上には、橋本さんの人たちが大ぜい立って、ぼくの家の方を向いて火事をながめていた。そこに乞食らしい人がのぼって行くのだから、ぼくはすこし変だと思った。そうすると、橋本のおばさんが、上からいきなりその男の人に声をかけた。
「あなた帰っていらしったんですか……ひどくなりそうですね」
 そうしたら、その乞食《こじき》らしい人が、
「子どもさんたちがけんのんだから連れて来たよ。竹男《たけお》さんだけはどこに行ったかどうも見えなんだ」
 と妹や弟を軽々とかつぎ上げながらいった。なんだ。乞食じゃなかったんだ。橋本のおじさんだったんだ。ぼくはすっかりうれしくなってしまって、すぐ石段を上って行った。
「あら、竹男さんじゃありませんか」
 と目《め》早くぼくを見つけてくれたおばさんがいった。橋本さんの人たちは家じゅうでぼくたちを家の中に連れこんだ。家の中には燈火《あかり》がかんかんとついて、真暗なところを長い間歩いていたぼくにはたいへんうれしかった。寒いだろうといった。葛湯《くずゆ》をつくったり、丹前《たんぜん》を着せたりしてくれた。そうしたらぼくはなんだか急に悲しくなった。家にはいってから泣《な》きやんでいた妹たちも、ぼくがしくしく泣きだすといっしょになって大きな声を出しはじめた。
 ぼくたちはその家の窓《まど》から、ぶるぶるふるえながら、自分の家の焼けるのを見て夜を明かした。ぼくたちをおくとすぐまた出かけて行った橋本のおじさんが、びっしょりぬれてどろだらけになって、人ちがいするほど顔がよごれて帰って来たころには、夜がすっかり明けはなれて、ぼくの家の所からは黒いけむりと白いけむりとが別々になって、よじれ合いながらもくもくと立ち上っていた。
「安心なさい。母屋《おもや》は焼けたけれども離《はな》れだけは残って、おとうさんもおかあさんもみんなけがはなかったから……そのうちに連れて帰ってあげるよ。けさの寒さは格別だ。この一面の霜《しも》はどうだ」
 といいながら、おじさんは井戸《いど》ばたに立って、あたりをながめまわしていた。ほんとうに井戸がわまでが真白《まっしろ》になっていた。
 橋本さんで朝御飯《あさごはん》のごちそうになって、太陽が茂木《もぎ》の別荘《べっそう》の大きな槙《まき》の木の上に上ったころ、ぼくたちはおじさんに連れられて家に帰った。
 いつのまに、どこからこんなに来たろうと思うほど大ぜいの人がけんか腰《ごし》になって働いていた。どこからどこまで大雨のあとのようにびしょびしょなので、ぞうりがすぐ重くなって足のうらが気味悪くぬれてしまった。
 離《はな》れに行ったら、これがおばあさまか、これがおとうさんか、おかあさんかとおどろくほどにみんな変わっていた。おかあさんなんかは一度も見たことのないような変な着物を着て、髪《かみ》の毛なんかはめちゃくちゃになって、顔も手もくすぶったようになっていた。ぼくたちを見るといきなり駆けよって来て、三人を胸《むね》のところに抱《だ》きしめて、顔をぼくたちの顔にすりつけてむせるように泣きはじめた。ぼくたちはすこし気味が悪く思ったくらいだった。
 変わったといえば家の焼けあとの変わりようもひどいものだった。黒こげの材木が、積み木をひっくり返したように重なりあって、そこからけむりがくさいにおいといっしょにやって来た。そこいらが広くなって、なんだかそれを見るとおかあさんじゃないけれども涙《なみだ》が出てきそうだった。
 半分こげたり、びしょびしょにぬれたりした焼け残りの荷物といっしょに、ぼくたち六人は小さな離《はな》れでくらすことになった。御飯は三度三度|官舎《かんしゃ》の人たちが作って来てくれた。熱いにぎり飯《めし》はうまかった。ごまのふってあるのや、中から梅干《うめぼ》しの出てくるのや、海苔《のり》でそとを包んであるのや……こんなおいしい御飯を食べたことはないと思うほどだった。
 火はどろぼうがつけたのらしいということがわかった。井戸《いど》のつるべなわが切ってあって水をくむことができなくなっていたのと、短刀が一本火に焼けて焼けあとから出てきたので、どろぼうでもするような人のやったことだと警察《けいさつ》の人が来て見こみをつけた。それを聞いておかあさんはようやく安心ができたといった。おとうさんは二、三日の間、毎日警察に呼び出されて、しじゅう腹《はら》をたてていた。おばあさまは、自分の部屋から火事が出たのを見つけだした時は、あんまり仰天《ぎょうてん》して口がきけなくなったのだそうだけれども、火事がすむとやっと物がいえるようになった。そのかわり、すこし病気になって、せまい部屋のかたすみに床《とこ》を取ってねたきりになっていた。
 ぼくたちは、火事のあった次の日からは、いつものとおりの気持になった。そればかりではない、かえってふだんよりおもしろいくらいだった。毎日三人で焼けあとに出かけていって、人足《にんそく》の人なんかに、じゃまだ、あぶないといわれながら、いろいろのものを拾《ひろ》い出して、めいめいで見せあったり、取りかえっこしたりした。
 火事がすんでから三日めに、朝目をさますとおばあさまがあわてるようにポチはどうしたろうとおかあさんにたずねた。おばあさまはポチがひどい目にあった夢《ゆめ》を見たのだそうだ。あの犬がほえてくれたばかりで、火事が起こったのを知ったので、もしポチが知らしてくれなければ焼け死んでいたかもしれないとおばあさまはいった。
 そういえばほんとうにポチはいなくなってしまった。朝起きた時にも、焼けあとに遊びに行ってる時にも、なんだか一つ足らないものがあるようだったが、それはポチがいなかったんだ。ぼくがおこしに行く前に、ポチは離《はな》れに来て雨戸をがりがり引っかきながら、悲しそうにほえたので、おとうさんもおかあさんも目をさましていたのだとおかあさんもいった。そんな忠義なポチがいなくなったのを、ぼくたちはみんなわすれてしまっていたのだ。ポチのことを思い出したら、ぼくは急にさびしくなった。ポチは、妹と弟とをのければ、ぼくのいちばんすきな友だちなんだ。居留地《きょりゅうち》に住んでいるおとうさんの友だちの西洋人がくれた犬で、耳の長い、尾《お》のふさふさした大きな犬。長い舌《した》を出してぺろぺろとぼくや妹の頸《くび》の所をなめて、くすぐったがらせる犬、けんかならどの犬にだって負けない犬、めったにほえない犬、ほえると人でも馬でもこわがらせる犬、ぼくたちを見るときっと笑《わら》いながら駆《か》けつけて来て飛びつく犬、芸当はなんにもできないくせに、なんだかかわいい犬、芸当をさせようとすると、はずかしそうに横を向いてしまって、大きな目を細くする犬。どうしてぼくはあのだいじな友だちがいなくなったのを、今日《きょう》まで思い出さずにいたろうと思った。
 ぼくはさびしいばかりじゃない、くやしくなった。妹と弟にそういって、すぐポチをさがしはじめた。三人で手分けをして庭に出て、大きな声で「ポチ……ポチ……ポチ来《こ》いポチ来い」とよんで歩いた。官舎町《かんしゃまち》を一軒《いっけん》一軒《いっけん》聞いて歩いた。ポチが来てはいませんか。いません。どこかで見ませんでしたか。見ません。どこでもそういう返事だった。ぼくたちは腹もすかなくなってしまった。御飯だといって、女中がよびに来たけれども帰らなかった。茂木《もぎ》の別荘の方から、乞食《こじき》の人が住んでいる山の森の方へも行った。そして時々大きな声を出してポチの名をよんでみた。そして立ちどまって聞いていた。大急ぎで駆《か》けて来るポチの足音が聞こえやしないかと思って。けれどもポチのすがたも、足音も、鳴き声も聞こえては来なかった。
「ポチがいなくなってかわいそうねえ。殺されたんだわ。きっと」
 と妹は、さびしい山道に立ちすくんで泣きだしそうな声を出した。ほんとうにポチが殺されるかぬすまれでもしなければいなくなってしまうわけがないんだ。でもそんなことがあってたまるものか。あんなに強いポチが殺される気づかいはめったにないし、ぬすもうとする人が来たらかみつくに決まっている。どうしたんだろうなあ。いやになっちまうなあ。
 ……ぼくは腹がたってきた。そして妹にいってやった。
「もとはっていえばおまえが悪いんだよ。おまえがいつか、ポチなんかいやな犬、あっち行けっていったじゃないか」
「あら、それは冗談《じょうだん》にいったんだわ」
「冗談《じょうだん》だっていけないよ」
「それでポチがいなくなったんじゃないことよ」
「そうだい……そうだい。それじゃなぜいなくなったんだか知ってるかい……そうれ見ろ」
「あっちに行けっていったって、ポチはどこにも行きはしなかったわ」
「そうさ。それはそうさ……ポチだってどうしようかって考えていたんだい」
「でもにいさんだってポチをぶったことがあってよ」
「ぶちなんてしませんよだ」
「いいえ、ぶってよほんとうに」
「ぶったっていいやい……ぶったって」
 ポチがぼくのおもちゃをめちゃくちゃにこわしたから、ポチがきゃんきゃんというほどぶったことがあった。……それを妹にいわれたら、なんだかそれがもとでポチがいなくなったようにもなってきた。でもぼくはそう思うのはいやだった。どうしても妹が悪いんだと思った。妹がにくらしくなった。
「ぶったってぼくはあとでかわいがってやったよ」
「私だってかわいがってよ」
 妹が山の中でしくしく泣《な》きだした。そうしたら弟まで泣きだした。ぼくもいっしょに泣きたくなったけれども、くやしいからがまんしていた。
 なんだか山の中に三人きりでいるのが急にこわいように思えてきた。
 そこへ女中がぼくたちをさがしに来て、家ではぼくたちが見えなくなったので心配しているから早く帰れといった。女中を見たら妹も弟も急に声をはりあげて泣きだした。ぼくもとうとうむやみに悲しくなって泣きだした。女中に連れられて家に帰って来た。
「まああなたがたはどこをうろついていたんです、御飯も食べないで……そして三人ともそんなに泣いて……」
 とおかあさんはほんとうにおこったような声でいった。そしてにぎり飯を出してくれた。それを見たら急に腹がすいてきた。今まで泣いていて、すぐそれを食べるのはすこしはずかしかったけれども、すぐ食べはじめた。
 そこに、焼けあとで働いている人足《にんそく》が来て、ポチが見つかったと知らせてくれた。ぼくたちもだったけれども、おばあさまやおかあさんまで、大さわぎをして「どこにいました」とたずねた。
「ひどいけがをして物置きのかげにいました」
 と人足の人はいって、すぐぼくたちを連れていってくれた。ぼくはにぎり飯をほうり出して、手についてる御飯つぶを着物ではらい落としながら、大急ぎでその人のあとから駆《か》け出した。妹や弟も負けず劣《おと》らずついて来た。
 半焼けになった物置きが平べったくたおれている、その後ろに三、四人の人足がかがんでいた。ぼくたちをむかえに来てくれた人足はその仲間《なかま》の所にいって、「おい、ちょっとそこをどきな」といったらみんな立ち上がった。そこにポチがまるまって寝《ね》ていた。
 ぼくたちは夢中《むちゅう》になって「ポチ」とよびながら、ポチのところに行った。ポチは身動きもしなかった。ぼくたちはポチを一目見ておどろいてしまった。からだじゅうをやけどしたとみえて、ふさふさしている毛がところどころ狐色《きつねいろ》にこげて、どろがいっぱいこびりついていた。そして頭や足には血が真黒《まっくろ》になってこびりついていた。ポチだかどこの犬だかわからないほどきたなくなっていた。駆《か》けこんでいったぼくは思わずあとずさりした。ポチはぼくたちの来たのを知ると、すこし頭を上げて血走った目で悲しそうにぼくたちの方を見た。そして前足を動かして立とうとしたが、どうしても立てないで、そのままねころんでしまった。
「かわいそうに、落ちて来た材木で腰《こし》っ骨《ぽね》でもやられたんだろう」
「なにしろ一晩じゅうきゃんきゃんいって火のまわりを飛び歩いていたから、つかれもしたろうよ」
「見ろ、あすこからあんなに血が流れてらあ」
 人足たちが口々にそんなことをいった。ほんとうに血が出ていた。左のあと足のつけ根の所から血が流れて、それが地面までこぼれていた。
「いたわってやんねえ」
「おれゃいやだ」
 そんなことをいって、人足たちも看病《かんびょう》してやる人はいなかった。ぼくはなんだか気味が悪かった。けれどもあんまりかわいそうなので、こわごわ遠くから頭をなでてやったら、鼻の先をふるわしながら、目をつぶって頭をもち上げた。それを見たらぼくはきたないのも気味の悪いのもわすれてしまって、いきなりそのそばに行って頭をかかえるようにしてかわいがってやった。なぜこんなかわいい友だちを一度でもぶったろうと思って、もうポチがどんなことをしてもぶつなんて、そんなことはしまいと思った。ポチはおとなしく目をつぶったままでぼくの方に頭を寄せかけて来た。からだじゅうがぶるぶるふるえているのがわかった。
 妹や弟もポチのまわりに集まって来た。そのうちにおとうさんもおかあさんも来た。ぼくはおとうさんに手伝って、バケツで水を運んで来て、きれいな白いきれで静かにどろや血をあらい落としてやった。いたい所をあらってやる時には、ポチはそこに鼻先を持って来て、あらう手をおしのけようとした。
「よしよし静かにしていろ。今きれいにしてきずをなおしてやるからな」
 おとうさんが人間に物をいうようにやさしい声でこういったりした。おかあさんは人に知れないように泣《な》いていた。
 よくふざけるポチだったのにもうふざけるなんて、そんなことはちっともしなくなった。それがぼくにはかわいそうだった。からだをすっかりふいてやったおとうさんが、けががひどいから犬の医者をよんで来るといって出かけて行ったるすに、ぼくは妹たちに手伝ってもらって、藁《わら》で寝床《ねどこ》を作ってやった。そしてタオルでポチのからだをすっかりふいてやった。ポチを寝床の上に臥《ね》かしかえようとしたら、いたいとみえて、はじめてひどい声を出して鳴きながらかみつきそうにした。人夫たちも親切に世話してくれた。そして板きれでポチのまわりに囲いをしてくれた。冬だから、寒いから、毛がぬれているとずいぶん寒いだろうと思った。
 医者が来て薬をぬったり飲ませたりしてからは、人足たちもおかあさんも行ってしまった。弟も寒いからというのでおかあさんに連れて行かれてしまった。けれどもおとうさんとぼくと妹はポチのそばをはなれないで、じっとその様子《ようす》を見ていた。おかあさんが女中に牛乳《ぎゅうにゅう》で煮《に》たおかゆを持って来させた。ポチは喜んでそれを食べてしまった。火事の晩から三日の間ポチはなんにも食べずにしんぼうしていたんだもの、さぞおかゆがうまかったろう。
 ポチはじっとまるまってふるえながら目をつぶっていた。目がしらの所が涙《なみだ》でしじゅうぬれていた。そして時々細く目をあいてぼくたちをじっと見るとまたねむった。
 いつのまにか寒い寒い夕方がきた。おとうさんがもう大丈夫《だいじょうぶ》だから家にはいろうといったけれども、ぼくははいるのがいやだった。夜どおしでもポチといっしょにいてやりたかった。おとうさんはしかたなく寒い寒いといいながら一人で行ってしまった。
 ぼくと妹だけがあとに残った。あんまりよく睡《ね》るので死んではいないかと思って、小さな声で「ポチや」というとポチはめんどうくさそうに目を開いた。そしてすこしだけしっぽをふって見せた。
 とうとう夜になってしまった。夕御飯でもあるし、かぜをひくと大変だからといっておかあさんが無理にぼくたちを連れに来たので、ぼくと妹とはポチの頭をよくなでてやって家に帰った。
 次の朝、目をさますと、ぼくは着物も着かえないでポチの所に行って見た。おとうさんがポチのわきにしゃがんでいた。そして、「ポチは死んだよ」といった。ポチは死んでしまった。
 ポチのお墓《はか》は今でも、あの乞食《こじき》の人の住んでいた、森の中の寺の庭にあるかしらん。


 
底本:角川文庫『一房の葡萄』
   1952(昭和27)年3月10日初版発行
   1968(昭和43)年5月10日改版初版発行
   1990(平成2)年5月30日改版37版発行
入力:鈴木厚司
校正:八木正三
1998年5月25日公開
1999年8月19日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。


前のページに戻る 青空文庫アーカイブ