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或《あ》る女(後編)
有島武郎

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)或《あ》る女

|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)西洋|風《ふう》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、底本のページと行数)
(例)すっぽり[#「すっぽり」に傍点]
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    二二

 どこかから菊の香がかすかに通《かよ》って来たように思って葉子《ようこ》は快い眠りから目をさました。自分のそばには、倉地《くらち》が頭からすっぽり[#「すっぽり」に傍点]とふとんをかぶって、いびきも立てずに熟睡していた。料理屋を兼ねた旅館のに似合わしい華手《はで》な縮緬《ちりめん》の夜具の上にはもうだいぶ高くなったらしい秋の日の光が障子《しょうじ》越しにさしていた。葉子は往復一か月の余を船に乗り続けていたので、船脚《ふなあし》の揺《ゆ》らめきのなごりが残っていて、からだがふらりふらりと揺れるような感じを失ってはいなかったが、広い畳の間《ま》に大きな軟《やわ》らかい夜具をのべて、五体を思うまま延ばして、一晩ゆっくり[#「ゆっくり」に傍点]と眠り通したその心地《ここち》よさは格別だった。仰向けになって、寒からぬ程度に暖まった空気の中に両手を二の腕までむき出しにして、軟らかい髪の毛に快い触覚を感じながら、何を思うともなく天井の木目《もくめ》を見やっているのも、珍しい事のように快かった。
 やや小半時《こはんとき》もそうしたままでいると、帳場でぼんぼん時計が九時を打った。三階にいるのだけれどもその音はほがらかにかわいた空気を伝って葉子の部屋《へや》まで響いて来た。と、倉地がいきなり[#「いきなり」に傍点]夜具をはねのけて床の上に上体を立てて目をこすった。
 「九時だな今打ったのは」
 と陸で聞くとおかしいほど大きな塩がれ声でいった。どれほど熟睡していても、時間には鋭敏な船員らしい倉地の様子がなんの事はなく葉子をほほえました。
 倉地が立つと、葉子も床を出た。そしてそのへんを片づけたり、煙草《たばこ》を吸ったりしている間に(葉子は船の中で煙草を吸う事を覚えてしまったのだった)倉地は手早く顔を洗って部屋《へや》に帰って来た。そして制服に着かえ始めた。葉子はいそいそとそれを手伝った。倉地特有な西洋|風《ふう》に甘ったるいような一種のにおいがそのからだにも服にもまつわっていた。それが不思議にいつでも葉子の心をときめかした。
 「もう飯《めし》を食っとる暇はない。またしばらく忙《せわ》しいで木《こ》っ葉《ぱ》みじんだ。今夜はおそいかもしれんよ。おれたちには天長節《てんちょうせつ》も何もあったもんじゃない」
 そういわれてみると葉子はきょうが天長節なのを思い出した。葉子の心はなおなお寛濶《かんかつ》になった。
 倉地が部屋を出ると葉子は縁側に出て手欄《てすり》から下をのぞいて見た。両側に桜並み木のずっ[#「ずっ」に傍点]とならんだ紅葉坂《もみじざか》は急|勾配《こうばい》をなして海岸のほうに傾いている、そこを倉地の紺羅紗《こんらしゃ》の姿が勢いよく歩いて行くのが見えた。半分がた散り尽くした桜の葉は真紅《しんく》に紅葉して、軒並みに掲げられた日章旗が、風のない空気の中にあざやかにならんでいた。その間に英国の国旗が一本まじってながめられるのも開港場らしい風情《ふぜい》を添えていた。
 遠く海のほうを見ると税関の桟橋に繋《もや》われた四|艘《そう》ほどの汽船の中に、葉子が乗って帰った絵島丸《えじままる》もまじっていた。まっさおに澄みわたった海に対してきょうの祭日を祝賀するために檣《マスト》から檣にかけわたされた小旌《こばた》がおもちゃのようにながめられた。
 葉子は長い航海の始終《しじゅう》を一場の夢のように思いやった。その長旅の間に、自分の一身に起こった大きな変化も自分の事のようではなかった。葉子は何がなしに希望に燃えた活々《いきいき》した心で手欄《てすり》を離れた。部屋には小ざっぱり[#「小ざっぱり」に傍点]と身じたくをした女中《じょちゅう》が来て寝床をあげていた。一|間《けん》半の大床《おおとこ》の間《ま》に飾られた大|花活《はない》けには、菊の花が一抱《ひとかか》え分もいけられていて、空気が動くたびごとに仙人《せんにん》じみた香を漂わした。その香をかぐと、ともするとまだ外国にいるのではないかと思われるような旅心が一気にくだけて、自分はもう確かに日本の土の上にいるのだという事がしっかり[#「しっかり」に傍点]思わされた。
 「いいお日和《ひより》ね。今夜あたりは忙しんでしょう」
 と葉子は朝飯の膳《ぜん》に向かいながら女中にいってみた。
 「はい今夜は御宴会が二つばかりございましてね。でも浜の方《かた》でも外務省の夜会にいらっしゃる方もございますから、たんと込み合いはいたしますまいけれども」
 そう応《こた》えながら女中は、昨晩おそく着いて来た、ちょっと得体《えたい》の知れないこの美しい婦人の素性《すじょう》を探ろうとするように注意深い目をやった。葉子は葉子で「浜」という言葉などから、横浜という土地を形にして見るような気持ちがした。
 短くなってはいても、なんにもする事なしに一日を暮らすかと思えば、その秋の一日の長さが葉子にはひどく気になり出した。明後日東京に帰るまでの間に、買い物でも見て歩きたいのだけれども、土産物《みやげもの》は木村が例の銀行切手をくずしてあり余るほど買って持たしてよこしたし、手もとには哀れなほどより金は残っていなかった。ちょっとでもじっ[#「じっ」に傍点]としていられない葉子は、日本で着ようとは思わなかったので、西洋向きに注文した華手《はで》すぎるような綿入れに手を通しながら、とつ追いつ考えた。
 「そうだ古藤《ことう》に電話でもかけてみてやろう」
 葉子はこれはいい思案だと思った。東京のほうで親類たちがどんな心持ちで自分を迎えようとしているか、古藤のような男に今度の事がどう響いているだろうか、これは単に慰みばかりではない、知っておかなければならない大事な事だった。そう葉子は思った。そして女中を呼んで東京に電話をつなぐように頼んだ。
 祭日であったせいか電話は思いのほか早くつながった。葉子は少しいたずららしい微笑を笑窪《えくぼ》のはいるその美しい顔に軽く浮かべながら、階段を足早に降りて行った。今ごろになってようやく床を離れたらしい男女の客がしどけないふうをして廊下のここかしこで葉子とすれ違った。葉子はそれらの人々には目もくれずに帳場に行って電話室に飛び込むとぴっしり[#「ぴっしり」に傍点]と戸をしめてしまった。そして受話器を手に取るが早いか、電話に口を寄せて、
 「あなた義一さん? あゝそう。義一さんそれは滑稽《こっけい》なのよ」
 とひとりで[#「ひとりで」に傍点]にすらすらといってしまってわれながら葉子ははっ[#「はっ」に傍点]と思った。その時の浮き浮きした軽い心持ちからいうと、葉子にはそういうより以上に自然な言葉はなかったのだけれども、それではあまりに自分というものを明白にさらけ出していたのに気が付いたのだ。古藤は案のじょう答え渋っているらしかった。とみには返事もしないで、ちゃん[#「ちゃん」に傍点]と聞こえているらしいのに、ただ「なんです?」と聞き返して来た。葉子にはすぐ東京の様子を飲み込んだように思った。
 「そんな事どうでもよござんすわ。あなたお丈夫でしたの」
 といってみると「えゝ」とだけすげない返事が、機械を通してであるだけにことさらすげなく響いて来た。そして今度は古藤のほうから、
 「木村……木村君はどうしています。あなた会ったんですか」
 とはっきり[#「はっきり」に傍点]聞こえて来た。葉子はすかさず、
 「はあ会いましてよ。相変わらず丈夫でいます。ありがとう。けれどもほんとうにかわいそうでしたの。義一さん……聞こえますか。明後日《あさって》私東京に帰りますわ。もう叔母《おば》の所には行けませんからね、あすこには行きたくありませんから……あのね、透矢町《すきやちょう》のね、双鶴館《そうかくかん》……つがいの鶴《つる》……そう、おわかりになって?……双鶴館に行きますから……あなた来てくだされる?……でもぜひ聞いていただかなければならない事があるんですから……よくって?……そうぜひどうぞ。明々後日《しあさって》の朝? ありがとうきっと[#「きっと」に傍点]お待ち申していますからぜひですのよ」
 葉子がそういっている間、古藤の言葉はしまいまで奥歯に物のはさまったように重かった。そしてややともすると葉子との会見を拒もうとする様子が見えた。もし葉子の銀のように澄んだ涼しい声が、古藤を選んで哀訴するらしく響かなかったら、古藤は葉子のいう事を聞いてはいなかったかもしれないと思われるほどだった。
 朝から何事も忘れたように快かった葉子の気持ちはこの電話一つのために妙にこじれてしまった。東京に帰れば今度こそはなかなか容易ならざる反抗が待ちうけているとは十二|分《ぶん》に覚悟して、その備えをしておいたつもりではいたけれども、古藤の口うらから考えてみると面とぶつかった実際は空想していたよりも重大であるのを思わずにはいられなかった。葉子は電話室を出るとけさ始めて顔を合わした内儀《おかみ》に帳場|格子《ごうし》の中から挨拶《あいさつ》されて、部屋《へや》にも伺いに来ないでなれなれしく言葉をかけるその仕打ちにまで不快を感じながら、匆々《そうそう》三階に引き上げた。
 それからはもうほんとうになんにもする事がなかった。ただ倉地の帰って来るのばかりがいらいらするほど待ちに待たれた。品川台場《しながわだいば》沖あたりで打ち出す祝砲がかすかに腹にこたえるように響いて、子供らは往来でそのころしきりにはやった南京花火《なんきんはなび》をぱち[#「ぱち」に傍点]ぱちと鳴らしていた。天気がいいので女中たちははしゃぎ[#「はしゃぎ」に傍点]きった冗談などを言い言いあらゆる部屋《へや》を明け放して、仰山《ぎょうさん》らしくはたきや箒《ほうき》の音を立てた。そしてただ一人《ひとり》この旅館では居残っているらしい葉子の部屋を掃除《そうじ》せずに、いきなり[#「いきなり」に傍点]縁側にぞうきんをかけたりした。それが出て行けがしの仕打ちのように葉子には思えば思われた。
 「どこか掃除の済んだ部屋があるんでしょう。しばらくそこを貸してくださいな。そしてここもきれいにしてちょうだい。部屋の掃除もしないでぞうきんがけなぞしたってなんにもなりはしないわ」
 と少し剣《けん》を持たせていってやると、けさ来たのとは違う、横浜生まれらしい、悪《わる》ずれのした中年の女中は、始めて縁側から立ち上がって小めんどうそうに葉子を畳廊下一つを隔てた隣の部屋に案内した。
 けさまで客がいたらしく、掃除は済んでいたけれども、火鉢《ひばち》だの、炭取りだの、古い新聞だのが、部屋のすみにはまだ置いたままになっていた。あけ放した障子からかわいた暖かい光線が畳の表三|分《ぶ》ほどまでさしこんでいる、そこに膝《ひざ》を横くずしにすわりながら、葉子は目を細めてまぶしい光線を避けつつ、自分の部屋を片づけている女中の気配《けはい》に用心の気を配った。どんな所にいても大事な金目《かねめ》なものをくだらないものと一緒にほうり出しておくのが葉子の癖だった。葉子はそこにいかにも伊達《だて》で寛濶《かんかつ》な心を見せているようだったが、同時に下らない女中ずれが出来心でも起こしはしないかと思うと、細心に監視するのも忘れはしなかった。こうして隣の部屋に気を配っていながらも、葉子は部屋のすみにきちょうめんに折りたたんである新聞を見ると、日本に帰ってからまだ新聞というものに目を通さなかったのを思い出して、手に取り上げて見た。テレビン油のような香《にお》いがぷんぷんするのでそれがきょうの新聞である事がすぐ察せられた。はたして第一面には「聖寿万歳」と肉太《にくぶと》に書かれた見出しの下に貴顕の肖像が掲げられてあった。葉子は一か月の余も遠のいていた新聞紙を物珍しいものに思ってざっと目をとおし始めた。
 一面にはその年の六月に伊藤《いとう》内閣と交迭してできた桂《かつら》内閣に対していろいろな注文を提出した論文が掲げられて、海外通信にはシナ領土内における日露《にちろ》の経済的関係を説いたチリコフ伯の演説の梗概《こうがい》などが見えていた。二面には富口《とみぐち》という文学博士が「最近日本におけるいわゆる婦人の覚醒《かくせい》」という続き物の論文を載せていた。福田《ふくだ》という女の社会主義者の事や、歌人として知られた与謝野晶子《よさのあきこ》女史の事などの名が現われているのを葉子は注意した。しかし今の葉子にはそれが不思議に自分とはかけ離れた事のように見えた。
 三面に来ると四号活字で書かれた木部孤※[#「※」は「たけかんむりにエにふしづくり」、11-16]《きべこきょう》という字が目に着いたので思わずそこを読んで見る葉子はあっ[#「あっ」に傍点]と驚かされてしまった。
  ○某大汽船会社船中の大怪事
    事務長と婦人船客との道ならぬ恋――
    船客は木部孤※[#「※」は「たけかんむりにエにふしづくり」、12-2]の先妻
 こういう大業《おおぎょう》な標題がまず葉子の目を小痛《こいた》く射つけた。
[#ここから1字下げ]
 「本邦にて最も重要なる位置にある某汽船会社の所有船○○丸の事務長は、先ごろ米国航路に勤務中、かつて木部孤※[#「※」は「たけかんむりにエにふしづくり」、12-5]に嫁《か》してほどもなく姿を晦《くら》ましたる莫連《ばくれん》女某が一等船客として乗り込みいたるをそそのかし、その女を米国に上陸せしめずひそかに連れ帰りたる怪事実あり。しかも某女といえるは米国に先行せる婚約の夫《おっと》まである身分のものなり。船客に対して最も重き責任を担《にな》うべき事務長にかかる不埒《ふらち》の挙動ありしは、事務長一個の失態のみならず、その汽船会社の体面にも影響する由々《ゆゆ》しき大事なり。事の仔細《しさい》はもれなく本紙の探知したる所なれども、改悛《かいしゅん》の余地を与えんため、しばらく発表を見合わせおくべし。もしある期間を過ぎても、両人の醜行改まる模様なき時は、本紙は容赦なく詳細の記事を掲げて畜生道《ちくしょうどう》に陥りたる二人《ふたり》を懲戒し、併《あわ》せて汽船会社の責任を問う事とすべし。読者請う刮目《かつもく》してその時を待て」
[#ここで字下げ終わり]
 葉子は下くちびるをかみしめながらこの記事を読んだ。いったい何新聞だろうと、その時まで気にも留めないでいた第一面を繰り戻《もど》して見ると、麗々《れいれい》と「報正新報」と書してあった。それを知ると葉子の全身は怒りのために爪《つめ》の先まで青白くなって、抑《おさ》えつけても抑えつけてもぶるぶると震え出した。「報正新報」といえば田川《たがわ》法学博士の機関新聞だ。その新聞にこんな記事が現われるのは意外でもあり当然でもあった。田川夫人という女はどこまで執念《しゅうね》く卑しい女なのだろう。田川夫人からの通信に違いないのだ。「報正新報」はこの通信を受けると、報道の先鞭《せんべん》をつけておくためと、読者の好奇心をあおるためとに、いち早くあれだけの記事を載せて、田川夫人からさらにくわしい消息の来るのを待っているのだろう。葉子は鋭くもこう推《すい》した。もしこれがほかの新聞であったら、倉地の一身上の危機でもあるのだから、葉子はどんな秘密な運動をしても、この上の記事の発表はもみ消さなければならないと胸を定めたに相違なかったけれども、田川夫人が悪意をこめてさせている仕事だとして見ると、どの道《みち》書かずにはおくまいと思われた。郵船会社のほうで高圧的な交渉でもすればとにかく、そのほかには道がない。くれぐれも憎い女は田川夫人だ……こういちずに思いめぐらすと葉子は船の中での屈辱を今さらにまざまざと心に浮かべた。
 「お掃除《そうじ》ができました」
 そう襖越《ふすまご》しにいいながらさっきの女中は顔も見せずにさっさ[#「さっさ」に傍点]と階下《した》に降りて行ってしまった。葉子は結局それを気安い事にして、その新聞を持ったまま、自分の部屋《へや》に帰った。どこを掃除したのだと思われるような掃除のしかたで、はたきまでが違《ちが》い棚《だな》の下におき忘られていた。過敏にきちょうめんできれい好きな葉子はもうたまらなかった。自分でてきぱき[#「てきぱき」に傍点]とそこいらを片づけて置いて、パラソルと手携《てさ》げを取り上げるが否やその宿を出た。
 往来に出るとその旅館の女中が四五人早じまいをして昼間《ひるま》の中を野毛山《のげやま》の大神宮のほうにでも散歩に行くらしい後ろ姿を見た。そそくさ[#「そそくさ」に傍点]と朝の掃除を急いだ女中たちの心も葉子には読めた。葉子はその女たちを見送るとなんという事なしにさびしく思った。
 帯の間にはさんだままにしておいた新聞の切り抜きが胸を焼くようだった。葉子は歩き歩きそれを引き出して手携《てさ》げにしまいかえた。旅館は出たがどこに行こうというあて[#「あて」に傍点]もなかった葉子はうつむいて紅葉坂《もみじざか》をおりながら、さしもしないパラソルの石突きで霜解《しもどけ》けになった土を一足《ひとあし》一足突きさして歩いて行った。いつのまにかじめじめした薄《うす》ぎたない狭い通りに来たと思うと、はしなくもいつか古藤と一緒に上がった相模屋《さがみや》の前を通っているのだった。「相模屋」と古めかしい字体で書いた置《お》き行燈《あんどん》の紙までがその時のままですすけていた。葉子は見覚えられているのを恐れるように足早にその前を通りぬけた。
 停車場前はすぐそこだった。もう十二時近い秋の日ははなやかに照り満ちて、思ったより数多い群衆が運河にかけ渡したいくつかの橋をにぎやかに往来していた。葉子は自分|一人《ひとり》がみんなから振り向いて見られるように思いなした。それがあたりまえの時ならば、どれほど多くの人にじろじろと見られようとも度を失うような葉子ではなかったけれども、たった今いまいましい新聞の記事を見た葉子ではあり、いかにも西洋じみた野暮《やぼ》くさい綿入《わたい》れを着ている葉子であった。服装に塵《ちり》ほどでも批点の打ちどころがあると気がひけてならない葉子としては、旅館を出て来たのが悲しいほど後悔された。
 葉子はとうとう税関|波止場《はとば》の入り口まで来てしまった。その入り口の小さな煉瓦《れんが》造りの事務所には、年の若い監視補たちが二重金ぼたんの背広に、海軍帽をかぶって事務を取っていたが、そこに近づく葉子の様子を見ると、きのう上陸した時から葉子を見知っているかのように、その飛び放れて華手《はで》造りな姿に目を定めるらしかった。物好きなその人たちは早くも新聞の記事を見て問題となっている女が自分に違いないと目星をつけているのではあるまいかと葉子は何事につけても愚痴っぽくひけ目になる自分を見いだした。葉子はしかしそうしたふうに見つめられながらもそこを立ち去る事ができなかった。もしや倉地が昼飯でも食べにあの大きな五体を重々しく動かしながら船のほうから出て来はしないかと心待ちがされたからだ。
 葉子はそろそろと海洋通りをグランド・ホテルのほうに歩いてみた。倉地が出て来れば、倉地のほうでも自分を見つけるだろうし、自分のほうでも後ろに目はないながら、出て来たのを感づいてみせるという自信を持ちながら、後ろも振り向かずにだんだん波止場から遠ざかった。海ぞいに立て連ねた石杭《いしぐい》をつなぐ頑丈《がんじょう》な鉄鎖には、西洋人の子供たちが犢《こうし》ほどな洋犬やあま[#「あま」に傍点]に付き添われて事もなげに遊び戯れていた。そして葉子を見ると心安立《こころやすだ》てに無邪気にほほえんで見せたりした。小さなかわいい子供を見るとどんな時どんな場合でも、葉子は定子《さだこ》を思い出して、胸がしめつけられるようになって、すぐ涙ぐむのだった。この場合はことさらそうだった。見ていられないほどそれらの子供たちは悲しい姿に葉子の目に映った。葉子はそこから避けるように足を返してまた税関のほうに歩み近づいた。監視課の事務所の前を来たり往《い》ったりする人数は絡繹《らくえき》として絶えなかったが、その中に事務長らしい姿はさらに見えなかった。葉子は絵島丸まで行って見る勇気もなく、そこを幾度もあちこちして監視補たちの目にかかるのもうるさかったので、すごすごと税関の表門を県庁のほうに引き返した。

    二三

 その夕方倉地がほこりにまぶれ汗にまぶれて紅葉坂をすたすたと登って帰って来るまでも葉子は旅館の閾《しきい》をまたがずに桜の並み木の下などを徘徊《はいかい》して待っていた。さすがに十一月となると夕暮れを催した空は見る見る薄寒くなって風さえ吹き出している。一日の行楽に遊び疲れたらしい人の群れにまじってふきげんそうに顔をしかめた倉地は真向《まっこう》に坂の頂上を見つめながら近づいて来た。それを見やると葉子は一時に力を回復したようになって、すぐ跳《おど》り出して来るいたずら心のままに、一本の桜の木を楯《たて》に倉地をやり過ごしておいて、後ろから静かに近づいて手と手とが触れ合わんばかりに押しならんだ。倉地はさすがに不意をくってまじまじと寒さのために少し涙ぐんで見える大きな涼しい葉子の目を見やりながら、「どこからわいて出たんだ」といわんばかりの顔つきをした。一つ船の中に朝となく夜となく一緒になって寝起きしていたものを、きょう始めて半日の余も顔を見合わさずに過ごして来たのが思った以上に物さびしく、同時にこんな所で思いもかけず出あったが予想のほかに満足であったらしい倉地の顔つきを見て取ると、葉子は何もかも忘れてただうれしかった。そのまっ黒によごれた手をいきなり引っつかんで熱い口びるでかみしめて労《いたわ》ってやりたいほどだった。しかし思いのままに寄り添う事すらできない大道《だいどう》であるのをどうしよう。葉子はその切《せつ》ない心を拗《す》ねて見せるよりほかなかった。
 「わたしもうあの宿屋には泊まりませんわ。人をばかにしているんですもの。あなたお帰りになるなら勝手にひとりでいらっしゃい」
 「どうして……」
 といいながら倉地は当惑したように往来に立ち止まってしげしげと葉子を見なおすようにした。
 「これじゃ(といってほこりにまみれた両手をひろげ襟頸《えりくび》を抜き出すように延ばして見せて渋い顔をしながら)どこにも行けやせんわな」
 「だからあなたはお帰りなさいましといってるじゃありませんか」
 そう冒頭《まえおき》をして葉子は倉地と押し並んでそろそろ歩きながら、女将《おかみ》の仕打ちから、女中のふしだら[#「ふしだら」に傍点]まで尾鰭《おひれ》をつけて讒訴《いいつ》けて、早く双鶴館《そうかくかん》に移って行きたいとせがみにせがんだ。倉地は何か思案するらしくそっぽ[#「そっぽ」に傍点]を見い見い耳を傾けていたが、やがて旅館に近くなったころもう一度立ち止まって、
 「きょう双鶴館《あそこ》から電話で部屋《へや》の都合を知らしてよこす事になっていたがお前聞いたか……(葉子はそういいつけられながら今まですっかり[#「すっかり」に傍点]忘れていたのを思い出して、少しくてれたように首を振った)……ええわ、じゃ電報を打ってから先に行くがいい。わしは荷物をして今夜あとから行くで」
 そういわれてみると葉子はまた一人《ひとり》だけ先に行くのがいやでもあった。といって荷物の始末には二人《ふたり》のうちどちらか一人居残らねばならない。
 「どうせ二人一緒に汽車に乗るわけにも行くまい」
 倉地がこういい足した時葉子は危うく、ではきょうの「報正新報」を見たかといおうとするところだったが、はっ[#「はっ」に傍点]と思い返して喉《のど》の所で抑《おさ》えてしまった。
 「なんだ」
 倉地は見かけのわりに恐ろしいほど敏捷《びんしょう》に働く心で、顔にも現わさない葉子の躊躇《ちゅうちょ》を見て取ったらしくこうなじるように尋ねたが、葉子がなんでもないと応《こた》えると、少しも拘泥《こうでい》せずに、それ以上問い詰めようとはしなかった。
 どうしても旅館に帰るのがいやだったので、非常な物足らなさを感じながら、葉子はそのままそこから倉地に別れる事にした。倉地は力のこもった目で葉子をじっ[#「じっ」に傍点]と見てちょっとうなずくとあとをも見ないでどんどんと旅館のほうに濶歩《かっぽ》して行った。葉子は残り惜しくその後ろ姿を見送っていたが、それになんという事もない軽い誇りを感じてかすかにほほえみながら、倉地が登って来た坂道を一人《ひとり》で降りて行った。
 停車場に着いたころにはもう瓦斯《ガス》の灯《ひ》がそこらにともっていた。葉子は知った人にあうのを極端に恐れ避けながら、汽車の出るすぐ前まで停車場前の茶店の一間《ひとま》に隠れていて一等室に飛び乗った。だだっ広《ぴろ》いその客車には外務省の夜会に行くらしい三人の外国人が銘々、デコルテーを着飾った婦人を介抱して乗っているだけだった。いつものとおりその人たちは不思議に人をひきつける葉子の姿に目をそばだてた。けれども葉子はもう左手の小指を器用に折り曲げて、左の鬢《びん》のほつれ毛を美しくかき上げるあの嬌態《しな》をして見せる気はなくなっていた。室《へや》のすみに腰かけて、手携《てさ》げとパラソルとを膝《ひざ》に引きつけながら、たった一人その部屋《へや》の中にいるもののように鷹揚《おうよう》に構えていた。偶然顔を見合わせても、葉子は張りのあるその目を無邪気に(ほんとうにそれは罪を知らない十六七の乙女《おとめ》の目のように無邪気だった)大きく見開いて相手の視線をはにかみもせず迎えるばかりだった。先方の人たちの年齢がどのくらいで容貌《ようぼう》がどんなふうだなどという事も葉子は少しも注意してはいなかった。その心の中にはただ倉地の姿ばかりがいろいろに描かれたり消されたりしていた。
 列車が新橋《しんばし》に着くと葉子はしとやか[#「しとやか」に傍点]に車を出たが、ちょうどそこに、唐桟《とうざん》に角帯《かくおび》を締めた、箱丁《はこや》とでもいえばいえそうな、気のきいた若い者が電報を片手に持って、目ざとく葉子に近づいた。それが双鶴館《そうかくかん》からの出迎えだった。
 横浜にも増して見るものにつけて連想の群がり起こる光景、それから来る強い刺激……葉子は宿から回された人力車《じんりきしゃ》の上から銀座《ぎんざ》通りの夜のありさまを見やりながら、危うく幾度も泣き出そうとした。定子の住む同じ土地に帰って来たと思うだけでももう胸はわくわくした。愛子《あいこ》も貞世《さだよ》もどんな恐ろしい期待に震えながら自分の帰るのを待ちわびているだろう。あの叔父叔母《おじおば》がどんな激しい言葉で自分をこの二人《ふたり》の妹に描いて見せているか。構うものか。なんとでもいうがいい。自分はどうあっても二人を自分の手に取り戻《もど》してみせる。こうと思い定めた上は指もささせはしないから見ているがいい。……ふと人力車が尾張町《おわりちょう》のかどを左に曲がると暗い細い通りになった。葉子は目ざす旅館が近づいたのを知った。その旅館というのは、倉地が色ざたでなくひいきにしていた芸者がある財産家に落籍《ひか》されて開いた店だというので、倉地からあらかじめかけ合っておいたのだった。人力車がその店に近づくに従って葉子はその女将《おかみ》というのにふとした懸念を持ち始めた。未知の女同志が出あう前に感ずる一種の軽い敵愾心《てきがいしん》が葉子の心をしばらくは余の事柄《ことがら》から切り放した。葉子は車の中で衣紋《えもん》を気にしたり、束髪《そくはつ》の形を直したりした。
 昔の煉瓦建《れんがだ》てをそのまま改造したと思われる漆喰《しっくい》塗りの頑丈《がんじょう》な、角《かど》地面の一構えに来て、煌々《こうこう》と明るい入り口の前に車夫が梶棒《かじぼう》を降ろすと、そこにはもう二三人の女の人たちが走り出て待ち構えていた。葉子は裾前《すそまえ》をかばいながら車から降りて、そこに立ちならんだ人たちの中からすぐ女将《おかみ》を見分ける事ができた。背たけが思いきって低く、顔形も整ってはいないが、三十女らしく分別《ふんべつ》の備わった、きかん[#「きかん」に傍点]気らしい、垢《あか》ぬけのした人がそれに違いないと思った。葉子は思い設けた以上の好意をすぐその人に対して持つ事ができたので、ことさら快い親しみを持ち前の愛嬌《あいきょう》に添えながら、挨拶《あいさつ》をしようとすると、その人は事もなげにそれをさえぎって、
 「いずれ御挨拶は後ほど、さぞお寒うございましてしょう。お二階へどうぞ」
 といって自分から先に立った。居合わせた女中たちは目はし[#「はし」に傍点]をきかしていろいろと世話に立った。入り口の突き当たりの壁には大きなぼん[#「ぼん」に傍点]ぼん時計が一つかかっているだけでなんにもなかった。その右手の頑丈《がんじょう》な踏み心地《ごこち》のいい階子段《はしごだん》をのぼりつめると、他の部屋《へや》から廊下で切り放されて、十六畳と八畳と六畳との部屋が鍵形《かぎがた》に続いていた。塵《ちり》一つすえずにきちん[#「きちん」に傍点]と掃除《そうじ》が届いていて、三か所に置かれた鉄びんから立つ湯気《ゆげ》で部屋の中は軟《やわ》らかく暖まっていた。
 「お座敷へと申すところですが、御気《ごき》さくにこちらでおくつろぎくださいまし……三間《みま》ともとってはございますが」
 そういいながら女将《おかみ》は長火鉢《ながひばち》の置いてある六畳の間《ま》へと案内した。
 そこにすわってひととおりの挨拶を言葉少なに済ますと、女将は葉子の心を知り抜いているように、女中を連れて階下に降りて行ってしまった。葉子はほんとうにしばらくなりとも一人《ひとり》になってみたかったのだった。軽い暖かさを感ずるままに重い縮緬《ちりめん》の羽織《はおり》を脱ぎ捨てて、ありたけの懐中物を帯の間から取り出して見ると、凝りがちな肩も、重苦しく感じた胸もすがすがしくなって、かなり強い疲れを一時に感じながら、猫板《ねこいた》の上に肘《ひじ》を持たせて居ずまいをくずしてもたれかかった。古びを帯びた蘆屋釜《あしやがま》から鳴りを立てて白く湯気の立つのも、きれいにかきならされた灰の中に、堅そうな桜炭の火が白い被衣《かつぎ》の下でほんのり[#「ほんのり」に傍点]と赤らんでいるのも、精巧な用箪笥《ようだんす》のはめ込まれた一|間《けん》の壁に続いた器用な三尺床に、白菊をさした唐津焼《からつや》きの釣《つ》り花活《はない》けがあるのも、かすかにたきこめられた沈香《じんこう》のにおいも、目のつんだ杉柾《すぎまさ》の天井板も、細《ほ》っそりと磨《みが》きのかかった皮付きの柱も、葉子に取っては――重い、硬《こわ》い、堅い船室からようやく解放されて来た葉子に取ってはなつかしくばかりながめられた。こここそは屈強の避難所だというように葉子はつくづくあたりを見回した。そして部屋《へや》のすみにある生漆《きうるし》を塗った桑の広蓋《ひろぶた》を引き寄せて、それに手携《てさ》げや懐中物を入れ終わると、飽く事もなくその縁《ふち》から底にかけての円味《まるみ》を持った微妙な手ざわりを愛《め》で慈《いつく》しんだ。
 場所がらとてそこここからこの界隈《かいわい》に特有な楽器の声が聞こえて来た。天長節であるだけにきょうはことさらそれがにぎやかなのかもしれない。戸外にはぽくり[#「ぽくり」に傍点]やあずま下駄《げた》の音が少し冴《さ》えて絶えずしていた。着飾《きかざ》った芸者たちがみがき上げた顔をびりびりするような夜寒《よさむ》に惜しげもなく伝法《でんぽう》にさらして、さすがに寒気《かんき》に足を早めながら、招《よ》ばれた所に繰り出して行くその様子が、まざまざと履《は》き物《もの》の音を聞いたばかりで葉子の想像には描かれるのだった。合い乗りらしい人力車のわだちの音も威勢よく響いて来た。葉子はもう一度これは屈強な避難所に来たものだと思った。この界隈《かいわい》では葉子は眦《まなじり》を反《かえ》して人から見られる事はあるまい。
 珍しくあっさり[#「あっさり」に傍点]した、魚の鮮《あたら》しい夕食を済ますと葉子は風呂《ふろ》をつかって、思い存分髪を洗った。足《た》しない船の中の淡水では洗っても洗ってもねち[#「ねち」に傍点]ねちと垢《あか》の取り切れなかったものが、さわれば手が切れるほどさば[#「さば」に傍点]さばと油が抜けて、葉子は頭の中まで軽くなるように思った。そこに女将《おかみ》も食事を終えて話相手になりに来た。
 「たいへんお遅《おそ》うございますこと、今夜のうちにお帰りになるでしょうか」
 そう女将《おかみ》は葉子の思っている事を魁《さきが》けにいった。「さあ」と葉子もはっきり[#「はっきり」に傍点]しない返事をしたが、小寒《こさむ》くなって来たので浴衣《ゆかた》を着かえようとすると、そこに袖《そで》だたみにしてある自分の着物につくづく愛想《あいそ》が尽きてしまった。このへんの女中に対してもそんなしつっこい[#「しつっこい」に傍点]けばけばしい柄《がら》の着物は二度と着る気にはなれなかった。そうなると葉子はしゃにむにそれがたまらなくなって来るのだ。葉子はうんざり[#「うんざり」に傍点]した様子をして自分の着物から女将《おかみ》に目をやりながら、
 「見てくださいこれを。この冬は米国にいるのだとばかり決めていたので、あんなものを作ってみたんですけれども、我慢にももう着ていられなくなりましたわ。後生《ごしょう》。あなたの所に何かふだん着《ぎ》のあいたのでもないでしょうか」
 「どうしてあなた。わたしはこれでござんすもの」
 と女将《おかみ》は剽軽《ひょうきん》にも気軽くちゃん[#「ちゃん」に傍点]と立ち上がって自分の背たけの低さを見せた。そうして立ったままでしばらく考えていたが、踊りで仕込み抜いたような手つきではた[#「はた」に傍点]と膝《ひざ》の上をたたいて、
 「ようございます。わたし一つ倉地さんをびっくら[#「びっくら」に傍点]さして上げますわ。わたしの妹|分《ぶん》に当たるのに柄といい年格好といい、失礼ながらあなた様とそっくり[#「そっくり」に傍点]なのがいますから、それのを取り寄せてみましょう。あなた様は洗い髪でいらっしゃるなり……いかが、わたしがすっかり[#「すっかり」に傍点]仕立てて差し上げますわ」
 この思い付きは葉子には強い誘惑だった。葉子は一も二もなく勇み立って承知した。
 その晩十一時を過ぎたころに、まとめた荷物を人力車四台に積み乗せて、倉地が双鶴館《そうかくかん》に着いて来た。葉子は女将《おかみ》の入れ知恵でわざと玄関には出迎えなかった。葉子はいたずら者らしくひとり笑いをしながら立《た》て膝《ひざ》をしてみたが、それには自分ながら気がひけたので、右足を左の腿《もも》の上に積み乗せるようにしてその足先をとんび[#「とんび」に傍点]にしてすわってみた。ちょうどそこにかなり酔ったらしい様子で、倉地が女将《おかみ》の案内も待たずにずしん[#「ずしん」に傍点]ずしんという足どりではいって来た。葉子と顔を見合わした瞬間には部屋《へや》を間違えたと思ったらしく、少しあわてて身を引こうとしたが、すぐ櫛巻《くしま》きにして黒襟《くろえり》をかけたその女が葉子だったのに気が付くと、いつもの渋いように顔をくずして笑いながら、
 「なんだばかをしくさって」
 とほざくようにいって、長火鉢《ながひばち》の向かい座にどっか[#「どっか」に傍点]とあぐらをかいた。ついて来た女将《おかみ》は立ったまましばらく二人《ふたり》を見くらべていたが、
 「ようよう……変てこなお内裏雛様《だいりびなさま》」
 と陽気にかけ声をして笑いこけるようにぺちゃん[#「ぺちゃん」に傍点]とそこにすわり込んだ。三人は声を立てて笑った。
 と、女将《おかみ》は急にまじめに返って倉地に向かい、
 「こちらはきょうの報正新報を……」
 といいかけるのを、葉子はすばやく目でさえぎった。女将はあぶない土端場《どたんば》で踏みとどまった。倉地は酔眼を女将に向けながら、
 「何」
 と尻《しり》上がりに問い返した。
 「そう早耳を走らすとつんぼと間違えられますとさ」
 と女将《おかみ》は事もなげに受け流した。三人はまた声を立てて笑った。
 倉地と女将との間に一別以来のうわさ話がしばらくの間《あいだ》取りかわされてから、今度は倉地がまじめになった。そして葉子に向かってぶっきらぼう[#「ぶっきらぼう」に傍点]に、
 「お前もう寝ろ」
 といった。葉子は倉地と女将とをならべて一目見たばかりで、二人《ふたり》の間の潔白なのを見て取っていたし、自分が寝てあとの相談というても、今度の事件を上手《じょうず》にまとめようというについての相談だという事がのみ込めていたので、素直《すなお》に立って座をはずした。
 中の十畳を隔てた十六畳に二人の寝床は取ってあったが、二人の会話はおりおりかなりはっきり[#「はっきり」に傍点]もれて来た。葉子は別に疑いをかけるというのではなかったが、やはりじっ[#「じっ」に傍点]と耳を傾けないではいられなかった。
 何かの話のついでに入用な事が起こったのだろう、倉地はしきりに身のまわりを探って、何かを取り出そうとしている様子だったが、「あいつの手携《てさ》げに入れたかしらん」という声がしたので葉子ははっ[#「はっ」に傍点]と思った。あれには「報正新報」の切り抜きが入れてあるのだ。もう飛び出して行ってもおそいと思って葉子は断念していた。やがてはたして二人は切り抜きを見つけ出した様子だった。
 「なんだあいつも知っとったのか」
 思わず少し高くなった倉地の声がこう聞こえた。
 「道理でさっき[#「さっき」に傍点]私がこの事をいいかけるとあの方《かた》が目で留めたんですよ。やはり先方《あちら》でもあなたに知らせまいとして。いじらしいじゃありませんか」
 そういう女将の声もした。そして二人はしばらく黙っていた。
 葉子は寝床を出てその場に行こうかとも思った。しかし今夜は二人に任せておくほうがいいと思い返してふとんを耳までかぶった。そしてだいぶ夜がふけてから倉地が寝に来るまで快い安眠に前後を忘れていた。

    二四

 その次の朝女将と話をしたり、呉服屋を呼んだりしたので、日がかなり高くなるまで宿にいた葉子は、いやいやながら例のけばけばしい綿入れを着て、羽織《はおり》だけは女将が借りてくれた、妹分という人の烏羽黒《うばぐろ》の縮緬《ちりめん》の紋付きにして旅館を出た。倉地は昨夜の夜《よ》ふかしにも係わらずその朝早く横浜のほうに出かけたあとだった。きょうも空は菊|日和《びより》とでもいう美しい晴れかたをしていた。
 葉子はわざと宿で車を頼んでもらわずに、煉瓦《れんが》通りに出てからきれいそうな辻待《つじま》ちを傭《やと》ってそれに乗った。そして池《いけ》の端《はた》のほうに車を急がせた。定子を目の前に置いて、その小さな手をなでたり、絹糸のような髪の毛をもてあそぶ事を思うと葉子の胸はわれにもなくただわくわくとせき込んで来た。眼鏡橋《めがねばし》を渡ってから突き当たりの大時計は見えながらなかなかそこまで車が行かないのをもどかしく思った。膝《ひざ》の上に乗せた土産《みやげ》のおもちゃや小さな帽子などをやきもき[#「やきもき」に傍点]しながらひねり回したり、膝掛《ひざか》けの厚い地《じ》をぎゅっ[#「ぎゅっ」に傍点]と握り締めたりして、はやる心を押ししずめようとしてみるけれどもそれをどうする事もできなかった。車がようやく池の端に出ると葉子は右、左、と細い道筋の角々《かどかど》でさしずした。そして岩崎《いわさき》の屋敷裏にあたる小さな横町の曲がりかどで車を乗り捨てた。
 一か月の間《あいだ》来ないだけなのだけれども、葉子にはそれが一年にも二年にも思われたので、その界隈《かいわい》が少しも変化しないで元のとおりなのがかえって不思議なようだった。じめじめした小溝《こみぞ》に沿うて根ぎわの腐れた黒板塀《くろいたべい》の立ってる小さな寺の境内《けいだい》を突っ切って裏に回ると、寺の貸し地面にぽっつり[#「ぽっつり」に傍点]立った一|戸建《こだ》ての小家が乳母《うば》の住む所だ。没義道《もぎどう》に頭を切り取られた高野槇《こうやまき》が二本|旧《もと》の姿で台所前に立っている、その二本に干《ほ》し竿《ざお》を渡して小さな襦袢《じゅばん》や、まる洗いにした胴着《どうぎ》が暖かい日の光を受けてぶら下がっているのを見ると葉子はもうたまらなくなった。涙がぽろぽろとたわいもなく流れ落ちた。家の中では定子の声がしなかった。葉子は気を落ち着けるために案内を求めずに入り口に立ったまま、そっと垣根《かきね》から庭をのぞいて見ると、日あたりのいい縁側に定子がたった一人《ひとり》、葉子にはしごき帯を長く結んだ後ろ姿を見せて、一心不乱にせっせ[#「せっせ」に傍点]と少しばかりのこわれおもちゃをいじくり回していた。何事にまれ真剣な様子を見せつけられると、――わき目もふらず畑を耕す農夫、踏み切りに立って子を背負ったまま旗をかざす女房《にょうぼう》、汗をしとどにたらしながら坂道に荷車を押す出稼《ともかせ》ぎの夫婦――わけもなく涙につまされる葉子は、定子のそうした姿を一目見たばかりで、人間力ではどうする事もできない悲しい出来事にでも出あったように、しみじみとさびしい心持ちになってしまった。
 「定《さあ》ちゃん」
 涙を声にしたように葉子は思わず呼んだ。定子がびっくりして後ろを振り向いた時には、葉子は戸をあけて入り口を駆け上がって定子のそばにすり寄っていた。父に似たのだろう痛々しいほど華車《きゃしゃ》作りな定子は、どこにどうしてしまったのか、声も姿も消え果てた自分の母が突然そば近くに現われたのに気を奪われた様子で、とみには声も出さずに驚いて葉子を見守った。
 「定《さあ》ちゃんママだよ。よく丈夫でしたね。そしてよく一人でおとなにして……」
 もう声が続かなかった。
 「ママちゃん」
 そう突然大きな声でいって定子は立ち上がりざま台所のほうに駆けて行った。
 「婆《ばあ》やママちゃんが来たのよ」
 という声がした。
 「え!」
 と驚くらしい婆やの声が裏庭から聞こえた。と、あわてたように台所を上がって、定子を横抱きにした婆やが、かぶっていた手ぬぐいを頭《つむり》からはずしながらころがり込むようにして座敷にはいって来た。二人は向き合ってすわると両方とも涙ぐみながら無言で頭を下げた。
 「ちょっと定ちゃんをこっちにお貸し」
 しばらくしてから葉子は定子を婆《ばあ》やの膝《ひざ》から受け取って自分のふところに抱きしめた。
 「お嬢さま……私にはもう何がなんだかちっとも[#「ちっとも」に傍点]わかりませんが、私はただもうくやしゅうございます。……どうしてこう早くお帰りになったんでございますか……皆様のおっしゃる事を伺っているとあんまり[#「あんまり」に傍点]業腹《ごうはら》でございますから……もう私は耳をふさいでおります。あなたから伺ったところがどうせこう年を取りますと腑《ふ》に落ちる気づかいはございません。でもまあおからだがどうかと思ってお案じ申しておりましたが、御丈夫で何よりでございました……何しろ定子様がおかわいそうで……」
 葉子におぼれきった婆やの口からさもくやしそうにこうした言葉がつぶやかれるのを、葉子はさびしい心持ちで聞かねばならなかった。耄碌《もうろく》したと自分ではいいながら、若い時に亭主《ていしゅ》に死に別れて立派に後家《ごけ》を通して後ろ指一本さされなかった昔気質《むかしかたぎ》のしっかり[#「しっかり」に傍点]者だけに、親類たちの陰口やうわさで聞いた葉子の乱行にはあきれ果てていながら、この世でのただ一人《ひとり》の秘蔵物として葉子の頭から足の先までも自分の誇りにしている婆やの切《せつ》ない心持ちは、ひしひしと葉子にも通じるのだった。婆やと定子……こんな純粋な愛情の中に取り囲まれて、落ち着いた、しとやか[#「しとやか」に傍点]な、そして安穏な一生を過ごすのも、葉子は望ましいと思わないではなかった。ことに婆やと定子とを目の前に置いて、つつましやかな過不足のない生活をながめると、葉子の心は知らず知らずなじんで行くのを覚えた。
 しかし同時に倉地の事をちょっとでも思うと葉子の血は一時にわき立った。平穏な、その代わり死んだも同然な一生がなんだ。純粋な、その代わり冷えもせず熱しもしない愛情がなんだ。生きる以上は生きてるらしく生きないでどうしよう。愛する以上は命と取りかえっこをするくらいに愛せずにはいられない。そうした衝動が自分でもどうする事もできない強い感情になって、葉子の心を本能的に煽《あお》ぎ立てるのだった。この奇怪な二つの矛盾が葉子の心の中には平気で両立しようとしていた。葉子は眼前の境界でその二つの矛盾を割合に困難もなく使い分ける不思議な心の広さを持っていた。ある時には極端に涙もろく、ある時には極端に残虐だった。まるで二人《ふたり》の人が一つの肉体に宿っているかと自分ながら疑うような事もあった。それが時にはいまいましかった、時には誇らしくもあった。
 「定《さあ》ちゃま。ようこざいましたね、ママちゃんが早くお帰りになって。お立ちになってからでもお聞き分けよくママのマの字もおっしゃらなかったんですけれども、どうかするとこうぼんやり[#「ぼんやり」に傍点]考えてでもいらっしゃるようなのがおかわいそうで、一時はおからだでも悪くなりはしないかと思うほどでした。こんなでもなかなか心は働いていらっしゃるんですからねえ」
 と婆やは、葉子の膝《ひざ》の上に巣食うように抱かれて、黙ったまま、澄んだひとみで母の顔を下からのぞくようにしている定子と葉子とを見くらべながら、述懐めいた事をいった。葉子は自分の頬《ほお》を、暖かい桃の膚のように生毛《うぶげ》の生えた定子の頬にすりつけながら、それを聞いた。
 「お前のその気象でわからないとおいいなら、くどくどいったところがむだかもしれないから、今度の事については私なんにも話すまいが、家の親類たちのいう事なんぞはきっと気にしないでおくれよ。今度の船には飛んでもない一人の奥さんが乗り合わしていてね、その人がちょっとした気まぐれからある事ない事取りまぜてこっちにいってよこしたので、事あれかしと待ち構えていた人たちの耳にはいったんだから、これから先だってどんなひどい事をいわれるかしれたもんじゃないんだよ。お前も知ってのとおり私は生まれ落ちるとからつむじ曲がりじゃあったけれども、あんなに周囲《まわり》からこづき回されさえしなければこんなになりはしなかったのだよ。それはだれよりもお前が知ってておくれだわね。これからだって私は私なりに押し通すよ。だれがなんといったって構うもんですか。そのつもりでお前も私を見ていておくれ。広い世の中に私がどんな失策《しくじり》をしでかしても、心から思いやってくれるのはほんとうにお前だけだわ。……今度からは私もちょいちょい来るだろうけれども、この上ともこの子を頼みますよ。ね、定《さあ》ちゃん。よく婆《ばあ》やのいう事を聞いていい子になってちょうだいよ。ママちゃんはここにいる時でもいない時でも、いつでもあなたを大事に大事に思ってるんだからね。……さ、もうこんなむずかしいお話はよしてお昼のおしたくでもしましょうね。きょうはママちゃんがおいしいごちそうをこしらえて上げるから定《さあ》ちゃんも手伝いしてちょうだいね」
 そういって葉子は気軽そうに立ち上がって台所のほうに定子と連れだった。婆やも立ち上がりはしたがその顔は妙に冴《さ》えなかった。そして台所で働きながらややともすると内所《ないしょ》で鼻をすすっていた。
 そこには葉山で木部孤※[#「※」は「たけかんむりにエにふしづくり」、30-15]と同棲《どうせい》していた時に使った調度が今だに古びを帯びて保存されたりしていた。定子をそばにおいてそんなものを見るにつけ、少し感傷的になった葉子の心は涙に動こうとした。けれどもその日はなんといっても近ごろ覚えないほどしみじみとした楽しさだった。何事にでも器用な葉子は不足がちな台所道具を巧みに利用して、西洋風な料理と菓子とを三品《みしな》ほど作った。定子はすっかり[#「すっかり」に傍点]喜んでしまって、小さな手足をまめまめしく働かしながら、「はいはい」といって庖丁《ほうちょう》をあっちに運んだり、皿《さら》をこっちに運んだりした。三人は楽しく昼飯の卓についた。そして夕方まで水入らずにゆっくり[#「ゆっくり」に傍点]暮らした。
 その夜は妹たちが学校から来るはずになっていたので葉子は婆《ばあ》やの勧める晩飯も断わって夕方その家を出た。入り口の所につくねん[#「つくねん」に傍点]と立って姿やに両肩をささえられながら姿の消えるまで葉子を見送った定子の姿がいつまでもいつまでも葉子の心から離れなかった。夕闇《ゆうやみ》にまぎれた幌《ほろ》の中で葉子は幾度かハンケチを目にあてた。
 宿に着くころには葉子の心持ちは変わっていた。玄関にはいって見ると、女学校でなければ履《は》かれないような安|下駄《げた》のきたなくなったのが、お客や女中たちの気取った履《は》き物《もの》の中にまじって脱いであるのを見て、もう妹たちが来て待っているのを知った。さっそくに出迎えに出た女将《おかみ》に、今夜は倉地が帰って来たら他所《よそ》の部屋《へや》で寝るように用意をしておいてもらいたいと頼んで、静々《しずしず》と二階へ上がって行った。
 襖《ふすま》をあけて見ると二人の姉妹はぴったり[#「ぴったり」に傍点]とくっつき[#「くっつき」に傍点]合って泣いていた。人の足音を姉のそれだとは充分に知りながら、愛子のほうは泣き顔を見せるのが気まりが悪いふうで、振り向きもせずに一入《ひとしお》うなだれてしまったが、貞世のほうは葉子の姿を一目見るなり、はねるように立ち上がって激しく泣きながら葉子のふところに飛びこんで来た。葉子も思わず飛び立つように貞世を迎えて、長火鉢《ながひばち》のかたわらの自分の座にすわると、貞世はその膝《ひざ》に突っ伏してすすり上げすすり上げ可憐《かれん》な背中に波を打たした。これほどまでに自分の帰りを待ちわびてもい、喜んでもくれるのかと思うと、骨肉《こつにく》の愛着からも、妹だけは少なくとも自分の掌握の中にあるとの満足からも、葉子はこの上なくうれしかった。しかし火鉢《ひばち》からはるか離れた向こう側に、うやうやしく居ずまいを正《ただ》して、愛子がひそひそと泣きながら、規則正しくおじぎをするのを見ると葉子はすぐ癪《しゃく》にさわった。どうして自分はこの妹に対して優しくする事ができないのだろうとは思いつつも、葉子は愛子の所作《しょさ》を見ると一々気にさわらないではいられないのだ。葉子の目は意地わるく剣《けん》を持って冷ややかに小柄で堅肥《かたぶと》りな愛子を激しく見すえた。
 「会いたてからつけ[#「つけ」に傍点]つけいうのもなんだけれども、なんですねえそのおじぎのしかたは、他人行儀らしい。もっと打ち解けてくれたっていいじゃないの」
 というと愛子は当惑したように黙ったまま目を上げて葉子を見た。その目はしかし恐れても恨んでもいるらしくはなかった。小羊のような、まつ毛の長い、形のいい大きな目が、涙に美しくぬれて夕月のようにぽっかり[#「ぽっかり」に傍点]とならんでいた。悲しい目つきのようだけれども、悲しいというのでもない。多恨な目だ。多情な目でさえあるかもしれない。そう皮肉な批評家らしく葉子は愛子の目を見て不快に思った。大多数の男はあんな目で見られると、この上なく詩的な霊的な一瞥《いちべつ》を受け取ったようにも思うのだろう。そんな事さえ素早《すばや》く考えの中につけ加えた。貞世が広い帯をして来ているのに、愛子が少し古びた袴《はかま》をはいているのさえさげすまれた。
 「そんな事はどうでもようござんすわ。さ、お夕飯にしましょうね」
 葉子はやがて自分の妄念《もうねん》をかき払うようにこういって、女中を呼んだ。
 貞世は寵児《ペット》らしくすっかりはしゃぎきっていた。二人《ふたり》が古藤につれられて始めて田島《たじま》の塾《じゅく》に行った時の様子から、田島先生が非常に二人《ふたり》をかわいがってくれる事から、部屋《へや》の事、食物の事、さすがに女の子らしく細かい事まで自分|一人《ひとり》の興に乗じて談《かた》り続けた。愛子も言葉少なに要領を得た口をきいた。
 「古藤さんが時々来てくださるの?」
 と聞いてみると、貞世は不平らしく、
 「いゝえ、ちっとも」
 「ではお手紙は?」
 「来てよ、ねえ愛ねえさま。二人の所に同じくらいずつ来ますわ」
 と、愛子は控え目らしくほほえみながら上目越《うわめご》しに貞世を見て、
 「貞《さあ》ちゃんのほうに余計来るくせに」
 となんでもない事で争ったりした。愛子は姉に向かって、
 「塾《じゅく》に入れてくださると古藤さんが私たちに、もうこれ以上私のして上げる事はないと思うから、用がなければ来ません。その代わり用があったらいつでもそういっておよこしなさいとおっしゃったきりいらっしゃいませんのよ。そうしてこちらでも古藤さんにお願いするような用はなんにもないんですもの」
 といった。葉子はそれを聞いてほほえみながら古藤が二人を塾につれて行った時の様子を想像してみた。例のようにどこの玄関番かと思われる風体《ふうてい》をして、髪を刈る時のほか剃《す》らない顎《あご》ひげを一二|分《ぶ》ほども延ばして、頑丈《がんじょう》な容貌《ようぼう》や体格に不似合いなはにかんだ口つきで、田島という、男のような女学者と話をしている様子が見えるようだった。
 しばらくそんな表面的なうわさ話などに時を過ごしていたが、いつまでもそうはしていられない事を葉子は知っていた。この年齢《とし》の違った二人《ふたり》の妹に、どっちにも堪念《たんねん》の行くように今の自分の立場を話して聞かせて、悪い結果をその幼い心に残さないようにしむけるのはさすがに容易な事ではなかった。葉子は先刻からしきりにそれを案じていたのだ。
 「これでも召し上がれ」
 食事が済んでから葉子は米国から持って来たキャンディーを二人の前に置いて、自分は煙草《たばこ》を吸った。貞世は目を丸くして姉のする事を見やっていた。
 「ねえさまそんなもの吸っていいの?」
 と会釈なく尋ねた。愛子も不思議そうな顔をしていた。
 「えゝこんな悪い癖がついてしまったの。けれどもねえさんにはあなた方《がた》の考えてもみられないような心配な事や困る事があるものだから、つい憂《う》さ晴らしにこんな事も覚えてしまったの。今夜はあなた方《がた》にわかるようにねえさんが話して上げてみるから、よく聞いてちょうだいよ」
 倉地の胸に抱かれながら、酔いしれたようにその頑丈《がんじょう》な、日に焼けた、男性的な顔を見やる葉子の、乙女《おとめ》というよりももっと子供らしい様子は、二人《ふたり》の妹を前に置いてきちん[#「きちん」に傍点]と居ずまいを正した葉子のどこにも見いだされなかった。その姿は三十前後の、充分分別のある、しっかり[#「しっかり」に傍点]した一人《ひとり》の女性を思わせた。貞世もそういう時の姉に対する手心《てごころ》を心得ていて、葉子から離れてまじめにすわり直した。こんな時うっかり[#「うっかり」に傍点]その威厳を冒すような事でもすると、貞世にでもだれにでも葉子は少しの容赦もしなかった。しかし見た所はいかにも慇懃《いんぎん》に口を開いた。
 「わたしが木村さんの所にお嫁に行くようになったのはよく知ってますね。米国に出かけるようになったのもそのためだったのだけれどもね、もともと木村さんは私のように一度先にお嫁入りした人をもらうような方《かた》ではなかったんだしするから、ほんとうはわたしどうしても心は進まなかったんですよ。でも約束だからちゃん[#「ちゃん」に傍点]と守って行くには行ったの。けれどもね先方《むこう》に着いてみるとわたしのからだの具合がどうもよくなくって上陸はとてもできなかったからしかたなしにまた同じ船で帰るようになったの。木村さんはどこまでもわたしをお嫁にしてくださるつもりだから、わたしもその気ではいるのだけれども、病気ではしかたがないでしょう。それに恥ずかしい事を打ち明けるようだけれども、木村さんにもわたしにも有り余るようなお金がないものだから、行きも帰りもその船の事務長という大切な役目の方《かた》にお世話にならなければならなかったのよ。その方《かた》が御親切にもわたしをここまで連れて帰ってくださったばかりで、もう一度あなた方《がた》にもあう事ができたんだから、わたしはその倉地という方《かた》――倉はお倉の倉で、地は地球の地と書くの。三吉というお名前は貞《さあ》ちゃんにもわかるでしょう――その倉地さんにはほんとうにお礼の申しようもないくらいなんですよ。愛さんなんかはその方《かた》の事で叔母《おば》さんなんぞからいろいろな事を聞かされて、ねえさんを疑っていやしないかと思うけれども、それにはまたそれでめんどうなわけのある事なのだから、夢にも人のいう事なんぞをそのまま受け取ってもらっちゃ困りますよ。ねえさんを信じておくれ、ね、よござんすか。わたしはお嫁なんぞに行かないでもいい、あなた方《がた》とこうしているほどうれしい事はないと思いますよ。木村さんのほうにお金でもできて、わたしの病気がなおりさえすれば結婚するようになるかもしれないけれども、それはいつの事ともわからないし、それまではわたしはこうしたままで、あなた方《がた》と一緒にどこかにお家を持って楽しく暮らしましょうね。いいだろう貞《さあ》ちゃん。もう寄宿なんぞにいなくってもようござんすよ」
 「おねえさまわたし寄宿では夜になるとほんとうは泣いてばかりいたのよ。愛ねえさんはよくお寝になってもわたしは小さいから悲しかったんですもの」
 そう貞世は白状するようにいった。さっきまではいかにも楽しそうにいっていたその可憐《かれん》な同じ口びるから、こんな哀れな告白を聞くと葉子は一入《ひとしお》しんみり[#「しんみり」に傍点]した心持ちになった。
 「わたしだってもよ。貞《さあ》ちゃんは宵《よい》の口だけくすくす泣いてもあとはよく寝ていたわ。ねえ様、私は今まで貞《さあ》ちゃんにもいわないでいましたけれども……みんなが聞こえよがしにねえ様の事をかれこれいいますのに、たまに悪いと思って貞《さあ》ちゃんと叔母《おば》さんの所に行ったりなんぞすると、それはほんとうにひどい……ひどい事をおっしゃるので、どっち[#「どっち」に傍点]に行ってもくやしゅうございましたわ。古藤さんだってこのごろはお手紙さえくださらないし……田島先生だけはわたしたち二人《ふたり》をかわいそうがってくださいましたけれども……」
 葉子の思いは胸の中で煮え返るようだった。
 「もういい堪忍《かんにん》してくださいよ。ねえさんがやはり至らなかったんだから。おとうさんがいらっしゃればお互いにこんないやな目にはあわないんだろうけれども(こういう場合葉子はおくび[#「おくび」に傍点]にも母の名は出さなかった)親のないわたしたちは肩身が狭いわね。まああなた方《がた》はそんなに泣いちゃだめ。愛さんなんですねあなたから先に立って。ねえさんが帰った以上はねえさんになんでも任して安心して勉強してくださいよ。そして世間の人を見返しておやり」
 葉子は自分の心持ちを憤ろしくいい張っているのに気がついた。いつのまにか自分までが激しく興奮していた。
 火鉢《ひばち》の火はいつか灰になって、夜寒《よさむ》がひそやかに三人の姉妹にはいよっていた。もう少し睡気《ねむけ》を催して来た貞世は、泣いたあとの渋い目を手の甲でこすりながら、不思議そうに興奮した青白い姉の顔を見やっていた。愛子は瓦斯《がす》の灯《ひ》に顔をそむけながらしくしくと泣き始めた。
 葉子はもうそれを止めようとはしなかった。自分ですら声を出して泣いてみたいような衝動をつき返しつき返し水落《みぞおち》の所に感じながら、火鉢の中を見入ったまま細かく震えていた。
 生まれかわらなければ回復しようのないような自分の越し方《かた》行く末が絶望的にはっきり[#「はっきり」に傍点]と葉子の心を寒く引き締めていた。
 それでも三人が十六畳に床を敷いて寝てだいぶたってから、横浜から帰って来た倉地が廊下を隔てた隣の部屋《へや》に行くのを聞き知ると、葉子はすぐ起きかえってしばらく妹たちの寝息気《ねいき》をうかがっていたが、二人がいかにも無心に赤々とした頬《ほお》をしてよく寝入っているのを見窮めると、そっとどてら[#「どてら」に傍点]を引っかけながらその部屋を脱け出した。

    二五

 それから一日置いて次の日に古藤から九時ごろに来るがいいかと電話がかかって来た。葉子は十時すぎにしてくれと返事をさせた。古藤に会うには倉地が横浜に行ったあとがいいと思ったからだ。
 東京に帰ってから叔母《おば》と五十川《いそがわ》女史の所へは帰った事だけを知らせては置いたが、どっちからも訪問は元よりの事|一言半句《いちごんはんく》の挨拶《あいさつ》もなかった。責めて来るなり慰めて来るなり、なんとかしそうなものだ。あまりといえば人を踏みつけにしたしわざだとは思ったけれども、葉子としては結句それがめんどうがなくっていいとも思った。そんな人たちに会っていさくさ[#「いさくさ」に傍点]口をきくよりも、古藤と話しさえすればその口裏《くちうら》から東京の人たちの心持ちも大体はわかる。積極的な自分の態度はその上で決めてもおそくはないと思案した。
 双鶴館《そうかくかん》の女将《おかみ》はほんとうに目から鼻に抜けるように落ち度なく、葉子の影身《かげみ》になって葉子のために尽くしてくれた。その後ろには倉地がいて、あのいかにも疎大らしく見えながら、人の気もつかないような綿密な所にまで気を配って、采配を振っているのはわかっていた。新聞記者などがどこをどうして探り出したか、始めのうちは押し強く葉子に面会を求めて来たのを、女将《おかみ》が手ぎわよく追い払ったので、近づきこそはしなかったが遠巻きにして葉子の挙動に注意している事などを、女将は眉《まゆ》をひそめながら話して聞かせたりした。木部の恋人であったという事がひどく記者たちの興味をひいたように見えた。葉子は新聞記者と聞くと、震え上がるほどいやな感じを受けた。小さい時分に女記者になろうなどと人にも口外した覚えがあるくせに、探訪などに来る人たちの事を考えるといちばん賤《いや》しい種類の人間のように思わないではいられなかった。仙台《せんだい》で、新聞社の社長と親佐《おやさ》と葉子との間に起こった事として不倫な捏造《ねつぞう》記事(葉子はその記事のうち、母に関してはどのへんまでが捏造《ねつぞう》であるか知らなかった。少なくとも葉子に関しては捏造《ねつぞう》だった)が掲載されたばかりでなく、母のいわゆる寃罪《えんざい》は堂々と新聞紙上で雪《すす》がれたが、自分のはとうとうそのままになってしまった、あの苦い経験などがますます葉子の考えを頑《かたく》なにした。葉子が「報正新報」の記事を見た時も、それほど田川夫人が自分を迫害しようとするなら、こちらもどこかの新聞を手に入れて田川夫人に致命傷を与えてやろうかという(道徳を米の飯と同様に見て生きているような田川夫人に、その点に傷を与えて顔出しができないようにするのは容易な事だと葉子は思った)企《たくら》みを自分ひとりで考えた時でも、あの記者というものを手なずけるまでに自分を堕落させたくないばかりにその目論見《もくろみ》を思いとどまったほどだった。
 その朝も倉地と葉子とは女将《おかみ》を話相手に朝飯を食いながら新聞に出たあの奇怪な記事の話をして、葉子がとうにそれをちゃん[#「ちゃん」に傍点]と知っていた事などを談《かた》り合いながら笑ったりした。
 「忙しいにかまけて、あれはあのままにしておったが……一つはあまり短兵急にこっち[#「こっち」に傍点]から出しゃばると足もとを見やがるで、……あれはなんとかせんとめんどうだて」
 と倉地はがらっ[#「がらっ」に傍点]と箸《はし》を膳《ぜん》に捨てながら、葉子から女将に目をやった。
 「そうですともさ。下らない、あなた、あれであなたのお職掌《しょくしょう》にでもけち[#「けち」に傍点]が付いたらほんとうにばかばかしゅうござんすわ。報正新報社にならわたし御懇意の方も二人《ふたり》や三人はいらっしゃるから、なんならわたしからそれとなくお話ししてみてもようございますわ。わたしはまたお二人とも今まであんまり平気でいらっしゃるんで、もうなんとかお話がついたのだとばかり思ってましたの」
 と女将は怜《さか》しそうな目に真味な色を見せてこういった。倉地は無頓着《むとんじゃく》に「そうさな」といったきりだったが、葉子は二人《ふたり》の意見がほぼ一致したらしいのを見ると、いくら女将《おかみ》が巧みに立ち回ってもそれをもみ消す事はできないといい出した。なぜといえばそれは田川夫人が何か葉子を深く意趣に思ってさせた事で、「報正新報」にそれが現われたわけは、その新聞が田川博士の機関新聞だからだと説明した。倉地は田川と新聞との関係を始めて知ったらしい様子で意外な顔つきをした。
 「おれはまた興録《こうろく》のやつ……あいつはべらべらしたやつで、右左のはっきり[#「はっきり」に傍点]しない油断のならぬ男だから、あいつの仕事かとも思ってみたが、なるほどそれにしては記事の出かたが少し早すぎるて」
 そういってやおら立ち上がりながら次の間に着かえに行った。
 女中が膳部《ぜんぶ》を片づけ終わらぬうちに古藤が来たという案内があった。
 葉子はちょっと当惑した。あつらえておいた衣類がまだできないのと、着具合がよくって、倉地からもしっくり[#「しっくり」に傍点]似合うとほめられるので、その朝も芸者のちょいちょい着《ぎ》らしい、黒繻子《くろじゅす》の襟《えり》の着いた、伝法《でんぽう》な棒縞《ぼうじま》の身幅《みはば》の狭い着物に、黒繻子と水色|匹田《ひった》の昼夜帯《ちゅうやおび》をしめて、どてら[#「どてら」に傍点]を引っかけていたばかりでなく、髪までやはり櫛巻《くしま》きにしていたのだった。えゝ、いい構うものか、どうせ鼻をあかさせるならのっけ[#「のっけ」に傍点]からあかさせてやろう、そう思って葉子はそのままの姿で古藤を待ち構えた。
 昔のままの姿で、古藤は旅館というよりも料理屋といったふうの家の様子に少し鼻じろみながらはいって来た。そうして飛び離れて風体《ふうてい》の変わった葉子を見ると、なおさら勝手が違って、これがあの葉子なのかというように、驚きの色を隠し立てもせずに顔に現わしながら、じっ[#「じっ」に傍点]とその姿を見た。
 「まあ義一さんしばらく。お寒いのね。どうぞ火鉢《ひばち》によってくださいましな。ちょっと御免くださいよ」そういって、葉子はあでやかに上体だけを後ろにひねって、広蓋《ひろぶた》から紋付きの羽織《はおり》を引き出して、すわったままどてら[#「どてら」に傍点]と着直した。なまめかしいにおいがその動作につれてひそやかに部屋《へや》の中に動いた。葉子は自分の服装がどう古藤に印象しているかなどを考えてもみないようだった。十年も着慣れたふだん着《ぎ》できのうも会ったばかりの弟のように親しい人に向かうようなとりなし[#「とりなし」に傍点]をした。古藤はとみには口もきけないように思い惑っているらしかった。多少|垢《あか》になった薩摩絣《さつまがすり》の着物を着て、観世撚《かんぜより》の羽織|紐《ひも》にも、きちん[#「きちん」に傍点]とはいた袴《はかま》にも、その人の気質が明らかに書き記《しる》してあるようだった。
 「こんなでたいへん変な所ですけれどもどうか気楽《きらく》になさってくださいまし。それでないとなんだか改まってしまってお話がしにくくっていけませんから」
 心置きない、そして古藤を信頼している様子を巧みにもそれとなく気取《けど》らせるような葉子の態度はだんだん古藤の心を静めて行くらしかった。古藤は自分の長所も短所も無自覚でいるような、そのくせどこかに鋭い光のある目をあげてまじまじと葉子を見始めた。
 「何より先にお礼。ありがとうございました妹たちを。おととい二人でここに来てたいへん喜んでいましたわ」
 「なんにもしやしない、ただ塾《じゅく》に連れて行って上げただけです。お丈夫ですか」
 古藤はありのままをありのままにいった。そんな序曲的な会話を少し続けてから葉子はおもむろに探り知っておかなければならないような事柄《ことがら》に話題を向けて行った。
 「今度こんなひょん[#「ひょん」に傍点]な事でわたしアメリカに上陸もせず帰って来る事になったんですが、ほんとうをおっしゃってくださいよ、あなたはいったいわたしをどうお思いになって」
 葉子は火鉢《ひばち》の縁《ふち》に両|肘《ひじ》をついて、両手の指先を鼻の先に集めて組んだりほどいたりしながら、古藤の顔に浮かび出るすべての意味を読もうとした。
 「えゝ、ほんとうをいいましょう」
 そう決心するもののように古藤はいってからひと膝《ひざ》乗り出した。
 「この十二月に兵隊に行かなければならないものだから、それまでに研究室の仕事を片づくものだけは片づけて置こうと思ったので、何もかも打ち捨てていましたから、このあいだ横浜からあなたの電話を受けるまでは、あなたの帰って来られたのを知らないでいたんです。もっとも帰って来られるような話はどこかで聞いたようでしたが。そして何かそれには重大なわけがあるに違いないとは思っていましたが。ところがあなたの電話を切るとまもなく木村君の手紙が届いて来たんです。それはたぶん絵島丸より一日か二日早く大北《たいほく》汽船会社の船が着いたはずだから、それが持って来たんでしょう。ここに持って来ましたが、それを見て僕《ぼく》は驚いてしまったんです。ずいぶん長い手紙だからあとで御覧になるなら置いて行きましょう。簡単にいうと(そういって古藤はその手紙の必要な要点を心の中で整頓《せいとん》するらしくしばらく黙っていたが)木村君はあなたが帰るようになったのを非常に悲しんでいるようです。そしてあなたほど不幸な運命にもてあそばれる人はない。またあなたほど誤解を受ける人はない。だれもあなたの複雑な性格を見窮めて、その底にある尊い点を拾い上げる人がないから、いろいろなふうにあなたは誤解されている。あなたが帰るについては日本でも種々さまざまな風説が起こる事だろうけれども、君だけはそれを信じてくれちゃ困る。それから……あなたは今でも僕の妻だ……病気に苦しめられながら、世の中の迫害を存分に受けなければならないあわれむべき女だ。他人がなんといおうと君だけは僕を信じて……もしあなたを信ずることができなければ僕を信じて、あなたを妹だと思ってあなたのために戦ってくれ……ほんとうはもっと最大級の言葉が使ってあるのだけれども大体そんな事が書いてあったんです。それで……」
 「それで?」
 葉子は目の前で、こんがらがった糸が静かにほごれて行くのを見つめるように、不思議な興味を感じながら、顔だけは打ち沈んでこう促した。
 「それでですね。僕はその手紙に書いてある事とあなたの電話の『滑稽《こっけい》だった』という言葉とをどう結び付けてみたらいいかわからなくなってしまったんです。木村の手紙を見ない前でもあなたのあの電話の口調には……電話だったせいかまるでのんきな冗談口のようにしか聞こえなかったものだから……ほんとうをいうとかなり不快を感じていた所だったのです。思ったとおりをいいますから怒《おこ》らないで聞いてください」
 「何を怒《おこ》りましょう。ようこそはっきり[#「はっきり」に傍点]おっしゃってくださるわね。あれはわたしもあとでほんとうにすまなかったと思いましたのよ。木村が思うようにわたしは他人の誤解なんぞそんなに気にしてはいないの。小さい時から慣れっこになってるんですもの。だから皆さんが勝手なあて推量《ずいりょう》なぞをしているのが少しは癪《しゃく》にさわったけれども、滑稽《こっけい》に見えてしかたがなかったんですのよ。そこにもって来て電話であなたのお声が聞こえたもんだから、飛び立つようにうれしくって思わずしらずあんな軽はずみな事をいってしまいましたの。木村から頼まれて私の世話を見てくださった倉地という事務長の方《かた》もそれはきさく[#「きさく」に傍点]な親切な人じゃありますけれども、船で始めて知り合いになった方《かた》だから、お心安立《こころやすだ》てなんぞはできないでしょう。あなたのお声がした時にはほんとうに敵の中から救い出されたように思ったんですもの……まあしかしそんな事は弁解するにも及びませんわ。それからどうなさって?」
 古藤は例の厚い理想の被《かつぎ》の下から、深く隠された感情が時々きらきらとひらめくような目を、少し物惰《ものたる》げに大きく見開いて葉子の顔をつれづれと見やった。初対面の時には人並みはずれて遠慮がちだったくせに、少し慣れて来ると人を見徹《みとお》そうとするように凝視するその目は、いつでも葉子に一種の不安を与えた。古藤の凝視にはずうずうしいという所は少しもなかった。また故意にそうするらしい様子も見えなかった。少し鈍と思われるほど世事《せじ》にうとく、事物のほんとうの姿を見て取る方法に暗いながら、まっ正直に悪意なくそれをなし遂げようとするらしい目つきだった。古藤なんぞに自分の秘密がなんであばかれてたまるものかと多寡《たか》をくくりつつも、その物軟《ものやわ》らかながらどんどん人の心の中にはいり込もうとするような目つきにあうと、いつか秘密のどん底を誤たずつかまれそうな気がしてならなかった。そうなるにしてもしかしそれまでには古藤は長い間忍耐して待たなければならないだろう、そう思って葉子は一面小気味よくも思った。
 こんな目で古藤は、明らかな疑いを示しつつ葉子を見ながら、さらに語り続けた所によれば、古藤は木村の手紙を読んでから思案に余って、その足ですぐ、まだ釘店《くぎだな》の家の留守番をしていた葉子の叔母《おば》の所を尋ねてその考えを尋ねてみようとしたところが、叔母は古藤の立場がどちらに同情を持っているか知れないので、うっかり[#「うっかり」に傍点]した事はいわれないと思ったか、何事も打ち明けずに、五十川《いそがわ》女史に尋ねてもらいたいと逃げを張ったらしい。古藤はやむなくまた五十川女史を訪問した。女史とは築地《つきじ》のある教会堂の執事の部屋《へや》で会った。女史のいう所によると、十日ほど前に田川夫人の所から船中における葉子の不埒《ふらち》を詳細に知らしてよこした手紙が来て、自分としては葉子のひとり旅を保護し監督する事はとても力に及ばないから、船から上陸する時もなんの挨拶《あいさつ》もせずに別れてしまった。なんでもうわさで聞くと病気だといってまだ船に残っているそうだが、万一そのまま帰国するようにでもなったら、葉子と事務長との関係は自分たちが想像する以上に深くなっていると断定してもさしつかえない。せっかく依頼を受けてその責めを果たさなかったのは誠にすまないが、自分たちの力では手に余るのだから推恕《すいじょ》していただきたいと書いてあった。で、五十川女史は田川夫人がいいかげんな捏造《ねつぞう》などする人でないのをよく知っているから、その手紙を重《おも》だった親類たちに示して相談した結果、もし葉子が絵島丸で帰って来たら、回復のできない罪を犯したものとして、木村に手紙をやって破約を断行させ、一面には葉子に対して親類一同は絶縁する申し合わせをしたという事を聞かされた。そう古藤は語った。
 「僕《ぼく》はこんな事を聞かされて途方に暮れてしまいました。あなたはさっきから倉地というその事務長の事を平気で口にしているが、こっちではその人が問題になっているんです。きょうでも僕《ぼく》はあなたにお会いするのがいいのか悪いのかさんざん迷いました。しかし約束ではあるし、あなたから聞いたらもっと事柄もはっきり[#「はっきり」に傍点]するかと思って、思いきって伺う事にしたんです。……あっちにたった一人《ひとり》いて五十川《いそがわ》さんから恐ろしい手紙を受け取らなければならない木村君を僕は心から気の毒に思うんです。もしあなたが誤解の中にいるんなら聞かせてください。僕はこんな重大な事を一方口《いっぽうぐち》で判断したくはありませんから」
 と話を結んで古藤は悲しいような表情をして葉子を見つめた。小癪《こしゃく》な事をいうもんだと葉子は心の中で思ったけれども、指先でもてあそびながら少し振り仰いだ顔はそのままに、あわれむような、からかうような色をかすかに浮かべて、
 「えゝ、それはお聞きくださればどんなにでもお話はしましょうとも。けれども天からわたしを信じてくださらないんならどれほど口をすっぱくしてお話をしたってむだね」
 「お話を伺ってから信じられるものなら信じようとしているのです僕は」
 「それはあなた方《がた》のなさる学問ならそれでようござんしょうよ。けれども人情ずくの事はそんなものじゃありませんわ。木村に対してやましいことはいたしませんといったってあなたがわたしを信じていてくださらなければ、それまでのものですし、倉地さんとはお友だちというだけですと誓った所が、あなたが疑っていらっしゃればなんの役にも立ちはしませんからね。……そうしたもんじゃなくって?」
 「それじゃ五十川さんの言葉だけで僕にあなたを判断しろとおっしゃるんですか」
 「そうね。……それでもようございましょうよ。とにかくそれはわたしが御相談を受ける事柄じゃありませんわ」
 そういってる葉子の顔は、言葉に似合わずどこまでも優しく親しげだった。古藤はさすがに怜《さか》しく、こうもつれて来た言葉をどこまでも追おうとせずに黙ってしまった。そして「何事も明らさまにしてしまうほうがほんとうはいいのだがな」といいたげな目つきで、格別|虐《しいた》げようとするでもなく、葉子が鼻の先で組んだりほどいたりする手先を見入った。そうしたままでややしばらくの時が過ぎた。
 十一時近いこのへんの町並みはいちばん静かだった。葉子はふと雨樋《あまどい》を伝う雨だれの音を聞いた。日本に帰ってから始めて空はしぐれていたのだ。部屋《へや》の中は盛んな鉄びんの湯気《ゆげ》でそう寒くはないけれども、戸外は薄ら寒い日和《ひより》になっているらしかった。葉子はぎごちない二人《ふたり》の間の沈黙を破りたいばかりに、ひょっ[#「ひょっ」に傍点]と首をもたげて腰窓のほうを見やりながら、
 「おやいつのまにか雨になりましたのね」
 といってみた。古藤はそれには答えもせずに、五|分《ぶ》刈りの地蔵頭《じぞうあたま》をうなだれて深々《ふかぶか》とため息をした。
 「僕はあなたを信じきる事ができればどれほど幸いだか知れないと思うんです。五十川さんなぞより僕はあなたと話しているほうがずっ[#「ずっ」に傍点]と気持ちがいいんです。それはあなたが同じ年ごろで、――たいへん美しいというためばかりじゃないと(その時古藤はおぼこらしく顔を赤らめていた)思っています。五十川さんなぞはなんでも物を僻目《ひがめ》で見るから僕はいやなんです。けれどもあなたは……どうしてあなたはそんな気象でいながらもっと大胆に物を打ち明けてくださらないんです。僕《ぼく》はなんといってもあなたを信ずる事ができません。こんな冷淡な事をいうのを許してください。しかしこれにはあなたにも責めがあると僕は思いますよ。……しかたがない僕は木村君にきょうあなたと会ったこのままをいってやります。僕にはどう判断のしようもありませんもの……しかしお願いしますがねえ。木村君があなたから離れなければならないものなら、一刻でも早くそれを知るようにしてやってください。僕は木村君の心持ちを思うと苦しくなります」
 「でも木村は、あなたに来たお手紙によるとわたしを信じきってくれているのではないんですか」
 そう葉子にいわれて、古藤はまた返す言葉もなく黙ってしまった。葉子は見る見る非常に興奮して来たようだった。抑《おさ》え抑えている葉子の気持ちが抑えきれなくなって激しく働き出して来ると、それはいつでも惻々《そくそく》として人に迫り人を圧した。顔色一つ変えないで元のままに親しみを込めて相手を見やりながら、胸の奥底の心持ちを伝えて来るその声は、不思議な力を電気のように感じて震えていた。
 「それで結構。五十川《いそがわ》のおばさんは始めからいやだいやだというわたしを無理に木村に添わせようとして置きながら、今になってわたしの口から一言《ひとこと》の弁解も聞かずに、木村に離縁を勧めようという人なんですから、そりゃわたし恨みもします。腹も立てます。えゝ、わたしはそんな事をされて黙って引っ込んでいるような女じゃないつもりですわ。けれどもあなたは初手《しょて》からわたしに疑いをお持ちになって、木村にもいろいろ御忠告なさった方《かた》ですもの、木村にどんな事をいっておやりになろうともわたしにはねっから[#「ねっから」に傍点]不服はありませんことよ。……けれどもね、あなたが木村のいちばん大切な親友でいらっしゃると思えばこそ、わたしは人一倍あなたをたよりにしてきょうもわざわざこんな所まで御迷惑を願ったりして、……でもおかしいものね、木村はあなたも信じわたしも信じ、わたしは木村も信じあなたも信じ、あなたは木村は信ずるけれどもわたしを疑って……そ、まあ待って……疑ってはいらっしゃりません。そうです。けれども信ずる事ができないでいらっしゃるんですわね……こうなるとわたしは倉地さんにでもおすがりして相談相手になっていただくほかしようがありません。いくらわたし娘の時から周囲《まわり》から責められ通しに責められていても、今だに女手一つで二人《ふたり》の妹まで背負って立つ事はできませんからね。……」
 古藤は二重に折っていたような腰を立てて、少しせきこんで、
 「それはあなたに不似合いな言葉だと僕は思いますよ。もし倉地という人のためにあなたが誤解を受けているのなら……」
 そういってまだ言葉を切らないうちに、もうとうに横浜に行ったと思われていた倉地が、和服のままで突然六畳の間にはいって来た。これは葉子にも意外だったので、葉子は鋭く倉地に目くばせしたが、倉地は無頓着《むとんじゃく》だった。そして古藤のいるのなどは度外視した傍若無人《ぼうじゃくぶじん》さで、火鉢《ひばち》の向こう座にどっかとあぐらをかいた。
 古藤は倉地を一目見るとすぐ倉地と悟ったらしかった。いつもの癖で古藤はすぐ極度に固くなった。中断された話の続きを持ち出しもしないで、黙ったまま少し伏《ふ》し目になってひかえていた。倉地は古藤から顔の見えないのをいい事に、早く古藤を返してしまえというような顔つきを葉子にして見せた。葉子はわけはわからないままにその注意に従おうとした。で、古藤の黙ってしまったのをいい事に、倉地と古藤とを引き合わせる事もせずに自分も黙ったまま静かに鉄びんの湯を土《ど》びんに移して、茶を二人《ふたり》に勧めて自分も悠々《ゆうゆう》と飲んだりしていた。
 突然古藤は居ずまいをなおして、
 「もう僕は帰ります。お話は中途ですけれどもなんだか僕はきょうはこれでおいとまがしたくなりました。あとは必要があったら手紙を書きます」
 そういって葉子にだけ挨拶《あいさつ》して座を立った。葉子は例の芸者のような姿のままで古藤を玄関まで送り出した。
 「失礼しましてね、ほんとうにきょうは。もう一度でようございますからぜひお会いになってくださいましな。一生のお願いですから、ね」
 と耳打ちするようにささやいたが古藤はなんとも答えず、雨の降り出したのに傘も借りずに出て行った。
 「あなたったらまずいじゃありませんか、なんだってあんな幕に顔をお出しなさるの」
 こうなじるようにいって葉子が座につくと、倉地は飲み終わった茶《ちゃ》わんを猫板《ねこいた》の上にとん[#「とん」に傍点]と音をたてて伏せながら、
 「あの男はお前、ばかにしてかかっているが、話を聞いていると妙に粘り強い所があるぞ。ばかもあのくらいまっすぐにばかだと油断のできないものなのだ。も少し話を続けていてみろ、お前のやり繰りでは間に合わなくなるから。いったいなんでお前はあんな男をかまいつける必要があるんか、わからないじゃないか。木村にでも未練があれば知らない事」
 こういって不敵に笑いながら押し付けるように葉子を見た。葉子はぎくり[#「ぎくり」に傍点]と釘《くぎ》を打たれたように思った。倉地をしっかり[#「しっかり」に傍点]握るまでは木村を離してはいけないと思っている胸算用を倉地に偶然にいい当てられたように思ったからだ。しかし倉地がほんとうに葉子を安心させるためには、しなければならない大事な事が少なくとも一つ残っている。それは倉地が葉子と表向《おもてむ》き結婚のできるだけの始末をして見せる事だ。手っ取り早くいえばその妻を離縁する事だ。それまではどうしても木村をのがしてはならない。そればかりではない、もし新聞の記事などが問題になって、倉地が事務長の位置を失うような事にでもなれば、少し気の毒だけれども木村を自分の鎖から解き放さずにおくのが何かにつけて便宜でもある。葉子はしかし前の理由はおくびにも出さずにあとの理由を巧みに倉地に告げようと思った。
 「きょうは雨になったで出かけるのが大儀《たいぎ》だ。昼には湯豆腐でもやって寝てくれようか」
 そういって早くも倉地がそこに横になろうとするのを葉子はしいて起き返らした。

    二六

 「水戸《みと》とかでお座敷に出ていた人だそうですが、倉地さんに落籍《ひか》されてからもう七八年にもなりましょうか、それは穏当ないい奥さんで、とても商売をしていた人のようではありません。もっとも水戸の士族のお娘御《むすめご》で出るが早いか倉地さんの所にいらっしゃるようになったんだそうですからそのはずでもありますが、ちっともすれていらっしゃらないでいて、気もおつきにはなるし、しとやかでもあり、……」
 ある晩|双鶴館《そうかくかん》の女将《おかみ》が話に来て四方山《よもやま》のうわさのついでに倉地の妻の様子を語ったその言葉は、はっきり[#「はっきり」に傍点]と葉子の心に焼きついていた。葉子はそれが優《すぐ》れた人であると聞かされれば聞かされるほど妬《ねた》ましさを増すのだった。自分の目の前には大きな障害物がまっ暗に立ちふさがっているのを感じた。嫌悪《けんお》の情にかきむしられて前後の事も考えずに別れてしまったのではあったけれども、仮にも恋らしいものを感じた木部に対して葉子がいだく不思議な情緒、――ふだんは何事もなかったように忘れ果ててはいるものの、思いも寄らないきっかけ[#「きっかけ」に傍点]にふと胸を引き締めて巻き起こって来る不思議な情緒、――一種の絶望的なノスタルジア――それを葉子は倉地にも倉地の妻にも寄せて考えてみる事のできる不幸を持っていた。また自分の生んだ子供に対する執着。それを男も女も同じ程度にきびしく感ずるものかどうかは知らない。しかしながら葉子自身の実感からいうと、なんといってもたとえようもなくその愛着は深かった。葉子は定子を見ると知らぬ間《ま》に木部に対して恋に等しいような強い感情を動かしているのに気がつく事がしばしばだった。木部との愛着の結果定子が生まれるようになったのではなく、定子というものがこの世に生まれ出るために、木部と葉子とは愛着のきずなにつながれたのだとさえ考えられもした。葉子はまた自分の父がどれほど葉子を溺愛《できあい》してくれたかをも思ってみた。葉子の経験からいうと、両親共いなくなってしまった今、慕わしさなつかしさを余計感じさせるものは、格別これといって情愛の徴《しるし》を見せはしなかったが、始終|軟《やわ》らかい目色で自分たちを見守ってくれていた父のほうだった。それから思うと男というものも自分の生ませた子供に対しては女に譲らぬ執着を持ちうるものに相違ない。こんな過去の甘い回想までが今は葉子の心をむちうつ笞《しもと》となった。しかも倉地の妻と子とはこの東京にちゃん[#「ちゃん」に傍点]と住んでいる。倉地は毎日のようにその人たちにあっているのに相違ないのだ。
 思う男をどこからどこまで自分のものにして、自分のものにしたという証拠を握るまでは、心が責めて責めて責めぬかれるような恋愛の残虐な力に葉子は昼となく夜となく打ちのめされた。船の中での何事も打ち任せきったような心やすい気分は他人事《ひとごと》のように、遠い昔の事のように悲しく思いやられるばかりだった。どうしてこれほどまでに自分というものの落ちつき所を見失ってしまったのだろう。そう思う下から、こうしては一刻もいられない。早く早くする事だけをしてしまわなければ、取り返しがつかなくなる。どこからどう手をつければいいのだ。敵を斃《たお》さなければ、敵は自分を斃《たお》すのだ。なんの躊躇《ちゅうちょ》。なんの思案。倉地が去った人たちに未練を残すようならば自分の恋は石や瓦《かわら》と同様だ。自分の心で何もかも過去はいっさい焼き尽くして見せる。木部もない、定子もない。まして木村もない。みんな捨てる、みんな忘れる。その代わり倉地にも過去という過去をすっかり忘れさせずにおくものか。それほどの蠱惑《こわく》の力と情熱の炎とが自分にあるかないか見ているがいい。そうしたいちずの熱意が身をこがすように燃え立った。葉子は新聞記者の来襲を恐れて宿にとじこもったまま、火鉢《ひばち》の前にすわって、倉地の不在の時はこんな妄想《もうそう》に身も心もかきむしられていた。だんだん募って来るような腰の痛み、肩の凝り。そんなものさえ葉子の心をますますいらだたせた。
 ことに倉地の帰りのおそい晩などは、葉子は座にも居《い》たたまれなかった。倉地の居間《いま》になっている十畳の間《ま》に行って、そこに倉地の面影《おもかげ》を少しでも忍ぼうとした。船の中での倉地との楽しい思い出は少しも浮かんで来ずに、どんな構えとも想像はできないが、とにかく倉地の住居《すまい》のある部屋《へや》に、三人の娘たちに取り巻かれて、美しい妻にかしずかれて杯を干している倉地ばかりが想像に浮かんだ。そこに脱ぎ捨ててある倉地のふだん着はますます葉子の想像をほしいままにさせた。いつでも葉子の情熱を引っつかんでゆすぶり立てるような倉地特有の膚の香《にお》い、芳醇《ほうじゅん》な酒や、煙草《たばこ》からにおい出るようなその香《にお》いを葉子は衣類をかき寄せて、それに顔を埋《うず》めながら、痲痺《まひ》して行くような気持ちでかぎにかいだ。その香《にお》いのいちばん奥に、中年の男に特有なふけ[#「ふけ」に傍点]のような不快な香《にお》い、他人ののであったなら葉子はひとたまりもなく鼻をおおうような不快な香《にお》いをかぎつけると、葉子は肉体的にも一種の陶酔を感じて来るのだった。その倉地が妻や娘たちに取り巻かれて楽しく一|夕《せき》を過ごしている。そう思うとあり合わせるものを取って打《ぶ》ちこわすか、つかんで引き裂きたいような衝動がわけもなく嵩《こう》じて来るのだった。
 それでも倉地が帰って来ると、それは夜おそくなってからであっても葉子はただ子供のように幸福だった。それまでの不安や焦躁はどこにか行ってしまって、悪夢から幸福な世界に目ざめたように幸福だった。葉子はすぐ走って行って倉地の胸にたわいなく抱かれた。倉地も葉子を自分の胸に引き締めた。葉子は広い厚い胸に抱かれながら、単調な宿屋の生活の一日中に起こった些細《ささい》な事までを、その表情のゆたかな、鈴のような涼しい声で、自分を楽しませているもののごとく語った。倉地は倉地でその声に酔いしれて見えた。二人《ふたり》の幸福はどこに絶頂があるのかわからなかった。二人だけで世界は完全だった。葉子のする事は一つ一つ倉地の心がするように見えた。倉地のこうありたいと思う事は葉子があらかじめそうあらせていた。倉地のしたいと思う事は、葉子がちゃん[#「ちゃん」に傍点]とし遂げていた。茶わんの置き場所まで、着物のしまい所《どころ》まで、倉地は自分の手でしたとおりを葉子がしているのを見いだしているようだった。
 「しかし倉地は妻や娘たちをどうするのだろう」
 こんな事をそんな幸福の最中にも葉子は考えない事もなかった。しかし倉地の顔を見ると、そんな事は思うも恥ずかしいような些細《ささい》な事に思われた。葉子は倉地の中にすっかり[#「すっかり」に傍点]とけ込んだ自分を見いだすのみだった。定子までも犠牲にして倉地をその妻子から切り放そうなどいうたくらみはあまりにばからしい取り越し苦労であるのを思わせられた。
 「そうだ生まれてからこのかたわたしが求めていたものはとうとう来《こ》ようとしている。しかしこんな事がこう手近にあろうとはほんとうに思いもよらなかった。わたしみたいなばかはない。この幸福の頂上が今だとだれか教えてくれる人があったら、わたしはその瞬間に喜んで死ぬ。こんな幸福を見てから下り坂にまで生きているのはいやだ。それにしてもこんな幸福でさえがいつかは下り坂になる時があるのだろうか」
 そんな事を葉子は幸福に浸りきった夢心地の中に考えた。
 葉子が東京に着いてから一週間目に、宿の女将《おかみ》の周旋で、芝《しば》の紅葉館《こうようかん》と道一つ隔てた苔香園《たいこうえん》という薔薇《ばら》専門の植木屋の裏にあたる二階建ての家を借りる事になった。それは元紅葉館の女中だった人がある豪商の妾《めかけ》になったについて、その豪商という人が建ててあてがった一構《ひとかま》えだった。双鶴館《そうかくかん》の女将《おかみ》はその女と懇意の間だったが、女に子供が幾人かできて少し手ぜま過ぎるので他所《よそ》に移転しようかといっていたのを聞き知っていたので、女将のほうで適当な家をさがし出してその女を移らせ、そのあとを葉子が借りる事に取り計らってくれたのだった。倉地が先に行って中の様子を見て来て、杉林《すぎばやし》のために少し日当たりはよくないが、当分の隠れ家《が》としては屈強だといったので、すぐさまそこに移る事に決めたのだった。だれにも知れないように引っ越さねばならぬというので、荷物を小わけして持ち出すのにも、女将《おかみ》は自分の女中たちにまで、それが倉地の本宅に運ばれるものだといって知らせた。運搬人はすべて芝《しば》のほうから頼んで来た。そして荷物があらかた[#「あらかた」に傍点]片づいた所で、ある夜おそく、しかもびしょびしょと吹き降りのする寒い雨風のおりを選んで葉子は幌車《ほろぐるま》に乗った。葉子としてはそれほどの警戒をするには当たらないと思ったけれども、女将《おかみ》がどうしてもきかなかった。安全な所に送り込むまではいったんお引き受けした手まえ、気がすまないといい張った。
 葉子があつらえておいた仕立ておろしの衣類を着かえているとそこに女将《おかみ》も来合わせて脱ぎ返しの世話を見た。襟《えり》の合わせ目をピンで留めながら葉子が着がえを終えて座につくのを見て、女将はうれしそうにもみ手をしながら、
 「これであすこに大丈夫着いてくださりさえすればわたしは重荷が一つ降りると申すものです。しかしこれからがあなたは御大抵《ごたいてい》じゃこざいませんね。あちらの奥様の事など思いますと、どちらにどうお仕向けをしていいやらわたしにはわからなくなります。あなたのお心持ちもわたしは身にしみてお察し申しますが、どこから見ても批点の打ちどころのない奥様のお身の上もわたしには御不憫《ごふびん》で涙がこぼれてしまうんでございますよ。でね、これからの事についちゃわたしはこう決めました。なんでもできます事ならと申し上げたいんでございますけれども、わたしには心底《しんそこ》をお打ち明け申しました所、どちら様にも義理が立ちませんから、薄情でもきょうかぎりこのお話には手をひかせていただきます。……どうか悪くお取りになりませんようにね……どうもわたしはこんなでいながら甲斐性《かいしょう》がございませんで……」
 そういいながら女将《おかみ》は口をきった時のうれしげな様子にも似ず、襦袢《じゅばん》の袖《そで》を引き出すひまもなく目に涙をいっぱいためてしまっていた。葉子にはそれが恨めしくも憎くもなかった。ただ何となく親身《しんみ》な切《せつ》なさが自分の胸にもこみ上げて来た。
 「悪く取るどころですか。世の中の人が一人《ひとり》でもあなたのような心持ちで見てくれたら、わたしはその前に泣きながら頭を下げてありがとうございますという事でしょうよ。これまでのあなたのお心尽くしでわたしはもう充分。またいつか御恩返しのできる事もありましょう。……それではこれで御免くださいまし。お妹御《いもうとご》にもどうか着物のお礼をくれぐれもよろしく」
 少し泣き声になってそういいながら、葉子は女将《おかみ》とその妹|分《ぶん》にあたるという人に礼心《れいごころ》に置いて行こうとする米国製の二つの手携《てさ》げをしまいこんだ違《ちが》い棚《だな》をちょっと見やってそのまま座を立った。
 雨風のために夜はにぎやかな往来もさすがに人通りが絶え絶《だ》えだった。車に乗ろうとして空を見上げると、雲はそう濃くはかかっていないと見えて、新月の光がおぼろに空を明るくしている中をあらし模様の雲が恐ろしい勢いで走っていた。部屋《へや》の中の暖かさに引きかえて、湿気を充分に含んだ風は裾前《すそまえ》をあおってぞくぞくと膚に逼《せま》った。ばたばたと風になぶられる前幌《まえほろ》を車夫がかけようとしているすきから、女将《おかみ》がみずみずしい丸髷《まるまげ》を雨にも風にも思うまま打たせながら、女中のさしかざそうとする雨傘《あまがさ》の陰に隠れようともせず、何か車夫にいい聞かせているのが大事らしく見やられた。車夫が梶棒《かじぼう》をあげようとする時|女将《おかみ》が祝儀袋をその手に渡すのが見えた。
 「さようなら」
 「お大事に」
 はばかるように車の内外《うちそと》から声がかわされた。幌《ほろ》にのしかかって来る風に抵抗しながら車は闇《やみ》の中を動き出した。
 向かい風がうなり[#「うなり」に傍点]を立てて吹きつけて来ると、車夫は思わず車をあおらせて足を止めるほどだった。この四五日|火鉢《ひばち》の前ばかりにいた葉子に取っては身を切るかと思われるような寒さが、厚い膝《ひざ》かけの目まで通して襲って来た。葉子は先ほど女将《おかみ》の言葉を聞いた時にはさほどとも思っていなかったが、少しほどたった今になってみると、それがひしひしと身にこたえるのを感じ出した。自分はひょっ[#「ひょっ」に傍点]とするとあざむかれている、もてあそびものにされている。倉地はやはりどこまでもあの妻子と別れる気はないのだ。ただ長い航海中の気まぐれから、出来心に自分を征服してみようと企てたばかりなのだ。この恋のいきさつ[#「いきさつ」に傍点]が葉子から持ち出されたものであるだけに、こんな心持ちになって来ると、葉子は矢もたてもたまらず自分にひけ目を覚えた。幸福――自分が夢想していた幸福がとうとう来たと誇りがに喜んだその喜びはさもしいぬか喜びに過ぎなかったらしい。倉地は船の中でと同様の喜びでまだ葉子を喜んではいる。それに疑いを入れよう余地はない。けれども美しい貞節な妻と可憐《かれん》な娘を三人まで持っている倉地の心がいつまで葉子にひかされているか、それをだれが語り得よう、葉子の心は幌《ほろ》の中に吹きこむ風の寒さと共に冷えて行った。世の中からきれいに離れてしまった孤独な魂がたった一つそこには見いだされるようにも思えた。どこにうれしさがある、楽しさがある。自分はまた一つの今までに味わわなかったような苦悩の中に身を投げ込もうとしているのだ。またうまうまといたずら者の運命にしてやられたのだ。それにしてももうこの瀬戸ぎわから引く事はできない。死ぬまで……そうだ死んでもこの苦しみに浸りきらずに置くものか。葉子には楽しさが苦しさなのか、苦しさが楽しさなのか、全く見さかいがつかなくなってしまっていた。魂を締め木にかけてその油でもしぼりあげるようなもだえの中にやむにやまれぬ執着を見いだしてわれながら驚くばかりだった。
 ふと車が停《と》まって梶棒《かじぼう》がおろされたので葉子ははっ[#「はっ」に傍点]と夢|心地《ごこち》からわれに返った。恐ろしい吹き降りになっていた。車夫が片足で梶棒を踏まえて、風で車のよろめくのを防ぎながら、前幌《まえほろ》をはずしにかかると、まっ暗だった前方からかすかに光がもれて来た。頭の上ではざあざあと降りしきる雨の中に、荒海の潮騒《しおざい》のような物すごい響きが何か変事でもわいて起こりそうに聞こえていた。葉子は車を出ると風に吹き飛ばされそうになりながら、髪や新調の着物のぬれるのもかまわず空を仰いで見た。漆《うるし》を流したような雲で固くとざされた雲の中に、漆《うるし》よりも色濃くむらむらと立ち騒いでいるのは古い杉《すぎ》の木立《こだ》ちだった。花壇らしい竹垣《たけがき》の中の灌木《かんぼく》の類は枝先を地につけんばかりに吹きなびいて、枯れ葉が渦《うず》のようにばらばらと飛び回っていた。葉子はわれにもなくそこにべったり[#「べったり」に傍点]すわり込んでしまいたくなった。
 「おい早くはいらんかよ、ぬれてしまうじゃないか」
 倉地がランプの灯《ひ》をかばいつつ家の中からどなるのが風に吹きちぎられながら聞こえて来た。倉地がそこにいるという事さえ葉子には意外のようだった。だいぶ離れた所でどたん[#「どたん」に傍点]と戸か何かはずれたような音がしたと思うと、風はまた一しきりうなり[#「うなり」に傍点]を立てて杉叢《すぎむら》をこそいで通りぬけた。車夫は葉子を助けようにも梶棒《かじぼう》を離れれば車をけし飛ばされるので、提灯《ちょうちん》の尻《しり》を風上《かざかみ》のほうに斜《しゃ》に向けて目八|分《ぶ》に上げながら何か大声に後ろから声をかけていた。葉子はすごすごとして玄関口に近づいた。一杯きげんで待ちあぐんだらしい倉地の顔の酒ほてりに似ず、葉子の顔は透き通るほど青ざめていた。なよなよとまず敷き台に腰をおろして、十歩ばかり歩くだけで泥《どろ》になってしまった下駄《げた》を、足先で手伝いながら脱ぎ捨てて、ようやく板の間《ま》に立ち上がってから、うつろな目で倉地の顔をじっ[#「じっ」に傍点]と見入った。
 「どうだった寒かったろう。まあこっちにお上がり」
 そう倉地はいって、そこに出合わしていた女中らしい人に手ランプを渡すと華車《きゃしゃ》な少し急な階子段《はしごだん》をのぼって行った。葉子は吾妻《あずま》コートも脱がずにいいかげんぬれたままで黙ってそのあとからついて行った。
 二階の間《ま》は電燈で昼間《ひるま》より明るく葉子には思われた。戸という戸ががたぴし[#「がたぴし」に傍点]と鳴りはためいていた。板|葺《ぶ》きらしい屋根に一寸|釘《くぎ》でもたたきつけるように雨が降りつけていた。座敷の中は暖かくいきれて、飲み食いする物が散らかっているようだった。葉子の注意の中にはそれだけの事がかろうじてはいって来た。そこに立ったままの倉地に葉子は吸いつけられるように身を投げかけて行った。倉地も迎え取るように葉子を抱いたと思うとそのままそこにどっか[#「どっか」に傍点]とあぐらをかいた。そして自分のほてった頬《ほお》を葉子のにすり付けるとさすがに驚いたように、
 「こりゃどうだ冷えたにも氷のようだ」
 といいながらその顔を見入ろうとした。しかし葉子は無性《むしょう》に自分の顔を倉地の広い暖かい胸に埋《うず》めてしまった。なつかしみと憎しみとのもつれ合った、かつて経験しない激しい情緒がすぐに葉子の涙を誘い出した。ヒステリーのように間歇的《かんけつてき》にひき起こるすすり泣きの声をかみしめてもかみしめてもとめる事ができなかった。葉子はそうしたまま倉地の胸で息気《いき》を引き取る事ができたらと思った。それとも自分のなめているような魂のもだえの中に倉地を巻き込む事ができたらばとも思った。
 いそいそと世話女房らしく喜び勇んで二階に上がって来る葉子を見いだすだろうとばかり思っていたらしい倉地は、この理由も知れぬ葉子の狂体に驚いたらしかった。
 「どうしたというんだな、え」
 と低く力をこめていいながら、葉子を自分の胸から引き離そうとするけれども、葉子はただ無性にかぶりを振るばかりで、駄々児《だだっこ》のように、倉地の胸にしがみついた。できるならその肉の厚い男らしい胸をかみ破って、血みどろになりながらその胸の中に顔を埋めこみたい――そういうように葉子は倉地の着物をかんだ。
 徐《しず》かにではあるけれども倉地の心はだんだん葉子の心持ちに染められて行くようだった。葉子をかき抱《いだ》く倉地の腕の力は静かに加わって行った。その息気《いき》づかいは荒くなって来た。葉子は気が遠くなるように思いながら、締め殺すほど引きしめてくれと念じていた。そして顔を伏せたまま涙のひまから切れ切れに叫ぶように声を放った。
 「捨てないでちょうだいとはいいません……捨てるなら捨ててくださってもようござんす……その代わり……その代わり……はっきり[#「はっきり」に傍点]おっしゃってください、ね……わたしはただ引きずられて行くのがいやなんです……」
 「何をいってるんだお前は……」
 倉地のかんでふくめるような声が耳もと近く葉子にこうささやいた。
 「それだけは……それだけは誓ってください……ごまかすのはわたしはいや……いやです」
 「何を……何をごまかすかい」
 「そんな言葉がわたしはきらいです」
 「葉子!」
 倉地はもう熱情に燃えていた。しかしそれはいつでも葉子を抱いた時に倉地に起こる野獣のような熱情とは少し違っていた。そこにはやさしく女の心をいたわるような影が見えた。葉子はそれをうれしくも思い、物足らなくも思った。
 葉子の心の中は倉地の妻の事をいい出そうとする熱意でいっぱいになっていた。その妻が貞淑な美しい女であると思えば思うほど、その人が二人《ふたり》の間にはさまっているのが呪《のろ》わしかった。たとい捨てられるまでも一度は倉地の心をその女から根こそぎ奪い取らなければ堪念《たんねん》ができないようなひたむきに狂暴な欲念が胸の中でははち切れそうに煮えくり返っていた。けれども葉子はどうしてもそれを口の端《は》に上《のぼ》せる事はできなかった。その瞬間に自分に対する誇りが塵芥《ちりあくた》のように踏みにじられるのを感じたからだ。葉子は自分ながら自分の心がじれったかった。倉地のほうから一言《ひとこと》もそれをいわないのが恨めしかった。倉地はそんな事はいうにも足らないと思っているのかもしれないが……いゝえそんな事はない、そんな事のあろうはずはない。倉地はやはり二股《ふたまた》かけて自分を愛しているのだ。男の心にはそんなみだらな未練があるはずだ。男の心とはいうまい、自分も倉地に出あうまでは、異性に対する自分の愛を勝手に三つにも四つにも裂いてみる事ができたのだ。……葉子はここにも自分の暗い過去の経験のために責めさいなまれた。進んで恋のとりことなったものが当然陥らなければならないたとえようのないほど暗く深い疑惑はあとからあとから口実を作って葉子を襲うのだった。葉子の胸は言葉どおりに張り裂けようとしていた。
 しかし葉子の心が傷《いた》めば傷《いた》むほど倉地の心は熱して見えた。倉地はどうして葉子がこんなにきげんを悪くしているのかを思い迷っている様子だった。倉地はやがてしいて葉子を自分の胸から引き放してその顔を強く見守った。
 「何をそう理屈もなく泣いているのだ……お前はおれを疑《うたぐ》っているな」
 葉子は「疑わないでいられますか」と答えようとしたが、どうしてもそれは自分の面目《めんぼく》にかけて口には出せなかった。葉子は涙に解けて漂うような目を恨めしげに大きく開いて黙って倉地を見返した。
 「きょうおれはとうとう本店から呼び出されたんだった。船の中での事をそれとなく聞きただそうとしおったから、おれは残らずいってのけたよ。新聞におれたちの事が出た時でもが、あわてるがものはないと思っとったんだ。どうせいつかは知れる事だ。知れるほどなら、大っぴらで早いがいいくらいのものだ。近いうちに会社のほうは首になろうが、おれは、葉子、それが満足なんだぞ。自分で自分の面《つら》に泥《どろ》を塗って喜んでるおれがばかに見えような」
 そういってから倉地は激しい力で再び葉子を自分の胸に引き寄せようとした。
 葉子はしかしそうはさせなかった。素早《すばや》く倉地の膝《ひざ》から飛びのいて畳の上に頬《ほお》を伏せた。倉地の言葉をそのまま信じて、素直《すなお》にうれしがって、心を涙に溶いて泣きたかった。しかし万一倉地の言葉がその場のがれの勝手な造り事だったら……なぜ倉地は自分の妻や子供たちの事をいっては聞かせてくれないのだ。葉子はわけのわからない涙を泣くより術《すべ》がなかった。葉子は突《つ》っ伏《ぷ》したままでさめざめと泣き出した。
 戸外のあらしは気勢を加えて、物すさまじくふけて行く夜を荒れ狂った。
 「おれのいうた事がわからんならまあ見とるがいいさ。おれはくどい事は好《す》かんからな」
 そういいながら倉地は自分を抑制しようとするようにしいて落ち着いて、葉巻を取り上げて煙草盆《たばこぼん》を引き寄せた。
 葉子は心の中で自分の態度が倉地の気をまずくしているのをはらはらしながら思いやった。気をまずくするだけでもそれだけ倉地から離れそうなのがこの上なくつらかった。しかし自分で自分をどうする事もできなかった。
 葉子はあらしの中にわれとわが身をさいなみながらさめざめと泣き続けた。

    二七

 「何をわたしは考えていたんだろう。どうかして心が狂ってしまったんだ。こんな事はついぞない事だのに」
 葉子はその夜倉地と部屋《へや》を別にして床についた。倉地は階上に、葉子は階下に。絵島丸以来|二人《ふたり》が離れて寝たのはその夜が始めてだった。倉地が真心《まごころ》をこめた様子でかれこれいうのを、葉子はすげなくはねつけて、せっかくとってあった二階の寝床を、女中に下に運ばしてしまった。横になりはしたがいつまでも寝つかれないで二時近くまで言葉どおりに輾転《てんてん》反側しつつ、繰り返し繰り返し倉地の夫婦関係を種々に妄想《もうそう》したり、自分にまくしかかって来る将来の運命をひたすらに黒く塗ってみたりしていた。それでも果ては頭もからだも疲れ果てて夢ばかりな眠りに陥ってしまった。
 うつらうつらとした眠りから、突然たとえようのないさびしさにひしひしと襲われて、――それはその時見た夢がそんな暗示になったのか、それとも感覚的な不満が目をさましたのかわからなかった――葉子は暗闇《くらやみ》の中に目を開いた。あらしのために電線に故障ができたと見えて、眠る時にはつけ放しにしておいた灯《ひ》がどこもここも消えているらしかった。あらしはしかしいつのまにか凪《な》ぎてしまって、あらしのあとの晩秋の夜はことさら静かだった。山内《さんない》いちめんの杉森《すぎもり》からは深山のような鬼気《きき》がしんしんと吐き出されるように思えた。こおろぎが隣の部屋のすみでかすれがすれに声を立てていた。わずかなしかも浅い睡眠には過ぎなかったけれども葉子の頭は暁|前《まえ》の冷えを感じて冴《さ》え冴《ざ》えと澄んでいた。葉子はまず自分がたった一人《ひとり》で寝ていた事を思った。倉地と関係がなかったころはいつでも一人で寝ていたのだが、よくもそんな事が長年にわたってできたものだったと自分ながら不思議に思われるくらい、それは今の葉子を物足らなく心さびしくさせていた。こうして静かな心になって考えると倉地の葉子に対する愛情が誠実であるのを疑うべき余地はさらになかった。日本に帰ってから幾日にもならないけれども、今まではとにかく倉地の熱意に少しも変わりが起こった所は見えなかった。いかに恋に目がふさがっても、葉子はそれを見きわめるくらいの冷静な眼力《がんりき》は持っていた。そんな事は充分に知り抜いているくせに、おぞましくも昨夜のようなばかなまねをしてしまった自分が自分ながら不思議なくらいだった。どんなに情に激した時でもたいていは自分を見失うような事はしないで通して来た葉子にはそれがひどく恥ずかしかった。船の中にいる時にヒステリーになったのではないかと疑った事が二三度ある――それがほんとうだったのではないかしらんとも思われた。そして夜着にかけた洗い立てのキャリコの裏の冷え冷えするのをふくよかな頤《おとがい》に感じながら心の中で独語《ひとりご》ちた。
 「何をわたしは考えていたんだろう。どうかして心が狂ってしまったんだ。こんな事はついぞない事だのに」
 そういいながら葉子は肩だけ起き直って、枕《まくら》もとの水を手さぐりでしたたか飲みほした。氷のように冷えきった水が喉《のど》もとを静かに流れ下って胃の腑《ふ》に広がるまではっきり[#「はっきり」に傍点]と感じられた。酒も飲まないのだけれども、酔後の水と同様に、胃の腑に味覚ができて舌の知らない味を味わい得たと思うほど快く感じた。それほど胸の中は熱を持っていたに違いない。けれども足のほうは反対に恐ろしく冷えを感じた。少しその位置を動かすと白さをそのままな寒い感じがシーツから逼《せま》って来るのだった。葉子はまたきびしく倉地の胸を思った。それは寒さと愛着とから葉子を追い立てて二階に走らせようとするほどだった。しかし葉子はすでにそれをじっ[#「じっ」に傍点]とこらえるだけの冷静さを回復していた。倉地の妻に対する処置は昨夜のようであっては手ぎわよくは成し遂げられぬ。もっと冷たい知恵に力を借りなければならぬ――こう思い定めながら暁の白《しら》むのを知らずにまた眠りに誘われて行った。
 翌日葉子はそれでも倉地より先に目をさまして手早く着がえをした。自分で板戸を繰りあけて見ると、縁先には、枯れた花壇の草や灌木《かんぼく》が風のために吹き乱された小庭があって、その先は、杉《すぎ》、松、その他の喬木《きょうぼく》の茂みを隔てて苔香園《たいこうえん》の手広い庭が見やられていた。きのうまでいた双鶴館《そうかくかん》の周囲とは全く違った、同じ東京の内とは思われないような静かな鄙《ひな》びた自然の姿が葉子の目の前には見渡された。まだ晴れきらない狭霧《さぎり》をこめた空気を通して、杉の葉越しにさしこむ朝の日の光が、雨にしっとり[#「しっとり」に傍点]と潤った庭の黒土の上に、まっすぐな杉の幹を棒縞《ぼうじま》のような影にして落としていた。色さまざまな桜の落ち葉が、日向《ひなた》では黄に紅《くれない》に、日影では樺《かば》に紫に庭をいろどっていた。いろどっているといえば菊の花もあちこちにしつけられていた。しかし一帯の趣味は葉子の喜ぶようなものではなかった。塵《ちり》一つさえないほど、貧しく見える瀟洒《しょうしゃ》な趣味か、どこにでも金銀がそのまま捨ててあるような驕奢《きょうしゃ》な趣味でなければ満足ができなかった。残ったのを捨てるのが惜しいとかもったいないとかいうような心持ちで、余計な石や植木などを入れ込んだらしい庭の造りかたを見たりすると、すぐさまむしり取って目にかからない所に投げ捨てたく思うのだった。その小庭を見ると葉子の心の中にはそれを自分の思うように造り変える計画がうずうずするほどわき上がって来た。
 それから葉子は家の中をすみからすみまで見て回った。きのう玄関口に葉子を出迎えた女中が、戸を繰る音を聞きつけて、いち早く葉子の所に飛んで来たのを案内に立てた。十八九の小ぎれいな娘で、きびきびした気象らしいのに、いかにも蓮《はす》っ葉《ぱ》でない、主人を持てば主人思いに違いないのを葉子は一目で見ぬいて、これはいい人だと思った。それはやはり双鶴館の女将《おかみ》が周旋してよこした、宿に出入りの豆腐屋の娘だった。つや(彼女の名はつやといった)は階子段《はしごだん》下の玄関に続く六畳の茶の間から始めて、その隣の床の間付きの十二畳、それから十二畳と廊下を隔てて玄関とならぶ茶席|風《ふう》の六畳を案内し、廊下を通った突き当たりにある思いのほか手広い台所、風呂場《ふろば》を経て張り出しになっている六畳と四畳半(そこがこの家を建てた主人の居間となっていたらしく、すべての造作に特別な数寄《すき》が凝らしてあった)に行って、その雨戸を繰り明けて庭を見せた。そこの前栽は割合に荒れずにいて、ながめが美しかったが、葉子は垣根《かきね》越しに苔香園《たいこうえん》の母屋《おもや》の下の便所らしいきたない建て物の屋根を見つけて困ったものがあると思った。そのほかには台所のそばにつやの四畳半の部屋《へや》が西向きについていた。女中部屋を除いた五つの部屋はいずれもなげし[#「なげし」に傍点]付きになって、三つまでは床の間さえあるのに、どうして集めたものかとにかく掛け物なり置き物なりがちゃん[#「ちゃん」に傍点]と飾られていた。家の造りや庭の様子などにはかなりの注文も相当の眼識も持ってはいたが、絵画や書の事になると葉子はおぞましくも鑑識の力がなかった。生まれつき機敏に働く才気のお陰で、見たり聞いたりした所から、美術を愛好する人々と膝《ひざ》をならべても、とにかくあまりぼろ[#「ぼろ」に傍点]らしいぼろ[#「ぼろ」に傍点]は出さなかったが、若い美術家などがほめる作品を見てもどこが優《すぐ》れてどこに美しさがあるのか葉子には少しも見当のつかない事があった。絵といわず字といわず、文学的の作物などに対しても葉子の頭はあわれなほど通俗的であるのを葉子は自分で知っていた。しかし葉子は自分の負けじ魂から自分の見方が凡俗だとは思いたくなかった。芸術家などいう連中には、骨董《こっとう》などをいじくって古味《ふるみ》というようなものをありがたがる風流人と共通したような気取りがある。その似而非《えせ》気取りを葉子は幸いにも持ち合わしていないのだと決めていた。葉子はこの家に持ち込まれている幅物《ふくもの》を見て回っても、ほんとうの値打ちがどれほどのものだかさらに見当がつかなかった。ただあるべき所にそういう物のあることを満足に思った。
 つやの部屋のきちんと手ぎわよく片づいているのや、二三日|空家《あきや》になっていたのにも係わらず、台所がきれいにふき掃除《そうじ》がされていて、布巾《ふきん》などが清々《すがすが》しくからからにかわかしてかけてあったりするのは一々葉子の目を快く刺激した。思ったより住まい勝手のいい家と、はきはきした清潔ずきな女中とを得た事がまず葉子の寝起きの心持ちをすがすがしくさせた。
 葉子はつやのくんで出したちょうどいいかげんの湯で顔を洗って、軽く化粧をした。昨夜の事などは気にもかからないほど心は軽かった。葉子はその軽い心を抱きながら静かに二階に上がって行った。何とはなしに倉地に甘えたいような、わびたいような気持ちでそっ[#「そっ」に傍点]と襖《ふすま》を明けて見ると、あの強烈な倉地の膚の香《にお》いが暖かい空気に満たされて鼻をかすめて来た。葉子はわれにもなく駆けよって、仰向けに熟睡している倉地の上に羽《は》がいにのしかかった。
 暗い中で倉地は目ざめたらしかった。そして黙ったまま葉子の髪や着物から花《か》べんのようにこぼれ落ちるなまめかしい香《かお》りを夢|心地《ごこち》でかいでいるようだったが、やがて物たるげに、
 「もう起きたんか。何時《なんじ》だな」
 といった。まるで大きな子供のようなその無邪気さ。葉子は思わず自分の頬《ほお》を倉地のにすりつけると、寝起きの倉地の頬は火のように熱く感ぜられた。
 「もう八時。……お起きにならないと横浜のほうがおそくなるわ」
 倉地はやはり物たるげに、袖口《そでぐち》からにょきん[#「にょきん」に傍点]と現われ出た太い腕を延べて、短い散切《ざんぎ》り頭をごしごしとかき回しながら、
 「横浜?……横浜にはもう用はないわい。いつ首になるか知れないおれがこの上の御奉公をしてたまるか。これもみんなお前のお陰だぞ。業《ごう》つくばりめ」
 といっていきなり[#「いきなり」に傍点]葉子の首筋を腕にまいて自分の胸に押しつけた。
 しばらくして倉地は寝床を出たが、昨夜の事などはけろり[#「けろり」に傍点]と忘れてしまったように平気でいた。二人《ふたり》が始めて離れ離《ばな》れに寝たのにも一言《ひとこと》もいわないのがかすかに葉子を物足らなく思わせたけれども、葉子は胸が広々としてなんという事もなく喜ばしくってたまらなかった。で、倉地を残して台所におりた。自分で自分の食べるものを料理するという事にもかつてない物珍しさとうれしさとを感じた。
 畳一|畳《じょう》がた日のさしこむ茶の間の六畳で二人は朝餉《あさげ》の膳《ぜん》に向かった。かつては葉山《はやま》で木部と二人でこうした楽しい膳に向かった事もあったが、その時の心持ちと今の心持ちとを比較する事もできないと葉子は思った。木部は自分でのこのこと台所まで出かけて来て、長い自炊の経験などを得意げに話して聞かせながら、自分で米をといだり、火をたきつけたりした。その当座は葉子もそれを楽しいと思わないではなかった。しかししばらくのうちにそんな事をする木部の心持ちがさもしくも思われて来た。おまけに木部は一日一日とものぐさになって、自分では手を下しもせずに、邪魔になる所に突っ立ったままさしずがましい事をいったり、葉子には何らの感興も起こさせない長詩を例の御自慢の美しい声で朗々と吟じたりした。葉子はそんな目にあうと軽蔑《けいべつ》しきった冷ややかなひとみでじろり[#「じろり」に傍点]と見返してやりたいような気になった。倉地は始めからそんな事はてんで[#「てんで」に傍点]しなかった。大きな駄々児《だだっこ》のように、顔を洗うといきなり[#「いきなり」に傍点]膳《ぜん》の前にあぐらをかいて、葉子が作って出したものを片端からむしゃむしゃときれいに片づけて行った。これが木部だったら、出す物の一つ一つに知ったかぶりの講釈をつけて、葉子の腕まえを感傷的にほめちぎって、かなりたくさんを食わずに残してしまうだろう。そう思いながら葉子は目でなでさするようにして倉地が一心に箸《はし》を動かすのを見守らずにはいられなかった。
 やがて箸と茶わんとをからり[#「からり」に傍点]となげ捨てると、倉地は所在なさそうに葉巻をふかしてしばらくそこらをながめ回していたが、いきなり[#「いきなり」に傍点]立ち上がって尻《しり》っぱしょり[#「ぱしょり」に傍点]をしながら裸足《はだし》のまま庭に飛んで降りた。そしてハーキュリーズが針仕事でもするようなぶきっちょう[#「ぶきっちょう」に傍点]な様子で、狭い庭を歩き回りながら片すみから片づけ出した。まだびしゃ[#「びしゃ」に傍点]びしゃするような土の上に大きな足跡が縦横にしるされた。まだ枯れ果てない菊や萩《はぎ》などが雑草と一緒くたに情けも容赦もなく根こぎにされるのを見るとさすがの葉子もはらはらした。そして縁ぎわにしゃがんで柱にもたれながら、時にはあまりのおかしさに高く声をあげて笑いこけずにはいられなかった。
 倉地は少し働き疲れると苔香園のほうをうかがったり、台所のほうに気を配ったりしておいて、大急ぎで葉子のいる所に寄って来た。そして泥《どろ》になった手を後ろに回して、上体を前に折り曲げて、葉子の鼻の先に自分の顔を突き出してお壺口《つぼぐち》をした。葉子もいたずららしく周囲に目を配ってその顔を両手にはさみながら自分の口びるを与えてやった。倉地は勇み立つようにしてまた土の上にしゃがみこんだ。
 倉地はこうして一日働き続けた。日がかげるころになって葉子も一緒に庭に出てみた。ただ乱暴な、しょう事なしのいたずら仕事とのみ思われたものが、片づいてみるとどこからどこまで要領を得ているのを発見するのだった。葉子が気にしていた便所の屋根の前には、庭のすみにあった椎《しい》の木が移してあったりした。玄関前の両側の花壇の牡丹《ぼたん》には、藁《わら》で器用に霜がこいさえしつらえてあった。
 こんなさびしい杉森の中の家にも、時々紅葉館のほうから音曲の音がくぐもるように聞こえて来たり、苔香園《たいこうえん》から薔薇《ばら》の香《かお》りが風の具合でほんのり[#「ほんのり」に傍点]とにおって来たりした。ここにこうして倉地と住み続ける喜ばしい期待はひと向きに葉子の心を奪ってしまった。
 平凡な人妻となり、子を生み、葉子の姿を魔物か何かのように冷笑《あざわら》おうとする、葉子の旧友たちに対して、かつて葉子がいだいていた火のような憤りの心、腐っても死んでもあんなまねはして見せるものかと誓うように心であざけったその葉子は、洋行前の自分というものをどこかに置き忘れたように、そんな事は思いも出さないで、旧友たちの通《とお》って来た道筋にひた走りに走り込もうとしていた。

    二八

 こんな夢のような楽しさがたわいもなく一週間ほどはなんの故障もひき起こさずに続いた。歓楽に耽溺《たんでき》しやすい、従っていつでも現在をいちばん楽しく過ごすのを生まれながら本能としている葉子は、こんな有頂天《うちょうてん》な境界《きょうがい》から一歩でも踏み出す事を極端に憎んだ。葉子が帰ってから一度しか会う事のできない妹たちが、休日にかけてしきりに遊びに来たいと訴え来るのを、病気だとか、家の中が片づかないとか、口実を設けて拒んでしまった。木村からも古藤の所か五十川《いそがわ》女史の所かにあててたよりが来ているには相違ないと思ったけれども、五十川女史はもとより古藤の所にさえ住所が知らしてないので、それを回送してよこす事もできないのを葉子は知っていた。定子――この名は時々葉子の心を未練がましくさせないではなかった。しかし葉子はいつでも思い捨てるようにその名を心の中から振り落とそうと努めた。倉地の妻の事は何かの拍子《ひょうし》につけて心を打った。この瞬間だけは葉子の胸は呼吸もできないくらい引き締められた。それでも葉子は現在目前の歓楽をそんな心痛で破らせまいとした。そしてそのためには倉地にあらん限りの媚《こ》びと親切とをささげて、倉地から同じ程度の愛撫《あいぶ》をむさぼろうとした。そうする事が自然にこの難題に解決をつける導火線《みちび》にもなると思った。
 倉地も葉子に譲らないほどの執着をもって葉子がささげる杯から歓楽を飲み飽きようとするらしかった。不休の活動を命《いのち》としているような倉地ではあったけれども、この家に移って来てから、家を明けるような事は一度もなかった。それは倉地自身が告白するように破天荒《はてんこう》な事だったらしい。二人《ふたり》は、初めて恋を知った少年少女が世間《せけん》も義理も忘れ果てて、生命《いのち》さえ忘れ果てて肉体を破ってまでも魂を一つに溶かしたいとあせる、それと同じ熱情をささげ合って互い互いを楽しんだ。楽しんだというよりも苦しんだ。その苦しみを楽しんだ。倉地はこの家に移って以来新聞も配達させなかった。郵便だけは移転通知をして置いたので倉地の手もとに届いたけれども、倉地はその表書きさえ目を通そうとはしなかった。毎日の郵便はつやの手によって束《たば》にされて、葉子が自分の部屋《へや》に定めた玄関わきの六畳の違《ちが》い棚《だな》にむなしく積み重ねられた。葉子の手もとには妹たちからのほかには一枚のはがきさえ来なかった。それほど世間から自分たちを切り放しているのを二人《ふたり》とも苦痛とは思わなかった。苦痛どころではない、それが幸いであり誇りであった。門には「木村」とだけ書いた小さい門札《もんさつ》が出してあった。木村という平凡な姓は二人の楽しい巣を世間にあばくような事はないと倉地がいい出したのだった。
 しかしこんな生活を倉地に長い間要求するのは無理だということを葉子はついに感づかねばならなかった。ある夕食の後《のち》倉地は二階の一|間《ま》で葉子を力強く膝《ひざ》の上に抱き取って、甘い私語《ささやき》を取りかわしていた時、葉子が情に激して倉地に与えた熱い接吻《せっぷん》の後にすぐ、倉地が思わず出たあくびをじっ[#「じっ」に傍点]とかみ殺したのをいち早く見て取ると、葉子はこの種の歓楽がすでに峠を越した事を知った。その夜は葉子には不幸な一夜だった。かろうじて築き上げた永遠の城塞《じょうさい》が、はかなくも瞬時の蜃気楼《しんきろう》のように見る見るくずれて行くのを感じて、倉地の胸に抱かれながらほとんど一夜を眠らずに通してしまった。
 それでも翌日になると葉子は快活になっていた。ことさら快活に振る舞おうとしていたには違いないけれども、葉子の倉地に対する溺愛《できあい》は葉子をしてほとんど自然に近い容易さをもってそれをさせるに充分だった。
 「きょうはわたしの部屋《へや》でおもしろい事して遊びましょう。いらっしゃいな」
 そういって少女が少女を誘うように牡牛《おうし》のように大きな倉地を誘った。倉地は煙《けむ》ったい顔をしながら、それでもそのあとからついて来た。
 部屋はさすがに葉子のものであるだけ、どことなく女性的な軟《やわ》らか味を持っていた。東向きの腰高窓《こしだかまど》には、もう冬といっていい十一月末の日が熱のない強い光を射《い》つけて、アメリカから買って帰った上等の香水をふりかけた匂《にお》い玉《だま》からかすかながらきわめて上品な芳芬《ほうふん》を静かに部屋の中にまき散らしていた。葉子はその匂い玉の下がっている壁ぎわの柱の下に、自分にあてがわれたきらびやか[#「きらびやか」に傍点]な縮緬《ちりめん》の座ぶとんを移して、それに倉地をすわらせておいて、違《ちが》い棚《だな》から郵便の束をいくつとなく取りおろして来た。
 「さあけさは岩戸のすきから世の中をのぞいて見るのよ。それもおもしろいでしょう」
 といいながら倉地に寄り添った。倉地は幾十通とある郵便物を見たばかりでいいかげんげんなり[#「げんなり」に傍点]した様子だったが、だんだんと興味を催して来たらしく、日の順に一つの束からほどき始めた。
 いかにつまらない事務用の通信でも、交通|遮断《しゃだん》の孤島か、障壁で高く囲まれた美しい牢獄《ろうごく》に閉じこもっていたような二人に取っては予想以上の気散《きさん》じだった。倉地も葉子もありふれた文句にまで思い存分の批評を加えた。こういう時の葉子はそのほとばしるような暖かい才気のために世にすぐれておもしろ味の多い女になった。口をついて出る言葉言葉がどれもこれも絢爛《けんらん》な色彩に包まれていた。二日目の所には岡《おか》から来た手紙が現われ出た。船の中での礼を述べて、とうとう葉子と同じ船で帰って来てしまったために、家元《いえもと》では相変わらずの薄志弱行と人|毎《ごと》に思われるのが彼を深く責める事や、葉子に手紙を出したいと思ってあらゆる手がかりを尋ねたけれども、どうしてもわからないので会社で聞き合わせて事務長の住所を知り得たからこの手紙を出すという事や、自分はただただ葉子を姉と思って尊敬もし慕いもしているのだから、せめてその心を通わすだけの自由が与えてもらいたいという事だのが、思い入った調子で、下手《へた》な字体で書いてあった。葉子は忘却《ぼうきゃく》の廃址《はいし》の中から、生々《なまなま》とした少年の大理石像を掘りあてた人のようにおもしろがった。
 「わたしが愛子の年ごろだったらこの人と心中《しんじゅう》ぐらいしているかもしれませんね。あんな心を持った人でも少し齢《とし》を取ると男はあなたみたいになっちまうのね」
 「あなたとはなんだ」
 「あなたみたいな悪党に」
 「それはお門《かど》が違うだろう」
 「違いませんとも……御同様にというほうがいいわ。私は心だけあなたに来て、からだはあの人にやるとほんとはよかったんだが……」
 「ばか! おれは心なんぞに用はないわい」
 「じゃ心のほうをあの人にやろうかしらん」
 「そうしてくれ。お前にはいくつも心があるはずだから、ありったけくれてしまえ」
 「でもかわいそうだからいちばん小さそうなのを一つだけあなたの分に残して置きましょうよ」
 そういって二人《ふたり》は笑った。倉地は返事を出すほうに岡のその手紙を仕分《しわ》けた。葉子はそれを見て軽い好奇心がわくのを覚えた。
 たくさんの中からは古藤のも出て来た。あて名は倉地だったけれども、その中からは木村から葉子に送られた分厚《ぶあつ》な手紙だけが封じられていた。それと同時な木村の手紙があとから二本まで現われ出た。葉子は倉地の見ている前で、そのすべてを読まないうちにずたずたに引き裂いてしまった。
 「ばかな事をするじゃない。読んで見るとおもしろかったに」
 葉子を占領しきった自信を誇りがな微笑に見せながら倉地はこういった。
 「読むとせっかくの昼御飯がおいしくなくなりますもの」
 そういって葉子は胸《むな》くその悪いような顔つきをして見せた。二人はまたたわいなく笑った。
 報正新報社からのもあった。それを見ると倉地は、一時はもみ消しをしようと思ってわたり[#「わたり」に傍点]をつけたりしたのでこんなものが来ているのだがもう用はなくなったので見るには及ばないといって、今度は倉地が封のままに引き裂いてしまった。葉子はふと自分が木村の手紙を裂いた心持ちを倉地のそれにあてはめてみたりした。しかしその疑問もすぐ過ぎ去ってしまった。
 やがて郵船会社からあてられた江戸川紙《えどがわし》の大きな封書が現われ出た。倉地はちょっと眉《まゆ》に皺《しわ》をよせて少し躊躇《ちゅうちょ》したふうだったが、それを葉子の手に渡して葉子に開封させようとした。何の気なしにそれを受け取った葉子は魔がさしたようにはっ[#「はっ」に傍点]と思った。とうとう倉地は自分のために……葉子は少し顔色を変えながら封を切って中から卒業証書のような紙を二枚と、書記が丁寧に書いたらしい書簡一封とを探り出した。
 はたしてそれは免職と、退職慰労との会社の辞令だった。手紙には退職慰労金の受け取り方《かた》に関する注意が事々しい行書《ぎょうしょ》で書いてあるのだった。葉子はなんといっていいかわからなかった。こんな恋の戯れの中からかほどな打撃を受けようとは夢にも思ってはいなかったのだ。倉地がここに着いた翌日葉子にいって聞かせた言葉はほんとうの事だったのか。これほどまでに倉地は真身《しんみ》になってくれていたのか。葉子は辞令を膝《ひざ》の上に置いたまま下を向いて黙ってしまった。目がしらの所が非常に熱い感じを得たと思った、鼻の奥が暖かくふさがって来た。泣いている場合ではないと思いながらも、葉子は泣かずにはいられないのを知り抜いていた。
 「ほんとうに私がわるうございました……許してくださいまし……(そういううちに葉子はもう泣き始めていた)……私はもう日陰の妾《めかけ》としてでも囲い者としてでもそれで充分に満足します。えゝ、それでほんとうにようござんす。わたしはうれしい……」
 倉地は今さら何をいうというような平気な顔で葉子の泣くのを見守っていたが、
 「妾《めかけ》も囲い者もあるかな、おれには女はお前|一人《ひとり》よりないんだからな。離縁状は横浜の土を踏むと一緒に嬶《かかあ》に向けてぶっ飛ばしてあるんだ」
 といってあぐらの膝《ひざ》で貧乏ゆすりをし始めた。さすがの葉子も息気《いき》をつめて、泣きやんで、あきれて倉地の顔を見た。
 「葉子、おれが木村以上にお前に深惚《ふかぼ》れしているといつか船の中でいって聞かせた事があったな。おれはこれでいざとなると心にもない事はいわないつもりだよ。双鶴館《そうかくかん》にいる間もおれは幾日も浜には行きはしなんだのだ。たいていは家内《かない》の親類たちとの談判で頭を悩ませられていたんだ。だがたいていけりがついたから、おれは少しばかり手回りの荷物だけ持って一足《ひとあし》先にここに越して来たのだ。……もうこれでええや。気がすっぱり[#「すっぱり」に傍点]したわ。これには双鶴館のお内儀《かみ》も驚きくさるだろうて……」
 会社の辞令ですっかり[#「すっかり」に傍点]倉地の心持ちをどん底《ぞこ》から感じ得た葉子は、この上倉地の妻の事を疑うべき力は消え果てていた。葉子の顔は涙にぬれひたりながらそれをふき取りもせず、倉地にすり寄って、その両肩に手をかけて、ぴったり[#「ぴったり」に傍点]と横顔を胸にあてた。夜となく昼となく思い悩みぬいた事がすでに解決されたので、葉子は喜んでも喜んでも喜び足りないように思った。自分も倉地と同様に胸の中がすっきり[#「すっきり」に傍点]すべきはずだった。けれどもそうは行かなかった。葉子はいつのまにか去られた倉地の妻その人のようなさびしい悲しい自分になっているのを発見した。
 倉地はいとしくってならぬようにエボニー色の雲のようにまっ黒にふっくり[#「ふっくり」に傍点]と乱れた葉子の髪の毛をやさしくなで回した。そしていつもに似ずしんみり[#「しんみり」に傍点]した調子になって、
 「とうとうおれも埋《うも》れ木《ぎ》になってしまった。これから地面の下で湿気を食いながら生きて行くよりほかにはない。――おれは負け惜しみをいうはきらいだ。こうしている今でもおれは家内や娘たちの事を思うと不憫《ふびん》に思うさ。それがない事ならおれは人間じゃないからな。……だがおれはこれでいい。満足この上なしだ。……自分ながらおれはばかになり腐ったらしいて」
 そういって葉子の首を固くかきいだいた。葉子は倉地の言葉を酒のように酔い心地《ごこち》にのみ込みながら「あなただけにそうはさせておきませんよ。わたしだって定子をみごとに捨てて見せますからね」と心の中で頭を下げつつ幾度もわびるように繰り返していた。それがまた自分で自分を泣かせる暗示となった。倉地の胸に横たえられた葉子の顔は、綿入れと襦袢《じゅばん》とを通して倉地の胸を暖かく侵すほど熱していた。倉地の目も珍しく曇っていた。そうして泣き入る葉子を大事そうにかかえたまま、倉地は上体を前後に揺すぶって、赤子《あかご》でも寝かしつけるようにした。戸外ではまた東京の初冬に特有な風が吹き出たらしく、杉森《すぎもり》がごう[#「ごう」に傍点]ごうと鳴りを立てて、枯れ葉が明るい障子に飛鳥のような影を見せながら、からからと音を立ててかわいた紙にぶつかった。それは埃立《ほこりだ》った、寒い東京の街路を思わせた。けれども部屋《へや》の中は暖かだった。葉子は部屋の中が暖かなのか寒いのかさえわからなかった。ただ自分の心が幸福にさびしさに燃えただれているのを知っていた。ただこのままで永遠は過ぎよかし。ただこのままで眠りのような死の淵《ふち》に陥れよかし。とうとう倉地の心と全く融《と》け合った自分の心を見いだした時、葉子の魂の願いは生きようという事よりも死のうという事だった。葉子はその悲しい願いの中に勇み甘んじておぼれて行った。

    二九

 この事があってからまたしばらくの間、倉地は葉子とただ二人《ふたり》の孤独に没頭する興味を新しくしたように見えた。そして葉子が家の中をいやが上にも整頓《せいとん》して、倉地のために住み心地《ごこち》のいい巣を造る間に、倉地は天気さえよければ庭に出て、葉子の逍遙《しょうよう》を楽しませるために精魂を尽くした。いつ苔香園《たいこうえん》との話をつけたものか、庭のすみに小さな木戸を作って、その花園の母屋《おもや》からずっ[#「ずっ」に傍点]と離れた小逕《こみち》に通いうる仕掛けをしたりした。二人は時々その木戸をぬけて目立たないように、広々とした苔香園の庭の中をさまよった。店の人たちは二人の心を察するように、なるべく二人から遠ざかるようにつとめてくれた。十二月の薔薇《ばら》の花園はさびしい廃園の姿を目の前に広げていた。可憐《かれん》な花を開いて可憐な匂《にお》いを放つくせにこの灌木《かんぼく》はどこか強い執着を持つ植木だった。寒さにも霜にもめげず、その枝の先にはまだ裏咲きの小さな花を咲かせようともがいているらしかった。種々な色のつぼみがおおかた葉の散り尽くしたこずえにまで残っていた。しかしその花べんは存分に霜にしいたげられて、黄色に変色して互いに膠着《こうちゃく》して、恵み深い日の目にあっても開きようがなくなっていた。そんな間を二人は静かな豊かな心でさまよった。風のない夕暮れなどには苔香園の表門を抜けて、紅葉館前のだらだら坂を東照宮《とうしょうぐう》のほうまで散歩するような事もあった。冬の夕方の事とて人通りはまれで二人がさまよう道としてはこの上もなかった。葉子はたまたま行きあう女の人たちの衣装を物珍しくながめやった。それがどんなに粗末な不格好な、いでたち[#「いでたち」に傍点]であろうとも、女は自分以外の女の服装をながめなければ満足できないものだと葉子は思いながらそれを倉地にいってみたりした。つやの髪から衣服までを毎日のように変えて装わしていた自分の心持ちにも葉子は新しい発見をしたように思った。ほんとうは二人だけの孤独に苦しみ始めたのは倉地だけではなかったのか。ある時にはそのさびしい坂道の上下から、立派な馬車や抱《かか》え車《ぐるま》が続々坂の中段を目ざして集まるのにあう事があった。坂の中段から紅葉館の下に当たる辺に導かれた広い道の奥からは、能楽《のうがく》のはやし[#「はやし」に傍点]の音がゆかしげにもれて来た。二人は能楽堂での能の催しが終わりに近づいているのを知った。同時にそんな事を見たのでその日が日曜日である事にも気がついたくらい二人の生活は世間からかけ離れていた。
 こうした楽しい孤独もしかしながら永遠には続き得ない事を、続かしていてはならない事を鋭い葉子の神経は目ざとくさとって行った。ある日倉地が例のように庭に出て土いじりに精を出している間に、葉子は悪事でも働くような心持ちで、つやにいいつけて反古紙《ほごがみ》を集めた箱を自分の部屋《へや》に持って来《こ》さして、いつか読みもしないで破ってしまった木村からの手紙を選《え》り出そうとする自分を見いだしていた。いろいろな形に寸断された厚い西洋紙の断片が木村の書いた文句の断片をいくつもいくつも葉子の目にさらし出した。しばらくの間《あいだ》葉子は引きつけられるようにそういう紙片を手当たり次第に手に取り上げて読みふけった。半成の画《え》が美しいように断簡にはいい知れぬ情緒が見いだされた。その中に正しく織り込まれた葉子の過去が多少の力を集めて葉子に逼《せま》って来るようにさえ思え出した。葉子はわれにもなくその思い出に浸って行った。しかしそれは長い時が過ぎる前にくずれてしまった。葉子はすぐ現実に取って返していた。そしてすべての過去に嘔《は》き気《け》のような不快を感じて箱ごと台所に持って行くとつやに命じて裏庭でその全部を焼き捨てさせてしまった。
 しかしこの時も葉子は自分の心で倉地の心を思いやった。そしてそれがどうしてもいい徴候でない事を知った。そればかりではない。二人《ふたり》は霞《かすみ》を食って生きる仙人《せんにん》のようにしては生きていられないのだ。職業を失った倉地には、口にこそ出さないが、この問題は遠からず大きな問題として胸に忍ばせてあるのに違いない。事務長ぐらいの給料で余財ができているとは考えられない。まして倉地のように身分不相応な金づかいをしていた男にはなおの事だ。その点だけから見てもこの孤独は破られなければならぬ。そしてそれは結局二人のためにいい事であるに相違ない。葉子はそう思った。
 ある晩それは倉地のほうから切り出された。長い夜を所在なさそうに読みもしない書物などをいじくっていたが、ふと思い出したように、
 「葉子。一つお前の妹たちを家に呼ぼうじゃないか……それからお前の子供っていうのもぜひここで育てたいもんだな。おれも急に三人まで子を失《な》くしたらさびしくってならんから……」
 飛び立つような思いを葉子はいち早くもみごとに胸の中で押ししずめてしまった。そうして、
 「そうですね」
 といかにも興味なげにいってゆっくり[#「ゆっくり」に傍点]と倉地の顔を見た。
 「それよりあなたのお子さんを一人《ひとり》なり二人なり来てもらったらいかが。……わたし奥さんの事を思うといつでも泣きます(葉子はそういいながらもう涙をいっぱいに目にためていた)。けれどわたしは生きてる間は奥さんを呼び戻《もど》して上げてくださいなんて……そんな偽善者じみた事はいいません。わたしにはそんな心持ちはみじんもありませんもの。お気の毒なという事と、二人がこうなってしまったという事とは別物ですものねえ。せめては奥さんがわたしを詛《のろ》い殺そうとでもしてくだされば少しは気持ちがいいんだけれども、しとやかにしてお里に帰っていらっしゃると思うとつい身につまされてしまいます。だからといってわたしは自分が命をなげ出して築き上げた幸福を人に上げる気にはなれません。あなたがわたしをお捨てになるまではね、喜んでわたしはわたしを通すんです。……けれどもお子さんならわたしほんとうにちっとも[#「ちっとも」に傍点]構いはしない事よ。どうお呼び寄せになっては?」
 「ばかな。今さらそんな事ができてたまるか」倉地はかんで捨てるようにそういって横を向いてしまった。ほんとうをいうと倉地の妻の事をいった時には葉子は心の中をそのままいっていたのだ。その娘たちの事をいった時にはまざまざとした虚言《うそ》をついていたのだ。葉子の熱意は倉地の妻をにおわせるものはすべて憎かった。倉地の家のほうから持ち運ばれた調度すら憎かった。ましてその子が呪《のろ》わしくなくってどうしよう。葉子は単に倉地の心を引いてみたいばかりに怖々《こわごわ》ながら心にもない事をいってみたのだった。倉地のかんで捨てるような言葉は葉子を満足させた。同時に少し強すぎるような語調が懸念でもあった。倉地の心底をすっかり[#「すっかり」に傍点]見て取ったという自信を得たつもりでいながら、葉子の心は何か機《おり》につけてこうぐらついた。
 「わたしがぜひというんだから構わないじゃありませんか」
 「そんな負け惜しみをいわんで、妹たちなり定子なりを呼び寄せようや」
 そういって倉地は葉子の心をすみずみまで見抜いてるように、大きく葉子を包みこむように見やりながら、いつもの少し渋いような顔をしてほほえんだ。
 葉子はいい潮時を見計らって巧みにも不承不承《ふしょうぶしょう》そうに倉地の言葉に折れた。そして田島の塾《じゅく》からいよいよ妹たち二人《ふたり》を呼び寄せる事にした。同時に倉地はその近所に下宿するのを余儀なくされた。それは葉子が倉地との関係をまだ妹たちに打ち明けてなかったからだ。それはもう少し先に適当な時機を見計らって知らせるほうがいいという葉子の意見だった。倉地にもそれに不服はなかった。そして朝から晩まで一緒に寝起きをするよりは、離れた所に住んでいて、気の向いた時にあうほうがどれほど二人の間の戯れの心を満足させるかしれないのを、二人はしばらくの間の言葉どおりの同棲《どうせい》の結果として認めていた。倉地は生活をささえて行く上にも必要であるし、不休の活動力を放射するにも必要なので解職になって以来何か事業の事を時々思いふけっているようだったが、いよいよ計画が立ったのでそれに着手するためには、当座の所、人々の出入りに葉子の顔を見られない所で事務を取るのを便宜としたらしかった。そのためにも倉地がしばらくなりとも別居する必要があった。
 葉子の立場はだんだんと固まって来た。十二月の末に試験が済むと、妹たちは田島の塾《じゅく》から少しばかりの荷物を持って帰って来た。ことに貞世の喜びといってはなかった。二人は葉子の部屋《へや》だった六畳の腰窓《こしまど》の前に小さな二つの机を並べた。今までなんとなく遠慮がちだったつやも生まれ代わったように快活なはきはきした少女になった。ただ愛子だけは少しもうれしさを見せないで、ただ慎み深く素直《すなお》だった。
 「愛ねえさんうれしいわねえ」
 貞世は勝ち誇るもののごとく、縁側の柱によりかかってじっと冬枯れの庭を見つめている姉の肩に手をかけながらより添った。愛子は一所《ひとところ》をまたたきもしないで見つめながら、
 「えゝ」
 と歯切れ悪く答えるのだった。貞世はじれったそうに愛子の肩をゆすりながら、
 「でもちっとも[#「ちっとも」に傍点]うれしそうじゃないわ」
 と責めるようにいった。
 「でもうれしいんですもの」
 愛子の答えは冷然としていた。十畳の座敷に持ち込まれた行李《こうり》を明けて、よごれ物などを選《よ》り分けていた葉子はその様子をちらと見たばかりで腹が立った。しかし来たばかりのものをたしなめるでもないと思って虫を殺した。
 「なんて静かな所でしょう。塾《じゅく》よりもきっと静かよ。でもこんなに森があっちゃ夜になったらさびしいわねえ。わたしひとりでお便所《はばかり》に行けるかしらん。……愛ねえさん、そら、あすこに木戸があるわ。きっと隣のお庭に行けるのよ。あの庭に行ってもいいのおねえ様。だれのお家《うち》むこうは?……」
 貞世は目にはいるものはどれも珍しいというようにひとりでしゃべっては、葉子にとも愛子にともなく質問を連発した。そこが薔薇《ばら》の花園であるのを葉子から聞かされると、貞世は愛子を誘って庭|下駄《げた》をつっかけた。愛子も貞世に続いてそっちのほうに出かける様子だった。
 その物音を聞くと葉子はもう我慢ができなかった。
 「愛さんお待ち。お前さん方《がた》のものがまだ片づいてはいませんよ。遊び回るのは始末をしてからになさいな」
 愛子は従順に姉の言葉に従って、その美しい目を伏せながら座敷の中にはいって来た。
 それでもその夜の夕食は珍しくにぎやかだった。貞世がはしゃぎきって、胸いっぱいのものを前後も連絡もなくしゃべり[#「しゃべり」に傍点]立てるので愛子さえも思わずにやり[#「にやり」に傍点]と笑ったり、自分の事を容赦なくいわれたりすると恥ずかしそうに顔を赤らめたりした。
 貞世はうれしさに疲れ果てて夜の浅いうちに寝床にはいった。明るい電燈の下に葉子と愛子と向かい合うと、久しくあわないでいた骨肉《こつにく》の人々の間にのみ感ぜられる淡い心置きを感じた。葉子は愛子にだけは倉地の事を少し具体的に知らしておくほうがいいと思って、話のきっかけ[#「きっかけ」に傍点]に少し言葉を改めた。
 「まだあなた方《がた》にお引き合わせがしてないけれども倉地っていう方《かた》ね、絵島丸の事務長の……(愛子は従順に落ち着いてうなずいて見せた)……あの方が今木村さんに成りかわってわたしの世話を見ていてくださるのよ。木村さんからお頼まれになったものだから、迷惑そうにもなく、こんないい家まで見つけてくださったの。木村さんは米国でいろいろ事業を企てていらっしゃるんだけれども、どうもお仕事がうまく行かないで、お金が注《つ》ぎ込みにばかりなっていて、とてもこっちには送ってくだされないの、わたしの家はあなたも知ってのとおりでしょう。どうしてもしばらくの間は御迷惑でも倉地さんに万事を見ていただかなければならないのだから、あなたもそのつもりでいてちょうだいよ。ちょく[#「ちょく」に傍点]ちょくここにも来てくださるからね。それにつけて世間では何かくだらないうわさをしているに違いないが、愛さんの塾《じゅく》なんかではなんにもお聞きではなかったかい」
 「いゝえ、わたしたちに面と向かって何かおっしゃる方《かた》は一人《ひとり》もありませんわ。でも」
 と愛子は例の多恨らしい美しい目を上目《うわめ》に使って葉子をぬすみ見るようにしながら、
 「でも何しろあんな新聞が出たもんですから」
 「どんな新聞?」
 「あらおねえ様御存じなしなの。報正新報に続き物でおねえ様とその倉地という方の事が長く出ていましたのよ」
 「へーえ」
 葉子は自分の無知にあきれるような声を出してしまった。それは実際思いもかけぬというよりは、ありそうな事ではあるが今の今まで知らずにいた、それに葉子はあきれたのだった。しかしそれは愛子の目に自分を非常に無辜《むこ》らしく見せただけの利益はあった。さすがの愛子も驚いたらしい目をして姉の驚いた顔を見やった。
 「いつ?」
 「今月の始めごろでしたかしらん。だもんですから皆さん方《がた》の間ではたいへんな評判らしいんですの。今度も塾《じゅく》を出て来年から姉の所から通いますと田島先生に申し上げたら、先生も家の親類たちに手紙やなんかでだいぶお聞き合わせになったようですのよ。そしてきょうわたしたちを自分のお部屋《へや》にお呼びになって『わたしはお前さん方《がた》を塾から出したくはないけれども、塾に居続ける気はないか』とおっしゃるのよ。でもわたしたちはなんだか塾にいるのが肩身が……どうしてもいやになったもんですから、無理にお願いして帰って来てしまいましたの」
 愛子はふだんの無口に似ずこういう事を話す時にはちゃん[#「ちゃん」に傍点]と筋目が立っていた。葉子には愛子の沈んだような態度がすっかり[#「すっかり」に傍点]読めた。葉子の憤怒は見る見るその血相を変えさせた。田川夫人という人はどこまで自分に対して執念を寄せようとするのだろう。それにしても夫人の友だちには五十川《いそがわ》という人もあるはずだ。もし五十川のおばさんがほんとうに自分の改悛《かいしゅん》を望んでいてくれるなら、その記事の中止なり訂正なりを、夫《おっと》田川の手を経てさせる事はできるはずなのだ。田島さんもなんとかしてくれようがありそうなものだ。そんな事を妹たちにいうくらいならなぜ自分に一言《ひとこと》忠告でもしてはくれないのだ(ここで葉子は帰朝以来妹たちを預かってもらった礼をしに行っていなかった自分を顧みた。しかし事情がそれを許さないのだろうぐらいは察してくれてもよさそうなものだと思った)それほど自分はもう世間から見くびられ除《の》け者にされているのだ。葉子は何かたたきつけるものでもあれば、そして世間というものが何か形を備えたものであれば、力の限り得物《えもの》をたたきつけてやりたかった。葉子は小刻みに震えながら、言葉だけはしとやかに、
 「古藤さんは」
 「たまにおたよりをくださいます」
 「あなた方《がた》も上げるの」
 「えゝたまに」
 「新聞の事を何かいって来たかい」
 「なんにも」
 「ここの番地は知らせて上げて」
 「いゝえ」
 「なぜ」
 「おねえ様の御迷惑になりはしないかと思って」
 この小娘はもうみんな知っている、と葉子は一種のおそれと警戒とをもって考えた。何事も心得ながら白々《しらじら》しく無邪気を装っているらしいこの妹が敵の間諜《かんちょう》のようにも思えた。
 「今夜はもうお休み。疲れたでしょう」
 葉子は冷然として、灯《ひ》の下にうつむいてきちん[#「きちん」に傍点]とすわっている妹を尻目《しりめ》にかけた。愛子はしとやかに頭を下げて従順に座を立って行った。
 その夜十一時ごろ倉地が下宿のほうから通《かよ》って来た。裏庭をぐるっと回って、毎夜戸じまりをせずにおく張り出しの六畳の間《ま》から上がって来る音が、じれながら鉄びんの湯気《ゆげ》を見ている葉子の神経にすぐ通じた。葉子はすぐ立ち上がって猫《ねこ》のように足音を盗みながら急いでそっちに行った。ちょうど敷居を上がろうとしていた倉地は暗い中に葉子の近づく気配を知って、いつものとおり、立ち上がりざまに葉子を抱擁しようとした。しかし葉子はそうはさせなかった。そして急いで戸を締めきってから、電灯のスイッチをひねった。火の気《け》のない部屋《へや》の中は急に明るくなったけれども身を刺すように寒かった。倉地の顔は酒に酔っているように赤かった。
 「どうした顔色がよくないぞ」
 倉地はいぶかるように葉子の顔をまじまじと見やりながらそういった。
 「待ってください、今わたしここに火鉢《ひばち》を持って来ますから。妹たちが寝ばなだからあすこでは起こすといけませんから」
 そういいながら葉子は手あぶりに火をついで持って来た。そして酒肴《しゅこう》もそこにととのえた。
 「色が悪いはず……今夜はまたすっかり[#「すっかり」に傍点]向かっ腹が立ったんですもの。わたしたちの事が報正新報にみんな出てしまったのを御存じ?」
 「知っとるとも」
 倉地は不思議でもないという顔をして目をしばだたいた。
 「田川の奥さんという人はほんとうにひどい人ね」
 葉子は歯をかみくだくように鳴らしながらいった。
 「全くあれは方図《ほうず》のない利口ばかだ」
 そう吐き捨てるようにいいながら倉地の語る所によると、倉地は葉子に、きっとそのうち掲載される「報正新報」の記事を見せまいために引っ越して来た当座わざと新聞はどれも購読しなかったが、倉地だけの耳へはある男(それは絵島丸の中で葉子の身を上を相談した時、甲斐絹《かいき》のどてら[#「どてら」に傍点]を着て寝床の中に二つに折れ込んでいたその男であるのがあとで知れた。その男は名を正井《まさい》といった)からつやの取り次ぎで内秘《ないひ》に知らされていたのだそうだ。郵船会社はこの記事が出る前から倉地のためにまた会社自身のために、極力もみ消しをしたのだけれども、新聞社ではいっこう応ずる色がなかった。それから考えるとそれは当時新聞社の慣用手段のふところ金《がね》をむさぼろうという目論見《もくろみ》ばかりから来たのでない事だけは明らかになった。あんな記事が現われてはもう会社としても黙ってはいられなくなって、大急ぎで詮議《せんぎ》をした結果、倉地と船医の興録《こうろく》とが処分される事になったというのだ。
 「田川の嬶《かかあ》のいたずらに決まっとる。ばかにくやしかったと見えるて。……が、こうなりゃ結局パッとなったほうがいいわい。みんな知っとるだけ一々申し訳をいわずと済む。お前はまたまだそれしきの事にくよくよしとるんか。ばかな。……それより妹たちは来とるんか。寝顔にでもお目にかかっておこうよ。写真――船の中にあったね――で見てもかわいらしい子たちだったが……」
 二人《ふたり》はやおらその部屋を出た。そして十畳と茶の間との隔ての襖《ふすま》をそっと明けると、二人の姉妹は向かい合って別々の寝床にすやすやと眠っていた。緑色の笠《かさ》のかかった、電灯の光は海の底のように部屋の中を思わせた。
 「あっちは」
 「愛子」
 「こっちは」
 「貞世」
 葉子は心ひそかに、世にも艶《つや》やかなこの少女|二人《ふたり》を妹に持つ事に誇りを感じて暖かい心になっていた。そして静かに膝《ひざ》をついて、切り下げにした貞世の前髪をそっ[#「そっ」に傍点]となであげて倉地に見せた。倉地は声を殺すのに少なからず難儀なふうで、
 「そうやるとこっちは、貞世は、お前によく似とるわい。……愛子は、ふむ、これはまたすてきな美人じゃないか。おれはこんなのは見た事がない……お前の二の舞いでもせにゃ結構だが……」
 そういいながら倉地は愛子の顔ほどもあるような大きな手をさし出して、そうしたい誘惑を退けかねるように、紅椿《べにつばき》のような紅《あか》いその口びるに触れてみた。
 その瞬間に葉子はぎょっ[#「ぎょっ」に傍点]とした。倉地の手が愛子の口びるに触れた時の様子から、葉子は明らかに愛子がまだ目ざめていて、寝たふりをしているのを感づいたと思ったからだ。葉子は大急ぎで倉地に目くばせしてそっとその部屋を出た。

    三〇

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 「僕《ぼく》が毎日――毎日とはいわず毎時間あなたに筆を執らないのは執りたくないから執らないのではありません。僕は一日あなたに書き続けていてもなお飽き足らないのです。それは今の僕の境界《きょうがい》では許されない事です。僕は朝から晩まで機械のごとく働かねばなりませんから。
 あなたが米国を離れてからこの手紙はたぶん七回目の手紙としてあなたに受け取られると思います。しかし僕の手紙はいつまでも暇をぬすんで少しずつ書いているのですから、僕からいうと日に二度も三度もあなたにあてて書いてるわけになるのです。しかしあなたはあの後一回の音信も恵んではくださらない。
 僕は繰り返し繰り返しいいます。たといあなたにどんな過失どんな誤謬《ごびゅう》があろうとも、それを耐え忍び、それを許す事においては主キリスト以上の忍耐力を持っているのを僕は自ら信じています。誤解しては困ります。僕がいかなる人に対してもかかる力を持っているというのではないのです。ただあなたに対してです。あなたはいつでも僕の品性を尊《とうと》く導いてくれます。僕はあなたによって人がどれほど愛しうるかを学びました。あなたによって世間でいう堕落とか罪悪とかいう者がどれほどまで寛容の余裕があるかを学びました。そうしてその寛容によって、寛容する人自身がどれほど品性を陶冶《とうや》されるかを学びました。僕はまた自分の愛を成就するためにはどれほどの勇者になりうるかを学びました。これほどまでに僕を神の目に高めてくださったあなたが、僕から万一にも失われるというのは想像ができません。神がそんな試練を人の子に下される残虐はなさらないのを僕は信じています。そんな試練に堪《た》えるのは人力以上ですから。今の僕からあなたが奪われるというのは神が奪われるのと同じ事です。あなたは神だとはいいますまい。しかしあなたを通してのみ僕は神を拝む事ができるのです。
 時々僕は自分で自分をあわれんでしまう事があります。自分自身だけの力と信仰とですべてのものを見る事ができたらどれほど幸福で自由だろうと考えると、あなたをわずらわさなければ一歩を踏み出す力をも感じ得ない自分の束縛を呪《のろ》いたくもなります。同時にそれほど慕わしい束縛は他にない事を知るのです。束縛のない所に自由はないといった意味であなたの束縛は僕の自由です。
 あなたは――いったん僕に手を与えてくださると約束なさったあなたは、ついに僕を見捨てようとしておられるのですか。どうして一回の音信も恵んではくださらないのです。しかし僕は信じて疑いません。世にもし真理があるならば、そして真理が最後の勝利者ならばあなたは必ず僕に還《かえ》ってくださるに違いないと。なぜなれば、僕は誓います。――主《しゅ》よこの僕《しもべ》を見守りたまえ――僕はあなたを愛して以来断じて他の異性に心を動かさなかった事を。この誠意があなたによって認められないわけはないと思います。
 あなたは従来暗いいくつかの過去を持っています。それが知らず知らずあなたの向上心を躊躇《ちゅうちょ》させ、あなたをやや絶望的にしているのではないのですか。もしそうならあなたは全然|誤謬《ごびゅう》に陥っていると思います。すべての救いは思いきってその中から飛び出すほかにはないのでしょう。そこに停滞しているのはそれだけあなたの暗い過去を暗くするばかりです。あなたは僕に信頼を置いてくださる事はできないのでしょうか。人類の中に少なくも一人《ひとり》、あなたのすべての罪を喜んで忘れようと両手を広げて待ち設けているもののあるのを信じてくださる事はできないでしょうか。
 こんな下らない理屈はもうやめましょう。
 昨夜書いた手紙に続けて書きます。けさハミルトン氏の所から至急に来いという電話がかかりました。シカゴの冬は予期以上に寒いのです。仙台どころの比ではありません。雪は少しもないけれども、イリー湖を多湖地方から渡って来る風は身を切るようでした。僕は外套《がいとう》の上にまた大外套を重《かさ》ね着《ぎ》していながら、風に向いた皮膚にしみとおる風の寒さを感じました。ハミルトン氏の用というのは来年セントルイスに開催される大規模な博覧会の協議のため急にそこに赴《おもむ》くようになったから同行しろというのでした。僕は旅行の用意はなんらしていなかったが、ここにアメリカニズムがあるのだと思ってそのまま同行する事にしました。自分の部屋《へや》の戸に鍵《かぎ》もかけずに飛び出したのですからバビコック博士《はかせ》の奥さんは驚いているでしょう。しかしさすがに米国です。着のみ着のままでここまで来ても何一つ不自由を感じません。鎌倉《かまくら》あたりまで行くのにも膝《ひざ》かけから旅カバンまで用意しなければならないのですから、日本の文明はまだなかなかのものです。僕たちはこの地に着くと、停車場内の化粧室で髭《ひげ》をそり、靴《くつ》をみがかせ、夜会に出ても恥ずかしくないしたくができてしまいました。そしてすぐ協議会に出席しました。あなたも知っておらるるとおりドイツ人のあのへんにおける勢力は偉いものです。博覧会が開けたら、われわれは米国に対してよりもむしろこれらのドイツ人に対して褌裸《きんこん》一番する必要があります。ランチの時僕はハミルトン氏に例の日本に買い占めてあるキモノその他の話をもう一度しました。博覧会を前に控えているのでハミルトン氏も今度は乗り気になってくれまして、高島屋《たかしまや》と連絡をつけておくためにとにかく品物を取り寄せて自分の店でさばかしてみようといってくれました。これで僕の財政は非常に余裕ができるわけです。今まで店がなかったばかりに、取り寄せても荷厄介《にやっかい》だったものですが、ハミルトン氏の店で取り扱ってくれれば相当に売れるのはわかっています。そうなったら今までと違ってあなたのほうにも足りないながら仕送りをして上げる事ができましょう。さっそく電報を打っていちばん早い船便で取り寄せる事ににしましたから不日着荷《ふじつちゃくに》する事と思っています。
 今は夜もだいぶふけました。ハミルトン氏は今夜も饗応《きょうおう》に呼ばれて出かけました。大きらいなテーブル・スピーチになやまされているのでしょう。ハミルトン氏は実にシャープなビジネスマンライキな人です。そして熱心な正統派の信仰を持った慈善家です。僕はことのほか信頼され重宝《ちょうほう》がられています。そこから僕のライフ・キャリヤアを踏み出すのは大なる利益です。僕の前途には確かに光明が見え出して来ました。
 あなたに書く事は底止《ていし》なく書く事です。しかしあすの奮闘的生活(これは大統領ルーズベルトの著書の "Strenuous Life" を訳してみた言葉です。今この言葉は当地の流行語になっています)に備えるために筆を止めねばなりません。この手紙はあなたにも喜びを分けていただく事ができるかと思います。
 きのうセントルイスから帰って来たら、手紙がかなり多数届いていました。郵便局の前を通るにつけ、郵便箱を見るにつけ、脚夫《きゃくふ》に行きあうにつけ、僕はあなたを連想しない事はありません。自分の机の上に来信を見いだした時はなおさらの事です。僕は手紙の束の間《あいだ》をかき分けてあなたの手跡を見いだそうとつとめました。しかし僕はまた絶望に近い失望に打たれなければなりませんでした。僕は失望はしましょう。しかし絶望はしません。できません葉子さん、信じてください。僕はロングフェローのエヴァンジェリンの忍耐と謙遜《けんそん》とをもってあなたが僕の心をほんとうに汲《く》み取ってくださる時を待っています。しかし手紙の束の中からはわずかに僕を失望から救うために古藤君と岡君との手紙が見いだされました。古藤君の手紙は兵営に行く五日前に書かれたものでした。いまだにあなたの居所を知る事ができないので、僕の手紙はやはり倉地氏にあてて回送していると書いてあります。古藤君はそうした手続きを取るのをはなはだしく不快に思っているようです。岡君は人にもらし得ない家庭内の紛擾《ふんじょう》や周囲から受ける誤解を、岡君らしく過敏に考え過ぎて弱い体質をますます弱くしているようです。書いてある事にはところどころ僕の持つ常識では判断しかねるような所があります。あなたからいつか必ず消息が来るのを信じきって、その時をただ一つの救いとして待っています。その時の感謝と喜悦《きえつ》とを想像で描き出して、小説でも読むように書いてあります。僕は岡君の手紙を読むと、いつでも僕自身の心がそのまま書き現わされているように思って涙を感じます。
 なぜあなたは自分をそれほどまで韜晦《とうかい》しておられるのか、それには深いわけがある事と思いますけれども、僕にはどちらの方面から考えても想像がつきません。
 日本からの消息はどんな消息も待ち遠しい。しかしそれを見終わった僕はきっと憂鬱《ゆううつ》に襲われます。僕にもし信仰が与えられていなかったら、僕は今どうなっていたかを知りません。
 前の手紙との間に三日がたちました。僕はバビコック博士《はかせ》夫婦と今夜ライシアム座にウェルシ嬢の演じたトルストイの「復活」を見物しました。そこにはキリスト教徒として目をそむけなければならないような場面がないではなかったけれども、終わりのほうに近づいて行っての荘厳さは見物人のすべてを捕捉《ほそく》してしまいました。ウェルシ嬢の演じた女主人公は真に迫りすぎているくらいでした。あなたがもしまだ「復活」を読んでいられないのなら僕はぜひそれをお勧めします。僕はトルストイの「懺悔《ざんげ》」をK氏の邦文訳で日本にいる時読んだだけですが、あの芝居《しばい》を見てから、暇があったらもっと深くいろいろ研究したいと思うようになりました。日本ではトルストイの著書はまだ多くの人に知られていないと思いますが、少なくとも「復活」だけは丸善《まるぜん》からでも取り寄せて読んでいただきたい、あなたを啓発する事が必ず多いのは請け合いますから。僕らは等しく神の前に罪人《つみびと》です。しかしその罪を悔い改める事によって等しく選ばれた神の僕《しもべ》となりうるのです。この道のほかには人の子の生活を天国に結び付ける道は考えられません。神を敬い人を愛する心の萎《な》えてしまわないうちにお互いに光を仰ごうではありませんか。
 葉子さん、あなたの心に空虚なり汚点なりがあっても万望《どうぞ》絶望しないでくださいよ。あなたをそのままに喜んで受け入れて、――苦しみがあればあなたと共に苦しみ、あなたに悲しみがあればあなたと共に悲しむものがここに一人《ひとり》いる事を忘れないでください。僕は戦って見せます。どんなにあなたが傷ついていても、僕はあなたをかばって勇ましくこの人生を戦って見せます。僕の前に事業が、そして後ろにあなたがあれば、僕は神の最も小さい僕《しもべ》として人類の祝福のために一生をささげます。
 あゝ、筆も言語もついに無益です。火と熱する誠意と祈りとをこめて僕はここにこの手紙を封じます。この手紙が倉地氏の手からあなたに届いたら、倉地氏にもよろしく伝えてください。倉地氏に迷惑をおかけした金銭上の事については前便に書いておきましたから見てくださったと思います。願わくは神われらと共に在《おわ》したまわん事を。
  明治三十四年十二月十三日」
[#ここで字下げ終わり]
 倉地は事業のために奔走しているのでその夜は年越しに来《こ》ないと下宿から知らせて来た。妹たちは除夜の鐘を聞くまでは寝ないなどといっていたがいつのまにかねむくなったと見えて、あまり静かなので二階に行って見ると、二人《ふたり》とも寝床にはいっていた。つやには暇が出してあった。葉子に内所《ないしょ》で「報正新報」を倉地に取り次いだのは、たとい葉子に無益な心配をさせないためだという倉地の注意があったためであるにもせよ、葉子の心持ちを損じもし不安にもした。つやが葉子に対しても素直な敬愛の情をいだいていたのは葉子もよく心得ていた。前にも書いたように葉子は一目見た時からつやが好きだった。台所などをさせずに、小間使いとして手回りの用事でもさせたら顔かたちといい、性質といい、取り回しといいこれほど理想的な少女はないと思うほどだった。つやにも葉子の心持ちはすぐ通じたらしく、つやはこの家のために陰日向《かげひなた》なくせっせ[#「せっせ」に傍点]と働いたのだった。けれども新聞の小さな出来事一つが葉子を不安にしてしまった。倉地が双鶴館《そうかくかん》の女将《おかみ》に対しても気の毒がるのを構わず、妹たちに働かせるのがかえっていいからとの口実のもとに暇をやってしまったのだった。で勝手のほうにも人気《ひとけ》はなかった。
 葉子は何を原因ともなくそのころ気分がいらいらしがちで寝付きも悪かったので、ぞくぞくしみ込んで来るような寒さにも係わらず、火鉢《ひばち》のそばにいた。そして所在ないままにその日倉地の下宿から届けて来た木村の手紙を読んで見る気になったのだ。
 葉子は猫板《ねこいた》に片|肘《ひじ》を持たせながら、必要もないほど高価だと思われる厚い書牋紙《しょせんし》に大きな字で書きつづってある木村の手紙を一枚一枚読み進んだ。おとなびたようで子供っぽい、そうかと思うと感情の高潮を示したと思われる所も妙に打算的な所が離れ切らないと葉子に思わせるような内容だった。葉子は一々精読するのがめんどうなので行《ぎょう》から行に飛び越えながら読んで行った。そして日付けの所まで来ても格別な情緒を誘われはしなかった。しかし葉子はこの以前倉地の見ている前でしたようにずたずたに引き裂いて捨ててしまう事はしなかった。しなかったどころではない、その中には葉子を考えさせるものが含まれていた。木村は遠からずハミルトンとかいう日本の名誉領事をしている人の手から、日本を去る前に思いきってして行った放資の回収をしてもらえるのだ。不即不離の関係を破らずに別れた自分のやりかたはやはり図にあたっていたと思った。「宿屋きめずに草鞋《わらじ》を脱」ぐばかをしない必要はもうない、倉地の愛は確かに自分の手に握り得たから。しかし口にこそ出しはしないが、倉地は金の上ではかなりに苦しんでいるに違いない。倉地の事業というのは日本じゅうの開港場にいる水先《みずさき》案内業者の組合を作って、その実権を自分の手に握ろうとするのらしかったが、それが仕上がるのは短い日月にはできる事ではなさそうだった。ことに時節が時節がら正月にかかっているから、そういうものの設立にはいちばん不便な時らしくも思われた。木村を利用してやろう。
 しかし葉子の心の底にはどこかに痛みを覚えた。さんざん木村を苦しめ抜いたあげくに、なおあの根の正直な人間をたぶらかしてなけなしの金をしぼり取るのは俗にいう「つつもたせ」の所業と違ってはいない。そう思うと葉子は自分の堕落を痛く感ぜずにはいられなかった。けれども現在の葉子にいちばん大事なものは倉地という情人のほかにはなかった。心の痛みを感じながらも倉地の事を思うとなお心が痛かった。彼は妻子を犠牲に供し、自分の職業を犠牲に供し、社会上の名誉を犠牲に供してまで葉子の愛におぼれ、葉子の存在に生きようとしてくれているのだ。それを思うと葉子は倉地のためになんでもして見せてやりたかった。時によるとわれにもなく侵して来る涙ぐましい感じをじっ[#「じっ」に傍点]とこらえて、定子に会いに行かずにいるのも、そうする事が何か宗教上の願がけで、倉地の愛をつなぎとめる禁厭《まじない》のように思えるからしている事だった。木村にだっていつかは物質上の償い目に対して物質上の返礼だけはする事ができるだろう。自分のする事は「つつもたせ」とは形が似ているだけだ。やってやれ。そう葉子は決心した。読むでもなく読まぬでもなく手に持ってながめていた手紙の最後の一枚を葉子は無意識のようにぽたり[#「ぽたり」に傍点]と膝《ひざ》の上に落とした。そしてそのままじっ[#「じっ」に傍点]と鉄びんから立つ湯気《ゆげ》が電燈の光の中に多様な渦紋《かもん》を描いては消え描いては消えするのを見つめていた。
 しばらくしてから葉子は物うげに深い吐息を一つして、上体をひねって棚《たな》の上から手文庫を取りおろした。そして筆をかみながらまた上目でじっ[#「じっ」に傍点]と何か考えるらしかった。と、急に生きかえったようにはき[#「はき」に傍点]はきなって、上等のシナ墨を眼《がん》の三つまではいったまんまるい硯《すずり》にすりおろした。そして軽く麝香《じゃこう》の漂うなかで男の字のような健筆で、精巧な雁皮紙《がんぴし》の巻紙に、一気に、次のようにしたためた。
[#ここから1字下げ]
 「書けばきり[#「きり」に傍点]がございません。伺えばきり[#「きり」に傍点]がございません。だから書きもいたしませんでした。あなたのお手紙もきょういただいたものまでは拝見せずにずたずたに破って捨ててしまいました。その心をお察しくださいまし。
 うわさにもお聞きとは存じますが、わたしはみごとに社会的に殺されてしまいました。どうしてわたしがこの上あなたの妻と名乗れましょう。自業自得と世の中では申します。わたしも確かにそう存じています。けれども親類、縁者、友だちにまで突き放されて、二人《ふたり》の妹をかかえてみますと、わたしは目もくらんでしまいます。倉地さんだけがどういう御縁かお見捨てなくわたしども三人をお世話くださっています。こうしてわたしはどこまで沈んで行く事でございましょう。ほんとうに自業自得でございます。
 きょう拝見したお手紙もほんとうは読まずに裂いてしまうのでございましたけれども……わたしの居所をどなたにもお知らせしないわけなどは申し上げるまでもございますまい。
 この手紙はあなたに差し上げる最後のものかと思われます。お大事にお過ごし遊ばしませ。陰ながら御成功を祈り上げます。
 ただいま除夜の鐘が鳴ります。
    大晦日《おおみそか》の夜
   木 村 様                            葉より」
[#ここで字下げ終わり]
 葉子はそれを日本|風《ふう》の状袋《じょうぶくろ》に収めて、毛筆で器用に表記を書いた。書き終わると急にいらいらし出して、いきなり[#「いきなり」に傍点]両手に握ってひと思いに引き裂こうとしたが、思い返して捨てるようにそれを畳の上になげ出すと、われにもなく冷ややかな微笑が口じりをかすかに引きつらした。
 葉子の胸をどきん[#「どきん」に傍点]とさせるほど高く、すぐ最寄《もよ》りにある増上寺《ぞうじょうじ》の除夜の鐘が鳴り出した。遠くからどこの寺のともしれない鐘の声がそれに応ずるように聞こえて来た。その音に引き入れられて耳を澄ますと夜の沈黙《しじま》の中にも声はあった。十二時を打つぼんぼん時計、「かるた」を読み上げるらしいはしゃい[#「はしゃい」に傍点]だ声、何に驚いてか夜なきをする鶏……葉子はそんな響きを探り出すと、人の生きているというのが恐ろしいほど不思議に思われ出した。
 急に寒さを覚えて葉子は寝じたくに立ち上がった。

    三一

 寒い明治三十五年の正月が来て、愛子たちの冬期休暇も終わりに近づいた。葉子は妹たちを再び田島|塾《じゅく》のほうに帰してやる気にはなれなかった。田島という人に対して反感をいだいたばかりではない。妹たちを再び預かってもらう事になれば葉子は当然|挨拶《あいさつ》に行って来《く》べき義務を感じたけれども、どういうものかそれがはばかられてできなかった。横浜の支店長の永井《ながい》とか、この田島とか、葉子には自分ながらわけのわからない苦手《にがて》の人があった。その人たちが格別偉い人だとも、恐ろしい人だとも思うのではなかったけれども、どういうものかその前に出る事に気が引けた。葉子はまた妹たちが言わず語らずのうちに生徒たちから受けねばならぬ迫害を思うと不憫《ふびん》でもあった。で、毎日通学するには遠すぎるという理由のもとにそこをやめて、飯倉《いいくら》にある幽蘭《ゆうらん》女学校というのに通わせる事にした。
 二人《ふたり》が学校に通い出すようになると、倉地は朝から葉子の所で退校時間まで過ごすようになった。倉地の腹心の仲間たちもちょいちょい出入りした。ことに正井という男は倉地の影のように倉地のいる所には必ずいた。例の水先案内業者組合の設立について正井がいちばん働いているらしかった。正井という男は、一見放漫なように見えていて、剃刀《かみそり》のように目はしのきく人だった。その人が玄関からはいったら、そのあとに行って見ると履《は》き物《もの》は一つ残らずそろえてあって、傘《かさ》は傘で一隅《いちぐう》にちゃん[#「ちゃん」に傍点]と集めてあった。葉子も及ばない素早《すばや》さで花びんの花のしおれかけたのや、茶や菓子の足《た》しなくなったのを見て取って、翌日は忘れずにそれを買いととのえて来た。無口のくせにどこかに愛矯《あいきょう》があるかと思うと、ばか笑いをしている最中に不思議に陰険な目つきをちらつかせたりした。葉子はその人を観察すればするほどその正体がわからないように思った。それは葉子をもどかしくさせるほどだった。時々葉子は倉地がこの男と組合設立の相談以外の秘密らしい話合いをしているのに感づいたが、それはどうしても明確に知る事ができなかった。倉地に聞いてみても、倉地は例ののんきな態度で事もなげに話題をそらしてしまった。
 葉子はしかしなんといっても自分が望みうる幸福の絶頂に近い所にいた。倉地を喜ばせる事が自分を喜ばせる事であり、自分を喜ばせる事が倉地を喜ばせる事である、そうした作為のない調和は葉子の心をしとやかに快活にした。何にでも自分がしようとさえ思えば適応しうる葉子に取っては、抜け目のない世話女房になるくらいの事はなんでもなかった。妹たちもこの姉を無二のものとして、姉のしてくれる事は一も二もなく正しいものと思うらしかった。始終葉子から継子《ままこ》あつかいにされている愛子さえ、葉子の前にはただ従順なしとやかな少女だった。愛子としても少なくとも一つはどうしてもその姉に感謝しなければならない事があった。それは年齢のお陰もある。愛子はことしで十六になっていた。しかし葉子がいなかったら、愛子はこれほど美しくはなれなかったに違いない。二三週間のうちに愛子は山から掘り出されたばかりのルビーと磨《みが》きをかけ上げたルビーとほどに変わっていた。小肥《こぶと》りで背たけは姉よりもはるかに低いが、ぴち[#「ぴち」に傍点]ぴちと締まった肉づきと、抜け上がるほど白い艶《つや》のある皮膚とはいい均整を保って、短くはあるが類のないほど肉感的な手足の指の先細《さきぼそ》な所に利点を見せていた。むっくり[#「むっくり」に傍点]と牛乳色の皮膚に包まれた地蔵肩《じぞうがた》の上に据《す》えられたその顔はまた葉子の苦心に十二|分《ぶん》に酬《むく》いるものだった。葉子がえりぎわを剃《そ》ってやるとそこに新しい美が生まれ出た。髪を自分の意匠どおりに束ねてやるとそこに新しい蠱惑《こわく》がわき上がった。葉子は愛子を美しくする事に、成功した作品に対する芸術家と同様の誇りと喜びとを感じた。暗い所にいて明るいほうに振り向いた時などの愛子の卵形の顔形は美の神ビーナスをさえ妬《ねた》ます事ができたろう。顔の輪郭と、やや額ぎわを狭くするまでに厚く生《は》えそろった黒漆《こくしつ》の髪とは闇《やみ》の中に溶けこむようにぼかされて、前からのみ来る光線のために鼻筋は、ギリシャ人のそれに見るような、規則正しく細長い前面の平面をきわ立たせ、潤いきった大きな二つのひとみと、締まって厚い上下の口びるとは、皮膚を切り破って現われ出た二|対《つい》の魂のようになまなましい感じで見る人を打った。愛子はそうした時にいちばん美しいように、闇《やみ》の中にさびしくひとりでいて、その多恨な目でじっ[#「じっ」に傍点]と明るみを見つめているような少女だった。
 葉子は倉地が葉子のためにして見せた大きな英断に酬《むく》いるために、定子を自分の愛撫《あいぶ》の胸から裂いて捨てようと思いきわめながらも、どうしてもそれができないでいた。あれから一度も訪れこそしないが、時おり金を送ってやる事と、乳母《うば》から安否を知らさせる事だけは続けていた。乳母の手紙はいつでも恨みつらみで満たされていた。日本に帰って来てくださったかいがどこにある。親がなくて子が子らしく育つものか育たぬものかちょっとでも考えてみてもらいたい。乳母もだんだん年を取って行く身だ。麻疹《はしか》にかかって定子は毎日毎日ママの名を呼び続けている、その声が葉子の耳に聞こえないのが不思議だ。こんな事が消息のたびごとにたどたどしく書き連ねてあった。葉子はいても立ってもたまらないような事があった。けれどもそんな時には倉地の事を思った。ちょっと倉地の事を思っただけで、歯をくいしばりながらも、苔香園《たいこうえん》の表門からそっ[#「そっ」に傍点]と家を抜け出る誘惑に打ち勝った。
 倉地のほうから手紙を出すのは忘れたと見えて、岡はまだ訪れては来《こ》なかった。木村にあれほど切《せつ》な心持ちを書き送ったくらいだから、葉子の住所さえわかれば尋ねて来ないはずはないのだが、倉地にはそんな事はもう念頭になくなってしまったらしい。だれも来るなと願っていた葉子もこのごろになってみると、ふと岡の事などを思い出す事があった。横浜を立つ時に葉子にかじり付いて離れなかった青年を思い出す事などもあった。しかしこういう事があるたびごとに倉地の心の動きかたをもきっと推察した。そしてはいつでも願《がん》をかけるようにそんな事は夢にも思い出すまいと心に誓った。
 倉地がいっこうに無頓着《むとんじゃく》なので、葉子はまだ籍を移してはいなかった。もっとも倉地の先妻がはたして籍を抜いているかどうかも知らなかった。それを知ろうと求めるのは葉子の誇りが許さなかった。すべてそういう習慣を天《てん》から考えの中に入れていない倉地に対して今さらそんな形式事を迫るのは、自分の度胸を見すかされるという上からもつらかった。その誇りという心持ちも、度胸を見すかされるという恐れも、ほんとうをいうと葉子がどこまでも倉地に対してひけ目になっているのを語るに過ぎないとは葉子自身存分に知りきっているくせに、それを勝手に踏みにじって、自分の思うとおりを倉地にしてのけさす不敵さを持つ事はどうしてもできなかった。それなのに葉子はややともすると倉地の先妻の事が気になった。倉地の下宿のほうに遊びに行く時でも、その近所で人妻らしい人の往来するのを見かけると葉子の目は知らず知らず熟視のためにかがやいた。一度も顔を合わせないが、わずかな時間の写真の記憶から、きっとその人を見分けてみせると葉子は自信していた。葉子はどこを歩いてもかつてそんな人を見かけた事はなかった。それがまた妙に裏切られているような感じを与える事もあった。
 航海の初期における批点の打ちどころのないような健康の意識はその後葉子にはもう帰って来なかった。寒気が募るにつれて下腹部が鈍痛を覚えるばかりでなく、腰の後ろのほうに冷たい石でも釣《つ》り下げてあるような、重苦しい気分を感ずるようになった。日本に帰ってから足の冷え出すのも知った。血管の中には血の代わりに文火《とろび》でも流れているのではないかと思うくらい寒気に対して平気だった葉子が、床の中で倉地に足のひどく冷えるのを注意されたりすると不思議に思った。肩の凝るのは幼少の時からの痼疾《こしつ》だったがそれが近ごろになってことさら激しくなった。葉子はちょい[#「ちょい」に傍点]ちょい按摩《あんま》を呼んだりした。腹部の痛みが月経と関係があるのを気づいて、葉子は婦人病であるに相違ないとは思った。しかしそうでもないと思うような事が葉子の胸の中にはあった。もしや懐妊では……葉子は喜びに胸をおどらせてそう思ってもみた。牝豚《めぶた》のように幾人も子を生むのはとても耐えられない。しかし一人《ひとり》はどうあっても生みたいものだと葉子は祈るように願っていたのだ。定子の事から考えると自分には案外子運があるのかもしれないとも思った。しかし前の懐妊の経験と今度の徴候とはいろいろな点で全く違ったものだった。
 一月の末になって木村からははたして金を送って来た。葉子は倉地が潤沢につけ届けする金よりもこの金を使う事にむしろ心安さを覚えた。葉子はすぐ思いきった散財をしてみたい誘惑に駆り立てられた。
 ある日当たりのいい日に倉地とさし向かいで酒を飲んでいると苔香園《たいこうえん》のほうから藪《やぶ》うぐいすのなく声が聞こえた。葉子は軽く酒ほてりのした顔をあげて倉地を見やりながら、耳ではうぐいすのなき続けるのを注意した。
 「春が来ますわ」
 「早いもんだな」
 「どこかへ行きましょうか」
 「まだ寒いよ」
 「そうねえ……組合のほうは」
 「うむあれが片づいたら出かけようわい。いいかげんくさ[#「くさ」に傍点]くさしおった」
 そういって倉地はさもめんどうそうに杯の酒を一煽《ひとあお》りにあおりつけた。
 葉子はすぐその仕事がうまく運んでいないのを感づいた。それにしてもあの毎月の多額な金はどこから来るのだろう。そうちらっ[#「ちらっ」に傍点]と思いながら素早《すばや》く話を他にそらした。

    三二

 それは二月初旬のある日の昼ごろだった。からっ[#「からっ」に傍点]と晴れた朝の天気に引きかえて、朝日がしばらく東向きの窓にさす間もなく、空は薄曇りに曇って西風がゴウゴウと杉森《すぎもり》にあたって物すごい音を立て始めた。どこにか春をほのめかすような日が来たりしたあとなので、ことさら世の中が暗澹《あんたん》と見えた。雪でもまくしかけて来そうに底冷えがするので、葉子は茶の間に置きごたつを持ち出して、倉地の着がえをそれにかけたりした。土曜だから妹たちは早びけだと知りつつも倉地はものぐさそうに外出のしたくにかからないで、どてらを引っかけたまま火鉢《ひばち》のそばにうずくまっていた。葉子は食器を台所のほうに運びながら、来たり行ったりするついでに倉地と物をいった。台所に行った葉子に茶の間から大きな声で倉地がいいかけた。
 「おいお葉(倉地はいつのまにか葉子をこう呼ぶようになっていた)おれはきょうは二人《ふたり》に対面して、これから勝手に出はいりのできるようにするぞ」
 葉子は布巾《ふきん》を持って台所のほうからいそいそと茶の間に帰って来た。
 「なんだってまたきょう……」
 そういってつき膝《ひざ》をしながらちゃぶ[#「ちゃぶ」に傍点]台をぬぐった。
 「いつまでもこうしているが気づまりでようないからよ」
 「そうねえ」
 葉子はそのままそこにすわり込んで布巾《ふきん》をちゃぶ[#「ちゃぶ」に傍点]台にあてがったまま考えた。ほんとうはこれはとうに葉子のほうからいい出すべき事だったのだ。妹たちのいないすきか、寝てからの暇をうかがって、倉地と会うのは、始めのうちこそあいびき[#「あいびき」に傍点]のような興味を起こさせないでもないと思ったのと、葉子は自分の通って来たような道はどうしても妹たちには通らせたくないところから、自分の裏面をうかがわせまいという心持ちとで、今までついずるずるに妹たちを倉地に近づかせないで置いたのだったが、倉地の言葉を聞いてみると、そうしておくのが少し延び過ぎたと気がついた。また新しい局面を二人《ふたり》の間に開いて行くにもこれは悪い事ではない。葉子は決心した。
 「じゃきょうにしましょう。……それにしても着物だけは着かえていてくださいましな」
 「よし来た」
 と倉地はにこ[#「にこ」に傍点]にこしながらすぐ立ち上がった。葉子は倉地の後ろから着物を羽織《はお》っておいて羽がいに抱きながら、今さらに倉地の頑丈《がんじょう》な雄々しい体格を自分の胸に感じつつ、
 「それは二人ともいい子よ。かわいがってやってくださいましよ。……けれどもね、木村とのあの事だけはまだ内証よ。いいおりを見つけて、わたしから上手《じょうず》にいって聞かせるまでは知らんふりをしてね……よくって……あなたはうっかり[#「うっかり」に傍点]するとあけすけ[#「あけすけ」に傍点]に物をいったりなさるから……今度だけは用心してちょうだい」
 「ばかだなどうせ知れる事を」
 「でもそれはいけません……ぜひ」
 葉子は後ろから背延びをしてそっ[#「そっ」に傍点]と倉地の後ろ首を吸った。そして二人は顔を見合わせてほほえみかわした。
 その瞬間に勢いよく玄関の格子戸《こうしど》ががらっ[#「がらっ」に傍点]とあいて「おゝ寒い」という貞世の声が疳高《かんだか》く聞こえた。時間でもないので葉子は思わずぎょっ[#「ぎょっ」に傍点]として倉地から飛び離れた。次いで玄関口の障子《しょうじ》があいた。貞世は茶の間に駆け込んで来るらしかった。
 「おねえ様雪が降って来てよ」
 そういっていきなり[#「いきなり」に傍点]茶の間の襖《ふすま》をあけたのは貞世だった。
 「おやそう……寒かったでしょう」
 とでもいって迎えてくれる姉を期待していたらしい貞世は、置きごたつにはいってあぐらをかいている途方もなく大きな男を姉のほかに見つけたので、驚いたように大きな目を見張ったが、そのまますぐに玄関に取って返した。
 「愛ねえさんお客様よ」
 と声をつぶすようにいうのが聞こえた。倉地と葉子とは顔を見合わしてまたほほえみかわした。
 「ここにお下駄《げた》があるじゃありませんか」
 そう落ち付いていう愛子の声が聞こえて、やがて二人は静かにはいって来た。そして愛子はしとやかに貞世はぺちゃん[#「ぺちゃん」に傍点]とすわって、声をそろえて「ただいま」といいながら辞儀をした。愛子の年ごろの時、厳格な宗教学校で無理じいに男の子のような無趣味な服装をさせられた、それに復讐《ふくしゅう》するような気で葉子の装わした愛子の身なりはすぐ人の目をひいた。お下げをやめさせて、束髪《そくはつ》にさせた項《うなじ》とたぼ[#「たぼ」に傍点]の所には、そのころ米国での流行そのままに、蝶《ちょう》結びの大きな黒いリボンがとめられていた。古代紫の紬地《つむぎじ》の着物に、カシミヤの袴《はかま》を裾《すそ》みじかにはいて、その袴は以前葉子が発明した例の尾錠《びじょう》どめになっていた。貞世の髪はまた思いきって短くおかっぱ[#「おかっぱ」に傍点]に切りつめて、横のほうに深紅《しんく》のリボンが結んであった。それがこの才はじけた童女を、膝《ひざ》までぐらいな、わざと短く仕立てた袴と共に可憐《かれん》にもいたずらいたずらしく見せた。二人《ふたり》は寒さのために頬《ほお》をまっ紅《か》にして、目を少し涙ぐましていた。それがことさら二人に別々な可憐な趣《おもむき》を添えていた。
 葉子は少し改まって二人を火鉢《ひばち》の座から見やりながら、
 「お帰りなさい。きょうはいつもより早かったのね。……お部屋《へや》に行ってお包みをおいて袴《はかま》を取っていらっしゃい、その上でゆっくり[#「ゆっくり」に傍点]お話しする事があるから……」
 二人の部屋からは貞世がひとりではしゃい[#「はしゃい」に傍点]でいる声がしばらくしていたが、やがて愛子は広い帯をふだん着《ぎ》と着かえた上にしめて、貞世は袴をぬいだだけで帰って来た。
 「さあここにいらっしゃい。(そういって葉子は妹たちを自分の身近にすわらせた)このお方《かた》がいつか双鶴館《そうかくかん》でおうわさした倉地さんなのよ。今まででも時々いらしったんだけれどもついにお目にかかるおりがなかったわね。これが愛子これが貞世です」
 そういいながら葉子は倉地のほうを向くともうくすぐったい[#「くすぐったい」に傍点]ような顔つきをせずにはいられなかった。倉地は渋い笑いを笑いながら案外まじめに、
 「お初に(といってちょっと頭を下げた)二人とも美しいねえ」
 そういって貞世の顔をちょっ[#「ちょっ」に傍点]と見てからじっ[#「じっ」に傍点]と目を愛子にさだめた。愛子は格別恥じる様子もなくその柔和な多恨な目を大きく見開いてまんじり[#「まんじり」に傍点]と倉地を見やっていた。それは男女の区別を知らぬ無邪気な目とも見えた。先天的に男というものを知りぬいてその心を試みようとする淫婦《いんぷ》の目とも見られない事はなかった。それほどその目は奇怪な無表情の表情を持っていた。
 「始めてお目にかかるが、愛子さんおいくつ」
 倉地はなお愛子を見やりながらこう尋ねた。
 「わたし始めてではございません。……いつぞやお目にかかりました」
 愛子は静かに目を伏せてはっきり[#「はっきり」に傍点]と無表情な声でこういった。愛子があの年ごろで男の前にはっきり[#「はっきり」に傍点]ああ受け答えができるのは葉子にも意外だった。葉子は思わず愛子を見た。
 「はて、どこでね」
 倉地もいぶかしげにこう問い返した。愛子は下を向いたまま口をつぐんでしまった。そこにはかすかながら憎悪《ぞうお》の影がひらめいて過ぎたようだった。葉子はそれを見のがさなかった。
 「寝顔を見せた時にやはり彼女《あれ》は目をさましていたのだな。それをいうのかしらん」
 とも思った。倉地の顔にも思いかけずちょっとどぎまぎ[#「どぎまぎ」に傍点]したらしい表情が浮かんだのを葉子は見た。
 「なあに……」激しく葉子は自分で自分を打ち消した。
 貞世は無邪気にも、この熊《くま》のような大きな男が親しみやすい遊び相手と見て取ったらしい。貞世がその日学校で見聞きして来た事などを例のとおり残らず姉に報告しようと、なんでも構わず、なんでも隠さず、いってのけるのに倉地が興に入って合槌《あいづち》を打つので、ここに移って来てから客の味を全く忘れていた貞世はうれしがって倉地を相手にしようとした。倉地はさんざん貞世と戯れて、昼近く立って行った。
 葉子は朝食がおそかったからといって、妹たちだけが昼食の膳《ぜん》についた。
 「倉地さんは今、ある会社をお立てになるのでいろいろ御相談事があるのだけれども、下宿ではまわりがやかましくって困るとおっしゃるから、これからいつでもここで御用をなさるようにいったから、きっとこれからもちょく[#「ちょく」に傍点]ちょくいらっしゃるだろうが、貞《さあ》ちゃん、きょうのように遊びのお相手にばかりしていてはだめよ。その代わり英語なんぞでわからない事があったらなんでもお聞きするといい、ねえさんよりいろいろの事をよく知っていらっしゃるから……それから愛さんは、これから倉地さんのお客様も見えるだろうから、そんな時には一々ねえさんのさしずを待たないではきはきお世話をして上げるのよ」
 と葉子はあらかじめ二人《ふたり》に釘《くぎ》をさした。
 妹たちが食事を終わって二人であと始末をしているとまた玄関の格子《こうし》が静かにあく音がした。
 貞世は葉子の所に飛んで来た。
 「おねえ様またお客様よ。きょうはずいぶんたくさんいらっしゃるわね。だれでしょう」
 と物珍しそうに玄関のほうに注意の耳をそばだてた。葉子もだれだろうといぶかった。ややしばらくして静かに案内を求める男の声がした。それを聞くと貞世は姉から離れて駆け出して行った。愛子が襷《たすき》をはずしながら台所から出て来た時分には、貞世はもう一枚の名刺を持って葉子の所に取って返していた。金縁《きんぶち》のついた高価らしい名刺の表には岡一《おかはじめ》と記《しる》してあった。
 「まあ珍しい」
 葉子は思わず声を立てて貞世と共に玄関に走り出た。そこには処女のように美しく小柄《こがら》な岡が雪のかかった傘《かさ》をつぼめて、外套《がいとう》のしたたりを紅《べに》をさしたように赤らんだ指の先ではじきながら、女のようにはにかんで立っていた。
 「いい所でしょう。おいでには少しお寒かったかもしれないけれども、きょうはほんとにいいおりからでしたわ。隣に見えるのが有名な苔香園《たいこうえん》、あすこの森の中が紅葉館、この杉《すぎ》の森がわたし大好きですの。きょうは雪が積もってなおさらきれいですわ」
 葉子は岡を二階に案内して、そこのガラス戸越しにあちこちの雪景色を誇りがに指呼《しこ》して見せた。岡は言葉|少《すく》なながら、ちかちかとまぶしい印象を目に残して、降り下り降りあおる雪の向こうに隠見する山内《さんない》の木立《こだ》ちの姿を嘆賞した。
 「それにしてもどうしてあなたはここを……倉地から手紙でも行きましたか」
 岡は神秘的にほほえんで葉子を顧みながら「いゝえ」といった。
 「そりゃおかしい事……それではどうして」
 縁側から座敷へ戻《もど》りながらおもむろに、
 「お知らせがないもので上がってはきっといけないとは思いましたけれども、こんな雪の日ならお客もなかろうからひょっとか[#「ひょっとか」に傍点]すると会ってくださるかとも思って……」
 そういういい出しで岡が語るところによれば、岡の従妹《いとこ》に当たる人が幽蘭女学校に通学していて、正月の学期から早月《さつき》という姉妹の美しい生徒が来て、それは芝山内の裏坂に美人屋敷といって界隈《かいわい》で有名な家の三人姉妹の中の二人であるという事や、一番の姉に当たる人が「報正新報」でうわさを立てられた優《すぐ》れた美貌《びぼう》の持ち主だという事やが、早くも口さがない生徒間の評判になっているのを何かのおりに話したのですぐ思い当たったけれども、一日一日と訪問を躊躇《ちゅうちょ》していたのだとの事だった。葉子は今さらに世間の案外に狭いのを思った。愛子といわず貞世の上にも、自分の行跡がどんな影響を与えるかも考えずにはいられなかった。そこに貞世が、愛子がととのえた茶器をあぶなっかしい[#「あぶなっかしい」に傍点]手つきで、目八|分《ぶ》に持って来た。貞世はこの日さびしい家の内に幾人も客を迎える物珍しさに有頂天《うちょうてん》になっていたようだった。満面に偽りのない愛嬌《あいきょう》を見せながら、丁寧にぺっちゃん[#「ぺっちゃん」に傍点]とおじぎをした。そして顔にたれかかる黒髪を振り仰いで頭を振って後ろにさばきながら、岡を無邪気に見やって、姉のほうに寄り添うと大きな声で「どなた」と聞いた。
 「一緒にお引き合わせしますからね、愛さんにもおいでなさいといっていらっしゃい」
 二人《ふたり》だけが座に落ち付くと岡は涙ぐましいような顔をしてじっ[#「じっ」に傍点]と手あぶりの中を見込んでいた。葉子の思いなしかその顔にも少しやつれ[#「やつれ」に傍点]が見えるようだった。普通の男ならばたぶんさほどにも思わないに違いない家の中のいさくさ[#「いさくさ」に傍点]などに繊細すぎる神経をなやまして、それにつけても葉子の慰撫《いぶ》をことさらにあこがれていたらしい様子は、そんな事については一言《ひとこと》もいわないが、岡の顔にははっきり[#「はっきり」に傍点]と描かれているようだった。
 「そんなにせい[#「せい」に傍点]たっていやよ貞《さあ》ちゃんは。せっかち[#「せっかち」に傍点]な人ねえ」
 そう穏かにたしなめるらしい愛子の声が階下でした。
 「でもそんなにおしゃれ[#「おしゃれ」に傍点]しなくったっていいわ。おねえ様が早くっておっしゃってよ」
 無遠慮にこういう貞世の声もはっきり[#「はっきり」に傍点]聞こえた。葉子はほほえみながら岡を暖かく見やった。岡もさすがに笑いを宿《やど》した顔を上げたが、葉子と見かわすと急に頬《ほお》をぽっ[#「ぽっ」に傍点]と赤くして目を障子《しょうじ》のほうにそらしてしまった。手あぶりの縁《ふち》に置かれた手の先がかすかに震うのを葉子は見のがさなかった。
 やがて妹たち二人が葉子の後ろに現われた。葉子はすわったまま手を後ろに回して、
 「そんな人のお尻《しり》の所にすわって、もっとこっちにお出なさいな。……これが妹たちですの。どうかお友だちにしてくださいまし。お船で御一緒だった岡|一《はじめ》様。……愛さんあなたお知り申していないの……あの失礼ですがなんとおっしゃいますの、お従妹御《いとこご》さんのお名前は」
 と岡に尋ねた。岡は言葉どおりに神経を転倒させていた。それはこの青年を非常に醜くかつ美しくして見せた。急いですわり直した居ずまいをすぐ意味もなくくずして、それをまた非常に後悔したらしい顔つきを見せたりした。
 「は?」
 「あのわたしどものうわさをなさったそのお嬢様のお名前は」
 「あのやはり岡といいます」
 「岡さんならお顔は存じ上げておりますわ。一つ上の級にいらっしゃいます」
 愛子は少しも騒がずに、倉地に対した時と同じ調子でじっ[#「じっ」に傍点]と岡を見やりながら即座にこう答えた。その目は相変わらず淫蕩《いんとう》と見えるほど極端に純潔だった。純潔と見えるほど極端に淫蕩だった。岡は怖《お》じながらもその目から自分の目をそらす事ができないようにまとも[#「まとも」に傍点]に愛子を見て見る見る耳たぶまでをまっ赤《か》にしていた。葉子はそれを気取《けど》ると愛子に対していちだんの憎しみを感ぜずにはいられなかった。
 「倉地さんは……」
 岡は一路の逃げ道をようやく求め出したように葉子に目を転じた。
 「倉地さん? たった今お帰りになったばかり惜しい事をしましてねえ。でもあなたこれからはちょく[#「ちょく」に傍点]ちょくいらしってくださいますわね。倉地さんもすぐお近所にお住まいですからいつかごいっしょに御飯でもいただきましょう。わたし日本に帰ってからこの家にお客様をお上げするのはきょうが始めてですのよ。ねえ貞《さあ》ちゃん。……ほんとうによく来てくださいました事。わたしとうから来ていただきたくってしようがなかったんですけれども、倉地さんからなんとかいって上げてくださるだろうと、そればかりを待っていたのですよ。わたしからお手紙を上げるのはいけませんもの(そこで葉子はわかってくださるでしょうというような優しい目つきを強い表情を添えて岡に送った)。木村からの手紙であなたの事はくわしく伺っていましたわ。いろいろお苦しい事がおありになるんですってね」
 岡はそのころになってようやく自分を回復したようだった。しどろもどろ[#「しどろもどろ」に傍点]になった考えや言葉もやや整って見えた。愛子は一度しげしげと岡を見てしまってからは、決して二度とはそのほうを向かずに、目を畳の上に伏せてじっ[#「じっ」に傍点]と千里も離れた事でも考えている様子だった。
 「わたしの意気地《いくじ》のないのが何よりもいけないんです。親類の者たちはなんといってもわたしを実業の方面に入れて父の事業を嗣《つ》がせようとするんです。それはたぶんほんとうにいい事なんでしょう。けれどもわたしにはどうしてもそういう事がわからないから困ります。少しでもわかれば、どうせこんなに病身で何もできませんから、母はじめみんなのいうことをききたいんですけれども……わたしは時々|乞食《こじき》にでもなってしまいたいような気がします。みんなの主人思いな目で見つめられていると、わたしはみんなに済まなくなって、なぜ自分みたいな屑《くず》な人間を惜しんでいてくれるのだろうとよくそう思います……こんな事今までだれにもいいはしませんけれども。突然日本に帰って来たりなぞしてからわたしは内々監視までされるようになりました。……わたしのような家に生まれると友だちというものは一人《ひとり》もできませんし、みんなとは表面だけで物をいっていなければならないんですから……心がさびしくってしかたがありません」
 そういって岡はすがるように葉子を見やった。岡が少し震えを帯びた、よごれっ気《け》の塵《ちり》ほどもない声の調子を落としてしんみり[#「しんみり」に傍点]と物をいう様子にはおのずからな気高《けだか》いさびしみがあった。戸障子をきしませながら雪を吹きまく戸外の荒々しい自然の姿に比べてはことさらそれが目立った。葉子には岡のような消極的な心持ちは少しもわからなかった。しかしあれでいて、米国くんだり[#「くんだり」に傍点]から乗って行った船で帰って来る所なぞには、粘り強い意力が潜んでいるようにも思えた。平凡な青年ならできてもできなくとも周囲のものにおだてあげられれば疑いもせずに父の遺業を嗣《つ》ぐまねをして喜んでいるだろう。それがどうしてもできないという所にもどこか違った所があるのではないか。葉子はそう思うと何の理解もなくこの青年を取り巻いてただわいわい騒ぎ立てている人たちがばかばかしくも見えた。それにしてもなぜもっとはき[#「はき」に傍点]はきとそんな下らない障害ぐらい打ち破ってしまわないのだろう。自分ならその財産を使ってから、「こうすればいいのかい」とでもいって、まわりで世話を焼いた人間たちを胸のすき切るまで思い存分笑ってやるのに。そう思うと岡の煮え切らないような態度が歯がゆくもあった。しかしなんといっても抱きしめたいほど可憐《かれん》なのは岡の繊美なさびしそうな姿だった。岡は上手《じょうず》に入れられた甘露《かんろ》をすすり終わった茶《ちゃ》わんを手の先に据《す》えて綿密にその作りを賞翫《しょうがん》していた。
 「お覚えになるようなものじゃございません事よ」
 岡は悪い事でもしていたように顔を赤くしてそれを下においた。彼はいいかげんな世辞はいえないらしかった。
 岡は始めて来た家に長居《ながい》するのは失礼だと来た時から思っていて、機会あるごとに座を立とうとするらしかったが、葉子はそういう岡の遠慮に感づけば感づくほど巧みにもすべての機会を岡に与えなかった。
 「もう少しお待ちになると雪が小降りになりますわ。今、こないだインドから来た紅茶を入れてみますから召し上がってみてちょうだい。ふだんいいものを召し上がりつけていらっしゃるんだから、鑑定をしていただきますわ。ちょっと、……ほんのちょっと待っていらしってちょうだいよ」
 そういうふうにいって岡を引き止めた。始めの間こそ倉地に対してのようにはなつかなかった貞世もだんだんと岡と口をきくようになって、しまいには岡の穏やかな問いに対して思いのままをかわいらしく語って聞かせたり、話題に窮して岡が黙ってしまうと貞世のほうから無邪気な事を聞きただして、岡をほほえましたりした。なんといっても岡は美しい三人の姉妹が(そのうち愛子だけは他の二人《ふたり》とは全く違った態度で)心をこめて親しんで来るその好意には敵し兼ねて見えた。盛んに火を起こした暖かい部屋《へや》の中の空気にこもる若い女たちの髪からとも、ふところからとも、膚からとも知れぬ柔軟な香《かお》りだけでも去りがたい思いをさせたに違いなかった。いつのまにか岡はすっかり[#「すっかり」に傍点]腰を落ち着けて、いいようなく快く胸の中のわだかまり[#「わだかまり」に傍点]を一掃したように見えた。
 それからというもの、岡は美人屋敷とうわさされる葉子の隠れ家《が》におりおり出入りするようになった。倉地とも顔を合わせて、互いに快く船の中での思い出し話などをした。岡の目の上には葉子の目が義眼《いれめ》されていた。葉子のよしと見るものは岡もよしと見た。葉子の憎むものは岡も無条件で憎んだ。ただ一つその例外となっているのは愛子というものらしかった。もちろん葉子とて性格的にはどうしても愛子といれ合わなかったが、骨肉の情としてやはり互いにいいようのない執着を感じあっていた。しかし岡は愛子に対しては心からの愛着を持ち出すようになっている事が知れた。
 とにかく岡の加わった事が美人屋敷のいろどりを多様にした。三人の姉妹は時おり倉地、岡に伴われて苔香園の表門のほうから三田《みた》の通りなどに散歩に出た。人々はそのきらびやかな群れに物好きな目をかがやかした。

    三三

 岡に住所を知らせてから、すぐそれが古藤《ことう》に通じたと見えて、二月にはいってからの木村の消息は、倉地の手を経ずに直接葉子にあてて古藤から回送されるようになった。古藤はしかし頑固《がんこ》にもその中に一言《ひとこと》も自分の消息を封じ込んでよこすような事はしなかった。古藤を近づかせる事は一面木村と葉子との関係を断絶さす機会を早める恐れがないでもなかったが、あの古藤の単純な心をうまくあやつりさえすれば、古藤を自分のほうになずけてしまい、従って木村に不安を起こさせない方便になると思った。葉子は例のいたずら心から古藤を手なずける興味をそそられないでもなかった。しかしそれを実行に移すまでにその興味は嵩《こう》じては来なかったのでそのままにしておいた。
 木村の仕事は思いのほか都合よく運んで行くらしかった。「日本における未来のピーボデー」という標題に木村の肖像まで入れて、ハミルトン氏配下の敏腕家の一人《ひとり》として、また品性の高潔な公共心の厚い好個の青年実業家として、やがては日本において、米国におけるピーボデーと同様の名声をかちうべき約束にあるものと賞賛したシカゴ・トリビューンの「青年実業家評判記」の切り抜きなどを封入して来た。思いのほか巨額の為替《かわせ》をちょいちょい送ってよこして、倉地氏に支払うべき金額の全体を知らせてくれたら、どう工面《くめん》しても必ず送付するから、一日も早く倉地氏の保護から独立して世評の誤謬《ごびゅう》を実行的に訂正し、あわせて自分に対する葉子の真情を証明してほしいなどといってよこした。葉子は――倉地におぼれきっている葉子は鼻の先でせせら笑った。
 それに反して倉地の仕事のほうはいつまでも目鼻がつかないらしかった。倉地のいう所によれば日本だけの水先案内業者の組合といっても、東洋の諸港や西部米国の沿岸にあるそれらの組合とも交渉をつけて連絡を取る必要があるのに、日本の移民問題が米国の西部諸州でやかましくなり、排日熱が過度に煽動《せんどう》され出したので、何事も米国人との交渉は思うように行かずにその点で行きなやんでいるとの事だった。そういえば米国人らしい外国人がしばしば倉地の下宿に出入りするのを葉子は気がついていた。ある時はそれが公使館の館員ででもあるかと思うような、礼装をしてみごとな馬車に乗った紳士である事もあり、ある時はズボンの折り目もつけないほどだらしのないふうをした人相のよくない男でもあった。
 とにかく二月にはいってから倉地の様子が少しずつすさんで来たらしいのが目立つようになった。酒の量も著しく増して来た。正井がかみつくようにどなられている事もあった。しかし葉子に対しては倉地は前にもまさって溺愛《できあい》の度を加え、あらゆる愛情の証拠をつかむまでは執拗《しつよう》に葉子をしいたげるようになった。葉子は目もくらむ火酒をあおりつけるようにそのしいたげを喜んで迎えた。
 ある夜葉子は妹たちが就寝してから倉地の下宿を訪れた。倉地はたった一人でさびしそうにソウダ・ビスケットを肴《さかな》にウィスキーを飲んでいた。チャブ台の周囲には書類や港湾の地図やが乱暴に散らけてあって、台の上のからのコップから察すると正井かだれか、今客が帰った所らしかった。襖《ふすま》を明けて葉子のはいって来たのを見ると倉地はいつもになくちょっとけわしい目つきをして書類に目をやったが、そこにあるものを猿臂《えんぴ》を延ばして引き寄せてせわしく一まとめにして床の間に移すと、自分の隣に座ぶとんを敷いて、それにすわれと顎《あご》を突き出して相図した。そして激しく手を鳴らした。
 「コップと炭酸水を持って来い」
 用を聞きに来た女中にこういいつけておいて、激しく葉子をまとも[#「まとも」に傍点]に見た。
 「葉ちゃん(これはそのころ倉地が葉子を呼ぶ名前だった。妹たちの前で葉子と呼び捨てにもできないので倉地はしばらくの間お葉さんお葉さんと呼んでいたが、葉子が貞世を貞《さあ》ちゃんと呼ぶのから思いついたと見えて、三人を葉ちゃん、愛ちゃん、貞ちゃんと呼ぶようになった。そして差し向かいの時にも葉子をそう呼ぶのだった)は木村に貢《みつ》がれているな。白状しっちまえ」
 「それがどうして?」
 葉子は左の片|肘《ひじ》をちゃぶ[#「ちゃぶ」に傍点]台について、その指先で鬢《びん》のほつれをかき上げながら、平気な顔で正面から倉地を見返した。
 「どうしてがあるか。おれは赤の他人におれの女を養わすほど腑抜《ふぬ》けではないんだ」
 「まあ気の小さい」
 葉子はなおも動《どう》じなかった。そこに婢《おんな》がはいって来たので話の腰が折られた。二人《ふたり》はしばらく黙っていた。
 「おれはこれから竹柴《たけしば》へ行く。な、行こう」
 「だって明朝困りますわ。わたしが留守だと妹たちが学校に行けないもの」
 「一筆書いて学校なんざあ休んで留守をしろといってやれい」
 葉子はもちろんちょっとそんな事をいって見ただけだった。妹たちの学校に行ったあとでも、苔香園《たいこうえん》の婆《ばあ》さんに言葉をかけておいて家を明ける事は常《つね》始終だった。ことにその夜は木村の事について倉地に合点させておくのが必要だと思ったのでいい出された時から一緒する下心《したごころ》ではあったのだ。葉子はそこにあったペンを取り上げて紙切れに走り書きをした。倉地が急病になったので介抱のために今夜はここで泊まる。あすの朝学校の時刻までに帰って来なかったら、戸締まりをして出かけていい。そういう意味を書いた。その間に倉地は手早く着がえをして、書類を大きなシナ鞄《かばん》に突っ込んで錠《じょう》をおろしてから、綿密にあくかあかないかを調べた。そして考えこむようにうつむいて上目をしながら、両手をふところにさし込んで鍵《かぎ》を腹帯《はらおび》らしい所にしまい込んだ。
 九時すぎ十時近くなってから二人は連れ立って下宿を出た。増上寺《ぞうじょうじ》前に来てから車を傭《やと》った。満月に近い月がもうだいぶ寒空《さむぞら》高くこうこうとかかっていた。
 二人を迎えた竹柴館の女中は倉地を心得ていて、すぐ庭先に離れになっている二間《ふたま》ばかりの一軒に案内した。風はないけれども月の白さでひどく冷え込んだような晩だった。葉子は足の先が氷で包まれたほど感覚を失っているのを覚えた。倉地の浴したあとで、熱めな塩湯にゆっくり[#「ゆっくり」に傍点]浸ったのでようやく人心地《ひとごこち》がついて戻《もど》って来た時には、素早《すばや》い女中の働きで酒肴《しゅこう》がととのえられていた。葉子が倉地と遠出らしい事をしたのはこれが始めてなので、旅先にいるような気分が妙に二人を親しみ合わせた。ましてや座敷に続く芝生《しばふ》のはずれの石垣《いしがき》には海の波が来て静かに音を立てていた。空には月がさえていた。妹たちに取り巻かれたり、下宿人の目をかねたりしていなければならなかった二人はくつろいだ姿と心とで火鉢《ひばち》により添った。世の中は二人きりのようだった。いつのまにか良人《おっと》とばかり倉地を考え慣れてしまった葉子は、ここに再び情人を見いだしたように思った。そして何とはなく倉地をじらしてじらしてじらし抜いたあげくに、その反動から来る蜜《みつ》のような歓語を思いきり味わいたい衝動に駆られていた。そしてそれがまた倉地の要求でもある事を本能的に感じていた。
 「いいわねえ。なぜもっと早くこんな所に来なかったでしょう。すっかり苦労も何も忘れてしまいましたわ」
 葉子はすべすべとほてって少しこわばるような頬《ほお》をなでながら、とろけるように倉地を見た。もうだいぶ酒の気のまわった倉地は、女の肉感をそそり立てるようなにおいを部屋《へや》じゅうにまき散らす葉巻をふかしながら、葉子を尻目《しりめ》にかけた。
 「それは結構。だがおれにはさっき[#「さっき」に傍点]の話が喉《のど》につかえて残っとるて。胸《むな》くそが悪いぞ」
 葉子はあきれたように倉地を見た。
 「木村の事?」
 「お前はおれの金を心まかせに使う気にはなれないんか」
 「足りませんもの」
 「足りなきゃなぜいわん」
 「いわなくったって木村がよこすんだからいいじゃありませんか」
 「ばか!」
 倉地は右の肩を小山のようにそびやかして、上体を斜《しゃ》に構えながら葉子をにらみつけた。葉子はその目の前で海から出る夏の月のようにほほえんで見せた。
 「木村は葉ちゃんに惚《ほ》れとるんだよ」
 「そして葉ちゃんはきらってるんですわね」
 「冗談は措《お》いてくれ。……おりゃ真剣でいっとるんだ。おれたちは木村に用はないはずだ。おれは用のないものは片っ端《ぱし》から捨てるのが立てまえだ。嬶《かかあ》だろうが子だろうが……見ろおれを……よく見ろ。お前はまだこのおれを疑っとるんだな。あとがまには木村をいつでもなおせるように食い残しをしとるんだな」
 「そんな事はありませんわ」
 「ではなんで手紙のやり取りなどしおるんだ」
 「お金がほしいからなの」
 葉子は平気な顔をしてまた話をあとに戻《もど》した。そして独酌《どくしゃく》で杯を傾けた。倉地は少しどもるほど怒りが募っていた。
 「それが悪いといっとるのがわからないか……おれの面《つら》に泥《どろ》を塗りこくっとる……こっちに来い(そういいながら倉地は葉子の手を取って自分の膝《ひざ》の上に葉子の上体をたくし込んだ)。いえ、隠さずに。今になって木村に未練が出て来おったんだろう。女というはそうしたもんだ。木村に行きたくば行け、今行け。おれのようなやくざ[#「やくざ」に傍点]を構っとると芽は出やせんから。……お前にはふて腐れがいっち[#「いっち」に傍点]よく似合っとるよ……ただしおれをだましにかかると見当違いだぞ」
 そういいながら倉地は葉子を突き放すようにした。葉子はそれでも少しも平静を失ってはいなかった。あでやかにほほえみながら、
 「あなたもあんまりわからない……」
 といいながら今度は葉子のほうから倉地の膝《ひざ》に後ろ向きにもたれかかった。倉地はそれを退けようとはしなかった。
 「何がわからんかい」
 しばらくしてから、倉地は葉子の肩越しに杯を取り上げながらこう尋ねた。葉子には返事がなかった。またしばらくの沈黙の時間が過ぎた。倉地がもう一度何かいおうとした時、葉子はいつのまにかしくしくと泣いていた。倉地はこの不意打ちに思わずはっ[#「はっ」に傍点]としたようだった。
 「なぜ木村から送らせるのが悪いんです」
 葉子は涙を気取《けど》らせまいとするように、しかし打ち沈んだ調子でこういい出した。
 「あなたの御様子でお心持ちが読めないわたしだとお思いになって? わたしゆえに会社をお引きになってから、どれほど暮らし向きに苦しんでいらっしゃるか……そのくらいはばかでもわたしにはちゃん[#「ちゃん」に傍点]と響いています。それでもしみったれ[#「しみったれ」に傍点]た事をするのはあなたもおきらい、わたしもきらい……わたしは思うようにお金をつかってはいました。いましたけれども……心では泣いてたんです。あなたのためならどんな事でも喜んでしよう……そうこのごろ思ったんです。それから木村にとうとう手紙を書きました。わたしが木村をなんと思ってるか、今さらそんな事をお疑いになるのあなたは。そんな水臭い回し気をなさるからついくやしくなっちまいます。……そんなわたしだかわたしではないか……(そこで葉子は倉地から離れてきちん[#「きちん」に傍点]とすわり直して袂《たもと》で顔をおおうてしまった)泥棒《どろぼう》をしろとおっしゃるほうがまだ増しです……あなたお一人《ひとり》でくよ[#「くよ」に傍点]くよなさって……お金の出所を……暮らし向きが張り過ぎるなら張り過ぎると……なぜ相談に乗らせてはくださらないの……やはりあなたはわたしを真身《しんみ》には思っていらっしゃらないのね……」
 倉地は一度は目を張って驚いたようだったが、やがて事もなげに笑い出した。
 「そんな事を思っとったのか。ばかだなあお前は。御好意は感謝します……全く。しかしなんぼやせても枯れても、おれは女の子の二人《ふたり》や三人養うに事は欠かんよ。月に三百や四百の金が手回らんようなら首をくくって死んで見せる。お前をまで相談に乗せるような事はいらんのだよ。そんな陰にまわった心配事はせん事にしようや。こののんき坊のおれまでがいらん気をもませられるで……」
 「そりゃうそです」
 葉子は顔をおおうたままきっぱり[#「きっぱり」に傍点]と矢継ぎ早にいい放った。倉地は黙ってしまった。葉子もそのまましばらくはなんとも言い出《い》でなかった。
 母屋《おもや》のほうで十二を打つ柱時計の声がかすかに聞こえて来た。寒さもしんしんと募っていたには相違なかった。しかし葉子はそのいずれをも心の戸の中までは感じなかった。始めは一種のたくらみから狂言でもするような気でかかったのだったけれども、こうなると葉子はいつのまにか自分で自分の情におぼれてしまっていた。木村を犠牲にしてまでも倉地におぼれ込んで行く自分があわれまれもした。倉地が費用の出所をついぞ打ち明けて相談してくれないのが恨みがましく思われもした。知らず知らずのうちにどれほど葉子は倉地に食い込み、倉地に食い込まれていたかをしみじみと今さらに思い知った。どうなろうとどうあろうと倉地から離れる事はもうできない。倉地から離れるくらいなら自分はきっと死んで見せる。倉地の胸に歯を立ててその心臓をかみ破ってしまいたいような狂暴な執念が葉子を底知れぬ悲しみへ誘い込んだ。
 心の不思議な作用として倉地も葉子の心持ちは刺青《いれずみ》をされるように自分の胸に感じて行くらしかった。やや程経《ほどた》ってから倉地は無感情のような鈍い声でいい出した。
 「全くはおれが悪かったのかもしれない。一時は全く金には弱り込んだ。しかしおれは早や世の中の底潮《そこしお》にもぐり込んだ人間だと思うと度胸がすわってしまいおった。毒も皿《さら》も食ってくれよう、そう思って(倉地はあたりをはばかるようにさらに声を落とした)やり出した仕事があの組合の事よ。水先案内のやつらはくわしい海図を自分で作って持っとる。要塞地《ようさいち》の様子も玄人《くろうと》以上ださ。それを集めにかかってみた。思うようには行かんが、食うだけの金は余るほど出る」
 葉子は思わずぎょっ[#「ぎょっ」に傍点]として息気《いき》がつまった。近ごろ怪しげな外国人が倉地の所に出入りするのも心当たりになった。倉地は葉子が倉地の言葉を理解して驚いた様子を見ると、ほとほと悪魔のような顔をしてにやり[#「にやり」に傍点]と笑った。捨てばちな不敵さと力とがみなぎって見えた。
 「愛想《あいそ》が尽きたか……」
 愛想が尽きた。葉子は自分自身に愛想が尽きようとしていた。葉子は自分の乗った船はいつでも相客《あいきゃく》もろともに転覆して沈んで底知れぬ泥土《でいど》の中に深々ともぐり込んで行く事を知った。売国|奴《ど》、国賊、――あるいはそういう名が倉地の名に加えられるかもしれない……と思っただけで葉子は怖毛《おぞけ》をふるって、倉地から飛びのこうとする衝動を感じた。ぎょっ[#「ぎょっ」に傍点]とした瞬間にただ瞬間だけ感じた。次にどうかしてそんな恐ろしいはめ[#「はめ」に傍点]から倉地を救い出さなければならないという殊勝な心にもなった。しかし最後に落ち着いたのは、その深みに倉地をことさら突き落としてみたい悪魔的な誘惑だった。それほどまでの葉子に対する倉地の心尽くしを、臆病《おくびょう》な驚きと躊躇《ちゅうちょ》とで迎える事によって、倉地に自分の心持ちの不徹底なのを見下げられはしないかという危惧《きぐ》よりも、倉地が自分のためにどれほどの堕落でも汚辱でも甘んじて犯すか、それをさせてみて、満足しても満足しても満足しきらない自分の心の不足を満たしたかった。そこまで倉地を突き落とすことは、それだけ二人《ふたり》の執着を強める事だとも思った。葉子は何事を犠牲に供しても灼熱《しゃくねつ》した二人の間の執着を続けるばかりでなくさらに強める術《すべ》を見いだそうとした。倉地の告白を聞いて驚いた次の瞬間には、葉子は意識こそせねこれだけの心持ちに働かれていた。「そんな事で愛想が尽きてたまるものか」と鼻であしらうような心持ちに素早《すばや》くも自分を落ち着けてしまった。驚きの表情はすぐ葉子の顔から消えて、妖婦《ようふ》にのみ見る極端に肉的な蠱惑《こわく》の微笑がそれに代わって浮かみ出した。
 「ちょっと驚かされはしましたわ。……いいわ、わたしだってなんでもしますわ」
 倉地は葉子が言わず語らずのうちに感激しているのを感得していた。
 「よしそれで話はわかった。木村……木村からもしぼり上げろ、構うものかい。人間並みに見られないおれたちが人間並みに振る舞っていてたまるかい。葉ちゃん……命」
 「命!……命!![#「!!」は横一列] 命!!![#「!!!」は横一列]」
 葉子は自分の激しい言葉に目もくるめくような酔いを覚えながら、あらん限りの力をこめて倉地を引き寄せた。膳《ぜん》の上のものが音を立ててくつがえるのを聞いたようだったが、そのあとは色も音もない焔《ほのお》の天地だった。すさまじく焼けただれた肉の欲念が葉子の心を全く暗《くら》ましてしまった。天国か地獄《じごく》かそれは知らない。しかも何もかもみじんにつきくだいて、びりびりと震動する炎々たる焔《ほのお》に燃やし上げたこの有頂天《うちょうてん》の歓楽のほかに世に何者があろう。葉子は倉地を引き寄せた。倉地において今まで自分から離れていた葉子自身を引き寄せた。そして切るような痛みと、痛みからのみ来る奇怪な快感とを自分自身に感じて陶然と酔いしれながら、倉地の二の腕に歯を立てて、思いきり弾力性に富んだ熱したその肉をかんだ。
 その翌日十一時すぎに葉子は地の底から掘り起こされたように地球の上に目を開いた。倉地はまだ死んだもの同然にいぎたなく眠っていた。戸板の杉《すぎ》の赤みが鰹節《かつおぶし》の心《しん》のように半透明にまっ赤《か》に光っているので、日が高いのも天気が美しく晴れているのも察せられた。甘ずっぱく立てこもった酒と煙草《たばこ》の余燻《よくん》の中に、すき間もる光線が、透明に輝く飴色《あめいろ》の板となって縦に薄暗さの中を区切っていた。いつもならばまっ赤《か》に充血して、精力に充《み》ち満ちて眠りながら働いているように見える倉地も、その朝は目の周囲に死色をさえ注《さ》していた。むき出しにした腕には青筋が病的に思われるほど高く飛び出てはいずっていた。泳ぎ回る者でもいるように頭の中がぐらぐらする葉子には、殺人者が凶行から目ざめて行った時のような底の知れない気味わるさが感ぜられた。葉子は密《ひそ》やかにその部屋を抜け出して戸外に出た。
 降るような真昼《まひる》の光線にあうと、両眼は脳心のほうにしゃにむに引きつけられてたまらない痛さを感じた。かわいた空気は息気《いき》をとめるほど喉《のど》を干《ひ》からばした。葉子は思わずよろけて入り口の下見板《したみいた》に寄りかかって、打撲を避けるように両手で顔を隠してうつむいてしまった。
 やがて葉子は人を避けながら芝生《しばふ》の先の海ぎわに出てみた。満月に近いころの事とて潮は遠くひいていた。蘆《あし》の枯れ葉が日を浴びて立つ沮洳地《そじょち》のような平地が目の前に広がっていた。しかし自然は少しも昔の姿を変えてはいなかった。自然も人もきのうのままの営みをしていた。葉子は不思議なものを見せつけられたように茫然《ぼうぜん》として潮干潟《しおひがた》の泥《どろ》を見、うろこ雲で飾られた青空を仰いだ。ゆうべの事が真実ならこの景色は夢であらねばならぬ。この景色が真実ならゆうべの事は夢であらねばならぬ。二つが両立しようはずはない。……葉子は茫然《ぼうぜん》としてなお目にはいって来るものをながめ続けた。
 痲痺《まひ》しきったような葉子の感覚はだんだん回復して来た。それと共に瞑眩《めまい》を感ずるほどの頭痛をまず覚えた。次いで後腰部に鈍重な疼《いた》みがむくむくと頭をもたげるのを覚えた。肩は石のように凝っていた。足は氷のように冷えていた。
 ゆうべの事は夢ではなかったのだ……そして今見るこの景色も夢ではあり得ない……それはあまりに残酷だ、残酷だ。なぜゆうべをさかいにして、世の中はかるたを裏返したように変わっていてはくれなかったのだ。
 この景色のどこに自分は身をおく事ができよう。葉子は痛切に自分が落ち込んで行った深淵《しんえん》の深みを知った。そしてそこにしゃがん[#「しゃがん」に傍点]でしまって、苦《にが》い涙を泣き始めた。
 懺悔《ざんげ》の門の堅く閉ざされた暗い道がただ一筋、葉子の心の目には行く手に見やられるばかりだった。

    三四

 ともかくも一家の主となり、妹たちを呼び迎えて、その教育に興味と責任とを持ち始めた葉子は、自然自然に妻らしくまた母らしい本能に立ち帰って、倉地に対する情念にもどこか肉から精神に移ろうとする傾きができて来るのを感じた。それは楽しい無事とも考えれば考えられぬ事はなかった。しかし葉子は明らかに倉地の心がそういう状態の下《もと》には少しずつ硬《こわ》ばって行き冷えて行くのを感ぜずにはいられなかった。それが葉子には何よりも不満だった。倉地を選んだ葉子であってみれば、日がたつに従って葉子にも倉地が感じ始めたと同様な物足らなさが感ぜられて行った。落ち着くのか冷えるのか、とにかく倉地の感情が白熱して働かないのを見せつけられる瞬間は深いさびしみを誘い起こした。こんな事で自分の全我を投げ入れた恋の花を散ってしまわせてなるものか。自分の恋には絶頂があってはならない。自分にはまだどんな難路でも舞い狂いながら登って行く熱と力とがある。その熱と力とが続く限り、ぼんやり腰を据《す》えて周囲の平凡な景色などをながめて満足してはいられない。自分の目には絶巓《ぜってん》のない絶巓ばかりが見えていたい。そうした衝動は小休《おや》みなく葉子の胸にわだかまっていた。絵島丸の船室で倉地が見せてくれたような、何もかも無視した、神のように狂暴な熱心――それを繰り返して行きたかった。
 竹柴館《たけしばかん》の一夜はまさしくそれだった。その夜葉子は、次の朝になって自分が死んで見いだされようとも満足だと思った。しかし次の朝生きたままで目を開くと、その場で死ぬ心持ちにはもうなれなかった。もっと嵩《こう》じた歓楽を追い試みようという欲念、そしてそれができそうな期待が葉子を未練にした。それからというもの葉子は忘我渾沌《ぼうがこんとん》の歓喜に浸るためには、すべてを犠牲としても惜しまない心になっていた。そして倉地と葉子とは互い互いを楽しませそしてひき寄せるためにあらん限りの手段を試みた。葉子は自分の不可犯性(女が男に対して持ついちばん強大な蠱惑《こわく》物)のすべてまで惜しみなく投げ出して、自分を倉地の目に娼婦《しょうふ》以下のものに見せるとも悔いようとはしなくなった。二人《ふたり》は、はた目には酸鼻《さんび》だとさえ思わせるような肉欲の腐敗の末遠く、互いに淫楽《いんらく》の実《み》を互い互いから奪い合いながらずるずると壊《こわ》れこんで行くのだった。
 しかし倉地は知らず、葉子に取ってはこのいまわしい腐敗の中にも一縷《いちる》の期待が潜んでいた。一度ぎゅっ[#「ぎゅっ」に傍点]とつかみ得たらもう動かないある物がその中に横たわっているに違いない、そういう期待を心のすみからぬぐい去る事ができなかったのだった。それは倉地が葉子の蠱惑《こわく》に全く迷わされてしまって再び自分を回復し得ない時期があるだろうというそれだった。恋をしかけたもののひけめ[#「ひけめ」に傍点]として葉子は今まで、自分が倉地を愛するほど倉地が自分を愛してはいないとばかり思った。それがいつでも葉子の心を不安にし、自分というものの居すわり所までぐらつかせた。どうかして倉地を痴呆《ちほう》のようにしてしまいたい。葉子はそれがためにはある限りの手段を取って悔いなかったのだ。妻子を離縁させても、社会的に死なしてしまっても、まだまだ物足らなかった。竹柴館の夜に葉子は倉地を極印付きの凶状持ちにまでした事を知った。外界から切り離されるだけそれだけ倉地が自分の手に落ちるように思っていた葉子はそれを知って有頂天《うちょうてん》になった。そして倉地が忍ばねばならぬ屈辱を埋め合わせるために葉子は倉地が欲すると思わしい激しい情欲を提供しようとしたのだ。そしてそうする事によって、葉子自身が結局自己を銷尽《しょうじん》して倉地の興味から離れつつある事には気づかなかったのだ。
 とにもかくにも二人の関係は竹柴館の一夜から面目を改めた。葉子は再び妻から情熱の若々しい情人になって見えた。そういう心の変化が葉子の肉体に及ぼす変化は驚くばかりだった。葉子は急に三つも四つも若やいだ。二十六の春を迎えた葉子はそのころの女としてはそろそろ老いの徴候をも見せるはずなのに、葉子は一つだけ年を若く取ったようだった。
 ある天気のいい午後――それは梅のつぼみがもう少しずつふくらみかかった午後の事だったが――葉子が縁側に倉地の肩に手をかけて立ち並びながら、うっとり[#「うっとり」に傍点]と上気して雀《すずめ》の交わるのを見ていた時、玄関に訪れた人の気配がした。
 「だれでしょう」
 倉地は物|惰《う》さそうに、
 「岡だろう」
 といった。
 「いゝえきっと正井さんよ」
 「なあに岡だ」
 「じゃ賭《か》けよ」
 葉子はまるで少女のように甘ったれた口調でいって玄関に出て見た。倉地がいったように岡だった。葉子は挨拶《あいさつ》もろくろくしないでいきなり[#「いきなり」に傍点]岡の手をしっかり[#「しっかり」に傍点]と取った。そして小さな声で、
 「よくいらしってね。その間着《あいぎ》のよくお似合いになる事。春らしいいい色地ですわ。今倉地と賭《か》けをしていた所。早くお上がり遊ばせ」
 葉子は倉地にしていたように岡のやさ肩に手を回してならびながら座敷にはいって来た。
 「やはりあなたの勝ちよ。あなたはあて[#「あて」に傍点]事がお上手《じょうず》だから岡さんを譲って上げたらうまくあたったわ。今|御褒美《ごほうび》を上げるからそこで見ていらっしゃいよ」
 そう倉地にいうかと思うと、いきなり岡を抱きすくめてその頬《ほお》に強い接吻《せっぷん》を与えた。岡は少女のように恥じらってしいて葉子から離れようともがいた。倉地は例の渋いように口もとをねじってほほえみながら、
 「ばか!……このごろこの女は少しどうかしとりますよ。岡さん、あなた一つ背中でもどやしてやってください。……まだ勉強か」
 といいながら葉子に天井を指さして見せた。葉子は岡に背中を向けて「さあどやしてちょうだい」といいながら、今度は天井を向いて、
 「愛さん、貞《さあ》ちゃん、岡さんがいらしってよ。お勉強が済んだら早くおりておいで」
 と澄んだ美しい声で蓮葉《はすは》に叫んだ。
 「そうお」
 という声がしてすぐ貞世が飛んでおりて来た。
 「貞《さあ》ちゃんは今勉強が済んだのか」
 と倉地が聞くと貞世は平気な顔で、
 「ええ今済んでよ」
 といった。そこにはすぐはなやかな笑いが破裂した。愛子はなかなか下に降りて来ようとはしなかった。それでも三人は親しくチャブ台を囲んで茶を飲んだ。その日岡は特別に何かいい出したそうにしている様子だったが。やがて、
 「きょうはわたし少しお願いがあるんですが皆様きいてくださるでしょうか」
 重苦しくいい出した。
 「えゝえゝあなたのおっしゃる事ならなんでも……ねえ貞《さあ》ちゃん(とここまでは冗談らしくいったが急にまじめになって)……なんでもおっしゃってくださいましな、そんな他人行儀をしてくださると変ですわ」
 と葉子がいった。
 「倉地さんもいてくださるのでかえっていいよいと思いますが古藤《ことう》さんをここにお連れしちゃいけないでしょうか。……木村さんから古藤さんの事は前から伺っていたんですが、わたしは初めてのお方にお会いするのがなんだか億劫《おっくう》な質《たち》なもので二つ前の日曜日までとうとうお手紙も上げないでいたら、その日突然古藤さんのほうから尋ねて来てくださったんです。古藤さんも一度お尋ねしなければいけないんだがといっていなさいました。でわたし、きょうは水曜日だから、用便《ようべん》外出の日だから、これから迎えに行って来たいと思うんです。いけないでしょうか」
 葉子は倉地だけに顔が見えるように向き直って「自分に任せろ」という目つきをしながら、
 「いいわね」
 と念を押した。倉地は秘密を伝える人のように顔色だけで「よし」と答えた。葉子はくるり[#「くるり」に傍点]と岡のほうに向き直った。
 「ようございますとも(葉子はそのよう[#「よう」に傍点]にアクセントを付けた)あなたにお迎いに行っていただいてはほんとにすみませんけれども、そうしてくださるとほんとうに結構。貞《さあ》ちゃんもいいでしょう。またもう一人《ひとり》お友だちがふえて……しかも珍しい兵隊さんのお友だち……」
 「愛ねえさんが岡さんに連れていらっしゃいってこの間そういったのよ」
 と貞世は遠慮なくいった。
 「そうそう愛子さんもそうおっしゃってでしたね」
 と岡はどこまでも上品な丁寧な言葉で事のついでのようにいった。
 岡が家を出るとしばらくして倉地も座を立った。
 「いいでしょう。うまくやって見せるわ。かえって出入りさせるほうがいいわ」
 玄関に送り出してそう葉子はいった。
 「どうかなあいつ、古藤のやつは少し骨張《ほねば》り過ぎてる……が悪かったら元々《もともと》だ……とにかくきょうおれのいないほうがよかろう」
 そういって倉地は出て行った。葉子は張り出しになっている六畳の部屋《へや》をきれいに片づけて、火鉢《ひばち》の中に香《こう》をたきこめて、心静かに目論見《もくろみ》をめぐらしながら古藤の来るのを待った。しばらく会わないうちに古藤はだいぶ手ごわくなっているようにも思えた。そこを自分の才力で丸めるのが時に取っての興味のようにも思えた。もし古藤を軟化すれば、木村との関係は今よりもつなぎがよくなる……。
 三十分ほどたったころ一つ木《ぎ》の兵営から古藤は岡に伴われてやって来た。葉子は六畳にいて、貞世を取り次ぎに出した。
 「貞世さんだね。大きくなったね」
 まるで前の古藤の声とは思われぬようなおとなびた黒ずんだ声がして、がちゃ[#「がちゃ」に傍点]がちゃと佩剣《はいけん》を取るらしい音も聞こえた。やがて岡の先に立って格好の悪いきたない黒の軍服を着た古藤が、皮類の腐ったような香《にお》いをぷんぷんさせながら葉子のいる所にはいって来た。
 葉子は他意なく好意をこめた目つきで、少女のように晴れやかに驚きながら古藤を見た。
 「まあこれが古藤さん? なんてこわい方《かた》になっておしまいなすったんでしょう。元の古藤さんはお額《ひたい》のお白い所だけにしか残っちゃいませんわ。がみ[#「がみ」に傍点]がみとしかったりなすっちゃいやです事よ。ほんとうにしばらく。もう金輪際《こんりんざい》来てはくださらないものとあきらめていましたのに、よく……よくいらしってくださいました。岡さんのお手柄ですわ……ありがとうございました」
 といって葉子はそこにならんですわった二人《ふたり》の青年をかたみがわりに見やりながら軽く挨拶《あいさつ》した。
 「さぞおつらいでしょうねえ。お湯は? お召しにならない? ちょうど沸いていますわ」
 「だいぶ臭くってお気の毒ですが、一度や二度湯につかったってなおりはしませんから……まあはいりません」
 古藤ははいって来た時のしかつめらしい様子に引きかえて顔色を軟《やわ》らがせられていた。葉子は心の中で相変わらずの simpleton だと思った。
 「そうねえ何時《なんじ》まで門限は?……え、六時? それじゃもういくらもありませんわね。じゃお湯はよしていただいてお話のほうをたんとしましょうねえ。いかが軍隊生活は、お気に入って?」
 「はいらなかった前以上にきらいになりました」
 「岡さんはどうなさったの」
 「わたしまだ猶予中ですが検査を受けたってきっとだめです。不合格のような健康を持つと、わたし軍隊生活のできるような人がうらやましくってなりません。……からだでも強くなったらわたし、もう少し心も強くなるんでしょうけれども……」
 「そんな事はありませんねえ」
 古藤は自分の経験から岡を説伏するようにそういった。
 「僕《ぼく》もその一人《ひとり》だが、鬼のような体格を持っていて、女のような弱虫が隊にいて見るとたくさんいますよ。僕はこんな心でこんな体格を持っているのが先天的の二重生活をしいられるようで苦しいんです。これからも僕はこの矛盾のためにきっと苦しむに違いない」
 「なんですねお二人とも、妙な所で謙遜《けんそん》のしっこをなさるのね。岡さんだってそうお弱くはないし、古藤さんときたらそれは意志堅固……」
 「そうなら僕はきょうもここなんかには来やしません。木村君にもとうに決心をさせているはずなんです」
 葉子の言葉を中途から奪って、古藤はしたたか自分自身をむちうつように激しくこういった。葉子は何もかもわかっているくせにしら[#「しら」に傍点]を切って不思議そうな目つきをして見せた。
 「そうだ、思いきっていうだけの事はいってしまいましょう。……岡君立たないでください。君がいてくださるとかえっていいんです」
 そういって古藤は葉子をしばらく熟視してからいい出す事をまとめようとするように下を向いた。岡もちょっと形を改めて葉子のほうをぬすみ見るようにした。葉子は眉《まゆ》一つ動かさなかった。そしてそばにいる貞世に耳うちして、愛子を手伝って五時に夕食の食べられる用意をするように、そして三縁亭《さんえんてい》から三皿《みさら》ほどの料理を取り寄せるようにいいつけて座をはずさした。古藤はおどるようにして部屋《へや》を出て行く貞世をそっ[#「そっ」に傍点]と目のはずれで見送っていたが、やがておもむろに顔をあげた。日に焼けた顔がさらに赤くなっていた。
 「僕はね……(そういっておいて古藤はまた考えた)……あなたが、そんな事はないとあなたはいうでしょうが、あなたが倉地というその事務長の人の奥さんになられるというのなら、それが悪いって思ってるわけじゃないんです。そんな事があるとすりゃそりゃしかたのない事なんだ。……そしてですね、僕にもそりゃわかるようです。……わかるっていうのは、あなたがそうなればなりそうな事だと、それがわかるっていうんです。しかしそれならそれでいいから、それを木村にはっきり[#「はっきり」に傍点]といってやってください。そこなんだ僕のいわんとするのは。あなたは怒《おこ》るかもしれませんが、僕は木村に幾度も葉子さんとはもう縁を切れって勧告しました。これまで僕があなたに黙ってそんな事をしていたのはわるかったからお断わりをします(そういって古藤はちょっと誠実に頭を下げた。葉子も黙ったまままじめにうなずいて見せた)。けれども木村からの返事は、それに対する返事はいつでも同一なんです。葉子から破約の事を申し出て来るか、倉地という人との結婚を申し出て来るまでは、自分はだれの言葉よりも葉子の言葉と心とに信用をおく。親友であってもこの問題については、君の勧告だけでは心は動かない。こうなんです。木村ってのはそんな男なんですよ(古藤の言葉はちょっと曇ったがすぐ元のようになった)。それをあなたは黙っておくのは少し変だと思います」
 「それで……」
 葉子は少し座を乗り出して古藤を励ますように言葉を続けさせた。
 「木村からは前からあなたの所に行ってよく事情を見てやってくれ、病気の事も心配でならないからといって来てはいるんですが、僕は自分ながらどうしようもない妙な潔癖があるもんだからつい伺いおくれてしまったのです。なるほどあなたは先《せん》よりはやせましたね。そうして顔の色もよくありませんね」
 そういいながら古藤はじっ[#「じっ」に傍点]と葉子の顔を見やった。葉子は姉のように一段の高みから古藤の目を迎えて鷹揚《おうよう》にほほえんでいた。いうだけいわせてみよう、そう思って今度は岡のほうに目をやった。
 「岡さん。あなた今古藤さんのおっしゃる事をすっかり[#「すっかり」に傍点]お聞きになっていてくださいましたわね。あなたはこのごろ失礼ながら家族の一人《ひとり》のようにこちらに遊びにおいでくださるんですが、わたしをどうお思いになっていらっしゃるか、御遠慮なく古藤さんにお話しなすってくださいましな。決して御遠慮なく……わたしどんな事を伺っても決して決してなんとも思いはいたしませんから」
 それを聞くと岡はひどく当惑して顔をまっ赤《か》にして処女のように羞恥《はに》かんだ。古藤のそばに岡を置いて見るのは、青銅の花《か》びんのそばに咲きかけの桜を置いて見るようだった。葉子はふと心に浮かんだその対比を自分ながらおもしろいと思った。そんな余裕を葉子は失わないでいた。
 「わたしこういう事柄《ことがら》には物をいう力はないように思いますから……」
 「そういわないでほんとうに思った事をいってみてください。僕は一徹ですからひどい思い間違いをしていないとも限りませんから。どうか聞かしてください」
 そういって古藤も肩章《けんしょう》越しに岡を顧みた。
 「ほんとうに何もいう事はないんですけれども……木村さんにはわたし口にいえないほど御同情しています。木村さんのようないい方《かた》が今ごろどんなにひとりでさびしく思っていられるかと思いやっただけでわたしさびしくなってしまいます。けれども世の中にはいろいろな運命があるのではないでしょうか。そうして銘々は黙ってそれを耐えて行くよりしかたがないようにわたし思います。そこで無理をしようとするとすべての事が悪くなるばかり……それはわたしだけの考えですけれども。わたしそう考えないと一刻も生きていられないような気がしてなりません。葉子さんと木村さんと倉地さんとの関係はわたし少しは知ってるようにも思いますけれども、よく考えてみるとかえってちっとも知らないのかもしれませんねえ。わたしは自分自身が少しもわからないんですからお三人の事なども、わからない自分の、わからない想像だけの事だと思いたいんです。……古藤さんにはそこまではお話ししませんでしたけれども、わたし自分の家の事情がたいへん苦しいので心を打ちあけるような人を持っていませんでしたが……、ことに母とか姉妹とかいう女の人に……葉子さんにお目にかかったら、なんでもなくそれができたんです。それでわたしはうれしかったんです。そうして葉子さんが木村さんとどうしても気がお合いにならない、その事も失礼ですけれども今の所ではわたし想像が違っていないようにも思います。けれどもそのほかの事はわたしなんとも自信をもっていう事ができません。そんな所まで他人が想像をしたり口を出したりしていいものかどうかもわたしわかりません。たいへん独善的に聞こえるかもしれませんが、そんな気はなく、運命にできるだけ従順にしていたいと思うと、わたし進んで物をいったりしたりするのが恐ろしいと思います。……なんだか少しも役に立たない事をいってしまいまして……わたしやはり力がありませんから、何もいわなかったほうがよかったんですけれども……」
 そう絶え入るように声を細めて岡は言葉を結ばぬうちに口をつぐんでしまった。そのあとには沈黙だけがふさわしいように口をつぐんでしまった。
 実際そのあとには不思議なほどしめやかな沈黙が続いた。たき込めた香《こう》のにおいがかすかに動くだけだった。
 「あんなに謙遜《けんそん》な岡君も(岡はあわててその賛辞らしい古藤の言葉を打ち消そうとしそうにしたが、古藤がどんどん言葉を続けるのでそのまま顔を赤くして黙ってしまった)あなたと木村とがどうしても折り合わない事だけは少なくとも認めているんです。そうでしょう」
 葉子は美しい沈黙をがさつ[#「がさつ」に傍点]な手でかき乱された不快をかすかに物足らなく思うらしい表情をして、
 「それは洋行する前、いつぞや横浜に一緒に行っていただいた時くわしくお話ししたじゃありませんか。それはわたしどなたにでも申し上げていた事ですわ」
 「そんならなぜ……その時は木村のほかには保護者はいなかったから、あなたとしてはお妹さんたちを育てて行く上にも自分を犠牲にして木村に行く気でおいでだったかもしれませんがなぜ……なぜ今になっても木村との関係をそのままにしておく必要があるんです」
 岡は激しい言葉で自分が責められるかのようにはらはらしながら首を下げたり、葉子と古藤の顔とをかたみがわりに見やったりしていたが、とうとう居たたまれなくなったと見えて、静かに座を立って人のいない二階のほうに行ってしまった。葉子は岡の心持ちを思いやって引き止めなかったし、古藤は、いてもらった所がなんの役にも立たないと思ったらしくこれも引き止めはしなかった。さす花もない青銅の花《か》びん一つ……葉子は心の中で皮肉にほほえんだ。
 「それより先に伺わしてちょうだいな、倉地さんはどのくらいの程度でわたしたちを保護していらっしゃるか御存じ?」
 古藤はすぐぐっ[#「ぐっ」に傍点]と詰まってしまった。しかしすぐ盛り返して来た。
 「僕《ぼく》は岡君と違ってブルジョアの家に生まれなかったものですからデリカシーというような美徳をあまりたくさん持っていないようだから、失礼な事をいったら許してください。倉地って人は妻子まで離縁した……しかも非常に貞節らしい奥さんまで離縁したと新聞に出ていました」
 「そうね新聞には出ていましたわね。……ようございますわ、仮にそうだとしたらそれが何かわたしと関係のある事だとでもおっしゃるの」
 そういいながら葉子は少し気に障《さ》えたらしく、炭取りを引き寄せて火鉢《ひばち》に火をつぎ足した。桜炭の火花が激しく飛んで二人《ふたり》の間にはじけた。
 「まあひどいこの炭は、水をかけずに持って来たと見えるのね。女ばかりの世帯だと思って出入りの御用聞きまで人をばかにするんですのよ」
 葉子はそう言い言い眉《まゆ》をひそめた。古藤は胸をつかれたようだった。
 「僕は乱暴なもんだから……いい過ぎがあったらほんとうに許してください。僕は実際いかに親友だからといって木村ばかりをいいようにと思ってるわけじゃないんですけれども、全くあの境遇には同情してしまうもんだから……僕はあなたも自分の立場さえはっきり[#「はっきり」に傍点]いってくださればあなたの立場も理解ができると思うんだけれどもなあ。……僕はあまり直線的すぎるんでしょうか。僕は世の中を sun-clear に見たいと思いますよ。できないもんでしょうか」
 葉子はなでるような好意のほほえみを見せた。
 「あなたがわたしほんとうにうらやましゅうござんすわ。平和な家庭にお育ちになって素直《すなお》になんでも御覧になれるのはありがたい事なんですわ。そんな方《かた》ばかりが世の中にいらっしゃるとめんどうがなくなってそれはいいんですけれども、岡さんなんかはそれから見るとほんとうにお気の毒なんですの。わたしみたいなものをさえああしてたよりにしていらっしゃるのを見るといじらしくってきょうは倉地さんの見ている前でキスして上げっちまったの。……他人事《ひとごと》じゃありませんわね(葉子の顔はすぐ曇った)。あなたと同様はき[#「はき」に傍点]はきした事の好きなわたしがこんなに意地《いじ》をこじらしたり、人の気をかねたり、好んで誤解を買って出たりするようになってしまった、それを考えてごらんになってちょうだい。あなたには今はおわかりにならないかもしれませんけれども……それにしてももう五時。愛子に手料理を作らせておきましたから久しぶりで妹たちにも会ってやってくださいまし、ね、いいでしょう」
 古藤は急に固くなった。
 「僕《ぼく》は帰ります。僕は木村にはっきり[#「はっきり」に傍点]した報告もできないうちに、こちらで御飯をいただいたりするのはなんだか気がとがめます。葉子さん頼みます、木村を救ってください。そしてあなた自身を救ってください。僕はほんとうをいうと遠くに離れてあなたを見ているとどうしてもきらいになっちまうんですが、こうやってお話ししていると失礼な事をいったり自分で怒《おこ》ったりしながらも、あなたは自分でもあざむけないようなものを持っておられるのを感ずるように思うんです。境遇が悪いんだきっと。僕は一生が大事だと思いますよ。来世《らいせ》があろうが過去世《かこせ》があろうがこの一生が大事だと思いますよ。生きがいがあったと思うように生きて行きたいと思いますよ。ころんだって倒れたってそんな事を世間のようにかれこれくよくよせずに、ころんだら立って、倒れたら起き上がって行きたいと思います。僕は少し人並みはずれてばかのようだけれども、ばか者でさえがそうして行きたいと思ってるんです」
 古藤は目に涙をためて痛ましげに葉子を見やった。その時電灯が急に部屋《へや》を明るくした。
 「あなたはほんとうにどこか悪いようですね。早くなおってください。それじゃ僕はこれできょうは御免をこうむります。さようなら」
 牝鹿《めじか》のように敏感な岡さえがいっこう注意しない葉子の健康状態を、鈍重らしい古藤がいち早く見て取って案じてくれるのを見ると、葉子はこの素朴《そぼく》な青年になつかし味を感ずるのだった。葉子は立って行く古藤の後ろから、
 「愛さん貞《さあ》ちゃん古藤さんがお帰りになるといけないから早く来ておとめ申しておくれ」
 と叫んだ。玄関に出た古藤の所に台所口から貞世が飛んで来た。飛んで来はしたが、倉地に対してのようにすぐおどりかかる事は得しないで、口もきかずに、少し恥ずかしげにそこに立ちすくんだ。そのあとから愛子が手ぬぐいを頭から取りながら急ぎ足で現われた。玄関のなげしの所に照り返しをつけて置いてあるランプの光をまとも[#「まとも」に傍点]に受けた愛子の顔を見ると、古藤は魅いられたようにその美に打たれたらしく、目礼もせずにその立ち姿にながめ入った。愛子はにこり[#「にこり」に傍点]と左の口じりに笑《え》くぼの出る微笑を見せて、右手の指先が廊下の板にやっとさわるほど膝《ひざ》を折って軽く頭を下げた。愛子の顔には羞恥《しゅうち》らしいものは少しも現われなかった。
 「いけません、古藤さん。妹たちが御恩返しのつもりで一生懸命にしたんですから、おいしくはありませんが、ぜひ、ね。貞《さあ》ちゃんお前さんその帽子と剣とを持ってお逃げ」
 葉子にそういわれて貞世はすばしこく帽子だけ取り上げてしまった。古藤はおめおめと居残る事になった。
 葉子は倉地をも呼び迎えさせた。
 十二畳の座敷にはこの家に珍しくにぎやかな食卓がしつらえられた。五人がおのおの座について箸《はし》を取ろうとする所に倉地がはいって来た。
 「さあいらっしゃいまし、今夜はにぎやかですのよ。ここへどうぞ(そう云って古藤の隣の座を目で示した)。倉地さん、この方《かた》がいつもおうわさをする木村の親友の古藤義一さんです。きょう珍しくいらしってくださいましたの。これが事務長をしていらしった倉地三吉さんです」
 紹介された倉地は心置きない態度で古藤のそばにすわりながら、
 「わたしはたしか双鶴館《そうかくかん》でちょっとお目にかかったように思うが御挨拶《ごあいさつ》もせず失敬しました。こちらには始終お世話になっとります。以後よろしく」
 といった。古藤は正面から倉地をじっ[#「じっ」に傍点]と見やりながらちょっと頭を下げたきり物もいわなかった。倉地は軽々しく出した自分の今の言葉を不快に思ったらしく、苦《にが》りきって顔を正面に直したが、しいて努力するように笑顔《えがお》を作ってもう一度古藤を顧みた。
 「あの時からすると見違えるように変わられましたな。わたしも日清《にっしん》戦争の時は半分軍人のような生活をしたが、なかなかおもしろかったですよ。しかし苦しい事もたまにはおありだろうな」
 古藤は食卓を見やったまま、
 「えゝ」
 とだけ答えた。倉地の我慢はそれまでだった。一座はその気分を感じてなんとなく白《しら》け渡った。葉子の手慣れたtactでもそれはなかなか一掃されなかった。岡はその気まずさを強烈な電気のように感じているらしかった。ひとり貞世だけはしゃぎ返った。
 「このサラダは愛ねえさんがお醋《す》とオリーブ油を間違って油をたくさんかけたからきっと油っこくってよ」
 愛子はおだやかに貞世をにらむようにして、
 「貞《さあ》ちゃんはひどい」
 といった。貞世は平気だった。
 「その代わりわたしがまたお醋《す》をあとから入れたからすっぱすぎる所があるかもしれなくってよ。も少しついでにお葉《は》も入れればよかってねえ、愛ねえさん」
 みんなは思わず笑った。古藤も笑うには笑った。しかしその笑い声はすぐしずまってしまった。
 やがて古藤が突然|箸《はし》をおいた。
 「僕が悪いためにせっかくの食卓をたいへん不愉快にしたようです。すみませんでした。僕はこれで失礼します」
 葉子はあわてて、
 「まあそんな事はちっとも[#「ちっとも」に傍点]ありません事よ。古藤さんそんな事をおっしゃらずにしまいまでいらしってちょうだいどうぞ。みんなで途中までお送りしますから」
 ととめたが古藤はどうしてもきかなかった。人々は食事なかばで立ち上がらねばならなかった。古藤は靴《くつ》をはいてから、帯皮を取り上げて剣をつると、洋服のしわを延ばしながら、ちらっと愛子に鋭く目をやった。始めからほとんど物をいわなかった愛子は、この時も黙ったまま、多恨な柔和な目を大きく見開いて、中座をして行く古藤を美しくたしなめるようにじっ[#「じっ」に傍点]と見返していた、それを葉子の鋭い視覚は見のがさなかった。
 「古藤さん、あなたこれからきっとたびたびいらしってくださいましよ。まだまだ申し上げる事がたくさん残っていますし、妹たちもお待ち申していますから、きっとですことよ」
 そういって葉子も親しみを込めたひとみを送った。古藤はしゃちこ[#「しゃちこ」に傍点]張《ば》った軍隊式の立礼をして、さくさくと砂利《じゃり》の上に靴《くつ》の音を立てながら、夕闇《ゆうやみ》の催した杉森《すぎもり》の下道のほうへと消えて行った。
 見送りに立たなかった倉地が座敷のほうでひとり言のようにだれに向かってともなく「ばか!」というのが聞こえた。

    三五

 葉子と倉地とは竹柴館《たけしばかん》以来たびたび家を明けて小さな恋の冒険を楽しみ合うようになった。そういう時に倉地の家に出入りする外国人や正井などが同伴する事もあった。外国人はおもに米国の人だったが、葉子は倉地がそういう人たちを同座させる意味を知って、そのなめらかな英語と、だれでも――ことに顔や手の表情に本能的な興味を持つ外国人を――蠱惑《こわく》しないでは置かないはなやかな応接ぶりとで、彼らをとりこにする事に成功した。それは倉地の仕事を少なからず助けたに違いなかった。倉地の金まわりはますます潤沢になって行くらしかった。葉子一家は倉地と木村とから貢《みつ》がれる金で中流階級にはあり得ないほど余裕のある生活ができたのみならず、葉子は充分の仕送りを定子にして、なお余る金を女らしく毎月銀行に預け入れるまでになった。
 しかしそれとともに倉地はますますすさんで行った。目の光にさえもとのように大海にのみ見る寛濶《かんかつ》な無頓着《むとんじゃく》なそして恐ろしく力強い表情はなくなって、いらいらとあてもなく燃えさかる石炭の火のような熱と不安とが見られるようになった。ややともすると倉地は突然わけもない事にきびしく腹を立てた。正井などは木《こ》っ葉《ぱ》みじんにしかり飛ばされたりした。そういう時の倉地はあらしのような狂暴な威力を示した。
 葉子も自分の健康がだんだん悪いほうに向いて行くのを意識しないではいられなくなった。倉地の心がすさめばすさむほど葉子に対して要求するものは燃えただれる情熱の肉体だったが、葉子もまた知らず知らず自分をそれに適応させ、かつは自分が倉地から同様な狂暴な愛撫《あいぶ》を受けたい欲念から、先の事もあとの事も考えずに、現在の可能のすべてを尽くして倉地の要求に応じて行った。脳も心臓も振り回して、ゆすぶって、たたきつけて、一気に猛火であぶり立てるような激情、魂ばかりになったような、肉ばかりになったような極端な神経の混乱、そしてそのあとに続く死滅と同然の倦怠《けんたい》疲労。人間が有する生命力をどん底からためし試みるそういう虐待が日に二度も三度も繰り返された。そうしてそのあとでは倉地の心はきっと野獣のようにさらにすさんでいた。葉子は不快きわまる病理的の憂鬱《ゆううつ》に襲われた。静かに鈍く生命を脅かす腰部の痛み、二匹の小魔《しょうま》が肉と骨との間にはいり込んで、肉を肩にあてて骨を踏んばって、うん[#「うん」に傍点]と力任せに反《そ》り上がるかと思われるほどの肩の凝り、だんだん鼓動を低めて行って、呼吸を苦しくして、今働きを止めるかとあやぶむと、一時に耳にまで音が聞こえるくらい激しく動き出す不規則な心臓の動作、もやもやと火の霧で包まれたり、透明な氷の水で満たされるような頭脳の狂い、……こういう現象は日一日と生命に対する、そして人生に対する葉子の猜疑《さいぎ》を激しくした。
 有頂天《うちょうてん》の溺楽《できらく》のあとに襲って来るさびしいとも、悲しいとも、はかないとも形容のできないその空虚さは何よりも葉子につらかった。たといその場で命を絶《た》ってもその空虚さは永遠に葉子を襲うもののようにも思われた。ただこれからのがれるただ一つの道は捨てばちになって、一時的のものだとは知り抜きながら、そしてそのあとにはさらに苦しい空虚さが待ち伏せしているとは覚悟しながら、次の溺楽《できらく》を逐《お》うほかはなかった。気分のすさんだ倉地も同じ葉子と同じ心で同じ事を求めていた。こうして二人《ふたり》は底止《ていし》する所のないいずこかへ手をつないで迷い込んで行った。
 ある朝葉子は朝湯を使ってから、例の六畳で鏡台に向かったが一日一日に変わって行くような自分の顔にはただ驚くばかりだった。少し縦に長く見える鏡ではあるけれども、そこに映る姿はあまりに細っていた。その代わり目は前にも増して大きく鈴を張って、化粧焼けとも思われぬ薄い紫色の色素がそのまわりに現われて来ていた。それが葉子の目にたとえば森林に囲まれた澄んだ湖のような深みと神秘とを添えるようにも見えた。鼻筋はやせ細って精神的な敏感さをきわ立たしていた。頬《ほお》の傷々《いたいた》しくこけたために、葉子の顔にいうべからざる暖かみを与える笑《え》くぼを失おうとしてはいたが、その代わりにそこには悩ましく物思わしい張りを加えていた。ただ葉子がどうしても弁護のできないのはますます目立って来た固い下顎《したあご》の輪郭だった。しかしとにもかくにも肉情の興奮の結果が顔に妖凄《ようせい》な精神美を付け加えているのは不思議だった。葉子はこれまでの化粧法を全然改める必要をその朝になってしみじみと感じた。そして今まで着ていた衣類までが残らず気に食わなくなった。そうなると葉子は矢もたてもたまらなかった。
 葉子は紅《べに》のまじった紅粉《おしろい》をほとんど使わずに化粧をした。顎《あご》の両側と目のまわりとの紅粉をわざと薄くふき取った。枕《まくら》を入れずに前髪を取って、束髪《そくはつ》の髷《まげ》を思いきり下げて結ってみた。鬢《びん》だけを少しふくらましたので顎《あご》の張ったのも目立たず、顔の細くなったのもいくらか調節されて、そこには葉子自身が期待もしなかったような廃頽的《はいたいてき》な同時に神経質的なすごくも美しい一つの顔面が創造されていた。有り合わせのものの中からできるだけ地味《じみ》な一そろいを選んでそれを着ると葉子はすぐ越後屋《えちごや》に車を走らせた。
 昼すぎまで葉子は越後屋にいて注文や買い物に時を過ごした。衣服や身のまわりのものの見立てについては葉子は天才といってよかった。自分でもその才能には自信を持っていた。従って思い存分の金をふところに入れていて買い物をするくらい興の多いものは葉子に取っては他になかった。越後屋を出る時には、感興と興奮とに自分を傷《いた》めちぎった芸術家のようにへと[#「へと」に傍点]へとに疲れきっていた。
 帰りついた玄関の靴脱《くつぬ》ぎ石の上には岡の細長い華車《きゃしゃ》な半靴が脱ぎ捨てられていた。葉子は自分の部屋《へや》に行って懐中物などをしまって、湯飲みでなみなみと一杯の白湯《さゆ》を飲むと、すぐ二階に上がって行った。自分の新しい化粧法がどんなふうに岡の目を刺激するか、葉子は子供らしくそれを試みてみたかったのだ。彼女は不意に岡の前に現われようために裏階子《うらばしご》からそっ[#「そっ」に傍点]と登って行った。そして襖《ふすま》をあけるとそこに岡と愛子だけがいた。貞世は苔香園《たいこうえん》にでも行って遊んでいるのかそこには姿を見せなかった。
 岡は詩集らしいものを開いて見ていた。そこにはなお二三冊の書物が散らばっていた。愛子は縁側に出て手欄《てすり》から庭を見おろしていた。しかし葉子は不思議な本能から、階子段《はしごだん》に足をかけたころには、二人は決して今のような位置に、今のような態度でいたのではないという事を直覚していた。二人が一人《ひとり》は本を読み、一人が縁に出ているのは、いかにも自然でありながら非常に不自然だった。
 突然――それはほんとうに突然どこから飛び込んで来たのか知れない不快の念のために葉子の胸はかきむしられた。岡は葉子の姿を見ると、わざっと寛《くつろ》がせていたような姿勢を急に正して、読みふけっていたらしく見せた詩集をあまりに惜しげもなく閉じてしまった。そしていつもより少しなれなれしく挨拶《あいさつ》した。愛子は縁側から静かにこっちを振り向いて平生《ふだん》と少しも変わらない態度で、柔順に無表情に縁板の上にちょっと膝《ひざ》をついて挨拶した。しかしその沈着にも係わらず、葉子は愛子が今まで涙を目にためていたのをつきとめた。岡も愛子も明らかに葉子の顔や髪の様子の変わったのに気づいていないくらい心に余裕のないのが明らかだった。
 「貞《さあ》ちゃんは」
 と葉子は立ったままで尋ねてみた。二人《ふたり》は思わずあわてて答えようとしたが、岡は愛子をぬすみ見るようにして控えた。
 「隣の庭に花を買いに行ってもらいましたの」
 そう愛子が少し下を向いて髷《まげ》だけを葉子に見えるようにして素直《すなお》に答えた。「ふゝん」と葉子は腹の中でせせら笑った。そして始めてそこにすわって、じっ[#「じっ」に傍点]と岡の目を見つめながら、
 「何? 読んでいらしったのは」
 といって、そこにある四六細型《しろくほそがた》の美しい表装の書物を取り上げて見た。黒髪を乱した妖艶《ようえん》な女の頭、矢で貫かれた心臓、その心臓からぽたぽた落ちる血のしたたりがおのずから字になったように図案された「乱れ髪」という標題――文字に親しむ事の大きらいな葉子もうわさで聞いていた有名な鳳晶子《ほうあきこ》[#底本ではルビが「おおとりあきこ」]の詩集だった。そこには「明星《みょうじょう》」という文芸雑誌だの、春雨《しゅんう》の「無花果《いちじく》」だの、兆民居士《ちょうみんこじ》の「一|年有半《ねんゆうはん》」だのという新刊の書物も散らばっていた。
 「まあ岡さんもなかなかのロマンティストね、こんなものを愛読なさるの」
 と葉子は少し皮肉なものを口じりに見せながら尋ねてみた。岡は静かな調子で訂正するように、
 「それは愛子さんのです。わたし今ちょっと拝見しただけです」
 「これは」
 といって葉子は今度は「一年有半」を取り上げた。
 「それは岡さんがきょう貸してくださいましたの。わたしわかりそうもありませんわ」
 愛子は姉の毒舌をあらかじめ防ごうとするように。
 「へえ、それじゃ岡さん、あなたはまたたいしたリアリストね」
 葉子は愛子を眼中にもおかないふうでこういった。去年の下半期の思想界を震憾《しんかん》したようなこの書物と続編とは倉地の貧しい書架の中にもあったのだ。そして葉子はおもしろく思いながらその中を時々拾い読みしていたのだった。
 「なんだかわたしとはすっかり[#「すっかり」に傍点]違った世界を見るようでいながら、自分の心持ちが残らずいってあるようでもあるんで……わたしそれが好きなんです。リアリストというわけではありませんけれども……」
 「でもこの本の皮肉は少しやせ我慢ね。あなたのような方《かた》にはちょっと不似合いですわ」
 「そうでしょうか」
 岡は何とはなく今にでも腫《は》れ物《もの》にさわられるかのようにそわそわしていた。会話は少しもいつものようにははずまなかった。葉子はいらいらしながらもそれを顔には見せないで今度は愛子のほうに槍先《やりさき》を向けた。
 「愛さんお前こんな本をいつお買いだったの」
 といってみると、愛子は少しためらっている様子だったが、すぐに素直な落ち着きを見せて、
 「買ったんじゃないんですの。古藤さんが送ってくださいましたの」
 といった。葉子はさすがに驚いた。古藤はあの会食の晩、中座したっきり、この家には足踏みもしなかったのに……。葉子は少し激しい言葉になった。
 「なんだってまたこんな本を送っておよこしなさったんだろう。あなたお手紙でも上げたのね」
 「えゝ、……くださいましたから」
 「どんなお手紙を」
 愛子は少しうつむきかげんに黙ってしまった、こういう態度を取った時の愛子のしぶとさ[#「しぶとさ」に傍点]を葉子はよく知っていた。葉子の神経はびり[#「びり」に傍点]びりと緊張して来た。
 「持って来てお見せ」
 そう厳格にいいながら、葉子はそこに岡のいる事も意識の中に加えていた。愛子は執拗《しつよう》に黙ったまますわっていた。しかし葉子がもう一度催促の言葉を出そうとすると、その瞬間に愛子はつ[#「つ」に傍点]と立ち上がって部屋《へや》を出て行った。
 葉子はそのすきに岡の顔を見た。それはまた無垢《むく》童貞の青年が不思議な戦慄《せんりつ》を胸の中に感じて、反感を催すか、ひき付けられるかしないではいられないような目で岡を見た。岡は少女のように顔を赤めて、葉子の視線を受けきれないでひとみをたじろがしつつ目を伏せてしまった。葉子はいつまでもそのデリケートな横顔を注視《みつめ》つづけた。岡は唾《つば》を飲みこむのもはばかるような様子をしていた。
 「岡さん」
 そう葉子に呼ばれて、岡はやむを得ずおずおず頭を上げた。葉子は今度はなじるようにその若々しい上品な岡を見つめていた。
 そこに愛子が白い西洋封筒を持って帰って来た。葉子は岡にそれを見せつけるように取り上げて、取るにも足らぬ軽いものでも扱うように飛び飛びに読んでみた。それにはただあたりまえな事だけが書いてあった。しばらく目で見た二人《ふたり》の大きくなって変わったのには驚いたとか、せっかく寄って作ってくれたごちそうをすっかり[#「すっかり」に傍点]賞味しないうちに帰ったのは残念だが、自分の性分《しょうぶん》としてはあの上我慢ができなかったのだから許してくれとか、人間は他人の見よう見まねで育って行ったのではだめだから、たといどんな境遇にいても自分の見識を失ってはいけないとか、二人《ふたり》には倉地という人間だけはどうかして近づけさせたくないと思うとか、そして最後に、愛子さんは詠歌がなかなか上手《じょうず》だったがこのごろできるか、できるならそれを見せてほしい、軍隊生活の乾燥無味なのには堪《た》えられないからとしてあった。そしてあて名は愛子、貞世の二人になっていた。
 「ばかじゃないの愛さん、あなたこのお手紙でいい気になって、下手《へた》くそなぬた[#「ぬた」に傍点]でもお見せ申したんでしょう……いい気なものね……この御本と一緒にもお手紙が来たはずね」
 愛子はすぐまた立とうとした。しかし葉子はそうはさせなかった。
 「一本一本お手紙を取りに行ったり帰ったりしたんじゃ日が暮れますわ。……日が暮れるといえばもう暗くなったわ。貞《さあ》ちゃんはまた何をしているだろう……あなた早く呼びに行って一緒にお夕飯のしたくをしてちょうだい」
 愛子はそこにある書物をひとかかえに胸に抱いて、うつむくと愛らしく二重《ふたえ》になる頤《おとがい》で押えて座を立って行った。それがいかにもしおしおと、細かい挙動の一つ一つで岡に哀訴するように見れば見なされた。「互いに見かわすような事をしてみるがいい」そう葉子は心の中で二人《ふたり》をたしなめながら、二人に気を配った。岡も愛子も申し合わしたように瞥視《べっし》もし合わなかった。けれども葉子は二人がせめては目だけでも慰め合いたい願いに胸を震わしているのをはっきり[#「はっきり」に傍点]と感ずるように思った。葉子の心はおぞましくも苦々《にがにが》しい猜疑《さいぎ》のために苦しんだ。若さと若さとが互いにきびしく求め合って、葉子などをやすやすと袖《そで》にするまでにその情炎は嵩《こう》じていると思うと耐えられなかった。葉子はしいて自分を押ししずめるために、帯の間から煙草入《たばこい》れを取り出してゆっくり[#「ゆっくり」に傍点]煙を吹いた。煙管《きせる》の先が端《はし》なく火鉢《ひばち》にかざした岡の指先に触れると電気のようなものが葉子に伝わるのを覚えた。若さ……若さ……。
 そこには二人の間にしばらくぎごち[#「ぎごち」に傍点]ない沈黙が続いた。岡が何をいえば愛子は泣いたんだろう。愛子は何を泣いて岡に訴えていたのだろう。葉子が数えきれぬほど経験した幾多の恋の場面の中から、激情的ないろいろの光景がつぎつぎに頭の中に描かれるのだった。もうそうした年齢が岡にも愛子にも来ているのだ。それに不思議はない。しかしあれほど葉子にあこがれおぼれて、いわば恋以上の恋ともいうべきものを崇拝的にささげていた岡が、あの純直な上品なそしてきわめて内気な岡が、見る見る葉子の把持《はじ》から離れて、人もあろうに愛子――妹の愛子のほうに移って行こうとしているらしいのを見なければならないのはなんという事だろう。愛子の涙――それは察する事ができる。愛子はきっと涙ながらに葉子と倉地との間にこのごろ募って行く奔放な放埒《ほうらつ》な醜行を訴えたに違いない。葉子の愛子と貞世とに対する偏頗《へんぱ》な愛憎と、愛子の上に加えられる御殿女中|風《ふう》な圧迫とを嘆いたに違いない。しかもそれをあの女に特有な多恨らしい、冷ややかな、さびしい表現法で、そして息気《いき》づまるような若さと若さとの共鳴の中に……。
 勃然《ぼつぜん》として焼くような嫉妬《しっと》が葉子の胸の中に堅く凝《こご》りついて来た。葉子はすり寄っておどおどしている岡の手を力強く握りしめた。葉子の手は氷のように冷たかった。岡の手は火鉢《ひばち》にかざしてあったせいか、珍しくほてって臆病《おくびょう》らしい油汗が手のひらにしとどににじみ出ていた。
 「あなたはわたしがおこわいの」
 葉子はさりげなく岡の顔をのぞき込むようにしてこういった。
 「そんな事……」
 岡はしょう事なしに腹を据《す》えたように割合にしゃん[#「しゃん」に傍点]とした声でこういいながら、葉子の目をゆっくり[#「ゆっくり」に傍点]見やって、握られた手には少しも力をこめようとはしなかった。葉子は裏切られたと思う不満のためにもうそれ以上冷静を装ってはいられなかった。昔のようにどこまでも自分を失わない、粘り気《け》の強い、鋭い神経はもう葉子にはなかった。
 「あなたは愛子を愛していてくださるのね。そうでしょう。わたしがここに来る前愛子はあんなに泣いて何を申し上げていたの?……おっしゃってくださいな。愛子があなたのような方に愛していただけるのはもったいないくらいですから、わたし喜ぶともとがめ立てなどはしません、きっと。だからおっしゃってちょうだい。……いゝえ、そんな事をおっしゃってそりゃだめ、わたしの目はまだこれでも黒うござんすから。……あなたそんな水臭いお仕向けをわたしになさろうというの? まさかとは思いますがあなたわたしにおっしゃった事を忘れなさっちゃ困りますよ。わたしはこれでも真剣な事には真剣になるくらいの誠実はあるつもりです事よ。わたしあなたのお言葉は忘れてはおりませんわ。姉だと今でも思っていてくださるならほんとうの事をおっしゃってください。愛子に対してはわたしはわたしだけの事をして御覧に入れますから……さ」
 そう疳走《かんばし》った声でいいながら葉子は時々握っている岡の手をヒステリックに激しく振り動かした。泣いてはならぬと思えば思うほど葉子の目からは涙が流れた。さながら恋人に不実を責めるような熱意が思うざまわき立って来た。しまいには岡にもその心持ちが移って行ったようだった。そして右手を握った葉子の手の上に左の手を添えながら、上下からはさむように押えて、岡は震え声で静かにいい出した。
 「御存じじゃありませんか、わたし、恋のできるような人間ではないのを。年こそ若うございますけれども心は妙にいじけて老いてしまっているんです。どうしても恋の遂げられないような女の方《かた》にでなければわたしの恋は動きません。わたしを恋してくれる人があるとしたら、わたし、心が即座に冷えてしまうのです。一度自分の手に入れたら、どれほど尊《とうと》いものでも大事なものでも、もうわたしには尊《とうと》くも大事でもなくなってしまうんです。だからわたし、さびしいんです。なんにも持っていない、なんにもむなしい……そのくせそう知り抜きながらわたし、何かどこかにあるように思ってつかむ事のできないものにあこがれます。この心さえなくなればさびしくってもそれでいいのだがなと思うほど苦しくもあります。何にでも自分の理想をすぐあてはめて熱するような、そんな若い心がほしくもありますけれども、そんなものはわたしには来はしません……春にでもなって来るとよけい世の中はむなしく見えてたまりません。それをさっきふと愛子さんに申し上げたんです。そうしたら愛子さんがお泣きになったんです。わたし、あとですぐ悪いと思いました、人にいうような事じゃなかったのを……」
 こういう事をいう時の岡はいう言葉にも似ず冷酷とも思われるほどたださびしい顔になった。葉子には岡の言葉がわかるようでもあり、妙にからんでも聞こえた。そしてちょっとすかされたように気勢をそがれたが、どんどんわき上がるように内部から襲い立てる力はすぐ葉子を理不尽《りふじん》にした。
 「愛子がそんなお言葉で泣きましたって? 不思議ですわねえ。……それならそれでようござんす。……(ここで葉子は自分にも堪《た》え切れずにさめざめと泣き出した)岡さんわたしもさびしい……さびしくって、さびしくって……」
 「お察し申します」
 岡は案外しんみり[#「しんみり」に傍点]した言葉でそういった。
 「おわかりになって?」
 と葉子は泣きながら取りすがるようにした。
 「わかります。……あなたは堕落した天使のような方です。御免ください。船の中で始めてお目にかかってからわたし、ちっとも[#「ちっとも」に傍点]心持ちが変わってはいないんです。あなたがいらっしゃるんでわたし、ようやくさびしさからのがれます」
 「うそ!……あなたはもうわたしに愛想《あいそ》をおつかしなのよ。わたしのように堕落したものは……」
 葉子は岡の手を放して、とうとうハンケチを顔にあてた。
 「そういう意味でいったわけじゃないんですけれども……」
 ややしばらく沈黙した後に、当惑しきったようにさびしく岡は独語《ひとりご》ちてまた黙ってしまった。岡はどんなにさびしそうな時でもなかなか泣かなかった。それが彼をいっそうさびしく見せた。
 三月末の夕方の空はなごやかだった。庭先の一重《ひとえ》桜のこずえには南に向いたほうに白い花《か》べんがどこからか飛んで来てくっついたようにちらほら[#「ちらほら」に傍点]見え出していた、その先には赤く霜枯れた杉森《すぎもり》がゆるやかに暮れ初《そ》めて、光を含んだ青空が静かに流れるように漂っていた。苔香園《たいこうえん》のほうから園丁が間遠《まどお》に鋏《はさみ》をならす音が聞こえるばかりだった。
 若さから置いて行かれる……そうしたさびしみが嫉妬《しっと》にかわってひし[#「ひし」に傍点]ひしと葉子を襲って来た。葉子はふと母の親佐《おやさ》を思った。葉子が木部《きべ》との恋に深入りして行った時、それを見守っていた時の親佐を思った。親佐のその心を思った。自分の番が来た……その心持ちはたまらないものだった。と、突然定子の姿が何よりもなつかしいものとなって胸に逼《せま》って来た。葉子は自分にもその突然の連想の経路はわからなかった。突然もあまりに突然――しかし葉子に逼《せま》るその心持ちは、さらに葉子を畳に突っ伏《ぷ》して泣かせるほど強いものだった。
 玄関から人のはいって来る気配がした。葉子はすぐそれが倉地である事を感じた。葉子は倉地と思っただけで、不思議な憎悪《ぞうお》を感じながらその動静に耳をすました。倉地は台所のほうに行って愛子を呼んだようだった。二人《ふたり》の足音が玄関の隣の六畳のほうに行った。そしてしばらく静かだった。と思うと、
 「いや」
 と小さく退けるようにいう愛子の声が確かに聞こえた。抱きすくめられて、もがきながら放たれた声らしかったが、その声の中には憎悪《ぞうお》の影は明らかに薄かった。
 葉子は雷に撃たれたように突然泣きやんで頭をあげた。
 すぐ倉地が階子段《はしごだん》をのぼって来る音が聞こえた。
 「わたし台所に参りますからね」
 何も知らなかったらしい岡に、葉子はわずかにそれだけをいって、突然座を立って裏階子《うらばしご》に急いだ。と、かけ違いに倉地は座敷にはいって来た。強い酒の香がすぐ部屋《へや》の空気をよごした。
 「やあ春になりおった。桜が咲いたぜ。おい葉子」
 いかにも気さくらしく塩がれた声でこう叫んだ倉地に対して、葉子は返事もできないほど興奮していた。葉子は手に持ったハンケチを口に押し込むようにくわえて、震える手で壁を細かくたたくようにしながら階子段《はしごだん》を降りた。
 葉子は頭の中に天地の壊《くず》れ落ちるような音を聞きながら、そのまま縁に出て庭|下駄《げた》をはこうとあせったけれどもどうしてもはけないので、はだしのまま庭に出た。そして次の瞬間に自分を見いだした時にはいつ戸をあけたとも知らず物置き小屋の中にはいっていた。

    三六

 底のない悒鬱《ゆううつ》がともするとはげしく葉子を襲うようになった。いわれのない激怒がつまらない事にもふと頭をもたげて、葉子はそれを押ししずめる事ができなくなった。春が来て、木の芽から畳の床《とこ》に至るまですべてのものが膨《ふく》らんで来た。愛子も貞世も見違えるように美しくなった。その肉体は細胞の一つ一つまで素早《すばや》く春をかぎつけ、吸収し、飽満するように見えた。愛子はその圧迫に堪《た》えないで春の来たのを恨むようなけだるさ[#「けだるさ」に傍点]とさびしさとを見せた。貞世は生命そのものだった。秋から冬にかけてにょき[#「にょき」に傍点]にょきと延び上がった細々したからだには、春の精のような豊麗な脂肪がしめやかにしみわたって行くのが目に見えた。葉子だけは春が来てもやせた。来るにつけてやせた。ゴム毬《まり》の弧線のような肩は骨ばった輪郭を、薄着になった着物の下からのぞかせて、潤沢な髪の毛の重みに堪《た》えないように首筋も細々となった。やせて悒鬱《ゆううつ》になった事から生じた別種の美――そう思って葉子がたよりにしていた美もそれはだんだん冴《さ》え増さって行く種類の美ではない事を気づかねばならなくなった。その美はその行く手には夏がなかった。寒い冬のみが待ち構えていた。
 歓楽ももう歓楽自身の歓楽は持たなくなった。歓楽の後には必ず病理的な苦痛が伴うようになった。ある時にはそれを思う事すらが失望だった。それでも葉子はすべての不自然な方法によって、今は振り返って見る過去にばかりながめられる歓楽の絶頂を幻影としてでも現在に描こうとした。そして倉地を自分の力の支配の下《もと》につなごうとした。健康が衰えて行けば行くほどこの焦躁のために葉子の心は休まなかった。全盛期を過ぎた伎芸《ぎげい》の女にのみ見られるような、いたましく廃頽《はいたい》した、腐菌《ふきん》の燐光《りんこう》を思わせる凄惨《せいさん》な蠱惑力《こわくりょく》をわずかな力として葉子はどこまでも倉地をとりこにしようとあせりにあせった。
 しかしそれは葉子のいたましい自覚だった。美と健康とのすべてを備えていた葉子には今の自分がそう自覚されたのだけれども、始めて葉子を見る第三者は、物すごいほど冴《さ》えきって見える女盛りの葉子の惑力に、日本には見られないようなコケットの典型を見いだしたろう。おまけに葉子は肉体の不足を極端に人目をひく衣服で補うようになっていた。その当時は日露《にちろ》の関係も日米の関係もあらしの前のような暗い徴候を現わし出して、国人全体は一種の圧迫を感じ出していた。臥薪嘗胆《がしんしょうたん》というような合い言葉がしきりと言論界には説かれていた。しかしそれと同時に日清《にっしん》戦争を相当に遠い過去としてながめうるまでに、その戦役の重い負担から気のゆるんだ人々は、ようやく調整され始めた経済状態の下《もと》で、生活の美装という事に傾いていた。自然主義は思想生活の根底となり、当時病天才の名をほしいままにした高山樗牛《たかやまちょぎゅう》らの一団はニイチェの思想を標榜《ひょうぼう》して「美的生活」とか「清盛論《きよもりろん》」というような大胆奔放な言説をもって思想の維新を叫んでいた。風俗問題とか女子の服装問題とかいう議論が守旧派の人々の間にはかまびすしく持ち出されている間に、その反対の傾向は、殻《から》を破った芥子《けし》の種《たね》のように四方八方に飛び散った。こうして何か今までの日本にはなかったようなものの出現を待ち設け見守っていた若い人々の目には、葉子の姿は一つの天啓《てんけい》のように映ったに違いない。女優らしい女優を持たず、カフェーらしいカフェーを持たない当時の路上に葉子の姿はまぶしいものの一つだ。葉子を見た人は男女を問わず目をそばだてた。
 ある朝葉子は装いを凝らして倉地の下宿に出かけた。倉地は寝ごみを襲われて目をさました。座敷のすみには夜をふかして楽しんだらしい酒肴《しゅこう》の残りが敗《す》えたようにかためて置いてあった。例のシナ鞄《かばん》だけはちゃん[#「ちゃん」に傍点]と錠《じょう》がおりて床の間のすみに片づけられていた。葉子はいつものとおり知らんふりをしながら、そこらに散らばっている手紙の差し出し人の名前に鋭い観察を与えるのだった。倉地は宿酔《しゅくすい》を不快がって頭をたたきながら寝床から半身を起こすと、
 「なんでけさはまたそんなにしゃれ[#「しゃれ」に傍点]込んで早くからやって来おったんだ」
 とそっぽ[#「そっぽ」に傍点]に向いて、あくびでもしながらのようにいった。これが一か月前だったら、少なくとも三か月前だったら、一夜の安眠に、あのたくましい精力の全部を回復した倉地は、いきなり[#「いきなり」に傍点]寝床の中から飛び出して来て、そうはさせまいとする葉子を否応《いやおう》なしに床の上にねじ伏せていたに違いないのだ。葉子はわき目にもこせこせとうるさく見えるような敏捷《すばしこ》さでそのへんに散らばっている物を、手紙は手紙、懐中物は懐中物、茶道具は茶道具とどんどん片づけながら、倉地のほうも見ずに、
 「きのうの約束じゃありませんか」
 と無愛想《ぶあいそ》につぶやいた。倉地はその言葉で始めて何かいったのをかすかに思い出したふうで、
 「何しろおれはきょうは忙しいでだめだよ」
 といって、ようやく伸びをしながら立ち上がった。葉子はもう腹に据《す》えかねるほど怒りを発していた。
 「怒《おこ》ってしまってはいけない。これが倉地を冷淡にさせるのだ」――そう心の中には思いながらも、葉子の心にはどうしてもそのいう事を聞かぬいたずら好きな小悪魔がいるようだった。即座にその場を一人《ひとり》だけで飛び出してしまいたい衝動と、もっと巧みな手練《てくだ》でどうしても倉地をおびき出さなければいけないという冷静な思慮とが激しく戦い合った。葉子はしばらくの後にかろうじてその二つの心持ちをまぜ合わせる事ができた。
 「それではだめね……またにしましょうか。でもくやしいわ、このいいお天気に……いけない、あなたの忙しいはうそですわ。忙しい忙しいっていっときながらお酒ばかり飲んでいらっしゃるんだもの。ね、行きましょうよ。こら見てちょうだい」
 そういいながら葉子は立ち上がって、両手を左右に広く開いて、袂《たもと》が延びたまま両腕からすらり[#「すらり」に傍点]とたれるようにして、やや剣《けん》を持った笑いを笑いながら倉地のほうに近寄って行った。倉地もさすがに、今さらその美しさに見惚《みと》れるように葉子を見やった。天才が持つと称せられるあの青色をさえ帯びた乳白色の皮膚、それがやや浅黒くなって、目の縁《ふち》に憂いの雲をかけたような薄紫の暈《かさ》、霞《かす》んで見えるだけにそっ[#「そっ」に傍点]と刷《は》いた白粉《おしろい》、きわ立って赤くいろどられた口びる、黒い焔《ほのお》を上げて燃えるようなひとみ、後ろにさばいて束ねられた黒漆《こくしつ》の髪、大きなスペイン風《ふう》の玳瑁《たいまい》の飾り櫛《ぐし》、くっきりと白く細い喉《のど》を攻めるようにきりっ[#「きりっ」に傍点]と重ね合わされた藤色《ふじいろ》の襟《えり》、胸のくぼみにちょっとのぞかせた、燃えるような緋《ひ》の帯上げのほかは、ぬれたかとばかりからだにそぐって底光りのする紫紺色の袷《あわせ》、その下につつましく潜んで消えるほど薄い紫色の足袋《たび》(こういう色足袋は葉子がくふうし出した新しい試みの一つだった)そういうものが互い互いに溶け合って、のどやかな朝の空気の中にぽっかり[#「ぽっかり」に傍点]と、葉子という世にもまれなほど悽艶《せいえん》な一つの存在を浮き出さしていた。その存在の中から黒い焔《ほのお》を上げて燃えるような二つのひとみが生きて動いて倉地をじっ[#「じっ」に傍点]と見やっていた。
 倉地が物をいうか、身を動かすか、とにかく次の動作に移ろうとするその前に、葉子は気味の悪いほどなめらかな足どりで、倉地の目の先に立ってその胸の所に、両手をかけていた。
 「もうわたしに愛想が尽きたら尽きたとはっきり[#「はっきり」に傍点]いってください、ね。あなたは確かに冷淡におなりね。わたしは自分が憎うござんす、自分に愛想を尽かしています。さあいってください、……今……この場で、はっきり[#「はっきり」に傍点]……でも死ねとおっしゃい、殺すとおっしゃい。わたしは喜んで……わたしはどんなにうれしいかしれないのに。……ようござんすわ、なんでもわたしほんとうが知りたいんですから。さ、いってください。わたしどんなきつい言葉でも覚悟していますから。悪《わる》びれなんかしはしませんから……あなたはほんとうにひどい……」
 葉子はそのまま倉地の胸に顔をあてた。そして始めのうちはしめやか[#「しめやか」に傍点]にしめやか[#「しめやか」に傍点]に泣いていたが、急に激しいヒステリー風《ふう》なすすり泣きに変わって、きたないものにでも触れていたように倉地の熱気の強い胸もとから飛びしざると、寝床の上にがば[#「がば」に傍点]と突っ伏して激しく声を立てて泣き出した。
 このとっさの激しい威脅に、近ごろそういう動作には慣れていた倉地だったけれども、あわてて葉子に近づいてその肩に手をかけた。葉子はおびえるようにその手から飛びのいた。そこには獣《けもの》に見るような野性のままの取り乱しかたが美しい衣装にまとわれて演ぜられた。葉子の歯も爪《つめ》もとがって見えた。からだは激しい痙攣《けいれん》に襲われたように痛ましく震えおののいていた。憤怒と恐怖と嫌悪《けんお》とがもつれ合いいがみ合ってのた[#「のた」に傍点]打ち回るようだった。葉子は自分の五体が青空遠くかきさらわれて行くのを懸命に食い止めるためにふとんでも畳でも爪の立ち歯の立つものにしがみついた。倉地は何よりもその激しい泣き声が隣近所の耳にはいるのを恥じるように背に手をやってなだめようとしてみたけれども、そのたびごとに葉子はさらに泣き募ってのがれようとばかりあせった。
 「何を思い違いをしとる、これ」
 倉地は喉笛《のどぶえ》をあけっ放《ぱな》した低い声で葉子の耳もとにこういってみたが、葉子は理不尽にも激しく頭を振るばかりだった。倉地は決心したように力任せにあらがう葉子を抱きすくめて、その口に手をあてた。
 「えゝ、殺すなら殺してください……くださいとも」
 という狂気じみた声をしっ[#「しっ」に傍点]と制しながら、その耳もとにささやこうとすると、葉子はわれながら夢中であてがった倉地の手を骨もくだけよとかんだ。
 「痛い……何しやがる」
 倉地はいきなり[#「いきなり」に傍点]一方の手で葉子の細首を取って自分の膝《ひざ》の上に乗せて締めつけた。葉子は呼吸がだんだん苦しくなって行くのをこの狂乱の中にも意識して快く思った。倉地の手で死んで行くのだなと思うとそれがなんともいえず美しく心安かった。葉子の五体からはひとりで[#「ひとりで」に傍点]に力が抜けて行って、震えを立ててかみ合っていた歯がゆるんだ。その瞬間をすかさず倉地はかまれていた手を振りほどくと、いきなり葉子の頬《ほお》げたをひし[#「ひし」に傍点]ひしと五六度続けさまに平手《ひらて》で打った。葉子はそれがまた快かった。そのびりびりと神経の末梢《まっしょう》に答えて来る感覚のためにからだじゅうに一種の陶酔を感ずるようにさえ思った。「もっとお打ちなさい」といってやりたかったけれども声は出なかった。そのくせ葉子の手は本能的に自分の頬をかばうように倉地の手の下るのをささえようとしていた。倉地は両|肘《ひじ》まで使って、ばた[#「ばた」に傍点]ばたと裾《すそ》を蹴《け》乱してあばれる両足のほかには葉子を身動きもできないようにしてしまった。酒で心臓の興奮しやすくなった倉地の呼吸は霰《あられ》のようにせわしく葉子の顔にかかった。
 「ばかが……静かに物をいえばわかる事だに……おれがお前を見捨てるか見捨てないか……静かに考えてもみろ、ばかが……恥さらしなまねをしやがって……顔を洗って出直して来い」
 そういって倉地は捨てるように葉子を寝床の上にどん[#「どん」に傍点]とほうり投げた。
 葉子の力は使い尽くされて泣き続ける気力さえないようだった。そしてそのまま昏々《こんこん》として眠るように仰向いたまま目を閉じていた。倉地は肩で激しく息気《いき》をつきながらいたましく取り乱した葉子の姿をまんじり[#「まんじり」に傍点]とながめていた。
 一時間ほどの後には葉子はしかしたった今ひき起こされた乱脈騒ぎをけろり[#「けろり」に傍点]と忘れたもののように快活で無邪気になっていた。そして二人《ふたり》は楽しげに下宿から新橋《しんばし》駅に車を走らした。葉子が薄暗い婦人待合室の色のはげたモロッコ皮のディバン[#底本では「デイバン」]に腰かけて、倉地が切符《きっぷ》を買って来るのを待ってる間、そこに居合わせた貴婦人というような四五人の人たちは、すぐ今までの話を捨ててしまって、こそこそと葉子について私語《ささや》きかわすらしかった。高慢というのでもなく謙遜《けんそん》というのでもなく、きわめて自然に落ち着いてまっすぐに腰かけたまま、柄《え》の長い白の琥珀《こはく》のパラソルの握りに手を乗せていながら、葉子にはその貴婦人たちの中の一人《ひとり》がどうも見知り越しの人らしく感ぜられた。あるいは女学校にいた時に葉子を崇拝してその風俗をすらまねた連中の一人であるかとも思われた。葉子がどんな事をうわさされているかは、その婦人に耳打ちされて、見るように見ないように葉子をぬすみ見る他の婦人たちの目色で想像された。
 「お前たちはあきれ返りながら心の中のどこかでわたしをうらやんでいるのだろう。お前たちの、その物おじしながらも金目をかけた派手《はで》作りな衣装や化粧は、社会上の位置に恥じないだけの作りなのか、良人《おっと》の目に快く見えようためなのか。そればかりなのか。お前たちを見る路傍の男たちの目は勘定に入れていないのか。……臆病卑怯《おくびょうひきょう》な偽善者どもめ!」
 葉子はそんな人間からは一段も二段も高い所にいるような気位《きぐらい》を感じた。自分の扮粧《いでたち》がその人たちのどれよりも立ちまさっている自信を十二|分《ぶん》に持っていた。葉子は女王のように誇りの必要もないという自らの鷹揚《おうよう》を見せてすわっていた。
 そこに一人の夫人がはいって来た。田川夫人――葉子はその影を見るか見ないかに見て取った。しかし顔色一つ動かさなかった(倉地以外の人に対しては葉子はその時でもかなりすぐれた自制力の持ち主だった)田川夫人は元よりそこに葉子がいようなどとは思いもかけないので、葉子のほうにちょっと目をやりながらもいっこうに気づかずに、
 「お待たせいたしましてすみません」
 といいながら貴婦人らのほうに近寄って行った。互いの挨拶《あいさつ》が済むか済まないうちに、一同は田川夫人によりそってひそひそと私語《ささや》いた。葉子は静かに機会を待っていた。ぎょっ[#「ぎょっ」に傍点]としたふうで、葉子に後ろを向けていた田川夫人は、肩越しに葉子のほうを振り返った。待ち設けていた葉子は今まで正面に向けていた顔をしとやか[#「しとやか」に傍点]に向けかえて田川夫人と目を見合わした。葉子の目は憎むように笑っていた。田川夫人の目は笑うように憎んでいた。「生意気な」……葉子は田川夫人が目をそらさないうちに、すっく[#「すっく」に傍点]と立って田川夫人のほうに寄って行った。この不意打ちに度を失った夫人は(明らかに葉子がまっ紅《か》になって顔を伏せるとばかり思っていたらしく、居合わせた婦人たちもそのさまを見て、容貌《ようぼう》でも服装でも自分らを蹴《け》落とそうとする葉子に対して溜飲《りゅういん》をおろそうとしているらしかった)少し色を失って、そっぽ[#「そっぽ」に傍点]を向こうとしたけれどももうおそかった。葉子は夫人の前に軽く頭を下げていた。夫人もやむを得ず挨拶《あいさつ》のまねをして、高飛車《たかびしゃ》に出るつもりらしく、
 「あなたはどなた?」
 いかにも横柄《おうへい》にさきがけて口をきった。
 「早月葉《さつきよう》でございます」
 葉子は対等の態度で悪《わる》びれもせずこう受けた。
 「絵島丸ではいろいろお世話様になってありがとう存じました。あのう……報正新報も拝見させていただきました。(夫人の顔色が葉子の言葉一つごとに変わるのを葉子は珍しいものでも見るようにまじ[#「まじ」に傍点]まじとながめながら)たいそうおもしろうございました事。よくあんなにくわしく御通信になりましてねえ、お忙しくいらっしゃいましたろうに。……倉地さんもおりよくここに来合わせていらっしゃいますから……今ちょっと切符を買いに……お連れ申しましょうか」
 田川夫人は見る見るまっさおになってしまっていた。折り返していうべき言葉に窮してしまって、拙《つたな》くも、
 「わたしはこんな所であなたとお話しするのは存じがけません。御用でしたら宅へおいでを願いましょう」
 といいつつ今にも倉地がそこに現われて来るかとひたすらそれを怖《おそ》れるふうだった。葉子はわざと夫人の言葉を取り違えたように、
 「いゝえどういたしましてわたしこそ……ちょっとお待ちくださいすぐ倉地さんをお呼び申して参りますから」
 そういってどんどん待合所を出てしまった。あとに残った田川夫人がその貴婦人たちの前でどんな顔をして当惑したか、それを葉子は目に見るように想像しながらいたずら者らしくほくそ笑《え》んだ。ちょうどそこに倉地が切符を買って来かかっていた。
 一等の客室には他に二三人の客がいるばかりだった。田川夫人以下の人たちはだれかの見送りか出迎えにでも来たのだと見えて、汽車が出るまで影も見せなかった。葉子はさっそく倉地に事の始終を話して聞かせた。そして二人《ふたり》は思い存分胸をすかして笑った。
 「田川の奥さんかわいそうにまだあすこで今にもあなたが来るかともじ[#「もじ」に傍点]もじしているでしょうよ、ほかの人たちの手前ああいわれてこそこそと逃げ出すわけにも行かないし」
 「おれが一つ顔を出して見せればまたおもしろかったにな」
 「きょうは妙な人にあってしまったからまたきっとだれかにあいますよ。奇妙ねえ、お客様が来たとなると不思議にたて続くし……」
 「不仕合わせなんぞも来出すと束《たば》になって来くさるて」
 倉地は何か心ありげにこういって渋い顔をしながらこの笑い話を結んだ。
 葉子はけさの発作《ほっさ》の反動のように、田川夫人の事があってからただ何となく心が浮き浮きしてしようがなかった。もしそこに客がいなかったら、葉子は子供のように単純な愛矯者《あいきょうもの》になって、倉地に渋い顔ばかりはさせておかなかったろう。「どうして世の中にはどこにでも他人の邪魔に来ましたといわんばかりにこうたくさん人がいるんだろう」と思ったりした。それすらが葉子には笑いの種《たね》となった。自分たちの向こう座にしかつめらしい顔をして老年の夫婦者がすわっているのを、葉子はしばらくまじ[#「まじ」に傍点]まじと見やっていたが、その人たちのしかつめらしいのが無性《むしょう》にグロテスクな不思議なものに見え出して、とうとう我慢がしきれずに、ハンケチを口にあててきゅっ[#「きゅっ」に傍点]きゅっとふき出してしまった。

    三七

 天心に近くぽつり[#「ぽつり」に傍点]と一つ白くわき出た雲の色にも形にもそれと知られるようなたけなわな春が、ところどころの別荘の建て物のほかには見渡すかぎり古く寂《さ》びれた鎌倉《かまくら》の谷々《やとやと》にまであふれていた。重い砂土の白ばんだ道の上には落ち椿《つばき》が一重《ひとえ》桜の花とまじって無残に落ち散っていた。桜のこずえには紅味《あかみ》を持った若葉がきらきらと日に輝いて、浅い影を地に落とした。名もない雑木《ぞうき》までが美しかった。蛙《かわず》の声が眠く田圃《たんぼ》のほうから聞こえて来た。休暇でないせいか、思いのほかに人の雑鬧《ざっとう》もなく、時おり、同じ花かんざしを、女は髪に男は襟《えり》にさして先達《せんだつ》らしいのが紫の小旗《こばた》を持った、遠い所から春を逐《お》って経《へ》めぐって来たらしい田舎《いなか》の人たちの群れが、酒の気も借らずにしめやか[#「しめやか」に傍点]に話し合いながら通るのに行きあうくらいのものだった。
 倉地も汽車の中から自然に気分が晴れたと見えて、いかにも屈託なくなって見えた。二人は停車場の付近にある或《あ》る小ぎれいな旅館を兼ねた料理屋で中食《ちゅうじき》をしたためた。日朝《にっちょう》様ともどんぶく[#「どんぶく」に傍点]様ともいう寺の屋根が庭先に見えて、そこから眼病の祈祷《きとう》だという団扇《うちわ》太鼓の音がどんぶく[#「どんぶく」に傍点]どんぶくと単調に聞こえるような所だった。東のほうはその名さながらの屏風山《びょうぶやま》が若葉で花よりも美しく装われて霞《かす》んでいた。短く美しく刈り込まれた芝生《しばふ》の芝はまだ萌《も》えていなかったが、所まばらに立ち連なった小松は緑をふきかけて、八重《やえ》桜はのぼせたように花でうなだれていた。もう袷《あわせ》一枚になって、そこに食べ物を運んで来る女中は襟前《えりまえ》をくつろげながら夏が来たようだといって笑ったりした。
 「ここはいいわ。きょうはここで宿《とま》りましょう」
 葉子は計画から計画で頭をいっぱいにしていた。そしてそこに用《い》らないものを預けて、江《え》の島《しま》のほうまで車を走らした。
 帰りには極楽寺《ごくらくじ》坂の下で二人とも車を捨てて海岸に出た。もう日は稲村《いなむら》が崎《さき》のほうに傾いて砂浜はやや暮れ初《そ》めていた。小坪《こつぼ》の鼻の崕《がけ》の上に若葉に包まれてたった一軒建てられた西洋人の白ペンキ塗りの別荘が、夕日を受けて緑色に染めたコケットの、髪の中のダイヤモンドのように輝いていた。その崕《がけ》下の民家からは炊煙が夕靄《ゆうもや》と一緒になって海のほうにたなびいていた。波打ちぎわの砂はいいほどに湿って葉子の吾妻下駄《あづまげた》の歯を吸った。二人《ふたり》は別荘から散歩に出て来たらしい幾組かの上品な男女の群れと出あったが、葉子は自分の容貌《ようぼう》なり服装なりが、そのどの群れのどの人にも立ちまさっているのを意識して、軽い誇りと落ち付きを感じていた。倉地もそういう女を自分の伴侶《はんりょ》とするのをあながち無頓着《むとんじゃく》には思わぬらしかった。
 「だれかひょん[#「ひょん」に傍点]な人にあうだろうと思っていましたがうまくだれにもあわなかってね。向こうの小坪の人家の見える所まで行きましょうね。そうして光明寺《こうみょうじ》の桜を見て帰りましょう。そうするとちょうどお腹《なか》がいい空《す》き具合になるわ」
 倉地はなんとも答えなかったが、無論承知でいるらしかった。葉子はふと海のほうを見て倉地にまた口をきった。
 「あれは海ね」
 「仰せのとおり」
 倉地は葉子が時々|途轍《とてつ》もなくわかりきった事を少女みたいな無邪気さでいう、またそれが始まったというように渋そうな笑いを片頬《かたほ》に浮かべて見せた。
 「わたしもう一度あのまっただなかに乗り出してみたい」
 「してどうするのだい」
 倉地もさすが長かった海の上の生活を遠く思いやるような顔をしながらいった。
 「ただ乗り出してみたいの。どーっと見さかいもなく吹きまく風の中を、大波に思い存分揺られながら、ひっくりかえりそうになっては立て直って切り抜けて行くあの船の上の事を思うと、胸がどきどきするほどもう一度乗ってみたくなりますわ。こんな所いやねえ、住んでみると」
 そういって葉子はパラソルを開いたまま柄《え》の先で白い砂をざくざくと刺し通した。
 「あの寒い晩の事、わたしが甲板《かんぱん》の上で考え込んでいた時、あなたが灯《ひ》をぶら下げて岡さんを連れて、やっていらしったあの時の事などをわたしはわけもなく思い出しますわ。あの時わたしは海でなければ聞けないような音楽を聞いていましたわ。陸《おか》の上にはあんな音楽は聞こうといったってありゃしない。おーい、おーい、おい、おい、おい、おーい……あれは何?」
 「なんだそれは」
 倉地は怪訝《けげん》な顔をして葉子を振り返った。
 「あの声」
 「どの」
 「海の声……人を呼ぶような……お互いで呼び合うような」
 「なんにも聞こえやせんじゃないか」
 「その時聞いたのよ……こんな浅い所では何が聞こえますものか」
 「おれは長年海の上で暮らしたが、そんな声は一度だって聞いた事はないわ」
 「そうお。不思議ね。音楽の耳のない人には聞こえないのかしら。……確かに聞こえましたよ、あの晩に……それは気味の悪いような物すごいような……いわばね、一緒になるべきはずなのに一緒になれなかった……その人たちが幾億万と海の底に集まっていて、銘々死にかけたような低い音で、おーい、おーいと呼び立てる、それが一緒になってあんなぼんやり[#「ぼんやり」に傍点]した大きな声になるかと思うようなそんな気味の悪い声なの……どこかで今でもその声が聞こえるようよ」
 「木村がやっているのだろう」
 そういって倉地は高々《たかだか》と笑った。葉子は妙に笑えなかった。そしてもう一度海のほうをながめやった。目も届かないような遠くのほうに、大島《おおしま》が山の腰から下は夕靄《ゆうもや》にぼかされてなくなって、上のほうだけがへ[#「へ」に白丸傍点]の字を描いてぼんやり[#「ぼんやり」に傍点]と空に浮かんでいた。
 二人《ふたり》はいつか滑川《なめりがわ》の川口の所まで来着いていた。稲瀬川《いなせがわ》を渡る時、倉地は、横浜|埠頭《ふとう》で葉子にまつわる若者にしたように、葉子の上体を右手に軽々とかかえて、苦もなく細い流れを跳《おど》り越してしまったが、滑川のほうはそうは行かなかった。二人は川幅の狭そうな所を尋ねてだんだん上流のほうに流れに沿うてのぼって行ったが、川幅は広くなって行くばかりだった。
 「めんどうくさい、帰りましょうか」
 大きな事をいいながら、光明寺までには半分道も来《こ》ないうちに、下駄《げた》全体がめいりこむような砂道で疲れ果ててしまった葉子はこういい出した。
 「あすこに橋が見える。とにかくあすこまで行ってみようや」
 倉地はそういって海岸線に沿うてむっくり[#「むっくり」に傍点]盛《も》れ上がった砂丘《さきゅう》のほうに続く砂道をのぼり始めた。葉子は倉地に手を引かれて息気《いき》をせいせいいわせながら、筋肉が強直《きょうちょく》するように疲れた足を運んだ。自分の健康の衰退が今さらにはっきり[#「はっきり」に傍点]思わせられるようなそれは疲れかただった。今にも破裂するように心臓が鼓動した。
 「ちょっと待って弁慶蟹《べんけいがに》を踏みつけそうで歩けやしませんわ」
 そう葉子は申しわけらしくいって幾度か足をとめた。実際そのへんには紅《あか》い甲良《こうら》を背負った小さな蟹《かに》がいかめし[#「いかめし」に傍点]い鋏《はさみ》を上げて、ざわざわと音を立てるほどおびただしく横行していた。それがいかにも晩春の夕暮れらしかった。
 砂丘《さきゅう》をのぼりきると材木座《ざいもくざ》のほうに続く道路に出た。葉子はどうも不思議な心持ちで、浜から見えていた乱橋《みだればし》のほうに行く気になれなかった。しかし倉地がどんどんそっち[#「そっち」に傍点]に向いて歩き出すので、少しすねたようにその手に取りすがりながらもつれ[#「もつれ」に傍点]合って人気《ひとけ》のないその橋の上まで来てしまった。
 橋の手前の小さな掛け茶屋には主人の婆《ばあ》さんが葭《よし》で囲った薄暗い小部屋《こべや》の中で、こそこそと店をたたむしたくでもしているだけだった。
 橋の上から見ると、滑川《なめりがわ》の水は軽く薄濁って、まだ芽を吹かない両岸の枯れ葦《あし》の根を静かに洗いながら音も立てずに流れていた。それが向こうに行くと吸い込まれたように砂の盛《も》れ上がった後ろに隠れて、またその先に光って現われて、穏やかなリズムを立てて寄せ返す海べの波の中に溶けこむように注いでいた。
 ふと葉子は目の下の枯れ葦《あし》の中に動くものがあるのに気が付いて見ると、大きな麦桿《むぎわら》の海水帽をかぶって、杭《くい》に腰かけて、釣《つ》り竿《ざお》を握った男が、帽子の庇《ひさし》の下から目を光らして葉子をじっ[#「じっ」に傍点]と見つめているのだった。葉子は何の気なしにその男の顔をながめた。
 木部孤※[#「※」は「たけかんむりにエにふしづくり」、182-3]《きべこきょう》だった。
 帽子の下に隠れているせいか、その顔はちょっと見忘れるくらい年がいっていた。そして服装からも、様子からも、落魄《らくはく》というような一種の気分が漂っていた。木部の顔は仮面のように冷然としていたが、釣《つ》り竿《ざお》の先は不注意にも水に浸って、釣り糸が女の髪の毛を流したように水に浮いて軽く震えていた。
 さすがの葉子も胸をどきん[#「どきん」に傍点]とさせて思わず身を退《しざ》らせた。「おーい、おい、おい、おい、おーい」……それがその瞬間に耳の底をすーっ[#「すーっ」に傍点]と通ってすーっ[#「すーっ」に傍点]と行くえも知らず過ぎ去った。怯《お》ず怯《お》ずと倉地をうかがうと、倉地は何事も知らぬげに、暖かに暮れて行く青空を振り仰いで目いっぱいにながめていた。
 「帰りましょう」
 葉子の声は震えていた。倉地はなんの気なしに葉子を顧みたが、
 「寒くでもなったか、口びるが白いぞ」
 といいながら欄干を離れた。二人《ふたり》がその男に後ろを見せて五六歩歩み出すと、
 「ちょっとお待ちください」
 という声が橋の下から聞こえた。倉地は始めてそこに人のいたのに気が付いて、眉《まゆ》をひそめながら振り返った。ざわざわと葦《あし》を分けながら小道を登って来る足音がして、ひょっこり[#「ひょっこり」に傍点]目の前に木部の姿が現われ出た。葉子はその時はしかしすべてに対する身構えを充分にしてしまっていた。
 木部は少しばか丁寧なくらいに倉地に対して帽子を取ると、すぐ葉子に向いて、
 「不思議な所でお目にかかりましたね、しばらく」
 といった。一年前の木部から想像してどんな激情的な口調で呼びかけられるかもしれないとあやぶんでいた葉子は、案外冷淡な木部の態度に安心もし、不安も感じた。木部はどうかすると居直るような事をしかねない男だと葉子は兼ねて思っていたからだ。しかし木部という事を先方からいい出すまでは包めるだけ倉地には事実を包んでみようと思って、ただにこやかに、
 「こんな所でお目にかかろうとは……わたしもほんとうに驚いてしまいました。でもまあほんとうにお珍しい……ただいまこちらのほうにお住まいでございますの?」
 「住まうというほどもない……くすぶり[#「くすぶり」に傍点]こんでいますよハヽヽヽ」
 と木部はうつろに笑って、鍔《つば》の広い帽子を書生っぽらしく阿弥陀《あみだ》にかぶった。と思うとまた急いで取って、
 「あんな所からいきなり[#「いきなり」に傍点]飛び出して来てこうなれなれしく早月《さつき》さんにお話をしかけて変にお思いでしょうが、僕は下らんやくざ[#「やくざ」に傍点]者で、それでも元は早月家にはいろいろ御厄介《ごやっかい》になった男です。申し上げるほどの名もありませんから、まあ御覧のとおりのやつです。……どちらにおいでです」
 と倉地に向いていった。その小さな目には勝《すぐ》れた才気と、敗《ま》けぎらいらしい気象とがほとばしってはいたけれども、じじむさい顎《あご》ひげと、伸びるままに伸ばした髪の毛とで、葉子でなければその特長は見えないらしかった。倉地はどこの馬の骨かと思うような調子で、自分の名を名乗る事はもとよりせずに、軽く帽子を取って見せただけだった。そして、
 「光明寺のほうへでも行ってみようかと思ったのだが、川が渡れんで……この橋を行っても行かれますだろう」
 三人は橋のほうを振り返った。まっすぐな土堤道《どてみち》が白く山のきわまで続いていた。
 「行けますがね、それは浜伝いのほうが趣がありますよ。防風草《ぼうふ》でも摘みながらいらっしゃい。川も渡れます、御案内しましょう」
 といった。葉子は一時《いっとき》も早く木部からのがれたくもあったが、同時にしんみり[#「しんみり」に傍点]と一別以来の事などを語り合ってみたい気もした。いつか汽車の中であってこれが最後の対面だろうと思った、あの時からすると木部はずっ[#「ずっ」に傍点]とさばけた男らしくなっていた。その服装がいかにも生活の不規則なのと窮迫しているのを思わせると、葉子は親身《しんみ》な同情にそそられるのを拒む事ができなかった。
 倉地は四五歩|先立《さきだ》って、そのあとから葉子と木部とは間を隔てて並びながら、また弁慶|蟹《がに》のうざうざいる砂道を浜のほうに降りて行った。
 「あなたの事はたいていうわさや新聞で知っていましたよ……人間てものはおかしなもんですね。……わたしはあれから落伍者《らくごしゃ》です。何をしてみても成り立った事はありません。妻も子供も里《さと》に返してしまって今は一人《ひとり》でここに放浪しています。毎日|釣《つ》りをやってね……ああやって水の流れを見ていると、それでも晩飯の酒の肴《さかな》ぐらいなものは釣れて来ますよハヽヽヽヽ」
 木部はまたうつろに笑ったが、その笑いの響きが傷口にでも答えたように急に黙ってしまった。砂に食い込む二人《ふたり》の下駄《げた》の音だけが聞こえた。
 「しかしこれでいて全くの孤独でもありませんよ。ついこの間から知り合いになった男だが、砂山の砂の中に酒を埋《うず》めておいて、ぶらり[#「ぶらり」に傍点]とやって来てそれを飲んで酔うのを楽しみにしているのと知り合いになりましてね……そいつの人生観《ライフ・フィロソフィー》がばかにおもしろいんです。徹底した運命論者ですよ。酒をのんで運命論を吐くんです。まるで仙人《せんにん》ですよ」
 倉地はどんどん歩いて二人の話し声が耳に入らぬくらい遠ざかった。葉子は木部の口から例の感傷的な言葉が今出るか今出るかと思って待っていたけれども、木部にはいささかもそんなふうはなかった。笑いばかりでなく、すべてにうつろな感じがするほど無感情に見えた。
 「あなたはほんとうに今何をなさっていらっしゃいますの」
 と葉子は少し木部に近よって尋ねた。木部は近寄られただけ葉子から遠のいてまたうつろに笑った。
 「何をするもんですか。人間に何ができるもんですか。……もう春も末になりましたね」
 途轍《とてつ》もない言葉をしいてくっ付けて木部はそのよく光る目で葉子を見た。そしてすぐその目を返して、遠ざかった倉地をこめて遠く海と空との境目にながめ入った。
 「わたしあなたとゆっくり[#「ゆっくり」に傍点]お話がしてみたいと思いますが……」
 こう葉子はしんみり[#「しんみり」に傍点]ぬすむようにいってみた。木部は少しもそれに心を動かされないように見えた。
 「そう……それもおもしろいかな。……わたしはこれでも時おりはあなたの幸福を祈ったりしていますよ、おかしなもんですね、ハヽヽヽ(葉子がその言葉につけ入って何かいおうとするのを木部は悠々《ゆうゆう》とおっかぶせて)あれが、あすこに見えるのが大島《おおしま》です。ぽつん[#「ぽつん」に傍点]と一つ雲か何かのように見えるでしょう空に浮いて……大島って伊豆《いず》の先の離れ島です、あれがわたしの釣《つ》りをする所から正面に見えるんです。あれでいて、日によって色がさまざまに変わります。どうかすると噴煙がぽーっ[#「ぽーっ」に傍点]と見える事もありますよ」
 また言葉がぽつん[#「ぽつん」に傍点]と切れて沈黙が続いた。下駄《げた》の音のほかに波の音もだんだんと近く聞こえ出した。葉子はただただ胸が切《せつ》なくなるのを覚えた。もう一度どうしてもゆっくり[#「ゆっくり」に傍点]木部にあいたい気になっていた。
 「木部さん……あなたさぞわたしを恨んでいらっしゃいましょうね。……けれどもわたしあなたにどうしても申し上げておきたい事がありますの。なんとかして一度わたしに会ってくださいません? そのうちに。わたしの番地は……」
 「お会いしましょう『そのうちに』……そのうちにはいい言葉ですね……そのうちに……。話があるからと女にいわれた時には、話を期待しないで抱擁か虚無かを覚悟しろって名言がありますぜ、ハヽヽヽヽ」
 「それはあんまりなおっしゃりかたですわ」
 葉子はきわめて冗談のようにまたきわめてまじめのようにこういってみた。
 「あんまりかあんまりでないか……とにかく名言には相違ありますまい、ハヽヽヽヽ」
 木部はまたうつろに笑ったが、また痛い所にでも触れたように突然笑いやんだ。
 倉地は波打ちぎわ近くまで来ても渡れそうもないので遠くからこっち[#「こっち」に傍点]を振り向いて、むずかしい顔をして立っていた。
 「どれお二人《ふたり》に橋渡しをして上げましょうかな」
 そういって木部は川べの葦《あし》を分けてしばらく姿を隠していたが、やがて小さな田舟《たぶね》に乗って竿《さお》をさして現われて来た。その時葉子は木部が釣り道具を持っていないのに気がついた。
 「あなた釣り竿《ざお》は」
 「釣り竿ですか……釣り竿は水の上に浮いてるでしょう。いまにここまで流れて来るか……来ないか……」
 そう応《こた》えて案外|上手《じょうず》に舟を漕《こ》いだ。倉地は行き過ぎただけを忙《いそ》いで取って返して来た。そして三人はあぶなかしく立ったまま舟に乗った。倉地は木部の前も構わずわきの下に手を入れて葉子をかかえた。木部は冷然として竿を取った。三突きほどでたわいなく舟は向こう岸に着いた。倉地がいちはやく岸に飛び上がって、手を延ばして葉子を助けようとした時、木部が葉子に手を貸していたので、葉子はすぐにそれをつかんだ。思いきり力をこめたためか、木部の手が舟を漕《こ》いだためだったか、とにかく二人の手は握り合わされたまま小刻みにはげしく震えた。
 「やっ、どうもありがとう」
 倉地は葉子の上陸を助けてくれた木部にこう礼をいった。
 木部は舟からは上がらなかった。そして鍔広《つばびろ》の帽子を取って、
 「それじゃこれでお別れします」
 といった。
 「暗くなりましたから、お二人とも足もとに気をおつけなさい。さようなら」
 と付け加えた。
 三人は相当の挨拶《あいさつ》を取りかわして別れた。一|町《ちょう》ほど来てから急に行く手が明るくなったので、見ると光明寺裏の山の端《は》に、夕月が濃い雲の切れ目から姿を見せたのだった。葉子は後ろを振り返って見た。紫色に暮れた砂の上に木部が舟を葦間《あしま》に漕《こ》ぎ返して行く姿が影絵のように黒くながめられた。葉子は白|琥珀《こはく》のパラソルをぱっ[#「ぱっ」に傍点]と開いて、倉地にはいたずら[#「いたずら」に傍点]に見えるように振り動かした。
 三四|町《ちょう》来てから倉地が今度は後ろを振り返った。もうそこには木部の姿はなかった。葉子はパラソルを畳もうとして思わず涙ぐんでしまっていた。
 「あれはいったいだれだ」
 「だれだっていいじゃありませんか」
 暗さにまぎれて倉地に涙は見せなかったが、葉子の言葉は痛ましく疳走《かんばし》っていた。
 「ローマンスのたくさんある女はちがったものだな」
 「えゝ、そのとおり……あんな乞食《こじき》みたいな見っともない恋人を持った事があるのよ」
 「さすがはお前だよ」
 「だから愛想《あいそ》が尽きたでしょう」
 突如としてまたいいようのないさびしさ、哀《かな》しさ、くやしさが暴風のように襲って来た。また来たと思ってもそれはもうおそかった。砂の上に突っ伏して、今にも絶え入りそうに身もだえする葉子を、倉地は聞こえぬ程度に舌打ちしながら介抱せねばならなかった。
 その夜旅館に帰ってからも葉子はいつまでも眠らなかった。そこに来て働く女中たちを一人《ひとり》一人|突慳貪《つっけんどん》にきびしくたしなめた。しまいには一人として寄りつくものがなくなってしまうくらい。倉地も始めのうちはしぶしぶつき合っていたが、ついには勝手にするがいいといわんばかりに座敷を代えてひとりで寝てしまった。
 春の夜はただ、事もなくしめやか[#「しめやか」に傍点]にふけて行った。遠くから聞こえて来る蛙《かわず》の鳴き声のほかには、日勝《にっしょう》様の森あたりでなくらしい梟《ふくろう》の声がするばかりだった。葉子とはなんの関係もない夜鳥でありながら、その声には人をばかにしきったような、それでいて聞くに堪《た》えないほどさびしい響きが潜んでいた。ほう、ほう……ほう、ほうほうと間遠《まどお》に単調に同じ木の枝と思わしい所から聞こえていた。人々が寝しずまってみると、憤怒《ふんぬ》の情はいつか消え果てて、いいようのない寂寞《せきばく》がそのあとに残った。
 葉子のする事いう事は一つ一つ葉子を倉地から引き離そうとするばかりだった。今夜も倉地が葉子から待ち望んでいたものを葉子は明らかに知っていた。しかも葉子はわけのわからない怒りに任せて自分の思うままに振る舞った結果、倉地には不快きわまる失望を与えたに違いない。こうしたままで日がたつに従って、倉地は否応《いやおう》なしにさらに新しい性的興味の対象を求めるようになるのは目前の事だ。現に愛子はその候補者の一人として倉地の目には映り始めているのではないか。葉子は倉地との関係を始めから考えたどってみるにつれて、どうしても間違った方向に深入りしたのを悔いないではいられなかった。しかし倉地を手なずけるためにはあの道をえらぶよりしかたがなかったようにも思える。倉地の性格に欠点があるのだ。そうではない。倉地に愛を求めて行った自分の性格に欠点があるのだ。……そこまで理屈らしく理屈をたどって来てみると、葉子は自分というものが踏みにじっても飽き足りないほどいやな者に見えた。
 「なぜわたしは木部を捨て木村を苦しめなければならないのだろう。なぜ木部を捨てた時にわたしは心に望んでいるような道をまっしぐらに進んで行く事ができなかったのだろう。わたしを木村にしいて押し付けた五十川《いそがわ》のおばさんは悪い……わたしの恨みはどうしても消えるものか。……といっておめおめとその策略に乗ってしまったわたしはなんというふがいない女だったのだろう。倉地にだけはわたしは失望したくないと思った。今までのすべての失望をあの人で全部取り返してまだ余りきるような喜びを持とうとしたのだった。わたしは倉地とは離れてはいられない人間だと確かに信じていた。そしてわたしの持ってるすべてを……醜いもののすべてをも倉地に与えて悲しいとも思わなかったのだ。わたしは自分の命を倉地の胸にたたきつけた。それだのに今は何が残っている……何が残っている……。今夜かぎりわたしは倉地に見放されるのだ。この部屋《へや》を出て行ってしまった時の冷淡な倉地の顔!……わたしは行こう。これから行って倉地にわびよう、奴隷《どれい》のように畳に頭をこすり付けてわびよう……そうだ。……しかし倉地が冷刻な顔をしてわたしの心を見も返らなかったら……わたしは生きてる間にそんな倉地の顔を見る勇気はない。……木部にわびようか……木部は居所さえ知らそうとはしないのだもの……」
 葉子はやせた肩を痛ましく震わして、倉地から絶縁されてしまったもののように、さびしく哀《かな》しく涙の枯れるかと思うまで泣くのだった。静まりきった夜の空気の中に、時々鼻をかみながらすすり上げすすり上げ泣き伏す痛ましい声だけが聞こえた。葉子は自分の声につまされてなおさら悲哀から悲哀のどん底に沈んで行った。
 ややしばらくしてから葉子は決心するように、手近にあった硯箱《すずりばこ》と料紙《りょうし》とを引き寄せた。そして震える手先をしいて繰りながら簡単な手紙を乳母《うば》にあてて書いた。それには乳母とも定子とも断然縁を切るから以後他人と思ってくれ。もし自分が死んだらここに同封する手紙を木部の所に持って行くがいい。木部はきっとどうしてでも定子を養ってくれるだろうからという意味だけを書いた。そして木部あての手紙には、
[#ここから1字下げ]
 「定子はあなたの子です。その顔を一目《ひとめ》御覧になったらすぐおわかりになります。わたしは今まで意地《いじ》からも定子はわたし一人《ひとり》の子でわたし一人のものとするつもりでいました。けれどもわたしが世にないものとなった今は、あなたはもうわたしの罪を許してくださるかとも思います。せめては定子を受け入れてくださいましょう。
    葉子の死んだ後
                             あわれなる定子のママより
   定子のおとう様へ」
[#ここで字下げ終わり]
 と書いた。涙は巻紙の上にとめどなく落ちて字をにじました。東京に帰ったらためて置いた預金の全部を引き出してそれを為替《かわせ》にして同封するために封を閉じなかった。
 最後の犠牲……今までとつおいつ[#「とつおいつ」に傍点]捨て兼ねていた最愛のものを最後の犠牲にしてみたら、たぶんは倉地の心がもう一度自分に戻《もど》って来るかもしれない。葉子は荒神に最愛のものを生牲《いけにえ》として願いをきいてもらおうとする太古《たいこ》の人のような必死な心になっていた。それは胸を張り裂くような犠牲だった。葉子は自分の目からも英雄的に見えるこの決心に感激してまた新しく泣きくずれた。
 「どうか、どうか、……どうーか」
 葉子はだれにともなく手を合わして、一心に念じておいて、雄々《おお》しく涙を押しぬぐうと、そっと座を立って、倉地の寝ているほうへと忍びよった。廊下の明りは大半消されているので、ガラス窓からおぼろにさし込む月の光がたよりになった。廊下の半分がた燐《りん》の燃えたようなその光の中を、やせ細っていっそう背たけの伸びて見える葉子は、影が歩むように音もなく静かに歩みながら、そっと[#「そっと」に傍点]倉地の部屋の襖《ふすま》を開いて中にはいった。薄暗くともった有明《ありあ》けの下に倉地は何事も知らぬげに快く眠っていた。葉子はそっ[#「そっ」に傍点]とその枕《まくら》もとに座を占めた。そして倉地の寝顔を見守った。
 葉子の目にはひとりで[#「ひとりで」に傍点]に涙がわくようにあふれ出て、厚ぼったいような感じになった口びるはわれにもなくわなわなと震えて来た。葉子はそうしたままで黙ってなおも倉地を見続けていた。葉子の目にたまった涙のために倉地の姿は見る見るにじんだように輪郭がぼやけてしまった。葉子は今さら人が違ったように心が弱って、受け身にばかりならずにはいられなくなった自分が悲しかった。なんという情けないかわいそうな事だろう。そう葉子はしみじみと思った。
 だんだん葉子の涙はすすり泣きにかわって行った。倉地が眠りの中でそれを感じたらしく、うるさそうにうめき声を小さく立てて寝返りを打った。葉子はぎょっ[#「ぎょっ」に傍点]として息気《いき》をつめた。
 しかしすぐすすり泣きはまた帰って来た。葉子は何事も忘れ果てて、倉地の床のそばにきちん[#「きちん」に傍点]とすわったままいつまでもいつまでも泣き続けていた。

    三八

 「何をそう怯《お》ず怯《お》ずしているのかい。そのボタンを後ろにはめてくれさえすればそれでいいのだに」
 倉地は倉地にしては特にやさしい声でこういった、ワイシャツを着ようとしたまま葉子に背を向けて立ちながら。葉子は飛んでもない失策でもしたように、シャツの背部につけるカラーボタンを手に持ったままおろおろしていた。
 「ついシャツを仕替《しか》える時それだけ忘れてしまって……」
 「いいわけなんぞはいいわい。早く頼む」
 「はい」
 葉子はしとやか[#「しとやか」に傍点]にそういって寄り添うように倉地に近寄ってそのボタンをボタン孔《あな》に入れようとしたが、糊《のり》が硬《こわ》いのと、気おくれがしているのでちょっとははいりそうになかった。
 「すみませんがちょっと脱いでくださいましな」
 「めんどうだな、このままでできようが」
 葉子はもう一度試みた。しかし思うようには行かなかった。倉地はもう明らかにいらいらし出していた。
 「だめか」
 「まあちょっと」
 「出せ、貸せおれに。なんでもない事だに」
 そういってくるり[#「くるり」に傍点]と振り返ってちょっと葉子をにらみつけながら、ひったくるようにボタンを受け取った。そしてまた葉子に後ろを向けて自分でそれをはめようとかかった。しかしなかなかうまく行かなかった。見る見る倉地の手ははげしく震え出した。
 「おい、手伝ってくれてもよかろうが」
 葉子があわてて手を出すとはずみにボタンは畳の上に落ちてしまった。葉子がそれを拾おうとする間もなく、頭の上から倉地の声が雷のように鳴り響いた。
 「ばか! 邪魔をしろといいやせんぞ」
 葉子はそれでもどこまでも優しく出ようとした。
 「御免くださいね、わたしお邪魔なんぞ……」
 「邪魔よ。これで邪魔でなくてなんだ……えゝ、そこじゃありゃせんよ。そこに見えとるじゃないか」
 倉地は口をとがらして顎《あご》を突き出しながら、どしん[#「どしん」に傍点]と足をあげて畳を踏み鳴らした。
 葉子はそれでも我慢した。そしてボタンを拾って立ち上がると倉地はもうワイシャツを脱ぎ捨てている所だった。
 「胸《むな》くその悪い……おい日本服を出せ」
 「襦袢《じゅばん》の襟《えり》がかけずにありますから……洋服で我慢してくださいましね」
 葉子は自分が持っていると思うほどの媚《こ》びをある限り目に集めて嘆願するようにこういった。
 「お前には頼まんまでよ……愛ちゃん」
 倉地は大きな声で愛子を呼びながら階下のほうに耳を澄ました。葉子はそれでも根《こん》かぎり我慢しようとした。階子段《はしごだん》をしとやか[#「しとやか」に傍点]にのぼって愛子がいつものように柔順に部屋《へや》にはいって来た。倉地は急に相好《そうごう》をくずしてにこやか[#「にこやか」に傍点]になっていた。
 「愛ちゃん頼む、シャツにそのボタンをつけておくれ」
 愛子は何事の起こったかを露知らぬような顔をして、男の肉感をそそるような堅肉《かたじし》の肉体を美しく折り曲げて、雪白《せっぱく》のシャツを手に取り上げるのだった。葉子がちゃん[#「ちゃん」に傍点]と倉地にかしずいてそこにいるのを全く無視したようなずう[#「ずう」に傍点]ずうしい態度が、ひがんでしまった葉子の目には憎々しく映った。
 「よけいな事をおしでない」
 葉子はとうとうかっ[#「かっ」に傍点]となって愛子をたしなめながらいきなり[#「いきなり」に傍点]手にあるシャツをひったくってしまった。
 「きさまは……おれが愛ちゃんに頼んだになぜよけいな事をしくさるんだ」
 とそういって威丈高《いたけだか》になった倉地には葉子はもう目もくれなかった。愛子ばかりが葉子の目には見えていた。
 「お前は下にいればそれでいい人間なんだよ。おさんどん[#「おさんどん」に傍点]の仕事もろくろくできはしないくせによけいな所に出しゃばるもんじゃない事よ。……下に行っておいで」
 愛子はこうまで姉にたしなめられても、さからうでもなく怒《おこ》るでもなく、黙ったまま柔順に、多恨な目で姉をじっ[#「じっ」に傍点]と見て静々《しずしず》とその座をはずしてしまった。
 こんなもつれ合ったいさかい[#「いさかい」に傍点]がともすると葉子の家で繰り返されるようになった。ひとりになって気がしずまると葉子は心の底から自分の狂暴な振る舞いを悔いた。そして気を取り直したつもりでどこまでも愛子をいたわって[#「いたわって」に傍点]やろうとした。愛子に愛情を見せるためには義理にも貞世につらく当たるのが当然だと思った。そして愛子の見ている前で、愛するものが愛する者を憎んだ時ばかりに見せる残虐な呵責《かしゃく》を貞世に与えたりした。葉子はそれが理不尽きわまる事だとは知っていながら、そう偏頗《へんぱ》に傾いて来る自分の心持ちをどうする事もできなかった。それのみならず葉子には自分の鬱憤《うっぷん》をもらすための対象がぜひ一つ必要になって来た。人でなければ動物、動物でなければ草木、草木でなければ自分自身に何かなしに傷害を与えていなければ気が休まなくなった。庭の草などをつかんでいる時でも、ふと気が付くと葉子はしゃがん[#「しゃがん」に傍点]だまま一茎の名もない草をたった[#「たった」に傍点]一本摘みとって、目に涙をいっぱいためながら爪《つめ》の先で寸々《ずたずた》に切りさいなんでいる自分を見いだしたりした。
 同じ衝動は葉子を駆って倉地の抱擁に自分自身を思う存分しいたげようとした。そこには倉地の愛を少しでも多く自分につなぎたい欲求も手伝ってはいたけれども、倉地の手で極度の苦痛を感ずる事に不満足きわまる満足を見いだそうとしていたのだ。精神も肉体もはなはだしく病に虫ばまれた葉子は抱擁によっての有頂天《うちょうてん》な歓楽を味わう資格を失ってからかなり久しかった。そこにはただ地獄《じごく》のような呵責《かしゃく》があるばかりだった。すべてが終わってから葉子に残るものは、嘔吐《おうと》を催すような肉体の苦痛と、しいて自分を忘我に誘おうともがきながら、それが裏切られて無益に終わった、その後に襲って来る唾棄《だき》すべき倦怠《けんたい》ばかりだった。倉地が葉子のその悲惨な無感覚を分け前してたとえようもない憎悪《ぞうお》を感ずるのはもちろんだった。葉子はそれを知るとさらにいい知れないたよりなさを感じてまたはげしく倉地にいどみかかるのだった。倉地は見る見る一歩一歩葉子から離れて行った。そしてますますその気分はすさんで行った。
 「きさまはおれに厭《あ》きたな。男でも作りおったんだろう」
 そう唾《つば》でも吐き捨てるようにいまいましげに倉地があらわ[#「あらわ」に傍点]にいうような日も来た。
 「どうすればいいんだろう」
 そういって額《ひたい》の所に手をやって頭痛を忍びながら葉子はひとり苦しまねばならなかった。
 ある日葉子は思いきってひそかに医師を訪れた。医師は手もなく、葉子のすべての悩みの原因は子宮|後屈《こうくつ》症と子宮内膜炎とを併発しているからだといって聞かせた。葉子はあまりにわかりきった事を医師がさも知ったかぶりにいって聞かせるようにも、またそののっぺりした白い顔が、恐ろしい運命が葉子に対して装うた仮面で、葉子はその言葉によってまっ暗な行く手を明らかに示されたようにも思った。そして怒りと失望とをいだきながらその家を出た。帰途葉子は本屋に立ち寄って婦人病に関する大部な医書を買い求めた。それは自分の病症に関する徹底的な知識を得ようためだった。家に帰ると自分の部屋《へや》に閉じこもってすぐ大体を読んで見た。後屈症は外科手術を施して位置|矯正《きょうせい》をする事によって、内膜炎は内膜炎を抉掻《けっそう》する事によって、それが器械的の発病である限り全治の見込みはあるが、位置矯正の場合などに施術者《しじゅつしゃ》の不注意から子宮底に穿孔《せんこう》を生じた時などには、往々にして激烈な腹膜炎を結果する危険が伴わないでもないなどと書いてあった。葉子は倉地に事情を打ち明けて手術を受けようかとも思った。ふだんならば常識がすぐそれを葉子にさせたに違いない。しかし今はもう葉子の神経は極度に脆弱《ぜいじゃく》になって、あらぬ方向にばかりわれにもなく鋭く働くようになっていた。倉地は疑いもなく自分の病気に愛想を尽かすだろう。たといそんな事はないとしても入院の期間に倉地の肉の要求が倉地を思わぬほうに連れて行かないとはだれが保証できよう。それは葉子の僻見《へきけん》であるかもしれない、しかしもし愛子が倉地の注意をひいているとすれば、自分の留守の間に倉地が彼女に近づくのはただ一歩の事だ。愛子があの年であの無経験で、倉地のような野性と暴力とに興味を持たぬのはもちろん、一種の厭悪《けんお》をさえ感じているのは察せられないではない。愛子はきっと倉地を退けるだろう。しかし倉地には恐ろしい無恥がある。そして一度倉地が女をおのれの力の下に取りひしいだら、いかなる女も二度と倉地からのがれる事のできないような奇怪の麻酔《ますい》の力を持っている。思想とか礼儀とかにわずらわされない、無尽蔵に強烈で征服的な生《き》のままな男性の力はいかな女をもその本能に立ち帰らせる魔術を持っている。しかもあの柔順らしく見える愛子は葉子に対して生まれるとからの敵意を挟《さしはさ》んでいるのだ。どんな可能でも描いて見る事ができる。そう思うと葉子はわが身でわが身を焼くような未練と嫉妬《しっと》のために前後も忘れてしまった。なんとかして倉地を縛り上げるまでは葉子は甘んじて今の苦痛に堪《た》え忍ぼうとした。
 そのころからあの正井という男が倉地の留守をうかがっては葉子に会いに来るようになった。
 「あいつは犬だった。危うく手をかませる所だった。どんな事があっても寄せ付けるではないぞ」
 と倉地が葉子にいい聞かせてから一週間もたたない後に、ひょっこり正井が顔を見せた。なかなかのしゃれ[#「しゃれ」に傍点]者で、寸分のすきもない身なりをしていた男が、どこかに貧窮をにおわすようになっていた。カラーにはうっすり汗じみができて、ズボンの膝《ひざ》には焼けこげの小さな孔《あな》が明いたりしていた。葉子が上げる上げないもいわないうちに、懇意ずくらしくどんどん玄関から上がりこんで座敷に通った。そして高価らしい西洋菓子の美しい箱を葉子の目の前に風呂敷《ふろしき》から取り出した。
 「せっかくおいでくださいましたのに倉地さんは留守ですから、はばかりですが出直してお遊びにいらしってくださいまし。これはそれまでお預かりおきを願いますわ」
 そういって葉子は顔にはいかにも懇意を見せながら、言葉には二の句がつげないほどの冷淡さと強さとを示してやった。しかし正井はしゃあ[#「しゃあ」に傍点]しゃあとして平気なものだった。ゆっくり[#「ゆっくり」に傍点]内衣嚢《うちがくし》から巻煙草《まきたばこ》入れを取り出して、金口《きんぐち》を一本つまみ取ると、炭の上にたまった灰を静かにかきのけるようにして火をつけて、のどかに香《かお》りのいい煙を座敷に漂わした。
 「お留守ですか……それはかえって好都合でした……もう夏らしくなって来ましたね、隣の薔薇《ばら》も咲き出すでしょう……遠いようだがまだ去年の事ですねえ、お互い様に太平洋を往《い》ったり来たりしたのは……あのころがおもしろい盛りでしたよ。わたしたちの仕事もまだにらまれずにいたんでしたから……時に奥さん」
 そういって折り入って相談でもするように正井は煙草盆を押しのけて膝《ひざ》を乗り出すのだった。人を侮ってかかって来ると思うと葉子はぐっ[#「ぐっ」に傍点]と癪《しゃく》にさわった。しかし以前のような葉子はそこにはいなかった。もしそれが以前であったら、自分の才気と力量と美貌《びぼう》とに充分の自信を持つ葉子であったら、毛の末ほども自分を失う事なく、優婉《ゆうえん》に円滑に男を自分のかけた陥穽《わな》の中におとしいれて、自縄自縛《じじょうじばく》の苦《にが》い目にあわせているに違いない。しかし現在の葉子はたわいもなく敵を手もとまでもぐりこませてしまってただいらいらとあせるだけだった。そういう破目《はめ》になると葉子は存外力のない自分であるのを知らねばならなかった。
 正井は膝《ひざ》を乗り出してから、しばらく黙って敏捷《びんしょう》に葉子の顔色をうかがっていたが、これなら大丈夫と見きわめをつけたらしく、
 「少しばかりでいいんです、一つ融通《ゆうずう》してください」
 と切り出した。
 「そんな事をおっしゃったって、わたしにどうしようもないくらいは御存じじゃありませんか。そりゃ余人じゃなし、できるのならなんとかいたしますけれども、姉妹三人がどうかこうかして倉地に養われている今日《こんにち》のような境界《きょうがい》では、わたしに何ができましょう。正井さんにも似合わない的《まと》違いをおっしゃるのね。倉地なら御相談にもなるでしょうから面と向かってお話しくださいまし。中にはいるとわたしが困りますから」
 葉子は取りつく島もないようにといや味な調子でずけ[#「ずけ」に傍点]ずけとこういった。正井はせせら笑うようにほほえんで金口の灰を静かに灰吹きに落とした。
 「もう少しざっくばらん[#「ざっくばらん」に傍点]にいってくださいよきのうきょうのお交際《つきあい》じゃなし。倉地さんとまずくなったくらいは御承知じゃありませんか。……知っていらっしってそういう口のききかたは少しひど過ぎますぜ、(ここで仮面を取ったように正井はふてくされた態度になった。しかし言葉はどこまでも穏当だった。)きらわれたってわたしは何も倉地さんをどうしようのこうしようのと、そんな薄情な事はしないつもりです。倉地さんにけががあればわたしだって同罪以上ですからね。……しかし……一つなんとかならないもんでしょうか」
 葉子の怒りに興奮した神経は正井のこの一言《ひとこと》にすぐおびえてしまった。何もかも倉地の裏面を知り抜いてるはずの正井が、捨てばちになったら倉地の身の上にどんな災難が降りかからぬとも限らぬ。そんな事をさせては飛んだ事になるだろう。そんな事をさせては飛んだ事になる。葉子はますます弱身《よわみ》になった自分を救い出す術《すべ》に困《こう》じ果てていた。
 「それを御承知でわたしの所にいらしったって……たといわたしに都合がついたとしたところで、どうしようもありませんじゃないの。なんぼわたしだっても、倉地と仲たがえをなさったあなたに倉地の金を何する……」
 「だから倉地さんのものをおねだりはしませんさ。木村さんからもたんまり[#「たんまり」に傍点]来ているはずじゃありませんか。その中から……たんとたあいいませんから、窮境を助けると思ってどうか」
 正井は葉子を男たらしと見くびった態度で、情夫を持ってる妾《めかけ》にでも逼《せま》るようなずうずうしい顔色を見せた。こんな押し問答の結果葉子はとうとう正井に三百円ほどの金をむざ[#「むざ」に傍点]むざとせびり取られてしまった。葉子はその晩倉地が帰って来た時もそれをいい出す気力はなかった。貯金は全部定子のほうに送ってしまって、葉子の手もとにはいくらも残ってはいなかった。
 それからというもの正井は一週間とおかずに葉子の所に来ては金をせびった。正井はそのおりおりに、絵島丸のサルンの一隅《いちぐう》に陣取って酒と煙草《たばこ》とにひたりながら、何か知らんひそひそ話をしていた数人の人たち――人を見ぬく目の鋭い葉子にもどうしてもその人たちの職業を推察し得なかった数人の人たちの仲間に倉地がはいって始め出した秘密な仕事の巨細《こさい》をもらした。正井が葉子を脅かすために、その話には誇張が加えられている、そう思って聞いてみても、葉子の胸をひやっ[#「ひやっ」に傍点]とさせる事ばかりだった。倉地が日清《にっしん》戦争にも参加した事務長で、海軍の人たちにも航海業者にも割合に広い交際がある所から、材料の蒐集《しゅうしゅう》者としてその仲間の牛耳《ぎゅうじ》を取るようになり、露国や米国に向かってもらした祖国の軍事上の秘密はなかなか容易ならざるものらしかった。倉地の気分がすさんで行くのももっともだと思われるような事柄を数々《かずかず》葉子は聞かされた。葉子はしまいには自分自身を護《まも》るためにも正井のきげんを取りはずしてはならないと思うようになった。そして正井の言葉が一語一語思い出されて、夜なぞになると眠らせぬほどに葉子を苦しめた。葉子はまた一つの重い秘密を背負わなければならぬ自分を見いだした。このつらい意識はすぐにまた倉地に響くようだった。倉地はともすると敵の間諜《かんちょう》ではないかと疑うような険しい目で葉子をにらむようになった。そして二人《ふたり》の間にはまた一つの溝《みぞ》がふえた。
 そればかりではなかった。正井に秘密な金を融通するためには倉地からのあてがい[#「あてがい」に傍点]だけではとても足りなかった。葉子はありもしない事を誠《まこと》しやかに書き連ねて木村のほうから送金させねばならなかった。倉地のためならとにもかくにも、倉地と自分の妹たちとが豊かな生活を導くためにならとにもかくにも、葉子に一種の獰悪《どうあく》な誇りをもってそれをして、男のためになら何事でもという捨てばちな満足を買い得ないではなかったが、その金がたいてい正井のふところに吸収されてしまうのだと思うと、いくら間接には倉地のためだとはいえ葉子の胸は痛かった。木村からは送金のたびごとに相変わらず長い消息が添えられて来た。木村の葉子に対する愛着は日を追うてまさるとも衰える様子は見えなかった。仕事のほうにも手違いや誤算があって始めの見込みどおりには成功とはいえないが、葉子のほうに送るくらいの金はどうしてでも都合がつくくらいの信用は得ているから構わずいってよこせとも書いてあった。こんな信実な愛情と熱意を絶えず示されるこのごろは葉子もさすがに自分のしている事が苦しくなって、思いきって木村にすべてを打ちあけて、関係を絶《た》とうかと思い悩むような事が時々あった。その矢先なので、葉子は胸にことさら痛みを覚えた。それがますます葉子の神経をいらだたせて、その病気にも影響した。そして花の五月が過ぎて、青葉の六月になろうとするころには、葉子は痛ましくやせ細った、目ばかりどぎつい[#「どぎつい」に傍点]純然たるヒステリー症の女になっていた。

    三九

 巡査の制服は一気に夏服になったけれども、その年の気候はひどく不順で、その白服がうらやましいほど暑い時と、気の毒なほど悪冷《わるび》えのする日が入れ代わり立ち代わり続いた。したがって晴雨も定めがたかった。それがどれほど葉子の健康にさし響いたかしれなかった。葉子は絶えず腰部の不愉快な鈍痛を覚ゆるにつけ、暑くて苦しい頭痛に悩まされるにつけ、何一つからだに申し分のなかった十代の昔を思い忍んだ。晴雨寒暑というようなものがこれほど気分に影響するものとは思いもよらなかった葉子は、寝起きの天気を何よりも気にするようになった。きょうこそは一日気がはればれするだろうと思うような日は一日もなかった。きょうもまたつらい一日を過ごさねばならぬというそのいまわしい予想だけでも葉子の気分をそこなうには充分すぎた。
 五月の始めごろから葉子の家に通う倉地の足はだんだん遠のいて、時々どこへとも知れぬ旅に出るようになった。それは倉地が葉子のしつっこい挑《いど》みと、激しい嫉妬《しっと》と、理不尽な疳癖《かんぺき》の発作とを避けるばかりだとは葉子自身にさえ思えない節《ふし》があった。倉地のいわゆる事業には何かかなり致命的な内場破《うちばわ》れが起こって、倉地の力でそれをどうする事もできないらしい事はおぼろげながらも葉子にもわかっていた。債権者であるか、商売仲間であるか、とにかくそういう者を避けるために不意に倉地が姿を隠さねばならぬらしい事は確かだった。それにしても倉地の疎遠は一向《ひたすら》に葉子には憎かった。
 ある時葉子は激しく倉地に迫ってその仕事の内容をすっかり[#「すっかり」に傍点]打ち明けさせようとした。倉地の情人である葉子が倉地の身に大事が降りかかろうとしているのを知りながら、それに助力もし得ないという法はない、そういって葉子はせがみにせがんだ。
 「こればかりは女の知った事じゃないわい。おれが喰《くら》い込んでもお前にはとばっちり[#「とばっちり」に傍点]が行くようにはしたくないで、打ち明けないのだ。どこに行っても知らない知らないで一点張りに通すがいいぜ。……二度と聞きたいとせがんでみろ、おれはうそほん[#「うそほん」に傍点]なしにお前とは手を切って見せるから」
 その最後の言葉は倉地の平生《へいぜい》に似合わない重苦しい響きを持っていた。葉子が息気《いき》をつめてそれ以上をどうしても迫る事ができないと断念するほど重苦しいものだった。正井の言葉から判じても、それは女手などでは実際どうする事もできないものらしいので葉子はこれだけは断念して口をつぐむよりしかたがなかった。
 堕落といわれようと、不貞といわれようと、他人手《ひとで》を待っていてはとても自分の思うような道は開けないと見切りをつけた本能的の衝動から、知らず知らず自分で選び取った道の行く手に目もくらむような未来が見えたと有頂天《うちょうてん》になった絵島丸の上の出来事以来一年もたたないうちに、葉子が命も名もささげてかかった新しい生活は見る見る土台から腐り出して、もう今は一陣の風さえ吹けば、さしもの高楼ももんどり[#「もんどり」に傍点]打って地上にくずれてしまうと思いやると、葉子はしばしば真剣に自殺を考えた。倉地が旅に出た留守に倉地の下宿に行って「急用ありすぐ帰れ」という電報をその行く先に打ってやる。そして自分は心静かに倉地の寝床の上で刃《やいば》に伏していよう。それは自分の一生の幕切れとしては、いちばんふさわしい行為らしい。倉地の心にもまだ自分に対する愛情は燃えかすれながらも残っている。それがこの最後によって一時《いっとき》なりとも美しく燃え上がるだろう。それでいい、それで自分は満足だ。そう心から涙ぐみながら思う事もあった。
 実際倉地が留守のはずのある夜、葉子はふらふらとふだん空想していたその心持ちにきびしく捕えられて前後も知らず家を飛び出した事があった。葉子の心は緊張しきって天気なのやら曇っているのやら、暑いのやら寒いのやらさらに差別がつかなかった。盛んに羽虫《はむし》が飛びかわして往来の邪魔になるのをかすかに意識しながら、家を出てから小半町《こはんちょう》裏坂をおりて行ったが、ふと自分のからだがよごれていて、この三四日湯にはいらない事を思い出すと、死んだあとの醜さを恐れてそのまま家に取って返した。そして妹たちだけがはいったままになっている湯殿《ゆどの》に忍んで行って、さめかけた風呂《ふろ》につかった。妹たちはとうに寝入っていた。手ぬぐい掛けの竹竿《たけざお》にぬれた手ぬぐいが二筋だけかかっているのを見ると、寝入っている二人《ふたり》の妹の事がひしひしと心に逼《せま》るようだった。葉子の決心はしかしそのくらいの事では動かなかった。簡単に身じまいをしてまた家を出た。
 倉地の下宿近くなった時、その下宿から急ぎ足で出て来る背たけの低い丸髷《まるまげ》の女がいた。夜の事ではあり、そのへんは街灯の光も暗いので、葉子にはさだかにそれとわからなかったが、どうも双鶴館《そうかくかん》の女将《おかみ》らしくもあった。葉子はかっ[#「かっ」に傍点]となって足早にそのあとをつけた。二人の間は半町とは離れていなかった。だんだん二人の間に距離がちぢまって行って、その女が街灯の下を通る時などに気を付けて見るとどうしても思ったとおりの女らしかった。さては今まであの女を真《ま》正直に信じていた自分はまんま[#「まんま」に傍点]と詐《いつわ》られていたのだったか。倉地の妻に対しても義理が立たないから、今夜以後葉子とも倉地の妻とも関係を絶《た》つ。悪く思わないでくれと確かにそういった、その義侠《ぎきょう》らしい口車《くちぐるま》にまんま[#「まんま」に傍点]と乗せられて、今まで殊勝な女だとばかり思っていた自分の愚かさはどうだ。葉子はそう思うと目が回ってその場に倒れてしまいそうなくやしさ恐ろしさを感じた。そして女の形を目がけてよろよろとなりながら駆け出した。その時女はそのへんに辻待《つじま》ちをしている車に乗ろうとする所だった。取りにがしてなるものかと、葉子はひた走りに走ろうとした。しかし足は思うようにはかど[#「はかど」に傍点]らなかった。さすがにその静けさを破って声を立てる事もはばかられた。もう十|間《けん》というくらいの所まで来た時車はがらがらと音を立てて砂利道《じゃりみち》を動きはじめた。葉子は息気《いき》せき切ってそれに追いつこうとあせったが、見る見るその距離は遠ざかって、葉子は杉森《すぎもり》で囲まれたさびしい暗闇《くらやみ》の中にただ一人《ひとり》取り残されていた。葉子はなんという事なくその辻車《つじぐるま》のいた所まで行って見た。一台よりいなかったので飛び乗ってあとを追うべき車もなかった。葉子はぼんやりそこに立って、そこに字でも書き残してあるかのように、暗い地面《じめん》をじっ[#「じっ」に傍点]と見つめていた。確かにあの女に違いなかった。背《せい》格好といい、髷《まげ》の形といい、小刻みな歩きぶりといい、……あの女に違いなかった。旅行に出るといった倉地は疑いもなくうそ[#「うそ」に傍点]を使って下宿にくすぶっているに違いない。そしてあの女を仲人《ちゅうにん》に立てて先妻とのより[#「より」に傍点]を戻《もど》そうとしているに決まっている。それに何の不思議があろう。長年連れ添った妻ではないか。かわいい三人の娘の母ではないか。葉子というものに一日一日|疎《うと》くなろうとする倉地ではないか。それに何の不思議があろう。……それにしてもあまりといえばあまりな仕打ちだ。なぜそれならそうと明らかにいってはくれないのだ。いってさえくれれば自分にだって恋する男に対しての女らしい覚悟はある。別れろとならばきれいさっぱりと別れても見せる。……なんという踏みつけかただ。なんという恥さらしだ。倉地の妻はおおそれた貞女ぶった顔を震わして、涙を流しながら、「それではお葉さんという方《かた》にお気の毒だから、わたしはもう亡《な》いものと思ってくださいまし……」……見ていられぬ、聞いていられぬ。……葉子という女はどんな女だか、今夜こそは倉地にしっかり思い知らせてやる……。
 葉子は酔ったもののようにふらふらした足どりでそこから引き返した。そして下宿屋に来《き》着いた時には、息気《いき》苦しさのために声も出ないくらいになっていた。下宿の女たちは葉子を見ると「またあの気狂《きちが》いが来た」といわんばかりの顔をして、その夜の葉子のことさらに取りつめた顔色には注意を払う暇もなく、その場をはずして姿を隠した。葉子はそんな事には気もかけずに物すごい笑顔《えがお》でことさららしく帳場にいる男にちょっと頭を下げて見せて、そのままふらふらと階子段《はしごだん》をのぼって行った。ここが倉地の部屋《へや》だというその襖《ふすま》の前に立った時には、葉子は泣き声に気がついて驚いたほど、われ知らずすすり上げて泣いていた。身の破滅、恋の破滅は今夜の今、そう思って荒々しく襖《ふすま》を開いた。
 部屋の中には案外にも倉地はいなかった。すみからすみまで片づいていて、倉地のあの強烈な膚の香《にお》いもさらに残ってはいなかった。葉子は思わずふらふらとよろけて、泣きやんで、部屋の中に倒れこみながらあたりを見回した。いるに違いないとひとり決《ぎ》めをした自分の妄想《もうそう》が破れたという気は少しも起こらないで、確かにいたものが突然溶けてしまうかどうかしたような気味の悪い不思議さに襲われた。葉子はすっかり[#「すっかり」に傍点]気抜けがして、髪も衣紋《えもん》も取り乱したまま横ずわりにすわったきりでぼんやり[#「ぼんやり」に傍点]していた。
 あたりは深山のようにしーん[#「しーん」に傍点]としていた。ただ葉子の目の前をうるさく[#「うるさく」に傍点]行ったり来たりする黒い影のようなものがあった。葉子は何物という分別《ふんべつ》もなく始めはただうるさいとのみ思っていたが、しまいにはこらえかねて手をあげてしきりにそれを追い払ってみた。追い払っても追い払ってもそのうるさい黒い影は目の前を立ち去ろうとはしなかった。……しばらくそうしているうちに葉子は寒気《さむけ》がするほどぞっ[#「ぞっ」に傍点]とおそろしくなって気がはっきり[#「はっきり」に傍点]した。
 急に周囲《あたり》には騒がしい下宿屋らしい雑音が聞こえ出した。葉子をうるさがらしたその黒い影は見る見る小さく遠ざかって、電燈の周囲をきり[#「きり」に傍点]きりと舞い始めた。よく見るとそれは大きな黒い夜蛾《よが》だった。葉子は神がかりが離れたようにきょとん[#「きょとん」に傍点]となって、不思議そうに居ずまいを正《ただ》してみた。
 どこまでが真実で、どこまでが夢なんだろう……。
 自分の家を出た、それに間違いはない。途中から取って返して風呂《ふろ》をつかった、……なんのために? そんなばかな事をするはずがない。でも妹たちの手ぬぐいが二筋ぬれて手ぬぐいかけの竹竿《たけざお》にかかっていた、(葉子はそう思いながら自分の顔をなでたり、手の甲を調べて見たりした。そして確かに湯にはいった事を知った。)それならそれでいい。それから双鶴館の女将《おかみ》のあとをつけたのだったが、……あのへんから夢になったのかしらん。あすこにいる蛾《が》をもやもやした黒い影のように思ったりしていた事から考えてみると、いまいましさから自分は思わず背たけの低い女の幻影を見ていたのかもしれない。それにしてもいるはずの倉地がいないという法はないが……葉子はどうしても自分のして来た事にはっきり[#「はっきり」に傍点]連絡をつけて考える事ができなかった。
 葉子は……自分の頭ではどう考えてみようもなくなって、ベルを押して番頭に来てもらった。
 「あのう、あとでこの蛾《が》を追い出しておいてくださいな……それからね、さっき……といったところがどれほど前だかわたしにもはっきり[#「はっきり」に傍点]しませんがね、ここに三十格好の丸髷《まるまげ》を結った女の人が見えましたか」
 「こちら様にはどなたもお見えにはなりませんが……」
 番頭は怪訝《けげん》な顔をしてこう答えた。
 「こちら様だろうがなんだろうが、そんな事を聞くんじゃないの。この下宿屋からそんな女の人が出て行きましたか」
 「さよう……へ、一時間ばかり前ならお一人《ひとり》お帰りになりました」
 「双鶴館のお内儀《かみ》さんでしょう」
 図星《ずぼし》をさされたろうといわんばかりに葉子はわざと鷹揚《おうよう》な態度を見せてこう聞いてみた。
 「いゝえそうじゃございません」
 番頭は案外にもそうきっぱり[#「きっぱり」に傍点]といい切ってしまった。
 「それじゃだれ」
 「とにかく他のお部屋《へや》においでなさったお客様で、手前どもの商売上お名前までは申し上げ兼ねますが」
 葉子もこの上の問答の無益なのを知ってそのまま番頭を返してしまった。
 葉子はもう何者も信用する事ができなかった。ほんとうに双鶴館の女将《おかみ》が来たのではないらしくもあり、番頭までが倉地とぐる[#「ぐる」に傍点]になっていてしらじらしい虚言《うそ》をついたようにもあった。
 何事も当てにはならない。何事もうそ[#「うそ」に傍点]から出た誠だ。……葉子はほんとうに生きている事がいやになった。
 ……そこまで来て葉子は始めて自分が家を出て来たほんとうの目的がなんであるかに気づいた。すべてにつまずいて、すべてに見限られて、すべてを見限ろうとする、苦しみぬいた一つの魂が、虚無の世界の幻の中から消えて行くのだ。そこには何の未練も執着もない。うれしかった事も、悲しかった事も、悲しんだ事も、苦しんだ事も、畢竟《ひっきょう》は水の上に浮いた泡《あわ》がまたはじけて水に帰るようなものだ。倉地が、死骸《しがい》になった葉子を見て嘆こうが嘆くまいが、その倉地さえ幻の影ではないか。双鶴館の女将《おかみ》だと思った人が、他人であったように、他人だと思ったその人が、案外双鶴館の女将であるかもしれないように、生きるという事がそれ自身幻影でなくってなんであろう。葉子は覚《さ》めきったような、眠りほうけているような意識の中でこう思った。しんしんと底も知らず澄み透《とお》った心がただ一つぎり[#「ぎり」に傍点]ぎりと死のほうに働いて行った。葉子の目には一しずくの涙も宿ってはいなかった。妙にさえて落ち付き払ったひとみを静かに働かして、部屋の中を静かに見回していたが、やがて夢遊病者のように立ち上がって、戸棚《とだな》の中から倉地の寝具を引き出して来て、それを部屋のまん中に敷いた。そうしてしばらくの間その上に静かにすわって目をつぶってみた。それからまた立ち上がって全く無感情な顔つきをしながら、もう一度|戸棚《とだな》に行って、倉地が始終身近に備えているピストルをあちこち[#「あちこち」に傍点]と尋ね求めた。しまいにそれが本箱の引き出しの中の幾通かの手紙と、書きそこねの書類と、四五枚の写真とがごっちゃ[#「ごっちゃ」に傍点]にしまい込んであるその中から現われ出た。葉子は妙に無関心な心持ちでそれを手に取った。そして恐ろしいものを取り扱うようにそれをからだから離して右手にぶら下げて寝床に帰った。そのくせ葉子は露ほどもその凶器におそれをいだいているわけではなかった。寝床のまん中にすわってからピストルを膝《ひざ》の上に置いて手をかけたまましばらくながめていたが、やがてそれを取り上げると胸の所に持って来て鶏頭《けいとう》を引き上げた。
 きりっ[#「きりっ」に傍点]
 と歯切れのいい音を立てて弾筒が少し回転した。同時に葉子の全身は電気を感じたようにびりっ[#「びりっ」に傍点]とおののいた。しかし葉子の心は水が澄んだように揺《ゆる》がなかった。葉子はそうしたまま短銃をまた膝《ひざ》の上に置いてじっ[#「じっ」に傍点]とながめていた。
 ふと葉子はただ一つし残した事のあるのに気が付いた。それがなんであるかを自分でもはっきり[#「はっきり」に傍点]とは知らずに、いわば何物かの余儀ない命令に服従するように、また寝床から立ち上がって戸棚《とだな》の中の本箱の前に行って引き出しをあけた。そしてそこにあった写真を丁寧に一枚ずつ取り上げて静かにながめるのだった。葉子は心ひそかに何をしているんだろうと自分の動作《しうち》を怪しんでいた。
 葉子はやがて一人《ひとり》の女の写真を見つめている自分を見いだした。長く長く見つめていた。……そのうちに、白痴がどうかしてだんだん真《ま》人間にかえる時はそうもあろうかと思われるように、葉子の心は静かに静かに自分で働くようになって行った。女の写真を見てどうするのだろうと思った。早く死ななければいけないのだがと思った。いったいその女はだれだろうと思った。……それは倉地の妻の写真だった。そうだ倉地の妻の若い時の写真だ。なるほど美しい女だ。倉地は今でもこの女に未練を持っているだろうか。この妻には三人のかわいい娘があるのだ。「今でも時々思い出す」そう倉地のいった事がある。こんな写真がいったいこの部屋《へや》なんぞにあってはならないのだが。それはほんとうにならないのだ。倉地はまだこんなものを大事にしている。この女はいつまでも倉地に帰って来ようと待ち構えているのだ。そしてまだこの女は生きているのだ。それが幻なものか。生きているのだ、生きているのだ。……死なれるか、それで死なれるか。何が幻だ、何が虚無だ。このとおりこの女は生きているではないか……危うく……危うく自分は倉地を安堵《あんど》させる所だった。そしてこの女を……このまだ生《しょう》のあるこの女を喜ばせるところだった。
 葉子は一刹那《いっせつな》の違いで死の界《さかい》から救い出された人のように、驚喜に近い表情を顔いちめんにみなぎらして裂けるほど目を見張って、写真を持ったまま飛び上がらんばかりに突っ立ったが、急に襲いかかるやるせない嫉妬《しっと》の情と憤怒とにおそろしい形相《ぎょうそう》になって、歯がみをしながら、写真の一端をくわえて、「いゝ……」といいながら、総身《そうしん》の力をこめてまっ二つに裂くと、いきなり寝床の上にどう[#「どう」に傍点]と倒れて、物すごい叫び声を立てながら、涙も流さずに叫びに叫んだ。
 店のものがあわてて部屋にはいって来た時には、葉子はしおらしい様子をして、短銃を床の下に隠してしまって、しくしくとほんとうに泣いていた。
 番頭はやむを得ず、てれ隠しに、
 「夢でも御覧になりましたか、たいそうなお声だったものですから、つい御案内もいたさず飛び込んでしまいまして」
 といった。葉子は、
 「えゝ夢を見ました。あの黒い蛾《が》が悪いんです。早く追い出してください」
 そんなわけのわからない事をいって、ようやく涙を押しぬぐった。
 こういう発作《ほっさ》を繰り返すたびごとに、葉子の顔は暗くばかりなって行った。葉子には、今まで自分が考えていた生活のほかに、もう一つ不可思議な世界があるように思われて来た。そうしてややともすればその両方の世界に出たりはいったりする自分を見いだすのだった。二人《ふたり》の妹たちはただはらはらして姉の狂暴な振る舞いを見守るほかはなかった。倉地は愛子に刃物《はもの》などに注意しろといったりした。
 岡の来た時だけは、葉子のきげんは沈むような事はあっても狂暴になる事は絶えてなかったので、岡は妹たちの言葉にさして重きを置いていないように見えた。

    四〇

 六月のある夕方だった。もうたそがれ時で、電灯がともって、その周囲におびただしく杉森《すぎもり》の中から小さな羽虫《はむし》が集まってうるさく[#「うるさく」に傍点]飛び回り、やぶ蚊がすさまじく鳴きたてて軒先に蚊柱を立てているころだった。しばらく目で来た倉地が、張り出しの葉子の部屋《へや》で酒を飲んでいた。葉子はやせ細った肩を単衣物《ひとえもの》の下にとがらして、神経的に襟《えり》をぐっ[#「ぐっ」に傍点]とかき合わせて、きちん[#「きちん」に傍点]と膳《ぜん》のそばにすわって、華車《きゃしゃ》な団扇《うちわ》で酒の香《か》に寄りたかって来る蚊を追い払っていた。二人の間にはもう元のように滾々《こんこん》と泉のごとくわき出る話題はなかった。たまに話が少しはずんだと思うと、どちらかに差しさわるような言葉が飛び出して、ぷつん[#「ぷつん」に傍点]と会話を杜絶《とだ》やしてしまった。
 「貞《さあ》ちゃんやっぱり駄々《だだ》をこねるか」
 一口酒を飲んで、ため息をつくように庭のほうに向いて気を吐いた倉地は、自分で気分を引き立てながら思い出したように葉子のほうを向いてこう尋ねた。
 「えゝ、しようがなくなっちまいました。この四五日ったらことさらひどいんですから」
 「そうした時期もあるんだろう。まあたんといびらないで置くがいいよ」
 「わたし時々ほんとうに死にたくなっちまいます」
 葉子は途轍《とてつ》もなく貞世のうわさとは縁もゆかりもないこんなひょん[#「ひょん」に傍点]な事をいった。
 「そうだおれもそう思う事があるて……。落ち目になったら最後、人間は浮き上がるがめんどうになる。船でもが浸水し始めたら埒《らち》はあかんからな。……したが、おれはまだもう一反《ひとそ》り反《そ》ってみてくれる。死んだ気になって、やれん事は一つもないからな」
 「ほんとうですわ」
 そういった葉子の目はいらいらと輝いて、にらむように倉地を見た。
 「正井のやつが来るそうじゃないか」
 倉地はまた話題を転ずるようにこういった。葉子がそうだとさえいえば、倉地は割合に平気で受けて「困ったやつに見込まれたものだが、見込まれた以上はしかたがないから、空腹《ひもじ》がらないだけの仕向けをしてやるがいい」というに違いない事は、葉子によくわかってはいたけれども、今まで秘密にしていた事をなんとかいわれやしないかとの気づかいのためか、それとも倉地が秘密を持つのならこっちも秘密を持って見せるぞという腹になりたいためか、自分にもはっきり[#「はっきり」に傍点]とはわからない衝動に駆られて、何という事なしに、
 「いゝえ」
 と答えてしまった。
 「来《こ》ない?……そりゃお前いいかげんじゃろう」
 と倉地はたしなめるような調子になった。
 「いゝえ」
 葉子は頑固《がんこ》にいい張ってそっぽ[#「そっぽ」に傍点]を向いてしまった。
 「おいその団扇《うちわ》を貸してくれ、あおがずにいては蚊でたまらん……来ない事があるものか」
 「だれからそんなばかな事お聞きになって?」
 「だれからでもいいわさ」
 葉子は倉地がまた歯に衣《きぬ》着せた物の言いかたをすると思うとかっ[#「かっ」に傍点]と腹が立って返辞もしなかった。
 「葉ちゃん。おれは女のきげんを取るために生まれて来はせんぞ。いいかげんをいって甘く見くびるとよくはないぜ」
 葉子はそれでも返事をしなかった。倉地は葉子の拗《す》ねかたに不快を催したらしかった。
 「おい葉子! 正井は来《く》るのか来《こ》んのか」
 正井の来る来ないは大事ではないが、葉子の虚言を訂正させずには置かないというように、倉地は詰め寄せてきびしく問い迫った。葉子は庭のほうにやっていた目を返して不思議そうに倉地を見た。
 「いゝえといったらいゝえとよりいいようはありませんわ。あなたの『いゝえ』とわたしの『いゝえ』は『いゝえ』が違いでもしますかしら」
 「酒も何も飲めるか……おれが暇を無理に作ってゆっくり[#「ゆっくり」に傍点]くつろごうと思うて来れば、いらん事に角《かど》を立てて……何の薬になるかいそれが」
 葉子はもう胸いっぱい悲しくなっていた。ほんとうは倉地の前に突っ伏して、自分は病気で始終からだが自由にならないのが倉地に気の毒だ。けれどもどうか捨てないで愛し続けてくれ。からだがだめになっても心の続く限りは自分は倉地の情人でいたい。そうよりできない。そこをあわれんでせめては心の誠をささげさしてくれ。もし倉地が明々地《あからさま》にいってくれさえすれば、元の細君《さいくん》を呼び迎えてくれても構わない。そしてせめては自分をあわれんでなり愛してくれ。そう嘆願がしたかったのだ。倉地はそれに感激してくれるかもしれない。おれはお前も愛するが去った妻も捨てるには忍びない。よくいってくれた。それならお前の言葉に甘えて哀れな妻を呼び迎えよう。妻もさぞお前の黄金のような心には感ずるだろう。おれは妻とは家庭を持とう。しかしお前とは恋を持とう。そういって涙ぐんでくれるかもしれない。もしそんな場面が起こり得たら葉子はどれほどうれしいだろう。葉子はその瞬間に、生まれ代わって、正しい生活が開けてくるのにと思った。それを考えただけで胸の中からは美しい涙がにじみ出すのだった。けれども、そんなばかをいうものではない、おれの愛しているのはお前|一人《ひとり》だ。元の妻などにおれが未練を持っていると思うのが間違いだ。病気があるのならさっそく病院にはいるがいい、費用はいくらでも出してやるから。こう倉地がいわないとも限らない。それはありそうな事だ。その時葉子は自分の心を立ち割って誠を見せた言葉が、情けも容赦も思いやりもなく、踏みにじられけがされてしまうのを見なければならないのだ。それは地獄《じごく》の苛責《かしゃく》よりも葉子には堪《た》えがたい事だ。たとい倉地が前の態度に出てくれる可能性が九十九あって、あとの態度を採りそうな可能性が一つしかないとしても、葉子には思いきって嘆願をしてみる勇気が出ないのだ。倉地も倉地で同じような事を思って苦しんでいるらしい。なんとかして元のようなかけ隔てのない葉子を見いだして、だんだんと陥って行く生活の窮境の中にも、せめてはしばらくなりとも人間らしい心になりたいと思って、葉子に近づいて来ているのだ。それをどこまでも知り抜きながら、そして身につまされて深い同情を感じながら、どうしても面と向かうと殺したいほど憎まないではいられない葉子の心は自分ながら悲しかった。
 葉子は倉地の最後の一言《ひとこと》でその急所に触れられたのだった。葉子は倉地の目の前で見る見るしおれてしまった。泣くまいと気張《きば》りながら幾度も雄々《おお》しく涙を飲んだ。倉地は明らかに葉子の心を感じたらしく見えた。
 「葉子! お前はなんでこのごろそう他所他所《よそよそ》しくしていなければならんのだ。え?」
 といいながら葉子の手を取ろうとした。その瞬間に葉子の心は火のように怒《おこ》っていた。
 「他所他所《よそよそ》しいのはあなたじゃありませんか」
 そう知らず知らずいってしまって、葉子は没義道《もぎどう》に手を引っ込めた。倉地をにらみつける目からは熱い大粒の涙がぼろぼろとこぼれた。そして、
 「あゝ……あ、地獄だ地獄だ」
 と心の中で絶望的に切《せつ》なく叫んだ。
 二人《ふたり》の間にはまたもやいまわしい沈黙が繰り返された。
 その時玄関に案内の声が聞こえた。葉子はその声を聞いて古藤《ことう》が来たのを知った。そして大急ぎで涙を押しぬぐった。二階から降りて来て取り次ぎに立った愛子がやがて六畳の間《ま》にはいって来て、古藤が来たと告げた。
 「二階にお通ししてお茶でも上げてお置き、なんだって今ごろ……御飯|時《どき》も構わないで……」
 とめんどうくさそうにいったが、あれ以来来た事のない古藤にあうのは、今のこの苦しい圧迫からのがれるだけでも都合がよかった。このまま続いたらまた例の発作で倉地に愛想《あいそ》を尽かさせるような事をしでかすにきまっていたから。
 「わたしちょっと会ってみますからね、あなた構わないでいらっしゃい。木村の事も探っておきたいから」
 そういって葉子はその座をはずした。倉地は返事一つせずに杯を取り上げていた。
 二階に行って見ると、古藤は例の軍服に上等兵の肩章を付けて、あぐらをかきながら貞世と何か話をしていた。葉子は今まで泣き苦しんでいたとは思えぬほど美しいきげんになっていた。簡単な挨拶《あいさつ》を済ますと古藤は例のいうべき事から先にいい始めた。
 「ごめんどうですがね、あす定期検閲な所が今度は室内の整頓《せいとん》なんです。ところが僕《ぼく》は整頓風呂敷《せいとんぶろしき》を洗濯《せんたく》しておくのをすっかり[#「すっかり」に傍点]忘れてしまってね。今特別に外出を伍長《ごちょう》にそっ[#「そっ」に傍点]と頼んで許してもらって、これだけ布を買って来たんですが、縁《ふち》を縫ってくれる人がないんで弱って駆けつけたんです。大急ぎでやっていただけないでしょうか」
 「おやすい御用ですともね。愛さん!」
 大きく呼ぶと階下にいた愛子が平生《へいぜい》に似合わず、あたふた[#「あたふた」に傍点]と階子段《はしごだん》をのぼって来た。葉子はふとまた倉地を念頭に浮かべていやな気持ちになった。しかしそのころ貞世から愛子に愛が移ったかと思われるほど葉子は愛子を大事に取り扱っていた。それは前にも書いたとおり、しいても他人に対する愛情を殺す事によって、倉地との愛がより緊《かた》く結ばれるという迷信のような心の働きから起こった事だった。愛しても愛し足りないような貞世につらく当たって、どうしても気の合わない愛子を虫を殺して大事にしてみたら、あるいは倉地の心が変わって来るかもしれないとそう葉子は何がなしに思うのだった。で、倉地と愛子との間にどんな奇怪な徴候を見つけ出そうとも、念にかけても葉子は愛子を責めまいと覚悟をしていた。
 「愛さん古藤さんがね、大急ぎでこの縁《ふち》を縫ってもらいたいとおっしゃるんだから、あなたして上げてちょうだいな。古藤さん、今下には倉地さんが来ていらっしゃるんですが、あなたはおきらいねおあいなさるのは……そう、じゃこちらでお話でもしますからどうぞ」
 そういって古藤を妹たちの部屋《へや》の隣に案内した。古藤は時計を見い見いせわしそうにしていた。
 「木村からたよりがありますか」
 木村は葉子の良人《おっと》ではなく自分の親友だといったようなふうで、古藤はもう木村君とはいわなかった。葉子はこの前古藤が来た時からそれと気づいていたが、きょうはことさらその心持ちが目立って聞こえた。葉子はたびたび来ると答えた。
 「困っているようですね」
 「えゝ、少しはね」
 「少しどころじゃないようですよ僕《ぼく》の所に来る手紙によると。なんでも来年に開かれるはずだった博覧会が来々年《さらいねん》に延びたので、木村はまたこの前以上の窮境に陥ったらしいのです。若いうちだからいいようなもののあんな不運な男もすくない。金も送っては来ないでしょう」
 なんというぶしつけ[#「ぶしつけ」に傍点]な事をいう男だろうと葉子は思ったが、あまりいう事にわだかまり[#「わだかまり」に傍点]がないので皮肉でもいってやる気にはなれなかった。
 「いゝえ相変わらず送ってくれますことよ」
 「木村っていうのはそうした男なんだ」
 古藤は半ばは自分にいうように感激した調子でこういったが、平気で仕送りを受けているらしく物をいう葉子にはひどく反感を催したらしく、
 「木村からの送金を受け取った時、その金があなたの手を焼きただらかすようには思いませんか」
 と激しく葉子をまとも[#「まとも」に傍点]に見つめながらいった。そして油でよごれたような赤い手で、せわしなく胸の真鍮《しんちゅう》ぼたんをはめたりはずしたりした。
 「なぜですの」
 「木村は困りきってるんですよ。……ほんとうにあなた考えてごらんなさい……」
 勢い込んでなおいい募ろうとした古藤は、襖《ふすま》を明け開いたままの隣の部屋に愛子たちがいるのに気づいたらしく、
 「あなたはこの前お目にかかった時からすると、またひどくやせましたねえ」
 と言葉をそらした。
 「愛さんもうできて?」
 と葉子も調子をかえて愛子に遠くからこう尋ね「いゝえまだ少し」と愛子がいうのをしお[#「しお」に傍点]に葉子はそちらに立った。貞世はひどくつまらなそうな顔をして、机に両|肘《ひじ》を持たせたまま、ぼんやり[#「ぼんやり」に傍点]と庭のほうを見やって、三人の挙動などには目もくれないふうだった。垣根添《かきねぞ》いの木の間からは、種々な色の薔薇《ばら》の花が夕闇《ゆうやみ》の中にもちらほら[#「ちらほら」に傍点]と見えていた。葉子はこのごろの貞世はほんとうに変だと思いながら、愛子の縫いかけの布を取り上げて見た。それはまだ半分も縫い上げられてはいなかった。葉子の疳癪《かんしゃく》はぎり[#「ぎり」に傍点]ぎり募って来たけれども、しいて心を押ししずめながら、
 「これっぽっち[#「これっぽっち」に傍点]……愛子さんどうしたというんだろう。どれねえさんにお貸し、そしてあなたは……貞《さあ》ちゃんも古藤さんの所に行ってお相手をしておいで……」
 「僕《ぼく》は倉地さんにあって来ます」
 突然後ろ向きの古藤は畳に片手をついて肩越しに向き返りながらこういった。そして葉子が返事をする暇もなく立ち上がって階子段《はしごだん》を降りて行こうとした。葉子はすばやく[#「すばやく」に傍点]愛子に目くばせして、下に案内して二人《ふたり》の用を足してやるようにといった。愛子は急いで立って行った。
 葉子は縫い物をしながら多少の不安を感じた。あのなんの技巧もない古藤と、疳癖《かんぺき》が募り出して自分ながら始末をしあぐねているような倉地とがまとも[#「まとも」に傍点]にぶつかり合ったら、どんな事をしでかすかもしれない。木村を手の中に丸めておく事もきょう二人の会見の結果でだめになるかもわからないと思った。しかし木村といえば、古藤のいう事などを聞いていると葉子もさすがにその心根《こころね》を思いやらずにはいられなかった。葉子がこのごろ倉地に対して持っているような気持ちからは、木村の立場や心持ちがあからさま[#「あからさま」に傍点]過ぎるくらい想像ができた。木村は恋するものの本能からとうに倉地と葉子との関係は了解しているに違いないのだ。了解して一人《ひとり》ぽっちで苦しめるだけ苦しんでいるに違いないのだ。それにも係わらずその善良な心からどこまでも葉子の言葉に信用を置いて、いつかは自分の誠意が葉子の心に徹するのを、ありうべき事のように思って、苦しい一日一日を暮らしているに違いない。そしてまた落ち込もうとする窮境の中から血の出るような金を欠かさずに送ってよこす。それを思うと、古藤がいうようにその金が葉子の手を焼かないのは不思議といっていいほどだった。もっとも葉子であってみれば、木村に醜いエゴイズムを見いださないほどのんきではなかった。木村がどこまでも葉子の言葉を信用してかかっている点にも、血の出るような金を送ってよこす点にも、葉子が倉地に対して持っているよりはもっと[#「もっと」に傍点]冷静な功利的な打算が行なわれていると決める事ができるほど木村の心の裏を察していないではなかった。葉子の倉地に対する心持ちから考えると木村の葉子に対する心持ちにはまだすきがあると葉子は思った。葉子がもし木村であったら、どうしておめおめ米国|三界《さんがい》にい続けて、遠くから葉子の心を翻す手段を講ずるようなのんきなまねがして済ましていられよう。葉子が木村の立場にいたら、事業を捨てても、乞食《こじき》になっても、すぐ米国から帰って来ないじゃいられないはずだ。米国から葉子と一緒に日本に引き返した岡の心のほうがどれだけ素直《すなお》で誠しやかだかしれやしない。そこには生活という問題もある。事業という事もある。岡は生活に対して懸念《けねん》などする必要はないし、事業というようなものはてんで[#「てんで」に傍点]持ってはいない。木村とはなんといっても立場が違ってはいる。といったところで、木村の持つ生活問題なり事業なりが、葉子と一緒になってから後の事を顧慮してされている事だとしてみても、そんな気持ちでいる木村には、なんといっても余裕があり過ぎると思わないではいられない物足りなさがあった。よし真裸《まっぱだか》になるほど、職業から放れて無一|文《もん》になっていてもいい、葉子の乗って帰って来た船に木村も乗って一緒に帰って来たら、葉子はあるいは木村を船の中で人知れず殺して海の中に投げ込んでいようとも、木村の記憶は哀《かな》しくなつかしいものとして死ぬまで葉子の胸に刻みつけられていたろうものを。……それはそうに相違ない。それにしても木村は気の毒な男だ。自分の愛しようとする人が他人に心をひかれている……それを発見する事だけで悲惨は充分だ。葉子はほんとうは、倉地は葉子以外の人に心をひかれているとは思ってはいないのだ。ただ少し葉子から離れて来たらしいと疑い始めただけだ。それだけでも葉子はすでに熱鉄をのまされたような焦躁と嫉妬《しっと》とを感ずるのだから、木村の立場はさぞ苦しいだろう。……そう推察すると葉子は自分のあまりといえばあまりに残虐な心に胸の中がちく[#「ちく」に傍点]ちくと刺されるようになった。「金が手を焼くように思いはしませんか」との古藤のいった言葉が妙に耳に残った。
 そう思い思い布の一方を手早く縫い終わって、縫い目を器用にしごきながら目をあげると、そこには貞世がさっきのまま机に両|肘《ひじ》をついて、たかって来る蚊も追わずにぼんやり[#「ぼんやり」に傍点]と庭の向こうを見続けていた。切り下げにした厚い黒漆《こくしつ》の髪《かみ》の毛の下にのぞき出した耳たぶは霜焼けでもしたように赤くなって、それを見ただけでも、貞世は何か興奮して向こうを向きながら泣いているに違いなく思われた。覚えがないではない。葉子も貞世ほどの齢《とし》の時には何か知らず急に世の中が悲しく見える事があった。何事もただ明るく快く頼もしくのみ見えるその底からふっ[#「ふっ」に傍点]と悲しいものが胸をえぐってわき出る事があった。取り分けて快活ではあったが、葉子は幼い時から妙な事に臆病《おくびょう》がる子だった。ある時家族じゅうで北国のさびしい田舎《いなか》のほうに避暑に出かけた事があったが、ある晩がらん[#「がらん」に傍点]と客の空《す》いた大きな旅籠屋《はたごや》に宿《とま》った時、枕《まくら》を並べて寝た人たちの中で葉子は床の間に近いいちばん端《はし》に寝かされたが、どうしたかげんでか気味が悪くてたまらなくなり出した。暗い床の間の軸物の中からか、置き物の陰からか、得体《えたい》のわからないものが現われ出て来そうなような気がして、そう思い出すとぞく[#「ぞく」に傍点]ぞくと総身に震えが来て、とても頭を枕につけてはいられなかった。で、眠りかかった父や母にせがんで、その二人《ふたり》の中に割りこましてもらおうと思ったけれども、父や母もそんなに大きくなって何をばかをいうのだといって少しも葉子のいう事を取り上げてはくれなかった。葉子はしばらく両親と争っているうちにいつのまにか寝入ったと見えて、翌日目をさまして見ると、やはり自分が気味の悪いと思った所に寝ていた自分を見いだした。その夕方、同じ旅籠屋《はたごや》の二階の手摺《てすり》から少し荒れたような庭を何の気なしにじっ[#「じっ」に傍点]と見入っていると、急に昨夜の事を思い出して葉子は悲しくなり出した。父にも母にも世の中のすべてのものにも自分はどうかして見放されてしまったのだ。親切らしくいってくれる人はみんな自分に虚事《うそ》をしているのだ。いいかげんの所で自分はどん[#「どん」に傍点]とみんなから突き放されるような悲しい事になる[#底本では「悲しい事にある」]に違いない。どうしてそれを今まで気づかずにいたのだろう。そうなった暁《あかつき》に一人《ひとり》でこの庭をこうして見守ったらどんなに悲しいだろう。小さいながらにそんな事を一人で思いふけっているともうとめどなく悲しくなって来て父がなんといっても母がなんといっても、自分の心を自分の涙にひたしきって泣いた事を覚えている。
 葉子は貞世の後ろ婆を見るにつけてふと[#「ふと」に傍点]その時の自分を思い出した。妙な心の働きから、その時の葉子が貞世になってそこに幻のように現われたのではないかとさえ疑った。これは葉子には始終ある癖だった。始めて起こった事が、どうしてもいつかの過去にそのまま起こった事のように思われてならない事がよくあった。貞世の姿は貞世ではなかった。苔香園《たいこうえん》は苔香園ではなかった。美人屋敷は美人屋敷ではなかった。周囲だけが妙にもやもやして心《しん》のほうだけが澄みきった水のようにはっきり[#「はっきり」に傍点]したその頭の中には、貞世のとも、幼い時の自分のとも区別のつかないはかなさ悲しさがこみ上げるようにわいていた。葉子はしばらくは針の運びも忘れてしまって、電灯の光を背に負って夕闇《ゆうやみ》に埋もれて行く木立ちにながめ入った貞世の姿を、恐ろしさを感ずるまでになりながら見続けた。
 「貞《さあ》ちゃん」
 とうとう黙っているのが無気味《ぶきみ》になって葉子は沈黙を破りたいばかりにこう呼んでみた。貞世は返事一つしなかった。……葉子はぞっ[#「ぞっ」に傍点]とした。貞世はああしたままで通り魔にでも魅いられて死んでいるのではないか。それとももう一度名前を呼んだら、線香の上にたまった灰が少しの風でくずれ落ちるように、声の響きでほろほろとかき消すようにあのいたいけな姿はなくなってしまうのではないだろうか。そしてそのあとには夕闇に包まれた苔香園の木立ちと、二階の縁側と、小さな机だけが残るのではないだろうか。……ふだんの葉子ならばなんというばかだろうと思うような事をおどおどしながらまじめに考えていた。
 その時階下で倉地のひどく激昂《げきこう》した声が聞こえた。葉子ははっ[#「はっ」に傍点]として長い悪夢からでもさめたようにわれに帰った。そこにいるのは姿は元のままだが、やはりまごうかたなき貞世だった。葉子はあわてていつのまにか膝《ひざ》からずり落としてあった白布を取り上げて、階下のほうにきっ[#「きっ」に傍点]と聞き耳を立てた。事態はだいぶ大事らしかった。
 「貞《さあ》ちゃん。……貞ちゃん……」
 葉子はそういいながら立ち上がって行って、貞世を後ろから羽《は》がいに抱きしめてやろうとした。しかしその瞬間に自分の胸の中に自然に出来上がらしていた結願《けちがん》を思い出して、心を鬼にしながら、
 「貞《さあ》ちゃんといったらお返事をなさいな。なんの事です拗《す》ねたまね[#「まね」に傍点]をして。台所に行ってあとのすすぎ返しでもしておいで、勉強もしないでぼんやり[#「ぼんやり」に傍点]していると毒ですよ」
 「だっておねえ様わたし苦しいんですもの」
 「うそをお言い。このごろはあなたほんとうにいけなくなった事。わがままばかししているとねえさんはききませんよ」
 貞世はさびしそうな恨めしそうな顔をまっ赤《か》にして葉子のほうを振り向いた。それを見ただけで葉子はすっかり[#「すっかり」に傍点]打ちくだかれていた。水落《みぞおち》のあたりをすっ[#「すっ」に傍点]と氷の棒でも通るような心持ちがすると、喉《のど》の所はもう泣きかけていた。なんという心に自分はなってしまったのだろう……葉子はその上その場にはいたたまれないで、急いで階下のほうへ降りて行った。
 倉地の声にまじって古藤の声も激して聞こえた。

    四一

 階子段《はしごだん》の上がり口には愛子が姉を呼びに行こうか行くまいかと思案するらしく立っていた。そこを通り抜けて自分の部屋《へや》に来て見ると、胸毛《むなげ》をあらわ[#「あらわ」に傍点]に襟《えり》をひろげて、セルの両|袖《そで》を高々とまくり上げた倉地が、あぐらをかいたまま、電灯の灯《ひ》の下に熟柿《じゅくし》のように赤くなってこっち[#「こっち」に傍点]を向いて威丈高《いたけだか》になっていた。古藤《ことう》は軍服の膝《ひざ》をきちん[#「きちん」に傍点]と折ってまっすぐに固くすわって、葉子には後ろを向けていた。それを見るともう葉子の神経はびり[#「びり」に傍点]びりと逆立《さかだ》って自分ながらどうしようもないほど荒れすさんで来ていた。「何もかもいやだ、どうでも勝手になるがいい。」するとすぐ頭が重くかぶさって来て、腹部の鈍痛が鉛の大きな球《たま》のように腰をしいたげた。それは二重に葉子をいらいらさせた。
 「あなた方《がた》はいったい何をそんなにいい合っていらっしゃるの」
 もうそこには葉子はタクトを用いる余裕さえ持っていなかった。始終腹の底に冷静さを失わないで、あらん限りの表情を勝手に操縦してどんな難関でも、葉子に特有なしかたで切り開いて行くそんな余裕はその場にはとても出て来なかった。
 「何をといってこの古藤という青年はあまり礼儀をわきまえんからよ。木村さんの親友親友と二言《ふたこと》目には鼻にかけたような事をいわるるが、わしもわしで木村さんから頼まれとるんだから、一人《ひとり》よがりの事はいうてもらわんでもがいいのだ。それをつべこべ[#「つべこべ」に傍点]ろくろくあなたの世話も見ずにおきながら、いい立てなさるので、筋が違っていようといって聞かせて上げたところだ。古藤さん、あなた失礼だがいったいいくつです」
 葉子にいって聞かせるでもなくそういって、倉地はまた古藤のほうに向き直った。古藤はこの侮辱に対して口答えの言葉も出ないように激昂《げきこう》して黙っていた。
 「答えるが恥ずかしければしいても聞くまい。が、いずれ二十《はたち》は過ぎていられるのだろう。二十過ぎた男があなたのように礼儀をわきまえずに他人《ひと》の生活の内輪にまで立ち入って物をいうはばかの証拠ですよ。男が物をいうなら考えてからいうがいい」
 そういって倉地は言葉の激昂《げきこう》している割合に、また見かけのいかにも威丈高《いたけだか》な割合に、充分の余裕を見せて、空うそぶくように打ち水をした庭のほうを見ながら団扇《うちわ》をつかった。
 古藤はしばらく黙っていてから後ろを振り仰いで葉子を見やりつつ、
 「葉子さん……まあ、す、すわってください」
 と少しどもるようにしいて穏やかにいった。葉子はその時始めて、われにもなくそれまでそこに突っ立ったままぼんやり[#「ぼんやり」に傍点]していたのを知って、自分にかつてないようなとんきょ[#「とんきょ」に傍点]な事をしていたのに気が付いた。そして自分ながらこのごろはほんとうに変だと思いながら二人《ふたり》の間に、できるだけ気を落ち着けて座についた。古藤の顔を見るとやや青ざめて、こめかみの所に太い筋を立てていた。葉子はその時分になって始めて少しずつ自分を回復していた。
 「古藤さん、倉地さんは少しお酒を召し上がった所だからこんな時むずかしいお話をなさるのはよくありませんでしたわ。なんですか知りませんけれども今夜はもうそのお話はきれいにやめましょう。いかが?……またゆっくりね……あ、愛さん、あなたお二階に行って縫いかけを大急ぎで仕上げて置いてちょうだい、ねえさんがあらかた[#「あらかた」に傍点]してしまってあるけれども……」
 そういって先刻から逐一|二人《ふたり》の争論をきいていたらしい愛子を階上に追い上げた。しばらくして古藤はようやく落ち着いて自分の言葉を見いだしたように、
 「倉地さんに物をいったのは僕《ぼく》が間違っていたかもしれません。じゃ倉地さんを前に置いてあなたにいわしてください。お世辞でもなんでもなく、僕は始めからあなたには倉地さんなんかにはない誠実な所が、どこかに隠れているように思っていたんです。僕のいう事をその誠実な所で判断してください」
 「まあきょうはもういいじゃありませんか、ね。わたし、あなたのおっしゃろうとする事はよっくわかっていますわ。わたし決して仇《あだ》やおろそかには思っていませんほんとうに。わたしだって考えてはいますわ。そのうちとっくり[#「とっくり」に傍点]わたしのほうから伺っていただきたいと思っていたくらいですからそれまで……」
 「きょう聞いてください。軍隊生活をしていると三人でこうしてお話しする機会はそうありそうにはありません。もう帰営の時間が逼《せま》っていますから、長くお話はできないけれども……それだから我慢して聞いてください」
 それならなんでも勝手にいってみるがいい、仕儀によっては黙ってはいないからという腹を、かすかに皮肉に開いた口びるに見せて葉子は古藤に耳をかす態度を見せた。倉地は知らんふりをして庭のほうを見続けていた。古藤は倉地を全く度外視したように葉子のほうに向き直って、葉子の目に自分の目を定めた。卒直な明らさまなその目にはその場合にすら子供じみた羞恥《しゅうち》の色をたたえていた。例のごとく古藤は胸の金《きん》ぼたんをはめたりはずしたりしながら、
 「僕は今まで自分の因循からあなたに対しても木村に対してもほんとうに友情らしい友情を現わさなかったのを恥ずかしく思います。僕はとうにもっとどうかしなければいけなかったんですけれども……木村、木村って木村の事ばかりいうようですけれども、木村の事をいうのはあなたの事をいうのも同じだと僕は思うんですが、あなたは今でも木村と結婚する気が確かにあるんですかないんですか、倉地さんの前でそれをはっきり[#「はっきり」に傍点]僕に聞かせてください。何事もそこから出発して行かなければこの話は畢寛《ひっきょう》まわりばかり回る事になりますから。僕はあなたが木村と結婚する気はないといわれても決してそれをどうというんじゃありません。木村は気の毒です。あの男は表面はあんなに楽天的に見えていて、意志が強《つよ》そうだけれども、ずいぶん涙っぽいほうだから、その失望は思いやられます。けれどもそれだってしかたがない。第一始めから無理だったから……あなたのお話のようなら……。しかし事情が事情だったとはいえ、あなたはなぜいやならいやと……そんな過去をいったところが始まらないからやめましょう。……葉子さん、あなたはほんとうに自分を考えてみて、どこか間違っていると思った事はありませんか。誤解しては困りますよ、僕はあなたが間違っているというつもりじゃないんですから。他人の事を他人が判断する事なんかはできない事だけれども、僕はあなたがどこか不自然に見えていけないんです。よく世の中では人生の事はそう単純に行くもんじゃないといいますが、そうしてあなたの生活なんぞを見ていると、それはごく外面的に見ているからそう見えるのかもしれないけれども、実際ずいぶん複雑らしく思われますが、そうあるべき事なんでしょうか。もっともっと clear に sun-clear に自分の力だけの事、徳だけの事をして暮らせそうなものだと僕《ぼく》自身は思うんですがね……僕にもそうでなくなる時代が来るかもしらないけれども、今の僕としてはそうより考えられないんです。一時は混雑も来《き》、不和も来、けんかも来《く》るかは知れないが、結局はそうするよりしかたがないと思いますよ。あなたの事についても僕は前からそういうふうにはっきり[#「はっきり」に傍点]片づけてしまいたいと思っていたんですけれど、姑息《こそく》な心からそれまでに行かずともいい結果が生まれて来はしないかと思ったりしてきょうまでどっち[#「どっち」に傍点]つかずで過ごして来たんです。しかしもうこの以上僕には我慢ができなくなりました。
 倉地さんとあなたと結婚なさるならなさるで木村もあきらめるよりほかに道はありません。木村に取っては苦しい事だろうが、僕から考えるとどっち[#「どっち」に傍点]つかずで煩悶《はんもん》しているのよりどれだけいいかわかりません。だから倉地さんに意向を伺おうとすれば、倉地さんは頭から僕をばかにして話を真身《しんみ》に受けてはくださらないんです」
 「ばかにされるほうが悪いのよ」
 倉地は庭のほうから顔を返して、「どこまでばかに出来上がった男だろう」というように苦笑《にがわら》いをしながら古藤を見やって、また知らぬ顔に庭のほうを向いてしまった。
 「そりゃそうだ。ばかにされる僕はばかだろう。しかしあなたには……あなたには僕らが持ってる良心というものがないんだ。それだけはばかでも僕にはわかる。あなたがばかといわれるのと、僕が自分をばかと思っているそれとは、意味が違いますよ」
 「そのとおり、あなたはばかだと思いながら、どこか心のすみで『何ばかなものか』と思いよるし、わたしはあなたを嘘本《うそほん》なしにばかというだけの相違があるよ」
 「あなたは気の毒な人です」
 古藤の目には怒りというよりも、ある激しい感情の涙が薄く宿っていた。古藤の心の中のいちばん奥深い所が汚《けが》されないままで、ふと目からのぞき出したかと思われるほど、その涙をためた目は一種の力と清さとを持っていた。さすがの倉地もその一言《ひとこと》には言葉を返す事なく、不思議そうに古藤の顔を見た。葉子も思わず一種改まった気分になった。そこにはこれまで見慣れていた古藤はいなくなって、その代わりにごまかしのきかない強い力を持った一人《ひとり》の純潔な青年がひょっこり[#「ひょっこり」に傍点]現われ出たように見えた。何をいうか、またいつものようなありきたりの道徳論を振り回すと思いながら、一種の軽侮をもって黙って聞いていた葉子は、この一言で、いわば古藤を壁ぎわに思い存分押し付けていた倉地が手もなくはじき返されたのを見た。言葉の上や仕打ちの上やでいかに高圧的に出てみても、どうする事もできないような真実さが古藤からあふれ出ていた。それに歯向かうには真実で歯向かうほかはない。倉地はそれを持ち合わしているかどうか葉子には想像がつかなかった。その場合倉地はしばらく古藤の顔を不思議そうに見やった後、平気な顔をして膳《ぜん》から杯を取り上げて、飲み残して冷えた酒をてれかくし[#「てれかくし」に傍点]のようにあおりつけた。葉子はこの時古藤とこんな調子で向かい合っているのが恐ろしくってならなくなった。古藤の目の前でひょっ[#「ひょっ」に傍点]とすると今まで築いて来た生活がくずれてしまいそうな危惧《きぐ》をさえ感じた。で、そのまま黙って倉地のまねをするようだが、平気を装いつつ煙管《きせる》を取り上げた。その場の仕打ちとしては拙《つたな》いやりかたであるのを歯がゆくは思いながら。
 古藤はしばらく言葉を途切らしていたが、また改まって葉子のほうに話しかけた。
 「そう改まらないでください。その代わり思っただけの事をいいかげんにしておかずに話し合わせてみてください。いいですか。あなたと倉地さんとのこれまでの生活は、僕《ぼく》みたいな無経験なものにも、疑問として片づけておく事のできないような事実を感じさせるんです。それに対するあなたの弁解は詭弁《きべん》とより僕には響かなくなりました。僕の鈍い直覚ですらがそう考えるのです。だからこの際あなたと倉地さんとの関係を明らかにして、あなたから木村に偽りのない告白をしていただきたいんです。木村が一人《ひとり》で生活に苦しみながらたとえようのない疑惑の中にもがいているのを少しでも想像してみたら……今のあなたにはそれを要求するのは無理かもしれないけれども……。第一こんな不安定な状態からあなたは愛子さんや貞世さんを救う義務があると思いますよ僕は。あなただけに限られずに、四方八方の人の心に響くというのは恐ろしい事だとはほんとうにあなたには思えませんかねえ。僕にはそばで見ているだけでも恐ろしいがなあ。人にはいつか総勘定をしなければならない時が来るんだ。いくら借りになっていてもびく[#「びく」に傍点]ともしないという自信もなくって、ずるずるべったりに無反省に借りばかり作っているのは考えてみると不安じゃないでしょうか。葉子さん、あなたには美しい誠実があるんだ。僕はそれを知っています。木村にだけはどうしたわけか別だけれども、あなたはびた[#「びた」に傍点]一|文《もん》でも借りをしていると思うと寝心地《ねごこち》が悪いというような気象を持っているじゃありませんか。それに心の借金ならいくら借金をしていても平気でいられるわけはないと思いますよ。なぜあなたは好んでそれを踏みにじろうとばかりしているんです。そんな情けない事ばかりしていてはだめじゃありませんか。……僕ははっきり[#「はっきり」に傍点]思うとおりをいい現わし得ないけれども……いおうとしている事はわかってくださるでしょう」
 古藤は思い入ったふうで、油でよごれた手を幾度もまっ黒に日に焼けた目がしらの所に持って行った。蚊がぶんぶんと攻めかけて来るのも忘れたようだった。葉子は古藤の言葉をもうそれ以上は聞いていられなかった。せっかくそっ[#「そっ」に傍点]として置いた心のよどみがかきまわされて、見まいとしていたきたないものがぬら[#「ぬら」に傍点]ぬらと目の前に浮き出て来るようでもあった。塗りつぶし塗りつぶししていた心の壁にひびが入って、そこから面《おもて》も向けられない白い光がちら[#「ちら」に傍点]とさすようにも思った。もうしかしそれはすべてあまりおそい。葉子はそんな物を無視してかかるほかに道がないと思った。ごまかしてはいけないと古藤のいった言葉はその瞬間にもすぐ葉子にきびしく答えたけれども、葉子は押し切ってそんな言葉をかなぐり捨てないではいられないと自分からあきらめた。
 「よくわかりました。あなたのおっしゃる事はいつでもわたしにはよくわかりますわ。そのうちわたしきっと木村のほうに手紙を出すから安心してくださいまし。このごろはあなたのほうが木村以上に神経質になっていらっしゃるようだけれども、御親切はよくわたしにもわかりますわ。倉地さんだってあなたのお心持ちは通じているに違いないんですけれども、あなたが……なんといったらいいでしょうねえ……あなたがあんまり[#「あんまり」に傍点]真正面からおっしゃるもんだから、つい向《むか》っ腹《ぱら》をお立てなすったんでしょう。そうでしょう、ね、倉地さん。……こんないやなお話はこれだけにして妹たちでも呼んでおもしろいお話でもしましょう」
 「僕がもっと偉《えら》いと、いう事がもっと深く皆さんの心にはいるんですが、僕のいう事はほんとうの事だと思うんだけれどもしかたがありません。それじゃきっと木村に書いてやってください。僕《ぼく》自身は何も物数寄《ものずき》らしくその内容を知りたいとは思ってるわけじゃないんですから……」
 古藤がまだ何かいおうとしている時に愛子が整頓風呂敷《せいとんぶろしき》の出来上がったのを持って、二階から降りて来た。古藤は愛子からそれを受け取ると思い出したようにあわてて時計を見た。葉子はそれには頓着《とんじゃく》しないように、
 「愛さんあれを古藤さんにお目にかけよう。古藤さんちょっと待っていらしってね。今おもしろいものをお目にかけるから。貞《さあ》ちゃんは二階? いないの? どこに行ったんだろう……貞ちゃん!」
 こういって葉子が呼ぶと台所のほうから貞世が打ち沈んだ顔をして泣いたあとのように頬《ほお》を赤くしてはいって来た。やはり自分のいった言葉に従って一人《ひとり》ぽっちで台所に行ってすすぎ物をしていたのかと思うと、葉子はもう胸が逼《せま》って目の中が熱くなるのだった。
 「さあ二人《ふたり》でこの間学校で習って来たダンスをして古藤さんと倉地さんとにお目におかけ。ちょっとコティロン[#底本では「コテイロン」]のようでまた変わっていますの。さ」
 二人は十畳の座敷のほうに立って行った。倉地はこれをきっかけ[#「きっかけ」に傍点]にからっ[#「からっ」に傍点]と快活になって、今までの事は忘れたように、古藤にも微笑を与えながら「それはおもしろかろう」といいつつあとに続いた。愛子の姿を見ると古藤も釣《つ》り込まれるふうに見えた。葉子は決してそれを見のがさなかった。
 可憐《かれん》な姿をした姉と妹とは十畳の電燈の下に向かい合って立った。愛子はいつでもそうなようにこんな場合でもいかにも冷静だった。普通ならばその年ごろの少女としては、やり所もない羞恥《しゅうち》を感ずるはずであるのに、愛子は少し目を伏せているほかにはしらじらとしていた。きゃっ[#「きゃっ」に傍点]きゃっとうれしがったり恥ずかしがったりする貞世はその夜はどうしたものかただ物憂《ものう》げにそこにしょんぼり[#「しょんぼり」に傍点]と立った。その夜の二人は妙に無感情な一対《いっつい》の美しい踊り手だった。葉子が「一二三」と相図をすると、二人は両手を腰骨の所に置き添えて静かに回旋しながら舞い始めた。兵営の中ばかりにいて美しいものを全く見なかったらしい古藤は、しばらくは何事も忘れたように恍惚《こうこつ》として二人の描く曲線のさまざまに見とれていた。
 と突然貞世が両|袖《そで》を顔にあてたと思うと、急に舞いの輸からそれて、一散に玄関わきの六畳に駆け込んだ。六畳に達しないうちに痛ましくすすり泣く声が聞こえ出した。古藤ははっ[#「はっ」に傍点]とあわててそっちに行こうとしたが、愛子が一人になっても、顔色も動かさずに踊り続けているのを見るとそのまままた立ち止まった。愛子は自分のし遂《おお》すべき務めをし遂《おお》せる事に心を集める様子で舞いつづけた。
 「愛さんちょっとお待ち」
 といった葉子の声は低いながら帛《きぬ》を裂くように疳癖《かんぺき》らしい調子になっていた。別室に妹の駆け込んだのを見向きもしない愛子の不人情さを憤る怒りと、命ぜられた事を中途|半端《はんぱ》でやめてしまった貞世を憤る怒りとで葉子は自制ができないほどふるえていた。愛子は静かにそこに両手を腰からおろして立ち止まった。
 「貞《さあ》ちゃんなんですその失礼は。出ておいでなさい」
 葉子は激しく隣室に向かってこう叫んだ。隣室から貞世のすすり泣く声が哀れにもまざまざと聞こえて来るだけだった。抱きしめても抱きしめても飽き足らないほどの愛着をそのまま裏返したような憎しみが、葉子の心を火のようにした。葉子は愛子にきびしくいいつけて貞世を六畳から呼び返さした。
 やがてその六畳から出て来た愛子は、さすがに不安な面持《おもも》ちをしていた。苦しくってたまらないというから額《ひたい》に手をあてて見たら火のように熱いというのだ。
 葉子は思わずぎょっ[#「ぎょっ」に傍点]とした。生まれ落ちるとから病気一つせずに育って来た貞世は前から発熱していたのを自分で知らずにいたに違いない。気むずかしくなってから一週間ぐらいになるから、何かの熱病にかかったとすれば病気はかなり進んでいたはずだ。ひょっ[#「ひょっ」に傍点]とすると貞世はもう死ぬ……それを葉子は直覚したように思った。目の前で世界が急に暗くなった。電灯の光も見えないほどに頭の中が暗い渦巻《うずま》きでいっぱいになった。えゝ、いっその事死んでくれ。この血祭りで倉地が自分にはっきり[#「はっきり」に傍点]つながれてしまわないとだれがいえよう。人身御供《ひとみごくう》にしてしまおう。そう葉子は恐怖の絶頂にありながら妙にしん[#「しん」に傍点]とした心持ちで思いめぐらした。そしてそこにぼんやり[#「ぼんやり」に傍点]したまま突っ立っていた。
 いつのまに行ったのか、倉地と古藤とが六畳の間《ま》から首を出した。
 「お葉さん……ありゃ泣いたためばかりの熱じゃない。早く来てごらん」
 倉地のあわてるような声が聞こえた。
 それを聞くと葉子は始めて事の真相がわかったように、夢から目ざめたように、急に頭がはっきり[#「はっきり」に傍点]して六畳の間《ま》に走り込んだ。貞世はひときわ背たけが縮まったように小さく丸まって、座ぶとんに顔を埋《うず》めていた。膝《ひざ》をついてそばによって後頸《うなじ》の所にさわってみると、気味の悪いほどの熱が葉子の手に伝わって来た。
 その瞬間に葉子の心はでんぐり[#「でんぐり」に傍点]返しを打った。いとしい貞世につらく当たったら、そしてもし貞世がそのために命を落とすような事でもあったら、倉地を大丈夫つかむ事ができると何がなしに思い込んで、しかもそれを実行した迷信とも妄想《もうそう》ともたとえようのない、狂気じみた結願《けちがん》がなんの苦もなくばら[#「ばら」に傍点]ばらにくずれてしまって、その跡にはどうかして貞世を活《い》かしたいという素直《すなお》な涙ぐましい願いばかりがしみじみと働いていた。自分の愛するものが死ぬか活《い》きるかの境目《さかいめ》に来たと思うと、生への執着と死への恐怖とが、今まで想像も及ばなかった強さでひし[#「ひし」に傍点]ひしと感ぜられた。自分を八つ裂《ざ》きにしても貞世の命は取りとめなくてはならぬ。もし貞世が死ねばそれは自分が殺したんだ。何も知らない、神のような少女を……葉子はあらぬことまで勝手に想像して勝手に苦しむ自分をたしなめるつもりでいても、それ以上に種々な予想が激しく頭の中で働いた。
 葉子は貞世の背をさすりながら、嘆願するように哀恕《あいじょ》を乞《こ》うように古藤や倉地や愛子までを見まわした。それらの人々はいずれも心痛《こころいた》げな顔色を見せていないではなかった。しかし葉子から見るとそれはみんな贋物《にせもの》だった。
 やがて古藤は兵営への帰途医者を頼むといって帰って行った。葉子は、一人《ひとり》でも、どんな人でも貞世の身ぢかから離れて行くのをつらく思った。そんな人たちは多少でも貞世の生命を一緒に持って行ってしまうように思われてならなかった。
 日はとっぷり[#「とっぷり」に傍点]暮れてしまったけれどもどこの戸締まりもしないこの家に、古藤がいってよこした医者がやって来た。そして貞世は明らかに腸チブスにかかっていると診断されてしまった。

    四二

 「おねえ様……行っちゃいやあ……」
 まるで四つか五つの幼児のように頑是《がんぜ》なくわがままになってしまった貞世の声を聞き残しながら葉子は病室を出た。おりからじめじめと降りつづいている五月雨《さみだれ》に、廊下には夜明けからの薄暗さがそのまま残っていた。白衣を着た看護婦が暗いだだっ広《ぴろ》い廊下を、上草履《うわぞうり》の大きな音をさせながら案内に立った。十日の余も、夜昼《よるひる》の見さかいもなく、帯も解かずに看護の手を尽くした葉子は、どうかするとふらふらとなって、頭だけが五体から離れてどこともなく漂って行くかとも思うような不思議な錯覚を感じながら、それでも緊張しきった心持ちになっていた。すべての音響、すべての色彩が極度に誇張されてその感覚に触れて来た。貞世が腸チブスと診断されたその晩、葉子は担架に乗せられたそのあわれな小さな妹に付き添ってこの大学病院の隔離室に来てしまったのであるが、その時別れたなりで、倉地は一度も病院を尋ねては来《こ》なかったのだ。葉子は愛子|一人《ひとり》が留守する山内《さんない》の家のほうに、少し不安心ではあるけれどもいつか暇をやったつやを呼び寄せておこうと思って、宿もとにいってやると、つやはあれから看護婦を志願して京橋《きょうばし》のほうのある病院にいるという事が知れたので、やむを得ず倉地の下宿から年を取った女中を一人頼んでいてもらう事にした。病院に来てからの十日――それはきのうからきょうにかけての事のように短く思われもし、一日が一年に相当するかと疑われるほど長くも感じられた。
 その長く感じられるほうの期間には、倉地と愛子との姿が不安と嫉妬《しっと》との対照となって葉子の心の目に立ち現われた。葉子の家を預かっているものは倉地の下宿から来た女だとすると、それは倉地の犬といってもよかった。そこに一人残された愛子……長い時間の間《あいだ》にどんな事でも起こり得ずにいるものか。そう気を回し出すと葉子は貞世の寝台のかたわらにいて、熱のために口びるがかさ[#「かさ」に傍点]かさになって、半分目をあけたまま昏睡《こんすい》しているその小さな顔を見つめている時でも、思わずかっ[#「かっ」に傍点]となってそこを飛び出そうとするような衝動に駆り立てられるのだった。
 しかしまた短く感じられるほうの期間にはただ貞世ばかりがいた。末子として両親からなめるほど溺愛《できあい》もされ、葉子の唯一の寵児《ちょうじ》ともされ、健康で、快活で、無邪気で、わがままで、病気という事などはついぞ知らなかったその子は、引き続いて父を失い、母を失い、葉子の病的な呪詛《じゅそ》の犠牲となり、突然死病に取りつかれて、夢にもうつつにも思いもかけなかった死と向かい合って、ひたすらに恐れおののいている、その姿は、千丈の谷底に続く崕《がけ》のきわに両手だけでぶら下がった人が、そこの土がぼろぼろとくずれ落ちるたびごとに、懸命になって助けを求めて泣き叫びながら、少しでも手がかりのある物にしがみつこうとするのを見るのと異ならなかった。しかもそんなはめ[#「はめ」に傍点]に貞世をおとしいれてしまったのは結局自分に責任の大部分があると思うと、葉子はいとしさ悲しさで胸も腸《はらわた》も裂けるようになった。貞世が死ぬにしても、せめては自分だけは貞世を愛し抜いて死なせたかった。貞世をかりにもいじめるとは……まるで天使のような心で自分を信じきり愛し抜いてくれた貞世をかりにも没義道《もぎどう》に取り扱ったとは……葉子は自分ながら葉子の心の埒《らち》なさ恐ろしさに悔いても悔いても及ばない悔いを感じた。そこまで詮《せん》じつめて来ると、葉子には倉地もなかった。ただ命にかけても貞世を病気から救って、貞世が元通りにつやつやしい健康に帰った時、貞世を大事に大事に自分の胸にかき抱《いだ》いてやって、
 「貞《さあ》ちゃんお前はよくこそなおってくれたね。ねえさんを恨まないでおくれ。ねえさんはもう今までの事をみんな後悔して、これからはあなたをいつまでもいつまでも後生《ごしょう》大事にしてあげますからね」
 としみじみと泣きながらいってやりたかった。ただそれだけの願いに固まってしまった。そうした心持ちになっていると、時間はただ矢のように飛んで過ぎた。死のほうへ貞世を連れて行く時間はただ矢のように飛んで過ぎると思えた。
 この奇怪な心の葛藤《かっとう》に加えて、葉子の健康はこの十日ほどの激しい興奮と活動とでみじめにもそこない傷つけられているらしかった。緊張の極点にいるような今の葉子にはさほどと思われないようにもあったが、貞世が死ぬかなおるかして一息つく時が来たら、どうして肉体をささえる事ができようかと危ぶまないではいられない予感がきびしく葉子を襲う瞬間は幾度もあった。
 そうした苦しみの最中に珍しく倉地が尋ねて来たのだった。ちょうど何もかも忘れて貞世の事ばかり気にしていた葉子は、この案内を聞くと、まるで生まれかわったようにその心は倉地でいっぱいになってしまった。
 病室の中から叫びに叫ぶ貞世の声が廊下まで響いて聞こえたけれども、葉子はそれには頓着《とんじゃく》していられないほどむきになって看護婦のあとを追った。歩きながら衣紋《えもん》を整えて、例の左手をあげて鬢《びん》の毛を器用にかき上げながら、応接室の所まで来ると、そこはさすがにいくぶんか明るくなっていて、開き戸のそばのガラス窓の向こうに頑丈《がんじょう》な倉地と、思いもかけず岡の華車《きゃしゃ》な姿とがながめられた。
 葉子は看護婦のいるのも岡のいるのも忘れたようにいきなり[#「いきなり」に傍点]倉地に近づいて、その胸に自分の顔を埋《うず》めてしまった。何よりもかによりも長い長い間あい得ずにいた倉地の胸は、数限りもない連想に飾られて、すべての疑惑や不快を一掃するに足るほどなつかしかった。倉地の胸から触れ慣れた衣《きぬ》ざわりと、強烈な膚のにおいとが、葉子の病的に嵩《こう》じた感覚を乱酔さすほどに伝わって来た。
 「どうだ、ちっとはいいか」
 「おゝこの声だ、この声だ」……葉子はかく思いながら悲しくなった。それは長い間|闇《やみ》の中に閉じこめられていたものが偶然|灯《ひ》の光を見た時に胸を突いてわき出て来るような悲しさだった。葉子は自分の立場をことさらあわれに描いてみたい衝動を感じた。
 「だめです。貞世は、かわいそうに死にます」
 「ばかな……あなたにも似合わん、そう早《はよ》う落胆する法があるものかい。どれ一つ見舞ってやろう」
 そういいながら倉地は先刻からそこにいた看護婦のほうに振り向いた様子だった。そこに看護婦も岡もいるという事はちゃんと知っていながら、葉子はだれもいないもののような心持ちで振る舞っていたのを思うと、自分ながらこのごろは心が狂っているのではないかとさえ疑った。看護婦は倉地と葉子との対話ぶりで、この美しい婦人の素性《すじょう》をのみ込んだというような顔をしていた。岡はさすがにつつましやかに心痛の色を顔に現わして椅子《いす》の背に手をかけたまま立っていた。
 「あゝ、岡さんあなたもわざわざお見舞いくださってありがとうございました」
 葉子は少し挨拶《あいさつ》の機会をおくらしたと思いながらもやさしくこういった。岡は頬《ほお》を紅《あか》らめたまま黙ってうなずいた。
 「ちょうど今見えたもんだで御一緒したが、岡さんはここでお帰りを願ったがいいと思うが……(そういって倉地は岡のほうを見た)何しろ病気が病気ですから……」
 「わたし、貞世さんにぜひお会いしたいと思いますからどうかお許しください」
 岡は思い入ったようにこういって、ちょうどそこに看護婦が持って来た二枚の白い上《うわ》っ張《ぱ》りのうち少し古く見える一枚を取って倉地よりも先に着始めた。葉子は岡を見るともう一つのたくらみ[#「たくらみ」に傍点]を心の中で案じ出していた。岡をできるだけたびたび山内《さんない》の家のほうに遊びに行かせてやろう。それは倉地と愛子とが接触する機会をいくらかでも妨げる結果になるに違いない。岡と愛子とが互いに愛し合うようになったら……なったとしてもそれは悪い結果という事はできない。岡は病身ではあるけれども地位もあれば金もある。それは愛子のみならず、自分の将来に取っても役に立つに相違ない。……とそう思うすぐその下から、どうしても虫の好《す》かない愛子が、葉子の意志の下《もと》にすっかり[#「すっかり」に傍点]つなぎつけられているような岡をぬすんで行くのを見なければならないのが面《つら》憎くも妬《ねた》ましくもあった。
 葉子は二人《ふたり》の男を案内しながら先に立った。暗い長い廊下の両側に立ちならんだ病室の中からは、呼吸困難の中からかすれたような声でディフテリヤらしい幼児の泣き叫ぶのが聞こえたりした。貞世の病室からは一人《ひとり》の看護婦が半ば身を乗り出して、部屋《へや》の中に向いて何かいいながら、しきりとこっちをながめていた。貞世の何かいい募る言葉さえが葉子の耳に届いて来た。その瞬間にもう葉子はそこに倉地のいる事なども忘れて、急ぎ足でそのほうに走り近づいた。
 「そらもう帰っていらっしゃいましたよ」
 といいながら顔を引っ込めた看護婦に続いて、飛び込むように病室にはいって見ると、貞世は乱暴にも寝台の上に起き上がって、膝《ひざ》小僧もあらわになるほど取り乱した姿で、手を顔にあてたままおいおいと泣いていた。葉子は驚いて寝台に近寄った。
 「なんというあなたは聞きわけのない……貞《さあ》ちゃんその病気で、あなた、寝台から起き上がったりするといつまでもなおりはしませんよ。あなたの好きな倉地のおじさんと岡さんがお見舞いに来てくださったのですよ。はっきり[#「はっきり」に傍点]わかりますか、そら、そこを御覧、横になってから」
 そう言い言い葉子はいかにも愛情に満ちた器用な手つきで軽く貞世をかかえて床の上に臥《ね》かしつけた。貞世の顔は今まで盛んな運動でもしていたように美しく活々《いきいき》と紅味《あかみ》がさして、ふさふさした髪の毛は少しもつれて汗ばんで額ぎわに粘りついていた。それは病気を思わせるよりも過剰の健康とでもいうべきものを思わせた。ただその両眼と口びるだけは明らかに尋常でなかった。すっかり充血したその目はふだんよりも大きくなって、二重《ふたえ》まぶたになっていた。そのひとみは熱のために燃えて、おどおどと何者かを見つめているようにも、何かを見いだそうとして尋ねあぐんでいるようにも見えた。その様子はたとえば葉子を見入っている時でも、葉子を貫いて葉子の後ろの方《かた》はるかの所にある或《あ》る者を見きわめようとあらん限りの力を尽くしているようだった。口びるは上下ともからからになって内紫《うちむらさき》という柑類《かんるい》の実をむいて天日《てんぴ》に干したようにかわいていた。それは見るもいたいたしかった。その口びるの中から高熱のために一種の臭気が呼吸のたびごとに吐き出される、その臭気が口びるの著しいゆがめかたのために、目に見えるようだった。貞世は葉子に注意されて物惰《ものう》げに少し目をそらして倉地と岡とのいるほうを見たが、それがどうしたんだというように、少しの興味も見せずにまた葉子を見入りながらせっせ[#「せっせ」に傍点]と肩をゆすって苦しげな呼吸をつづけた。
 「おねえさま……水……氷……もういっちゃいや……」
 これだけかすかにいうともう苦しそうに目をつぶってほろほろと大粒の涙をこぼすのだった。
 倉地は陰鬱《いんうつ》な雨脚《あまあし》で灰色になったガラス窓を背景にして突っ立ちながら、黙ったまま不安らしく首をかしげた。岡は日ごろのめったに泣かない性質に似ず、倉地の後ろにそっ[#「そっ」に傍点]と引きそって涙ぐんでいた。葉子には後ろを振り向いて見ないでもそれが目に見るようにはっきり[#「はっきり」に傍点]わかった。貞世の事は自分|一人《ひとり》で背負って立つ。よけいなあわれみはかけてもらいたくない。そんないらいらしい反抗的な心持ちさえその場合起こらずにはいなかった。過ぐる十日というもの一度も見舞う事をせずにいて、今さらその由々《ゆゆ》しげな顔つきはなんだ。そう倉地にでも岡にでもいってやりたいほど葉子の心はとげとげしくなっていた。で、葉子は後ろを振り向きもせずに、箸《はし》の先につけた脱脂綿《だっしめん》を氷水の中に浸しては、貞世の口をぬぐっていた。
 こうやってもののやや二十分が過ぎた。飾りけも何もない板張りの病室にはだんだん夕暮れの色が催して来た。五月雨《さみだれ》はじめじめと小休《おや》みなく戸外では降りつづいていた。「おねえ様なおしてちょうだいよう」とか「苦しい……苦しいからお薬をください」とか「もう熱を計るのはいや」とか時々|囈言《うわごと》のように言っては、葉子の手にかじりつく貞世の姿はいつ息気《いき》を引き取るかもしれないと葉子に思わせた。
 「ではもう帰りましょうか」
 倉地が岡を促すようにこういった。岡は倉地に対し葉子に対して少しの間《あいだ》返事をあえてするのをはばかっている様子だったが、とうとう思いきって、倉地に向かって言っていながら少し葉子に対して嘆願するような調子で、
 「わたし、きょうはなんにも用がありませんから、こちらに残らしていただいて、葉子さんのお手伝いをしたいと思いますから、お先にお帰りください」
 といった。岡はひどく意志が弱そうに見えながら一度思い入っていい出した事は、とうとう仕畢《しおお》せずにはおかない事を、葉子も倉地も今までの経験から知っていた。葉子は結局それを許すほかはないと思った。
 「じゃわしはお先するがお葉さんちょっと……」
 といって倉地は入り口のほうにしざって行った。おりから貞世はすやすやと昏睡《こんすい》に陥っていたので、葉子はそっ[#「そっ」に傍点]と自分の袖《そで》を捕えている貞世の手をほどいて、倉地のあとから病室を出た。病室を出るとすぐ葉子はもう貞世を看護している葉子ではなかった。
 葉子はすぐに倉地に引き添って肩をならべながら廊下を応接室のほうに伝って行った。
 「お前はずいぶんと疲れとるよ。用心せんといかんぜ」
 「大丈夫……こっちは大丈夫です。それにしてもあなたは……お忙しかったんでしょうね」
 たとえば自分の言葉は稜針《かどばり》で、それを倉地の心臓に揉《も》み込むというような鋭い語気になってそういった。
 「全く忙しかった。あれからわしはお前の家には一度もよう行かずにいるんだ」
 そういった倉地の返事にはいかにもわだかまりがなかった。葉子の鋭い言葉にも少しも引けめを感じているふうは見えなかった。葉子でさえが危うくそれを信じようとするほどだった。しかしその瞬間に葉子は燕返《つばめがえ》しに自分に帰った。何をいいかげんな……それは白々《しらじら》しさが少し過ぎている。この十日の間に、倉地にとってはこの上もない機会の与えられた十日の間に、杉森《すぎもり》の中のさびしい家にその足跡の印《しる》されなかったわけがあるものか。……さらぬだに、病み果て疲れ果てた頭脳に、極度の緊張を加えた葉子は、ぐらぐらとよろけた足もとが廊下の板に着いていないような憤怒《ふんぬ》に襲われた。
 応接室まで来て上《うわ》っ張《ぱ》りを脱ぐと、看護婦が噴霧器《ふんむき》を持って来て倉地の身のまわりに消毒薬を振りかけた。そのかすかなにおいがようやく葉子をはっきり[#「はっきり」に傍点]した意識に返らした。葉子の健康が一日一日といわず、一時間ごとにもどんどん弱って行くのが身にしみて知れるにつけて、倉地のどこにも批点のないような頑丈《がんじょう》な五体にも心にも、葉子はやりどころのないひがみと憎しみを感じた。倉地にとっては葉子はだんだんと用のないものになって行きつつある。絶えず何か目新しい冒険を求めているような倉地にとっては、葉子はもう散りぎわの花に過ぎない。
 看護婦がその室《へや》を出ると、倉地は窓の所に寄って行って、衣嚢《かくし》の中から大きな鰐皮《わにがわ》のポケットブックを取り出して、拾円札のかなりの束を引き出した。葉子はそのポケットブックにもいろいろの記憶を持っていた。竹柴館《たけしばかん》で一夜を過ごしたその朝にも、その後のたびたびのあいびき[#「あいびき」に傍点]のあとの支払いにも、葉子は倉地からそのポケットブックを受け取って、ぜいたくな支払いを心持ちよくしたのだった。そしてそんな記憶はもう二度とは繰り返せそうもなく、なんとなく葉子には思えた。そんな事をさせてなるものかと思いながらも、葉子の心は妙に弱くなっていた。
 「また足らなくなったらいつでもいってよこすがいいから……おれのほうの仕事はどうもおもしろくなくなって来《き》おった。正井のやつ何か容易ならぬ悪戯《わるさ》をしおった様子もあるし、油断がならん。たびたびおれがここに来るのも考え物だて」
 紙幣を渡しながらこういって倉地は応接室を出た。かなりぬれているらしい靴《くつ》をはいて、雨水で重そうになった洋傘《こうもり》をばさ[#「ばさ」に傍点]ばさいわせながら開いて、倉地は軽い挨拶《あいさつ》を残したまま夕闇《ゆうやみ》の中に消えて行こうとした。間を置いて道わきにともされた電灯の灯《ひ》が、ぬれた青葉をすべり落ちてぬかるみの中に燐《りん》のような光を漂わしていた。その中をだんだん南門のほうに遠ざかって行く倉地を見送っていると葉子はとてもそのままそこに居残ってはいられなくなった。
 だれの履《は》き物《もの》とも知らずそこにあった吾妻下駄《あづまげた》をつっかけて葉子は雨の中を玄関から走り出て倉地のあとを追った。そこにある広場には欅《けやき》や桜の木がまばらに立っていて、大規模な増築のための材料が、煉瓦《れんが》や石や、ところどころに積み上げてあった。東京の中央にこんな所があるかと思われるほど物さびしく静かで、街灯の光の届く所だけに白く光って斜めに雨のそそぐのがほのかに見えるばかりだった。寒いとも暑いともさらに感じなく過ごして来た葉子は、雨が襟脚《えりあし》に落ちたので初めて寒いと思った。関東に時々襲って来る時ならぬ冷え日《び》でその日もあったらしい。葉子は軽く身ぶるいしながら、いちずに倉地のあとを追った。やや十四五|間《けん》も先にいた倉地は足音を聞きつけたと見えて立ちどまって振り返った。葉子が追いついた時には、肩はいいかげんぬれて、雨のしずくが前髪を伝って額に流れかかるまでになっていた。葉子はかすかな光にすかして、倉地が迷惑そうな顔つきで立っているのを知った。葉子はわれにもなく倉地が傘《かさ》を持つために水平に曲げたその腕にすがり付いた。
 「さっきのお金はお返しします。義理ずくで他人からしていただくんでは胸がつかえますから……」
 倉地の腕の所で葉子のすがり付いた手はぶるぶると震えた。傘からはしたたりがことさら繁《しげ》く落ちて、単衣《ひとえ》をぬけて葉子の肌《はだ》ににじみ通った。葉子は、熱病患者が冷たいものに触れた時のような不快な悪寒《おかん》を感じた。
 「お前の神経は全く少しどうかしとるぜ。おれの事を少しは思ってみてくれてもよかろうが……疑うにもひがむにもほどがあっていいはずだ。おれはこれまでにどんな不貞腐《ふてくさ》れをした。いえるならいってみろ」
 さすがに倉地も気にさえているらしく見えた。
 「いえないように上手《じょうず》に不貞腐《ふてくさ》れをなさるのじゃ、いおうったっていえやしませんわね。なぜあなたははっきり[#「はっきり」に傍点]葉子にはあきた、もう用がないとおいいになれないの。男らしくもない。さ、取ってくださいましこれを」
 葉子は紙幣の束をわなわなする手先で倉地の胸の所に押しつけた。
 「そしてちゃん[#「ちゃん」に傍点]と奥さんをお呼び戻《もど》しなさいまし。それで何もかも元通りになるんだから。はばかりながら……」
 「愛子は」と口もとまでいいかけて、葉子は恐ろしさに息気《いき》を引いてしまった。倉地の細君《さいくん》の事までいったのはその夜が始めてだった。これほど露骨《ろこつ》な嫉妬《しっと》の言葉は、男の心を葉子から遠ざからすばかりだと知り抜いて慎んでいたくせに、葉子はわれにもなく、がみ[#「がみ」に傍点]がみと妹の事までいってのけようとする自分にあきれてしまった。
 葉子がそこまで走り出て来たのは、別れる前にもう一度倉地の強い腕でその暖かく広い胸に抱かれたいためだったのだ。倉地に悪《あく》たれ口をきいた瞬間でも葉子の願いはそこにあった。それにもかかわらず口の上では全く反対に、倉地を自分からどんどん離れさすような事をいってのけているのだ。
 葉子の言葉が募るにつれて、倉地は人目をはばかるようにあたり[#「あたり」に傍点]を見回した。互い互いに殺し合いたいほどの執着を感じながら、それを言い現わす事も信ずる事もできず、要もない猜疑《さいぎ》と不満とにさえぎられて、見る見る路傍の人のように遠ざかって行かねばならぬ、――そのおそろしい運命を葉子はことさら痛切に感じた。倉地があたりを見回した――それだけの挙動が、機を見計らっていきなり[#「いきなり」に傍点]そこを逃げ出そうとするもののようにも思いなされた。葉子は倉地に対する憎悪《ぞうお》の心を切《せつ》ないまでに募らしながら、ますます相手の腕に堅く寄り添った。
 しばらくの沈黙の後、倉地はいきなり[#「いきなり」に傍点]洋傘《こうもり》をそこにかなぐり捨てて、葉子の頭を右腕で巻きすくめようとした。葉子は本能的に激しくそれにさからった。そして紙幣の束をぬかるみの中にたたきつけた。そして二人《ふたり》は野獣のように争った。
 「勝手にせい……ばかっ」
 やがてそう激しくいい捨てると思うと、倉地は腕の力を急にゆるめて、洋傘《こうもり》を拾い上げるなり、あとをも向かずに南門のほうに向いてずんずんと歩き出した。憤怒と嫉妬《しっと》とに興奮しきった葉子は躍起《やっき》となってそのあとを追おうとしたが、足はしびれたように動かなかった。ただだんだん遠ざかって行く後ろ姿に対して、熱い涙がとめどなく流れ落ちるばかりだった。
 しめやかな音を立てて雨は降りつづけていた。隔離病室のある限りの窓にはかん[#「かん」に傍点]かんと灯《ひ》がともって、白いカーテンが引いてあった。陰惨な病室にそう赤々と灯のともっているのはかえってあたりを物すさまじくして見せた。
 葉子は紙幣の束を拾い上げるほか、術《すべ》のないのを知って、しおしおとそれを拾い上げた。貞世の入院料はなんといってもそれで仕払うよりしようがなかったから。いいようのないくやし涙がさらにわき返った。

    四三

 その夜おそくまで岡はほんとうに忠実《まめ》やかに貞世の病床に付き添って世話をしてくれた。口少《くちずく》なにしとやか[#「しとやか」に傍点]によく気をつけて、貞世の欲する事をあらかじめ知り抜いているような岡の看護ぶりは、通り一ぺんな看護婦の働きぶりとはまるでくらべものにならなかった。葉子は看護婦を早く寝かしてしまって、岡と二人だけで夜のふけるまで氷嚢《ひょうのう》を取りかえたり、熱を計ったりした。
 高熱のために貞世の意識はだんだん不明瞭《ふめいりょう》になって来ていた。退院して家に帰りたいとせがんでしようのない時は、そっ[#「そっ」に傍点]と向きをかえて臥《ね》かしてから、「さあもうお家《うち》ですよ」というと、うれしそうに笑顔《えがお》をもらしたりした。それを見なければならぬ葉子はたまらなかった。どうかした拍子《ひょうし》に、葉子は飛び上がりそうに心が責められた。これで貞世が死んでしまったなら、どうして生き永《なが》らえていられよう。貞世をこんな苦しみにおとしいれたものはみんな自分だ。自分が前どおりに貞世に優しくさえしていたら、こんな死病は夢にも貞世を襲って来はしなかったのだ。人の心の報いは恐ろしい……そう思って来ると葉子はだれにわびようもない苦悩に息気《いき》づまった。
 緑色の風呂敷《ふろしき》で包んだ電燈の下に、氷嚢《ひょうのう》を幾つも頭と腹部とにあてがわれた貞世は、今にも絶え入るかと危ぶまれるような荒い息気《いき》づかいで夢現《ゆめうつつ》の間をさまようらしく、聞きとれない囈言《うわごと》を時々口走りながら、眠っていた。岡は部屋《へや》のすみのほうにつつましく突っ立ったまま、緑色をすかして来る電燈の光でことさら青白い顔色をして、じっ[#「じっ」に傍点]と貞世を見守っていた。葉子は寝台に近く椅子《いす》を寄せて、貞世の顔をのぞき込むようにしながら、貞世のために何かし続けていなければ、貞世の病気がますます重《おも》るという迷信のような心づかいから、要もないのに絶えず氷嚢《ひょうのう》の位置を取りかえてやったりなどしていた。
 そして短い夜はだんだんにふけて行った。葉子の目からは絶えず涙がはふり落ちた。倉地と思いもかけない別れかたをしたその記憶が、ただわけもなく葉子を涙ぐました。
 と、ふっ[#「ふっ」に傍点]と葉子は山内《さんない》の家のありさまを想像に浮かべた。玄関わきの六畳ででもあろうか、二階の子供の勉強|部屋《べや》ででもあろうか、この夜ふけを下宿から送られた老女が寝入ったあと、倉地と愛子とが話し続けているような事はないか。あの不思議に心の裏を決して他人に見せた事のない愛子が、倉地をどう思っているかそれはわからない。おそらくは倉地に対しては何の誘惑も感じてはいないだろう。しかし倉地はああいうしたたか[#「したたか」に傍点]者だ。愛子は骨に徹する怨恨《えんこん》を葉子に対していだいている。その愛子が葉子に対して復讐《ふくしゅう》の機会を見いだしたとこの晩思い定めなかったとだれが保証し得よう。そんな事はとうの昔に行なわれてしまっているのかもしれない。もしそうなら、今ごろは、このしめやかな夜を……太陽が消えてなくなったような寒さと闇《やみ》とが葉子の心におおいかぶさって来た。愛子|一人《ひとり》ぐらいを指の間に握りつぶす事ができないと思っているのか……見ているがいい。葉子はいらだちきって毒蛇《どくじゃ》のような殺気だった心になった。そして静かに岡のほうを顧みた。
 何か遠いほうの物でも見つめているように少しぼんやり[#「ぼんやり」に傍点]した目つきで貞世を見守っていた岡は、葉子に振り向かれると、そのほうに素早《すばや》く目を転じたが、その物すごい不気味《ぶきみ》さに脊髄《せきずい》まで襲われたふうで、顔色をかえて目をたじろがした。
 「岡さん。わたし一生のお頼み……これからすぐ山内《さんない》の家まで行ってください。そして不用な荷物は今夜のうちにみんな倉地さんの下宿に送り返してしまって、わたしと愛子のふだん使《づか》いの着物と道具とを持って、すぐここに引っ越して来るように愛子にいいつけてください。もし倉地さんが家に来ていたら、わたしから確かに返したといってこれを渡してください(そういって葉子は懐紙《ふところがみ》に拾円紙幣の束を包んで渡した)。いつまでかかっても構わないから今夜のうちにね。お頼みを聞いてくださって?」
 なんでも葉子のいう事なら口返答をしない岡だけれどもこの常識をはずれた葉子の言葉には当惑して見えた。岡は窓ぎわに行ってカーテンの陰から戸外をすかして見て、ポケットから巧緻《こうち》な浮き彫りを施した金時計を取り出して時間を読んだりした。そして少し躊躇《ちゅうちょ》するように、
 「それは少し無理だとわたし、思いますが……あれだけの荷物を片づけるのは……」
 「無理だからこそあなたを見込んでお願いするんですわ。そうねえ、入り用のない荷物を倉地さんの下宿に届けるのは何かもしれませんわね。じゃ構わないから置き手紙を婆《ばあ》やというのに渡しておいてくださいまし。そして婆やにいいつけてあすでも倉地さんの所に運ばしてくださいまし。それなら何もいさくさ[#「いさくさ」に傍点]はないでしょう。それでもおいや? いかが?……ようございます。それじゃもうようございます。あなたをこんなにおそくまでお引きとめしておいて、又候《またぞろ》めんどうなお願いをしようとするなんてわたしもどうかしていましたわ。……貞《さあ》ちゃんなんでもないのよ。わたし今岡さんとお話ししていたんですよ。汽車の音でもなんでもないんだから、心配せずにお休み……どうして貞世はこんなに怖《こわ》い事ばかりいうようになってしまったんでしょう。夜中などに一人で起きていて囈言《うわごと》を聞くとぞーっとするほど気味が悪くなりますのよ。あなたはどうぞもうお引き取りくださいまし。わたし車屋をやりますから……」
 「車屋をおやりになるくらいならわたし行きます」
 「でもあなたが倉地さんに何とか思われなさるようじゃお気の毒ですもの」
 「わたし、倉地さんなんぞをはばかっていっているのではありません」
 「それはよくわかっていますわ。でもわたしとしてはそんな結果も考えてみてからお頼みするんでしたのに……」
 こういう押し問答の末に岡はとうとう愛子の迎えに行く事になってしまった。倉地がその夜はきっと愛子の所にいるに違いないと思った葉子は、病院に泊まるものと高《たか》をくくっていた岡が突然|真夜中《まよなか》に訪れて来たので倉地もさすがにあわてずにはいられまい。それだけの狼狽《ろうばい》をさせるにしても快い事だと思っていた。葉子は宿直|部屋《べや》に行って、しだらなく睡入《ねい》った当番の看護婦を呼び起こして人力車《じんりきしゃ》を頼ました。
 岡は思い入った様子でそっ[#「そっ」に傍点]と貞世の病室を出た。出る時に岡は持って来たパラフィン紙に包んである包みを開くと美しい花束だった。岡はそれをそっ[#「そっ」に傍点]と貞世の枕《まくら》もとにおいて出て行った。
 しばらくすると、しとしとと降る雨の中を、岡を乗せた人力車が走り去る音がかすかに聞こえて、やがて遠くに消えてしまった。看護婦が激しく玄関の戸締まりする音が響いて、そのあとはひっそりと夜がふけた。遠くの部屋でディフテリヤにかかっている子供の泣く声が間遠《まどお》に聞こえるほかには、音という音は絶え果てていた。
 葉子はただ一人《ひとり》いたずらに興奮して狂うような自分を見いだした。不眠で過ごした夜が三日も四日も続いているのにかかわらず、睡気《ねむけ》というものは少しも襲って来なかった。重石《おもし》をつり下げたような腰部の鈍痛ばかりでなく、脚部は抜けるようにだるく冷え、肩は動かすたびごとにめり[#「めり」に傍点]めり音がするかと思うほど固く凝り、頭の心《しん》は絶え間なくぎり[#「ぎり」に傍点]ぎりと痛んで、そこからやりどころのない悲哀と疳癪《かんしゃく》とがこんこんとわいて出た。もう鏡は見まいと思うほど顔はげっそり[#「げっそり」に傍点]と肉がこけて、目のまわりの青黒い暈《かさ》は、さらぬだに大きい目をことさらにぎら[#「ぎら」に傍点]ぎらと大きく見せた。鏡を見まいと思いながら、葉子はおりあるごとに帯の間から懐中鏡を出して自分の顔を見つめないではいられなかった。
 葉子は貞世の寝息をうかがっていつものように鏡を取り出した。そして顔を少し電灯のほうに振り向けてじっと自分を映して見た。おびただしい毎日の抜け毛で額ぎわの著しく透いてしまったのが第一に気になった。少し振り仰いで顔を映すと頬《ほお》のこけたのがさほどに目立たないけれども、顎《あご》を引いて下俯《したうつむ》きになると、口と耳との間には縦に大きな溝《みぞ》のような凹《くぼ》みができて、下顎骨《かがくこつ》[#底本ではルビが「かがつこつ」]が目立っていかめしく現われ出ていた。長く見つめているうちにはだんだん慣れて来て、自分の意識でしいて矯正《きょうせい》するために、やせた顔もさほどとは思われなくなり出すが、ふと鏡に向かった瞬間には、これが葉子葉子と人々の目をそばだたした自分かと思うほど醜かった。そうして鏡に向かっているうちに、葉子はその投影を自分以外のある他人の顔ではないかと疑い出した。自分の顔より映るはずがない。それだのにそこに映っているのは確かにだれか見も知らぬ人の顔だ。苦痛にしいたげられ、悪意にゆがめられ、煩悩《ぼんのう》のために支離滅裂になった亡者《もうじゃ》の顔……葉子は背筋に一時に氷をあてられたようになって、身ぶるいしながら思わず鏡を手から落とした。
 金属の床に触れる音が雷のように響いた。葉子はあわてて貞世を見やった。貞世はまっ赤《か》に充血して熱のこもった目をまんじり[#「まんじり」に傍点]と開いて、さも不思議そうに中有《ちゅうう》を見やっていた。
 「愛ねえさん……遠くでピストルの音がしたようよ」
 はっきり[#「はっきり」に傍点]した声でこういったので、葉子が顔を近寄せて何かいおうとすると昏々《こんこん》としてたわいもなくまた眠りにおちいるのだった。貞世の眠るのと共に、なんともいえない無気味な死の脅かしが卒然として葉子を襲った。部屋《へや》の中にはそこらじゅうに死の影が満ち満ちていた。目の前の氷水を入れたコップ一つも次の瞬間にはひとりで[#「ひとりで」に傍点]に倒れてこわれてしまいそうに見えた。物の影になって薄暗い部分は見る見る部屋じゅうに広がって、すべてを冷たく暗く包み終わるかとも疑われた。死の影は最も濃く貞世の目と口のまわりに集まっていた。そこには死が蛆《うじ》のようににょろ[#「にょろ」に傍点]にょろとうごめいているのが見えた。それよりも……それよりもその影はそろそろと葉子を目がけて四方の壁から集まり近づこうとひしめいているのだ。葉子はほとんどその死の姿を見るように思った。頭の中がシーン[#「シーン」に傍点]と冷え通って冴《さ》えきった寒さがぞく[#「ぞく」に傍点]ぞくと四|肢《し》を震わした。
 その時宿直室の掛け時計が遠くのほうで一時を打った。
 もしこの音を聞かなかったら、葉子は恐ろしさのあまり自分のほうから宿直室へ駆け込んで行ったかもしれなかった。葉子はおびえながら耳をそばだてた。宿直室のほうから看護婦が草履《ぞうり》をばたばたと引きずって来る音が聞こえた。葉子はほっ[#「ほっ」に傍点]と息気《いき》をついた。そしてあわてるように身を動かして、貞世の頭の氷嚢《ひょうのう》の溶け具合をしらべて見たり、掻巻《かいまき》を整えてやったりした。海の底に一つ沈んでぎらっ[#「ぎらっ」に傍点]と光る貝殻《かいがら》のように、床の上で影の中に物すごく横たわっている鏡を取り上げてふところに入れた。そうして一室一室と近づいて来る看護婦の足音に耳を澄ましながらまた考え続けた。
 今度は山内《さんない》の家のありさまがさながらまざまざと目に見るように想像された。岡が夜ふけにそこを訪れた時には倉地が確かにいたに違いない。そしていつものとおり一種の粘り強さをもって葉子の言伝《ことづ》てを取り次ぐ岡に対して、激しい言葉でその理不尽な狂気じみた葉子の出来心をののしったに違いない。倉地と岡との間には暗々裡《あんあんり》に愛子に対する心の争闘が行なわれたろう。岡の差し出す紙幣の束を怒りに任せて畳の上にたたきつける倉地の威丈高《いたけだか》な様子、少女にはあり得ないほどの冷静さで他人事《ひとごと》のように二人《ふたり》の間のいきさつ[#「いきさつ」に傍点]を伏し目ながらに見守る愛子の一種の毒々しい妖艶《ようえん》さ。そういう姿がさながら目の前に浮かんで見えた。ふだんの葉子だったらその想像は葉子をその場にいるように興奮させていたであろう。けれども死の恐怖に激しく襲われた葉子はなんともいえない嫌悪《けんお》の情をもってのほかにはその場面を想像する事ができなかった。なんというあさましい人の心だろう。結局は何もかも滅びて行くのに、永遠な灰色の沈黙の中にくずれ込んでしまうのに、目前の貪婪《どんらん》に心火の限りを燃やして、餓鬼《がき》同様に命をかみ合うとはなんというあさましい心だろう。しかもその醜い争いの種子《たね》をまいたのは葉子自身なのだ。そう思うと葉子は自分の心と肉体とがさながら蛆虫《うじむし》のようにきたなく見えた。……何のために今まであってないような妄執《もうしゅう》に苦しみ抜いてそれを生命そのもののように大事に考え抜いていた事か。それはまるで貞世が始終見ているらしい悪夢の一つよりもさらにはかないものではないか。……こうなると倉地さえが縁もゆかりもないもののように遠く考えられ出した。葉子はすべてのもののむなしさにあきれたような目をあげて今さららしく部屋《へや》の中をながめ回した。なんの飾りもない、修道院の内部のような裸な室内がかえってすがすがしく見えた。岡の残した貞世の枕《まくら》もとの花束だけが、そしておそらくは(自分では見えないけれども)これほどの忙しさの間にも自分を粉飾するのを忘れずにいる葉子自身がいかにも浮薄なたよりないものだった。葉子はこうした心になると、熱に浮かされながら一歩一歩なんの心のわだかまりもなく死に近づいて行く貞世の顔が神々《こうごう》しいものにさえ見えた。葉子は祈るようなわびるような心でしみじみと貞世を見入った。
 やがて看護婦が貞世の部屋《へや》にはいって来た。形式一ぺんのお辞儀を睡《ねむ》そうにして、寝台のそばに近寄ると、無頓着《むとんじゃく》なふうに葉子が入れておいた検温器を出して灯《ひ》にすかして見てから、胸の氷嚢《ひょうのう》を取りかえにかかった。葉子は自分|一人《ひとり》の手でそんな事をしてやりたいような愛着と神聖さとを貞世に感じながら看護婦を手伝った。
 「貞《さあ》ちゃん……さ、氷嚢を取りかえますからね……」
 とやさしくいうと、囈言《うわごと》をいい続けていながらやはり貞世はそれまで眠っていたらしく、痛々《いたいた》しいまで大きくなった目を開いて、まじ[#「まじ」に傍点]まじと意外な人でも見るように葉子を見るのだった。
 「おねえ様なの……いつ帰って来たの。おかあ様がさっきいらしってよ……いやおねえ様、病院いや帰る帰る……おかあ様おかあ様(そういってきょろ[#「きょろ」に傍点]きょろとあたりを見回しながら)帰らしてちょうだいよう。お家《うち》に早く、おかあ様のいるお家《うち》に早く……」
 葉子は思わず毛孔《けあな》が一本一本|逆立《さかだ》つほどの寒気《さむけ》を感じた。かつて母という言葉もいわなかった貞世の口から思いもかけずこんな事を聞くと、その部屋のどこかにぼんやり[#「ぼんやり」に傍点]立っている母が感ぜられるように思えた。その母の所に貞世は行きたがってあせっている。なんという深いあさましい骨肉《こつにく》の執着だろう。
 看護婦が行ってしまうとまた病室の中はしん[#「しん」に傍点]となってしまった。なんともいえず可憐《かれん》な澄んだ音を立てて水たまりに落ちる雨《あま》だれの音はなお絶え間なく聞こえ続けていた。葉子は泣くにも泣かれないような心になって、苦しい呼吸をしながらもうつら[#「うつら」に傍点]うつらと生死の間を知らぬげに眠る貞世の顔をのぞき込んでいた。
 と、雨だれの音にまじって遠くのほうに車の轍《わだち》の音を聞いたように思った。もう目をさまして用事をする人もあるかと、なんだか違った世界の出来事のようにそれを聞いていると、その音はだんだん病室のほうに近寄って来た。……愛子ではないか……葉子は愕然《がくぜん》として夢からさめた人のようにきっ[#「きっ」に傍点]となってさらに耳をそばだてた。
 もうそこには死生を瞑想《めいそう》して自分の妄執《もうしゅう》のはかなさをしみじみと思いやった葉子はいなかった。我執のために緊張しきったその目は怪しく輝いた。そして大急ぎで髪のほつれをかき上げて、鏡に顔を映しながら、あちこちと指先で容子《ようす》を整えた。衣紋《えもん》もなおした。そしてまたじっ[#「じっ」に傍点]と玄関のほうに聞き耳を立てた。
 はたして玄関の戸のあく音が聞こえた。しばらく廊下がごた[#「ごた」に傍点]ごたする様子だったが、やがて二三人の足音が聞こえて、貞世の病室の戸がしめやか[#「しめやか」に傍点]に開かれた。葉子はそのしめやか[#「しめやか」に傍点]さでそれは岡が開いたに違いない事を知った。やがて開かれた戸口から岡にちょっと挨拶《あいさつ》しながら愛子の顔が静かに現われた。葉子の目は知らず知らずそのどこまでも従順らしく伏し目になった愛子の面《おもて》に激しく注がれて、そこに書かれたすべてを一時に読み取ろうとした。小羊のようにまつ毛の長いやさしい愛子の目はしかし不思議にも葉子の鋭い眼光にさえ何物をも見せようとはしなかった。葉子はすぐいらいらして、何事もあばかないではおくものかと心の中で自分自身に誓言《せいごん》を立てながら、
 「倉地さんは」
 と突然真正面から愛子にこう尋ねた。愛子は多恨な目をはじめてまとも[#「まとも」に傍点]に葉子のほうに向けて、貞世のほうにそれをそらしながら、また葉子をぬすみ見るようにした。そして倉地さんがどうしたというのか意味が読み取れないというふうを見せながら返事をしなかった。生意気《なまいき》をしてみるがいい……葉子はいらだっていた。
 「おじさんも一緒にいらしったかいというんだよ」
 「いゝえ」
 愛子は無愛想《ぶあいそ》なほど無表情に一言《ひとこと》そう答えた。二人《ふたり》の間にはむずかしい沈黙が続いた。葉子はすわれとさえいってやらなかった。一日一日と美しくなって行くような愛子は小肥《こぶと》りなからだをつつましく整えて静かに立っていた。
 そこに岡が小道具を両手に下げて玄関のほうから帰って来た。外套《がいとう》をびっしょり[#「びっしょり」に傍点]雨にぬらしているのから見ても、この真夜中に岡がどれほど働いてくれたかがわかっていた。葉子はしかしそれには一言の挨拶《あいさつ》もせずに、岡が道具を部屋《へや》のすみにおくや否や、
 「倉地さんは何かいっていまして?」
 と剣《けん》を言葉に持たせながら尋ねた。
 「倉地さんはおいでがありませんでした。で婆《ばあ》やに言伝《ことづ》てをしておいて、お入り用の荷物だけ造って持って来ました。これはお返ししておきます」
 そういって衣嚢《かくし》の中から例の紙幣の束を取り出して葉子に渡そうとした。
 愛子だけならまだしも、岡までがとうとう自分を裏切ってしまった。二人が二人ながら見えすいた虚言《うそ》をよくもああしらじらしくいえたものだ。おおそれた弱虫どもめ。葉子は世の中が手ぐすね引いて自分|一人《ひとり》を敵に回しているように思った。
 「へえ、そうですか。どうも御苦労さま。……愛さんお前はそこにそうぼんやり[#「ぼんやり」に傍点]立ってるためにここに呼ばれたと思っているの? 岡さんのそのぬれた外套《がいとう》でも取ってお上げなさいな。そして宿直室に行って看護婦にそういってお茶でも持っておいで。あなたの大事な岡さんがこんなにおそくまで働いてくださったのに……さあ岡さんどうぞこの椅子《いす》に(といって自分は立ち上がった)……わたしが行って来るわ、愛さんも働いてさぞ疲れたろうから……よござんす、よござんすったら愛さん……」
 自分のあとを追おうとする愛子を刺し貫くほど睨《ね》めつけておいて葉子は部屋を出た。そうして火をかけられたようにかっ[#「かっ」に傍点]と逆上しながら、ほろほろとくやし涙を流して暗い廊下を夢中で宿直室のほうへ急いで行った。

    四四

 たたきつけるようにして倉地に返してしまおうとした金は、やはり手に持っているうちに使い始めてしまった。葉子の性癖としていつでもできるだけ豊かな快い夜昼《よるひる》を送るようにのみ傾いていたので、貞世の病院生活にも、だれに見せてもひけ[#「ひけ」に傍点]を取らないだけの事を上《うわ》べばかりでもしていたかった。夜具でも調度でも家にあるものの中でいちばん優《すぐ》れたものを選んで来てみると、すべての事までそれにふさわしいものを使わなければならなかった。葉子が専用の看護婦を二人《ふたり》も頼まなかったのは不思議なようだが、どういうものか貞世の看護をどこまでも自分|一人《ひとり》でしてのけたかったのだ。その代わり年とった女を二人|傭《やと》って交代に病院に来《こ》さして、洗い物から食事の事までを賄《まかな》わした。葉子はとても病院の食事では済ましていられなかった。材料のいい悪いはとにかく、味はとにかく、何よりもきたならしい感じがして箸《はし》もつける気になれなかったので、本郷《ほんごう》通りにある或《あ》る料理屋から日々入れさせる事にした。こんなあんばいで、費用は知れない所に思いのほかかかった。葉子が倉地が持って来てくれた紙幣の束から仕払おうとした時は、いずれそのうち木村から送金があるだろうから、あり次第それから埋め合わせをして、すぐそのまま返そうと思っていたのだった。しかし木村からは、六月になって以来一度も送金の通知は来なかった。葉子はそれだからなおさらの事もう来そうなものだと心待ちをしたのだった。それがいくら待っても来ないとなるとやむを得ず持ち合わせた分から使って行かなければならなかった。まだまだと思っているうちに束の厚みはどんどん減って行った。それが半分ほど減ると、葉子は全く返済の事などは忘れてしまったようになって、あるに任せて惜しげもなく仕払いをした。
 七月にはいってから気候はめっきり暑くなった。椎《しい》の木の古葉もすっかり[#「すっかり」に傍点]散り尽くして、松も新しい緑にかわって、草も木も青い焔《ほのお》のようになった。長く寒く続いた五月雨《さみだれ》のなごりで、水蒸気が空気中に気味わるく飽和されて、さらぬだに急に堪《た》え難《がた》く暑くなった気候をますます堪え難いものにした。葉子は自身の五体が、貞世の回復をも待たずにずんずんくずれて行くのを感じないわけには行かなかった。それと共に勃発的《ぼっぱつてき》に起こって来るヒステリーはいよいよ募るばかりで、その発作《ほっさ》に襲われたが最後、自分ながら気が違ったと思うような事がたびたびになった。葉子は心ひそかに自分を恐れながら、日々の自分を見守る事を余儀なくされた。
 葉子のヒステリーはだれかれの見さかいなく破裂するようになったがことに愛子に屈強の逃げ場を見いだした。なんといわれてもののしられても、打ち据《す》えられさえしても、屠所《としょ》の羊のように柔順に黙ったまま、葉子にはまどろしく見えるくらいゆっくり[#「ゆっくり」に傍点]落ち着いて働く愛子を見せつけられると、葉子の疳癪《かんしゃく》は嵩《こう》じるばかりだった。あんな素直《すなお》な殊勝げなふうをしていながらしらじらしくも姉を欺いている。それが倉地との関係においてであれ、岡との関係においてであれ、ひょっとすると古藤との関係においてであれ、愛子は葉子に打ち明けない秘密を持ち始めているはずだ。そう思うと葉子は無理にも平地に波瀾《はらん》が起こしてみたかった。ほとんど毎日――それは愛子が病院に寝泊まりするようになったためだと葉子は自分|決《ぎ》めに決めていた――幾時間かの間、見舞いに来てくれる岡に対しても、葉子はもう元のような葉子ではなかった。どうかすると思いもかけない時に明白な皮肉が矢のように葉子の口びるから岡に向かって飛ばされた。岡は自分が恥じるように顔を紅《あか》らめながらも、上品な態度でそれをこらえた。それがまたなおさら葉子をいらつかす種《たね》になった。
 もう来《こ》られそうもないといいながら倉地も三日に一度ぐらいは病院を見舞うようになった。葉子はそれをも愛子ゆえと考えずにはいられなかった。そう激しい妄想《もうそう》に駆り立てられて来ると、どういう関係で倉地と自分とをつないでおけばいいのか、どうした態度で倉地をもちあつかえばいいのか、葉子にはほとほと見当がつかなくなってしまった。親身《しんみ》に持ちかけてみたり、よそよそしく取りなしてみたり、その時の気分気分で勝手な無技巧な事をしていながらも、どうしてものがれ出る事のできないのは倉地に対するこちん[#「こちん」に傍点]と固まった深い執着だった。それは情けなくも激しく強くなり増さるばかりだった。もう自分で自分の心根《こころね》を憫然《びんぜん》に思ってそぞろに涙を流して、自らを慰めるという余裕すらなくなってしまった。かわききった火のようなものが息気《いき》苦しいまでに胸の中にぎっしり[#「ぎっしり」に傍点]つまっているだけだった。
 ただ一人《ひとり》貞世だけは……死ぬか生きるかわからない貞世だけは、この姉を信じきってくれている……そう思うと葉子は前にも増した愛着をこの病児にだけは感じないでいられなかった。「貞世がいるばかりで自分は人殺しもしないでこうしていられるのだ」と葉子は心の中で独語《ひとりご》ちた。
 けれどもある朝そのかすかな希望さえ破れねばならぬような事件がまくし上がった。
 その朝は暁から水がしたたりそうに空が晴れて、珍しくすがすがしい涼風が木の間から来て窓の白いカーテンをそっ[#「そっ」に傍点]となでて通るさわやかな天気だったので、夜通し貞世の寝台のわきに付き添って、睡《ねむ》くなるとそうしたままでうとうとと居睡《いねむ》りしながら過ごして来た葉子も、思いのほか頭の中が軽くなっていた。貞世もその晩はひどく熱に浮かされもせずに寝続けて、四時ごろの体温は七度八分まで下がっていた。緑色の風呂敷《ふろしき》を通して来る光でそれを発見した葉子は飛び立つような喜びを感じた。入院してから七度台に熱の下がったのはこの朝が始めてだったので、もう熱の剥離期《はくりき》が来たのかと思うと、とうとう貞世の命は取り留めたという喜悦《きえつ》の情で涙ぐましいまでに胸はいっぱいになった。ようやく一心が届いた。自分のために病気になった貞世は、自分の力でなおった。そこから自分の運命はまた新しく開けて行くかもしれない。きっと開けて行く。もう一度心置きなくこの世に生きる時が来たら、それはどのくらいいい事だろう。今度こそは考え直して生きてみよう。もう自分も二十六だ。今までのような態度で暮らしてはいられない。倉地にもすまなかった。倉地があれほどある限りのものを犠牲にして、しかもその事業といっている仕事はどう考えてみても思わしく行っていないらしいのに、自分たちの暮らし向きはまるでそんな事も考えないような寛濶《かんかつ》なものだった。自分は決心さえすればどんな境遇にでも自分をはめ込む事ぐらいできる女だ。もし今度家を持つようになったらすべてを妹たちにいって聞かして、倉地と一緒になろう。そして木村とははっきり[#「はっきり」に傍点]縁を切ろう。木村といえば……そうして葉子は倉地と古藤とがいい合いをしたその晩の事を考え出した。古藤にあんな約束をしながら、貞世の病気に紛れていたというほかに、てんで真相を告白する気がなかったので今まではなんの消息もしないでいた自分がとがめられた。ほんとうに木村にもすまなかった。今になってようやく長い間の木村の心の苦しさが想像される。もし貞世が退院するようになったら――そして退院するに決まっているが――自分は何をおいても木村に手紙を書く。そうしたらどれほど心が安くそして軽くなるかしれない。……葉子はもうそんな境界《きょうがい》が来てしまったように考えて、だれとでもその喜びをわかちたく思った。で、椅子《いす》にかけたまま右後ろを向いて見ると、床板の上に三畳|畳《たたみ》を敷いた部屋《へや》の一|隅《ぐう》に愛子がたわいもなくすやすやと眠っていた。うるさがるので貞世には蚊帳《かや》をつってなかったが、愛子の所には小さな白い西洋蚊帳がつってあった。その細かい目を通して見る愛子の顔は人形のように整って美しかった。その愛子をこれまで憎み通しに憎み、疑い通しに疑っていたのが、不思議を通り越して、奇怪な事にさえ思われた。葉子はにこにこしながら立って行って蚊帳のそばによって、
 「愛さん……愛さん」
 そうかなり大きな声で呼びかけた。ゆうべおそく枕《まくら》についた愛子はやがてようやく睡《ねむ》そうに大きな目を静かに開いて、姉が枕もとにいるのに気がつくと、寝すごしでもしたと思ったのか、あわてるように半身を起こして、そっ[#「そっ」に傍点]と葉子をぬすみ見るようにした。日ごろならばそんな挙動をすぐ疳癪《かんしゃく》の種《たね》にする葉子も、その朝ばかりはかわいそうなくらいに思っていた。
 「愛さんお喜び、貞《さあ》ちゃんの熱がとうとう七度台に下がってよ。ちょっと起きて来てごらん、それはいい顔をして寝ているから……静かにね」
 「静かにね」といいながら葉子の声は妙にはずんで高かった。愛子は柔順に起き上がってそっ[#「そっ」に傍点]と蚊帳をくぐって出て、前を合わせながら寝台のそばに来た。
 「ね?」
 葉子は笑《え》みかまけて愛子にこう呼びかけた。
 「でもなんだか、だいぶに蒼白《あおじろ》く見えますわね」
 と愛子が静かにいうのを葉子はせわしく引ったくって、
 「それは電燈の風呂敷《ふろしき》のせいだわ……それに熱が取れれば病人はみんな一度はかえって悪くなったように見えるものなのよ。ほんとうによかった。あなたも親身《しんみ》に世話してやったからよ」
 そういって葉子は右手で愛子の肩をやさしく抱いた。そんな事を愛子にしたのは葉子としては始めてだった。愛子は恐れをなしたように身をすぼめた。
 葉子はなんとなくじっ[#「じっ」に傍点]としてはいられなかった。子供らしく、早く貞世が目をさませばいいと思った。そうしたら熱の下がったのを知らせて喜ばせてやるのにと思った。しかしさすがにその小さな眠りを揺《ゆ》りさます事はし得ないで、しきりと部屋《へや》の中を片づけ始めた。愛子が注意の上に注意をしてこそ[#「こそ」に傍点]との音もさせまいと気をつかっているのに、葉子がわざとするかとも思われるほど騒々《そうぞう》しく働くさまは、日ごろとはまるで反対だった。愛子は時々不思議そうな目つきをしてそっ[#「そっ」に傍点]と葉子の挙動を注意した。
 そのうちに夜がどんどん明け離れて、電灯の消えた瞬間はちょっと部屋の中が暗くなったが、夏の朝らしく見る見るうちに白い光が窓から容赦なく流れ込んだ。昼になってからの暑さを予想させるような涼しさが青葉の軽いにおいと共に部屋の中にみちあふれた。愛子の着かえた大柄《おおがら》な白の飛白《かすり》も、赤いメリンスの帯も、葉子の目を清々《すがすが》しく刺激した。
 葉子は自分で貞世の食事を作ってやるために宿直室のそばにある小さな庖厨《ほうちゅう》に行って、洋食店から届けて来たソップを温《あたた》めて塩で味をつけている間も、だんだん起き出て来る看護婦たちに貞世の昨夜の経過を誇りがに話して聞かせた。病室に帰って見ると、愛子がすでに目ざめた貞世に朝じまいをさせていた。熱が下がったのできげんのよかるべき貞世はいっそうふきげんになって見えた。愛子のする事一つ一つに故障をいい立てて、なかなかいう事を聞こうとはしなかった。熱の下がったのに連れて始めて貞世の意志が人間らしく働き出したのだと葉子は気がついて、それも許さなければならない事だと、自分の事のように心で弁疏《べんそ》した。ようやく洗面が済んで、それから寝台の周囲を整頓《せいとん》するともう全く朝になっていた。けさこそは貞世がきっと賞美しながら食事を取るだろうと葉子はいそいそとたけの高い食卓を寝台の所に持って行った。
 その時思いがけなくも朝がけに倉地が見舞いに来た。倉地も涼しげな単衣《ひとえ》に絽《ろ》の羽織《はおり》を羽織ったままだった。その強健な、物を物ともしない姿は夏の朝の気分としっくり[#「しっくり」に傍点]そぐって見えたばかりでなく、その日に限って葉子は絵島丸の中で語り合った倉地を見いだしたように思って、その寛濶《かんかつ》な様子がなつかしくのみながめられた。倉地もつとめて葉子の立ち直った気分に同《どう》じているらしかった。それが葉子をいっそう快活にした。葉子は久しぶりでその銀の鈴のような澄みとおった声で高調子に物をいいながら二言《ふたこと》目には涼しく笑った。
 「さ、貞《さあ》ちゃん、ねえさんが上手《じょうず》に味をつけて来て上げたからソップを召し上がれ。けさはきっとおいしく食べられますよ。今までは熱で味も何もなかったわね、かわいそうに」
 そういって貞世の身ぢかに椅子《いす》を占めながら、糊《のり》の強いナフキンを枕《まくら》から喉《のど》にかけてあてがってやると、貞世の顔は愛子のいうようにひどく青味がかって見えた。小さな不安が葉子の頭をつきぬけた。葉子は清潔な銀の匙《さじ》に少しばかりソップをしゃくい上げて貞世の口もとにあてがった。
 「まずい」
 貞世はちらっと[#「ちらっと」に傍点]姉をにらむように盗み見て、口にあるだけのソップをしいて飲みこんだ。
 「おやどうして」
 「甘ったらしくって」
 「そんなはずはないがねえ。どれそれじゃも少し塩を入れてあげますわ」
 葉子は塩をたしてみた。けれども貞世はうまいとはいわなかった。また一口飲み込むともういやだといった。
 「そういわずとも少し召し上がれ、ね、せっかくねえさんが加減したんだから。第一食べないでいては弱ってしまいますよ」
 そう促してみても貞世は金輪際《こんりんざい》あとを食べようとはしなかった。
 突然自分でも思いもよらない憤怒が葉子に襲いかかった。自分がこれほど骨を折ってしてやったのに、義理にももう少しは食べてよさそうなものだ。なんというわがままな子だろう(葉子は貞世が味覚を回復していて、流動食では満足しなくなったのを少しも考えに入れなかった)。
 そうなるともう葉子は自分を統御《とうぎょ》する力を失ってしまっていた。血管の中の血が一時にかっ[#「かっ」に傍点]と燃え立って、それが心臓に、そして心臓から頭に衝《つ》き進んで、頭蓋骨《ずがいこつ》はばり[#「ばり」に傍点]ばりと音を立てて破《わ》れそうだった。日ごろあれほどかわいがってやっているのに、……憎さは一倍だった。貞世を見つめているうちに、そのやせきった細首に鍬形《くわがた》にした両手をかけて、一思いにしめつけて、苦しみもがく様子を見て、「そら見るがいい」といい捨ててやりたい衝動がむずむずとわいて来た。その頭のまわりにあてがわるべき両手の指は思わず知らず熊手《くまで》のように折れ曲がって、はげしい力のために細かく震えた。葉子は凶器に変わったようなその手を人に見られるのが恐ろしかったので、茶わんと匙《さじ》とを食卓にかえして、前だれの下に隠してしまった。上《うわ》まぶたの一文字になった目をきりっ[#「きりっ」に傍点]と据えてはた[#「はた」に傍点]と貞世をにらみつけた。葉子の目には貞世のほかにその部屋《へや》のものは倉地から愛子に至るまですっかり[#「すっかり」に傍点]見えなくなってしまっていた。
 「食べないかい」
 「食べないかい。食べなければ云々《うんぬん》」と小言《こごと》をいって貞世を責めるはずだったが、初句を出しただけで、自分の声のあまりに激しい震えように言葉を切ってしまった。
 「食べない……食べない……御飯でなくってはいやあだあ」
 葉子の声の下からすぐこうしたわがままな貞世のすねにすねた声が聞こえたと葉子は思った。まっ黒な血潮がどっ[#「どっ」に傍点]と心臓を破って脳天に衝《つ》き進んだと思った。目の前で貞世の顔が三つにも四つにもなって泳いだ。そのあとには色も声もしびれ果ててしまったような暗黒の忘我が来た。
 「おねえ様……おねえ様ひどい……いやあ……」
 「葉ちゃん……あぶない……」
 貞世と倉地の声とがもつれ合って、遠い所からのように聞こえて来るのを、葉子はだれかが何か貞世に乱暴をしているのだなと思ったり、この勢いで行かなければ貞世は殺せやしないと思ったりしていた。いつのまにか葉子はただ一筋に貞世を殺そうとばかりあせっていたのだ。葉子は闇黒《あんこく》の中で何か自分に逆らう力と根《こん》限りあらそいながら、物すごいほどの力をふりしぼってたたかっているらしかった。何がなんだかわからなかった。その混乱の中に、あるいは今自分は倉地の喉笛《のどぶえ》に針のようになった自分の十本の爪《つめ》を立てて、ねじりもがきながら争っているのではないかとも思った。それもやがて夢のようだった。遠ざかりながら人の声とも獣《けもの》の声とも知れぬ音響がかすかに耳に残って、胸の所にさし込んで来る痛みを吐き気のように感じた次の瞬間には、葉子は昏々《こんこん》として熱も光も声もない物すさまじい暗黒の中にまっさかさまに浸って行った。
 ふと葉子は擽《くす》むるようなものを耳の所に感じた。それが音響だとわかるまでにはどのくらいの時間が経過したかしれない。とにかく葉子はがや[#「がや」に傍点]がやという声をだんだんとはっきり[#「はっきり」に傍点]聞くようになった。そしてぽっかり[#「ぽっかり」に傍点]視力を回復した。見ると葉子は依然として貞世の病室にいるのだった。愛子が後ろ向きになって寝台の上にいる貞世を介抱していた。自分は……自分はと葉子は始めて自分を見回そうとしたが、からだは自由を失っていた。そこには倉地がいて葉子の首根っこに腕を回して、膝《ひざ》の上に一方の足を乗せて、しっかりと抱きすくめていた。その足の重さが痛いほど感じられ出した。やっぱり自分は倉地を死に神のもとへ追いこくろうとしていたのだなと思った。そこには白衣を着た医者も看護婦も見え出した。
 葉子はそれだけの事を見ると急に気のゆるむのを覚えた。そして涙がぼろぼろと出てしかたがなくなった。おかしな……どうしてこう涙が出るのだろうと怪しむうちに、やる瀬ない悲哀がどっ[#「どっ」に傍点]とこみ上げて来た。底のないようなさびしい悲哀……そのうちに葉子は悲哀とも睡《ねむ》さとも区別のできない重い力に圧せられてまた知覚から物のない世界に落ち込んで行った。
 ほんとうに葉子が目をさました時には、まっさおに晴天の後の夕暮れが催しているころだった。葉子は部屋《へや》のすみの三畳に蚊帳《かや》の中に横になって寝ていたのだった。そこには愛子のほかに岡も来合わせて貞世の世話をしていた。倉地はもういなかった。
 愛子のいう所によると、葉子は貞世にソップを飲まそうとしていろいろにいったが、熱が下がって急に食欲のついた貞世は飯でなければどうしても食べないといってきかなかったのを、葉子は涙を流さんばかりになって執念《しゅうね》くソップを飲ませようとした結果、貞世はそこにあったソップ皿《ざら》を臥《ね》ていながらひっくり[#「ひっくり」に傍点]返してしまったのだった。そうすると葉子はいきなり[#「いきなり」に傍点]立ち上がって貞世の胸《むな》もとをつかむなり寝台から引きずりおろしてこづき回した。幸いにい合わした倉地が大事にならないうちに葉子から貞世を取り放しはしたが、今度は葉子は倉地に死に物狂いに食ってかかって、そのうちに激しい癪《しゃく》を起こしてしまったのだとの事だった。
 葉子の心はむなしく痛んだ。どこにとて取りつくものもないようなむなしさが心には残っているばかりだった。貞世の熱はすっかり[#「すっかり」に傍点]元通りにのぼってしまって、ひどくおびえるらしい囈言《うわごと》を絶え間なしに口走った。節々《ふしぶし》はひどく痛みを覚えながら、発作《ほっさ》の過ぎ去った葉子は、ふだんどおりになって起き上がる事もできるのだった。しかし葉子は愛子や岡への手前すぐ起き上がるのも変だったのでその日はそのまま寝続けた。
 貞世は今度こそは死ぬ。とうとう自分の末路も来てしまった。そう思うと葉子はやるかたなく悲しかった。たとい貞世と自分とが幸いに生き残ったとしても、貞世はきっと永劫《えいごう》自分を命《いのち》の敵《かたき》と怨《うら》むに違いない。
 「死ぬに限る」
 葉子は窓を通して青から藍《あい》に変わって行きつつある初夏の夜の景色をながめた。神秘的な穏やかさと深さとは脳心にしみ通るようだった。貞世の枕《まくら》もとには若い岡と愛子とがむつまじげに居たり立ったりして貞世の看護に余念なく見えた。その時の葉子にはそれは美しくさえ見えた。親切な岡、柔順な愛子……二人《ふたり》が愛し合うのは当然でいい事らしい。
 「どうせすべては過ぎ去るのだ」
 葉子は美しい不思議な幻影でも見るように、電気灯の緑の光の中に立つ二人の姿を、無常を見ぬいた隠者《いんじゃ》のような心になって打ちながめた。

    四五

 この事があった日から五日たったけれども倉地はぱったり[#「ぱったり」に傍点]来なくなった。たよりもよこさなかった。金も送っては来なかった。あまりに変なので岡に頼んで下宿のほうを調べてもらうと三日前に荷物の大部分を持って旅行に出るといって姿を隠してしまったのだそうだ。倉地がいなくなると刑事だという男が二度か三度いろいろな事を尋ねに来たともいっているそうだ。岡は倉地からの一通の手紙を持って帰って来た。葉子はすぐに封を開いて見た。
[#ここから1字下げ]
 「事《こと》重大となり姿を隠す。郵便では累《るい》を及ぼさん事を恐れ、これを主人に託しおく。金も当分は送れぬ。困ったら家財道具を売れ。そのうちにはなんとかする。読後火中」
[#ここで字下げ終わり]
 とだけしたためて葉子へのあて名も自分の名も書いてはなかった。倉地の手跡には間違いない。しかしあの発作《ほっさ》以後ますますヒステリックに根性《こんじょう》のひねくれてしまった葉子は、手紙を読んだ瞬間にこれは造り事だと思い込まないではいられなかった。とうとう倉地も自分の手からのがれてしまった。やる瀬ない恨みと憤りが目もくらむほどに頭の中を攪《か》き乱した。
 岡と愛子とがすっかり[#「すっかり」に傍点]打ち解けたようになって、岡がほとんど入りびたりに病院に来て貞世の介抱をするのが葉子には見ていられなくなって来た。
 「岡さん、もうあなたこれからここにはいらっしゃらないでくださいまし。こんな事になると御迷惑があなたにかからないとも限りませんから。わたしたちの事はわたしたちがしますから。わたしはもう他人にたよりたくはなくなりました」
 「そうおっしゃらずにどうかわたしをあなたのおそばに置かしてください。わたし、決して伝染なぞを恐れはしません」
 岡は倉地の手紙を読んではいないのに葉子は気がついた。迷惑といったのを病気の伝染と思い込んでいるらしい。そうじゃない。岡が倉地の犬でないとどうしていえよう。倉地が岡を通して愛子と慇懃《いんぎん》を通《かよ》わし合っていないとだれが断言できる。愛子は岡をたらし込むぐらいは平気でする娘だ。葉子は自分の愛子ぐらいの年ごろの時の自分の経験の一々が生き返ってその猜疑心《さいぎしん》をあおり立てるのに自分から苦しまねばならなかった。あの年ごろの時、思いさえすれば自分にはそれほどの事は手もなくしてのける事ができた。そして自分は愛子よりももっと[#「もっと」に傍点]無邪気な、おまけに快活な少女であり得た。寄ってたかって自分をだましにかかるのなら、自分にだってして見せる事がある。
 「そんなにお考えならおいでくださるのはお勝手ですが、愛子をあなたにさし上げる事はできないんですからそれは御承知くださいましよ。ちゃん[#「ちゃん」に傍点]と申し上げておかないとあとになっていさくさ[#「いさくさ」に傍点]が起こるのはいやですから……愛さんお前も聞いているだろうね」
 そういって葉子は畳の上で貞世の胸にあてる湿布《しっぷ》を縫っている愛子のほうにも振り向いた。うなだれた愛子は顔も上げず返事もしなかったから、どんな様子を顔に見せたかを知る由はなかったが、岡は羞恥《しゅうち》のために葉子を見かえる事もできないくらいになっていた。それはしかし岡が葉子のあまりといえば露骨《ろこつ》な言葉を恥じたのか、自分の心持ちをあばかれたのを恥じたのか葉子の迷いやすくなった心にはしっかり[#「しっかり」に傍点]と見窮められなかった。
 これにつけかれにつけもどかしい事ばかりだった。葉子は自分の目で二人《ふたり》を看視して同時に倉地を間接に看視するよりほかはないと思った。こんな事を思うすぐそばから葉子は倉地の細君《さいくん》の事も思った。今ごろは彼らはのう[#「のう」に傍点]のうとして邪魔者がいなくなったのを喜びながら一つ家に住んでいないとも限らないのだ。それとも倉地の事だ、第二第三の葉子が葉子の不幸をいい事にして倉地のそばに現われているのかもしれない。……しかし今の場合倉地の行くえを尋ねあてる事はちょっとむずかしい。
 それからというもの葉子の心は一秒の間も休まらなかった。もちろん今まででも葉子は人一倍心の働く女だったけれども、そのころのような激しさはかつてなかった。しかもそれがいつも表から裏を行く働きかただった。それは自分ながら全く地獄《じごく》の苛責《かしゃく》だった。
 そのころから葉子はしばしば自殺という事を深く考えるようになった。それは自分でも恐ろしいほどだった。肉体の生命を絶《た》つ事のできるような物さえ目に触れれば、葉子の心はおびえながらもはっ[#「はっ」に傍点]と高鳴った。薬局の前を通るとずらっ[#「ずらっ」に傍点]とならんだ薬びんが誘惑のように目を射た。看護婦が帽子を髪にとめるための長い帽子ピン、天井の張ってない湯殿《ゆどの》の梁《はり》、看護婦室に薄赤い色をして金《かな》だらいにたたえられた昇汞水《しょうこうすい》、腐敗した牛乳、剃刀《かみそり》、鋏《はさみ》、夜ふけなどに上野《うえの》のほうから聞こえて来る汽車の音、病室からながめられる生理学教室の三階の窓、密閉された部屋《へや》、しごき帯、……なんでもかでもが自分の肉を喰《は》む毒蛇《どくじゃ》のごとく鎌首《かまくび》を立てて自分を待ち伏せしているように思えた。ある時はそれらをこの上なく恐ろしく、ある時はまたこの上なく親しみ深くながめやった。一匹の蚊にさされた時さえそれがマラリヤを伝える種類であるかないかを疑ったりした。
 「もう自分はこの世の中に何の用があろう。死にさえすればそれで事は済むのだ。この上自身も苦しみたくない。他人も苦しめたくない。いやだいやだと思いながら自分と他人とを苦しめているのが堪《た》えられない。眠りだ。長い眠りだ。それだけのものだ」
 と貞世の寝息をうかがいながらしっかり[#「しっかり」に傍点]思い込むような時もあったが、同時に倉地がどこかで生きているのを考えると、たちまち燕返《つばめがえ》しに死から生のほうへ、苦しい煩悩《ぼんのう》の生のほうへ激しく執着して行った。倉地の生きてる間に死んでなるものか……それは死よりも強い誘惑だった。意地《いじ》にかけても、肉体のすべての機関がめちゃめちゃになっても、それでも生きていて見せる。……葉子はそしてそのどちらにもほんとうの決心のつかない自分にまた苦しまねばならなかった。
 すべてのものを愛しているのか憎んでいるのかわからなかった。貞世に対してですらそうだった。葉子はどうかすると、熱に浮かされて見さかいのなくなっている貞世を、継母《ままはは》がまま子をいびり抜くように没義道《もぎどう》に取り扱った。そして次の瞬間には後悔しきって、愛子の前でも看護婦の前でも構わずにおいおいと泣きくずおれた。
 貞世の病状は悪くなるばかりだった。
 ある時伝染病室の医長が来て、葉子が今のままでいてはとても健康が続かないから、思いきって手術をしたらどうだと勧告した。黙って聞いていた葉子は、すぐ岡の差し入れ口だと邪推して取った。その後ろには愛子がいるに違いない。葉子が付いていたのでは貞世の病気はなおるどころか悪くなるばかりだ(それは葉子もそう思っていた。葉子は貞世を全快させてやりたいのだ。けれどもどうしてもいびらなければいられないのだ。それはよく葉子自身が知っていると思っていた)。それには葉子をなんとかして貞世から離しておくのが第一だ。そんな相談を医長としたものがいないはずがない。ふむ、……うまい事を考えたものだ。その復讐《ふくしゅう》はきっとしてやる。根本的に病気をなおしてからしてやるから見ているがいい。葉子は医長との対話の中に早くもこう決心した。そうして思いのほか手っ取り早く手術を受けようと進んで返答した。
 婦人科の室《へや》は伝染病室とはずっと離れた所に近ごろ新築された建て物の中にあった。七月のなかばに葉子はそこに入院する事になったが、その前に岡と古藤とに依頼して、自分の身ぢかにある貴重品から、倉地の下宿に運んである衣類までを処分してもらわなければならなかった。金の出所は全くとだえてしまっていたから。岡がしきりと融通《ゆうずう》しようと申し出たのもすげなく断わった。弟同様の少年から金まで融通してもらうのはどうしても葉子のプライドが承知しなかった。
 葉子は特等を選んで日当たりのいい広々とした部屋《へや》にはいった。そこは伝染病室とは比べものにもならないくらい新式の設備の整った居心地《いごこち》のいい所だった。窓の前の庭はまだ掘りくり返したままで赤土の上に草も生《は》えていなかったけれども、広い廊下の冷ややかな空気は涼しく病室に通りぬけた。葉子は六月の末以来始めて寝床の上に安々とからだを横たえた。疲労が回復するまでしばらくの間《あいだ》手術は見合わせるというので葉子は毎日一度ずつ内診をしてもらうだけでする事もなく日を過ごした。
 しかし葉子の精神は興奮するばかりだった。一人《ひとり》になって暇になってみると、自分の心身がどれほど破壊されているかが自分ながら恐ろしいくらい感ぜられた。よくこんなありさまで今まで通して来たと驚くばかりだった。寝台の上に臥《ね》てみると二度と起きて歩く勇気もなく、また実際できもしなかった。ただ鈍痛とのみ思っていた痛みは、どっち[#「どっち」に傍点]に臥《ね》返ってみても我慢のできないほどな激痛になっていて、気が狂うように頭は重くうずいた。我慢にも貞世を見舞うなどという事はできなかった。
 こうして臥《ね》ながらにも葉子は断片的にいろいろな事を考えた。自分の手もとにある金の事をまず思案してみた。倉地から受け取った金の残りと、調度類を売り払ってもらってできたまとまった金とが何もかにもこれから姉妹三人を養って行くただ一つの資本だった。その金が使い尽くされた後には今のところ、何をどうするという目途《あて》は露ほどもなかった。葉子はふだんの葉子に似合わずそれが気になり出してしかたがなかった。特等室なぞにはいり込んだ事が後悔されるばかりだった。といって今になって等級の下がった病室に移してもらうなどとは葉子としては思いもよらなかった。
 葉子はぜいたくな寝台の上に横になって、羽根|枕《まくら》に深々《ふかぶか》と頭を沈めて、氷嚢《ひょうのう》を額にあてがいながら、かんかんと赤土にさしている真夏の日の光を、広々と取った窓を通してながめやった。そうして物心ついてからの自分の過去を針で揉《も》み込むような頭の中でずっと見渡すように考えたどってみた。そんな過去が自分のものなのか、そう疑って見ねばならぬほどにそれははるかにもかけ隔たった事だった。父母――ことに父のなめるような寵愛《ちょうあい》の下《もと》に何一つ苦労を知らずに清い美しい童女としてすらすらと育ったあの時分がやはり自分の過去なのだろうか。木部との恋に酔いふけって、国分寺《こくぶんじ》の櫟《くぬぎ》の林の中で、その胸に自分の頭を託して、木部のいう一語一語を美酒のように飲みほしたあの少女はやはり自分なのだろうか。女の誇りという誇りを一身に集めたような美貌《びぼう》と才能の持ち主として、女たちからは羨望《せんぼう》の的《まと》となり、男たちからは嘆美の祭壇とされたあの青春の女性はやはりこの自分なのだろうか。誤解の中にも攻撃の中にも昂然《こうぜん》と首をもたげて、自分は今の日本に生まれて来《く》べき女ではなかったのだ。不幸にも時と所とを間違えて天上から送られた王女であるとまで自分に対する矜誇《ほこり》に満ちていた、あの妖婉《ようえん》な女性はまごうかたなく自分なのだろうか。絵島丸の中で味わい尽くしなめ尽くした歓楽と陶酔との限りは、始めて世に生まれ出た生きがいをしみじみと感じた誇りがなしばらくは今の自分と結びつけていい過去の一つなのだろうか……日はかんかんと赤土の上に照りつけていた。油蝉《あぶらぜみ》の声は御殿の池をめぐる鬱蒼《うっそう》たる木立ちのほうからしみ入るように聞こえていた。近い病室では軽病の患者が集まって、何かみだららしい雑談に笑い興じている声が聞こえて来た。それは実際なのか夢なのか。それらのすべては腹立たしい事なのか、哀《かな》しい事なのか、笑い捨つべき事なのか、嘆き恨まねばならぬ事なのか。……喜怒哀楽のどれか一つだけでは表わし得ない、不思議に交錯した感情が、葉子の目からとめどなく涙を誘い出した。あんな世界がこんな世界に変わってしまった。そうだ貞世が生死の境にさまよっているのはまちがいようのない事実だ。自分の健康が衰え果てたのも間違いのない出来事だ。もし毎日貞世を見舞う事ができるのならばこのままここにいるのもいい。しかし自分のからだの自由さえ今はきかなくなった。手術を受ければどうせ[#「どうせ」に傍点]当分は身動きもできないのだ。岡や愛子……そこまで来ると葉子は夢の中にいる女ではなかった。まざまざとした煩悩《ぼんのう》が勃然《ぼつぜん》としてその歯がみした物すごい鎌首《かまくび》をきっ[#「きっ」に傍点]ともたげるのだった。それもよし。近くいても看視のきかないのを利用したくば思うさま利用するがいい。倉地と三人で勝手な陰謀を企てるがいい。どうせ看視のきかないものなら、自分は貞世のためにどこか第二流か第三流の病院に移ろう。そしていくらでも貞世のほうを安楽にしてやろう。葉子は貞世から離れるといちずにそのあわれさが身にしみてこう思った。
 葉子はふと[#「ふと」に傍点]つやの事を思い出した。つやは看護婦になって京橋あたりの病院にいると双鶴館《そうかくかん》からいって来たのを思い出した。愛子を呼び寄せて電話でさがさせようと決心した。

    四六

 まっ暗な廊下が古ぼけた縁側になったり、縁側の突き当たりに階子段《はしごだん》があったり、日当たりのいい中《ちゅう》二階のような部屋《へや》があったり、納戸《なんど》と思われる暗い部屋に屋根を打ち抜いてガラスをはめて光線が引いてあったりするような、いわばその界隈《かいわい》にたくさんある待合《まちあい》の建て物に手を入れて使っているような病院だった。つやは加治木《かじき》病院というその病院の看護婦になっていた。
 長く天気が続いて、そのあとに激しい南風が吹いて、東京の市街はほこりまぶれになって、空も、家屋も、樹木も、黄粉《きなこ》でまぶしたようになったあげく、気持ち悪く蒸し蒸しと膚を汗ばませるような雨に変わったある日の朝、葉子はわずかばかりな荷物を持って人力車で加治木病院に送られた。後ろの車には愛子が荷物の一部分を持って乗っていた。須田町《すだちょう》に出た時、愛子の車は日本橋の通りをまっすぐに一足《ひとあし》先に病院に行かして、葉子は外濠《そとぼり》に沿うた道を日本銀行からしばらく行く釘店《くぎだな》の横丁《よこちょう》に曲がらせた。自分の住んでいた家を他所《よそ》ながら見て通りたい心持ちになっていたからだった。前幌《まえほろ》のすきまからのぞくのだったけれども、一年の後にもそこにはさして変わった様子は見えなかった。自分のいた家の前でちょっと車を止まらして中をのぞいて見た。門札には叔父《おじ》の名はなくなって、知らない他人の姓名が掲げられていた。それでもその人は医者だと見えて、父の時分からの永寿堂《えいじゅどう》病院という看板は相変わらず玄関の※[#「※」は「きへんに眉」、283-6]《なげし》に見えていた。長三洲《ちょうさんしゅう》と署名してあるその字も葉子には親しみの深いものだった。葉子がアメリカに出発した朝も九月ではあったがやはりその日のようにじめじめと雨の降る日だったのを思い出した。愛子が櫛《くし》を折って急に泣き出したのも、貞世が怒《おこ》ったような顔をして目に涙をいっぱいためたまま見送っていたのもその玄関を見ると描くように思い出された。
 「もういい早くやっておくれ」
 そう葉子は車の上から涙声でいった。車は梶棒《かじぼう》を向け換えられて、また雨の中を小さく揺れながら日本橋のほうに走り出した。葉子は不思議にそこに一緒に住んでいた叔父叔母《おじおば》の事を泣きながら思いやった。あの人たちは今どこにどうしているだろう。あの白痴の子ももうずいぶん大きくなったろう。でも渡米を企ててからまだ一年とはたっていないんだ。へえ、そんな短い間にこれほどの変化が……葉子は自分で自分にあきれるようにそれを思いやった。それではあの白痴の子も思ったほど大きくなっているわけではあるまい。葉子はその子の事を思うとどうしたわけか定子の事を胸が痛むほどきびしくおもい出してしまった。鎌倉《かまくら》に行った時以来、自分のふところからもぎ放してしまって、金輪際《こんりんざい》忘れてしまおうと堅く心に契っていたその定子が……それはその場合葉子を全く惨《みじ》めにしてしまった。
 病院に着いた時も葉子は泣き続けていた。そしてその病院のすぐ手前まで来て、そこに入院しようとした事を心から後悔してしまった。こんな落魄《らくはく》したような姿をつやに見せるのが堪《た》えがたい事のように思われ出したのだ。
 暗い二階の部屋《へや》に案内されて、愛子が準備しておいた床に横になると葉子はだれに挨拶《あいさつ》もせずにただ泣き続けた。そこは運河の水のにおいが泥《どろ》臭く通《かよ》って来るような所だった。愛子は煤《すす》けた障子《しょうじ》の陰で手回りの荷物を取り出して案配《あんばい》した。口少《くちずく》なの愛子は姉を慰めるような言葉も出さなかった。外部が騒々《そうぞう》しいだけに部屋の中はなおさらひっそり[#「ひっそり」に傍点]と思われた。
 葉子はやがて静かに顔をあげて部屋の中を見た。愛子の顔色が黄色く見えるほどその日の空も部屋の中も寂《さび》れていた。少し黴《かび》を持ったようにほこりっぽくぶく[#「ぶく」に傍点]ぶくする畳の上には丸盆の上に大学病院から持って来た薬びんが乗せてあった。障子ぎわには小さな鏡台が、違い棚《だな》には手文庫と硯箱《すずりばこ》が飾られたけれども、床の間には幅物《ふくもの》一つ、花活《はない》け一つ置いてなかった。その代わりに草色の風呂敷《ふろしき》に包み込んだ衣類と黒い柄《え》のパラソルとが置いてあった。薬びんの乗せてある丸盆が、出入りの商人から到来のもので、縁《ふち》の所に剥《は》げた所ができて、表には赤い短冊《たんざく》のついた矢が的《まと》に命中している画《え》が安っぽい金で描いてあった。葉子はそれを見ると盆もあろうにと思った。それだけでもう葉子は腹が立ったり情けなくなったりした。
 「愛さんあなた御苦労でも毎日ちょっとずつは来てくれないじゃ困りますよ。貞《さあ》ちゃんの様子も聞きたいしね。……貞ちゃんも頼んだよ。熱が下がって物事がわかるようになる時にはわたしもなおって帰るだろうから……愛さん」
 いつものとおりはき[#「はき」に傍点]はきとした手答えがないので、もうぎり[#「ぎり」に傍点]ぎりして来た葉子は剣《けん》を持った声で、「愛さん」と語気強く呼びかけた。言葉をかけるとそれでも片づけものの手を置いて葉子のほうに向き直った愛子は、この時ようやく顔を上げておとなしく「はい」と返事をした。葉子の目はすかさずその顔を発矢《はっし》とむちうった。そして寝床の上に半身を肘《ひじ》にささえて起き上がった。車で揺られたために腹部は痛みを増して声をあげたいほどうずいていた。
 「あなたにきょうははっきり[#「はっきり」に傍点]聞いておきたい事があるの……あなたはよもや岡さんとひょん[#「ひょん」に傍点]な約束なんぞしてはいますまいね」
 「いゝえ」
 愛子は手もなく素直《すなお》にこう答えて目を伏せてしまった。
 「古藤さんとも?」
 「いゝえ」
 今度は顔を上げて不思議な事を問いただすというようにじっ[#「じっ」に傍点]と葉子を見つめながらこう答えた。そのタクトがあるような、ないような愛子の態度が葉子をいやが上にいらだたした。岡の場合にはどこか後ろめたくて首をたれたとも見える。古藤の場合にはわざとしら[#「しら」に傍点]を切るために大胆に顔を上げたとも取れる。またそんな意味ではなく、あまり不思議な詰問が二度まで続いたので、二度目には怪訝《けげん》に思って顔を上げたのかとも考えられる。葉子は畳みかけて倉地の事まで問い正そうとしたが、その気分はくだかれてしまった。そんな事を聞いたのが第一愚かだった。隠し立てをしようと決心した以上は、女は男よりもはるかに巧妙で大胆なのを葉子は自分で存分に知り抜いているのだ。自分から進んで内兜《うちかぶと》を見透かされたようなもどかしさ[#「もどかしさ」に傍点]はいっそう葉子の心を憤らした。
 「あなたは二人《ふたり》から何かそんな事をいわれた覚えがあるでしょう。その時あなたはなんと御返事したの」
 愛子は下を向いたまま黙っていた。葉子は図星《ずぼし》をさしたと思って嵩《かさ》にかかって行った。
 「わたしは考えがあるからあなたの口からもその事を聞いておきたいんだよ。おっしゃいな」
 「お二人ともなんにもそんな事はおっしゃりはしませんわ」
 「おっしゃらない事があるもんかね」
 憤怒《ふんぬ》に伴ってさしこんで来る痛みを憤怒と共にぐっ[#「ぐっ」に傍点]と押えつけながら葉子はわざと声を和らげた。そうして愛子の挙動を爪《つめ》の先ほども見のがすまいとした。愛子は黙ってしまった。この沈黙は愛子の隠れ家《が》だった。そうなるとさすがの葉子もこの妹をどう取り扱う術《すべ》もなかった。岡なり古藤なりが告白をしているのなら、葉子がこの次にいい出す言葉で様子は知れる。この場合うっかり[#「うっかり」に傍点]葉子の口車には乗られないと愛子は思って沈黙を守っているのかもしれない。岡なり古藤なりから何か聞いているのなら、葉子はそれを十倍も二十倍もの強さにして使いこなす術《すべ》を知っているのだけれども、あいにくその備えはしていなかった。愛子は確かに自分をあなどり出していると葉子は思わないではいられなかった。寄ってたかって大きな詐偽の網を造って、その中に自分を押しこめて、周囲からながめながらおもしろそうに笑っている。岡だろうが古藤だろうが何があて[#「あて」に傍点]になるものか。……葉子は手傷を負った猪《いのしし》のように一直線に荒れて行くよりしかたがなくなった。
 「さあお言い愛さん、お前さんが黙ってしまうのは悪い癖ですよ。ねえさんを甘くお見でないよ。……お前さんほんとうに黙ってるつもりかい……そうじゃないでしょう、あればあるなければないで、はっきり[#「はっきり」に傍点]わかるように話をしてくれるんだろうね……愛さん……あなたは心からわたしを見くびってかかるんだね」
 「そうじゃありません」
 あまり葉子の言葉が激して来るので、愛子は少しおそれを感じたらしくあわててこういって言葉でささえようとした。
 「もっとこっち[#「こっち」に傍点]においで」
 愛子は動かなかった。葉子の愛子に対する憎悪《ぞうお》は極点に達した。葉子は腹部の痛みも忘れて、寝床から跳《おど》り上がった。そうしていきなり[#「いきなり」に傍点]愛子のたぶさ[#「たぶさ」に傍点]をつかもうとした。
 愛子はふだんの冷静に似ず、葉子の発作《ほっさ》を見て取ると、敏捷《びんしょう》に葉子の手もとをすり抜けて身をかわした。葉子はふらふらとよろけて一方の手を障子紙に突っ込みながら、それでも倒れるはずみ[#「はずみ」に傍点]に愛子の袖先《そでさき》をつかんだ。葉子は倒れながらそれをたぐり寄せた。醜い姉妹の争闘が、泣き、わめき、叫び立てる声の中に演ぜられた。愛子は顔や手に掻《か》き傷を受け、髪をおどろに乱しながらも、ようやく葉子の手を振り放して廊下に飛び出した。葉子はよろよろとした足取りでそのあとを追ったが、とても愛子の敏捷《びんしょう》さにはかなわなかった。そして階子段《はしごだん》の降り口の所でつやに食い止められてしまった。葉子はつやの肩に身を投げかけながらおいおいと声を立てて子供のように泣き沈んでしまった。
 幾時間かの人事不省の後に意識がはっきり[#「はっきり」に傍点]してみると、葉子は愛子とのいきさつ[#「いきさつ」に傍点]をただ悪夢のように思い出すばかりだった。しかもそれは事実に違いない。枕《まくら》もとの障子には葉子の手のさし込まれた孔《あな》が、大きく破れたまま残っている。入院のその日から、葉子の名は口さがない婦人患者の口の端《は》にうるさくのぼっているに違いない。それを思うと一時でもそこにじっ[#「じっ」に傍点]としているのが、堪《た》えられない事だった。葉子はすぐほかの病院に移ろうと思ってつやにいいつけた。しかしつやはどうしてもそれを承知しなかった。自分が身に引き受けて看護するから、ぜひともこの病院で手術を受けてもらいたいとつやはいい張った。葉子から暇を出されながら、妙に葉子に心を引きつけられているらしい姿を見ると、この場合葉子はつやにしみじみとした愛を感じた。清潔な血が細いしなやかな血管を滞りなく流れ回っているような、すべすべと健康らしい、浅黒いつやの皮膚は何よりも葉子には愛らしかった。始終吹き出物でもしそうな、膿《うみ》っぽい女を葉子は何よりも呪《のろ》わしいものに思っていた。葉子はつやのまめやか[#「まめやか」に傍点]な心と言葉に引かされてそこにい残る事にした。
 これだけ貞世から隔たると葉子は始めて少し気のゆるむのを覚えて、腹部の痛みで突然目をさますほかにはたわいなく眠るような事もあった。しかしなんといってもいちばん心にかかるものは貞世だった。ささくれて、赤くかわいた口びるからもれ出るあの囈言《うわごと》……それがどうかすると近々《ちかぢか》と耳に聞こえたり、ぼんやり[#「ぼんやり」に傍点]と目を開いたりするその顔が浮き出して見えたりした。そればかりではない、葉子の五官は非常に敏捷《びんしょう》になって、おまけにイリュウジョンやハルシネーションを絶えず見たり聞いたりするようになってしまった。倉地なんぞはすぐそばにすわっているなと思って、苦しさに目をつぶりながら手を延ばして畳の上を探ってみる事などもあった。そんなにはっきり[#「はっきり」に傍点]見えたり聞こえたりするものが、すべて虚構であるのを見いだすさびしさはたとえようがなかった。
 愛子は葉子が入院の日以来感心に毎日訪れて貞世の容体を話して行った。もう始めの日のような狼藉《ろうぜき》はしなかったけれども、その顔を見たばかりで、葉子は病気が重《おも》るように思った。ことに貞世の病状が軽くなって行くという報告は激しく葉子を怒《おこ》らした。自分があれほどの愛着をこめて看護してもよくならなかったものが、愛子なんぞの通り一ぺんの世話でなおるはずがない。また愛子はいいかげんな気休めに虚言《うそ》をついているのだ。貞世はもうひょっとすると死んでいるかもしれない。そう思って岡が尋ねて来た時に根掘り葉掘り聞いてみるが、二人《ふたり》の言葉があまりに符合するので、貞世のだんだんよくなって行きつつあるのを疑う余地はなかった。葉子には運命が狂い出したようにしか思われなかった。愛情というものなしに病気がなおせるなら、人の生命は機械でも造り上げる事ができるわけだ。そんなはずはない。それだのに貞世はだんだんよくなって行っている。人ばかりではない、神までが、自分を自然法の他の法則でもてあそぼうとしているのだ。
 葉子は歯がみをしながら貞世が死ねかしと祈るような瞬間を持った。
 日はたつけれども倉地からはほんとうになんの消息もなかった。病的に感覚の興奮した葉子は、時々肉体的に倉地を慕う衝動に駆り立てられた。葉子の心の目には、倉地の肉体のすべての部分は触れる事ができると思うほど具体的に想像された。葉子は自分で造り出した不思議な迷宮の中にあって、意識のしびれきるような陶酔にひたった。しかしその酔いがさめたあとの苦痛は、精神の疲弊と一緒に働いて、葉子を半死半生の堺《さかい》に打ちのめした。葉子は自分の妄想《もうそう》に嘔吐《おうと》を催しながら、倉地といわずすべての男を呪《のろ》いに呪った。
 いよいよ葉子が手術を受けるべき前の日が来た。葉子はそれをさほど恐ろしい事とは思わなかった。子宮後屈症と診断された時、買って帰って読んだ浩澣《こうかん》な医書によって見ても、その手術は割合に簡単なものであるのを知り抜いていたから、その事については割合に安々《やすやす》とした心持ちでいる事ができた。ただ名状し難《がた》い焦躁と悲哀とはどう片づけようもなかった。毎日来ていた愛子の足は二日おきになり三日おきになりだんだん遠ざかった。岡などは全く姿を見せなくなってしまった。葉子は今さらに自分のまわりをさびしく見回してみた。出あうかぎりの男と女とが何がなしにひき着けられて、離れる事ができなくなる、そんな磁力のような力を持っているという自負に気負って、自分の周囲には知ると知らざるとを問わず、いつでも無数の人々の心が待っているように思っていた葉子は、今はすべての人から忘られ果てて、大事な定子からも倉地からも見放し見放されて、荷物のない物置き部屋《べや》のような貧しい一室のすみっこに、夜具にくるまって暑気に蒸されながらくずれかけた五体をたよりなく横たえねばならぬのだ。それは葉子に取ってはあるべき事とは思われぬまでだった。しかしそれが確かな事実であるのをどうしよう。
 それでも葉子はまだ立ち上がろうとした。自分の病気が癒《い》えきったその時を見ているがいい。どうして倉地をもう一度自分のものに仕遂《しおお》せるか、それを見ているがいい。
 葉子は脳心にたぐり込まれるような痛みを感ずる両眼から熱い涙を流しながら、徒然《つれづれ》なままに火のような一心を倉地の身の上に集めた。葉子の顔にはいつでもハンケチがあてがわれていた。それが十分もたたないうちに熱くぬれ通って、つやに新しいのと代えさせねばならなかった。

    四七

 その夜六時すぎ、つやが来て障子《しょうじ》を開いてだんだん満ちて行こうとする月が瓦《かわら》屋根の重なりの上にぽっかりのぼったのをのぞかせてくれている時、見知らぬ看護婦が美しい花束と大きな西洋封筒に入れた手紙とを持ってはいって来てつやに渡した。つやはそれを葉子の枕《まくら》もとに持って来た。葉子はもう花も何も見る気にはなれなかった。電気もまだ来ていないのでつやにその手紙を読ませてみた。つやは薄明りにすかしすかし読みにくそうに文字を拾った。
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 「あなたが手術のために入院なさった事を岡君から聞かされて驚きました。で、きょうが外出日であるのを幸いにお見舞いします。
 「僕《ぼく》はあなたにお目にかかる気にはなりません。僕はそれほど偏狭に出来上がった人間です。けれども僕はほんとうにあなたをお気の毒に思います。倉地という人間が日本の軍事上の秘密を外国にもらす商売に関係した事が知れるとともに、姿を隠したという報道を新聞で見た時、僕はそんなに驚きませんでした。しかし倉地には二人《ふたり》ほどの外妾《がいしょう》があると付け加えて書いてあるのを見て、ほんとうにあなたをお気の毒に思いました。この手紙を皮肉に取らないでください。僕《ぼく》には皮肉はいえません。
 「僕はあなたが失望なさらないように祈ります。僕は来週の月曜日から習志野《ならしの》のほうに演習に行きます。木村からのたよりでは、彼は窮迫の絶頂にいるようです。けれども木村はそこを突き抜けるでしょう。
 「花を持って来てみました。お大事に。
                                 古 藤 生」
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 つやはつかえつかえそれだけを読み終わった。始終古藤をはるか年下な子供のように思っている葉子は、一種|侮蔑《ぶべつ》するような無感情をもってそれを聞いた。倉地が外妾《がいしょう》を二人《ふたり》持ってるといううわさは初耳ではあるけれども、それは新聞の記事であってみればあて[#「あて」に傍点]にはならない。その外妾二人というのが、美人屋敷と評判のあったそこに住む自分と愛子ぐらいの事を想像して、記者ならばいいそうな事だ。ただそう軽くばかり思ってしまった。
 つやがその花束をガラスびんにいけて、なんにも飾ってない床の上に置いて行ったあと、葉子は前同様にハンケチを顔にあてて、機械的に働く心の影と戦おうとしていた。
 その時突然死が――死の問題ではなく――死がはっきり[#「はっきり」に傍点]と葉子の心に立ち現われた。もし手術の結果、子宮底に穿孔《せんこう》ができるようになって腹膜炎を起こしたら、命の助かるべき見込みはないのだ。そんな事をふと思い起こした。部屋《へや》の姿も自分の心もどこといって特別に変わったわけではなかったけれども、どことなく葉子の周囲には確かに死の影がさまよっているのをしっかりと感じないではいられなくなった。それは葉子が生まれてから夢にも経験しない事だった。これまで葉子が死の問題を考えた時には、どうして死を招き寄せようかという事ばかりだった。しかし今は死のほうがそろそろと近寄って来ているのだ。
 月はだんだん光を増して行って、電灯に灯《ひ》もともっていた。目の先に見える屋根の間からは、炊煙だか、蚊遣《かや》り火《び》だかがうっすらと水のように澄みわたった空に消えて行く。履《は》き物《もの》、車馬の類、汽笛の音、うるさいほどの人々の話し声、そういうものは葉子の部屋をいつものとおり取り巻きながら、そして部屋の中はとにかく整頓《せいとん》して灯《ひ》がともっていて、少しの不思議もないのに、どことも知れずそこには死がはい寄って来ていた。
 葉子はぎょっ[#「ぎょっ」に傍点]として、血の代わりに心臓の中に氷の水を瀉《そそ》ぎこまれたように思った。死のうとする時はとうとう葉子には来ないで、思いもかけず死ぬ時が来たんだ。今までとめどなく流していた涙は、近づくあらしの前のそよ風のようにどこともなく姿をひそめてしまっていた。葉子はあわてふためいて、大きく目を見開き、鋭く耳をそびやかして、そこにある物、そこにある響きを捕えて、それにすがり付きたいと思ったが、目にも耳にも何か感ぜられながら、何が何やら少しもわからなかった。ただ感ぜられるのは、心の中がわけもなくただわくわくとして、すがりつくものがあれば何にでもすがりつきたいと無性《むしょう》にあせっている、その目まぐるしい欲求だけだった。葉子は震える手で枕《まくら》をなで回したり、シーツをつまみ上げてじっ[#「じっ」に傍点]と握り締めてみたりした。冷たい油汗が手のひらににじみ出るばかりで、握ったものは何の力にもならない事を知った。その失望は形容のできないほど大きなものだった。葉子は一つの努力ごとにがっかり[#「がっかり」に傍点]して、また懸命にたよりになるもの、根のあるようなものを追い求めてみた。しかしどこをさがしてみてもすべての努力が全くむだなのを心では本能的に知っていた。
 周囲の世界は少しのこだわり[#「こだわり」に傍点]もなくずるずると平気で日常の営みをしていた。看護婦が草履《ぞうり》で廊下を歩いて行く、その音一つを考えてみても、そこには明らかに生命が見いだされた。その足は確かに廊下を踏み、廊下は礎《いしずえ》に続き、礎は大地に据《す》えられていた。患者と看護婦との間に取りかわされる言葉一つにも、それを与える人と受ける人とがちゃん[#「ちゃん」に傍点]と大地の上に存在していた。しかしそれらは奇妙にも葉子とは全く無関係で没交渉だった。葉子のいる所にはどこにも底がない事を知らねばならなかった。深い谷に誤って落ち込んだ人が落ちた瞬間に感ずるあの焦躁……それが連続してやむ時なく葉子を襲うのだった。深さのわからないような暗い闇《やみ》が、葉子をただ一人《ひとり》まん中に据えておいて、果てしなくそのまわりを包もうと静かに静かに近づきつつある。葉子は少しもそんな事を欲しないのに、葉子の心持ちには頓着《とんじゃく》なく、休む事なくとどまる事なく、悠々《ゆうゆう》閑々として近づいて来る。葉子は恐ろしさにおびえて声も得《え》上げなかった。そしてただそこからのがれ出たい一心に心ばかりがあせりにあせった。
 もうだめだ、力が尽き切ったと、観念しようとした時、しかし、その奇怪な死は、すうっ[#「すうっ」に傍点]と朝霧が晴れるように、葉子の周囲から消えうせてしまった。見た所、そこには何一つ変わった事もなければ変わった物もない。ただ夏の夕《ゆうべ》が涼しく夜につながろうとしているばかりだった。葉子はきょとん[#「きょとん」に傍点]として庇《ひさし》の下に水々しく漂う月を見やった。
 ただ不思議な変化の起こったのは心ばかりだった。荒磯《あらいそ》に波また波が千変万化して追いかぶさって来ては激しく打ちくだけて、まっ白な飛沫《ひまつ》を空高く突き上げるように、これといって取り留めのない執着や、憤りや、悲しみや、恨みやが蛛手《くもで》によれ合って、それが自分の周囲の人たちと結び付いて、わけもなく葉子の心をかきむしっていたのに、その夕方の不思議な経験のあとでは、一筋の透明なさびしさだけが秋の水のように果てしもなく流れているばかりだった。不思議な事には寝入っても忘れきれないほどな頭脳の激痛も痕《あと》なくなっていた。
 神がかりにあった人が神から見放された時のように、葉子は深い肉体の疲労を感じて、寝床の上に打ち伏さってしまった。そうやっていると自分の過去や現在が手に取るようにはっきり[#「はっきり」に傍点]考えられ出した。そして冷ややかな悔恨が泉のようにわき出した。
 「間違っていた……こう世の中を歩いて来るんじゃなかった。しかしそれはだれの罪だ。わからない。しかしとにかく自分には後悔がある。できるだけ、生きてるうちにそれを償っておかなければならない」
 内田の顔がふと葉子には思い出された。あの厳格なキリストの教師ははたして葉子の所に尋ねて来てくれるかどうかわからない。そう思いながらも葉子はもう一度内田にあって話をしたい心持ちを止める事ができなかった。
 葉子は枕《まくら》もとのベルを押してつやを呼び寄せた。そして手文庫の中から洋紙でとじた手帳を取り出さして、それに毛筆で葉子のいう事を書き取らした。
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 「木村さんに。
 「わたしはあなたを詐《いつわ》っておりました。わたしはこれから他の男に嫁入ります。あなたはわたしを忘れてくださいまし。わたしはあなたの所に行ける女ではないのです。あなたのお思い違いを充分御自分で調べてみてくださいまし。
 「倉地さんに。
 「わたしはあなたを死ぬまで。けれども二人《ふたり》とも間違っていた事を今はっきり[#「はっきり」に傍点]知りました。死を見てから知りました。あなたにはおわかりになりますまい。わたしは何もかも恨みはしません。あなたの奥さんはどうなさっておいでです。……わたしは一緒に泣く事ができる。
 「内田のおじさんに。
 「わたしは今夜になっておじさんを思い出しました。おば様によろしく。
 「木部《きべ》さんに。
 「一人《ひとり》の老女があなたの所に女の子を連れて参るでしょう。その子の顔を見てやってくださいまし。
 「愛子と貞世に。
 「愛さん、貞《さあ》ちゃん、もう一度そう呼ばしておくれ。それでたくさん。
 「岡さんに。
 「わたしはあなたをも怒《おこ》ってはいません。
 「古藤さんに。
 「お花とお手紙とをありがとう。あれからわたしは死を見ました。
                            七月二十一日  葉子」
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 つやはこんなぽつり[#「ぽつり」に傍点]ぽつりと短い葉子の言葉を書き取りながら、時々|怪訝《けげん》な顔をして葉子を見た。葉子の口びるはさびしく震えて、目にはこぼれない程度に涙がにじみ出していた。
 「もうそれでいいありがとうよ。あなただけね、こんなになってしまったわたしのそばにいてくれるのは。……それだのに、わたしはこんなに零落した姿をあなたに見られるのがつらくって、来た日は途中からほかの病院に行ってしまおうかと思ったのよ。ばかだったわね」
 葉子は口ではなつかしそうに笑いながら、ほろほろと涙をこぼしてしまった。
 「それをこの枕《まくら》の下に入れておいておくれ。今夜こそはわたし久しぶりで安々とした心持ちで寝られるだろうよ、あすの手術に疲れないようによく寝ておかないといけないわね。でもこんなに弱っていても手術はできるのかしらん……もう蚊帳《かや》をつっておくれ。そしてついでに寝床をもっとそっちに引っぱって行って、月の光が顔にあたるようにしてちょうだいな。戸は寝入ったら引いておくれ。……それからちょっとあなたの手をお貸し。……あなたの手は温《あたた》かい手ね。この手はいい手だわ」
 葉子は人の手というものをこんなになつかしいものに思った事はなかった。力をこめた手でそっと[#「そっと」に傍点]抱いて、いつまでもやさしくそれをなでていたかった。つやもいつか葉子の気分に引き入れられて、鼻をすするまでに涙ぐんでいた。
 葉子はやがて打ち開いた障子から蚊帳《かや》越しにうっとり[#「うっとり」に傍点]と月をながめながら考えていた。葉子の心は月の光で清められたかと見えた。倉地が自分を捨てて逃げ出すために書いた狂言が計らずその筋の嫌疑《けんぎ》を受けたのか、それとも恐ろしい売国の罪で金をすら葉子に送れぬようになったのか、それはどうでもよかった。よしんば妾《めかけ》が幾人あってもそれもどうでもよかった。ただすべてがむなしく見える中に倉地だけがただ一人《ひとり》ほんとうに生きた人のように葉子の心に住んでいた。互いを堕落させ合うような愛しかたをした、それも今はなつかしい思い出だった。木村は思えば思うほど涙ぐましい不幸な男だった。その思い入った心持ちは何事もわだかまりのなくなった葉子の胸の中を清水《しみず》のように流れて通った。多年の迫害に復讐《ふくしゅう》する時機が来たというように、岡までをそそのかして、葉子を見捨ててしまったと思われる愛子の心持ちにも葉子は同情ができた。愛子の情けに引かされて葉子を裏切った岡の気持ちはなおさらよくわかった。泣いても泣いても泣き足りないようにかわいそうなのは貞世だった。愛子はいまにきっと自分以上に恐ろしい道に踏み迷う女だと葉子は思った。その愛子のただ一人の妹として……もしも自分の命がなくなってしまった後は……そう思うにつけて葉子は内田を考えた。すべての人は何かの力で流れて行くべき先に流れて行くだろう。そしてしまいにはだれでも自分と同様に一人ぼっちになってしまうんだ。……どの人を見てもあわれまれる……葉子はそう思いふけりながら静かに静かに西に回って行く月を見入っていた。その月の輪郭がだんだんぼやけて来て、空の中に浮き漂うようになると、葉子のまつ毛の一つ一つにも月の光が宿った。涙が目じりからあふれて両方のこめかみの所をくすぐるようにする[#「する」に傍点]すると流れ下った。口の中は粘液で粘った。許すべき何人《なんびと》もない。許さるべき何事もない。ただあるがまま……ただ一抹《いちまつ》の清い悲しい静けさ。葉子の目はひとりでに閉じて行った。整った呼吸が軽く小鼻を震わして流れた。
 つやが戸をたてにそーっ[#「そーっ」に傍点]とその部屋《へや》にはいった時には、葉子は病気を忘れ果てたもののように、がたぴし[#「がたぴし」に傍点]と戸を締める音にも目ざめずに安らけく寝入っていた。

    四八

 その翌朝手術台にのぼろうとした葉子は昨夜の葉子とは別人のようだった。激しい呼鈴《よびりん》の音で呼ばれてつやが病室に来た時には、葉子は寝床から起き上がって、したため終わった手紙の状袋を封じている所だったが、それをつやに渡そうとする瞬間にいきなり[#「いきなり」に傍点]いやになって、口びるをぶるぶる震わせながらつやの見ている前でそれをずた[#「ずた」に傍点]ずたに裂いてしまった。それは愛子にあてた手紙だったのだ。きょうは手術を受けるから九時までにぜひとも立ち会いに来るようにとしたためたのだった。いくら気丈夫でも腹を立ち割る恐ろしい手術を年若い少女が見ていられないくらいは知っていながら、葉子は何がなしに愛子にそれを見せつけてやりたくなったのだ。自分の美しい肉体がむごたらしく傷つけられて、そこから静脈《じょうみゃく》を流れているどす[#「どす」に傍点]黒い血が流れ出る、それを愛子が見ているうちに気が遠くなって、そのままそこに打ち倒れる、そんな事になったらどれほど快いだろうと葉子は思った。幾度来てくれろと電話をかけても、なんとか口実をつけてこのごろ見も返らなくなった愛子に、これだけの復讐《ふくしゅう》をしてやるのでも少しは胸がすく、そう葉子は思ったのだ。しかしその手紙をつやに渡そうとする段になると、葉子には思いもかけぬ躊躇《ちゅうちょ》が来た。もし手術中にはしたな[#「はしたな」に傍点]い囈言《うわごと》でもいってそれを愛子に聞かれたら。あの冷刻《れいこく》な愛子が面《おもて》もそむけずにじっと姉の肉体が切りさいなまれるのを見続けながら、心の中で存分に復讐心《ふくしゅうしん》を満足するような事があったら。こんな手紙を受け取ってもてんで[#「てんで」に傍点]相手にしないで愛子が来なかったら……そんな事を予想すると葉子は手紙を書いた自分に愛想が尽きてしまった。
 つやは恐ろしいまでに激昂《げきこう》した葉子の顔を見やりもし得ないで、おずおずと立ちもやらずにそこにかしこまっていた。葉子はそれがたまらないほど癪《しゃく》にさわった。自分に対してすべての人が普通の人間として交わろうとはしない。狂人にでも接するような仕打ちを見せる。だれも彼もそうだ。医者までがそうだ。
 「もう用はないのよ。早くあっちにおいで。お前はわたしを気狂《きちが》いとでも思っているんだろうね。……早く手術をしてくださいってそういっておいで。わたしはちゃん[#「ちゃん」に傍点]と死ぬ覚悟をしていますからってね」
 ゆうべなつかしく握ってやったつやの手の事を思い出すと、葉子は嘔吐《おうと》を催すような不快を感じてこういった。きたないきたない何もかもきたない。つやは所在なげにそっ[#「そっ」に傍点]とそこを立って行った。葉子は目でかみつくようにその後ろ姿を見送った。
 その日天気は上々で東向きの壁はさわってみたら内部からでもほんのり[#「ほんのり」に傍点]と暖かみを感ずるだろうと思われるほど暑くなっていた。葉子はきのうまでの疲労と衰弱とに似ず、その日は起きるとから黙って臥《ね》てはいられないくらい、からだが動かしたかった。動かすたびごとに襲って来る腹部の鈍痛や頭の混乱をいやが上にも募らして、思い存分の苦痛を味わってみたいような捨てばちな気分になっていた。そしてふらふらと少しよろけながら、衣紋《えもん》も乱したまま部屋《へや》の中を片づけようとして床の間の所に行った。懸《か》け軸もない床の間の片すみにはきのう古藤が持って来た花が、暑さのために蒸《む》れたようにしぼみかけて、甘ったるい香を放ってうなだれていた。葉子はガラスびんごとそれを持って縁側の所に出た。そしてその花のかたまり[#「かたまり」に傍点]の中にむずと熱した手を突っ込んだ。死屍《しし》から来るような冷たさが葉子の手に伝わった。葉子の指先は知らず知らず縮まって没義道《もぎどう》にそれを爪《つめ》も立たんばかり握りつぶした。握りつぶしてはびんから引き抜いて手欄《てすり》から戸外に投げ出した。薔薇《ばら》、ダリア、小田巻《おだまき》、などの色とりどりの花がばらばらに乱れて二階から部屋の下に当たるきたない路頭に落ちて行った。葉子はほとんど無意識に一つかみずつそうやって投げ捨てた。そして最後にガラスびんを力任せにたたきつけた。びんは目の下で激しくこわれた。そこからあふれ出た水がかわききった縁側板に丸い斑紋《はんもん》をいくつとなく散らかして。
 ふと見ると向こうの屋根の物干し台に浴衣《ゆかた》の類を持って干しに上がって来たらしい女中風の女が、じっ[#「じっ」に傍点]と不思議そうにこっちを見つめているのに気がついた。葉子とは何の関係もないその女までが、葉子のする事を怪しむらしい様子をしているのを見ると、葉子の狂暴な気分はますます募った。葉子は手欄《てすり》に両手をついてぶる[#「ぶる」に傍点]ぶると震えながら、その女をいつまでもいつまでもにらみつけた。女のほうでも葉子の仕打ちに気づいて、しばらくは意趣《いしゅ》に見返すふうだったが、やがて一種の恐怖に襲われたらしく、干し物を竿《さお》に通しもせずにあたふた[#「あたふた」に傍点]とあわてて干し物台の急な階子《はしご》を駆けおりてしまった。あとには燃えるような青空の中に不規則な屋根の波ばかりが目をちかちかさせて残っていた。葉子はなぜにとも知れぬため息を深くついてまんじり[#「まんじり」に傍点]とそのあからさま[#「あからさま」に傍点]な景色《けしき》を夢かなぞのようにながめ続けていた。
 やがて葉子はまたわれに返って、ふくよかな髪の中に指を突っ込んで激しく頭の地《じ》をかきながら部屋に戻《もど》った。
 そこには寝床のそばに洋服を着た一人《ひとり》の男が立っていた。激しい外光から暗い部屋《へや》のほうに目を向けた葉子には、ただまっ黒な立ち姿が見えるばかりでだれとも見分けがつかなかった。しかし手術のために医員の一人が迎えに来たのだと思われた。それにしても障子《しょうじ》のあく音さえしなかったのは不思議な事だ。はいって来ながら声一つかけないのも不思議だ。と、思うと得体《えたい》のわからないその姿は、そのまわりの物がだんだん明らかになって行く間に、たった一つだけまっ黒なままでいつまでも輪郭を見せないようだった。いわば人の形をしたまっ暗な洞穴《ほらあな》が空気の中に出来上がったようだった。始めの間《あいだ》好奇心をもってそれをながめていた葉子は見つめれば見つめるほど、その形に実質がなくって、まっ暗な空虚ばかりであるように思い出すと、ぞーっ[#「ぞーっ」に傍点]と水を浴びせられたように怖毛《おぞけ》をふるった。「木村が来た」……何という事なしに葉子はそう思い込んでしまった。爪《つめ》の一枚一枚までが肉に吸い寄せられて、毛という毛が強直《きょうちょく》して逆立《さかだ》つような薄気味わるさが総身《そうみ》に伝わって、思わず声を立てようとしながら、声は出ずに、口びるばかりがかすかに開いてぶるぶると震えた。そして胸の所に何か突きのけるような具合に手をあげたまま、ぴったり[#「ぴったり」に傍点]と立ち止まってしまった。
 その時その黒い人の影のようなものが始めて動き出した。動いてみるとなんでもない、それはやはり人間だった。見る見るその姿の輪郭がはっきり[#「はっきり」に傍点]わかって来て、暗さに慣れて来た葉子の目にはそれが岡である事が知れた。
 「まあ岡さん」
 葉子はその瞬間のなつかしさに引き入れられて、今まで出なかった声をどもるような調子で出した。岡はかすかに頬《ほお》を紅《あか》らめたようだった。そしていつものとおり上品に、ちょっと畳の上に膝《ひざ》をついて挨拶《あいさつ》した。まるで一年も牢獄《ろうごく》にいて、人間らしい人間にあわないでいた人のように葉子には岡がなつかしかった。葉子とはなんの関係もない広い世間から、一人の人が好意をこめて葉子を見舞うためにそこに天降《あまくだ》ったとも思われた。走り寄ってしっかり[#「しっかり」に傍点]とその手を取りたい衝動を抑《おさ》える事ができないほどに葉子の心は感激していた。葉子は目に涙をためながら思うままの振る舞いをした。自分でも知らぬ間に、葉子は、岡のそば近くすわって、右手をその肩に、左手を畳に突いて、しげしげと相手の顔を見やる自分を見いだした。
 「ごぶさたしていました」
 「よくいらしってくださってね」
 どっち[#「どっち」に傍点]からいい出すともなく二人《ふたり》の言葉は親しげにからみ合った。葉子は岡の声を聞くと、急に今まで自分から逃げていた力が回復して来たのを感じた。逆境にいる女に対して、どんな男であれ、男の力がどれほど強いものであるかを思い知った。男性の頼もしさがしみじみと胸に逼《せま》った。葉子はわれ知らずすがり付くように、岡の肩にかけていた右手をすべらして、膝《ひざ》の上に乗せている岡の右手の甲の上からしっかり[#「しっかり」に傍点]と捕えた。岡の手は葉子の触覚に妙に冷たく響いて来た。
 「長く長くおあいしませんでしたわね。わたしあなたを幽霊じゃないかと思いましてよ。変な顔つきをしたでしょう。貞世は……あなたけさ病院のほうからいらしったの?」
 岡はちょっと返事をためらったようだった。
 「いゝえ家から来ました。ですからわたし、きょうの御様子は知りませんが、きのうまでのところではだんだんおよろしいようです。目さえさめていらっしゃると『おねえ様おねえ様』とお泣きなさるのがほんとうにおかわいそうです」
 葉子はそれだけ聞くともう感情がもろくなっていて胸が張り裂けるようだった。岡は目ざとくもそれを見て取って、悪い事をいったと思ったらしかった。そして少しあわてたように笑い足《た》しながら、
 「そうかと思うと、たいへんお元気な事もあります。熱の下がっていらっしゃる時なんかは、愛子さんにおもしろい本を読んでおもらいになって、喜んで聞いておいでです」
 と付け足した。葉子は直覚的に岡がその場の間に合わせをいっているのだと知った。それは葉子を安心させるための好意であるとはいえ、岡の言葉は決して信用する事ができない。毎日一度ずつ大学病院まで見舞いに行ってもらうつやの言葉に安心ができないでいて、だれか目に見たとおりを知らせてくれる人はないかとあせっていた矢先、この人ならばと思った岡も、つや以上にいいかげんをいおうとしているのだ。この調子では、とうに貞世が死んでしまっていても、人たちは岡がいって聞かせるような事をいつまでも自分にいうのだろう。自分にはだれ一人《ひとり》として胸を開いて交際しようという人はいなくなってしまったのだ。そう思うとさびしいよりも、苦しいよりも、かっ[#「かっ」に傍点]と取りのぼせるほど貞世の身の上が気づかわれてならなくなった。
 「かわいそうに貞世は……さぞやせてしまったでしょうね?」
 葉子は口裏をひくようにこう尋ねてみた。
 「始終見つけているせいですか、そんなにも見えません」
 岡はハンカチで首のまわりをぬぐって、ダブル・カラーの合わせを左の手でくつろげながら少し息気《いき》苦しそうにこう答えた。
 「なんにもいただけないんでしょうね」
 「ソップと重湯《おもゆ》だけですが両方ともよく食べなさいます」
 「ひもじがっておりますか」
 「いゝえそんなでも」
 もう許せないと葉子は思い入って腹を立てた。腸チブスの予後にあるものが、食欲がない……そんなしらじらしい虚構《うそ》があるものか。みんな虚構《うそ》だ。岡のいう事もみんな虚構《うそ》だ。昨夜は病院に泊まらなかったという、それも虚構《うそ》でなくてなんだろう。愛子の熱情に燃えた手を握り慣れた岡の手が、葉子に握られて冷えるのももっともだ。昨夜はこの手は……葉子はひとみを定めて自分の美しい指にからまれた岡の美しい右手を見た。それは女の手のように白くなめらかだった。しかしこの手が昨夜は、……葉子は顔をあげて岡を見た。ことさらにあざやかに紅《あか》いその口びる……この口びるが昨夜は……眩暈《めまい》がするほど一度に押し寄せて来た憤怒と嫉妬《しっと》とのために、葉子は危うくその場にあり合わせたものにかみつこうとしたが、からくそれをささえると、もう熱い涙が目をこがすように痛めて流れ出した。
 「あなたはよくうそをおつきなさるのね」
 葉子はもう肩で息気《いき》をしていた。頭が激しい動悸《どうき》のたびごとに震えるので、髪の毛は小刻みに生き物のようにおののいた。そして岡の手から自分の手を離して、袂《たもと》から取り出したハンケチでそれを押しぬぐった。目に入る限りのもの、手に触れる限りのものがまたけがらわしく見え始めたのだ。岡の返事も待たずに葉子は畳みかけて吐き出すようにいった。
 「貞世はもう死んでいるんです。それを知らないとでもあなたは思っていらっしゃるの。あなたや愛子に看護してもらえばだれでもありがたい往生《おうじょう》ができましょうよ。ほんとうに貞世は仕合わせな子でした。……おゝおゝ貞世! お前はほんとに仕合わせな子だねえ。……岡さんいって聞かせてください、貞世はどんな死にかたをしたか。飲みたい死に水も飲まずに死にましたか。あなたと愛子がお庭を歩き回っているうちに死んでいましたか。それとも……それとも愛子の目が憎々しく笑っているその前で眠るように息気《いき》を引き取りましたか。どんなお葬式が出たんです。早桶《はやおけ》はどこで注文なさったんです。わたしの早桶のより少し大きくしないとはいりませんよ。……わたしはなんというばかだろう早く丈夫になって思いきり貞世を介抱してやりたいと思ったのに……もう死んでしまったのですものねえ。うそです……それからなぜあなたも愛子ももっとしげしげわたしの見舞いには来てくださらないの。あなたはきょうわたしを苦しめに……なぶりにいらしったのね……」
 「そんな飛んでもない!」
 岡がせきこんで葉子の言葉の切れ目にいい出そうとするのを、葉子は激しい笑いでさえぎった。
 「飛んでもない……そのとおり。あゝ頭が痛い。わたしは存分に呪《のろ》いを受けました。御安心なさいましとも。決してお邪魔はしませんから。わたしはさんざん踊りました。今度はあなた方《がた》が踊っていい番ですものね。……ふむ、踊れるものならみごとに踊ってごらんなさいまし。……踊れるものなら、はゝゝ」
 葉子は狂女のように高々《たかだか》と笑った。岡は葉子の物狂おしく笑うのを見ると、それを恥じるようにまっ紅《か》になって下を向いてしまった。
 「聞いてください」
 やがて岡はこういってきっ[#「きっ」に傍点]となった。
 「伺いましょう」
 葉子もきっ[#「きっ」に傍点]となって岡を見やったが、すぐ口じりにむごたらしい皮肉な微笑をたたえた。それは岡の気先《きさき》をさえ折るに充分なほどの皮肉さだった。
 「お疑いなさってもしかたがありません。わたし、愛子さんには深い親しみを感じております……」
 「そんな事なら伺うまでもありませんわ。わたしをどんな女だと思っていらっしゃるの。愛子さんに深い親しみを感じていらっしゃればこそ、けさはわざわざ何日《いつ》ごろ死ぬだろうと見に来てくださったのね。なんとお礼を申していいか、そこはお察しくださいまし。きょうは手術を受けますから、死骸《しがい》になって手術室から出て来る所をよっく御覧なさってあなたの愛子に知らせて喜ばしてやってくださいましよ。死にに行く前に篤《とく》とお礼を申します。絵島丸ではいろいろ御親切をありがとうございました。お陰様でわたしはさびしい世の中から救い出されました。あなたをおにいさんともお慕いしていましたが、愛子に対しても気恥ずかしくなりましたから、もうあなたとは御縁を断ちます。というまでもない事ですわね。もう時間が来ますからお立ちくださいまし」
 「わたし、ちっとも[#「ちっとも」に傍点]知りませんでした。ほんとうにそのおからだで手術をお受けになるのですか」
 岡はあきれたような顔をした。
 「毎日大学に行くつやはばかですから何も申し上げなかったんでしょうよ。申し上げてもお聞こえにならなかったかもしれませんわね」
 と葉子はほほえんで、まっさおになった顔にふりかかる髪の毛を左の手で器用にかき上げた。その小指はやせ細って骨ばかりのようになりながらも、美しい線を描いて折れ曲がっていた。
 「それはぜひお延ばしくださいお願いしますから……お医者さんもお医者さんだと思います」
 「わたしがわたしだもんですからね」
 葉子はしげしげと岡を見やった。その目からは涙がすっかり[#「すっかり」に傍点]かわいて、額の所には油汗がにじみ出ていた。触れてみたら氷のようだろうと思われるような青白い冷たさが生《は》えぎわかけて漂っていた。
 「ではせめてわたしに立ち会わしてください」
 「それほどまでにあなたはわたしがお憎いの?……麻酔《ますい》中にわたしのいう囈口《うわごと》でも聞いておいて笑い話の種になさろうというのね。えゝ、ようごさいますいらっしゃいまし、御覧に入れますから。呪《のろ》いのためにやせ細ってお婆《ばあ》さんのようになってしまったこのからだを頭から足の爪先《つまさき》まで御覧に入れますから……今さらおあきれになる余地もありますまいけれど」
 そういって葉子はやせ細った顔にあらん限りの媚《こ》びを集めて、流眄《ながしめ》に岡を見やった。岡は思わず顔をそむけた。
 そこに若い医員がつやをつれてはいって来た。葉子は手術のしたくができた事を見て取った。葉子は黙って医員にちょっと挨拶《あいさつ》したまま衣紋《えもん》をつくろってすぐ座を立った。それに続いて部屋《へや》を出て来た岡などは全く無視した態度で、怪しげな薄暗い階子段《はしごだん》を降りて、これも暗い廊下を四五|間《けん》たどって手術室の前まで来た。つやが戸のハンドルを回してそれをあけると、手術室からはさすがにまぶしい豊かな光線が廊下のほうに流れて来た。そこで葉子は岡のほうに始めて振り返った。
 「遠方をわざわざ御苦労さま。わたしはまだあなたに肌《はだ》を御覧に入れるほどの莫連者《ばくれんもの》にはなっていませんから……」
 そう小さな声でいって悠々《ゆうゆう》と手術室にはいって行った。岡はもちろん押し切ってあとについては来なかった。
 着物を脱ぐ間に、世話に立ったつやに葉子はこうようやくにしていった。
 「岡さんがはいりたいとおっしゃっても入れてはいけないよ。それから……それから(ここで葉子は何がなしに涙ぐましくなった)もしわたしが囈言《うわごと》のような事でもいいかけたら、お前に一生のお願いだからね、わたしの口を……口を抑《おさ》えて殺してしまっておくれ。頼むよ。きっと!」
 婦人科病院の事とて女の裸体は毎日幾人となく扱いつけているくせに、やはり好奇な目を向けて葉子を見守っているらしい助手たちに、葉子はやせさらばえた自分をさらけ出して見せるのが死ぬよりつらかった。ふとした出来心から岡に対していった言葉が、葉子の頭にはいつまでもこびり付いて、貞世はもうほんとうに死んでしまったもののように思えてしかたがなかった。貞世が死んでしまったのに何を苦しんで手術を受ける事があろう。そう思わないでもなかった。しかし場合が場合でこうなるよりしかたがなかった。
 まっ白な手術衣を着た医員や看護婦に囲まれて、やはりまっ白な手術台は墓場のように葉子を待っていた。そこに近づくと葉子はわれにもなく急におびえが出た。思いきり鋭利なメスで手ぎわよく切り取ってしまったらさぞさっぱり[#「さっぱり」に傍点]するだろうと思っていた腰部の鈍痛も、急に痛みが止まってしまって、からだ全体がしびれるようにしゃちこば[#「しゃちこば」に傍点]って冷や汗が額にも手にもしとどに流れた。葉子はただ一つの慰藉《いしゃ》のようにつやを顧みた。そのつやの励ますような顔をただ一つのたよりにして、細かく震えながら仰向けに冷やっとする手術台に横たわった。
 医員の一人《ひとり》が白布の口あてを口から鼻の上にあてがった。それだけで葉子はもう息気《いき》がつまるほどの思いをした。そのくせ目は妙にさえて目の前に見る天井板の細かい木理《もくめ》までが動いて走るようにながめられた。神経の末梢《まっしょう》が大風にあったようにざわざわと小気味わるく騒ぎ立った。心臓が息気《いき》苦しいほど時々働きを止めた。
 やがて芳芬《ほうふん》の激しい薬滴が布の上にたらされた。葉子は両手の脈所《みゃくどころ》を医員に取られながら、その香《にお》いを薄気味わるくかいだ。
 「ひとーつ」
 執刀者が鈍い声でこういった。
 「ひとーつ」
 葉子のそれに応ずる声は激しく震えていた。
 「ふたーつ」
 葉子は生命の尊《とうと》さをしみじみと思い知った。死もしくは死の隣へまでの不思議な冒険……そう思うと血は凍るかと疑われた。
 「ふたーつ」
 葉子の声はますます震えた。こうして数を読んで行くうちに、頭の中がしんしんと冴《さ》えるようになって行ったと思うと、世の中がひとりでに遠のくように思えた。葉子は我慢ができなかった。いきなり右手を振りほどいて力任せに口の所を掻《か》い払った。しかし医員の力はすぐ葉子の自由を奪ってしまった。葉子は確かにそれにあらがっているつもりだった。
 「倉地が生きている間――死ぬものか、……どうしてももう一度その胸に……やめてください。狂気で死ぬとも殺されたくはない。やめて……人殺し」
 そう思ったのかいったのか、自分ながらどっちとも定めかねながら葉子はもだえた。
 「生きる生きる……死ぬのはいやだ……人殺し!……」
 葉子は力のあらん限り戦った、医者とも薬とも……運命とも……葉子は永久に戦った。しかし葉子は二十も数を読まないうちに、死んだ者同様に意識なく医員らの目の前に横たわっていたのだ。

    四九

 手術を受けてから三日を過ぎていた。その間非常に望ましい経過を取っているらしく見えた容態は三日目の夕方から突然激変した。突然の高熱、突然の腹痛、突然の煩悶《はんもん》、それは激しい驟雨《しゅうう》が西風に伴われてあらしがかった天気模様になったその夕方の事だった。
 その日の朝からなんとなく頭の重かった葉子は、それが天候のためだとばかり思って、しいてそういうふうに自分を説服して、憂慮を抑《おさ》えつけていると、三時ごろからどんどん熱が上がり出して、それと共に下腹部の疼痛《とうつう》が襲って来た。子宮底|穿孔《せんこう》?![#「?!」は横一列] なまじっか医書を読みかじった葉子はすぐそっちに気を回した。気を回してはしいてそれを否定して、一時《いっとき》延ばしに容態の回復を待ちこがれた。それはしかしむだだった。つやがあわてて当直医を呼んで来た時には、葉子はもう生死を忘れて床の上に身を縮み上がらしておいおいと泣いていた。
 医員の報告で院長も時を移さずそこに駆けつけた。応急の手あてとして四個の氷嚢《ひょうのう》が下腹部にあてがわれた。葉子は寝衣《ねまき》がちょっと肌にさわるだけの事にも、生命をひっぱたか[#「ひっぱたか」に傍点]れるような痛みを覚えて思わずきゃっ[#「きゃっ」に傍点]と絹を裂くような叫び声をたてた。見る見る葉子は一寸《いっすん》の身動きもできないくらい疼痛《とうつう》に痛めつけられていた。
 激しい音を立てて戸外では雨の脚《あし》が瓦《かわら》屋根をたたいた。むしむしする昼間《ひるま》の暑さは急に冷《ひ》え冷《び》えとなって、にわかに暗くなった部屋《へや》の中に、雨から逃げ延びて来たらしい蚊がぶーんと長く引いた声を立てて飛び回った。青白い薄|闇《やみ》に包まれて葉子の顔は見る見るくずれて行った。やせ細っていた頬《ほお》はことさらげっそりとこけて、高々とそびえた鼻筋の両側には、落ちくぼんだ両眼が、中有《ちゅうう》の中を所きらわずおどおどと何物かをさがし求めるように輝いた。美しい弧を描いて延びていた眉《まゆ》は、めちゃくちゃにゆがんで、眉間《みけん》の八の字の所に近々と寄り集まった。かさかさにかわききった口びるからは吐く息気《いき》ばかりが強く押し出された。そこにはもう女の姿はなかった。得体《えたい》のわからない動物がもだえもがいているだけだった。
 間《ま》を置いてはさし込んで来る痛み……鉄の棒をまっ赤《か》に焼いて、それで下腹の中を所きらわずえぐり回すような[#底本では「やうな」]痛みが来ると、葉子は目も口もできるだけ堅く結んで、息気《いき》もつけなくなってしまった。何人そこに人がいるのか、それを見回すだけの気力もなかった。天気なのかあらしなのか、それもわからなかった。稲妻が空を縫って走る時には、それが自分の痛みが形になって現われたように見えた。少し痛みが退くとほっ[#「ほっ」に傍点]と吐息《といき》をして、助けを求めるようにそこに付いている医員に目ですがった。痛みさえなおしてくれれば殺されてもいいという心と、とうとう自分に致命的な傷を負わしたと恨む心とが入り乱れて、旋風のようにからだじゅうを通り抜けた。倉地がいてくれたら……木村がいてくれたら……あの親切な木村がいてくれたら……そりゃだめだ。もうだめだ。……だめだ。貞世だって苦しんでいるんだ、こんな事で……痛い痛い痛い……つやはいるのか(葉子は思いきって目を開いた。目の中が痛かった)いる。心配そうな顔をして、……うそだあの顔が何が心配そうな顔なものか……みんな他人だ……なんの縁故もない人たちだ……みんなのんきな顔をして何事もせずにただ見ているんだ……この悩みの百分の一でも知ったら……あ、痛い痛い痛い! 定子……お前はまだどこかに生きているのか、貞世は死んでしまったのだよ、定子……わたしも死ぬんだ死ぬよりも苦しい、この苦しみは……ひどい、これで死なれるものか……こんなにされて死なれるものか……何か……どこか……だれか……助けてくれそうなものだのに……神様! あんまりです……
 葉子は身もだえもできない激痛の中で、シーツまでぬれとおるほどな油汗をからだじゅうにかきながら、こんな事をつぎつぎに口走るのだったが、それはもとより言葉にはならなかった。ただ時々痛いというのがむごたらしく聞こえるばかりで、傷ついた牛のように叫ぶほかはなかった。
 ひどい吹き降りの中に夜が来た。しかし葉子の容態は険悪になって行くばかりだった。電灯が故障のために来《こ》ないので、室内には二本の蝋燭《ろうそく》が風にあおられながら、薄暗くともっていた。熱度を計った医員は一度一度そのそばまで行って、目をそばめながら度盛《ども》りを見た。
 その夜苦しみ通した葉子は明けがた近く少し痛みからのがれる事ができた。シーツを思いきりつかんでいた手を放して、弱々と額の所をなでると、たびたび看護婦がぬぐってくれたのにも係わらず、ぬるぬるするほど手も額も油汗でしとどになっていた。「とても助からない」と葉子は他人事《ひとごと》のように思った。そうなってみると、いちばん強い望みはもう一度倉地に会ってただ一目その顔を見たいという事だった。それはしかし望んでもかなえられる事でないのに気づいた。葉子の前には暗いものがあるばかりだった。葉子はほっ[#「ほっ」に傍点]とため息をついた。二十六年間の胸の中の思いを一時に吐き出してしまおうとするように。
 やがて葉子はふと[#「ふと」に傍点]思い付いて目でつやを求めた。夜通し看護に余念のなかったつやは目ざとくそれを見て寝床に近づいた。葉子は半分目つきに物をいわせながら、
 「枕《まくら》の下枕の下」
 といった。つやが枕の下をさがすとそこから、手術の前の晩につやが書き取った書き物が出て来た。葉子は一生懸命な努力でつやにそれを焼いて捨てろ、今見ている前で焼いて捨てろと命じた。葉子の命令はわかっていながら、つやが躊躇《ちゅうちょ》しているのを見ると、葉子はかっ[#「かっ」に傍点]と腹が立って、その怒りに前後を忘れて起き上がろうとした。そのために少しなごんでいた下腹部の痛みが一時に押し寄せて来た。葉子は思わず気を失いそうになって声をあげながら、足を縮めてしまった。けれども一生懸命だった。もう死んだあとにはなんにも残しておきたくない。なんにもいわないで死のう。そういう気持ちばかりが激しく働いていた。
 「焼いて」
 悶絶《もんぜつ》するような苦しみの中から、葉子はただ一言《ひとこと》これだけを夢中になって叫んだ。つやは医員に促されているらしかったが、やがて一台の蝋燭《ろうそく》を葉子の身近に運んで来て、葉子の見ている前でそれを焼き始めた。めら[#「めら」に傍点]めらと紫色の焔《ほのお》が立ち上がるのを葉子は確かに見た。
 それを見ると葉子は心からがっかり[#「がっかり」に傍点]してしまった。これで自分の一生はなんにもなくなったと思った。もういい……誤解されたままで、女王は今死んで行く……そう思うとさすがに一抹《いちまつ》の哀愁がしみじみと胸をこそいで通った。葉子は涙を感じた。しかし涙は流れて出ないで、目の中が火のように熱くなったばかりだった。
 またもひどい疼痛《とうつう》が襲い始めた、葉子は神の締《し》め木《ぎ》にかけられて、自分のからだが見る見るやせて行くのを自分ながら感じた。人々が薄気味わるげに見守っているのにも気がついた。
 それでもとうとうその夜も明け離れた。
 葉子は精《せい》も根《こん》も尽き果てようとしているのを感じた。身を切るような痛みさえが時々は遠い事のように感じられ出したのを知った。もう仕残していた事はなかったかと働きの鈍った頭を懸命に働かして考えてみた。その時ふと[#「ふと」に傍点]定子の事が頭に浮かんだ。あの紙を焼いてしまっては木部と定子とがあう機会はないかもしれない。だれかに定子を頼んで……葉子はあわてふためきながらその人を考えた。
 内田……そうだ内田に頼もう。葉子はその時不思議ななつかしさ[#「なつかしさ」に傍点]をもって内田の生涯《しょうがい》を思いやった。あの偏頗《へんぱ》で頑固《がんこ》で意地《いじ》っぱりな内田の心の奥の奥に小さく潜んでいる澄みとおった魂が始めて見えるような心持ちがした。
 葉子はつやに古藤を呼び寄せるように命じた。古藤の兵営にいるのはつやも知っているはずだ。古藤から内田にいってもらったら内田が来てくれないはずはあるまい、内田は古藤を愛しているから。
 それから一時間苦しみ続けた後に、古藤の例の軍服姿は葉子の病室に現われた。葉子の依頼をようやく飲みこむと、古藤はいちずな顔に思い入った表情をたたえて、急いで座を立った。
 葉子はだれにとも何にともなく息気《いき》を引き取る前に内田の来るのを祈った。
 しかし小石川《こいしかわ》に住んでいる内田はなかなかやって来る様子も見せなかった。
 「痛い痛い痛い……痛い」
 葉子が前後を忘れわれを忘れて、魂をしぼり出すようにこううめく悲しげな叫び声は、大雨のあとの晴れやかな夏の朝の空気をかき乱して、惨《いた》ましく聞こえ続けた。
(後編 了)



底本:「或る女 後編」岩波文庫、岩波書店
   1950(昭和25)年9月5日 第1刷発行
   1968(昭和43)年8月16日 第23刷改版発行
   1998(平成10)年11月16日 第37刷発行
入力:真先芳秋
校正:地田尚
2000年3月1日公開
2001年8月6日修正
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