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羅生門
芥川龍之介

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)或日《あるひ》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)所々|丹塗《にぬり》の剥げた

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「てへん+丑」、第4水準2-12-93]

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)蟋蟀《きり/″\す》
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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 或日《あるひ》の暮方の事である。一人の下人が、羅生門《らしやうもん》の下で雨やみを待つてゐた。
 廣い門の下には、この男の外《ほか》に誰もゐない。唯、所々|丹塗《にぬり》の剥げた、大きな圓柱《まるばしら》に、蟋蟀《きり/″\す》が一匹とまつてゐる。羅生門《らしやうもん》が、朱雀大路《すじやくおおぢ》にある以上《いじやう》は、この男の外にも、雨《あめ》やみをする市女笠《いちめがさ》や揉烏帽子が、もう二三|人《にん》はありさうなものである。それが、この男《をとこ》の外《ほか》には誰《たれ》もゐない。
 何故《なぜ》かと云ふと、この二三年、京都には、地震《ぢしん》とか辻風とか火事とか饑饉とか云ふ災《わざはひ》がつゞいて起つた。そこで洛中《らくちう》のさびれ方《かた》は一通りでない。舊記によると、佛像や佛具を打砕《うちくだ》いて、その丹《に》がついたり、金銀の箔《はく》がついたりした木を、路ばたにつみ重ねて、薪《たきぎ》の料《しろ》に賣つてゐたと云ふ事である。洛中《らくちう》がその始末であるから、羅生門の修理《しゆり》などは、元より誰も捨てゝ顧《かへりみ》る者がなかつた。するとその荒《あ》れ果《は》てたのをよい事にして、狐狸《こり》が棲む。盗人《ぬすびと》が棲む。とうとうしまひには、引取《ひきと》り手のない死人を、この門へ持つて來て、棄てゝ行くと云ふ習慣《しふくわん》さへ出來た。そこで、日の目が見えなくなると、誰でも氣味《きみ》を惡るがつて、この門の近所《きんじよ》へは足《あし》ぶみをしない事になつてしまつたのである。
 その代り又|鴉《からす》が何處《どこ》からか、たくさん集つて來た。晝間《ひるま》見《み》ると、その鴉が何羽《なんば》となく輪を描いて高い鴟尾《しび》のまはりを啼《な》きながら、飛びまはつてゐる。殊に門の上の空が、夕燒《ゆふや》けであかくなる時《とき》には、それが胡麻《ごま》をまいたやうにはつきり見えた。鴉《からす》は、勿論、門の上にある死人《しにん》の肉を、啄みに來るのである。――尤も今日は、刻限《こくげん》が遲《おそ》いせいか、一羽も見えない。唯、所々《ところどころ》、崩れかゝつた、さうしてその崩《くづ》れ目に長い草のはへた石段《いしだん》の上に、鴉《からす》の糞《くそ》が、點々と白くこびりついてゐるのが見える。下人《げにん》は七段ある石段の一番上の段《だん》に洗《あら》ひざらした紺《こん》の襖《あを》の尻を据ゑて、右の頬に出來た、大きな面皰《にきび》を氣にしながら、ぼんやり、雨《あめ》のふるのを眺《なが》めてゐるのである。
 作者《さくしや》はさつき、「下人が雨やみを待つてゐた」と書いた。しかし、下人《げにん》は、雨がやんでも格別《かくべつ》どうしようと云ふ當てはない。ふだんなら、勿論《もちろん》、主人の家へ歸る可き筈である。所《ところ》がその主人からは、四五日前に暇《ひま》を出《だ》された。前にも書いたやうに、當時《たうじ》京都《きやうと》の町は一通りならず衰微《すゐび》してゐた。今この下人が、永年《ながねん》、使はれてゐた主人から、暇《ひま》を出されたのも、この衰微の小さな餘波に外ならない。だから「下人が雨《あめ》やみを待つてゐた」と云《い》ふよりも、「雨にふりこめられた下人が、行《ゆ》き所《どころ》がなくて、途方にくれてゐた」と云ふ方が、適當《てきたう》である。その上、今日の空模樣《そらもやう》も少からずこの平安朝《へいあんてう》の下人の Sentimentalisme に影響《えいきやう》した。申《さる》の刻下りからふり出した雨は、未に上《あが》るけしきがない。そこで、下人は、何を措いても差當《さしあた》り明日の暮《くら》しをどうにかしようとして――云はゞどうにもならない事《こと》を、どうにかしようとして、とりとめもない考《かんが》へをたどりながら、さつきから朱雀大路《すじやくおはぢ》にふる雨の音を、聞くともなく聞いてゐた。
 雨は、羅生門《らしやうもん》をつゝんで、遠《とほ》くから、ざあつと云ふ音をあつめて來る。夕闇は次第に空を低くして、見上《みあ》げると、門の屋根が、斜につき出した甍《いらか》[#「甍」は底本では「薨」]の先《さき》に、重たくうす暗《くら》い雲《くも》を支へてゐる。
 どうにもならない事を、どうにかする爲には、手段《しゆだん》を選んでゐる遑《いとま》はない。選んでゐれば、築土《ついぢ》の下か、道ばたの土の上で、饑死《うゑじに》をするばかりである。さうして、この門の上へ持つて來て、犬《いぬ》のやうに棄《す》てられてしまふばかりである。選《えら》ばないとすれば――下人の考へは、何度《なんど》も同じ道を低徊した揚句《あげく》に、やつとこの局所へ逢着《はうちやく》した。しかしこの「すれば」は、何時《いつ》までたつても、結局「すれば」であつた。下人は、手段《しゆだん》を選ばないといふ事を肯定《こうてい》しながらも、この「すれば」のかたをつける爲に、當然《たうぜん》、その後に來る可き「盗人《ぬすびと》になるより外に仕方《しかた》がない」と云ふ事を、積極的《せきゝよくてき》に肯定する丈の、勇氣が出ずにゐたのである。
 下人は、大きな嚏《くさめ》をして、それから、大儀さうに立上つた。夕冷《ゆふひ》えのする京都は、もう火桶《ひをけ》が欲しい程の寒さである。風は門の柱《はしら》と柱との間を、夕闇と共に遠慮なく、吹きぬける。丹塗《にぬり》の柱にとまつてゐた蟋蟀《きり/″\す》も、もうどこかへ行つてしまつた。
 下人は、頸をちゞめながら、山吹の汗衫《かざみ》に重ねた、紺の襖の肩を高《たか》くして門のまはりを見まはした。雨風《あめかぜ》の患のない、人目にかゝる惧のない、一|晩《ばん》樂《らく》にねられさうな所があれば、そこでともかくも、夜《よ》を明《あ》[#ルビの「あ」は底本では「あか」]かさうと思つたからである。すると、幸門の上の樓《ろう》へ上る、幅の廣い、之も丹を塗つた梯子《はしご》が眼についた。上《うへ》なら、人がゐたにしても、どうせ死人《しにん》ばかりである。下人は、そこで腰にさげた聖柄《ひぢりづか》の太刀が鞘走らないやうに氣をつけながら、藁草履《わらざうり》をはいた足を、その梯子の一|番下《ばんした》の段へふみかけた。
 それから、何分《なんぷん》かの後である。羅生門の樓の上へ出る、幅《はゞ》の廣い梯子の中段に、一人の男が、猫《ねこ》のやうに身をちゞめて、息《いき》を殺しながら、上の容子《ようす》を窺つてゐた。樓の上からさす火《ひ》の光《ひかり》が、かすかに、その男の右の頬《ほゝ》をぬらしてゐる。短い鬚《ひげ》の中に、赤く膿を持つた面皰《にきび》のある頬である。下人は、始めから、この上にゐる者は、死人《しにん》ばかりだと高を括つてゐた。それが、梯子《はしご》を二三段上つて見ると、上では誰か火《ひ》をとぼして、しかもその火を其處此處《そこゝこ》と動《うご》かしてゐるらしい。これは、その濁つた、黄いろい光が、隅々《すみ/″\》に蜘蛛の巣をかけた天井裏に、ゆれながら映《うつ》つたので、すぐにそれと知れたのである。この雨の夜に、この羅生門の上で、火をともしてゐるからは、どうせ唯の者ではない。
 下人は、守宮《やもり》のやうに足音をぬすんで、やつと急《きふ》な梯子を、一番上の段まで這ふやうにして上りつめた。さうして體《からだ》を出來る丈、平にしながら、頸《くび》を出來る丈、前へ出して、恐《おそ》る恐る、樓の内を覗《のぞ》いて見た。
 見ると、樓の内には、噂《うはさ》に聞いた通り、幾つかの屍骸《しがい》が、無造作《むざうさ》に棄てゝあるが、火の光の及ぶ範圍《はんゐ》が、思つたより狹いので、數《かず》は幾つともわからない。唯、おぼろげながら、知れるのは、その中に裸《はだか》の屍骸と、着物《きもの》を着た屍骸とがあると云ふ事である。勿論《もちろん》、中には女も男もまじつてゐるらしい。さうして、その屍骸は皆、それが、甞、生きてゐた人間だと云ふ事實《じゞつ》さへ疑はれる程、土を捏ねて造つた人形《にんぎやう》のやうに、口を開《あ》いたり手を延ばしたりしてごろごろ床《ゆか》の上にころがつてゐた。しかも、肩とか胸《むね》とかの高くなつてゐる部分《ぶゞん》に、ぼんやりした火の光をうけて、低くなつてゐる部分の影を一|層《そう》暗《くら》くしながら、永久に唖《おし》の如く默《だま》つていた。
 下人は、それらの屍骸の腐爛《ふらん》した臭氣に思はず、鼻《はな》を掩つた。しかし、その手は、次の瞬間《しゆんかん》には、もう鼻を掩ふ事を忘れてゐた。或る強い感情《かんじやう》が、殆悉この男の嗅覺を奪つてしまつたからである。
 下人の眼は、その時、はじめて、其《その》屍骸《しがい》の中に蹲つている人間を見た。檜肌色《ひはだいろ》の着物を著た、背の低い、痩せた、白髮頭《しらがあたま》の、猿のやうな老婆である。その老婆は、右の手に火をともした松《まつ》の木片を持つて、その屍骸《しがい》の一つの顏を覗きこむやうに眺《なが》めてゐた。髮の毛の長い所を見ると、多分《たぶん》女《をんな》の屍骸であらう。
 下人は、六分の恐怖《きやうふ》と四分の好奇心とに動かされて、暫時は呼吸《いき》をするのさへ忘れてゐた。舊記の記者《きしや》の語を借りれば、「頭身《とうしん》の毛も太る」やうに感じたのである。すると、老婆《らうば》は、松の木片を、床板の間に挿《さ》して、それから、今まで眺めてゐた屍骸の首に兩手《りやうて》をかけると、丁度、猿の親が猿の子の虱《しらみ》をとるやうに、その長い髮《かみ》の毛《け》を一本づゝ拔きはじめた。髮は手に從《したが》つて拔けるらしい。
 その髮の毛が、一本ずゝ拔《ぬ》けるのに從つて下人の心《こゝろ》からは、恐怖が少しづつ消えて行つた。さうして、それと同時《どうじ》に、この老婆に對するはげしい憎惡《ぞうを》が、少しづゝ動いて來た。――いや、この老婆《らうば》に對すると云つては、語弊《ごへい》があるかも知れない。寧、あらゆる惡に對する反感《はんかん》が、一分毎に強さを増して來たのである。この時、誰《たれ》かがこの下人に、さつき門《もん》の下でこの男が考へてゐた、饑死《うゑじに》をするか盗人になるかと云ふ問題を、改めて持出《もちだ》したら、恐らく下人は、何の未練《みれん》もなく、饑死を選んだ事であらう。それほど、この男《をとこ》の惡を憎む心は、老婆の床《ゆか》に挿した松の木片のやうに、勢よく燃《も》え上《あが》り出してゐたのである。
 下人には、勿論、何故老婆が死人《しにん》の髮の毛を拔《ぬ》くかわからなかつた。從つて、合理的《がふりてき》には、それを善惡の何れに片《かた》づけてよいか知らなかつた。しかし下人にとつては、この雨《あめ》の夜《よ》に、この羅生門の上で、死人の髮の毛《け》を拔くと云ふ事が、それ丈で既に許《ゆる》す可らざる惡であつた。勿論、下人《げにん》は、さつき迄自分が、盗人になる氣でゐた事なぞは、とうに忘れてゐるのである。
 そこで、下人は、兩足《りやうあし》に力を入れて、いきなり、梯子《はしご》から上へ飛び上つた。さうして聖柄《ひぢりづか》の太刀に手をかけながら、大股《おおまた》に老婆の前へ歩みよつた。老婆が驚いたのは、云ふ迄もない。
 老婆は、一目下人を見ると、まるで弩《いしゆみ》にでも弾かれたやうに、飛び上つた。
「おのれ、どこへ行く。」
 下人は、老婆が屍骸《しがい》につまづきながら、慌《あは》てふためいて逃げようとする行手を塞いで、こう罵《のゝし》つた。老婆は、それでも下人をつきのけて行《ゆ》かうとする。下人は又、それを行かすまいとして、押《お》しもどす。二人は屍骸《しがい》の中で、暫、無言《むごん》のまゝ、つかみ合つた。しかし勝敗《しようはい》は、はじめから、わかつている。下人はとうとう、老婆の腕《うで》をつかんで、無理にそこへ※[#「てへん+丑」、第4水準2-12-93]《ね》ぢ倒《たほ》した。丁度、鷄《とり》の脚のやうな、骨と皮ばかりの腕である。
「何をしてゐた。さあ何をしてゐた。云へ。云はぬと、これだぞよ。」
 下人は、老婆《らうば》をつき放すと、いきなり、太刀《たち》の鞘《さや》を拂つて、白い鋼《はがね》の色をその眼の前へつきつけた。けれども、老婆は默つてゐる。兩手《りやうて》をわなわなふるはせて、肩で息《いき》を切りながら、眼を、眼球《がんきう》が※[#「目+匡」、第3水準1-88-81]《まぶた》の外へ出さうになる程、見開いて、唖のやうに執拗《しうね》く默つてゐる。これを見ると、下人は始《はじ》めて明白にこの老婆の生死が、全然、自分の意志《いし》に支配されてゐると云ふ事を意識《いしき》した。さうして、この意識は、今《いま》まではげしく燃えてゐた憎惡の心を何時《いつ》の間にか冷《さ》ましてしまつた。後《あと》に殘つたのは、唯、或《ある》仕事《しごと》をして、それが圓滿《ゑんまん》に成就した時の、安らかな得意《とくい》と滿足とがあるばかりである。そこで、下人は、老婆《らうば》を見下しながら、少し聲を柔《やはら》げてかう云つた。
「己は檢非違使《けびゐし》の廳の役人などではない。今し方この門《もん》の下を通《とほ》りかゝつた旅の者だ。だからお前に繩《なわ》をかけて、どうしようと云ふやうな事はない。唯《たゞ》、今時分、この門の上で、何《なに》をして居たのだか、それを己に話《はなし》しさへすればいいのだ。」
 すると、老婆は、見開《みひら》いてゐた眼を、一|層大《そうおほ》きくして、ぢつとその下人の顏《かほ》を見守つた。※[#「目+匡」、第3水準1-88-81]の赤くなつた、肉食鳥のやうな、鋭《するど》い眼で見たのである。それから、皺《しは》で、殆、鼻と一つになつた唇を、何か物でも噛《か》んでゐるやうに動かした。細い喉で、尖つた喉佛《のどぼとけ》の動いてゐるのが見える。その時、その喉《のど》から、鴉《からす》の啼くやうな聲が、喘ぎ喘ぎ、下人の耳《みゝ》へ傳はつて來た。
「この髮を拔いてな、この女の髮を拔いてな、鬘《かつら》にせうと思うたのぢや。」
 下人は、老婆の答が存外、平凡《へいぼん》なのに失望した。さうして失望《しつばう》すると同時に、又前の憎惡が、冷な侮蔑《ぶべつ》と一しよに、心の中へはいつて來た。すると、その氣色《けしき》が、先方へも通じたのであらう。老婆は、片手《かたて》に、まだ屍骸の頭から奪《と》つた長い拔け毛を持《も》つたなり、蟇《ひき》のつぶやくやうな聲で、口ごもりながら、こんな事を云つた。
 成程、死人の髮《かみ》の毛《け》を拔くと云ふ事は、惡い事かも知《し》れぬ。しかし、かう云ふ死人の多くは、皆、その位な事《こと》を、されてもいゝ人間《にんげん》ばかりである。現に、自分が今、髮《かみ》を拔いた女などは、蛇《へび》を四寸ばかりづゝに切《き》つて干したのを、干魚《ほしうを》だと云つて、太刀帶《たてはき》の陣へ賣りに行つた。疫病にかゝつて死ななかつたなら、今でも賣りに行つてゐたかもしれない。しかも、この女《をんな》の賣る干魚は、味《あぢ》がよいと云ふので、太刀帶たちが、缺かさず菜料《さいれう》に買つてゐたのである。自分は、この女のした事が惡《わる》いとは思はない。しなければ、饑死《うゑじに》をするので、仕方《しかた》がなくした事だからである。だから、又今、自分《じぶん》のしてゐた事も惡い事とは思《おも》はない。これもやはりしなければ、饑死《うゑじに》をするので、仕方がなくする事だからである。さうして、その仕方がない事を、よく知つてゐたこの女は、自分のする事を許《ゆる》してくれるのにちがひないと思《おも》ふからである。――老婆は、大體こんな意味の事を云つた。
 下人は、太刀を鞘《さや》におさめて、その太刀の柄を左《ひだり》の手《て》でおさへながら、冷然として、この話を聞いてゐた。勿論、右《みぎ》の手《て》では、赤く頬《ほゝ》に膿《うみ》を持つた大きな面皰を氣《き》にしながら、聞いてゐるのである。しかし、之を聞《き》いてゐる中に、下人の心には、或《ある》勇氣《ゆうき》が生まれて來た。それは、さつき、門《もん》の下《した》でこの男に缺けてゐた勇氣である。さうして、又《また》さつき、この門の上《うへ》へ上《あが》つて、この老婆を捕へた時の勇氣とは、全然《ぜん/″\》、反對な方向に動《うご》かうとする勇氣である。下人は、饑死をするか盗人《ぬすびと》になるかに迷はなかつたばかりではない。その時《とき》のこの男の心もちから云へば、饑死《うゑじに》などと云ふ事は、殆、考《かんが》へる事さへ出來ない程、意識の外に追ひ出されてゐた。
「きつと、そうか。」
 老婆の話が完ると、下人は嘲《あざけ》るやうな聲で念《ねん》を押した。さうして、一|足《あし》前《まへ》へ出ると、不意《ふい》に、右の手を面皰から離して、老婆の襟上《えりがみ》をつかみながら、かう云つた。
「では、己が引剥《ひはぎ》をしようと恨むまいな。己もさうしなければ、饑死をする體なのだ。」
 下人は、すばやく、老婆の着物《きもの》を剥ぎとつた。それから、足《あし》にしがみつかうとする老婆を、手荒《てあら》く屍骸の上へ蹴倒《けたほ》した。梯子の口までは、僅《わづか》に五歩を數へるばかりである。下人は、剥《は》ぎとつた檜肌色の着物《きもの》をわきにかゝへて、またゝく間に急な梯子を夜の底へかけ下りた。
 暫《しばらく》、死んだやうに倒れてゐた老婆が、屍骸の中《なか》から、その裸《はだか》の體を起したのは、それから間《ま》もなくの事である。老婆は、つぶやくやうな、うめくやうな聲を立てながら、まだ燃《も》えてゐる火の光をたよりに、梯子《はしご》の口まで、這つて行つた。さうして、そこから、短い白髮《しらが》を倒にして、門の下を覗《のぞ》きこんだ。外には、唯、黒洞々たる夜があるばかりである。
 下人は、既に、雨《あめ》を冐《をか》して、京都の町へ強盗を働きに急いでゐた。
[#地から2字上げ]――四年九月――



底本:「新選 名著復刻全集 近代文学館 芥川龍之介著 羅生門 阿蘭陀書房版」ほるぷ出版
   1976(昭和51)年4月1日発行
※疑問点の確認にあたっては、「日本の文学33 羅生門」ほるぷ出版、1984(昭和59)年8月1日初版第1刷発行を参照しました。
入力:j.utiyama
校正:もりみつじゅんじ、野口英司
1999年6月9日公開
2004年3月10日修正
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