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LOS CAPRICHOS
芥川龍之介

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)笑《わらひ》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)悪魔|三度《みたび》ユダに云ひけるは

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「參+毛」、第3水準1-86-45]

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)さん/\
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[#ここから2字下げ]
笑《わらひ》は量的に分てば微笑《びせう》哄笑《こうせう》の二種あり。質的に分てば嬉笑《きせう》嘲笑《てうせう》苦笑《くせう》の三種あり。……予が最も愛する笑は嬉笑嘲苦笑と兼ねたる、爆声の如き哄笑なり。アウエルバツハの穴蔵に愚昧《ぐまい》の学生を奔《はし》らせたる、メフイストフエレエスの哄笑なり。
[#地から1字上げ]――カアル・エミリウス――
[#ここで字下げ終わり]

     ユダ

 逾越《すぎこし》[#「逾越」は底本では「逾趣」]と云へる「種《たね》入れぬ麺包《パン》の祭《まつり》」近づけり。祭司《さいし》[#「祭司」は底本では「祭史」]の長《をさ》学者たち、如何《いか》にしてかイエスを殺さんと窺《うかが》ふ。但《ただ》民を畏《おそ》れたり。偖《さて》悪魔十二の中《うち》のイスカリオテと称《とな》ふるユダに憑《つ》きぬ。ユダ橄欖《かんらん》の林を歩める時、悪魔彼に云ひけるは、「イエスを祭司の長《をさ》たちに売《わた》せ。然《さ》すれば三十枚の銀子《ぎんす》を得べし。」されどユダ耳を蔽ひ、林の外に走り去れり。後又イエルサレムの町をさまよへる時、悪魔彼に云ひけるは、「イエスを祭司の長《をさ》たちに売《わた》せ。然《さ》らずば爾《なんぢ》もイエスと共に、必《かならず》十字架に釘《つ》けらるべし。」されどユダ耳を蔽ひ、イエスのもとに走り去れり。イエス彼に云ひけるは、「ユダよ。我誠に爾《なんぢ》[#ルビの「なんぢ」は底本では「なんじ」]を知る。爾は荒野《あらの》の獅子《しし》よりも強し。但《ただ》小羊《こひつじ》の心を忘るる勿《なか》れ。」ユダ、イエスの言葉を悦べり。されどその意味を覚《さと》らざりき。逾越《すぎこし》の祭《まつり》来りし時、イエス弟子と共に食に就けり。悪魔|三度《みたび》ユダに云ひけるは、「イエスを祭司の長《をさ》たちに売《わた》せ。然《さ》すれば爾《なんぢ》の名、イエスの名と共に伝はらん。イエスの名太陽よりも光あれば、爾の名|黒暗《やみ》よりも恐怖あらん。爾は天国の奴隷《しもべ》たらざるも、必《かならず》地獄の王たるべし。バビロンの淫婦は爾《なんぢ》[#ルビの「なんぢ」は底本では「なんじ」]の妃《ひ》、七頭《しちとう》の毒竜は爾の馬、火と煙と硫黄《いわう》とは汝《なんぢ》が黒檀《こくたん》の宝座《みくら》の前に、不断の香煙《かうえん》を上《のぼ》らしめん。」ユダこの声を聞[#「聞」は底本では「闇」]きし時、目《ま》のあたりに地獄の荘厳を見たり。イエス忽ちユダに一撮《ひとつまみ》の食物を与へ、静かに彼に云ひけるは、「爾《なんぢ》が為さんとする事は速かに為せ。」ユダ一撮の食物を受け、直ちに出でたり。時既に夜《よ》なりき。ユダ祭司の長《をさ》カヤパの前に至り、イエスを彼に売《わた》さんと云へり。カヤパ駭《おどろ》きて云ひけるは、「爾《なんぢ》は何物なるか、イエスの弟子《でし》か、はたイエスの師か。」そはユダの姿、額は嵐の空よりも黒み、眼は焔よりも輝きつつ、王者の如く振舞ひしが故なり。……

     眼
[#地から1字上げ]――中華《ちうくわ》第一の名庖丁《めいはうちやう》張粛臣《やうしゆくしん》の談――

 眼をね、今日《けふ》は眼を御馳走しようと思つたのです。何《なん》の眼? 無論人間の眼をですよ。そりや眼を召上《めしあ》がらなければ、人間を召上つたとは云はれませんや。眼と云ふやつはうまいものですぜ。脂があつて、歯ぎれがよくつて、――え、何《なに》にする? まあ、湯《タン》へ入れるんですね。丁度《ちやうど》鳩の卵のやうに、白眼《しろめ》と黒眼《くろめ》とはつきりしたやつが、香菜《シヤンツアイ》が何かぶちこんだ中に、ふはふは浮いてゐやうと云ふんです。どうです? 悪くはありますまい。私《わたし》なんぞは話してゐても、自然と唾気《つばき》がたまつて来ますぜ。そりや清湯燕窩《せいたうえんくわ》だとか清湯|鴒蛋《れいたん》だとかとは、比べものにも何《なに》にもなりませんや。所が今日《けふ》その眼を抜いて見ると、――これにや私も驚きましたね。まるで使ひものにやならないんです。何、男か女か? 男ですよ。男も男も、髭《ひげ》の生えた、フロツク・コオトを着てゐる男ですがね。御覧なさい。此処《ここ》に名刺[#「名刺」は底本では「名剌」]があります。Herr Stuffendpuff. ちつとは有名な男ですか? 成程《なるほど》ね、つまりその新聞や何かに議論を書いてゐる人間なんでせう。そいつの眼玉がこれぢやありませんか? そら、壁へ叩きつけても、容易な事ぢや破れませんや。驚いたでせう。二つともこの通り入れ眼ですよ。硝子細工《ガラスざいく》の入れ眼ですよ。

     疲労

 雨を孕《はら》んだ風の中に、竜騎兵の士官を乗せた、アラビア種《だね》の白馬《しろうま》が一頭、喘《あへ》ぎ喘ぎ走つて行つた。と思ふと銃声が五六発、続けさまに街道《かいだう》の寂寞《せきばく》を破つた。その時|白楊《ポプラア》の並木《なみき》の根がたに、尿《ねう》をしやんだ一頭の犬は、これも其処《そこ》へ来かかつた、仲間の尨犬《むくいぬ》に話しかけた。
「どうだい、あの白馬の疲れやうは?」
「莫迦《ばか》々々しいなあ。馬ばかりが獣《けもの》ぢやあるまいし、――」
「さうとも、僕等に乗つてくれれば、地球の極《はて》へも飛んで行《ゆ》くのだが、――」
 二匹の犬はかう云ふが早いか、竜騎兵の士官でも乗せてゐるやうに、昂然《かうぜん》と街道を走つて行つた。

     魔女

 魔女は箒《はうき》に跨《またが》りながら、片々《へんぺん》と空を飛んで行つた。
 それを見たものが三人あつた。
 一人《ひとり》は年をとつた月だつた。これは又かと云ふやうに、黙々と塔の上にかかつてゐた。
 もう一人は風見《かざみ》の鶏だつた。これはびつくりしたやうに、ぎいぎい桿《さを》の上に啼きまはつた。
 最後の一人は大学教授 Dundergutz 先生だつた。これはその後《ご》熱心に、魔女が空を飛んで行つたのは、箒が魔女を飛ばせたのか、魔女が箒を飛ばせたものか、どちらかと云ふ事を研究し出した。
 何《なん》でも先生は今日《こんにち》でも、やはり同じ大問題を研究し続けてゐるさうである。
 魔女は箒に跨りながら、昨夜《ゆうべ》も大きな蝙蝠《かうもり》のやうに、片々と空を飛んで行つた。

     遊び

 崖に臨んだ岩の隙《すき》には、一株の羊歯《しだ》が茂つてゐる。トムはその羊歯の葉の上に、さつきから一匹の大土蜘蛛《おほつちぐも》と、必死の格闘を続けてゐる。何しろ評判の渾名《あだな》通り、親指|位《くらゐ》しかない男だから、蜘蛛と戦ふのも容易ではない。蜘蛛は足を拡げた儘、まつしぐらにトムへ殺到する。トムはその度に身をかはせては、咄嗟《とつさ》に蜘蛛の腹へ一撃を加へる。……
 それが十分程続いた後《のち》、彼等は息も絶え絶えに、どちらも其処へゐすくまつてしまつた。
 羊歯《しだ》の生えた岩の下には、深い谷底が開《ひら》いてゐる。一匹の毒竜はその谷底に、白馬《しろうま》へ跨《またが》つた聖ヂヨオヂと、もう半日も戦つてゐる。何しろ相手の騎士の上には、天主《てんしゆ》の冥護《みやうご》が加《くはは》つてゐるから、毒竜も容易に勝つ事は出来ない。毒竜は火を吐きかけ、吐きかけ、何度も馬の鞍《くら》へ跳り上る。が、何時《いつ》でも竜の爪は、騎士の鎧《よろひ》に辷《すべ》つてしまつた。聖ヂヨオヂは槍を揮《ふる》ひながら、縦横《じゆうわう》に馬を跳らせてゐる。軽快な蹄《ひづめ》の音、花々しい槍の閃《ひらめ》き、それから毒竜の炎《ほのほ》の中《うち》に、※[#「參+毛」、第3水準1-86-45]々《さん/\》と靡《なび》いた兜《かぶと》の乱れ毛、……
 トムは遠い崖の下に、勇ましい聖ヂヨオヂの姿を見ると、苦々《にが/\》しさうに舌打ちをした。
「畜生《ちくしやう》。あいつは遊んでゐやがる。」

     Don Juan aux enfers

 ドン・ジユアンは舟の中に、薄暗い河を眺めてゐる。時々古い舟《ふな》べりを打つては、蒼白い火花を迸《ほとばし》らせる、泊夫藍色《サフランいろ》の浪の高さ。その舟の艫《とも》には厳《いはほ》のやうに、黙々と今日《けふ》も櫂《かい》を取つた、おお、お前! 寂しいシヤアロン!
 或|霊《れい》は遠い浪の間《あひだ》に、高々と両手をさし上げながら、舟中《しうちう》の客を呪《のろ》つてゐる。又或霊は口惜《くや》しさうに、舟べりを煙らせた水沫《しぶき》の中から、ぢつと彼の顔を見上げてゐる。見よ! あちらの舳《へさき》に縋《すが》つた、或霊の腕の逞《たく》ましさを! と思ふとこちらの艫《とも》にも、シヤアロンの櫂《かい》に払はれたのか、真逆様《まつさかさま》に沈みかかつた、或霊の二つの足のうら!

 妻を盗まれた夫《をつと》の霊、娘を掠《かす》められた父親の霊、恋人を奪はれた若者の霊。――この河に浮き沈む無数の霊は、一人も残らず男だつた。おお、わが詩人ボオドレエル! 君はこの地獄の河に、どの位|夥《おびただ》しい男の霊が、泣き叫んでゐたかを知らなかつた!

 しかしドン・ジユアンは冷然と、舟中《しうちう》に剣《つるぎ》をついた儘、※[#「均のつくり」、第3水準1-14-75]《にほひ》の好《い》い葉巻へ火をつけた。さうして眉一つ動かさずに、大勢《おほぜい》の霊を眺めやつた。何故《なぜ》彼はこの時でも、流俗のやうに恐れなかつたか? それは一人《ひとり》も霊の中に彼程の美男《びなん》がゐなかつたからである!

     幽霊

 或|古本屋《ふるほんや》の店頭。夜《よる》。古本屋の主人は居睡りをしてゐる。かすかにピアノの音がするのは、近所にカフエエのある証拠らしい。
 第一の幽霊 (さもがつかりしたやうに、朦朧《もうろう》と店さきへ姿を現す。)此処《ここ》にも古本屋が一軒ある。存外《ぞんぐわい》かう云ふ所には、品物が揃つてゐるかも知れない。(熱心に棚の書物を検べる。)近松《ちかまつ》全集、万葉集略解《まんえふしふりやくげ》、たけくらべ、アンナ・カレニナ、芭蕉《ばせう》句集、――ない。ない。やつぱりない。ないと云ふ筈はないのだが……
 第二の幽霊 (これもやはり大儀《たいぎ》さうに、ふはりと店へはひつて来る。)おや、今晩は。
 第一の幽霊 今晩は。どうだね、その後《ご》君の戯曲は?
 第二の幽霊 駄目《だめ》、駄目。何処《どこ》の芝居でも御倉《おくら》にしてゐる。やつてゐるのは不相変《あひかはらず》、黴《かび》の生えた旧劇ばかりさ。君の小説はどうなつたい?
 第一の幽霊 これも御同様絶版と来てゐる。もう僕の小説なぞは、誰も読むものがなくなつたのだね。
 第二の幽霊 (冷笑するやうに。)君の時代も過ぎ去つたかね。
 第一の幽霊 (感傷的に。)我々の時代が過ぎ去つたのだよ。尤《もつと》も僕等が往生《わうじやう》したのは、もう五十年も前だからなあ。
 第三の幽霊 (これは燐火《りんくわ》を飛ばせながら、愉快さうに漂《ただよ》つて来る。)今晩は。何《なん》だかいやにふさいでゐるぢやないか? 幽霊が悄然《せうぜん》としてゐるなんぞは、当節がらあんまりはやらないぜ。僕は批評家たる職分上、諸君の悪趣味に反対だね。
 第一の幽霊 僕等がふさいでゐるのぢやない。君が幽霊にしては陽気過ぎるのだよ。
 第三の幽霊 そりや大きにさうかも知れない。しかし僕は今夜という今夜、始めて死に甲斐を感じたね。
 第二の幽霊 (冷笑《ひやか》すやうに。)君の全集でも出来るのかい?
 第三の幽霊 いや、全集は出来ないがね。兎《と》に角《かく》後代《こうだい》に僕の名前が、伝はる事だけは確《たしか》になつたよ。
 第二の幽霊 (疑はしさうに。)へええ。
 第一の幽霊 (喜《よろこば》しさうに。)本当かい?
 第三の幽霊 本当とも。まあ、これを見てくれ給へ。(書物を一冊出して見せる。)これは今日《けふ》出来た本だがね。この本の中に僕の事が、ちやんと五六行書いてあるのだ。どうだい? これぢやいくら幽霊でも、はしやぎまはらずにはゐられないぢやないか?
 第二の幽霊 ちよいと借してくれ給へ。(一生懸命に頁《ページ》をはぐる。)僕の名前は出てゐないかしら?
 第一の幽霊 名前|位《くらゐ》は出てゐるだらう。僕のも次手《ついで》に見てくれ給へ。
 第三の幽霊 (得意さうに独り言《ごと》を云ふ。)おれもとうとう不朽《ふきう》になつたのだ。サント・ブウヴやテエヌのやうに。――不朽と云ふ事も悪いものぢやないな。
 第二の幽霊 (第一の幽霊に。)[#底本ではここに句点]どうも君の名は見えないやうだよ。
 第一の幽霊 君の名も見えないやうだね。
 第二の幽霊 (第三の幽霊に。)君の事は何処《どこ》に書いてあるのだ?
 第三の幽霊 索引《さくいん》を見給へ。索引を。××××と云ふ所を引けば好《い》いのだ。
 第二の幽霊 成程《なるほど》、此処《ここ》に書いてある。「当時|数《かず》の多かつた批評家中、永久に記憶さるべきものは、××××と云ふ論客である。……」
 第三の幽霊 まあ、ざつとそんな調子さ。其処《そこ》まで読めば沢山《たくさん》だよ。
 第二の幽霊 次手《ついで》にもう少し読ませ給へ。「勿論彼は如何《いか》なる点でも、毛頭《まうとう》才能ある批評家ではない。……」
 第一の幽霊 (満足さうに。)それから?
 第二の幽霊 (読み続ける。)「しかし彼は不朽になるべき、十分な理由を持つてゐる。……」
 第三の幽霊 もうそれだけにして置き給へ。僕はちよいと行《ゆ》く所があるから。
 第二の幽霊 まあ、しまひまで読ませ給へ。(愈《いよいよ》大声に。)「何《なに》となれば彼は――」
 第三の幽霊 ぢや僕は失敬する。
 第一の幽霊 そんなに急がなくつても好《い》いぢやないか?
 第二の幽霊 もうたつた一行だよ。「何となれば彼は終始《しゆうし》一貫――」
 第三の幽霊 (やけ気味に。)ぢや勝手に読み給へ。左様《さよう》なら。(燐火と共に消える。)
 第一の幽霊 何《なん》だつてあんなに慌てたのだらう?
 第二の幽霊 慌てる筈さ。まあ、これを聞[#「聞」は底本では「闇」]き給へ。[#底本ではここで改行、次行の始めかぎ括弧は天ツキ]「何となれば彼は終始一貫、芥川竜之介《あくたがはりゆうのすけ》の小説が出ると、勇ましい悪口《あくこう》を云ひ続けた。……」
 第一の幽霊 (笑ふ。)そんな事だらうと思つたよ。
 第二の幽霊 不朽もかうなつちや禍《わざはひ》だね。(書物を抛《はふ》り出す。)
 その音に主人が眼をさます。
 主人 おや、棚の本が落ちたかしら。こりやまだ新しい本だが。
 第二の幽霊 (わざと物凄い声をする。)それもぢきに古くなるぞ。
 主人 (驚いたやうに。)誰だい、お前さんは?
 第一の幽霊 (第二の幽霊に。)罪な事をするものぢやない。さあ、一しよに Hades へ帰らう。(消える。)
 第二の幽霊 ちつとは僕の本も店へ置けよ。(消える。)
 主人は呆気《あつけ》にとられてゐる。
[#地から1字上げ](大正十年十一月)



底本:「芥川龍之介作品集第三巻」昭和出版社
   1965(昭和40)年12月20日発行
入力:j.utiyama
校正:かとうかおり
1999年1月26日公開
2004年3月6日修正
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