青空文庫アーカイブ

邪宗門
芥川龍之介

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)大殿様《おおとのさま》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)先頃|大殿様《おおとのさま》御一代中で

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(例)※[#「均−土」、第3水準1-14-75]

 [#…]:返り点
 (例)未[#四]曾有[#三]一事不[#レ]被[#二]無常呑[#一]
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        一

 先頃|大殿様《おおとのさま》御一代中で、一番|人目《ひとめ》を駭《おどろ》かせた、地獄変《じごくへん》の屏風《びょうぶ》の由来を申し上げましたから、今度は若殿様の御生涯で、たった一度の不思議な出来事を御話し致そうかと存じて居ります。が、その前に一通り、思いもよらない急な御病気で、大殿様が御薨去《ごこうきょ》になった時の事を、あらまし申し上げて置きましょう。
 あれは確か、若殿様の十九の御年だったかと存じます。思いもよらない急な御病気とは云うものの、実はかれこれその半年ばかり前から、御屋形《おやかた》の空へ星が流れますやら、御庭の紅梅が時ならず一度に花を開きますやら、御厩《おうまや》の白馬《しろうま》が一夜《いちや》の内に黒くなりますやら、御池の水が見る間に干上《ひあが》って、鯉《こい》や鮒《ふな》が泥の中で喘《あえ》ぎますやら、いろいろ凶《わる》い兆《しらせ》がございました。中でも殊に空恐ろしく思われたのは、ある女房の夢枕に、良秀《よしひで》の娘の乗ったような、炎々と火の燃えしきる車が一輛、人面《じんめん》の獣《けもの》に曳かれながら、天から下《お》りて来たと思いますと、その車の中からやさしい声がして、「大殿様をこれへ御迎え申せ。」と、呼《よば》わったそうでございます。その時、その人面の獣が怪しく唸《うな》って、頭《かしら》を上げたのを眺めますと、夢現《ゆめうつつ》の暗《やみ》の中にも、唇ばかりが生々《なまなま》しく赤かったので、思わず金切声をあげながら、その声でやっと我に返りましたが、総身はびっしょり冷汗《ひやあせ》で、胸さえまるで早鐘をつくように躍っていたとか申しました。でございますから、北の方《かた》を始め、私《わたくし》どもまで心を痛めて、御屋形の門々《かどかど》に陰陽師《おんみょうじ》の護符《ごふ》を貼りましたし、有験《うげん》の法師《ほうし》たちを御召しになって、種々の御祈祷を御上げになりましたが、これも誠に遁れ難い定業《じょうごう》ででもございましたろう。
 ある日――それも雪もよいの、底冷がする日の事でございましたが、今出川《いまでがわ》の大納言《だいなごん》様の御屋形から、御帰りになる御車《みくるま》の中で、急に大熱が御発しになり、御帰館遊ばした時分には、もうただ「あた、あた」と仰有《おっしゃ》るばかり、あまつさえ御身《おみ》のうちは、一面に気味悪く紫立って、御褥《おしとね》の白綾《しろあや》も焦げるかと思う御気色《みけしき》になりました。元よりその時も御枕もとには、法師、医師、陰陽師《おんみょうじ》などが、皆それぞれに肝胆《かんたん》を砕いて、必死の力を尽しましたが、御熱は益《ますます》烈しくなって、やがて御床《おんゆか》の上まで転《ころ》び出ていらっしゃると、たちまち別人のような嗄《しわが》れた御声で、「あおう、身のうちに火がついたわ。この煙《けぶ》りは如何《いかが》致した。」と、狂おしく御吼《おたけ》りになったまま、僅三時《わずかみとき》ばかりの間に、何とも申し上げる語《ことば》もない、無残な御最期《ごさいご》でございます。その時の悲しさ、恐ろしさ、勿体《もったい》なさ――今になって考えましても、蔀《しとみ》に迷っている、護摩《ごま》の煙《けぶり》と、右往左往に泣き惑っている女房たちの袴の紅《あけ》とが、あの茫然とした験者《げんざ》や術師たちの姿と一しょに、ありありと眼に浮かんで、かいつまんだ御話を致すのさえ、涙が先に立って仕方がございません。が、そう云う思い出の内でも、あの御年若な若殿様が、少しも取乱した御容子《ごようす》を御見せにならず、ただ、青ざめた御顔を曇らせながら、じっと大殿様の御枕元へ坐っていらしった事を考えると、なぜかまるで磨《と》ぎすました焼刃《やきば》の※[#「均−土」、第3水準1-14-75]《にお》いでも嗅《か》ぐような、身にしみて、ひやりとする、それでいてやはり頼もしい、妙な心もちが致すのでございます。

        二

 御親子《ごしんし》の間がらでありながら、大殿様と若殿様との間くらい、御容子《ごようす》から御性質まで、うらうえなのも稀《まれ》でございましょう。大殿様は御承知の通り、大兵肥満《だいひょうひまん》でいらっしゃいますが、若殿様は中背《ちゅうぜい》の、どちらかと申せば痩ぎすな御生れ立ちで、御容貌《ごきりょう》も大殿様のどこまでも男らしい、神将のような俤《おもかげ》とは、似もつかない御優しさでございます。これはあの御美しい北の方《かた》に、瓜二《うりふた》つとでも申しましょうか。眉の迫った、眼の涼しい、心もち口もとに癖のある、女のような御顔立ちでございましたが、どこかそこにうす暗い、沈んだ影がひそんでいて、殊に御装束でも召しますと、御立派と申しますより、ほとんど神寂《かみさび》ているとでも申し上げたいくらい、いかにももの静な御威光がございました。
 が、大殿様と若殿様とが、取り分け違っていらしったのは、どちらかと云えば、御気象の方で、大殿様のなさる事は、すべてが豪放《ごうほう》で、雄大で、何でも人目《ひとめ》を驚かさなければ止まないと云う御勢いでございましたが、若殿様の御好みは、どこまでも繊細で、またどこまでも優雅な趣がございましたように存じて居ります。たとえば大殿様の御心もちが、あの堀川の御所《ごしょ》に窺《うかが》われます通り、若殿様が若王子《にゃくおうじ》に御造りになった竜田《たつた》の院は、御規模こそ小そうございますが、菅相丞《かんしょうじょう》の御歌をそのままな、紅葉《もみじ》ばかりの御庭と申し、その御庭を縫っている、清らかな一すじの流れと申し、あるいはまたその流れへ御放しになった、何羽とも知れない白鷺《しらさぎ》と申し、一つとして若殿様の奥床しい御思召《おおぼしめ》しのほどが、現れていないものはございません。
 そう云う次第でございますから、大殿様は何かにつけて、武張《ぶば》った事を御好みになりましたが、若殿様はまた詩歌管絃《しいかかんげん》を何よりも御喜びなさいまして、その道々の名人上手とは、御身分の上下も御忘れになったような、隔てない御つき合いがございました。いや、それもただ、そう云うものが御好きだったと申すばかりでなく、御自分も永年御心を諸芸の奥秘《おうひ》に御潜めになったので、笙《しょう》こそ御吹きになりませんでしたが、あの名高い帥民部卿《そちのみんぶきょう》以来、三舟《さんしゅう》に乗るものは、若殿様|御一人《おひとり》であろうなどと、噂のあったほどでございます。でございますから、御家の集《しゅう》にも、若殿様の秀句や名歌が、今に沢山残って居りますが、中でも世上に評判が高かったのは、あの良秀《よしひで》が五趣生死《ごしゅしょうじ》の図を描《か》いた竜蓋寺《りゅうがいじ》の仏事の節、二人の唐人《からびと》の問答を御聞きになって、御詠《およ》みになった歌でございましょう。これはその時|磬《うちならし》の模様に、八葉《はちよう》の蓮華《れんげ》を挟《はさ》んで二羽の孔雀《くじゃく》が鋳《い》つけてあったのを、その唐人たちが眺めながら、「捨身惜花思《しゃしんしゃっかし》」と云う一人の声の下から、もう一人が「打不立有鳥《だふりゅううちょう》」と答えました――その意味合いが解《げ》せないので、そこに居合わせた人々が、とかくの詮議立てをして居りますと、それを御聞きになった若殿様が、御持ちになった扇の裏へさらさらと美しく書き流して、その人々のいる中へ御遣《おつかわ》しになった歌でございます。
[#ここから2字下げ]
身をすてて花を惜しやと思ふらむ打てども
立たぬ鳥もありけり
[#ここで字下げ終わり]

        三

 大殿様と若殿様とは、かように万事がかけ離れていらっしゃいましたから、それだけまた御二方《おふたかた》の御仲《おんなか》にも、そぐわない所があったようでございます。これにも世間にはとかくの噂がございまして、中には御親子《ごしんし》で、同じ宮腹《みやばら》の女房を御争いになったからだなどと、申すものもございますが、元よりそのような莫迦《ばか》げた事があろう筈はございません。何でも私《わたくし》の覚えて居ります限りでは、若殿様が十五六の御年に、もう御二方の間には、御不和の芽がふいていたように御見受け申しました。これが前にもちょいと申し上げて置きました、若殿様が笙《しょう》だけを御吹きにならないと云う、その謂《い》われに縁のある事なのでございます。
 その頃、若殿様は大そう笙を御好みで、遠縁の従兄《いとこ》に御当りなさる中御門《なかみかど》の少納言《しょうなごん》に、御弟子入《おでしいり》をなすっていらっしゃいました。この少納言は、伽陵《がりょう》と云う名高い笙と、大食調入食調《だいじきちょうにゅうじきちょう》の譜とを、代々御家に御伝えになっていらっしゃる、その道でも稀代《きだい》の名人だったのでございます。
 若殿様はこの少納言の御手許で、長らく切磋琢磨《せっさたくま》の功を御積みになりましたが、さてその大食調入食調《だいじきちょうにゅうじきちょう》の伝授を御望みになりますと、少納言はどう思召したのか、この仰せばかりは御聞き入れになりません。それが再三押して御頼みになっても、やはり御満足の行くような御返事がなかったので、御年若な若殿様は、一方ならず残念に思召したのでございましょう。ある日大殿様の双六《すごろく》の御相手をなすっていらっしゃる時に、ふとその御不満を御洩しになりました。すると大殿様はいつものように鷹揚《おうよう》に御笑いになりながら、「そう不平は云わぬものじゃ。やがてはその譜も手にはいる時節があるであろう。」と、やさしく御慰めになったそうでございます。ところがそれから半月とたたないある日の事、中御門の少納言は、堀川の御屋形《おやかた》の饗《さかもり》へ御出になった帰りに、俄《にわか》に血を吐いて御歿《おなくな》りになってしまいました。が、それは先ず、よろしいと致しましても、その明くる日、若殿様が何気なく御居間へ御出でになると、螺鈿《らでん》を鏤《ちりば》めた御机の上に、あの伽陵《がりょう》の笙と大食調入食調の譜とが、誰が持って来たともなく、ちゃんと載っていたと申すではございませんか。
 その後《のち》また大殿様が若殿様を御相手に双六《すごろく》を御打ちになった時、
「この頃は笙も一段と上達致したであろうな。」と、念を押すように仰有《おっしゃ》ると、若殿様は静に盤面《ばんめん》を御眺めになったまま、
「いや笙はもう一生、吹かない事に致しました。」と、冷かに御答えになりました。
「何としてまた、吹かぬ事に致したな。」
「聊《いささ》かながら、少納言の菩提《ぼだい》を弔《とむら》おうと存じますから。」
 こう仰有《おっしゃ》って若殿様は、じっと父上の御顔を御見つめになりました。が、大殿様はまるでその御声が聞えないように勢いよく筒《とう》を振りながら、
「今度もこの方が無地勝《むじがち》らしいぞ。」とさりげない容子《ようす》で勝負を御続けになりました。でございますからこの御問答は、それぎり立ち消えになってしまいましたが、御親子の御仲には、この時からある面白くない心もちが、挟まるようになったかと存ぜられます。

        四

 それから大殿様の御隠れになる時まで、御親子《ごしんし》の間には、まるで二羽の蒼鷹《あおたか》が、互に相手を窺いながら、空を飛びめぐっているような、ちっとの隙《すき》もない睨《にら》み合いがずっと続いて居りました。が、前にも申し上げました通り若殿様は、すべて喧嘩口論の類《たぐい》が、大御嫌《だいおきら》いでございましたから、大殿様の御所業《ごしょぎょう》に向っても、楯《たて》を御つきになどなった事は、ほとんど一度もございません。ただ、その度に皮肉な御微笑を、あの癖のある御口元にちらりと御浮べになりながら、一言二言《ひとことふたこと》鋭い御批判を御漏《おも》らしになるばかりでございます。
 いつぞや大殿様が、二条大宮の百鬼夜行《ひゃっきやぎょう》に御遇いになっても、格別御障りのなかった事が、洛中洛外の大評判になりますと、若殿様は私《わたくし》に御向いになりまして、「鬼神《きじん》が鬼神に遇うたのじゃ。父上の御身《おみ》に害がなかったのは、不思議もない。」と、さも可笑《おか》しそうに仰有《おっしゃ》いましたが、その後また、東三条の河原院《かわらのいん》で、夜な夜な現れる融《とおる》の左大臣の亡霊を、大殿様が一喝して御卻《おしりぞ》けになった時も、若殿様は例の通り、唇を歪《ゆが》めて御笑いになりながら、
「融の左大臣は、風月の才に富んで居られたと申すではないか。されば父上づれは、話のあとを打たせるにも足らぬと思われて、消え失せられたに相違ない。」と、仰有《おっしゃ》ったのを覚えて居ります。
 それがまた大殿様には、何よりも御耳に痛かったと見えまして、ふとした拍子《ひょうし》に、こう云う若殿様の御言葉が、御聞きに達する事でもございますと、上べは苦笑いに御紛《おまぎら》わしなすっても、御心中の御怒りはありありと御顔に読まれました。現に内裡《だいり》の梅見の宴からの御帰りに、大殿様の御車《みくるま》の牛がそれて、往来の老人に怪我させた時、その老人が反《かえ》って手を合せて、権者《ごんじゃ》のような大殿様の御牛《みうし》にかけられた冥加《みょうが》のほどを、難有《ありがた》がった事がございましたが、その時も若殿様は、大殿様のいらっしゃる前で、牛飼いの童子に御向いなさりながら、「その方はうつけものじゃな。所詮《しょせん》牛をそらすくらいならば、なぜ車の輪にかけて、あの下司《げす》を轢《ひ》き殺さぬ。怪我をしてさえ、手を合せて、随喜するほどの老爺《おやじ》じゃ。轍《わだち》の下に往生を遂げたら、聖衆《しょうじゅ》の来迎《らいごう》を受けたにも増して、難有《ありがた》く心得たに相違ない。されば父上の御名誉も、一段と挙がろうものを。さりとは心がけの悪い奴じゃ。」と、仰有ったものでございます。その時の大殿様の御機嫌の悪さと申しましたら、今にも御手の扇が上って、御折檻《ごせっかん》くらいは御加えになろうかと、私ども一同が胆《きも》を冷すほどでございましたが、それでも若殿様は晴々と、美しい歯を見せて御笑いになりながら、
「父上、父上、そう御腹立ち遊ばすな。牛飼めもあの通り、恐れ入って居《お》るようでございます。この後《のち》とも精々心にかけましたら、今度こそは立派に人一人轢き殺して、父上の御名誉を震旦《しんたん》までも伝える事でございましょう。」と、素知《そし》らぬ顔で仰有ったものでございますから、大殿様もとうとう我《が》を御折りになったと見えて、苦《にが》い顔をなすったまま、何事もなく御立ちになってしまいました。
 こう云う御間がらでございましたから、大殿様の御臨終を、じっと御目守《おまも》りになっていらっしゃる若殿様の御姿ほど、私どもの心の上に不思議な影を宿したものはございません。今でもその時の事を考えますと、まるで磨ぎすました焼刃《やきば》の※[#「均−土」、第3水準1-14-75]《にお》いを嗅ぐような、身にしみてひやりとする、と同時にまた何となく頼もしい、妙な心もちが致した事は、先刻もう御耳に入れて置きました。誠にその時の私どもには、心から御代替《ごだいがわ》りがしたと云う気が、――それも御屋形《おやかた》の中ばかりでなく、一天下《いってんか》にさす日影が、急に南から北へふり変ったような、慌《あわただ》しい気が致したのでございます。

        五

 でございますから若殿様が、御家督を御取りになったその日の内から、御屋形《おやかた》の中へはどこからともなく、今までにない長閑《のどか》な景色《けしき》が、春風《しゅんぷう》のように吹きこんで参りました。歌合《うたあわ》せ、花合せ、あるいは艶書合《えんしょあわ》せなどが、以前にも増して度々御催しになられたのは、申すまでもございますまい。それからまた、女房たちを始め、侍どもの風俗が、まるで昔の絵巻から抜け出して来たように、みやびやかになったのも、元よりの事でございます。が、殊に以前と変ったのは、御屋形の御客に御出でになる上《うえ》つ方《がた》の御顔ぶれで、今はいかに時めいている大臣大将でも、一芸一能にすぐれていらっしゃらない方は、滅多《めった》に若殿様の御眼にはかかれません。いや、たとい御眼にかかれたのにしても、御出でになる方々が、皆風流の才子ばかりでいらっしゃいますから、さすがに御身を御愧《おは》じになって、自然御み足が遠くなってしまうのでございます。
 その代りまた、詩歌管絃の道に長じてさえ居りますれば、無位無官の侍でも、身に余るような御褒美《ごほうび》を受けた事がございます。たとえば、ある秋の夜に、月の光が格子にさして、機織《はたお》りの声が致して居りました時、ふと人を御召しになると、新参の侍が参りましたが、どう思召したのか、急にその侍に御向いなすって、
「機織《はたお》りの声が致すのは、その方《ほう》にも聞えような。これを題に一首|仕《つかまつ》れ。」と、御声がかりがございました。するとその侍は下《しも》にいて、しばらく頭《かしら》を傾けて居りましたが、やがて、「青柳《あおやぎ》の」と、初《はじめ》の句を申しました。するとその季節に合わなかったのが、可笑《おかし》かったのでございましょう。女房たちの間には、忍び笑いの声が起りましたが、侍が続いて、
「みどりの糸をくりおきて夏へて秋は機織《はたお》りぞ啼く。」と、さわやかに詠じますと、たちまちそれは静まり返って、萩模様のある直垂《ひたたれ》を一領、格子の間から月の光の中へ、押し出して下さいました。実はその侍と申しますのが、私《わたくし》の姉の一人息子で、若殿様とは、ほぼ御年輩《ごねんぱい》も同じくらいな若者でございましたが、これを御奉公の初めにして、その後《のち》も度々|難有《ありがた》い御懇意を受けたのでございます。
 まず、若殿様の御平生《ごへいぜい》は、あらあらかようなものでございましょうか。その間に北の方《かた》も御迎えになりましたし、年々の除目《じもく》には御官位も御進みになりましたが、そう云う事は世上の人も、よく存じている事でございますから、ここにはとり立てて申し上げません。それよりも先を急ぎますから、最初に御約束致しました通り、若殿様の御一生に、たった一度しかなかったと云う、不思議な出来事の御話へはいる事に致しましょう。と申しますのは、大殿様とは御違いになって、天《あめ》が下《した》の色ごのみなどと云う御渾名《おんあだな》こそ、御受けになりましたが、誠に御無事な御生涯で、そのほかには何一つ、人口に膾炙《かいしゃ》するような御逸事と申すものも、なかったからでございます。

        六

 その御話のそもそもは、確か大殿様が御隠れになってから、五六年たった頃でございますが、丁度その時分若殿様は、前に申しあげました中御門《なかみかど》の少納言様の御一人娘で、評判の美しい御姫様へ、茂々《しげしげ》御文を書いていらっしゃいました。ただ今でもあの頃の御熱心だった御噂が、私《わたくし》どもの口から洩れますと、若殿様はいつも晴々《はればれ》と御笑いになって、
「爺よ。天《あめ》が下《した》は広しと云え、あの頃の予が夢中になって、拙《つたな》い歌や詩を作ったのは皆、恋がさせた業《わざ》じゃ。思えば狐《きつね》の塚を踏んで、物に狂うたのも同然じゃな。」と、まるで御自分を嘲るように、洒落《しゃらく》としてこう仰有《おっしゃ》います。が、全く当時の若殿様は、それほど御平生に似もやらず、恋慕三昧《れんぼざんまい》に耽って御出でになりました。
 しかし、これは、あながち、若殿様御一人に限った事ではございません。あの頃の年若な殿上人《てんじょうびと》で、中御門《なかみかど》の御姫様に想《おも》いを懸けないものと云ったら、恐らく御一方もございますまい。あの方が阿父様《おとうさま》の代から、ずっと御住みになっていらっしゃる、二条|西洞院《にしのとういん》の御屋形《おやかた》のまわりには、そう云う色好みの方々が、あるいは車を御寄せになったり、あるいは御自身御拾いで御出でになったり、絶えず御通い遊ばしたものでございます。中には一夜《いちや》の中に二人まで、あの御屋形の梨《なし》の花の下で、月に笛を吹いている立烏帽子《たてえぼし》があったと云う噂も、聞き及んだ事がございました。
 いや、現に一時は秀才の名が高かった菅原雅平《すがわらまさひら》とか仰有る方も、この御姫様に恋をなすって、しかもその恋がかなわなかった御恨みから、俄《にわか》に世を御捨てになって、ただ今では筑紫《つくし》の果に流浪して御出でになるとやら、あるいはまた東海の波を踏んで唐土《もろこし》に御渡りになったとやら、皆目御行方《かいもくおゆくえ》が知れないと申すことでございます。この方などは若殿様とも、詩文の御交りの深かった御一人で、御消息などをなさる時は、若殿様を楽天《らくてん》に、御自分を東坡《とうば》に比していらしったそうでございますが、そう云う風流第一の才子が、如何《いか》に中御門の御姫様は御美しいのに致しましても、一旦の御歎きから御生涯を辺土に御送りなさいますのは、御不覚と申し上げるよりほかはございますまい。
 が、また飜《ひるがえ》って考えますと、これも御無理がないと思われるくらい、中御門の御姫様と仰有《おっしゃ》る方は、御美しかったのでございます。私が一両度御見かけ申しました限でも、柳桜《やなぎさくら》をまぜて召して、錦に玉を貫いた燦《きら》びやかな裳《も》の腰を、大殿油《おおとのあぶら》の明い光に、御輝かせになりながら、御※[#「目+匡」、第3水準1-88-81]《おんまぶた》も重そうにうち傾いていらしった、あのあでやかな御姿は一生忘れようもございますまい。しかもこの御姫様は御気象も並々ならず御闊達《ごかったつ》でいらっしゃいましたから、なまじいな殿上人などは、思召しにかなう所か、すぐに本性《ほんしょう》を御見透《おみとお》しになって、とんと御寵愛《ごちょうあい》の猫も同様、さんざん御弄《おなぶ》りになった上、二度と再び御膝元へもよせつけないようになすってしまいました。

        七

 でございますからこの御姫様に、想《おもい》を懸けていらしった方々《かたがた》の間には、まるで竹取《たけとり》物語の中にでもありそうな、可笑《おか》しいことが沢山ございましたが、中でも一番御気の毒だったのは京極《きょうごく》の左大弁様《さだいべんさま》で、この方《かた》は京童《きょうわらんべ》が鴉《からす》の左大弁などと申し上げたほど、顔色が黒うございましたが、それでもやはり人情には変りもなく、中御門《なかみかど》の御姫様を恋い慕っていらっしゃいました。所がこの方は御利巧だと同時に、気の小さい御性質だったと見えまして、いかに御姫様を懐《なつか》しく思召しても、御自分の方からそれとは御打ち明けなすった事もございませんし、元よりまた御同輩の方にも、ついぞそれらしい事を口に出して、仰有《おっしゃ》った例《ためし》はございません。しかし忍び忍びに御姫様の御顔を拝みに参ります事は、隠れない事でございますから、ある時、それを枷《かせ》にして、御同輩の誰彼が、手を換え品を換え、いろいろと問い落そうと御かかりになりました。すると鴉の左大弁様は、苦しまぎれの御一策に、
「いや、あれは何も私《わたし》が想《おもい》を懸けているばかりではない。実は姫の方からも、心ありげな風情《ふぜい》を見せられるので、ついつい足が茂くなるのだ。」と、こう御逃げになりました。しかもそれを誠らしく見せかけようと云う出来心から、御姫様から頂いた御文の文句や、御歌などを、ある事もない事も皆一しょに取つくろって、さも御姫様の方が心を焦《こが》していらっしゃるように、御話しになったからたまりません。元より悪戯好《いたずらず》きな御同輩たちは、半信半疑でいらっしゃりながら、早速御姫様の偽手紙を拵《こしら》えて、折からの藤《ふじ》の枝か何かにつけたまま、それを左大弁様の許へ御とどけになりました。
 こちらは京極の左大弁様で、何事かと胸を轟かせながら、慌《あわて》て御文を開けて見ますと、思いもよらず御姫様は、いかに左大弁様を思いわびてもとんとつれなく御もてなしになるから、所詮かなわぬ恋とあきらめて、尼法師《あまほうし》の境涯にはいると云う事が、いかにももの哀れに書いてあるではございませんか。まさかそうまで御姫様が、思いつめていらっしゃろうとは、夢にも思召《おぼしめ》さなかったのでございますから、鴉の左大弁様は悲しいとも、嬉しいともつかない御心もちで、しばらくはただ、茫然と御文を前にひろげたまま、溜息《ためいき》をついていらっしゃいました。が、何はともあれ、御眼にかかって、今まで胸にひそめていた想《おもい》のほども申し上げようと、こう思召したのでございましょう。丁度|五月雨《さみだれ》の暮方でございましたが、童子を一人御伴に御つれになって、傘《おおかさ》をかざしながら、ひそかに二条|西洞院《にしのとういん》の御屋形まで参りますと、御門《ごもん》は堅く鎖《とざ》してあって、いくら音なっても叩いても、開ける気色《けしき》はございません。そうこうする内に夜になって、人の往来《ゆきき》も稀な築土路《ついじみち》には、ただ、蛙《かわず》の声が聞えるばかり、雨は益《ますます》降りしきって、御召物も濡れれば、御眼も眩《くら》むと云う情ない次第でございます。
 それがほど経てから、御門の扉が、やっと開いたと思いますと、平太夫《へいだゆう》と申します私《わたくし》くらいの老侍《おいざむらい》が、これも同じような藤の枝に御文を結んだのを渡したなり、無言でまた、その扉をぴたりと閉めてしまいました。
 そこで泣く泣く御立ち帰りになって、その御文を開けて御覧になると、一首の古歌がちらし書きにしてあるだけで、一言もほかには御便りがございません。
  思へども思はずとのみ云ふなればいなや思はじ思ふかひなし
 これは云うまでもなく御姫様が、悪戯《いたずら》好きの若殿原から、細々《こまごま》と御消息で、鴉《からす》の左大弁様の心なしを御承知になっていたのでございます。

        八

 こう御話し致しますと、中には世の常の姫君たちに引き比べて、この御姫様の御行状《ごぎょうじょう》を、嘘のように思召す方もいらっしゃいましょうが、現在私が御奉公致している若殿様の事を申し上げながら、何もそのような空事《そらごと》をさし加えよう道理はございません。その頃|洛中《らくちゅう》で評判だったのは、この御姫様ともう御一方、これは虫が大御好きで、長虫《ながむし》までも御飼いになったと云う、不思議な御姫様がございました。この後《あと》の御姫様の事は、全くの余談でございますから、ここには何も申し上げますまい。が、中御門《なかみかど》の御姫様は、何しろ御両親とも御隠れになって、御屋形にはただ、先刻御耳に入れました平太夫《へいだゆう》を頭《かしら》にして、御召使の男女《なんにょ》が居りますばかり、それに御先代から御有福で、何御不自由もございませんでしたから、自然御美しいのと、御闊達なのとに御任せなすって、随分世を世とも思わない、御放胆な真似もなすったのでございます。
 そこで噂を立て易い世間には、この御姫様御自身が、実は少納言様の北の方《かた》と大殿様との間に御生まれなすったので、父君の御隠れなすったのも、恋の遺恨《いこん》で大殿様が毒害遊ばしたのだなどと申す輩《やから》も出て来るのでございましょう。しかし少納言様の急に御歿《おな》くなりになった御話は、前に一応申上げました通り、さらにそのような次第ではございませんから、その噂は申すまでもなく、皆|跡方《あとかた》のない嘘でございます。さもなければ若殿様も、決してあれほどまでは御姫様へ、心を御寄せにはなりますまい。
 何でも私が人伝《ひとづて》に承《うけたま》わりました所では、初めはいくら若殿様の方で御熱心でも、御姫様は反《かえ》って誰よりも、素気《すげ》なく御もてなしになったとか申す事でございます。いや、そればかりか、一度などは若殿様の御文を持って上った私の甥《おい》に、あの鴉の左大弁様同様、どうしても御門の扉を御開けにならなかったとかでございました。しかもあの平太夫《へいだゆう》が、なぜか堀川の御屋形のものを仇《かたき》のように憎みまして、その時も梨の花に、うらうらと春日《はるび》が※[#「均−土」、第3水準1-14-75]《にお》っている築地《ついじ》の上から白髪頭《しらがあたま》を露《あらわ》して、檜皮《ひわだ》の狩衣《かりぎぬ》の袖をまくりながら、推しても御門を開こうとする私の甥に、
「やい、おのれは昼盗人《ひるぬすびと》か。盗人とあれば容赦《ようしゃ》はせぬ。一足でも門内にはいったが最期《さいご》、平太夫が太刀《たち》にかけて、まっ二つに斬って捨てるぞ。」と、噛みつくように喚《わめ》きました。もしこれが私でございましたら、刃傷沙汰《にんじょうざた》にも及んだでございましょうが、甥はただ、道ばたの牛の糞《まり》を礫《つぶて》代りに投げつけただけで、帰って来たと申して居りました。かような次第でございますから、元より御文が無事に御手許にとどいても、とんと御返事と申すものは頂けません。が、若殿様は、一向それにも御頓着なく、三日にあげず、御文やら御歌やら、あるいはまた結構な絵巻やらを、およそものの三月あまりも、根気よく御遣《おつかわ》しになりました。さればこそ、日頃も仰有《おっしゃ》る通り、「あの頃の予が夢中になって、拙《つたな》い歌や詩を作ったのは、皆恋がさせた業《わざ》じゃ。」に、少しも違いはなかったのでございます。

        九

 丁度その頃の事でございます。洛中《らくちゅう》に一人の異形《いぎょう》な沙門《しゃもん》が現れまして、とんと今までに聞いた事のない、摩利《まり》の教と申すものを説き弘《ひろ》め始めました。これも一時随分評判でございましたから、中には御聞き及びの方《かた》もいらっしゃる事でございましょう。よくものの草紙などに、震旦《しんたん》から天狗《てんぐ》が渡ったと書いてありますのは、丁度あの染殿《そめどの》の御后《おきさき》に鬼が憑《つ》いたなどと申します通り、この沙門の事を譬《たと》えて云ったのでございます。
 そう申せば私が初めてその沙門を見ましたのも、やはり其頃の事でございました。確か、ある花曇りの日の昼中《ひるなか》だったかと存じますが、何か用足しに出ました帰りに、神泉苑《しんせんえん》の外を通りかかりますと、あすこの築土《ついじ》を前にして、揉烏帽子《もみえぼし》やら、立烏帽子《たてえぼし》やら、あるいはまたもの見高い市女笠《いちめがさ》やらが、数《かず》にしておよそ二三十人、中には竹馬に跨った童部《わらべ》も交って、皆|一塊《ひとかたまり》になりながら、罵《ののし》り騒いでいるのでございます。さてはまた、福徳の大神《おおかみ》に祟られた物狂いでも踊っているか、さもなければ迂闊《うかつ》な近江商人《おうみあきゅうど》が、魚盗人《うおぬすびと》に荷でも攫《さら》われたのだろうと、こう私は考えましたが、あまりその騒ぎが仰々《ぎょうぎょう》しいので、何気《なにげ》なく後《うしろ》からそっと覗《のぞ》きこんで見ますと、思いもよらずその真中《まんなか》には、乞食《こつじき》のような姿をした沙門が、何か頻《しきり》にしゃべりながら、見慣れぬ女菩薩《にょぼさつ》の画像《えすがた》を掲げた旗竿を片手につき立てて、佇《たたず》んでいるのでございました。年の頃はかれこれ三十にも近うございましょうか、色の黒い、眼のつり上った、いかにも凄じい面《つら》がまえで、着ているものこそ、よれよれになった墨染の法衣《ころも》でございますが、渦を巻いて肩の上まで垂れ下った髪の毛と申し、頸《くび》にかけた十文字の怪しげな黄金《こがね》の護符《ごふ》と申し、元より世の常の法師《ほうし》ではございますまい。それが、私の覗《のぞ》きました時は、流れ風に散る神泉苑の桜の葉を頭から浴びて、全く人間と云うよりも、あの智羅永寿《ちらえいじゅ》の眷属《けんぞく》が、鳶《とび》の翼を法衣《ころも》の下に隠しているのではないかと思うほど、怪しい姿に見うけられました。
 するとその時、私の側にいた、逞しい鍛冶《かじ》か何かが、素早く童部《わらべ》の手から竹馬をひったくって、
「おのれ、よくも地蔵菩薩を天狗だなどと吐《ぬか》したな。」と、噛みつくように喚きながら、斜《はす》に相手の面《おもて》を打ち据えました。が、打たれながらも、その沙門《しゃもん》は、にやりと気味の悪い微笑を洩らしたまま、いよいよ高く女菩薩《にょぼさつ》の画像《えすがた》を落花の風に飜《ひるがえ》して、
「たとい今生《こんじょう》では、いかなる栄華《えいが》を極めようとも、天上皇帝の御教《みおしえ》に悖《もと》るものは、一旦|命終《めいしゅう》の時に及んで、たちまち阿鼻叫喚《あびきょうかん》の地獄に堕《お》ち、不断の業火《ごうか》に皮肉を焼かれて、尽未来《じんみらい》まで吠え居ろうぞ。ましてその天上皇帝の遺《のこ》された、摩利信乃法師《まりしのほうし》に笞《しもと》を当つるものは、命終の時とも申さず、明日《あす》が日にも諸天童子の現罰を蒙って、白癩《びゃくらい》の身となり果てるぞよ。」と、叱りつけたではございませんか。この勢いに気を呑まれて、私は元より当の鍛冶《かじ》まで、しばらくはただ、竹馬を戟《ほこ》にしたまま、狂おしい沙門の振舞を、呆れてじっと見守って居りました。

        十

 が、それはほんの僅の間《ま》で、鍛冶《かじ》はまた竹馬《たけうま》をとり直しますと、
「まだ雑言《ぞうごん》をやめ居らぬか。」と、恐ろしい権幕《けんまく》で罵りながら、矢庭《やにわ》に沙門《しゃもん》へとびかかりました。
 元よりその時は私はじめ、誰でも鍛冶の竹馬が、したたか相手の面《おもて》を打ち据えたと、思わなかったものはございません。いや、実際竹馬は、あの日の焦《や》けた頬に、もう一すじ蚯蚓腫《みみずばれ》の跡を加えたようでございます。が、横なぐりに打ち下した竹馬が、まだ青い笹の葉に落花を掃《はら》ったと思うが早いか、いきなり大地《だいち》にどうと倒れたのは、沙門ではなくて、肝腎の鍛冶の方でございました。
 これに辟易《へきえき》した一同は、思わず逃腰《にげごし》になったのでございましょう。揉烏帽子《もみえぼし》も立《たて》烏帽子も意気地なく後《うしろ》を見せて、どっと沙門のまわりを離れましたが、見ると鍛冶は、竹馬を持ったまま、相手の足もとにのけぞり返って、口からはまるで癲癇病《てんかんや》みのように白い泡さえも噴いて居ります。沙門はしばらくその呼吸を窺っているようでございましたが、やがてその瞳を私どもの方へ返しますと、
「見られい。わしの云うた事に、偽《いつわ》りはなかったろうな。諸天童子は即座にこの横道者《おうどうもの》を、目に見えぬ剣《つるぎ》で打たせ給うた。まだしも頭《かしら》が微塵に砕けて、都大路《みやこおおじ》に血をあやさなんだのが、時にとっての仕合せと云わずばなるまい。」と、さも横柄《おうへい》に申しました。
 するとその時でございます。ひっそりと静まり返った人々の中から、急にけたたましい泣き声をあげて、さっき竹馬を持っていた童部《わらべ》が一人、切禿《きりかむろ》の髪を躍らせながら、倒れている鍛冶《かじ》の傍へ、転がるように走り寄ったのは。
「阿父《おとっ》さん。阿父さんてば。よう。阿父さん。」
 童部《わらべ》はこう何度も喚《わめ》きましたが、鍛冶はさらに正気《しょうき》に還る気色《けしき》もございません。あの唇にたまった泡さえ、不相変《あいかわらず》花曇りの風に吹かれて、白く水干《すいかん》の胸へ垂れて居ります。
「阿父さん。よう。」
 童部《わらべ》はまたこう繰り返しましたが、鍛冶が返事をしないのを見ると、たちまち血相を変えて、飛び立ちながら、父の手に残っている竹馬を両手でつかむが早いか、沙門を目がけて健気《けなげ》にも、まっしぐらに打ってかかりました。が、沙門はその竹馬を、持っていた画像《えすがた》の旗竿で、事もなげに払いながら、またあの気味の悪い笑《えみ》を洩らしますと、わざと柔《やさ》しい声を出して、「これは滅相な。御主《おぬし》の父親《てておや》が気を失ったのは、この摩利信乃法師《まりしのほうし》がなせる業《わざ》ではないぞ。さればわしを窘《くるし》めたとて、父親が生きて返ろう次第はない。」と、たしなめるように申しました。
 その道理が童部《わらべ》に通じたと云うよりは、所詮この沙門と打ち合っても、勝てそうもないと思ったからでございましょう。鍛冶の小伜は五六度竹馬を振りまわした後で、べそを掻いたまま、往来のまん中へ立ちすくんでしまいました。

        十一

 摩利信乃法師《まりしのほうし》はこれを見ると、またにやにや微笑《ほほえ》みながら、童部《わらべ》の傍《かたわら》へ歩みよって、
「さても御主《おぬし》は、聞分けのよい、年には増した利発な子じゃ。そう温和《おとな》しくして居《お》れば、諸天童子も御主にめでて、ほどなくそこな父親《てておや》も正気《しょうき》に還して下されよう。わしもこれから祈祷《きとう》しょうほどに、御主もわしを見慣うて、天上皇帝の御慈悲に御すがり申したがよかろうぞ。」
 こう云うと沙門は旗竿を大きく両腕に抱《いだ》きながら、大路《おおじ》のただ中に跪《ひざまず》いて、恭《うやうや》しげに頭を垂れました。そうして眼をつぶったまま、何やら怪しげな陀羅尼《だらに》のようなものを、声高《こわだか》に誦《ず》し始めました。それがどのくらいつづいた事でございましょう。沙門のまわりに輪を作って、この不思議な加持《かじ》のし方を眺めている私どもには、かれこれものの半時もたったかと思われるほどでございましたが、やがて沙門が眼を開いて、脆いたなり伸ばした手を、鍛冶《かじ》の顔の上へさしかざしますと、見る見る中にその顔が、暖かく血の色を盛返して、やがて苦しそうな呻《うな》り声さえ、例の泡だらけな口の中から、一しきり長く溢れて参りました。
「やあ、阿父《おとっ》さんが、生き返った。」
 童部《わらべ》は竹馬を抛り出すと、嬉しそうに小躍りして、また父親の傍へ走りよりました。が、その手で抱《だ》き起されるまでもなく、呻り声を洩らすとほとんど同時に、鍛冶はまるで酒にでも酔ったかと思うような、覚束ない身のこなしで、徐《おもむろ》に体を起しました。すると沙門はさも満足そうに、自分も悠然と立ち上って、あの女菩薩《にょぼさつ》の画像《えすがた》を親子のものの頭《かしら》の上に、日を蔽う如くさしかざすと、
「天上皇帝の御威徳は、この大空のように広大無辺じゃ。何と信を起されたか。」と、厳《おごそ》かにこう申しました。
 鍛冶の親子は互にしっかり抱《いだ》き合いながら、まだ土の上に蹲《うずくま》って居りましたが、沙門の法力《ほうりき》の恐ろしさには、魂も空にけし飛んだのでございましょう。女菩薩の幢《はた》を仰ぎますと、二人とも殊勝げな両手を合せて、わなわな震えながら、礼拝《らいはい》いたしました。と思うとつづいて二三人、まわりに立っている私どもの中にも、笠を脱いだり、烏帽子を直したりして、画像《えすがた》を拝んだものが居ったようでございます。ただ私は何となく、その沙門や女菩薩の画像が、まるで魔界の風に染んでいるような、忌《いま》わしい気が致しましたから、鍛冶が正気に還ったのを潮《しお》に、※[#「勹<夕」、第3水準1-14-76]々《そうそう》その場を立ち去ってしまいました。
 後で人の話を承わりますと、この沙門の説教致しますのが、震旦《しんたん》から渡って参りました、あの摩利《まり》の教と申すものだそうで、摩利信乃法師《まりしのほうし》と申します男も、この国の生れやら、乃至《ないし》は唐土《もろこし》に人となったものやら、とんと確かなことはわからないと云う事でございました。中にはまた、震旦でも本朝でもない、天竺《てんじく》の涯《はて》から来た法師で、昼こそあのように町を歩いているが、夜は墨染の法衣《ころも》が翼になって、八阪寺《やさかでら》の塔の空へ舞上るなどと云う噂もございましたが、元よりそれはとりとめもない、嘘だったのでございましょう。が、さような噂が伝わりましたのも、一応はもっともかと存じられますくらい、この摩利信乃法師の仕業には、いろいろ幻妙な事が多かったのでございます。

        十二

 と申しますのは、まず第一に摩利信乃法師《まりしのほうし》が、あの怪しげな陀羅尼《だらに》の力で、瞬く暇に多くの病者を癒《なお》した事でございます。盲目《めしい》が見えましたり、跛《あしなえ》が立ちましたり、唖《おし》が口をききましたり――一々数え立てますのも、煩わしいくらいでございますが、中でも一番名高かったのは、前《さき》の摂津守《せっつのかみ》の悩んでいた人面瘡《にんめんそう》ででもございましょうか。これは甥《おい》を遠矢にかけて、その女房を奪ったとやら申す報《むくい》から、左の膝頭にその甥の顔をした、不思議な瘡《かさ》が現われて、昼も夜も骨を刻《けず》るような業苦《ごうく》に悩んで居りましたが、あの沙門の加持《かじ》を受けますと、見る間にその顔が気色《けしき》を和《やわら》げて、やがて口とも覚しい所から「南無《なむ》」と云う声が洩れるや否や、たちまち跡方《あとかた》もなく消え失せたと申すのでございます。元よりそのくらいでございますから、狐の憑《つ》きましたのも、天狗の憑《つ》きましたのも、あるいはまた、何とも名の知れない、妖魅鬼神《ようみきじん》の憑きましたのも、あの十文字《じゅうもんじ》の護符を頂きますと、まるで木《こ》の葉を食う虫が、大風にでも振われて落ちるように、すぐさま落ちてしまいました。
 が、摩利信乃法師の法力が評判になったのは、それだからばかりではございません。前にも私が往来で見かけましたように、摩利の教を誹謗《ひぼう》したり、その信者を呵責《かしゃく》したり致しますと、あの沙門は即座にその相手に、恐ろしい神罰を祈り下しました。おかげで井戸の水が腥《なまぐさ》い血潮に変ったものもございますし、持《も》ち田《だ》の稲を一夜《いちや》の中に蝗《いなむし》が食ってしまったものもございますが、あの白朱社《はくしゅしゃ》の巫女《みこ》などは、摩利信乃法師を祈り殺そうとした応報で、一目見るのさえ気味の悪い白癩《びゃくらい》になってしまったそうでございます。そこであの沙門は天狗の化身《けしん》だなどと申す噂が、一層高くなったのでございましょう。が、天狗ならば一矢に射てとって見せるとか申して、わざわざ鞍馬の奥から参りました猟師も、例の諸天童子の剣《つるぎ》にでも打たれたのか、急に目がつぶれた揚句《あげく》、しまいには摩利の教の信者になってしまったとか申す事でございました。
 そう云う勢いでございますから、日が経《ふ》るに従って、信者になる老若男女《ろうにゃくなんにょ》も、追々数を増して参りましたが、そのまた信者になりますには、何でも水で頭《かしら》を濡《ぬら》すと云う、灌頂《かんちょう》めいた式があって、それを一度すまさない中は、例の天上皇帝に帰依《きえ》した明りが立ち兼《か》ねるのだそうでございます。これは私の甥が見かけたことでございますが、ある日四条の大橋を通りますと、橋の下の河原に夥《おびただ》しい人だかりが致して居りましたから、何かと存じて覗《のぞ》きました所、これもやはり摩利信乃法師が東国者らしい侍に、その怪しげな灌頂の式を授けて居《お》るのでございました。何しろ折からの水が温《ぬる》んで、桜の花も流れようと云う加茂川へ、大太刀を佩《は》いて畏《かしこま》った侍と、あの十文字の護符を捧げている異形《いぎょう》な沙門とが影を落して、見慣れない儀式を致していたと申すのでございますから、余程面白い見物《みもの》でございましたろう。――そう云えば、前に申し上げる事を忘れましたが、摩利信乃法師は始めから、四条河原の非人《ひにん》小屋の間へ、小さな蓆張《むしろば》りの庵《いおり》を造りまして、そこに始終たった一人、佗《わび》しく住んでいたのでございます。

        十三

 そこでお話は元へ戻りますが、その間に若殿様は、思いもよらない出来事から、予《かね》て御心を寄せていらしった中御門《なかみかど》の御姫様と、親しい御語いをなさる事が御出来なさるように相成りました。その思いもよらない事と申しますのは、もう花橘《はなたちばな》の※[#「均−土」、第3水準1-14-75]《におい》と時鳥《ほととぎす》の声とが雨もよいの空を想《おも》わせる、ある夜の事でございましたが、その夜は珍しく月が出て、夜目にも、朧《おぼろ》げには人の顔が見分けられるほどだったと申します。若殿様はある女房の所へ御忍びになった御帰り途で、御供の人数《にんず》も目立たないように、僅か一人か二人御召連れになったまま、その明るい月の中を車でゆっくりと御出でになりました。が、何しろ時刻が遅いので、人っ子一人通らない往来には、遠田《とおだ》の蛙《かわず》の声と、車の輪の音とが聞えるばかり、殊にあの寂しい美福門《びふくもん》の外は、よく狐火の燃える所だけに、何となく鬼気が身に迫って、心無い牛の歩みさえ早くなるような気が致されます。――そう思うと、急に向うの築土《ついじ》の陰で、怪しい咳《しわぶき》の声がするや否や、きらきらと白刃《しらは》を月に輝かせて、盗人と覚しい覆面の男が、左右から凡そ六七人、若殿様の車を目がけて、猛々《たけだけ》しく襲いかかりました。
 と同時に牛飼《うしかい》の童部《わらべ》を始め、御供の雑色《ぞうしき》たちは余りの事に、魂も消えるかと思ったのでございましょう。驚破《すわ》と云う間もなく、算《さん》を乱して、元来た方へ一散に逃げ出してしまいました。が、盗人たちはそれには目もくれる気色《けしき》もなく、矢庭《やにわ》に一人が牛の※[#「革+橿のつくり」、第3水準1-93-81]《はづな》を取って、往来のまん中へぴたりと車を止めるが早いか、四方から白刃《しらは》の垣を造って、犇々《ひしひし》とそのまわりを取り囲みますと、先ず頭立《かしらだ》ったのが横柄に簾《すだれ》を払って、「どうじゃ。この殿に違いはあるまいな。」と、仲間の方を振り向きながら、念を押したそうでございます。その容子《ようす》がどうも物盗りとも存ぜられませんので、御驚きの中にも若殿様は不審に思召されたのでございましょう。それまでじっとしていらっしったのが、扇を斜《ななめ》に相手の方を、透かすようにして御窺いなさいますと、その時その盗人の中に嗄《しわが》れた声がして、
「おう、しかとこの殿じゃ。」と、憎々《にくにく》しげに答えました。するとその声が、また何となくどこかで一度、御耳になすったようでございましたから、愈《いよいよ》怪しく思召して、明るい月の光に、その声の主《ぬし》を、きっと御覧になりますと、面《おもて》こそ包んで居りますが、あの中御門の御姫様に年久しく御仕え申している、平太夫《へいだゆう》に相違はございません。この一刹那はさすがの若殿様も、思わず総身《そうみ》の毛がよだつような、恐ろしい思いをなすったと申す事でございました。なぜと申しますと、あの平太夫が堀川の御一家《ごいっけ》を仇《かたき》のように憎んでいる事は、若殿様の御耳にも、とうからはいっていたからでございます。
 いや、現にその時も、平太夫がそう答えますと、さっきの盗人は一層声を荒《あらら》げて、太刀の切先《きっさき》を若殿様の御胸に向けながら、
「さらば御命《おんいのち》を申受けようず。」と罵ったと申すではございませんか。

        十四

 しかしあの飽くまでも、物に御騒ぎにならない若殿様は、すぐに勇気を御取り直しになって、悠々と扇を御弄《おもてあそ》びなさりながら、
「待て。待て。予の命が欲しくば、次第によって呉れてやらぬものでもない。が、その方どもは、何でそのようなものを欲しがるのじゃ。」と、まるで人事のように御尋ねになりました。すると頭立《かしらだ》った盗人は、白刃《しらは》を益《ますます》御胸へ近づけて、
「中御門《なかみかど》の少納言殿は、誰故の御最期《ごさいご》じゃ。」
「予は誰やら知らぬ。が、予でない事だけは、しかとした証《あかし》もある。」
「殿か、殿の父君か。いずれにしても、殿は仇《かたき》の一味じゃ。」
 頭立った一人がこう申しますと、残りの盗人どもも覆面の下で、
「そうじゃ。仇の一味じゃ。」と、声々に罵り交しました。中にもあの平太夫《へいだゆう》は歯噛みをして、車の中を獣のように覗きこみながら、太刀《たち》で若殿様の御顔を指さしますと、
「さかしらは御無用じゃよ。それよりは十念《じゅうねん》なと御称え申されい。」と、嘲笑《あざわら》うような声で申したそうでございます。
 が、若殿様は相不変《あいかわらず》落ち着き払って、御胸の先の白刃も見えないように、
「してその方たちは、皆少納言殿の御内《みうち》のものか。」と、抛《ほう》り出すように御尋ねなさいました。すると盗人たちは皆どうしたのか、一しきり答にためらったようでございましたが、その気色《けしき》を見てとった平太夫は、透かさず声を励まして、
「そうじゃ。それがまた何と致した。」
「いや、何とも致さぬが、もしこの中に少納言殿の御内《みうち》でないものがいたと思え。そのものこそは天《あめ》が下《した》の阿呆《あほう》ものじゃ。」
 若殿様はこう仰有《おっしゃ》って、美しい歯を御見せになりながら、肩を揺《ゆす》って御笑いになりました。これには命知らずの盗人たちも、しばらくは胆《きも》を奪われたのでございましょう。御胸に迫っていた太刀先さえ、この時はもう自然と、車の外の月明りへ引かれていたと申しますから。
「なぜと申せ。」と、若殿様は言葉を御継ぎになって、「予を殺害《せつがい》した暁には、その方どもはことごとく検非違使《けびいし》の目にかかり次第、極刑《ごっけい》に行わるべき奴ばらじゃ。元よりそれも少納言殿の御内のものなら、己《おの》が忠義に捨つる命じゃによって、定めて本望に相違はあるまい。が、さもないものがこの中にあって、わずかばかりの金銀が欲しさに、予が身を白刃に向けるとすれば、そやつは二つとない大事な命を、その褒美《ほうび》と換えようず阿呆ものじゃ。何とそう云う道理ではあるまいか。」
 これを聞いた盗人たちは、今更のように顔を見合せたけはいでございましたが、平太夫《へいだゆう》だけは独り、気違いのように吼《たけ》り立って、
「ええ、何が阿呆ものじゃ。その阿呆ものの太刀にかかって、最期《さいご》を遂げる殿の方が、百層倍も阿呆ものじゃとは覚されぬか。」
「何、その方どもが阿呆ものだとな。ではこの中《うち》に少納言殿の御内でないものもいるのであろう。これは一段と面白うなって参った。さらばその御内でないものどもに、ちと申し聞かす事がある。その方どもが予を殺害しようとするのは、全く金銀が欲しさにする仕事であろうな。さて金銀が欲しいとあれば、予はその方どもに何なりと望み次第の褒美を取らすであろう。が、その代り予の方にもまた頼みがある。何と、同じ金銀のためにする事なら、褒美の多い予の方に味方して、利得を計ったがよいではないか。」
 若殿様は鷹揚《おうよう》に御微笑なさりながら、指貫《さしぬき》の膝を扇で御叩きになって、こう車の外の盗人どもと御談じになりました。

        十五

「次第によっては、御意《ぎょい》通り仕《つかまつ》らぬものでもございませぬ。」
 恐ろしいくらいひっそりと静まり返っていた盗人たちの中から、頭《かしら》だったのが半《なかば》恐る恐るこう御答え申し上げますと、若殿様は御満足そうに、はたはたと扇を御鳴らしになりながら、例の気軽な御調子で、
「それは重畳《ちょうじょう》じゃ。何、予が頼みと申しても、格別むずかしい儀ではない。それ、そこに居《お》る老爺《おやじ》は、少納言殿の御内人《みうちびと》で、平太夫《へいだゆう》と申すものであろう。巷《ちまた》の風聞《ふうぶん》にも聞き及んだが、そやつは日頃予に恨みを含んで、あわよくば予が命を奪おうなどと、大それた企てさえ致して居《お》ると申す事じゃ。さればその方どもがこの度の結構も、平太夫めに唆《そそのか》されて、事を挙げたのに相違あるまい。――」
「さようでございます。」
 これは盗人たちが三四人、一度に覆面の下から申し上げました。
「そこで予が頼みと申すのは、その張本《ちょうぼん》の老爺《おやじ》を搦《から》めとって、長く禍の根を断ちたいのじゃが、何とその方どもの力で、平太夫めに縄をかけてはくれまいか。」
 この御仰《おんおお》せには、盗人たちも、余りの事にしばらくの間は、呆れ果てたのでございましょう。車をめぐっていた覆面の頭《かしら》が、互に眼を見合わしながら、一しきりざわざわと動くようなけはいがございましたが、やがてそれがまた静かになりますと、突然盗人たちの唯中から、まるで夜鳥《よどり》の鳴くような、嗄《しわが》れた声が起りました。
「やい、ここなうっそりどもめ。まだ乳臭いこの殿の口車に乗せられ居って、抜いた白刃を持て扱うばかりか、おめおめ御意に従いましょうなどとは、どの面下げて申せた義理じゃ。よしよし、ならば己《おの》れらが手は借りぬわ。高がこの殿の命一つ、平太夫が太刀ばかりで、見事申し受けようも、瞬く暇じゃ。」
 こう申すや否や平太夫は、太刀をまっこうにふりかざしながら、やにわに若殿様へ飛びかかろうと致しました。が、その飛びかかろうと致したのと、頭だった盗人が、素早く白刃を投げ出して、横あいからむずと組みついたのとが、ほとんど同時でございます。するとほかの盗人たちも、てんでに太刀を鞘におさめて、まるで蝗《いなむし》か何かのように、四方から平太夫へ躍りかかりました。何しろ多勢《たぜい》に無勢《ぶぜい》と云い、こちらは年よりの事でございますから、こうなっては勝負を争うまでもございません。たちまちの内にあの老爺《おやじ》は、牛の※[#「革+橿のつくり」、第3水準1-93-81]《はづな》でございましょう、有り合せた縄にかけられて、月明りの往来へ引き据えられてしまいました。その時の平太夫の姿と申しましたら、とんと穽《わな》にでもかかった狐のように、牙ばかりむき出して、まだ未練らしく喘《あえ》ぎながら、身悶えしていたそうでございます。
 するとこれを御覧になった若殿様は、欠伸《あくび》まじりに御笑いになって、
「おお、大儀。大儀。それで予の腹も一先《ひとまず》癒えたと申すものじゃ。が、とてもの事に、その方どもは、予が車を警護|旁《かたがた》、そこな老耄《おいぼれ》を引き立て、堀川の屋形《やかた》まで参ってくれい。」
 こう仰有《おっしゃ》られて見ますと盗人たちも、今更いやとは申されません。そこで一同うち揃って、雑色《ぞうしき》がわりに牛を追いながら、縄つきを中にとりまいて、月夜にぞろぞろと歩きはじめました。天《あめ》が下《した》は広うございますが、かように盗人どもを御供に御つれ遊ばしたのは、まず若殿様のほかにはございますまい。もっともこの異様な行列も、御屋形まで参りつかない内に、急を聞いて駆けつけた私どもと出会いましたから、その場で面々御褒美を頂いた上、こそこそ退散致してしまいました。

        十六

 さて若殿様は平太夫《へいだゆう》を御屋形へつれて御帰りになりますと、そのまま、御厩《おうまや》の柱にくくりつけて、雑色《ぞうしき》たちに見張りを御云いつけなさいましたが、翌朝は※[#「勹<夕」、第3水準1-14-76]々《そうそう》あの老爺《おやじ》を、朝曇りの御庭先へ御召しになって、
「こりゃ平太夫、その方が少納言殿の御恨《おうらみ》を晴そうと致す心がけは、成程|愚《おろか》には相違ないが、さればとてまた、神妙とも申されぬ事はない。殊にあの月夜に、覆面の者どもを駆り催して、予を殺害《せつがい》致そうと云う趣向のほどは、中々その方づれとも思われぬ風流さじゃ。が、美福門のほとりは、ちと場所がようなかったぞ。ならば糺《ただす》の森あたりの、老木《おいき》の下闇に致したかった。あすこは夏の月夜には、せせらぎの音が間近く聞えて、卯《う》の花の白く仄《ほのめ》くのも一段と風情《ふぜい》を添える所じゃ。もっともこれはその方づれに、望む予の方が、無理かも知れぬ。ついてはその殊勝なり、風流なのが目出たいによって、今度ばかりはその方の罪も赦《ゆる》してつかわす事にしよう。」
 こう仰有《おっしゃ》って若殿様は、いつものように晴々と御笑いになりながら、
「その代りその方も、折角これまで参ったものじゃ。序《ついで》ながら予の文を、姫君のもとまで差上げてくれい。よいか。しかと申しつけたぞ。」
 私はそのときの平太夫の顔くらい、世にも不思議なものを見た事はございません。あの意地の悪そうな、苦《にが》りきった面色《めんしょく》が、泣くとも笑うともつかない気色《けしき》を浮かべて、眼ばかりぎょろぎょろ忙《せわ》しそうに、働かせて居《お》るのでございます。するとその容子《ようす》が、笑止《しょうし》ながら気の毒に思召されたのでございましょう。若殿様は御笑顔《おえがお》を御やめになると、縄尻を控えていた雑色《ぞうしき》に、
「これ、これ、永居は平太夫の迷惑じゃ。すぐさま縄目を許してつかわすがよい。」と、難有《ありがた》い御諚《ごじょう》がございました。
 それから間もなくの事でございます。一夜の内に腰さえ弓のように曲った平太夫は、若殿様の御文をつけた花橘《はなたちばな》の枝を肩にして、這々《ほうほう》裏の御門から逃げ出して参りました。所がその後からまた一人、そっと御門を出ましたのは、私の甥《おい》の侍で、これは万一平太夫が御文に無礼でも働いてはならないと、若殿様にも申し上げず、見え隠れにあの老爺《おやじ》の跡をつけたのでございます。
 二人の間はおよその所、半町ばかりもございましたろうか。平太夫は気も心も緩みはてたかと思うばかり、跣足《はだし》を力なくひきずりながら、まだ雲切れのしない空に柿若葉の※[#「均−土」、第3水準1-14-75]《におい》のする、築土《ついじ》つづきの都大路《みやこおおじ》を、とぼとぼと歩いて参ります。途々通りちがう菜売りの女などが、稀有《けう》な文使《ふづか》いだとでも思いますのか、迂散《うさん》らしくふり返って、見送るものもございましたが、あの老爺《おやじ》はとんとそれにも目をくれる気色《けしき》はございません。
 この調子ならまず何事もなかろうと、一時は私の甥も途中から引き返そうと致しましたが、よもやに引かされて、しばらくは猶も跡を慕って参りますと、丁度|油小路《あぶらのこうじ》へ出ようと云う、道祖《さえ》の神の祠《ほこら》の前で、折からあの辻をこちらへ曲って出た、見慣れない一人の沙門《しゃもん》が、出合いがしらに平太夫と危くつき当りそうになりました。女菩薩《にょぼさつ》の幢《はた》、墨染の法衣《ころも》、それから十文字の怪しい護符、一目見て私の甥は、それが例の摩利信乃法師だと申す事に、気がついたそうでございます。

        十七

 危くつき当りそうになった摩利信乃法師《まりしのほうし》は、咄嗟《とっさ》に身を躱《かわ》しましたが、なぜかそこに足を止めて、じっと平太夫《へいだゆう》の姿を見守りました。が、あの老爺《おやじ》はとんとそれに頓着する容子《ようす》もなく、ただ、二三歩譲っただけで、相不変《あいかわらず》とぼとぼと寂しい歩みを運んで参ります。さてはさすがの摩利信乃法師も、平太夫の異様な風俗を、不審に思ったものと見えると、こう私の甥は考えましたが、やがてその側まで参りますと、まだ我を忘れたように、道祖《さえ》の神の祠《ほこら》を後《うしろ》にして、佇《たたず》んでいる沙門の眼《ま》なざしが、いかに天狗の化身《けしん》とは申しながら、どうも唯事とは思われません。いや、反《かえ》ってその眼なざしには、いつもの気味の悪い光がなくて、まるで涙ぐんででもいるような、もの優しい潤いが、漂っているのでございます。それが祠の屋根へ枝をのばした、椎の青葉の影を浴びて、あの女菩薩の旗竿を斜《ななめ》に肩へあてながら、しげしげ向うを見送っていた立ち姿の寂しさは、一生の中にたった一度、私の甥にもあの沙門を懐しく思わせたとか申す事でございました。
 が、その内に私の甥の足音に驚かされたのでございましょう。摩利信乃法師は夢のさめたように、慌しくこちらを振り向きますと、急に片手を高く挙げて、怪しい九字《くじ》を切りながら、何か咒文《じゅもん》のようなものを口の内に繰返して、※[#「均−土」、第3水準1-14-75]々《そうそう》歩きはじめました。その時の咒文の中に、中御門《なかみかど》と云うような語《ことば》が聞えたと申しますが、それは事によると私の甥の耳のせいだったかもわかりません。元よりその間も平太夫の方は、やはり花橘の枝を肩にして、側目《わきめ》もふらず悄々《しおしお》と歩いて参ったのでございます。そこでまた私の甥も、見え隠れにその跡をつけて、とうとう西洞院《にしのとういん》の御屋形まで参ったそうでございますが、時にあの摩利信乃法師の不思議な振舞が気になって、若殿様の御文の事さえ、はては忘れそうになったくらい、落着かない心もちに苦しめられたとか申して居りました。
 しかしその御文は恙《つつが》なく、御姫様の御手もとまでとどいたものと見えまして、珍しくも今度に限って早速御返事がございました。これは私ども下々《しもじも》には、何とも確かな事は申し上げる訳に参りませんが、恐らくは御承知の通り御闊達な御姫様の事でございますから、平太夫からあの暗討《やみう》ちの次第でも御聞きになって、若殿様の御《ご》気象の人に優れていらっしゃるのを、始めて御会得《ごえとく》になったからででもございましょうか。それから二三度、御消息を御取り交《かわ》せになった後、とうとうある小雨《こさめ》の降る夜、若殿様は私の甥を御供に召して、もう葉柳の陰に埋もれた、西洞院《にしのとういん》の御屋形へ忍んで御通いになる事になりました。こうまでなって見ますと、あの平太夫もさすがに我《が》が折れたのでございましょう。その夜も険しく眉をひそめて居りましたが、私の甥に向いましても、格別|雑言《ぞうごん》などを申す勢いはなかったそうでございます。

        十八

 その後《ご》若殿様はほとんど夜毎に西洞院《にしのとういん》の御屋形へ御通いになりましたが、時には私のような年よりも御供に御召しになった事がございました。私が始めてあの御姫様の、眩しいような御美しさを拝む事が出来ましたのも、そう云う折ふしの事でございます。一度などは御二人で、私を御側近く御呼びよせなさりながら、今昔《こんじゃく》の移り変りを話せと申す御意もございました。確か、その時の事でございましょう。御簾《みす》のひまから見える御池の水に、さわやかな星の光が落ちて、まだ散り残った藤《ふじ》の※[#「均−土」、第3水準1-14-75]《におい》がかすかに漂って来るような夜でございましたが、その涼しい夜気の中に、一人二人の女房を御侍《おはべ》らせになって、もの静に御酒盛をなすっていらっしゃる御二方の美しさは、まるで倭絵《やまとえ》の中からでも、抜け出していらしったようでございました。殊に白い単衣襲《ひとえがさね》に薄色の袿《うちぎ》を召した御姫様の清らかさは、おさおさあの赫夜姫《かぐやひめ》にも御劣りになりはしますまい。
 その内に御酒機嫌《ごしゅきげん》の若殿様が、ふと御姫様の方へ御向いなさりながら、
「今も爺《じい》の申した通り、この狭い洛中でさえ、桑海《そうかい》の変《へん》は度々《たびたび》あった。世間一切の法はその通り絶えず生滅遷流《せいめつせんりゅう》して、刹那も住《じゅう》すと申す事はない。されば無常経《むじょうきょう》にも『|未[#四]曾有[#三]一事不[#レ]被[#二]無常呑[#一]《いまだかつていちじのむじょうにのまれざるはあらず》』と説かせられた。恐らくはわれらが恋も、この掟ばかりは逃れられまい。ただいつ始まっていつ終るか、予が気がかりなのはそれだけじゃ。」と、冗談のように仰有《おっしゃ》いますと、御姫様はとんと拗《す》ねたように、大殿油《おおとのあぶら》の明るい光をわざと御避けになりながら、
「まあ、憎らしい事ばかり仰有《おっしゃ》います。ではもう始めから私《わたくし》を、御捨てになる御心算《おつもり》でございますか。」と、優しく若殿様を御睨《おにら》みなさいました。が、若殿様は益《ますます》御機嫌よく、御盃を御干しになって、
「いや、それよりも始めから、捨てられる心算《つもり》で居《お》ると申した方が、一層予の心もちにはふさわしいように思われる。」
「たんと御弄《おなぶ》り遊ばしまし。」
 御姫様はこう仰有って、一度は愛くるしく御笑いになりましたが、急にまた御簾《みす》の外の夜色《やしょく》へ、うっとりと眼を御やりになって、
「一体世の中の恋と申すものは、皆そのように果《はか》ないものでございましょうか。」と独り語《ごと》のように仰有いました。すると若殿様はいつもの通り、美しい歯を見せて、御笑いになりながら、
「されば果《はか》なくないとも申されまいな。が、われら人間が万法《ばんぽう》の無常も忘れはてて、蓮華蔵《れんげぞう》世界の妙薬をしばらくしたりとも味わうのは、ただ、恋をしている間だけじゃ。いや、その間だけは恋の無常さえ忘れていると申してもよい。じゃによって予が眼からは恋慕三昧《れんぼざんまい》に日を送った業平《なりひら》こそ、天晴《あっぱれ》知識じゃ。われらも穢土《えど》の衆苦を去って、常寂光《じょうじゃっこう》の中に住《じゅう》そうには伊勢物語をそのままの恋をするよりほかはあるまい。何と御身《おみ》もそうは思われぬか。」と、横合いから御姫様の御顔を御覗きになりました。

        十九

「されば恋の功徳《くどく》こそ、千万無量とも申してよかろう。」
 やがて若殿様は、恥しそうに御眼を御伏せになった御姫様から、私の方へ、陶然となすった御顔を御向けになって、
「何と、爺《じい》もそう思うであろうな。もっともその方には恋とは申さぬ。が、好物《こうぶつ》の酒ではどうじゃ。」
「いえ、却々《なかなか》持ちまして、手前は後生《ごしょう》が恐ろしゅうございます。」
 私が白髪《しらが》を掻きながら、慌ててこう御答え申しますと、若殿様はまた晴々と御笑いになって、
「いや、その答えが何よりじゃ。爺は後生が恐ろしいと申すが、彼岸《ひがん》に往生しょうと思う心は、それを暗夜《あんや》の燈火《ともしび》とも頼んで、この世の無常を忘れようと思う心には変りはない。じゃによってその方も、釈教《しゃっきょう》と恋との相違こそあれ、所詮は予と同心に極《きわ》まったぞ。」
「これはまた滅相な。成程御姫様の御美しさは、伎芸天女《ぎげいてんにょ》も及ばぬほどではございますが、恋は恋、釈教は釈教、まして好物の御酒《ごしゅ》などと、一つ際《ぎわ》には申せませぬ。」
「そう思うのはその方の心が狭いからの事じゃ。弥陀《みだ》も女人《にょにん》も、予の前には、皆われらの悲しさを忘れさせる傀儡《くぐつ》の類いにほかならぬ。――」
 こう若殿様が御云い張りになると、急に御姫様は偸《ぬす》むように、ちらりとその方を御覧になりながら、
「それでも女子《おなご》が傀儡では、嫌じゃと申しは致しませぬか。」と、小さな御声で仰有いました。
「傀儡《くぐつ》で悪くば、仏菩薩《ぶつぼさつ》とも申そうか。」
 若殿様は勢いよく、こう返事をなさいましたが、ふと何か御思い出しなすったように、じっと大殿油《おおとのあぶら》の火影《ほかげ》を御覧になると、
「昔、あの菅原雅平《すがわらまさひら》と親《したし》ゅう交っていた頃にも、度々このような議論を闘わせた。御身も知って居《お》られようが、雅平《まさひら》は予と違って、一図に信を起し易い、云わば朴直な生れがらじゃ。されば予が世尊金口《せそんこんく》の御経《おんきょう》も、実は恋歌《こいか》と同様じゃと嘲笑《あざわら》う度に腹を立てて、煩悩外道《ぼんのうげどう》とは予が事じゃと、再々|悪《あ》しざまに罵り居った。その声さえまだ耳にあるが、当の雅平は行方《ゆくえ》も知れぬ。」と、いつになく沈んだ御声でもの思わしげに御呟《おつぶや》きなさいました。するとその御容子《ごようす》にひき入れられたのか、しばらくの間は御姫様を始め、私までも口を噤《つぐ》んで、しんとした御部屋の中には藤の花の※[#「均−土」、第3水準1-14-75]《におい》ばかりが、一段と高くなったように思われましたが、それを御座《おざ》が白けたとでも、思ったのでございましょう。女房たちの一人が恐る恐る、
「では、この頃洛中に流行《はや》ります摩利の教とやら申すのも、やはり無常を忘れさせる新しい方便なのでございましょう。」と、御話の楔《くさび》を入れますと、もう一人の女房も、
「そう申せばあの教を説いて歩きます沙門には、いろいろ怪しい評判があるようでございませんか。」と、さも気味悪そうに申しながら、大殿油《おおとのあぶら》の燈心をわざとらしく掻立《かきた》てました。

        二十

「何、摩利《まり》の教。それはまた珍しい教があるものじゃ。」
 何か御考えに耽っていらしった若殿様は、思い出したように、御盃を御挙げになると、その女房の方を御覧になって、
「摩利と申すからは、摩利支天《まりしてん》を祭る教のようじゃな。」
「いえ、摩利支天ならよろしゅうございますが、その教の本尊は、見慣れぬ女菩薩《にょぼさつ》の姿じゃと申す事でございます。」
「では、波斯匿王《はしのくおう》の妃《きさい》の宮であった、茉利《まり》夫人の事でも申すと見える。」
 そこで私は先日神泉苑の外《そと》で見かけました、摩利信乃法師《まりしのほうし》の振舞を逐一御話し申し上げてから、
「その女菩薩の姿では、茉利夫人とやらのようでもございませぬ。いや、それよりはこれまでのどの仏菩薩の御像《おすがた》にも似ていないのでございます。別してあの赤裸《あかはだか》の幼子《おさなご》を抱《いだ》いて居《お》るけうとさは、とんと人間の肉を食《は》む女夜叉《にょやしゃ》のようだとも申しましょうか。とにかく本朝には類《たぐい》のない、邪宗の仏《ほとけ》に相違ございますまい。」と、私の量見を言上致しますと、御姫様は美しい御眉《おんまゆ》をそっと御ひそめになりながら、
「そうしてその摩利信乃法師とやら申す男は、真実天狗の化身《けしん》のように見えたそうな。」と、念を押すように御尋ねなさいました。
「さようでございます。風俗はとんと火の燃える山の中からでも、翼に羽搏《はう》って出て来たようでございますが、よもやこの洛中に、白昼さような変化《へんげ》の物が出没致す事はございますまい。」
 すると若殿様はまた元のように、冴々《さえざえ》した御笑声《おわらいごえ》で、
「いや、何とも申されぬ。現に延喜《えんぎ》の御門《みかど》の御代《みよ》には、五条あたりの柿の梢に、七日《なのか》の間天狗が御仏《みほとけ》の形となって、白毫光《びゃくごうこう》を放ったとある。また仏眼寺《ぶつげんじ》の仁照阿闍梨《にんしょうあざり》を日毎に凌《りょう》じに参ったのも、姿は女と見えたが実は天狗じゃ。」
「まあ、気味の悪い事を仰有《おっしゃ》います。」
 御姫様は元より、二人の女房も、一度にこう云って、襲《かさね》の袖を合せましたが、若殿様は、愈御酒《いよいよごしゅ》機嫌の御顔を御和《おやわら》げになって、
「三千世界は元より広大無辺じゃ。僅ばかりの人間の智慧《ちえ》で、ないと申される事は一つもない。たとえばその沙門に化けた天狗が、この屋形の姫君に心を懸けて、ある夜ひそかに破風《はふ》の空から、爪だらけの手をさしのべようも、全くない事じゃとは誰も云えぬ。が、――」と仰有《おっしゃ》りながら、ほとんど色も御変りにならないばかり、恐ろしげに御寄りそいになった御姫様の袿《うちぎ》の背を、やさしく御さすりになりながら、
「が、まだその摩利信乃法師とやらは、幸《さいわ》い、姫君の姿さえ垣間見《かいまみ》た事もないであろう。まず、それまでは魔道の恋が、成就する気づかいはよもあるまい。さればもうそのように、怖がられずとも大丈夫じゃ。」と、まるで子供をあやすように、笑って御慰めなさいました。

        二十一

 それから一月ばかりと申すものは、何事もなくすぎましたが、やがて夏も真盛りのある日の事、加茂川《かもがわ》の水が一段と眩《まばゆ》く日の光を照り返して、炎天の川筋には引き舟の往来《ゆきき》さえとぎれる頃でございます。ふだんから釣の好きな私の甥は、五条の橋の下へ参りまして、河原蓬《かわらよもぎ》の中に腰を下しながら、ここばかりは涼風《すずかぜ》の通うのを幸と、水嵩《みかさ》の減った川に糸を下して、頻《しきり》に鮠《はえ》を釣って居りました。すると丁度頭の上の欄干で、どうも聞いた事のあるような話し声が致しますから、何気なく上を眺めますと、そこにはあの平太夫《へいだゆう》が高扇《たかおうぎ》を使いながら、欄干に身をよせかけて、例の摩利信乃法師《まりしのほうし》と一しょに、余念なく何事か話して居《お》るではございませんか。
 それを見ますと私の甥は、以前|油小路《あぶらのこうじ》の辻で見かけた、摩利信乃法師の不思議な振舞がふと心に浮びました。そう云えばあの時も、どうやら二人の間には、曰《いわ》くがあったようでもある。――こう私の甥は思いましたから、眼は糸の方へやっていても、耳は橋の上の二人の話を、じっと聞き澄まして居りますと、向うは人通りもほとんど途絶えた、日盛りの寂しさに心を許したのでございましょう。私の甥の居《お》る事なぞには、更に気のつく容子《ようす》もなく、思いもよらない、大それた事を話し合って居《お》るのでございます。
「あなた様がこの摩利の教を御拡《おひろ》めになっていらっしゃろうなどとは、この広い洛中で誰一人存じて居《お》るものはございますまい。私《わたくし》でさえあなた様が御自分でそう仰有《おっしゃ》るまでは、どこかで御見かけ申したとは思いながら、とんと覚えがございませんでした。それもまた考えて見れば、もっともな次第でございます。いつぞやの春の月夜に桜人《さくらびと》の曲を御謡いになった、あの御年若なあなた様と、ただ今こうして炎天に裸で御歩きになっていらっしゃる、慮外ながら天狗のような、見るのも凄じいあなた様と、同じ方でいらっしゃろうとは、あの打伏《うちふし》の巫子《みこ》に聞いて見ても、わからないのに相違ございません。」
 こう平太夫《へいだゆう》が口軽く、扇の音と一しょに申しますと、摩利信乃法師はまるでまた、どこの殿様かと疑われる、鷹揚《おうよう》な言《ことば》つきで、
「わしもその方に会ったのは何よりも満足じゃ。いつぞや油小路《あぶらのこうじ》の道祖《さえ》の神の祠《ほこら》の前でも、ちらと見かけた事があったが、その方は側目《わきめ》もふらず、文をつけた橘の枝を力なくかつぎながら、もの思わしげにたどたどと屋形の方へ歩いて参った。」
「さようでございますか。それはまた年甲斐もなく、失礼な事を致したものでございます。」
 平太夫はあの朝の事を思い出したのでございましょう。苦々しげにこう申しましたが、やがて勢いの好《よ》い扇の音が、再びはたはたと致しますと、
「しかしこうして今日《こんにち》御眼にかかれたのは、全く清水寺《きよみずでら》の観世音菩薩の御利益《ごりやく》ででもございましょう。平太夫一生の内に、これほど嬉しい事はございません。」
「いや、予が前で神仏《しんぶつ》の名は申すまい。不肖《ふしょう》ながら、予は天上皇帝の神勅を蒙って、わが日の本に摩利《まり》の教を布《し》こうと致す沙門の身じゃ。」

        二十二

 急に眉をひそめたらしいけはいで、こう摩利信乃法師《まりしのほうし》が言《ことば》を挟みましたが、存外|平太夫《へいだゆう》は恐れ入った気色《けしき》もなく、扇と舌と同じように働かせながら、
「成程さようでございましたな。平太夫も近頃はめっきり老耄《おいぼ》れたと見えまして、する事為す事ことごとく落度《おちど》ばかりでございます。いや、そう云う次第ならもうあなた様の御前《おまえ》では、二度と神仏の御名《みな》は口に致しますまい。もっとも日頃はこの老爺《おやじ》も、余り信心気《しんじんぎ》などと申すものがある方ではございません。それをただ今急に、観世音菩薩などと述べ立てましたのは、全く久しぶりで御目にかかったのが、嬉しかったからでございます。そう申せば姫君も、幼馴染のあなた様が御《ご》無事でいらっしゃると御聞きになったら、どんなにか御喜びになる事でございましょう。」と、ふだん私どもに向っては、返事をするのも面倒そうな、口の重い容子《ようす》とは打って変って、勢いよく、弁じ立てました。これにはあの摩利信乃法師も、返事のしようさえなさそうにしばらくはただ、頷《うなず》いてばかりいるようでございましたが、やがてその姫君と云う言《ことば》を機会《しお》に、
「さてその姫君についてじゃが、予は聊《いささ》か密々に御意《ぎょい》得たい仔細《しさい》がある。」と、云って、一段とまた声をひそめながら、
「何と平太夫、その方の力で夜分なりと、御目にかからせてはくれまいか。」
 するとこの時橋の上では、急に扇の音が止んでしまいました。それと同時に私の甥は、危く欄干の方を見上げようと致しましたが、元より迂闊《うかつ》な振舞をしては、ここに潜んでいる事が見露《みあらわ》されないものでもございません。そこでやはり河原蓬《かわらよもぎ》の中を流れて行く水の面《おもて》を眺めたまま、息もつかずに上の容子へ気をくばって居りました。が、平太夫は今までの元気に引き換えて、容易に口を開きません。その間の長さと申しましたら、橋の下の私の甥《おい》には、体中の筋骨《すじぼね》が妙にむず痒《がゆ》くなったくらい、待ち遠しかったそうでございます。
「たとい河原とは申しながら、予も洛中に住まうものじゃ。堀川の殿がこの日頃、姫君のもとへしげしげと、通わるる趣も知っては居《お》る。――」
 やがてまた摩利信乃法師は、相不変《あいかわらず》もの静かな声で、独り言のように言《ことば》を継《つ》ぐと、
「が、予は姫君が恋しゅうて、御意《ぎょい》得たいと申すのではない。予の業欲《ごうよく》に憧るる心は、一度唐土《ひとたびもろこし》にさすらって、紅毛碧眼の胡僧《こそう》の口から、天上皇帝の御教《みおしえ》を聴聞《ちょうもん》すると共に、滅びてしもうた。ただ、予が胸を痛めるのは、あの玉のような姫君も、この天地《あめつち》を造らせ給うた天上皇帝を知られぬ事じゃ。されば、神と云い仏《ほとけ》と云う天魔外道《てんまげどう》の類《たぐい》を信仰せられて、その形になぞらえた木石にも香花《こうげ》を供えられる。かくてはやがて命終《めいしゅう》の期《ご》に臨んで、永劫《えいごう》消えぬ地獄の火に焼かれ給うに相違ない。予はその事を思う度に、阿鼻大城《あびたいじょう》の暗の底へ逆落しに落ちさせらるる、あえかな姫君の姿さえありありと眼に浮んで来るのじゃ。現に昨夜《ゆうべ》も。――」
 こう云いかけて、あの沙門はさも感慨に堪えないらしく、次第に力の籠って来た口をしばらくの間とざしました。

        二十三

「昨晩《ゆうべ》、何かあったのでございますか。」
 ほど経て平太夫《へいだゆう》が、心配そうに、こう相手の言《ことば》を促しますと、摩利信乃法師《まりしのほうし》はふと我に返ったように、また元の静な声で、一言《ひとこと》毎に間を置きながら、
「いや、何もあったと申すほどの仔細はない。が、予は昨夜《ゆうべ》もあの菰《こも》だれの中で、独りうとうとと眠って居《お》ると、柳の五つ衣《ぎぬ》を着た姫君の姿が、夢に予の枕もとへ歩みよられた。ただ、現《うつつ》と異ったは、日頃つややかな黒髪が、朦朧と煙《けぶ》った中に、黄金《こがね》の釵子《さいし》が怪しげな光を放って居っただけじゃ。予は絶えて久しい対面の嬉しさに、『ようこそ見えられた』と声をかけたが、姫君は悲しげな眼を伏せて、予の前に坐られたまま、答えさえせらるる気色《けしき》はない。と思えば紅《くれない》の袴の裾に、何やら蠢《うごめ》いているものの姿が見えた。それが袴の裾ばかりか、よう見るに従って、肩にも居《お》れば、胸にも居る。中には黒髪の中にいて、えせ笑うらしいものもあった。――」
「と仰有っただけでは解《げ》せませんが、一体何が居ったのでございます。」
 この時は平太夫も、思わず知らず沙門《しゃもん》の調子に釣り込まれてしまったのでございましょう。こう尋ねました声ざまには、もうさっきの気負った勢いも聞えなくなって居りました。が、摩利信乃法師は、やはりもの思わしげな口ぶりで、
「何が居ったと申す事は、予自身にもしかとはわからぬ。予はただ、水子《みずご》ほどの怪しげなものが、幾つとなく群って、姫君の身のまわりに蠢《うごめ》いているのを眺めただけじゃ。が、それを見ると共に、夢の中ながら予は悲しゅうなって、声を惜まず泣き叫んだ。姫君も予の泣くのを見て、頻《しきり》に涙を流される。それが久しい間続いたと思うたが、やがて、どこやらで鶏《とり》が啼いて、予の夢はそれぎり覚めてしもうた。」
 摩利信乃法師がこう語り終りますと、今度は平太夫も口を噤《つぐ》んで、一しきりやめていた扇をまたも使い出しました。私の甥はその間中|鉤《はり》にかかった鮠《はえ》も忘れるくらい、聞き耳を立てて居りましたが、この夢の話を聞いている中は、橋の下の涼しさが、何となく肌身にしみて、そう云う御姫様の悲しい御姿を、自分もいつか朧げに見た事があるような、不思議な気が致したそうでございます。
 その内に橋の上では、また摩利信乃法師の沈んだ声がして、
「予はその怪しげなものを妖魔《ようま》じゃと思う。されば天上皇帝は、堕獄の業《ごう》を負わせられた姫君を憐れと見そなわして、予に教化《きょうげ》を施せと霊夢を賜ったのに相違ない。予がその方の力を藉りて、姫君に御意得たいと申すのは、こう云う仔細があるからじゃ。何と予が頼みを聞き入れてはくれまいか。」
 それでもなお、平太夫はしばらくためらっていたようでございますが、やがて扇をつぼめたと思うと、それで欄干を丁《ちょう》と打ちながら、
「よろしゅうございます。この平太夫はいつぞや清水《きよみず》の阪の下で、辻冠者《つじかんじゃ》ばらと刃傷《にんじょう》を致しました時、すんでに命も取られる所を、あなた様の御かげによって、落ち延びる事が出来ました。その御恩を思いますと、あなた様の仰有《おっしゃ》る事に、いやと申せた義理ではございません。摩利《まり》の教とやらに御帰依なさるか、なさらないか、それは姫君の御意次第でございますが、久しぶりであなた様の御目にかかると申す事は、姫君も御嫌《おいや》ではございますまい。とにかく私の力の及ぶ限り、御対面だけはなされるように御取り計らい申しましょう。」

        二十四

 その密談の仔細を甥の口から私が詳しく聞きましたのは、それから三四日たったある朝の事でございます。日頃は人の多い御屋形の侍所《さむらいどころ》も、その時は私共二人だけで、眩《まば》ゆく朝日のさした植込みの梅の青葉の間からは、それでも涼しいそよ風が、そろそろ動こうとする秋の心もちを時々吹いて参りました。
 私の甥はその話を終ってから、一段と声をひそめますと、
「一体あの摩利信乃法師《まりしのほうし》と云う男が、どうして姫君を知って居《お》るのだか、それは元より私にも不思議と申すほかはありませんが、とにかくあの沙門《しゃもん》が姫君の御意を得るような事でもあると、どうもこの御屋形の殿様の御身の上には、思いもよらない凶変でも起りそうな不吉な気がするのです。が、このような事は殿様に申上げても、あの通りの御気象ですから、決して御取り上げにはならないのに相違ありません。そこで、私は私の一存で、あの沙門を姫君の御目にかかれないようにしようと思うのですが、叔父さんの御考えはどういうものでしょう。」
「それはわしも、あの怪しげな天狗法師などに姫君の御顔を拝ませたく無い。が、御主《おぬし》もわしも、殿様の御用を欠かぬ限りは、西洞院《にしのとういん》の御屋形の警護ばかりして居《お》る訳にも行かぬ筈じゃ。されば御主はあの沙門を、姫君の御身のまわりに、近づけぬと云うたにした所で。――」
「さあ。そこです。姫君の思召しも私共には分りませんし、その上あすこには平太夫《へいだゆう》と云う老爺《おやじ》も居りますから、摩利信乃法師が西洞院の御屋形に立寄るのは、迂闊《うかつ》に邪魔も出来ません。が、四条河原の蓆張《むしろば》りの小屋ならば、毎晩きっとあの沙門が寝泊りする所ですから、随分こちらの思案次第で、二度とあの沙門が洛中《らくちゅう》へ出て来ないようにすることも出来そうなものだと思うのです。」
「と云うて、あの小屋で見張りをしてる訳にも行くまい。御主《おぬし》の申す事は、何やら謎めいた所があって、わしのような年寄りには、十分に解《げ》し兼ねるが、一体御主はあの摩利信乃法師をどうしようと云う心算《つもり》なのじゃ。」
 私が不審《ふしん》そうにこう尋ねますと、私の甥はあたかも他聞を憚《はばか》るように、梅の青葉の影がさして居る部屋の前後へ目をくばりながら、私の耳へ口を附けて、
「どうすると云うて、ほかに仕方のある筈がありません。夜更けにでも、そっと四条河原へ忍んで行って、あの沙門の息の根を止めてしまうばかりです。」
 これにはさすがの私もしばらくの間は呆れ果てて、二の句をつぐ事さえ忘れて居りましたが、甥は若い者らしい、一図に思いつめた調子で、
「何、高があの通りの乞食《こつじき》法師です。たとい加勢の二三人はあろうとも、仕止めるのに造作《ぞうさ》はありますまい。」
「が、それはどうもちと無法なようじゃ。成程あの摩利信乃法師は邪宗門《じゃしゅうもん》を拡めては歩いて居ようが、そのほかには何一つ罪らしい罪も犯して居らぬ。さればあの沙門を殺すのは、云わば無辜《むこ》を殺すとでも申そう。――」
「いや、理窟はどうでもつくものです。それよりももしあの沙門が、例の天上皇帝の力か何か藉《か》りて、殿様や姫君を呪《のろ》うような事があったとして御覧なさい。叔父さん始め私まで、こうして禄を頂いている甲斐がないじゃありませんか。」
 私の甥は顔を火照《ほて》らせながら、どこまでもこう弁じつづけて、私などの申す事には、とんと耳を藉しそうな気色《けしき》さえもございません。――すると丁度そこへほかの侍たちが、扇の音をさせながら、二三人はいって参りましたので、とうとうこの話もその場限り、御流《おながれ》になってしまいました。

        二十五

 それからまた、三四日はすぎたように覚えて居ります。ある星月夜《ほしづくよ》の事でございましたが、私は甥《おい》と一しょに更闌《こうた》けてから四条河原へそっと忍んで参りました。その時でさえまだ私には、あの天狗法師を殺そうと云う心算《つもり》もなし、また殺す方がよいと云う気もあった訳ではございません。が、どうしても甥が初の目ろみを捨てないのと、甥を一人やる事がなぜか妙に気がかりだったのとで、とうとう私までが年甲斐もなく、河原蓬《かわらよもぎ》の露に濡れながら、摩利信乃法師《まりしのほうし》の住む小屋を目がけて、窺《うかが》いよることになったのでございます。
 御承知の通りあの河原には、見苦しい非人《ひにん》小屋が、何軒となく立ち並んで居りますが、今はもうここに多い白癩《びゃくらい》の乞食《こつじき》たちも、私などが思いもつかない、怪しげな夢をむすびながら、ぐっすり睡入《ねい》って居《お》るのでございましょう。私と甥とが足音を偸《ぬす》み偸み、静にその小屋の前を通りぬけました時も、蓆壁《むしろかべ》の後《うしろ》にはただ、高鼾《たかいびき》の声が聞えるばかり、どこもかしこもひっそりと静まり返って、たった一所《ひとところ》焚き残してある芥火《あくたび》さえ、風もないのか夜空へ白く、まっすぐな煙《けぶり》をあげて居ります。殊にその煙の末が、所斑《ところはだら》な天の川と一つでいるのを眺めますと、どうやら数え切れない星屑が、洛中の天を傾けて、一尺ずつ一寸ずつ、辷る音まではっきりと聞きとれそうに思われました。
 その中に私の甥は、兼ねて目星をつけて置いたのでございましょう、加茂川《かもがわ》の細い流れに臨んでいる、菰《こも》だれの小屋の一つを指さしますと、河原蓬の中に立ったまま、私の方をふり向きまして、「あれです。」と、一言《ひとこと》申しました。折からあの焚き捨てた芥火《あくたび》が、まだ焔の舌を吐いているそのかすかな光に透かして見ますと、小屋はどれよりも小さいくらいで、竹の柱も古蓆《ふるむしろ》の屋根も隣近所と変りはございませんが、それでもその屋根の上には、木の枝を組んだ十文字の標《しるし》が、夜目にもいかめしく立って居ります。
「あれか。」
 私は覚束《おぼつか》ない声を出して、何と云う事もなくこう問い返しました。実際その時の私には、まだ摩利信乃法師を殺そうとも、殺すまいとも、はっきりした決断がつかずにいたのでございます。が、そう云う内にも私の甥が、今度はふり向くらしい容子《ようす》もなく、じっとその小屋を見守りながら、
「そうです。」と、素っ気なく答える声を聞きますと、愈太刀《いよいよたち》へ血をあやす時が来たと云う、何とも云いようのない心もちで、思わず総身がわななきました。すると甥は早くも身仕度を整えたものと見えて、太刀の目釘を叮嚀に潤《しめ》しますと、まるで私には目もくれず、そっと河原を踏み分けながら、餌食《えじき》を覗う蜘蛛《くも》のように、音もなく小屋の外へ忍びよりました。いや全く芥火の朧げな光のさした、蓆壁にぴったり体をよせて、内のけはいを窺っている私の甥の後姿は、何となく大きな蜘蛛のような気味の悪いものに見えたのでございます。

        二十六

 が、こう云う場合に立ち至ったからは、元よりこちらも手を束《つか》ねて、見て居《お》る訳には参りません。そこで水干《すいかん》の袖を後で結ぶと、甥の後《うしろ》から私も、小屋の外へ窺《うかが》いよって、蓆の隙から中の容子を、じっと覗きこみました。
 するとまず、眼に映ったのは、あの旗竿に掲げて歩く女菩薩《にょぼさつ》の画像《えすがた》でございます。それが今は、向うの蓆壁にかけられて、形ははっきりと見えませんが、入口の菰《こも》を洩れる芥火《あくたび》の光をうけて、美しい金の光輪ばかりが、まるで月蝕《げっしょく》か何かのように、ほんのり燦《きら》めいて居りました。またその前に横になって居りますのは、昼の疲れに前後を忘れた摩利信乃法師《まりしのほうし》でございましょう。それからその寝姿を半蔽《なかばおお》っている、着物らしいものが見えましたが、これは芥火に反《そむ》いているので、噂に聞く天狗の翼だか、それとも天竺《てんじく》にあると云う火鼠《ひねずみ》の裘《けごろも》だかわかりません。――
 この容子を見た私どもは、云わず語らず両方から沙門《しゃもん》の小屋を取囲んで、そっと太刀の鞘《さや》を払いました。が、私は初めからどうも妙な気おくれが致していたからでございましょう。その拍子に手もとが狂って、思わず鋭い鍔音《つばおと》を響かせてしまったのではございませんか。すると私が心の中で、はっと思う暇《いとま》さえなく、今まで息もしなかった菰だれの向うの摩利信乃法師が、たちまち身を起したらしいけはいを見せて、
「誰じゃ。」と、一声|咎《とが》めました。もうこうなっては、甥を始め、私までも騎虎《きこ》の勢いで、どうしてもあの沙門を、殺すよりほかはございません。そこでその声がするや否や、前と後と一斉に、ものも云わずに白刃《しらは》をかざして、いきなり小屋の中へつきこみました。その白刃の触れ合う音、竹の柱の折れる音、蓆壁の裂け飛ぶ音、――そう云う物音が凄じく、一度に致したと思いますと、矢庭に甥が、二足三足|後《うしろ》の方へ飛びすさって、「おのれ、逃がしてたまろうか。」と、太刀をまっこうにふりかざしながら、苦しそうな声でおめきました。その声に驚いて私も素早く跳《は》ねのきながら、まだ燃えている芥火の光にきっと向うを透かして見ますと、まあ、どうでございましょう。粉微塵になった小屋の前には、あの無気味な摩利信乃法師が、薄色の袿《うちぎ》を肩にかけて、まるで猿《ましら》のように身をかがめながら、例の十文字の護符《ごふ》を額にあてて、じっと私どもの振舞を窺っているのでございます。これを見た私は、元よりすぐにも一刀浴びせようとあせりましたが、どう云うものか、あの沙門《しゃもん》の身をかがめたまわりには、自然と闇が濃くなるようで、容易に飛びかかる隙《すき》がございません。あるいはその闇の中に、何やら目に見えぬものが渦巻くようで、太刀の狙《ねら》いが定まらなかったとも申しましょうか。これは甥も同じ思いだったものと見えて、時々|喘《あえ》ぐように叫びますが、白刃はいつまでもその頭《かしら》の上に目まぐるしくくるくると輪ばかり描《か》いて居りました。

        二十七

 その中に摩利信乃法師《まりしのほうし》は、徐《おもむろ》に身を起しますと、十文字の護符を左右にふり立てながら、嵐の叫ぶような凄い声で、
「やい。おのれらは勿体《もったい》なくも、天上皇帝の御威徳を蔑《ないがしろ》に致す心得か。この摩利信乃法師が一身は、おのれらの曇った眼には、ただ、墨染の法衣《ころも》のほかに蔽うものもないようじゃが、真《まこと》は諸天童子の数を尽して、百万の天軍が守って居《お》るぞよ。ならば手柄《てがら》にその白刃《しらは》をふりかざして、法師の後《うしろ》に従うた聖衆《しょうじゅ》の車馬剣戟と力を競うて見るがよいわ。」と、末は嘲笑《あざわら》うように罵りました。
 元よりこう嚇《おど》されても、それに悸毛《おぞけ》を震う様な私どもではございません。甥と私とはこれを聞くと、まるで綱を放れた牛のように、両方からあの沙門を目蒐《めが》けて斬ってかかりました。いや、将《まさ》に斬ってかかろうとしたとでも申しましょうか。と申しますのは、私どもが太刀をふりかぶった刹那に、摩利信乃法師が十文字の護符を、一しきりまた頭《かしら》の上で、振りまわしたと思いますと、その護符の金色《こんじき》が、稲妻のように宙へ飛んで、たちまち私どもの眼の前へは、恐ろしい幻が現れたのでございます。ああ、あの恐しい幻は、どうして私などの口の先で、御話し申す事が出来ましょう。もし出来たと致しましても、それは恐らく麒麟《きりん》の代りに、馬を指《さ》して見せると大した違いはございますまい。が、出来ないながら申上げますと、最初あの護符が空へあがった拍子に、私は河原の闇が、突然摩利信乃法師の後だけ、裂け飛んだように思いました。するとその闇の破れた所には、数限りもない焔《ほのお》の馬や焔の車が、竜蛇のような怪しい姿と一しょに、雨より急な火花を散らしながら、今にも私共の頭上をさして落ちかかるかと思うばかり、天に溢れてありありと浮び上ったのでございます。と思うとまた、その中に旗のようなものや、剣《つるぎ》のようなものも、何千何百となく燦《きらめ》いて、そこからまるで大風《おおかぜ》の海のような、凄じいもの音が、河原の石さえ走らせそうに、どっと沸《わ》き返って参りました。それを後に背負いながら、やはり薄色の袿《うちぎ》を肩にかけて、十文字の護符をかざしたまま、厳《おごそか》に立っているあの沙門《しゃもん》の異様な姿は、全くどこかの大天狗が、地獄の底から魔軍を率いて、この河原のただ中へ天下《あまくだ》ったようだとでも申しましょうか。――
 私どもは余りの不思議に、思わず太刀を落すや否や、頭《かしら》を抱えて右左へ、一たまりもなくひれ伏してしまいました。するとその頭《かしら》の空に、摩利信乃法師の罵る声が、またいかめしく響き渡って、
「命が惜しくば、その方どもも天上皇帝に御詫《おわび》申せ。さもない時は立ちどころに、護法百万の聖衆《しょうじゅ》たちは、その方どもの臭骸《しゅうがい》を段々壊《だんだんえ》に致そうぞよ。」と、雷《いかずち》のように呼《よば》わります。その恐ろしさ、物凄さと申しましたら、今になって考えましても、身ぶるいが出ずには居《お》られません。そこで私もとうとう我慢が出来なくなって、合掌した手をさし上げながら、眼をつぶって恐る恐る、「南無《なむ》天上皇帝」と称《とな》えました。

        二十八

 それから先の事は、申し上げるのさえ、御恥しいくらいでございますから、なる可く手短に御話し致しましょう。私共が天上皇帝を祈りましたせいか、あの恐ろしい幻は間もなく消えてしまいましたが、その代り太刀音を聞いて起て来た非人《ひにん》たちが、四方から私どもをとり囲みました。それがまた、大抵《たいてい》は摩利《まり》の教の信者たちでございますから、私どもが太刀を捨ててしまったのを幸に、いざと云えば手ごめにでもし兼ねない勢いで、口々に凄じく罵り騒ぎながら、まるで穽《わな》にかかった狐《きつね》でも見るように、男も女も折り重なって、憎さげに顔を覗きこもうとするのでございます。その何人とも知れない白癩《びゃくらい》どもの面《おもて》が、新に燃え上った芥火《あくたび》の光を浴びて、星月夜《ほしづくよ》も見えないほど、前後左右から頸《うなじ》をのばした気味悪さは、到底この世のものとは思われません。
 が、その中でもさすがに摩利信乃法師《まりしのほうし》は、徐《おもむろ》に哮《たけ》り立つ非人たちを宥《なだ》めますと、例の怪しげな微笑を浮べながら、私どもの前へ進み出まして、天上皇帝の御威徳の難有《ありがた》い本末《もとすえ》を懇々と説いて聴かせました。が、その間も私の気になって仕方がなかったのは、あの沙門の肩にかかっている、美しい薄色の袿《うちぎ》の事でございます。元より薄色の袿と申しましても、世間に類《たぐい》の多いものではございますが、もしやあれは中御門《なかみかど》の姫君の御召し物ではございますまいか。万一そうだと致しましたら、姫君はもういつの間にか、あの沙門《しゃもん》と御対面になったのでございましょうし、あるいはその上に摩利《まり》の教も、御帰依なすってしまわないとは限りません。こう思いますと私は、おちおち相手の申します事も、耳にはいらないくらいでございましたが、うっかりそんな素振《そぶり》を見せましては、またどんな恐ろしい目に遇わされないものでもございますまい。しかも摩利信乃法師の容子《ようす》では、私どももただ、神仏を蔑《なみ》されるのが口惜《くちお》しいので、闇討をしかけたものだと思ったのでございましょう。幸い、堀川の若殿様に御仕え申している事なぞは、気のつかないように見えましたから、あの薄色の袿《うちぎ》にも、なるべく眼をやらないようにして、河原の砂の上に坐ったまま、わざと神妙にあの沙門の申す事を聴いて居《お》るらしく装いました。
 するとそれが先方には、いかにも殊勝《しゅしょう》げに見えたのでございましょう。一通り談義めいた事を説いて聴かせますと、摩利信乃法師は顔色を和《やわら》げながら、あの十文字の護符を私どもの上にさしかざして、
「その方どもの罪業《ざいごう》は無知|蒙昧《もうまい》の然らしめた所じゃによって、天上皇帝も格別の御宥免《ごゆうめん》を賜わせらるるに相違あるまい。さればわしもこの上なお、叱り懲《こら》そうとは思うて居ぬ。やがてはまた、今夜の闇討が縁となって、その方どもが摩利の御教《みおしえ》に帰依し奉る時も参るであろう。じゃによってその時が参るまでは、一先《ひとまず》この場を退散致したが好《よ》い。」と、もの優しく申してくれました。もっともその時でさえ、非人たちは、今にも掴みかかりそうな、凄じい気色を見せて居りましたが、これもあの沙門の鶴の一声で、素直に私どもの帰る路を開いてくれたのでございます。
 そこで私と甥とは、太刀を鞘におさめる間《ま》も惜しいように、※[#「勹<夕」、第3水準1-14-76]々《そうそう》四条河原から逃げ出しました。その時の私の心もちと申しましたら、嬉しいとも、悲しいとも、乃至《ないし》はまた残念だとも、何ともお話しの致しようがございません。でございますから河原が遠くなって、ただ、あの芥火の赤く揺《ゆら》めくまわりに、白癩どもが蟻《あり》のように集って、何やら怪しげな歌を唄って居りますのが、かすかに耳へはいりました時も、私どもは互の顔さえ見ずに、黙って吐息《といき》ばかりつきながら、歩いて行ったものでございます。

        二十九

 それ以来私どもは、よるとさわると、額を鳩《あつ》めて、摩利信乃法師《まりしのほうし》と中御門《なかみかど》の姫君とのいきさつを互に推量し合いながら、どうかしてあの天狗法師を遠ざけたいと、いろいろ評議を致しましたが、さて例の恐ろしい幻の事を思い出しますと、容易に名案も浮びません。もっとも甥《おい》の方は私より若いだけに、まだ執念深く初一念を捨てないで、場合によったら平太夫《へいだゆう》のしたように、辻冠者どもでも駆り集めたら、もう一度四条河原の小屋を劫《おびやか》そうくらいな考えがあるようでございました。所がその中に、思いもよらず、また私どもは摩利信乃法師の神変不思議な法力《ほうりき》に、驚くような事が出来たのでございます。
 それはもう秋風の立ち始めました頃、長尾《ながお》の律師様《りっしさま》が嵯峨《さが》に阿弥陀堂《あみだどう》を御建てになって、その供養《くよう》をなすった時の事でございます。その御堂《みどう》も只今は焼けてございませんが、何しろ国々の良材を御集めになった上に、高名《こうみょう》な匠《たくみ》たちばかり御召しになって、莫大《ばくだい》な黄金《こがね》も御かまいなく、御造りになったものでございますから、御規模こそさのみ大きくなくっても、その荘厳を極めて居りました事は、ほぼ御推察が参るでございましょう。
 別してその御堂供養《みどうくよう》の当日は、上達部殿上人《かんだちめてんじょうびと》は申すまでもなく、女房たちの参ったのも数限りないほどでございましたから、東西の廊に寄せてあるさまざまの車と申し、その廊廊の桟敷《さじき》をめぐった、錦の縁《へり》のある御簾《みす》と申し、あるいはまた御簾際になまめかしくうち出した、萩《はぎ》、桔梗《ききょう》、女郎花《おみなえし》などの褄《つま》や袖口の彩りと申し、うららかな日の光を浴びた、境内《けいだい》一面の美しさは、目《ま》のあたりに蓮華宝土《れんげほうど》の景色を見るようでございました。それから、廊に囲まれた御庭の池にはすきまもなく、紅蓮白蓮《ぐれんびゃくれん》の造り花が簇々《ぞくぞく》と咲きならんで、その間を竜舟《りゅうしゅう》が一艘《いっそう》、錦の平張《ひらば》りを打ちわたして、蛮絵《ばんえ》を着た童部《わらべ》たちに画棹《がとう》の水を切らせながら、微妙な楽の音《ね》を漂わせて、悠々と動いて居りましたのも、涙の出るほど尊げに拝まれたものでございます。
 まして正面を眺めますと、御堂《みどう》の犬防《いぬふせ》ぎが燦々と螺鈿《らでん》を光らせている後には、名香の煙《けぶり》のたなびく中に、御本尊の如来を始め、勢至観音《せいしかんのん》などの御《おん》姿が、紫磨黄金《しまおうごん》の御《おん》顔や玉の瓔珞《ようらく》を仄々《ほのぼの》と、御現しになっている難有《ありがた》さは、また一層でございました。その御仏《みほとけ》の前の庭には、礼盤《らいばん》を中に挟《はさ》みながら、見るも眩《まばゆ》い宝蓋の下に、講師|読師《とくし》の高座がございましたが、供養《くよう》の式に連っている何十人かの僧どもも、法衣《ころも》や袈裟《けさ》の青や赤がいかにも美々しく入り交って、経を読む声、鈴《れい》を振る音、あるいは栴檀沈水《せんだんちんすい》の香《かおり》などが、その中から絶え間なく晴れ渡った秋の空へ、うらうらと昇って参ります。
 するとその供養のまっ最中、四方の御門の外に群って、一目でも中の御容子《ごようす》を拝もうとしている人々が、俄《にわか》に何事が起ったのか、見る見るどっとどよみ立って、まるで風の吹き出した海のように、押しつ押されつし始めました。

        三十

 この騒ぎを見た看督長《かどのおさ》は、早速そこへ駈けつけて、高々と弓をふりかざしながら、御門《ごもん》の中《うち》へ乱れ入った人々を、打ち鎮めようと致しました。が、その人波の中を分けて、異様な風俗の沙門《しゃもん》が一人、姿を現したと思いますと、看督長はたちまち弓をすてて、往来の遮《さまたげ》をするどころか、そのままそこへひれ伏しながら、まるで帝《みかど》の御出ましを御拝み申す時のように、礼を致したではございませんか。外の騒動に気をとられて、一しきりざわめき立った御門の中が、急にひっそりと静まりますと、また「摩利信乃法師《まりしのほうし》、摩利信乃法師」と云う囁き声が、丁度|蘆《あし》の葉に渡る風のように、どこからともなく起ったのは、この時の事でございます。
 摩利信乃法師は、今日も例の通り、墨染の法衣《ころも》の肩へ長い髪を乱しながら、十文字の護符の黄金《こがね》を胸のあたりに燦《きらめ》かせて、足さえ見るも寒そうな素跣足《すはだし》でございました。その後《うしろ》にはいつもの女菩薩《にょぼさつ》の幢《はた》が、秋の日の光の中にいかめしく掲げられて居りましたが、これは誰か供のものが、さしかざしてでもいたのでございましょう。
「方々《かたがた》にもの申そう。これは天上皇帝の神勅を賜わって、わが日の本に摩利の教を布《し》こうずる摩利信乃法師と申すものじゃ。」
 あの沙門は悠々と看督長《かどのおさ》の拝に答えてから、砂を敷いた御庭の中へ、恐れげもなく進み出て、こう厳《おごそか》な声で申しました。それを聞くと御門の中は、またざわめきたちましたが、さすがに検非違使《けびいし》たちばかりは、思いもかけない椿事《ちんじ》に驚きながらも、役目は忘れなかったのでございましょう。火長《かちょう》と見えるものが二三人、手に手を得物提《えものひっさ》げて、声高《こわだか》に狼藉《ろうぜき》を咎めながら、あの沙門へ走りかかりますと、矢庭に四方から飛びかかって、搦《から》め取ろうと致しました。が、摩利信乃法師は憎さげに、火長たちを見やりながら、
「打たば打て。取らば取れ。但《ただし》、天上皇帝の御罰は立ち所に下ろうぞよ。」と、嘲笑《あざわら》うような声を出しますと、その時胸に下っていた十文字の護符が日を受けて、眩《まぶし》くきらりと光ると同時に、なぜか相手は得物を捨てて、昼雷《ひるかみなり》にでも打たれたかと思うばかり、あの沙門の足もとへ、転《まろ》び倒れてしまいました。
「如何に方々。天上皇帝の御威徳は、ただ今|目《ま》のあたりに見られた如くじゃ。」
 摩利信乃法師は胸の護符を外して、東西の廊へ代る代る、誇らしげにさしかざしながら、
「元よりかような霊験《れいげん》は不思議もない。そもそも天上皇帝とは、この天地《あめつち》を造らせ給うた、唯一不二《ゆいいつふじ》の大御神《おおみかみ》じゃ。この大御神を知らねばこそ、方々はかくも信心の誠を尽して、阿弥陀如来なんぞと申す妖魔《ようま》の類《たぐい》を事々しく、供養せらるるげに思われた。」
 この暴言にたまり兼ねたのでございましょう。さっきから誦経《ずきょう》を止めて、茫然と事の次第を眺めていた僧たちは、俄《にわか》にどよめきを挙げながら、「打ち殺せ」とか「搦《から》め取れ」とかしきりに罵り立てましたが、さて誰一人として席を離れて、摩利信乃法師を懲《こら》そうと致すものはございません。

        三十一

 すると摩利信乃法師《まりしのほうし》は傲然と、その僧たちの方を睨《ね》めまわして、
「過てるを知って憚《はばか》る事勿《ことなか》れとは、唐国《からくに》の聖人も申された。一旦、仏菩薩の妖魔たる事を知られたら、※[#「勹<夕」、第3水準1-14-76]々《そうそう》摩利の教に帰依あって、天上皇帝の御威徳を讃《たた》え奉るに若《し》くはない。またもし、摩利信乃法師の申し条に疑いあって、仏菩薩が妖魔か、天上皇帝が邪神か、決定《けつじょう》致し兼ぬるとあるならば、いかようにも法力《ほうりき》を較《くら》べ合せて、いずれが正法《しょうぼう》か弁別申そう。」と、声も荒らかに呼ばわりました。
 が、何しろただ今も、検非違使《けびいし》たちが目《ま》のあたりに、気を失って倒れたのを見て居《お》るのでございますから、御簾《みす》の内も御簾の外も、水を打ったように声を呑んで、僧俗ともに誰一人、進んであの沙門の法力を試みようと致すものは見えません。所詮は長尾《ながお》の僧都《そうず》は申すまでもなく、その日御見えになっていらしった山の座主《ざす》や仁和寺《にんなじ》の僧正《そうじょう》も、現人神《あらひとがみ》のような摩利信乃法師に、胆《きも》を御|挫《くじ》かれになったのでございましょう。供養の庭はしばらくの間、竜舟《りゅうしゅう》の音楽も声を絶って、造り花の蓮華にふる日の光の音さえ聞えたくらい、しんと静まり返ってしまいました。
 沙門はそれにまた一層力を得たのでございましょう。例の十文字の護符をさしかざして、天狗《てんぐ》のように嘲笑《あざわら》いますと、
「これはまた笑止千万な。南都北嶺とやらの聖《ひじり》僧たちも少からぬように見うけたが、一人《ひとり》としてこの摩利信乃法師と法力を較べようずものも現れぬは、さては天上皇帝を始め奉り、諸天童子の御神光《ごしんこう》に恐れをなして、貴賤|老若《ろうにゃく》の嫌いなく、吾が摩利の法門に帰依し奉ったものと見える。さらば此場において、先ず山の座主《ざす》から一人一人|灌頂《かんちょう》の儀式を行うてとらせようか。」と、威丈高《いたけだか》に罵りました。
 所がその声がまだ終らない中に、西の廊からただ一人、悠然と庭へ御下りになった、尊げな御僧《ごそう》がございます。金襴《きんらん》の袈裟《けさ》、水晶の念珠《ねんず》、それから白い双の眉毛――一目見ただけでも、天《あめ》が下《した》に功徳無量《くどくむりょう》の名を轟かせた、横川《よかわ》の僧都《そうず》だと申す事は疑おうようもございません。僧都は年こそとられましたが、たぶたぶと肥え太った体を徐《おもむろ》に運びながら、摩利信乃法師の眼の前へ、おごそかに歩みを止めますと、
「こりゃ下郎《げろう》。ただ今もその方が申す如く、この御堂《みどう》供養の庭には、法界《ほっかい》の竜象《りゅうぞう》数を知らず並み居られるには相違ない。が、鼠に抛《なげう》つにも器物《うつわもの》を忌《い》むの慣い、誰かその方如き下郎《げろう》づれと、法力の高下を競わりょうぞ。さればその方は先ず己を恥じて、※[#「勹<夕」、第3水準1-14-76]々《そうそう》この宝前を退散す可き分際ながら、推して神通《じんずう》を較べようなどは、近頃以て奇怪至極《きっかいしごく》じゃ。思うにその方は何処《いずこ》かにて金剛邪禅《こんごうじゃぜん》の法を修した外道《げどう》の沙門と心得る。じゃによって一つは三宝の霊験《れいげん》を示さんため、一つはその方の魔縁に惹《ひ》かれて、無間地獄《むげんじごく》に堕ちようず衆生《しゅじょう》を救うてとらさんため、老衲《ろうのう》自らその方と法験《ほうげん》を較べに罷《まか》り出《いで》た。たといその方の幻術がよく鬼神を駆り使うとも、護法の加護ある老衲には一指を触るる事すらよも出来まい。されば仏力《ぶつりき》の奇特《きどく》を見て、その方こそ受戒致してよかろう。」と、大獅子孔《だいししく》を浴せかけ、たちまち印《いん》を結ばれました。

        三十二

 するとその印を結んだ手の中《うち》から、俄《にわか》に一道の白気《はっき》が立上《たちのぼ》って、それが隠々と中空《なかぞら》へたなびいたと思いますと、丁度|僧都《そうず》の頭《かしら》の真上に、宝蓋《ほうがい》をかざしたような一団の靄《もや》がたなびきました。いや、靄と申したのでは、あの不思議な雲気《うんき》の模様が、まだ十分|御会得《ごえとく》には参りますまい。もしそれが靄だったと致しましたら、その向うにある御堂《みどう》の屋根などは霞んで見えない筈でございますが、この雲気はただ、虚空《こくう》に何やら形の見えぬものが蟠《わだか》まったと思うばかりで、晴れ渡った空の色さえ、元の通り朗かに見透かされたのでございます。
 御庭をめぐっていた人々は、いずれもこの雲気に驚いたのでございましょう。またどこからともなく風のようなざわめきが、御簾《みす》を動かすばかり起りましたが、その声のまだ終らない中に、印を結び直した横川《よかわ》の僧都《そうず》が、徐《おもむろ》に肉《しし》の余った顎《おとがい》を動かして、秘密の呪文《じゅもん》を誦《ず》しますと、たちまちその雲気の中に、朦朧とした二尊の金甲神《きんこうじん》が、勇ましく金剛杵《こんごうしょ》をふりかざしながら、影のような姿を現しました。これもあると思えばあり、ないと思えばないような幻ではございます。が、その宙を踏んで飛舞《ひぶ》する容子《ようす》は、今しも摩利信乃法師《まりしのほうし》の脳上へ、一杵《いっしょ》を加えるかと思うほど、神威を帯びて居ったのでございます。
 しかし当の摩利信乃法師は、不相変《あいかわらず》高慢の面《おもて》をあげて、じっとこの金甲神《きんこうじん》の姿を眺めたまま、眉毛一つ動かそうとは致しません。それどころか、堅く結んだ唇のあたりには、例の無気味《ぶきみ》な微笑の影が、さも嘲りたいのを堪《こら》えるように、漂って居《お》るのでございます。するとその不敵な振舞に腹を据え兼ねたのでございましょう。横川《よかわ》の僧都は急に印を解いて、水晶の念珠《ねんず》を振りながら、
「叱《しっ》。」と、嗄《しわが》れた声で大喝しました。
 その声に応じて金甲神《きんこうじん》が、雲気と共に空中から、舞下《まいくだ》ろうと致しましたのと、下にいた摩利信乃法師が、十文字の護符を額に当てながら、何やら鋭い声で叫びましたのとが、全く同時でございます。この拍子に瞬く間、虹のような光があって空へ昇ったと見えましたが、金甲神の姿は跡もなく消え失せて、その代りに僧都の水晶の念珠が、まん中から二つに切れると、珠はさながら霰《あられ》のように、戞然《かつぜん》と四方へ飛び散りました。
「御坊《ごぼう》の手なみはすでに見えた。金剛邪禅《こんごうじゃぜん》の法を修したとは、とりも直さず御坊の事じゃ。」
 勝ち誇ったあの沙門は、思わずどっと鬨《とき》をつくった人々の声を圧しながら、高らかにこう罵りました。その声を浴びた横川《よかわ》の僧都が、どんなに御悄《おしお》れなすったか、それは別段とり立てて申すまでもございますまい。もしもあの時御弟子たちが、先を争いながら進みよって、介抱しなかったと致しましたら、恐らく満足には元の廊へも帰られなかった事でございましょう。その間に摩利信乃法師は、いよいよ誇らしげに胸を反《そ》らせて、
「横川《よかわ》の僧都は、今|天《あめ》が下《した》に法誉無上《ほうよむじょう》の大和尚《だいおしょう》と承わったが、この法師の眼から見れば、天上皇帝の照覧を昏《くら》まし奉って、妄《みだり》に鬼神を使役する、云おうようない火宅僧《かたくそう》じゃ。されば仏菩薩は妖魔の類《たぐい》、釈教は堕獄の業因《ごういん》と申したが、摩利信乃法師一人の誤りか。さもあらばあれ、まだこの上にもわが摩利の法門へ帰依しょうと思立《おぼした》たれずば、元より僧俗の嫌いはない。何人《なんびと》なりともこの場において、天上皇帝の御威徳を目《ま》のあたりに試みられい。」と、八方を睨《にら》みながら申しました。
 その時、また東の廊に当って、
「応《おう》。」と、涼しく答えますと、御装束の姿もあたりを払って、悠然と御庭へ御下《おお》りになりましたのは、別人でもない堀川の若殿様でございます。[#地から1字上げ](未完)
[#地から1字上げ](大正七年十一月)



底本:「芥川龍之介全集2」ちくま文庫、筑摩書房
   1986(昭和61)年10月28日第1刷発行
   1996年(平成8)7月15日第11刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版芥川龍之介全集」
   1971(昭和46)年3月〜11月
入力:j.utiyama
校正:かとうかおり
1998年12月7日公開
2004年1月31日修正
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